過去の残照、我未だ俘囚の身を出で不。


Place.



 胸元をゆるめながら一息つく。こめかみからぱたりと汗が伝って落ちていく。
 宵闇の時間、暮れゆく西の空に不穏にたなびく雲の色が一面の赤色に影をさしていた。
 たそかれどき。もうすぐ綾目も解ぬ夜が来る。
 今日、特派ではランスロットの初期起動実験を何度かこなしたあと、調整を繰り返し繰り返し。少しこの子、機嫌が悪いみたいね。セシルはそう言って白亜の騎士を苦笑しながら見上げた。この子、と言う声が優しく聞こえるのはランスロットは例え機械でも、科学者の生み出した命であるに変わりないからだろうか。同じルーチンばかりを周りそこから出てこれなくなっているらしい、良く解らない。つまりまいごなんですか?と聞けば傍のスタッフに爆笑された。似たようなもんだよ。ほら、デヴァイサーもクールダウンが必要なんだちょっとくらいさぼりに行ってこい。がやがや、そんな賑やかな声に押されるように休憩に出された。実際技術畑の仕事だから今のスザクはお役ご免だ。
 ずっと狭いランスロットの密室と、屋内のラボに居たために残照を残して沈み行く日没が酷く眩しく感じられて目を細めた。空を仰ぐと美しいラベンダーが宵の裾の衣をひいて、見事なグラデーションに視界一面を染め上げていた。淡い色彩、見上げて思出す笑顔が一つ。嬉しそうにはにかんでいた言葉が頭の中に木霊する。
 黄昏色は牡羊の宮の兄妹の色といった自分に、ならお前は暁に染まる前の一瞬の紫だと姉が言ってくれた、自分の瞳を。
 黄昏といえば血の色ばかりを連想していた。――あの時も、初めて人を殺したあの時も夕日が怖いほど紅く禍々しいほどに美しかった。――だからお世辞にも好きとは言えない。スザクの喪失に関する記憶は全て赤に集約される。空襲の爆音、そのあとの真っ白な間隙のあと、目を疑う大規模な火災、倒壊する家屋の中で燃焼する蛋白質の異臭と踊るように燃えていく人たち。崩壊する日常と営み。思い出すにはあまりに惨い。
 だが、その経験を経てまで決意した軍属の道はさらなる赤をスザクに呼び込む。同胞殺しの罪はあまりに重い。夕日の赤はいつだって、血塗れた掌の紅く濡れた色を連想させてばかりで、一日を終える落日に全身を染めるたび、今日もまたあの日より更に濃い血に染められているのではないだろうかという感慨ばかり強まった。――そんな思いをたった一言で彼の人はぬぐい去った。
 己の成した罪が軽くなるわけではなく、残虐な過去が消えるわけでもなく。記憶は残酷に心臓を抉り続けている。けれど、彼女の優しい言葉はいつもスザクの血濡れた心に不意に優しく触れていく。たった一言、それだけで血の落日を美しいと思えた自分の単純さに、今更苦い笑みがこぼれた。そうやって笑うことは決して嫌な気分ではなかったけれど。
 今度は徹夜明けの特派の面々と一緒に、彼女の瞳に似ているという、朝焼けの儚い一瞬の紫、その暁を見てみたいとまでふと思ったのだから大概自分も単純な頭をしていたらしい。功も罪も全てを受け入れるたった独りが居るという、それだけのこと。
 それだけの奇蹟。
 じっと落日を見つめる翠の瞳は揺らがなかった。血の色を、今も思う。けれどそれだけじゃなく。確かにその中に他の色彩を見つける。日が落ちる瞬間の赤の裾を引き宵闇色が東の空まで見事なグラデーションを描く。太陽の光がひく寸前、夜色を混ぜた陽光の烈しく、鮮烈な紫は確かに彼女の兄に似ていた。きっと妹にも似ているのだろう。いつかきっと見ることが出来たらいい。彼女たちが、同じ血筋を表す瞳で、互いを見つめ合い笑える日が来る奇蹟を願う。それはきっと世界中の何より美しい情景に違いない。
 今までの己ならきっと思わなかった。見つけられなかった色彩を今はすんなりと見つけられること。それはきっととても凄いことなのだろう。不吉な赤を忘れはしない、忘れることなど赦さない。けれど、いつだってきっと新しいものを彼女はスザクに惜しげもなく、指し示してくれるのだろう。
 ふわりと夕闇に風が吹く。赤い血の色を全身に浴びて、目を閉じて静かに息を吸うと汗ばんだ首もとに風が吹き付けて涼しかった。例えこの先幾度血に濡れようと、きっと何かを成すことも、新しいもの、見つけることも出来るのだ。素直に夕日をまだ、美しいとは口に出せない。けれど変わったことは真実だった。だから、今はきっと、それだけで良い。
 眩い落日に目を眇めると翠が深い光を孕んだ。そうやってしばらく堕ちていく日差しを焼き付ける。その視界の隅の方。宵闇に濃くなる影の中、銀色の何かが視界の端できらりと光りスザクは目を懲らした。ラボから離れて止められた特派御用達トレーラーの影に、灰皿代わりの空き缶とセットに、ちょこんと一緒に並んでいる何かがある。忘れ物だろうか、おや、と首を傾げて近づけば、それは正しく忘れ物であった。誰かが一服したまま、置いていってしまったのだろう、煙草とライターが一揃い。百円ライターではなくジッポであるのは技術部ならではの拘りだろうか。
 ひょいとかがみ込み、トレーラーの影から掬い上げる。手の中でころころ転がして、ふと興味が勝りスザクはそれを取り上げた手をじっと見つめた。それから賑やかなラボの方を振り返ってから、苦笑。目を伏せたまま、ととん、と箱の底を指で弾くと煙草が一本飛び出てくる。箱ごと口元に持って行って、フィルタをくわえて引っ張り出す。一連の動作は酷く手慣れていて、久しぶりに手に馴染む感触だった。ぱきんとジッポを開けるときちんとよく手入れされている一品であることが解った。燻銀の鈍い光が残照を弾く。そんなライターを使わせていただくのに抵抗がないわけではないが、他に火元はないので仕方なく拝借させていただくことにする。
 ジッポの着火と同時にぱきんと火花が散った。二度繰り返してから炎が安定する。口元を覆うように煙草を指で挟み揺らめく火元を手慣れた仕草で寄せる。伏せた翠に仄かな火が照り映えた。
 すうっと思い切り肺に紫煙を吸い込み火を付けると一筋の紫煙が立ち上る。途端、一気にごほっと思い切りむせた。
「ちょ、うわ、きっつ……」
 誰だ、こんなきついの喫っているのは。
 軽く涙目になるほどむせてから、一度深く深呼吸して、今度は落ち着いて肺に煙を送り込んだ。肺が煙で満たされる酷く久しぶりな感触にあまりに違和感が無さすぎて、呆れるべきか、ため息をつくべきか判断に迷って、僅かに苦笑し目を伏せる。煙草を指で挟み口元を覆うように吸う。それがスザクに着いた癖で、立ち上る紫煙を眺めて空を仰ぎながら、とん、と背中を預けたトレーラーの壁面にずるずると体重を預けた。煙を攫う風は東風。残照がだんだんと宵闇に取って代わっていく空を、雲がゆっくり流れていく。任務中でも、その間隙の日常でも、血の色をした黄昏時の空はいついつだって変わらなかった。
 煙草を扱う、慣れてしまった一連の仕草にはもう何の感慨も覚えなくなって久しい。
「……まだ憶えてたんだな」
 呟いて紫煙をため息みたいにはき出すと黄昏色の空に風に混ざって消えていく。
 忘れられるようなものでもない。忘れるにはあまりに生々しい。
 今更だ、全て。思い出すこと全部取り消せない過去。思い出して楽しいことなんて一つもない。なのに懐古に浸るような真似をした自分を省みてスザクは首を傾げた。なぜ、楽しい思い出もないのにこんなことをしたのだろうかと。眇めた視線が流れていく煙と雲を追いかける。
 ああ多分、口寂しい。
 とでも言うやつだろうか。
「――そうなんだろうなあ」
 独りぽつりと呟いても、返る答えがあるはずもない。しばらくそうしてぼうっとして暮れゆく空を眺めていたら、視界の中にいきなり眼鏡でのっぽな上司の姿がにょきっと生えて出てきてスザクは再び、本気でむせる羽目になった。
「不良少年発見」
 けらけら笑いながら告発するくせに、欠片も悪いと思っていないような口調。
「ロイドさん……」
 膝の間に顔を埋めるようにむせていたスザクがまだげほげほ言いながら漸う顔を上げる。
 いたずらが見つかってしまった時の悪餓鬼そのものの顔をした不良少年は、情けなさそうに涙目のまま上司を見上げた。
「珍しいね、君が僕に気が付かないなんて。煙草は脳神経を破壊するよー」
 デヴァイサーとしてはおすすめしたくない趣向ではある。だがそれ以上にロイドが気にしたのは人の気配に異常なほど敏感で聡いスザクがロイドの接近に気が付かないほど惚けていたという事実だ。気心の知れた人物であったこと、彼に対して害意を持っていなかったことを差し引いてもとても珍しい。
「ところでさー、慣れてるね?でもさ、吸ってないよね?」
 それ、と眼鏡の奥の感情がいまいち読めない視線が、スザクの手元を示してチャシャネコみたいに笑った。
「……ええ、今は、全く」
 眉根を寄せて、困ったようにスザクが手元の煙草をもてあますように見下ろした。その仕草すら慣れていてロイドは静かに目を眇める。観察者の性というものだ。デヴァイサーについてより知識を深めておくのは悪いことではないし、何より枢木スザクという少年は面白い。
 だが今は言葉を濁すと言うより、何からしゃべっていいか解らなくて、途方に暮れた少年の顔が迷子の子犬みたいで、思わずぽんと掌をのせ、癖のある髪をくしゃくしゃと撫でてやった。
「ロイドさん?」
「いや、わんこみたいだなあと思って」
 元気の無いわんこと不良少年は構ってやらなくちゃ駄目でしょうとからからロイドが笑ってみせれば、一瞬ぽかんと惚けたスザクが、嬉しいのと情けないの、半々みたいな顔でロイドを見上げる。そして再びゆっくり顔を伏せると、翠の瞳が遠い過去の断崖を覗き見るような目をして、深い深緑が黄昏色に深く沈み込んでいく。しんと静かな波すら立たぬ深淵のような暗緑色はこの落日のせいか。思わずロイドは言葉を無くす。
「――昔、ゲットーで泥沼のゲリラ戦とかやってたときに。色々と」
 瞳の色と声色の色彩はきっと酷く似通っていたと思う。彼は彼にしか見えない深い断崖の淵に立ち、その深淵を覗き込みながら、そんな言葉を、空恐ろしい冷静さで紡いでいた。
「色々って?」
 暫し、言葉の前に間をおいて、じっとスザクを見下ろしながら口を開く。ロイドの言葉にくしゃりと笑った顔が酷く少年じみていて、泣きそうだった。けれどきっとスザクは、己が泣きそうだなんて気が付いても居ないのだろう。
 立てた膝を胡座になおす。剣道以外にも様々な武道を軍隊格闘以外にも身につけた。道の文字の付く武芸の所作と、軍隊格闘における違いは、人を傷つけることの意味だった。精神の尊厳を剣の師に技と共に叩き込まれた。彼の人は今は敵だ。その人が教えてくれたように胡座をかく。常に正座と構えである武道において、休めと師の許可が出るとき、畳に右手をつき師に向かい一礼し、着いた手に体重をかけて正座から胡座にそのまま足を崩す。そんな癖をまだ憶えている。性格上、目上の人の前で寛ぐのは未だに苦手で、特派にいるときだけは例外だけれど、やっぱりロイドだって目上の人なので自然に寛いでいても背筋が伸びた。それを気にしなくていいよと言うかのように、ぽんぽんとまた頭を叩かれて、目を閉じた。甘えて、胡座をかいた片膝を立てて膝の上に煙草を持った腕を載せ、その腕に少しだけ顔を伏せる。
 見えなくなった翠の瞳の見たものの在処について、きっとロイドは大体想像は付いているのだろうに、わざわざ聞いてくるのはこの人の短所なのか長所なのか、スザクには計り知れない。汚いところ苦しいところ、全て。スザクが話せる部分だけ、吐き出させてそれから楽にしてくれる人たち。話したくないことはそのままでいいと態度で示す人たち。此処にいる特派の人たち。スザクが家族だと思っていた人より、余程親身になってくれる人々がそこにはいた。
 真っ暗な視界の中で息を吸って、それからゆっくり顔を上げる。ロイドを見上げることは出来なかったけれど堕ちていく残照の赤を見ることは出来た。スザクにとっては己の罪を直視する行為に似ている。落日は彼女が与えてくれた優しい言葉でも消えない罪の象徴と在処。
「色々です。――丁度、本当に泥沼の戦場で。相手も同じ民族で」
 たった一言を言うには酷く重くも感じられたし、あまりにあっけないほどの軽さでもあった気がした。
 人を殺すことに人は本来堪えられる生き物ではない。だからどこかを麻痺させなければいけない。生きるという本能の中の、ある一つの部分を殺さなくては、生きていけない。その手段の一つが、慣れていくこと、鈍くなってくことだったりするのだろう。『そう』なっていくプロセスは、壊れていくと言うより、壊した歪を積み上げていくという方が近いかもしれない。敵だろうと味方だろうと同じ民族だろうと、そんな人間ばかりが集まるところだった。
「そんな場所戦場で軍内に回るものといったらアルコールと煙草ですから」
 丁度質の悪い薬がイレブンの間で蔓延した時期であった。事態を悪化させたのはその薬がブリタニア軍の方にも流れたと言う事。依存性が強くて致死性も高い。今、市場に流通しているドラッグより遙かに質が悪いもので、その総元締めの組織の殲滅が与えられた任務だった。最初から最悪の戦場になるという予想は立っていたから、使い捨ての駒として先陣に選ばれたのは軍部内の特殊班の中でも名誉ブリタニア人というイレブンで、殲滅する相手だって勿論イレブンだった。
 下された任務は絶対で、服務と服従を糧に市民権を得ている名誉ブリタニア人という名のイレブンが、命令に逆らえるわけもなく、ただひたすらに下される指令のままに次々と殲滅を断行していった。
 はらからを撃つか、この同胞殺しめ。
 弾劾の聲、スザクが殺した人間の絶命が未だこの耳には残っている。

 
 
 
 
 
 


next.