花一輪、墜つ。



Part of your world.1



 それは、途方にくれた状況だったといっていい。頭の中は真っ白になるし何でもよいから誰かになんとかしてほしかったし、でもやっぱり他の誰かに代わるなんて絶対嫌だった。
 
 
 
 
 深夜にまでおよんだデヴァイサーの反射速度適合試験、さすがに休息をはさんでの強行軍がようやっと終わってくれたそんな頃あいだった。パイロットスーツをやっと脱いで、軍服の上着を引っかけるだけという中々にラフな格好でくつろいでソファで今にも眠りそうなってしまいそうな頃。流石に反射神経の使いすぎで頭が参っているらしい。今スクランブルがあったら少しきついな、とスザクは思いながら部下思いの上官に渡してもらった、きんと冷えたミネラルウォーターのペットボトルの蓋を開けた。かしゅっと軽い音と共に蓋が開いて冷たい水を喉に流し込み、ごくごくと飲む。ランスロットの中は熱い。空調設備は整っているものの、それでも搭乗者たる騎士は常に過酷な環境に身を置かされる。何より優先されるのがナイトメアフレームの性能向上であるからだ。ひいては、その性能こそが騎士の命を守る要ともなる。搭乗者の乗り心地を向上させるより、そちらの方が間違いなく、遙かに生存率も戦力も上がるのだ。
 その上此処は他の開発部門を断突で上回るナイトメアフレームに命をかける技術者達の巣窟、特派であった。
 特にアレな上官の意識は完全に搭乗者の安全よりランスロットを如何にして磨くかに寄っている。
 中々特殊な職場状態だなと時折思うこともあるが、それでも彼らは自分に戦う剣を与えてくれる。世界を変えてくれた人たち。そして姉のように暖かく接してくれる上司もいる。自分は幸せ者だ。
 枢木スザクは特に黒髪の幼馴染みが聞いたらお願いだからまともな感覚で職業と職場選択をしろと絶対命令権を行使させかねないことを考えながら、ずるずるとソファに沈み込んだ。
 頭の中をまだランスロットのシュミレータと演算結果がぐるぐる回っていた。今日は久しぶりに、普段から鍛えている己にすら辛い実験だった。仮想空間を作り上げ、擬似的な敵戦力を片端からたたき落としていくスザクの実践の腕と、それに対するランスロットの反応速度の誤差についてを延々と延々と調べ続けたのだ。気が付けば時計の短針がぐるりと回って、全神経が延びきっていた。
 其処で一端、マッドサイエンティストな上司の頭をひっぱたき、大学のラボからの知り合いだという、彼の部下に当たり、スザクにとってはやっぱり上司のセシルが待ったをかけたのだ。
 彼女自身もすさまじい脳内の演算能力を持っており、モニタリングをしながらすさまじいスピードでスザクの演算にあわせ仮想空間の情報処理をするという荒技をしてのけたのだが、流石に本職の研究者、延びたスザクを尻目に未だに上司と喧々囂々意見の交換に余念がない。
 多分。
「マラソンと、短距離の違いなのかな……」
 スザクの集中力はマッドサイエンティストというよりサドで有名な物好きな伯爵のロイドが変な悲鳴を上げて喜ぶほどすさまじいものだ。特に、実戦ではそれが飛躍的な伸びを見せる。実際、一瞬誰もが絶句する数値をたたき出し、彼は鬼神のような戦いぶりで戦場を駆け抜けてみせた。しかし、その戦場での緊張感はずっと維持し続ける類のものではない。作戦開始時、コンセントレイションを開始してその後保って数時間。それがスザクの数値の限界だ。
 一方のロイドやセシルを代表とした科学者畑の人間達は卓越した操縦技術や殺人的なコンセントレイションとは無縁ながら、一矢の乱れも激しい波もなく、ただ淡々と正確無比にきっちり数値の世界を生き抜く。それは整然として美しい機械仕掛けの数字の世界。彼らにはその世界が視えていて、その世界で当たり前で呼吸が出来るから、一晩や二晩の徹夜くらい朝飯前でやってのける。ふらふらになりながら眩しい朝日を眺めて満足げに目の下に作ったクマの濃い顔で力尽きるランスロットの技術者をスザクは何人見送ってきたことか。それでこの複雑奇怪な鉄の騎士を、戦禍の鬼神に変えてしまうのだから、己の集中力よりも彼らの生きる世界で続く集中力の方が凄いとスザクはいつも思ってしまう。
 短く息を吐き出し駆ける短距離と、たんたんと走り続けるマラソン。言い得て妙だがこの例えはあっているような気がした。
 戦場でしか生きられない生き物にいつの間にか変わってしまった。きゅ、とペットボトルの蓋をする、中身が半分ほど減っていた。ちゃぽんとゆれる水の音。
 変わってしまったことに悔いがないといったら嘘になるだろう。自分はきっとこの先、凄惨な世界にしか生きられないから。けれど光を見ることを赦されたなら、変わったことで守れるものがあるなら、そんな悔いは踏みにじってしまえた。同胞殺しといわれようとも、己の過去の罪を思えば当然受け入れなければならぬ罵倒だと考えた。そんな自分に光が見えた。視せてくれた人がいる。
 ほんの少し苦笑してスザクは静かに目を閉じた。少し疲れた視神経共々、脳内を休ませようとささやかな眠りの海に身を沈めようと思ったときだ。
「スザク君?」
 気を遣うような声がスザクを途惑う声音で呼んだ。寝ちゃったかしらと困ったように首をかしげる、幼く見えるその人にぱちっと緑の瞳をあけてスザクは大丈夫です、と笑った。
「少し疲れただけです、何かランスロットにありましたか?」
 ならいいのだけど、と前置いて、それでも気遣わしげにセシルは眉根をそっと寄せた。無理をしたから、疲労がやはり顔に出てしまったのだろうか。
「いいえ、ランスロットの方はもう少しかかるから――」
 それよりも、と彼女はいつの間にか手にしたインカムをソファに沈むスザクに向けて直接手渡した。
「多分あなたに用事だと思うの」
 は?と首をかしげるスザクの翠が不思議そうに瞬いた。
 
 
 
 
 スザクがユーフェミア直属の騎士となってから、ランスロット収納庫のトレーラーが政庁のとなりにどでんと置かれるのが目に付くのは珍しいことではない。その方が政庁と特派の任務をこなすスザクにとって利便性が良いからである。シュナイゼル殿下のお小遣いだよ、とは上司の言い分だが、いつの間にやらトレーラーの中でひざまずくランスロットでいっぱいだった特派の移動車両は居住性が格段にアップしていたり、政庁傍の倉庫を使い回すことを許されたりと中々に好待遇ではある。――それだけ、この第七世代型の白い騎士があげた戦功がめざましいものであったということだ。あの方は無能なものには出資しない一流の投資家だ、とも上司の言である。帝国の皇子を捕まえてまるでベンチャー企業の社長と投資家の関係で世界最先端の兵器を語っても許されるものか、スザクは僅かに悩んだが気にすることはやめにした。こと、ロイドに関しては突っ込んだ方が危険であると流石に学んだ。
 今日も今日とてトレーラーと政庁の端っこの倉庫をラボ仕様に、ランスロットをいじくり回していた特派の面々とモルモットになっていたデヴァイサーの元に、通信が届いたのは、夜もかなり更けての頃である。時計の針があと一時間と少しもすれば明日という時刻。セシルから受け取った通信機に、スザクがでてみれば思ってもみなかった方向からの連絡だった。セシルが受け取った内容を聞けば、ユフィのところで女官を勤めるものが騎士スザク様はおられますかとおずおずと申し出てきたというのである。
 時刻はあと一時間と少しで午前零時を回るというころ。
 こんな時間に火急の用件が起きたのだろうか。
 皇族は常にテロの対象である。一瞬で疲労とは別の緊張感に全てを支配され、軍人のさがが眼を啓く。殿下に何か、と緊張感に支配されるが、おずおずとした気まず気な様子にスザクは一瞬眉をあげ怪訝な顔をしてみせた。
 
 
 
 
 軍服のボタンをぱちぱちと締めて、ベルトをかっちり填めて、癖毛が寝癖になってないかを軽く確かめてぱたぱたと夜の中を早足で、歩かずに、騎士として主の名に傷が付かないように大急ぎで行く。中々に不可能を人は時として可能とするものだなとスザクは変な感心をした。そうしてそっと数多ある棟の一つの裏口に回ると、灯りのついたドアの前でお任せの衣装を着た侍女が不安そうに夜の中で立っていた。そのすぐ傍に、一人では流石に不安だと感じたのだろう、衛兵が居る。スザクの気配にぴくりと反応したが、彼がこの政庁一有名な名誉ブリタニア人であり、そしてその胸に皇族が下賜した騎士の証を目にとって慌てて敬礼してきた。礼儀正しく一礼してスザクが侍女の方を視れば、困り切った顔の女性がスザクに上品に礼をする。
「お呼びだていたしまして申し訳ありません」
「いいえ、それより何があったか、いまいち良く解っていないのですが……」
「それでしたらまずは中に」
 きいと、観音開きの樫の扉を開いて侍女がスザクを中へと迎える。星も月も随分位置を変えた夜空は暗い。その中に、ぽっかりと明るい回廊が浮かび上がった。
 門衛にお役目ご苦労様ですと侍女が丁寧に頭を下げてスザクを誘いしんと静かな回廊に足を進ませる。ここはどうやら下働きのもの達がよく使う、通用口のようなものらしい。スザク自身、此処に足を踏み入れたのは初めてだった。
 政庁は広い。堅牢で近代的な建物だが、ブリタニア式の建物も完備している。まさに日本を支配する帝国の象徴として作られた、それがブリタニア帝国政庁エリアイレブンであった。
 僅かに灯りに乏しかった通路をでると、すぐに広くあかりもふんだんに使われる公道と言って差し支えない回廊に出た。此処ならスザクも良く知っている。主の共をして――勉強を見てもらったことがある、何度も。
 自分より年下の女の子に勉強を見てもらうというのも男としてどうだろうか。普段はスザクの思考回路にないことをぐるぐる考えながら黙ったまま付いてきてくださいませ、と言われたとおりに侍女の後ろ姿を律儀に追いかける。
 お任せを着た侍女や女官は決して裾を乱さない。優雅な挙措で高貴な方々に仕えるという誇りが彼女たちをそうさせる。だが、今の彼女は僅かに裾を波打たせ急ぎ足の様子だった。ユーフェミア付きの侍女とは幾人かと顔見知りだが、皇族に付いている侍女がどういったものかもよく知らないが、此処まで急いでいるこの侍女をみるのも初めてであった。
 そのことに彼女自身が気が付いているのか居ないのか、スザクの推察どおりの道を彼女は静かに、でも急いで進んでいく。
 幾つか回廊を迂り、階段を上がり、そうしてやはりスザクの記憶の通りの扉の前でそっと静かに立ち止まったのだ。
 こんこん、と小さく小さくノックをするとかちゃりと錠の外れる音と共に内側からドアが開かれ、やはり顔見知りのユーフェミアの女官が現れた。スザクを連れてきた侍女と視線を合わせて頷くと、侍女はスザクに道を譲るように脇によけた。そっと中へとドアを開いてスザクを促すようにドアノブに手を触れた女官が、やっとスザクを振り返る。
「遅くにお呼びだていたしまして申し訳ございません、ですがわたくしたちではもうどうしたものか――」
「何がありましたか?」
 言葉少なに訊ねながら、仕草で中にはいるように促されて、雰囲気に飲まれるようにスザクがそっとネコのように音を立てずに滑り込む。扉の前にはスザクを案内してきた侍女が残り、それを確認して女官は静かに鍵をかけた。
「え」
 女性と会うときはドアを開けて。灯りもつける。それがブリタニアの貴婦人と騎士の礼節というものではなかったか。翠の瞳がぱちりと瞬く。
 煌々とともっているはずの室内の灯りは極力絞られており、奥の方に白熱灯の明かりが漏れているだけであった。星と月の明るい夜に、仄暖かな灯りは夜の柔らかさを魅せる。
 だがその雰囲気に魅せられる暇もなく、女官は小さな光源を目指してそっと静かに歩き始めた。
 小さな灯りに幾つも連なる影は書架だ。古い本のにおいがしんと静かな室内を支配していた。春の宵は美しく冷える。花冷めと昼に降った穀雨が、今夜の気温をますます下げていた。
 ずらりと並ぶ書架を横目に、奥の閲覧用のテーブルがあるその場所を一心に目指す女官の行く先に、その光景が広がっていた。
 その瞬間、半ば予測していたとはいえスザクの思考が停止する。
 ばらまかれた資料。積み上げられた分厚い本。書き殴られたレポート用紙。普段落ち着いたたずまいとすました顔でその場を占領している一客のテーブルセットは跡形もなく片付けられていた。代わりに柔らかなクッションが辺りにばらまかれ、その中に埋もれるように薄紅色の柔らかな色が広がっていた。フローレンスのピンク色を勿体ないくらい惜しげもなくばらまいてネコの仔のようにまるくなって、クッションにうずもれた華奢な少女が其処にいた。酷く白い顔をして目を閉ざす少女は、紛れもなく、スザクの無二の主の姫であった。  
 
 
 
 
 
 


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