ネバークライ。スマイルオールザタイム。プリーズ。アイウィルウィッシュフォアユアーズ。




Eir.4



 
   
「いつも、ユフィは信じてくれたんだ」
 あの時、唇だけで呼んでくれた名前。あの一瞬が全てを決めた。これは新規の命令だ。姉に逆らうことは何一つやっていない。これは、間違っていない。
 一瞬で全ての思考が決まった。そこは死地。でも信じると決めた。
「スザク」
「それがどれほど、貴重なことか、ユフィはきっと、解ってないよ」
 一言一言、噛みしめるような言葉にこもっているこの重みを、ユフィはきっと理解しないだろう。国籍も立ち位置も関係なく、信じることを当たり前に出来る少女は。
 名誉ブリタニア人の忠誠など、同族を踏みにじって得た国籍など何の価値があろうか。その立ち位置だけで、軽んじられ信頼を向けられることはなく、ただ捨て駒のように扱われ続けた日々に、真っ直ぐに己を信じてくれた人がいた。その信頼に応えられる以上の喜びはなく、その信頼を裏切る以上の不義は無かろう。
「それでも」
 ユフィが凍り付いたように言葉を紡いだ。息が詰まって上手く言葉が紡げない。喉の奥が熱い固まりでふさがれるようだ。小鳥のような声だと、ほめてくれた姉の言葉、今はこんなに掠れて聞き苦しいことこの上ない、それなのに真摯に耳を傾けてくれる気配がすぐ側にある。真っ直ぐに翠の色がユフィを見ていた。
「自分の手で、護りたいと、思っては、いけませんか」
 信じたのは真実だ。けれど、でも、それでも。見送るばかりは嫌だ。もうたくさん。ナリタで沢山、人が死んだ。騎士だろうが名誉だろうが、関係ないほど、沢山死んだ。非戦闘員をも巻き込んで。それら全て、護られるところにいて護られるだけで護ることは出来なくて。自分の手を広げて、止めなさいと言えなくて。
 スザクが侮辱されたことが許せなくて、黙らせるためにひっぱたくのと同じくらい、簡単にできれば良かった。
 ……簡単に行使して良い「力」なんてこの世の何処にもないと解っているけれどでも、それでも。自分の無力さは、どこまでも己を惨めにさせる。
 泣いては行けないとただ唇を噛みしめる。泣くのは卑怯だ。この人を死地に追いやることしかできない自分が、なぜ泣くことを許されるのか。
「護られるだけは、いやです」
 姉の立つ、その隣で私も役に立ちたかった。せめてお荷物になりたくなかった。護られるだけは苦しくて寂しくて、心底厭う人の命を奪う武器を手にした。これが姉の命を守りもするものだと言い聞かせて。
「どんなに役に立たなくても、それだけはいやです。それなら、捨て置いてくれて、いいのに」
 たくさんの愛情を向けてくれるから。なのに何にも返せない。返せない。それがどれほど苦しいことか。もらうだけもらって奪うだけ奪って与えるだけ与えておいて、どうして私には何も返させてくれないの。
 何も、変えさせてくれないの?
 大好きな、あなた方の力になるためなら、何だって何だって出来るのに。
 でも、己自身を護りきれぬ護身の術も持たない皇族が戦場に行くほど愚かな足かせはない。どんなに頑張っても姉のように強くなれないなら、ユーフェミアが戦場に征く価値など全くない。マイナスにしかならない。ユーフェミアの血がそう訴える。
 
 
 ユフィ、覚えておいで。皇族は戦場においてキングなんだよ。
 
 キングは皇帝陛下じゃないのですか?シュナイゼル兄様。
 
 暖炉の前で暖まりながら、チェスを差す兄と姉、ルルーシュがじっと盤面を見つめていて、ナナリーがその膝でぬくもりの中微睡んでいた。兄はユーフェミアの小さな体を抱き上げながら、優しく頭を撫でてくれた。
 
 大局においては、キングは皇帝陛下だよ。でも戦術やその地域の戦争において此処にいる兄妹の一人一人が、キングになり得る。
 
 シュナイゼル兄上。
 
 制止を含めた姉の声。なぜ兄様のお言葉をそんな怖いお声で遮るの?
 ユーフェミアには解らない。優しく抱き上げた兄の腕はただ、優しいだけだったから。
 
 良い機会だよ、可愛いコーネリア。覚えておいで、可愛いユフィ。ルルーシュ、君はいつかナナリーに教えてあげなさい。どんなに君が教えたいと思わなくとも。
 
 ルルーシュは何も言わない。ぱきんと薪のはぜる音、踊る火の粉が強い紫色の瞳に映り込むのが美しかった。兄ととても似ている、皇族直系の血が良く出た強い紫。
 かつんと白の騎兵が進んだ。モノクロームの盤面に死屍累々と転がるつわものどもが夢のあと。
 
 ユフィもナナリーもキングなのですか?
 
 どう考えても、こんなに小さな自分たちがキングの駒になれるとは思わなかった。
 
 そう、私も、そしてコーネリアも、勿論クロヴィスも。他の兄妹達も使いようによっては、誰だろうとキングになる。それが皇族という血だ
 
 高貴なる血ブルーブラッド
 
 違う、皇帝の血リネージュだ。戦場において最も無力で、最も権威を持つマン、討たれれば最後、世界が壊れる全ての要
 
 また、こつんと駒を進める音。姉のポーン。
 
 お姉様はポーンみたいです。
 
 私がか、ユフィ?
 
 はい、風のように悪者を切り裂いて、ユフィを助けてくれるクイーンになって下さいます。
 
 最奥陣までおくれば、キング以外のどんな駒にも変化して、敵を切り裂くポーンのようだと。無邪気な言葉にシュナイゼルが笑った。
 
 その通りだよ、疾風のように敵陣を切り裂くブリタニアの鬼才、戦場の戦姫。それが君の姉君だ、ユフィ。ユフィには軍才があるのかもね、コーネリア。
 
 ……兄上、チェックメイトです。
 
 ……おや?
 
 ああ、これでは逆転は無理でしょうね。流石姉上。兄上、貴方のチェスの打ち方は自分の手を間断無く撃ち、相手を攪乱させ持ち時間を消費させてゆく間に、自分の持ち時間を減らすことなくゆっくり何通りも先を読むという性悪でえげつないものですが、姉上にはもっと本気で撃った方が良いと思いますよ。
 
 的確だな。軍師の才があるぞ、ルルーシュ。
 
 恐れ入ります、姉上。
 
 ……可愛いユフィ、慰めてくれるかい?
 
 お姉様、お姉様おめでとうございます!
 
 ありがとう、私のユフィ。――お願いだから、戦場のキングにはならないで居ておくれ。
 
 
 苦笑して、ユフィの髪をふんわりと撫でる兄は姉をどんな風に見ていたのか今はもう思い出せない。もの悲しげな響きを引いて、姉の祈りは柔らかくユフィの中に降り積もった。兄の言葉は、確固たるものとしてユーフェミアの中に永久に溶けぬ氷のように芯を持って確固たる礎となった。それが皇帝の血の為せる業なのかもしれない。
 戦争という言葉から避けて、どこか暖かく優しいところで優しさだけを糧に育ってくれればと姉が祈ってくれていたことが今はとても良く解る。けれどそれでも、ユフィのためだけに微笑んでくれる姉を、心の底から助けたいと。護られるばかりの自分の皇女としての立場を苦しいと。思うことは、いけないことだろうか。
 二度と戻らぬ過去の幻影が、雨音にかき消される。一瞬の幻影はかき消えて、暖炉の朱の変わりに、凄烈な翠が目の前にある。息をのんでユフィは手のひらを握りしめた。爪が食い込む。
 苦しくて苦しくて、はき出してはいけない言葉を出してしまったと気がついたときには遅かった。
 ――護られるだけは、いや。そのくらいなら、捨て置けと。
 今、ユーフェミアは言ったのか。
 自分を護ってくれる全ての人々の真心、忠誠、愛情を否定する言葉をこの口は。ざっと血の気が下がる思いがした。それでも、一度も思ったことがないなんて言えなかった。足かせになるくらいなら、護られない方が良いと、思ったことがないなんて、口が裂けても言えなかった。
 でも、この台詞だけは、自分だけは、愛情を一心に受ける第三皇女ユーフェミアが、妹であるユフィが、天が裂けようとも口に出してはならない言葉だ。
「ごめんなさい、スザク、忘れてください。何でもありませんから」
 我ながら棒読みの言葉だった。それ以外に紡げる言葉はありはしなかった。
「お願いです、忘れてください」
 泣くのは卑怯だ。ただ呆然とするほど哀しいだけだ。だから表情は上手く作れない。この上なく、優しく、真綿の中にくるまれて護られて生きてきた自分はこの状況を否定する言葉を吐いて良いはずがない。力になりたいと思うのは間違いではないだろう。けれど、これまでの姉たちの大切な愛情もそれにかけてきた時間も、努力も、全て否定するような言葉を口に出せる資格など無いのだ。
 自分は、感謝の気持ちを込めて、精一杯、出来ることを。
「ね?お願いします。――忘れてください」
 ふんわりと花咲く笑みが広がった。晴れ間に降る雨の乱反射、薄い陽の光の中で姫君が穏やかに、いとも淑やかに腰を下ろしてスザクに向かってほほえみかけた。
 それは凍り付いた瞳が春に溶けるように。
 けれど、永久凍土の決して溶けぬ大地が、根深くユフィを支配するように。
 凍り付いた大地で咲く花は現実離れをした美しさなのだと初めて知った。それはこの、青空に降る雨に、似ていた。
「いつから?」
 ふと、零れるように口に出した言葉の意図が自分にもわからなくてスザクは自分の口を覆った。
「スザク?」
 呆然と翠の瞳を見開いて、テーブルに散らばる答案を見つめていた。朱ペンの書き込み。ユフィの文字。丁寧で柔らかな、綺麗な手蹟。
 この柔らかな、優しさを持つのがこの皇女の、この女の子の本質だ。なのに、いつからだ。
「笑うこと、得意になったのはいつから?」
 一瞬、何を言われたか全く理解できなくてユフィは呆然と目を見開いた。美しいすみれ色の瞳に陽の光が反射して複雑な光彩を孕んで、消えた。
 顔を上げたスザクの、翠の瞳が心の中まで切り込むように真っ直ぐだった。日の当たるユフィの場所からは影になって、いつもよりとても深く静かな色彩に見える。自分の底を、決して垣間見せない翠。
 スザクには扉があって、誰にもそれを開いてくれない。自分と他人の間に、確たる一線を引いて、相手にも踏み込まないし、踏み込ませない。
 それなのに、けれど時々、どうしてこんなに。
「笑わないこと、苦手にならないで」
 しんとした静けさが、午後の窓辺に降りてくる。酷く真摯で穏やかな声が真っ直ぐユフィに向けられていた。
 どうして時々こんなに貴方は、真っ直ぐ私の中に入ってくるの。
 もっとユフィが幼い頃、初めて学校に行くようになった頃。
 向けられたのは皇族の義務を果たさないくせにのうのうと生きているお人形への蔑視だった。
 そのときからどんな感情に向かっても笑うことが出来るのだと覚えた。基本的に、学校へ上がる前からも笑っていることは好きだったし、哀しければ哀しいと、辛ければ辛いと、いつだって言える状況にユフィは居て感情を素直に出し健やかに育つことを許されたから、ほんの少し辛いことがあってもこの血に連なる系譜にあるなら誰だって当然だと、沈むよりも前を向いて笑うことを覚えた。天真爛漫を地でいく奴だ、と一番年の近い兄には馬鹿にされたけれど、愛情と呆れのこもった感情だったからむしろ居心地が良かった。貴族達の微笑みという致死量の毒を盛られても、実際に身体が害されかけても、笑っていられる箱庭を姉はずっと護ってくれた。
 でも。
 
 泣くなユフィ、泣くな。笑っていておくれ、いつだって。私はいつだってそれだけを願っているよ。
 
 酷い傷を負って戦場から姉が帰ってきた日姉は優しくささやいた。ユフィの誕生日だったことより、姉の傷の深さをより鮮明に記憶している。
 姉が本当に優しくささやいたから、すがりついて泣いていたユフィは笑った。ユフィはもう笑うしかなかった。護られて、災禍無く過ごせていて、ユフィ自身にはどんなに苦しいこともないのに。
 その時ほど微笑むことが辛いと思ったことは生涯経験したことがなかった。
 姉が意図的に、戦場での怪我をユフィに見せまいとずっと隠してきたのだと気がついたのも、その時から。
 ユフィは幸せな愚か者だった。
 エリアイレブンに来てからは、もっと笑うことを覚えた。辛くて仕方がないときも、笑っていた。お飾りでも出来ることがある内は前を向いて恥じることなく、姉の妹として歩いていく覚悟だ。だからもうずっと微笑んでいた。
 スザクと初めて出会ったときも、兄殺しの容疑者だと見た瞬間解っても、笑うことに躊躇いは感じなかった。冤罪と知っていたとはいえ、身内の感情は荒れ狂うものだと裁判の知識はあったのに、ユフィは笑うことに躊躇いを覚えず、彼を真っ直ぐ見るために自分の感情に蓋をして花のように微笑んだ。
 それなのに、なぜスザクがランスロットから降りて、それまでの態度を翻し迷いもせず傅いたとき、慈愛の微笑みでその忠誠を受け取ることが出来なかったのか。ゲットーの惨状を見ていたとはいえ、ユフィにはそれが出来たはずだったのに。
 なぜ、泰然と構えていなければならなかったナリタで、スザクを見たとき、ユフィと聞こえぬ声で届かぬ音で呼ばれたとき、泣きたい思いと決然とした決意がわき上がってきたのか。
「スザクはいつも、私を笑わせてくれます」
 さらさらと衣擦れのような柔らかな音が響いてフローレンスピンクの柔らかな流れが細い肩を彩った。細い声がかき消されそうなほど。
「そして、いつも、私を笑顔だけで、いさせてくれなくするんです」
 穏やかに微笑んでいた少女が、緩やかに顔を伏せて、淡いすみれ色の瞳を長い髪の内に隠してしまった。長い睫がゆっくり瞬く。
「貴方の前ではいつだって笑っていたいのに」
 ユフィ、笑っていておくれ。決して戦禍の届かぬところで。
   
 
 


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