ユフィにだけ許されたわがままだ。これまで、わがままを言っているつもりなんか無くて、でもどうしても足手まといになってばかりで、歯がゆいばかりで、足掻くように行動を起こして、そうやって必死になった結果がやっぱりわがままとか押しつけばかりになってしまって。一度ふさぎ込んだら、何も言えなくなることが解っていたから、それだけはすまいと本能的にユフィは前を向き続けた。
 その彼女がほんの少しだけ。例えばバルコニーの上と下で目があったとき。例えば公務と軍務がどちらも休みの時。何しろ特派は出撃任務が極端に少ないから、研究者でなくデヴァイサーであるスザクのお役ご免の時、スザク、と呼べば一緒に話すことが出来るようになった。
 危急の時を除けば、否、除かなくともイレブンと皇女のあり得ない組み合わせだという事にスザクがしきりに恐縮する事をユフィは身を以て知っているから、小さな頃から気心の知れた侍女一人だけを控えの部屋に残して天気の良い日は人気のない東屋、離れ、そしてバルコニーで、雨の日は静かな図書室で、雨音のする窓辺で、学校の終わるスザクを待って。スザクにとってはわがままでもなんでもないこと、けれどユフィにとってはこの上なく勿体ない、贅沢な、わがままな時間を独り占めにするようになった。




Eir.2



 ブリタニアにいた頃は、戦場から帰ってくる姉のためにせっせと彼女を労る準備をして、戦姫の帰還を待ったものだ。姉姫のお気に入りのお茶、宮を仕切る料理長からごめんなさいと謝りつつ厨房を奪取して作ったユフィの手作りのお菓子、学校での最近の出来事、綺麗なお花、座り心地の良いカウチ、居心地良く宮殿内を取り計らって、ただ大好きな姉のために出来ることだけをした。
 姉に守られている自分が出来る些細なこと。
 例えば、ユフィには想像もつかない戦場という過酷さから少しでも姉姫コーネリアを癒すこと。
 例えば。
「でも、流石にこの点数は酷いかも」
 うーんと唸りながら猫っ毛の髪にくしゃりと手を当ててスザクが唸るのに、くすりとカップの影でユフィは唇をほころばせた。
 ユフィにとって贅沢な時間は他愛もない話で占められる。例えば今日作ったお茶菓子は手製だといえばものすごく吃驚したスザクを見ることが出来るし、アーサーに噛みつかれた傷を見ては包帯や絆創膏を常備するようになった。楽しい友達のことを話してはユフィはスザクに笑わせられて、その人達から勉強を教わっている事を聞いて素直にユフィは喜んだし、安心した。
 スザクには友達が必要だ。自分には学友は居たけれど友達と呼べる人間が居たかどうか、今になっては首をかしげるばかりだ。無邪気で無害で、他の兄妹達と比べると突出したところのない第三皇女は皇位継承権がある分扱いに困るらしい事は解っていたから。自分はそれでも構わない。持って生まれた特権に付随していたエフェクトと言うだけの話。
 でもスザクは違う。本当なら、軍隊にいるはずなんて無かった。いや、日本が残っていれば父を追って政界に行くか、荒れる世界から国を守るために軍将校への道を歩んだかもしれないが。ブリタニアが日本という国名を地図から消さなければ、絶対王政の自分とは違えど、一国首相のスザクと自分との立ち位置はそうそう違いはなかったはずだ。それが、小等部にも満足に通えない有様。全て戦争のために。
 そのためにスザクは孤独な道を選んだ。故国の誇りを持ちながら、踏みにじられる道を歩んできた。軍という過酷な状況に自らを追い込んで頑健な自分を作り、軍人として安定した精神を鍛え上げた。その裏に不安定な心を持ったまま。ユーフェミアは知っている。
 くるるぎすざくはふあんていだと。
 だから、スザクを解ってくれる人が一人でも多くいればいい。自分じゃなくても良い。勿論ユフィだってずっとスザクのことを見てる。大好きなところを見つけるたびに嬉しくなって、寂しいところを見つけるたびに哀しくなる。スザクが不安定になるたびに、ユフィも不安になる。だから、一人でも多く、この人をつなぎ止め支えてくれる優しい人がいてくれればいいと心から願ってる。
 だから、スザクから学校の話を聞くのはとても楽しくて嬉しいのだ。
 そのスザクが、ぽつりと零した言葉。
「まだまだ勉強に追いつけなくて、みんなに迷惑ばっかりかけてるんだ」
 出来ないことばっかりで途方に暮れた子どもの顔。年相応の少年の横顔に、ユフィは不意に嬉しくなった。また一つ、共通点を見つけた。学生だったユフィが同じように苦手な科目に悩んでいた頃と。同じ。――姉に護られてばかりで、全然追いつけない、今の自分と同じ。
「スザク、それは違います」
「え?」
 ぱちっと大きな瞳が瞬いてユフィは断言した。
「迷惑じゃなくて、ありがとう、です。今度そう言ってご覧なさい」
 ぱちっと瞬いたのは今度は緑色の瞳だ。本当に吃驚した顔で、それから間をおいてぎこちなく頷いた。満足げに頷いたユフィは、その次にスザクと話をしたとき、律儀に報告を受けた。
「そんなこと言ってる暇があったらフランス語くらいマスターしてみろって言われたよ、凄く照れた仏頂面だったけど」
 苦笑の中に親しみと、隠しきれない嬉しさを混ぜての報告に、だから言ったでしょう、とユフィは得意げに笑って見せたのだ。
「その方は優しくて照れ屋なんですね」
「昔から、とても」
 昔の知り合いが、と言っていたその人に感謝する。ありがとう、この人を好きになってくれて。
「他の方々はなんておっしゃって?」
「今更過ぎることを今更言うな空気を読めってってみんなにはやされて、会長には叩かれた」
「叩かれたのですか?」
「生徒会の企画書を丸めたやつで」
 手元のテキストを丸めてこんな感じ、と示すとまあ、と口元を抑えたユフィに本当に楽しそうにスザクが笑う。きっと姉と自分のコミュニケーションと同じなのだ。くすぐったりじゃれあったり。そういう暖かな掛け替えのない時間。心の底を掠っていた棘が柔らぐのを感じる。独り善がりの押しつけだとずっと思っていた、自分の失った掛け替えのない時間を享有して欲しい、ただその一心だった。彼が歩んできた道は生中な覚悟では歩めない、そしてこれからも歩んでいけない。日常の、些細なこと全て後回しにして、己を削るような生き方を選ぶ辛酸を安穏と護られた子どもだったユフィには知る術もない。己の価値観を押しつけているだけのようで、心苦しかった。だから、こんな風に笑ってくれて、本当に良かった。こんな風にスザクが笑ってくれるならば、ユフィには自分の押しつけだけではなかったと解る。
 叩かれたらしいスザクのふわふわした癖毛の髪に手を伸ばして撫でると、一瞬スザクが硬直した。翠の瞳がぱちっと瞬き、アーサーを不意打ちで撫でたみたいな顔をする。こぶになってないかしら、と確かめたあとどうやら大丈夫なようで、よかったとにこりと笑うと、やっぱり吃驚して固まっているスザクとばっちり目があった。
「ゆ、ふぃ?」
 急にどうしたのか?と顔に大書しているスザクに、ユーフェミア皇女殿下は王国一の微笑みを見せた。皇族の微笑みはシュナイゼル殿下を筆頭に、第三皇女ユーフェミアも圧倒的な人気を誇る。たおやかな外見。花のようなかんばせ、そしてまさに、美しく開く花のように艶やかに、しかし何処までも優しく穏やかに微笑むブロマイドは男性女性を問わず臣民の憧れの的である。シュナイゼル殿下のブロマイドは圧倒的に女性に人気を博しているに対し、ユーフェミア皇女殿下は老若男女を問わない。学生という身分故に顔出しをしていなかったにもかかわらず、メディア関連の仕事を一手に引き受け、しかもそれが大衆に大歓迎される理想を形にしたお姫様だった事から表舞台に立った途端に彼女は国民のアイドルになった。現実には空から降ってくるお姫様で、そのことを知っているのは多分自分と彼女つきの古株の侍女、ジョアンナさんくらいなものだろう。姫の名誉のため、忠義もののジョアンナはこの秘密を一生墓の中まで持って行くだろうし、国民の夢を壊さないためにスザクもジョアンナと同じ覚悟だ。
 ――この秘密を知っているのは、自分だけでいい。
「スザクはフランス語を履修選択しているのですね?じゃあ、頑張ってやっちゃいましょう」
 皇女殿下の花の微笑みと名高いブリタニアの生きる国宝をまともに目にしてスザクはやっぱり吃驚したアーサーみたいに固まった。
「は……え?」
「お手伝いします」
 この微笑みを前に差し出される好意に逆らえる人間をリストアップしようとしてみた。コーネリア総督。……風の噂によると妹姫を目に入れても痛くないほどの溺愛していると有名。ルルーシュ。兄の威厳とか。……ナナリーにあれだけ甘いのに?でも皇族同士の複雑な絡み合いとか。ほら一応こう、複雑で特殊な家庭環境な訳だし。……だめだ、ついこの間、ナナリーはユフィに会いたいと言っていた。ナナリーが好きならルルーシュの意見なんて通らないも同然だ。そう言えば幼いあの頃、このお姫様と出会ったときと同じように迷いネコが家の敷地内に入ってきた事があった。これまた同じように、前足に怪我をしていて、黙って顔を見合わせた首相子息と大国皇子は何とか捕縛を試みて、大反撃を受けた。怪我をしている生き物を頬って置けないとの優しい心からの少年達の挑戦は、最終的には勿論意地の張り合いになった。引っかかれたルルーシュをナナリーが心配してユフィ姉様がいらっしゃればよかったのにぽつりと零した。ナナリー曰く、彼女を嫌うネコは存在しないとまで言わしめた『ユフィ姉様』。そんなの嘘だ、とルルーシュと一緒になってさんざん迷いネコに引っかかれたスザクは言い返したが、逆にナナリーにそんなことないもんネコはユフィ姉様が大好きなんですと泣きそうに反論され、ナナリーを泣かすなユフィを馬鹿にするなバカスザク!とルルーシュにそれは盛大に罵られたことがあった。しまった、シスコンは健在だ。いやいや、妹好きは健在だ。じゃ、じゃあナナリーは?ナナリーが哀しそうな顔をしたらユフィも止まるのではないだろうか。……でも、ユフィが微笑んで、大丈夫よナナリーとかいって頭を撫でてもらったら、例え兄に対する満面の笑顔は見れなくとも、おそらくナナリーは不安を溶かすだろう。つまり、この三秒間で彼女の笑顔の好意に逆らえる人間有力候補兄妹編は残らず全滅したわけだ。シュナイゼル殿下はどうなんだろうと真剣に考えるが、判断材料はとかく少ない。でもルルーシュと同じ血なわけだしなと思うと、どうにもこうにも。そんなスザクの現実逃避は、下方からひょこりとのぞきこまれた小さな顔と大きな薄紫のすみれ色の瞳に遮断された。
「で、でも」
「私も出来る限りしますから、頑張りましょう!」
 そんなにっこり笑って言われたら畏れ多いとか言っても無駄なことは解っている。これは『ユフィ』の言葉だ。『皇女殿下の御言葉』ではないのだから。どうやって断って良いか解らない。そもそもスザクは女の子の押しに弱い。断るときは断る、きっぱりと。それは出来る。けれど決して自分の意に染まないことでなく、しかも相手は心のそこからの親切心からわざわざ申し出てくれているのだ。
「……うん、じゃなくて、はい、よろしくおねがいします」
 結局、折り目を正して、言える事なんてそれしかなかった。
 
 
 


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