そして私は必ずかえる。此の場所へ、この命ある限り。私を癒す君の元へと。


Eir.



 
   
「私は何も出来ないけれど、見送るばかりだけれど、せめて笑って、私は幸せだって伝えたいのに」
 そうでなければいつも傷ついてユーフェミアを護ってくれる人たちの愛情に、受け取り奪うだけの自分はどうすればいい。役にも立てない、何も返せない、ただ笑うだけ。それすらも出来なくなったらユフィはどうすればいい。
「そんなこと言ったら駄目だ」
 ふんわり揺れた前髪の向こう側に、翠の瞳が見えていた。鏡のように映る自分の顔が上手に笑えていなくて、まるで泣き出す寸前のような子どもの顔で苦しくて仕方がない。
「スザクには解りません」
 危急があらばランスロットで疾風となって駆けて行ける。敵を打ち払い、味方を救い、身を賭して姉を、ユフィを護ることが出来る。スザクは力を持っている。
「解るよ」
「スザク!」
 もはや完全に子どもの駄々。ぎゅうぎゅうに心が潰されてしまう、その圧力に抗えなくて顔から笑顔なんて完全に消えていた。
「わかるよ。あれだけ愛情を注ぐことが出来て、幸せでないなんて嘘だ」
 その暖かな感情はまるで湯水のように。尽きることのない泉のように。
 あれほどの愛情を注ぐことが出来るのは幸せに決まっている、なんて。
「そういう兄妹を僕は知ってる。僕にとっても、彼らを大切にすることは僕の大切な幸せの条件だ」
 一つ一つ、言葉を噛みしめるようにスザクは視線を離さないままユフィに伝えた。何も出来ないと嘆いている姿がどうしても、焼け野が原で泣くだけの自分に重なって見えて仕方がなかった。
「武力で何でも出来るとは思わない。何でも出来たら、いけないんだ」
 だからスザクは今此処にいる。
「変えて行くには、別の力が必要だと思うから。ユフィはそれを持っている。何も出来ないなんて事無い。――ランスロットを解き放ってくれたのはユーフェミア皇女だ。あの時、ユフィが決断したことが結果的に総督を、コーネリア殿下をお助けすることに繋がったのは紛れもない事実だ」
 あの決断に、リスクがあったことなんて軍人である以上百も承知だ。
 特派に戦況を丸ごと託すこと、託す命が皇女であり、総督のものであること、しかも頼みの綱がナンバーズ。
 小娘の浅知恵がと恐らく誰もに正気を疑われたに違いない。そして、皇女の気まぐれでイレブンが死ぬだけだと自分もユフィも捨て置かれたに、違いなかった。
 ユフィが以前ランスロットの戦闘を見ていた経験とスザクの心に託した命令が実を結んだのは、ただの結果だ。ユフィとスザクの間では別としても、ブリタニア側の信頼での積み重ねは何にもない。けれど、ユフィの決断もスザクの功績も、成果だ。
 だから。
「だから、そんなこと決して言わないでください」
 俯いたままだった視線が呆然とあげられスザクの視線を受け止めていた。いつも素直に、彼女は人の目を受け入れる。
「――だから、わたしはただ笑って護られていろと?」
 こんな言葉を誰かに投げつけるのは初めてだった。
 叫ぶような声は掠れてか細い。この悲鳴が真実であると何よりユフィが解っているから喉の奥に力を込めた。
「私は、護られるだけのお人形じゃありません」
 ぐっと、強く。すみれ色の淡い瞳が儚い光彩を纏って午後の穏やかな日差しの中にたたずんでいる。それを酷く眩しいものを見るようにしてスザクは目を眇めた。
「守られてください」
 その瞳が、儚いものだと知っている。強くしなやかだけれど、相反して酷く脆く、優しいことも、儚く壊れやすいこともよく知っている。平和と呼ばれるもののように。
「ユフィ。お願いだから守らせて。絶対に傷つかないで」
「私は壊れ物じゃありません!いつもいつも見送るばかり。お姉様もスザクも一度戦場に行ったらもう」
 全てを拒絶するように、彼女はか細い声で悲鳴を上げた。
「帰ってこないかもしれないのに――!」
 花の色をした長い髪が緩やかに弧を描いた。そんなのは嫌だと心が悲鳴を上げて、現実を直視したくなくて可能性に蓋をするために大きくユフィがかぶりをふる。
 だがスザクは酷く穏やかに、可能性を肯定した。
「そうだね」
「そんなのいやなんです、だからわたしも」
 泣きわめいてでも側にいて、盾になることくらいなら、ともう何度考えただろう。
「だめだ」
「スザク!」
「駄目だ。絶対駄目だ。ユフィ」
 穏やかすぎて否を許さぬ声が静かに向けられる。
 翠の瞳が静かに閉ざされ、ユフィの声を遮った。
 悔しくてユフィは唇を結ぶ。スザクは酷く頑固で、わからずやだ。無力な自分が許せないと子どもみたいにわめいているユフィに、欠片たりとも譲歩を見せずに穏やかに座っている姿がそう思わせる。スザクがこんな風に、穏やかに、駄目だと言えばそれは絶対に覆らないことをユフィはもう知っていた。
「……スザクなんて嫌いです」
 心の中がぐちゃぐちゃで、一度頭を通して出てくるはずの言葉が全く濾過されず思ったままをはき出してしまう。拗ねた子どもそのものの台詞すら、顧みる余裕がないほどに。
 こんなに子どもみたいな理由で泣きたくなったのはいつ以来だろう。
 クロヴィスが亡くなったと聞いて以来、涙なんて流さなかったのに。喪に服すための黒の装束すら副総督の立場としては相応しくないと却下されたときすら、微笑んで解りましたと言えたのに。
 いつの間にか、外の雨音に耳を傾ける余裕もないほど心の中がいっぱいいっぱい。
 いつもいつも、己の無力が苦しくて仕方がないけれど、もっと子どもっぽい理由で、溢れて、しまいそうだ。
 こつんと白いテーブルの上にペンが転がった。視界の端にころころと赤い答案の上を回る黒いシャープペンシルはさっきまでスザクが持っていたもの。
 俯いていた視線をあげると、苦笑したスザクが空いた片手で窓の外を指さしていた。
 指の先を視線でおいかけると、観音開きのフランス窓が白い窓枠にはまっていた。雨のあとを硝子が映して、穏やかな陽光に照らされて、とても美しい。軋んだ心の欠片のようだ。
「……例えば、僕は大怪我をしていて」
「そんな例えは嫌です!」
 大嫌いといったくせに、スザクが怪我をするのは間髪入れずに否定するほどには嫌らしい。素直なのか素直じゃないのか、解らない反応が血の繋がっているはずの幼馴染みを思い出させて少し笑った。
「それで、あの窓からユフィが飛び降りたとするよ?」
「窓?」
 フランス窓は雨で濡れたバルコニーが続いていた。その向こう、庭園を越えた先に立っている政庁で一番高い建物は兄クロヴィスが造らせた空中楼閣に続く棟だ。螺旋階段と吹き抜けが美しい、高い高い、童話のお姫様が閉じ込められていそうな塔だ。指が示すのは離宮最上階。
 そんなところから飛び降りたら、怪我ですまない。落ちた方も、受け止める方も。例えるまでもなく、解る答えだ。けれどスザクはごく簡単に、言い切った。
「それでも僕は君を救う。必ず助ける。必ず受け止める。それでどんなに痛くても、ユフィのことは絶対守る」
 だから、君は護られていれば良いんだよと言われた気がして目の前がふっと暗くなる。今まで感じてきた無力感、全て当たり前のことなんだから、仕方ないと言われた気がして息が止まると思った。
「そんな、そんなの、私だってスザクが怪我をするのはいやです、私のせいで怪我をするのはもっと」
 自分の無力は知っている。知っているからこそ寒気がする。飛び降りなければならなくなったらきっとユフィは飛び降りる。それが己に必要だったら、必ずユフィは前に行く。あとのことは考えない。ただ、前へ、前へ、立ち止まったら進めなくなる。そうなる前に、ただ進む。それでも。
「私は、いやです」
 許容できないことがある。
「僕もだ」
 声は酷く簡潔だった。離宮の塔を見つめていた翠の瞳が静かにユフィに向けられて、淡いすみれの色を見つめた。
「それは僕も、同じだよ。僕を心配して、例えば戦場にユフィが居て、それで怪我をしたりするのなんて、絶対、嫌だよ」
 穏やかな声だった。こんな時のスザクは地球がひっくり返ろうと、意見を決して翻さない。まだ激昂しているときの方が言いくるめようもありそうだと思えるほど。けれど今は盤石な力と意思を篭めた声だ。
 だからもう、スザクは必ずユフィを護る。誰がなんと言おうと、ユフィを護る、ならもう、足手まといになるほかなく、ユフィは何も出来ないままだ。
 情けなかった。そんなこと無い、足手まといになどならないと、否定できないことが、何より不甲斐なく情けなかった。
「……スザク、ごめんなさい、足手まといでごめんなさい」
 何も出来なくて、足を引っ張ってばかりで、何も出来なくて。姉にもスザクにも、何も出来ないまま。
「違う、そうじゃない」
 苦しそうな声がユフィの言葉を否定するけれど、ユフィは柔らかく首を振った。だって実際役立たずなのだ。何も出来ないことは解りきったことだ。ただ、死地へ逝く人々を微笑んで、私はいつも一人見送る。
「ユフィ」
 風が吹く。いつも私は一人残って。一人、怪我もせず、生き残って。
「ごめんなさい」
 いつも戦場に逝く、あなた達の背中を見送る。
「ユフィ」
「貴方を、戦いに向かわせるのは私だけで、お姉様もスザクも、私はいつも見送るばかりで」
 子どもの駄々はすっかりなりを潜めた。激昂した感情が急速に冷えていく。何も出来ない己の声が己の無力を弾劾していた。凪の海原のように、細波一つ立たない感情は麻痺しているようで。
「ユフィ違う」
「いつも」
 暖かな駕籠の中で、傷ついて欲しくない人たちに、護られてばかり。高い塔に閉じ込められたおとぎ話の主人公は、愛する人を傷つけられて、たった一人、茨の荒れ野へ追い出された。自分は追い出されることなく、愛しい人たちを傷つけるだけ傷つけて護られるばかりだ。ああ、本当に、飛び降りてしまえればいいのに。
「守らせて、頼むから」
 睨むように高い塔を見ていた瞳が、翠の瞳を顧みた。
「……スザク?」
 それは血を吐くように必死な声で、振り返らずには居られなかった。
 静かに息を吸い込んで、真っ直ぐ見つめる翡翠の色が痛いほど真摯な光を孕んだ。
「お願いだから、傷つかないで。泣かずに、笑っていて。必ず、守るから。怪我をしないで、帰ってくるように頑張るから。見送るだけじゃなく、出迎えて欲しいから、ユフィに。だからお帰りなさいって言ってくれればそれだけで良い。でも、もしもユフィが辛いなら」
 そろりと、懐かないネコに手を伸ばすようにユフィの瞳を隠してしまう柔らかな前髪に硬い指先が触れて、優しく払った。固い保護グローブに指を通してランスロットを操る指先がそっと離れていく。
「笑わなくて良いよ。誰か傷つけば辛いのは当たり前だ。大切な人ならもっと。そうやって、自分が傷つけばきっともっと辛い、当たり前に。だから、笑うことを当たり前にしなくて良いよ。少なくとも、僕の前では」
 柔らかく翠の瞳がユフィを視ている。微笑む彼女が一番多い、記憶の中のユフィはいつだって笑っていた。けれど、困った顔も、真摯な顔もどんな表情も、いろんな君をみたいと思う。
「その代わり、待っていて。帰ってきたら、迎えてくれると、嬉しい」
 待つと言うこと。堪えると言うこと。何も言わずして微笑み、行ってらっしゃいと手を振ること。それが前を逝き、征くもの達のどれほど励みになることか。きっとユフィは知らない。
「ユフィに出来ることは少ないかもしれない。でもそれは僕も同じだ。片手で足りるほど少ない。何も成していないかもしれない」
 理想は遠く、夢ばかり追って、それで正しいのか、何かを残していけるのかと何度も何度も自問した。七年。七年だ。その間、たった一人、狂うような闇の中にいた。父を殺した罪、祖国を踏みにじる行為、己を培ってきた過去の全てを否定する世界、繰り返し繰り返し、スザクをさいなむたった一人の孤独だった。見送ってくれるものなど一人たりとて居るはずもなく、機械のように命じられれば死地に向かった。迎えてくれるものなど、さらにいるはずがなかった。さながら絶望に転がり落ちていくように死に場所を探すみたいに、でも立ち止まっていることなんて絶対に出来るはずもなく。父の命を踏み台に、立ち止まることなど己が許さぬ。だから何か、何でも良いから、出来ることを足掻いて掴め。
「僕はランスロットに乗る。それが多分、僕に出来る数少ないことの一つで、ユフィを護ることにも繋がる。でも、やっぱり」
 何かを為せているのかと、闇の中で自問する己の声に、揺らぐから。
「お帰りって、言ってもらえると嬉しいから。だからユフィに出来ることの一つに数えて、僕のことを待っていてくれると、嬉しい。信じていてくれると、もっと」
 それが、七年の闇の中で、やっと得たスザクの導の光だ。君の髪、君の手、君の瞳、君の声。――君の笑顔。全てが僕を呼んでいる。今も。
 護ることの覚悟は痛いほど解っている。それでも命は脆いと父の命を奪ったあの日に知った。もうあの身を引き裂く傷みは堪えられるべくもない。堪える必要などないように、守り通せばいい。
「それは、スザクの幸せになると、約束してくれますか?」
 迷子のネコのような目をして、泣きそうな淡いすみれ色が何よりも大切なものに思えて。答える代わりにスザクが破顔一笑した。何にも勝る答えだった。
 それを見たユフィの顔がくしゃりと歪んだ。切ない顔を見た、と思った次の瞬間、ふわりとやわらかなフローラルピンクがスザクの視界を一杯に占めた。がたんと椅子が転がる音が、ユフィがそれを蹴倒したのだと何となく解ったのは、勢いのまま細い両腕を伸ばしてユフィがスザクに飛びついたからだ。ちなみにスザクもユフィの勢いに負けて床に転がっている。白く優雅な曲線を書く椅子は二脚とも、倒れて無惨に転がって。けれどユフィに怪我一つ無いのはスザクが全身でかばって、大切に抱き留めたからだ。一瞬見えた泣きそうに歪んだ顔が頭から離れなくて翠の瞳が眇められた。
 ばさばさと赤点の答案が舞い散った中、柔らかく、折れてしまいそうに細い体を抱きとめながらスザクはため息を吐いた。決して嫌なため息ではなかったけれど。怪我一つ無い彼女の様子への安堵も含まれていた。もう答案もばらばらになった筆記具もどうだっていい。ユフィが苦しくないのならば。笑いたくないときに何より綺麗に笑うより、よっぽど良い。
「……………ユフィ?飛び降りるときも今のこういうのも予告してくれるとうれし」
「嫌いなんて嘘です」
 ほろりと涙のように零れた言葉に、柔らかな花の色をした髪に触れてスザクが翠の瞳を伏せた。
「うん、知ってる」
「スザク、私、何も出来ません。戦争も政治も貴族との立ち回りもお料理だって下手でお姉様に笑われてしまいます。けれど貴方を待ってます。ずっとずっと、私は貴方を送り出すたび帰ってくるのを信じて待ちます。どんなに辛くても必ず貴方を見送ります。ずっと信じます。帰ってくるって信じます。貴方の居場所は此処です、必ず此処に帰ってきて。お願いスザク」
 大きな腕が抱きついたユフィを支える。揺らぐことのない力強さが頼もしい、けれど何度もこの強さに頼って、貴方を私は送り出す。その代わりずっとずっと。
「信じます。私は貴方を信じます。必ず、お帰りなさいと出迎えます」
 泣くな泣くな泣くな泣くな、心の中で繰り返した言葉はどちらのものか。一気にまくし立てた言葉が胸の中で溢れて溢れて止まらない。
 闇の中で見つけた光。無力さに嘆きながらそれでも前に進むことを止められず、何かを掴みたくて必死で、出来ることを一つで良いから多く掴みたい。その願いを貴女/貴男はいつも叶えてくれた。
 護ることの覚悟を知っている。だからこそ、待つことの覚悟を知らない。もしスザクがユフィをたった一人で送り出さねばならなくなったら、スザクはきっと辛い。そこが戦闘という戦場でなくとも必ず、辛い。
 首に折れそうな細い腕を回して、抱きついてくる細い体。この小さな少女はもっと小さな頃から、戦場に向かう姉姫を見送ってきた。笑いながら、待つ覚悟を、今にも愛する人が死ぬかもしれないという恐怖を閉じ込めて必死に笑って信じて待っていた。自分より、年の下の女の子が。覚悟の言葉は、きっと生ぬるい。
「うん」
 万感の思いを篭めたスザクの声に、切なくなってもっと強くぎゅうっと抱きついた。硬い体、浮き出る鎖骨に額を押しつける。顔を見られるのは嫌だ。きっと泣きそうな顔をしている。
 笑うこと、見送ること、待っていること、信じること、迎えること。それがユフィに出来ることなら、何だってする。それがスザクの幸せに繋がる自分の出来る一つなら。何だって。
 全力で抱きついてくる柔らかな体の温かさに翠の瞳が閉ざされた。このひとを、守ることが救いになるから。この笑顔を魂を守ることが出来ればそれは紛れもなく、己の最高の誇りになるから。
 守ることで守られている。その笑顔にいつだって救われているのはスザクだ。
「必ず還ってくるから」
「約束です」
 なんと幸せな約束か。暖かな体、柔らかな、花のにおい。暖かな君。
 嬉しくて仕方が無くて、本当に心の底から、太陽の光が嬉しくて空に手を伸ばすみたいに華奢な体を抱きしめて笑った。
 必ず守る、だから。
「此処で待ってて」
 晴れ間に降る雨は優しい音と光の乱反射で全てを隠す。泣くことの出来ない子ども達の代わりに、笑いながら空が哭く。決して哀しい涙だけではないけれど。
 
 
 
 この後に、神聖ブリタニア帝国第三皇女ユーフェミア・リ・ブリタニアは枢木スザクを騎士に叙任する。彼らの間にどのような疎通があったのかは後世の歴史家においても定かにはされていない。
   
 
 


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