風が吹く。一人残され、私はいつも貴方を見送る。




Eir.3



 
 そんなこんなで始められ、現在も続いている勉強会は主に文系科目に偏っている。ユフィは社会学系に大変強い。外国語にいたっては言うまでもない。皇族必修だそうだ。帝王学や政治学、経済学といった大学の専門学科で学ぶようなことこそ殆ど触れていなかったが、基礎的な教養や高等学校科目は言わずもがな。
「教え甲斐のある生徒じゃなくてごめん」
 教えてもらっている身としては本当にまたとない家庭教師だが、中々点数の上がらない答案を持ってくる身としては心苦しくてぽつりと弱音を吐いてしまう。はた、とスザクが動きを止めた。つい先ほど、謝る必要はないのだとたしなめられたばかりだったのに。言い訳をしようと考えようにも、何も思い浮かばなくて、口べたをごまかすようにスザクは苦笑いして、シャーペンを止めた。ぱちりと瞬いたユフィがもう一度、そんなこと無い、という意味を込めて首を振ると、ふんわりとフローレンスピンクの髪が舞う。
「私も大嫌いな教科があったんですよ?」
「……ユフィが?」
 にわかに信じられない事に素直に吃驚したスザクの顔は、まるで猫じゃらしをいきなり背中に隠してしまってじゃれる対象を無くした時のアーサーにそっくりだ。勿論本人には教えていない。
「はい。でも頑張らないとお姉様に怒られるって必死になって頑張りました。頑張ったら、お姉様はほめてくれるから」
 淡いすみれの瞳がふんわり和んだ。
 姉のために出来ること。何でも。お茶はその年の夏詰みの茶葉、砂糖もミルクも無しでも素晴らしい味で飲めて、水色も美しいとっておきをいつも用意した。本当はとても苦手な料理は姉が好きなお菓子だけは料理長のお墨付きをもらった。カウチに置くクッションは一番柔らかいものに、一番肌触りの良い優しい色合いのカバーをかけた。宮殿の端々に目を配り庭園を季節の花々で満たし姉に贈ってもらった美しい切り子硝子の一輪挿しに庭師に頼んで一番美しい温室の薔薇を一輪だけきってもらい、活けた。
 例えば。
 無駄だと解っていてナイトメアフレームの操縦技術を学んだこと。
 例えば。
 どのようなことにおいてもブリタニア第三皇女が他の臣民に劣ってはいけないということ。全てに置いて満点をとれというわけではない。全てにおいて優秀でなくてはならないということ。勿論学問であっても。
 姉の顔に泥を塗ってはいけなかった。ユフィの弱みは、姉の弱点だ。同母だからこそ、姉が自分を大切にしてくれるからこそ、ユフィは姉のアキレスの踵。どんなに周りの毒から護られて育てられようと、そのことだけは幼心に重々承知していた。姉の失脚の理由になることだけは避けなければいけなかった。
「……お姉様は、怒るととっても怖いんですよ。そうね、今度スザクも怒られてみれば良いんです、そうすれば二度と赤点は取れなくなります」
 わりと彼女の顔が本気なので、全力で辞退する方法を模索しながら視線を泳がせた。
 かの女王に、この件で謁見する誉れには預かりたくない、大変おそれおおいことであるが。
「ええと、苦手科目は何だったの?」
 必死に話題を逸らすために出た言葉に、相手の弱みになるようなことを聞いてどうすると自分の中で自分に突っ込む。身分の高い人々は、個人の性格にかかわらず誰にも弱みを見せないものだ。いつ何処で、それが足をすくうことになるか、貴族達との密やかな駆け引きの中で何がささやかれているか、解らなければ生き抜いていけない世界だから。まして皇族ならなおさら。
 ルルーシュでさえ妹を護るためには警戒心の固まりのような生き物だった。
 そんな相手に何を。あり得ない。でもコーネリア総督に怒られるのは勘弁して欲しい。かなり必死で。
「……笑いませんか?」
 それでも、彼女は持ち前の素直さであっけないほど簡単に話題転換に乗ってくる。ちょっと気まずそうに彷徨う淡いすみれ色の瞳が可愛い。この人は何処まで無防備なのか、と軽く頭がくらりとした。過保護と噂の姉姫の気持ちがわかる気がする。確かに、こんな無条件の信頼を預けられて無防備さを放っておくことは出来ないし、そしてその素直さを支える無邪気で優しいまなざしを守りたいと思えるから。
「……もちろん」
 色々なことが頭の中を回りながらも、スザクは何とか頷いた。
 元々人を笑えるような成績を取れていないし、そもそもユフィを笑うなんてそんな。ありえない。
 むむ、と些か逡巡した後、彼女はおずおずと話し出した。何しろ苦手科目があったと話題を振ったのはユフィの方が先だったのだから応える義務がある、と思った。それにスザク相手になら別に何を話しても、ユーフェミア皇女殿下の立ち位置に泥を塗るような真似はするはずがない。なら、ただのユフィで居てもいい。それは、まがりに何も皇族として生きてきた彼女の無意識なスザクへの信頼だった。
 実はスザクの方が全力で話題転換を求めていたなど姉が大好きなユフィは全く気がついていない。皇族としてとても恥ずかしいことなんですけれど、と前置く声がとても小さかった。
「歴史です。年号を覚えるのがとても苦手で、どうしても覚えられないものは試験直前にとにかく必死で暗記して、口頭ではその話題が出てくると他の話題を何とか引っ張り出して」
「……え、嘘」
「いいえ本当です、スザクに嘘はつきません」
 にわかに信じられなかった。つい先ほどまで、彼女は中世の封建制度と宗教者の支配との関連及びその権力の趨勢について実に流暢に語っていた。現代の政治史はともかく、そこら辺のことはさっぱりなスザクにもとても解りやすく雄弁に。
 先日、国立芸術会館でおこなわれた舞台のこけら落としの記者会見で、主演男優と噂になったことをしどろもどろに誤解ですと言い訳していたのが嘘のような弁舌だった。
「吃驚しました?」
 人形のようにこくりこくりと首を動かして頷くだけのスザクがおかしかったのか、少し声に出して鈴の鳴るような声でふふっと年相応に無邪気な笑みをユフィが見せた。
「元々は理系が好きだったんです。だから今しているお勉強の中では経済を特に深く勉強したいなって思ってます。……意外?」
「……文系が得意分野だって、思ってたから」
 理系は素養があっただけに、誰かに習ったりしなくとも何とかぎりぎり平均をいったりきたりだったから、ユフィに教わったことはない。それに理系のスペシャリストなら自分の職場にいるので、デヴァイサーが要らない空き時間、参考書を持って唸っていると姉のような上官が丁寧に教えてくれた。時々上司のからかいが入ってくるけれど。下手に科学、物理の教科書を持ち込むと上司間で変な議論が勃発しかねないためなるだけ数学に限るようにしている。……それでも解らないところは頼ることになってしまう自分が不甲斐ないけれど。
「歴史は、大嫌いでした」
 微笑む姿が酷く儚い気がして、スザクが目を眇める。
 今日は霧雨が降る。晴れ間の間にさあさあと降るから時折虹が覗く。フランス窓の側に白い円テーブルを寄せて、揃いの椅子に腰掛けて、さめたお茶とお茶菓子と参考書と赤点の答案。一つ一つを大切に眺めて、そして空を見上げた薄紫のすみれの瞳。王家に連なる美しい色。
「……どうして?って、聞かない方が良い?」
 年号を覚えるのが苦手だから。
 ユフィは理由を言ったのに、なぜもう一度、その理由を聞き返してしまったのか、あとになって思い返してもスザクには解らなかった。
 酷く真摯な言葉の響きに胸を打たれたように、ユフィが微かに瞳を眇める。白磁のカップに見事に浮かぶ薔薇の花びらはこの世あらざるブルーローズ。白と青のコントラストが美しい陶磁器は、日本の伝統工芸の手法を用いて、ブリタニアの様式に織り交ぜた一品だ。白磁に咲く酷く淡い青薔薇が一輪、ソーサーにはお揃いのひとひらの花びらが一枚。
「争いごとはどうしても好きになれなかったからです」
 オブラートに繰るんだ言葉は。
 戦争が嫌いだったから。
 なんて。
 声に出せる身分にない。
 ユーフェミア・リ・ブリタニア。神聖ブリタニア帝国第三皇女、皇位継承権は兄皇子クロヴィスが暗殺された事により繰り上がりますます重要性が増した。帝国領土は実に、世界の三分の一を占め、資源の豊富な地を直轄地に指定し、巨大な富と権力、圧倒的なパワーバランス決定権を所有する。侵攻によって繰り返された戦争の歴史を彼女はその血に負っていた。ある皇女は市街地に視察に行き、息子を帰せと生ゴミを投げつけられた。ある皇子はテロに巻き込まれ命を落とした。……義兄クロヴィスもその一人になった。クロヴィスが殺されたのは怨まれたからだ。この血が負う絶対的な怨嗟。億の命を負う血族。それがブリタニア皇族であるということ。そこに血を連ねるなら無条件で彼らは戦争の責任を、政権の維持を、国内の平定の責任を、人の命を負う責任を負うのだ。誰かを殺してきた責任を。
 生ゴミを投げつけられたのはユーフェミアであっても全くおかしくない。テロに巻き込まれたのは、ユーフェミアだったかもしれない。だってそれだけの戦禍を起こし蹂躙と支配とを繰り返した。奪われ、踏みにじられたら二度と帰らないもの、国土、行政権、立法権、司法権、言語、文化、民族、習慣、そして魂の誇り。あるいは人名と人命。たくさんたくさん奪ってきた。だから。
 ブリタニアの権力に預かり鳥籠の中に入れられぬるま湯の中愛情を一心に受けて育ってきたユーフェミアにそんなこという資格などきっと無い。
 そんなこと、赦されない。
「でも、ランスロットとスザクは大好きです。だってみんなを守ってくれる、そうでしょう?スザク。それにランスロットは勇敢な騎士王アーサーの騎士だもの」
 購う術のない罪を負う血族の娘は、百万の汚濁を飲み尽くし、皇族の姫としてにっこりと笑った。なぜだかそれがとても哀しくてスザクはどうしても笑い返せなかった。ただ真摯にその瞳を見つめる。
「紫色の瞳は、皇族の、特に直系の象徴だ。……この色は特に強くでたから、他の異母子きょうだいたちには怨まれたけれど」
 軽く肩をすくめて幼馴染みが斯く語る。夏の午後。蝉の声。遊び疲れて膝に眠る妹姫のナナリー。ふんわりと亜麻色の髪を撫でる手は他の何に触れるより優しかった。
 相対して、己の左目を覆うように、苦々しくルルーシュは呟いた。怨まれた、と。
「……ナナリーの目も凄く綺麗だったよ。スザクにも見せてやりたい」
 まるで呪われた血を厭うような声だったのに、その台詞だけが柔らかいのが酷くアンバランスに思えた。
 自分の担う翠は、日本旧家に連なる翠だ。誉れ高きスメラギの血に連なり、代々受け継がれてきた名にしおう色として誇り高くはあれど、恨めしいなど思うことはなかった。けれど、あまりに深く怨嗟を語るルルーシュは、この紫の血に祖国を追われたルルーシュは。
 そして今、目の前でその血の矛盾を一心に飲み尽くそうとする、もう一人の皇族は。
「……ええ、いかなる時にも、円卓の騎士ランスロットは馳せ参じる覚悟です」
 わざと堅苦しい言い回しに、初めてであったとき、お姫様といったスザクの台詞を思い出したのかユーフェミアがおかしげに笑った。
「絵本の中の騎士様みたいです、スザク」
 無邪気な少女は笑ったまま。だからスザクも何とか笑う。冷め切った紅茶は湯気も立てない。
「ほら、だからスザクも大丈夫です。私も頑張ったらできましたもの。それにスザクは軍務と平行してやって居るんですからなかなかはかどらないのも当然です。他の学生はスザクみたいに兼業学生じゃなくて、専業学生なのだから」
「兼業学生……」
 中々斬新に新しい言葉を聞いた気がする。
 この場合、軍務と学校、どちらが主で従なのか。
 ぱらぱらと優しい音がする。フランス窓の硝子を叩いて霧雨が柔らかな水音を響かせる。晴れ間に降る雨は幻想的で美しい。その不自然さが不吉なほどに。
「また、降ってきましたね」
「狐の嫁入りだね」
「……フォックス?」
 ユフィが不思議そうにふわりと流れる髪を寄せて首をかしげた。
「サンシャワーのこと。そう言う地域があるんだ。多分、あり得ないことがおこるって意味じゃないのかな」
 古来から狐は神の領域におわす生き物だ。狐憑きとも、稲荷ともいう言葉が人々の畏敬を示す。西洋では狡猾なイメージが強いそれを畏怖と共に神聖視してきた日本独自の文化。その名称の正式な由来を、スザクは知らない。文化は踏みにじられ、学ぶ機会は自分から放棄した。
「あり得ないこと……」
 この雨が止めば、ぱらぱらと降る水滴がプリズムの輝きを産んで空に極彩色の橋を架けることだろう。
「あり得ないことがおこるなら」
 私もお姉様のお力になれるかしら。スザクの力に、なれるのかしら?
 例えどんなに、皇女として相応しい教養を身につけようと生と死の狭間にいる姉に、どうやって助けになるといえるだろうか。いつもユフィをたった一人安全な宮殿に取り残して、幼い頃からたった一人でユフィは姉を見送った。
 二度と戻らぬかもしれぬ、死に神の往く戦場へ。
 たった一人で征く姉を、たった一人で見守った。
 エリアイレブン。この地にて、見送るものばかり増えた。
 整然と整列する騎士と兵士。軍将校。彼らは全てブリタニアに忠誠を誓い、国土を、家族を平和を守るために、己の命を賭している。
 ユフィはただ、それを見送る。
 戦災者の慰問に、遺族の哀しみを見送り、逝ってしまったブリタニアの兵を見送る。
 見上げた硝子は瀟洒な窓枠で飾られて美しく透明だ。青空に散りばめられる白い雲は千切れたように東風に吹かれて、ただ風の指し示すままに空を行く。流れに逆らわず、そっと。
 この美しい青空の下に雨が降る異様で異質な美しさ。
 あり得ないことが、おこるなら。
 願えるならば。
「おこるなら、何が起こって欲しいと思う?」
 先ほど赤ペンでユフィに直されたノートにシャーペンを走らせて、スザクが静かに問いかけた。ノートを見る伏せた翠色。
 ゆっくりと、視線をあげて、スザクが促すように、少し微笑む。
 幾万の。
 矛盾を飲み込み、そこに必死で立ち上がる、抗う姫はたった一人の女の子だ。自分に向かって気高く命令したとしても、皇族の慈愛に満ちた微笑みを振りまいて民衆に愛情を持って頭を垂れさせることが出来たとしても、大きな波に抗いきれずにもがいているたった一人の女の子だ。
 叶わないことが叶えばいいと願うことを止められない、現実と理想のギャップに苦しんで、夢見ることを止められないたった一人の女の子だ。
 途方に暮れた迷子のような瞳で涙をこぼす青空を見つめている横顔が酷く寂しくて、ぽつりぽつりととぎれがちになる言葉が心の淵から零れるようで見ていられなかったから、すすみもしない外国語に思考を向けようとして、目をそらせるわけもないことに今更に気がつかされる。彼女に向かってそれが出来るほど器用な性格でもなく。放っておいたら何処までも何かに囚われ、沈んでいきそうな少女をつなぎ止めたいと願うほどには大切だった。
「――お姉様の、お力になりたいです」
 それはあまりに思っていなかった告白だった。
「わたくし、わたしはいつも見送るばかり。幼い頃からずっと。戦場に向かう姉を、自分が嫌いな戦争に向かう世界も、無くなっていく命も、今までもここに来てからもきっとこれからもずっとずっと今までずっと、見送るばかり」
 公務をこなしている。出来ることから始めている。解っている。数ヶ月前までたった十五で中等部が最終学歴、どんなに教養、基礎科目が出来ようと上の中。そんな小娘に、たった数ヶ月の突貫工事で政務を任せる人間など居ない。ユフィ自身だって無茶苦茶だと思う。
 皇族の嗜みに秀でているとは言えても、才に恵まれながら幼い頃から努力を重ね研鑽をたゆまず上を目指した兄や姉に比べるべくもない自分。
 何の助けにもなれない自分。
「もうこれ以上、誰かを見送るだけの私はいやなんです」
 姉を、戦場へ送る。止めることなど赦されなかった。コーネリアが強くあろうとした一因は、ユーフェミアのために皇族の中、強い立場を築こうとしていたからだ。
 戦争は嫌いだ。小等部の頃見せられたモノクロームの荒い画像、無声音の中、ぱたぱたと倒れていくブリタニアの国章を付けた兵士達。音がないからこそ怖かった、戦場の轟音が絶叫が、何も聞こえないゆえに、そこにある人々が次々に倒れて動かなくなっていく現実だけを突きつけられることが怖かった。ぱたぱた倒れていくものたちが、固有名詞と歴史を持った、人間だなんて信じられなかった。
 これが戦争です、あなた様は覚えておかなくてはなりますまい。ユーフェミア・リ・ブリタニア皇女殿下。
 家庭教師の言葉は今もユフィの心に突き刺さる。その教師はいつの間にか、恐らく姉が解雇したのだろうけれど。
 でも、あれが戦場の本質なのだと幼心にユフィの中には記録された。
 そんな情景に愛する姉を、送り出しているのかと思うと。
 許せなかった。小さな頃、ユフィを一人にする姉に、怒って拗ねて、行かないでと追いすがった。いつの間にか、逝かないでと何度も口に出しそうになって。
 言えなかった。
 思いとどまるしかなかった。姉が地位を築こうとする理由のいったんは妹にあったから。それだけではないと知っているけれど、それでも姉はユフィのために居てくれた。
 帰ってくるたびに泣きそうになるほど嬉しくて、自分に出来る全てで彼女をもてなした。此処はあの無音の世界ではないのだと、暖かな姉と妹の空間なのだと。
「スザク、あり得ないことがおこるなら私も戦場に行ってみたい。お姉様の隣で、お姉様をお守りしたい」
 それがユーフェミアの最大の願いだ。ルルーシュもナナリーも亡くして、クロヴィスを亡くして。姉が逝ってしまったらユーフェミアはどうすればいい。
 戦争は怖い。無くなってしまえばいい。
 けれどそれが無理だと、この身に負う血がユフィに叫ぶ。己はどんなに出来損ないでも皇族の血筋だと知らしめられた。
 それならせめてあの人の隣に。
「ユフィは、十分、役に立っているよ」
「どこがですか」
 いつの間にか、前を見つめることが出来なくなっていた。ふんわりとしたフローレンスのピンク色は表情を隠し、すみれ色の瞳がかげる。自分の膝をぎゅっと握って唇を噛みしめた。
 出来る公務は慰問や弔問、高官の歓待、国の行事への参列、慈善事業の域を出ない。副総督なんてお飾りだ。どんなに教養に優れても、要はブリタニアの思想を柔らかく宣伝するプロパガンダ。姉が最大限の愛情を込めて育ててくれたユーフェミアはすべからくその素質を備えていた。ブリタニア一皇室の姫君らしく、美しく、教養深く、優しく、正しい人としての価値観を持ち、なお皇族としての威厳も繕うことが出来る姫。
 だから皇帝もシュナイゼルもユーフェミアの副総督着任を許した。エリアイレブンは未だ戦火が絶えぬ地域。武力を持ってしか治められない、その緩衝材に。
「ただ、心配して、見送って、何も出来ずに危機を見ているしかないんです。後ろに護るべき人たちが居るから、姉の命令があるから、決して逆らえず、他の誰かを使って護りたい人を護る卑怯なことしかできないんです」
 ナリタの、あの無力感を生涯忘れることは出来ない。
「ごめんなさい、こんな事、話しても仕方がないって解ってます、でも、それでも」
 小さな顔が上げられる、長い髪が貴婦人の裳裾のようにさらりと靡いた。淡いすみれ色の瞳が儚く瞬いて、真っ正面からスザクを見つめた。
「スザク、私、ナイトメアフレームの操縦資格を持って居るんですっていったら、驚きますか」
 そうしたら、私を連れて行ってくれますか?
 穏やかに優しく小首をかしげる仕草は何処までも無垢で無邪気な少女の仕草で、スザクは微かに息をのむ。それほどまでに。
「ユフィ」
「ごめんなさい、困らせて。でも」
 見つめる翠の光が酷く切なくて、窓の外を見晴るかす。太陽の光は空を青く照らし出し、それでも雨は止まない。今、必死に言い募りながら微笑むユフィにどこか似ている。
「お姉様の力になりたかった、でも結局戦場には連れて行っていただけませんでした。それだけなのに何も出来ない。そして貴方を、スザクをまた戦場に見送る」
 姉の力になりたくて、ナイトメアフレームの操縦技術をこっそりと習得した。姉には驚かれたけれど、怒られて、決して戦場には連れて行ってもらえなかった。
 その自分の変わりに。
 絶望的な戦況の中を変えて見せろ。姉を救え、その我が儘にも似た絶対遵守の命令権を持ってして。皇女の、副総督の、命令権の強さを怨んだ。まだ拙いユーフェミアの上に立つものの意識としても、あの命令がどれほど恐ろしく成功率の低いものか解っていた。死にに行けと同義であるとどこかで解っていた。
「私は、これからも、スザクを、見送る」
 その声がまるで泣いているようで。酷く穏やかに、花の笑みで微笑む少女は目の前でたおやかに座って居るのに。午後の太陽は美しく世界と少女を染めていた。きちんとそろえた足はドレスの裾につま先までかくし、波打つ袖が白く傷一つ無い手は慎ましく膝の上にそろえて、白い瀟洒な飾りのある椅子に座る少女の姿は一幅の絵にも似ていた。
「ユフィは、どうしてランスロットに命令をくれたの?」
「……スザク?」
「どうして?」
 ナリタでの、攻防。護るべき民。死に急ぐ事態の急変。姉の危急。総督キングを取られるわけにはいかない。スザクの強い翠の瞳。
「私には出来ないと思ったからです」
「違うよ」
 穏やかな声は硝子を叩く雨のような優しさだった。
「違いません。私には何も出来なくて、でもスザクだったら」
「そう、そうしていつも貴方は僕を信じてくれた」
 今度こそ、息の根が止まるように。
 紛れもなく微笑んでいた少女の顔が泣きそうに凍り付いた。
 にこりと笑う翡翠の色が雨に洗われた深緑のようだった。
 
 
 


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