Wish I could be Part of that world.



Part of your world.



 知りたいことが沢山あるの、見たいものが沢山あるの、行きたい場所が沢山あるの、答えをたくさん知りたいの。少女は笑って、だから役立たずだけれどいつか姉やスザクや日本のためになれる自分になりたいと言って、ほんの少しも努力を厭わず、出来ること、執務も公務も、勿論勉学も頑張った。明らかにオーバーペースだとは思ったが、たしなめても自分は大丈夫だから、とか私の兄は同い年でこれを読んでいたんですよとか、周りの言葉を聞かず、思いこんだら案外頑固で意地っ張りで真っ直ぐな、お姫様だった。

 一緒に歩きたいんです。そのためになら、何でもするから、だから。

 頑張れるだけ頑張れる、やろうと思ったことには真っ直ぐなお姫様だった。




 豪奢に散らばる花色の髪を惜しげもなく流し、幾つも運び込んだだろう柔らかなクッションの上に頽れる華奢な体のシルエットが白熱灯に照らされている。薄い瞼も細い体に絡まって波打つ淡い色のショールも、ぴくりとも動かない。零れ落ちた花のように、クッションの海に溺れるように、白熱灯と夜の闇の織りなす不思議な光の中でたった一人、少女がひっそり丸まって眠っていた。
「…………どうしても、わたくしどもにはお止めできずにこのようなことになってしまいました」
 深々と頭を下げて申し開きをする女官には大変申し訳ないが、スザクの頭もかなり混乱している。見上げた時計はいつの間にやら、もうあと三十分で日付が変わる頃合いだ。
「この頃は良く寝付かれていなかったご様子で、おかわいそうで姫さまをお起こしすることも忍びなく、かといってお運びいただくのにも誰に迂闊に頼めるものでもなく、ダールトン様はあいにく此処を離れて別のエリアに行っておられて帰ってくるのは明日とのこと。姫君に何かあったらスザク様にとのことで」
「…………………………………………………………つまり、言いたいことはゆ……ーフェミア殿下が目をおさましになってからという方向で間違っていないでしょうか?」
 数人分の沈黙の後、ユフィ、と言いかけた言葉を直前で飲み込んでスザクはずきずきするこめかみを極力無視しようとした。皇女ともあろうものがそんなこんなあられもなく無防備に。次々苦言が浮かんでくる胸の中を、押し殺すもう一つの声がする。紙のように色のない頬――ユフィが、こんなになるまで。
「いいえ」
 それをはき、と女官は首を振る。
「いいえ、スザク様、それはいけません」
 きっぱり言い切る女官の言葉をスザクは忠実に理解した。寝姿を見られることは貴婦人の恥。しかも異性だ。
 その高貴な姿を見られることすらはばかれるような身分を持つ少女である。
 ――だから、ここにスザクが居ることは誰にも知られてはならない。掌中の珠に瑕疵をつける行為だけは絶対に避けねばならない。
 だから、これは皇女自身にすら知られることなく。
 スザクが呼ばれたのは皇女に下賜された騎士章に賭けてよもや騎士たるものの礼節と忠節を忘れまい、との無言の脅迫でもあった。いわれなくとも、今更確かめられるまでもない。
「――人払いは済んでいますね?」
 女官が頷くのを待たず、スザクは足を踏み出した。
「部屋までお運びします、それまでに用意をして置いてください」
 散らばったレポート用紙の中にスザクが足を踏み入れる。暖かなファーとクッションの柔らかな即席の寝床はスザクの軍靴の足音を吸い込んだ。深く寝入る少女は起きない。そろりと積み上がった本を避け、細い手が乗ったまま、開かれたページからそっと手を下ろしぱたんと閉ざした。MILL。ON LIBERTY。
 ――大学院生が読むような本の原書だ。イントロダクションだけでスザクなら挫折するだろう。音もなく傅いたスザクの膝下に花の色をした髪の毛が惜しげもなく広がっていた。暖色のドレスは彼女が普段身につけるものよりどちらかといえばカジュアルで、すとんと足に絡まる裾も特に装飾の類は付いていない。流れる裾がさらさらと音を立てて、清かに空気の色を染める。
 そっと手を伸ばすと、折れてしまいそうな清楚な花を思わせる。――空から降ってくるお姫様はそんなに柔ではないのに。クッションの一つを抱きかかえて子どもがぬいぐるみを抱えるようだ。息も聞こえないほど、深く眠る顔が些か白い。普段から色白だが、今は白熱灯に照らされていてさえその色白さが解るようで。
 本当に生きているのだろうか。
 暖かいのは橙色の光のおかげで、本当に息をしているのだろうか。
 鎌首をもたげた不安は色褪せずにスザクの心を塗りつぶす。ざざざざざと頭の中を趨るノイズが朱と赤と血とあかに染まって、頽れた父を最後に映した。
 ――人は壊れやすすぎる。
 しんと翠の瞳が深まる。恐ろしいような強い視線がユフィを強く見つめていた。その視線に気が付かないまま、彼女は静かに眠っている。
 壊れ易すぎるのに。そうであると、君も知っているはずなのに。
「――どうして此処までする必要がある」
 静かに軋んだ言葉は音にもならずに、スザクの喉の奥に消えていった。ユフィの耳を震わせることもない。
 小さな顔にかかり落ちる淡い色の花色の髪にそっと指を伸ばして、払う。柔らかな感触が指に伝わり、はっきりと、冷えた体温を感じ取ることが出来てほっとすると共に怒りがわいた。春の宵は冷える、知っているだろうに、こんな薄いショール一枚で。明日は公務が沢山入っていて移動が大変だと昼間スザクに漏らしていたのは彼女自身なのに。
 冷えた体に手を伸ばして身を乗り出す。スザクの影が、橙色に染まった白熱灯の下のユフィに影を落とした。柔らかなクッションが支えるか細い体をそっと静かに抱き起こす。さらりと豪奢な花の色の髪がスザクの腕に雪崩れて落ちた。冷えたからだと相まって花冷えの桜を思わせる。抱えていたクッションがぽとりと床に音もなく落ちて、ふわりとユフィが浮かび上がった。
 抜け落ちた羽根のように細い体に絡まっていたショールもはらりと墜ちていく。
 膝裏に入れた腕も細い背中を支える腕も揺らぎもせずに、ついていた膝を伸ばして静かに立ち上がりスザクは後ろを振り返る。
「何処にお運びすればいいでしょうか?」
 しんとした眼差しが酷く静かで凪いだ翠だ。穏やかな白熱灯の光の下であるというのに普段の礼儀正しさもそのままに、人なつこいスザクが見あたらない。
 ユフィの見ることの殆ど無いスザクが彼女を抱いて揺るぎなく立つ。どんな災禍も寄せ付けぬと警戒する獣のように。
 こちらでございます、と身振りで示して女官は先立って歩き出した。
 
 
 
 女官はユフィがそのままで眠るのは忍びないと細々としたものを用意しに侍女に指示を送ってドアのすぐ外で人の出入りを見ている。
 きいと開かれた扉の先には絞られたベッドサイドのランプが一つ切り。いつもユフィが使う寝室では勿論無い。そんなところにスザクが入って言い理由はない。離宮に幾つもある賓客用の一室がきちんと整えられて主を待っていた。
 柔らかな模様の壁紙が張られているだろうに、絞られた灯りではそれを見ることも叶わない。美しい装丁と優美な家具が配置されているだろうに、夜の影と闇に紛れては形すら定かではない。
 真っ直ぐに寝台を目指して歩く。柔らかな絨毯は足音を殺す。くったりと体をスザクに預けるユフィは全く目を覚まさない。小さな顔がスザクに寄りかかり、冷えていた体はほんのりと温かくなっていた。
 シーツと柔らかなブランケットが用意されている寝台の手前でスザクが足を止める。腕の中から零れる長い髪の毛がさらさらと靡く。小さなつま先をちらちら隠すドレスの裾も揺れていた。
 多分、硝子細工を扱うよりも。
 とても慎重に、どんな壊れ物よりも、この柔らかな脆い体を柔らかく横たえる。ふわりとシーツが少女一人分沈み込んだ。白いシーツはランプの色に照らされて暖かな色をして見えるのに、人肌に馴染まない真新しいシーツはきっと冷たいだろう。それが不憫で、引き寄せて抱きしめられたらいいと強く思った。そっと波打つ裾から膝を支えていた腕を抜いて、肩の下からも腕を抜いて、スザクの腕の中から散らばる花色の髪の毛がさらりと雪崩れ落ちていく。最後の一房が流れる瞬間、スザクはそれを引き留めた。
 じっと見下ろす白い顔。
 行きたい場所があるの、見たいもの、たくさんあるの。やりたいことが沢山あるの。知りたいことが沢山あるの。
 真摯に語る声。花のような微笑みで、何より無邪気で何より切実、彼女はいつも願ってる。
 私事を削る公務。学ばなければならい膨大な量の課題。決してミスが許されない執務。そんなものにも彼女は笑って頑張るのだ。早く素敵な世界を見てみたいから、あなたが笑ってくれるなら、優しい答えが欲しいから、だからもっともっともっと。
 周りが止めるのも聞かないで、ユフィ一人では無理な量をこなして。たった十六で人生全てを賭けるものを見つけた。それは短い、回り道。ある意味スザクより短い回り道。十七年間迷い続けた闇の中、軍人という生き方を決めたといっても、それは回り道の連続だった。正しい答えは何処にもなくて、正しい道は真っ暗な闇。この女の子は、たった十六で全てを決めた。スザクより潔く、とても明確に、皇族として生きること、人生の全てを捧げ身を賭すことを決めた。ユフィにドアを開けられるまで光も見えていなかった自分はもっともっとと願う少女が眩しくて仕方ない。けれど。
 こんな風に疲れ切っていても皇女としていつも無意識下で、周囲への振る舞いを忘れないのに、あんな風に倒れ込むように、糸が切れるように眠りに落ちるまでユフィは急ぐ。自分が未熟で至らないことを知っているから、嫌というほど知っているから。――未熟なのも至らないのも、スザクだって同じだ。
 昼間木陰で見た顔色が悪いような気がした。気が付いていた。止めなかった。切実な思いも願いも知っていて止められなかった。誰もがそうだった。誰かが止めなければ行けなかった。
 だから、書架の中、クッションに溺れて、椿の花が落ちるように倒れ込むユフィを見た瞬間、肝が冷えた。倒れたのかと一瞬思った、穏やかな寝息はそれを優しく否定してくれたけれど。
 一房掴んだ髪に、顔を寄せ、翠の瞳が瞼をおろし絹より柔らかな流れに唇を落とす。ふわりと手放せば羽の軽さで空の中に落ちていく。白いシーツの海の中、静かに散らばり沈んでいった。
 もっと早く歩ける足が欲しいの。飛んで、跳ねて、走って、遠く遠く。
 もっと遠くまで行ける道が欲しいの。そうすればきっとたどり着ける。
 記憶の中のユーフェミアは花のようにいつも笑ってる。けれど今横たわるのは表情の抜け落ちた疲れ切った白い横顔。髪の堕とす影すらも、彼女の眠りを深く縁取る。
 見たいものがあるの、知りたいことがあるの、あなたの隣に行きたいの。護られてばかりの足はいらない、あなたと一緒に走って踊れる足が欲しいの。私/貴方の願いの叶う場所まで。
 ――大丈夫、ずっと待ってる。今度は自分がずっと待ってる。だから。
 きしりとベッドがきしんだ。スザクの体重をうけて、シーツの海が沈むとさらさらと花色の髪が散っていく。スザクの影がユフィに落ちる。
「次はないよ、ユフィ」
 しんと静かに告げる瞳は酷く強い光を孕む。柔らかな髪をそっと梳いて、小さな頬にそっと触れるとひんやり冷たいのが許せない。きつく抱き寄せて、抱きしめて、この嫌な冷たさ全部奪い取ってしまいたい。人の気配に実はとても聡いくせにこんなに傍にいるスザクにすら気が付かないほど消耗した横顔だった。倒れ込むほど疲労痕倍して眠ったままの少女は目覚める気配すらない。小さな唇からほんのりと言葉が漏れて、翠の光がランプの明かりをうけて揺れた。
 さらさらと衣擦れに似た音がする長い髪を梳いて、口元だけで名前を呼んだ。
 けれど決して言葉は届かない。
 人が壊れやすいことを君は知っている。けれど君は君が壊れやすいことをきっと知らない。ユーフェミアは強いけれど、人間は脆い。この自分がその気になれば今此処で、ユフィが息を止めるに三秒で事足りる。
 そんな物騒な考え、全く気が付かないで、ん、と小さく寝返りを打ったユーフェミアの指先がスザクの指先にそっと触れた。触れられるままにしておけば小さな指先が握り込んでくるから。
 子どもみたいに思えて一瞬スザクが笑う。ダールトンが居なくて良かった。不謹慎だけれど、頭を真っ白にしながらも、眠るユフィを誰にもみせたくなかった。彼女を運ぶ役を誰にも代わりたくなかった。それは己のものだと思った。
 だからスザクは瞼を伏せた。二度とこないような幸福、どんなに壊れやすいか知ってる。どんなに噛みしめても奇跡にしか思えないような感情があるなんて知らなかった。二度は決してない、自分に手にする資格はないと覚悟した幸福の象徴しるし。自分の存在のありか。手を広げて、いつだっていつまでだって待ってると言ってくれる、スザクだけの場所。――二度目の幸福居場所をくれた君。喪うことを考えたくないくらい、護ると決めていた。――居なくなったら、そんなことを初めて考えて、白い横顔を見つめたときにわき上がってきたのは音もなく雪が降り積もるような怒りだ。しんと冷えて、全ての音を吸い込む無音。きっとそんな世界だ、モノクロの、花の色のない世界。
 知りたいことが沢山あるの、見たいものが沢山あるの、聞きたいことが沢山あって、あなたの答えが知りたいの。
 なんでもするから。一緒に歩けるのなら。あなたと一緒の道なら。
 ゆっくりスザクの顔が傾く。木漏れ日の下で笑う少女の笑顔がまた暖かな薔薇色に染まることを願って頬に柔らかに触れて、優しいすみれ色の瞳をもう一度、明日おはようの挨拶と一緒に見られるように願って、本当なら触れることも許されない少女のうすいまぶたに静かに口付ける。
 遠くを目指すなら、それを君が望むならずっと待ってる。でも、もう二度と喪うつもりはない。――それが例え、ユーフェミアの願いでも。彼女の意思を違えようともきっともう、スザクはユフィを護ってしまう、何と引き替えにしようとも。
 繋がる指先が温かくて細くて柔らかい。触れた瞼は冷たくて、海の中で眠っているような少女がこの花の色に暖まればいい。
 ふわり香る花の彩。
 想いも願いも、きっと多分、ユフィもスザクも同じ。喪えないのも大切なのも、いつだってほんの一握り。笑って、笑って、笑って、お願いだから笑っていて。一緒にいたい。そうやって切実なまでに想い続けるのも。相手の意思に反してまで、生きていてと祈るのも。この繋がれた指先の熱がささやかにでも相手にずっと残るといいと、祈るのも。
 静かにスザクはまぶたを閉じてこつんと額をくっつけた。細くとも小さくとも繰り返される呼吸が近くで、微かに、確かに響くいのちの音。その奇跡は恐らく涙も出ないほど、呆然とするほどに幸福な。
 願いはたった一つだけ、なれるものならどうか。
 喪い得ない大切な、あなたの世界の一部に。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 


プリーズブラウザバック.