真っ赤な小テストの答案を前に頭を抱えるスザクの前でユフィは細い指を伸ばした。この白い指先が真っ赤な答案の上を滑っていくのにはとても抵抗があったけれど(赤点を可愛い女の子に見られて抵抗がない人間は居ないと思う)ユフィが指し示す場所は本当に的確で、彼女は勉強のできがとてもよかった事を示唆していた。



Eir.1



 軍務につく際に基本的な物理、科学、生物、数学などの理系科目は必修だった、あとは語学に秀でていなければならない。幼い頃は勿論日本語を国語としていた日本人にとって、己の言葉をブリタニア国語に変え、しかもそれを新たな『国語』とするのは屈辱であった。反感を覚えなかったといったら嘘になる。けれどスザクは積極的にそれらを吸収していった。日常会話や読み書きは勿論、軍隊用語、専門用語も。
 だが、それらはあくまで基本的なことかつ、特に専門分野に突出した学術であったことは否めないわけで。兵士は現場で確実に任務をこなすことを至上とされるから、上の判断に関わる政治や歴史などは全く学ぶ機会はなかった。それでも、軍に入ってからは特に積極的に世界の情勢などは仕入れていたけれど。
 アッシュフォード学園は主に貴族の子弟が所属する上流階級の学校法人だ。そこに求められるのは何においても一般的より上であること。勉学、運動は勿論、一般教養、マナー、話術、社交界にでても不自由しない幅広く豊富な知識。
 そんなのは自分に求められても無理である。救われたのは、後者は内申点に大きな影響を与えはするが(特に話術、マナー、社交性)単位習得には直接の関係が無いということだ。運動は全く問題ない。じゃあ、とりあえず目下の敵は勉学で。
 基礎的な理系科目はクリア。『国語』もこれまでの成果が実ってクリア。教師には情緒のない文章だといわれたが自分の作文に情緒を求めるのが間違っている。何しろこれまで書いてきたのも読んできたのも軍務に関する文章だったわけでシェイクスピアの詩の暗唱とかその文化的歴史背景の考察とか、凄く、無理。とりあえず単位がもらえるだけ御の字だ。比較的点数のいい理系科目はともかく、他の科目がほとんど赤であってももう就職しているのだから(それが恒久的に生活を保障するものであるとかはかんがえない、何しろ市民権があるとはいえ現実は被差別民である。そも、職業軍人に安全な日常など期待するのは大間違いである)とりあえず赤だろうが何だろうが勝てば官軍。単位が取れればそれで良い。……勿論最善を尽くすのは当然ではあるけれど。特に感謝しなければいけないのは生徒会の面々だ。みな、最終学歴が小学校高学年の自分にとても根気よく付き合ってくれる。それから、特務の偉いけれど駄目な人の面倒を見ている軍人と言うには優しいお姉さんと、最後に目の前のお姫様。
 流石に今まで国随一の最高水準の教育を受けてきた淑女なだけはある。彼女がアッシュフォード学園に転校してきたら途端学内上位に躍り出るだろう。
 環境がものをいう、と誰かは慰めてくれるかもしれない。だが環境だけでは人は大成しない。最後にものをいうのは己の努力だ。人事尽くして初めて天命を待つことを許される。
 だから、スザクは今大勢の軍人の中でもトップに位置できる、スペシャリストなのだ。
 だが、それにしたって今この目の前に鎮座ましましている赤い紙はないだろう。
 穴があったら入ってでてきたくないなと考えながらも、必死でシャーペンを動かす。動かす先から、とんとんと小さな指先が示す先を見てむむっと唸った。
 ただいま絶賛ブリタニア高等教育必修指定外国語の赤点答案へ復讐中である。いや、復習というのが正しいのだが、スザクの中では復讐という言葉にだんだん傾きかかってきている。
 ブリタニア指定の必修外国語科目はEU諸国の幾つかの言語を学ぶよう定めている。ユーフェミアは必修以上の外国語科目を好成績で修了していた。皇女たるもの、語学に堪能でなければ各国要人と会食も出来やしない。小さな頃から叩き込まれましたとにこにこ笑うユフィは次々スザクの文法の間違いを指摘する。笑顔のまま、桜貝のような指先はびしびし辛辣だ。容赦がない。
「ここまで終わったら休憩にしましょう?」
「申し訳ありません、わざわざ自分のために……」
 赤点の上を滑る指先がぴたっとスザクの口を止めた。
「スザク」
「……ごめんなさい」
 申し訳ありません、をごめんなさいに訂正するとユフィがにっこりと満足する。
 その笑顔に毒気が抜けて、スザクはくしゃりと苦笑した。
「ごめん、じゃないね。ありがとう。ユフィ」
「どういたしまして、です。気にしないでスザク。スザクは頑張って居るんですから、絶対大丈夫」
 ユフィはすっかり冷めてしまった紅茶に口を付けながら嬉しそうに頬を染めた。やっぱり、申し訳ありませんより、ごめんなさい。ごめんなさいより、ありがとう、の方が、たくさん嬉しいのだ。
 冷めていても香りの強いフレーバーは口の中に鮮やかに広がった。姉がくれたブリタニアから取り寄せた紅茶だ。ユフィが大好きな淡い水色と爽やかな香り。
 公務の何もない日なんてあり得ないけれど、午後がまるまる空いた日というのはとても珍しい。自分がお飾りの証だけれど、人形は人形なりに奥にいるより顔を見せることが仕事だからとにかく人前に顔を出す公務が多い。公共施設への訪問、国立美術館の記念式典、皇族に関わる儀式。姉姫たるコーネリアが武力と確かな経験、手腕で国を治めるとしたら、そう言った強い部分を柔らかなイメージにするためにメディアにわざわざ映るような仕事が妹姫たるユーフェミアには多い。
 その仕事の性質上、人前に出る時間の一切を断ち切る休息時間を作ることを、姉は部下に厳命していた。常にメディアに曝されているということは人が生きることに必要なプライベートを削ること。それは個人を犠牲にする生き方だ。皇族の義務とはいえ、コーネリアはユーフェミアにそんな事はさせたくない。
 そうやって、時折ぽっかりと空く月に二、三度、あるかないかの休日や半休を、ユフィは姉と過ごしてのんびりとくつろぐことに決めている。アリエスの離宮に良く似たこの極東の箱庭はとても居心地が良い。居心地が良すぎて、幼い頃の思い出が切なくて哀しい。
 そんなたまの休日の会う人リストに、スザクが混ざるようになったのはほんの最近のことだ。自分のスケジュールには融通が利いても、姉のそれは分単位。特に総督についてからは、戦場で各国を平定していた頃より、忙しくなった気がする。何しろ総督という任に、終戦という文字はない。だから長期休暇という文字もない。
 それがどうしても寂しかった。どうしようもない寂しさも、空だけは隔てることが出来ないから寂しかったら空に祈るんですよ、と優しく頭を撫でてたった一人、アリエス宮に預けられコーネリアに置いてけぼりにされた小さなユフィに優しい貴婦人はささやいてくれた。声の響きを今も覚えている、穏やかな風のような、気がつけば空に浮かぶ明けの明星のような。在りし日の思い出に誘われるように窓辺やバルコニーから空を眺めるのがいつしかユフィの癖になった。その日も同じように、爽やかな風の吹く優しい午後だった。
 じっとフランス窓から続くバルコニーから外を見上げて居たら偶々、本当に偶々だ、全く他意はない。スザクが、その下を通りかかったのだ。そのバルコニーは、偶々、ユフィが空から降ってきてスザクが軍人人生全てを賭けて受け止めたという伝説の現場であったりして。(実際にはそのバルコニーのすぐ隣に作られた小窓の方であったけれど)
 じっとバルコニーから外を見つめるユフィに気がついた、じっとその下から妙に緊迫した、硬直したスザクの視線を感じた。不思議に思って薄紫の瞳をぱちくりと可愛らしく瞬かせ、それからユフィはにっこりと笑ってスザクに手を振って見せようと手すりに手をかけて軽く身を乗り出した。
「ユフィ!!」
「はい!」
 あまりに大きな声に吃驚しておもわずかしこまった。
「そこ動かないで今いくから!!」
「え」
「うごかない!」
「は、はい!」
 ぴしっと直立不動で胸元で手をぐぐっと握りしめて居るとにこりと一瞬スザクが笑った。スザクが笑ってくれるのは凄くユフィにとっては幸せなことだ。
 だが、なぜだかこの笑顔の異様な迫力は何だ。一瞬閃いた笑顔と碧瞳の強い光の残像を残してもはや笑顔の残骸も残さずさっとスザクが身を翻した。そのまま全力疾走。低い庭木を飛び越えて芝生から建物内へと続く遊歩道へ、石畳を脱兎の如く走り、ユフィの視界から消えた。その間も硬直が溶けずにただひたすらに固まっていると、ものの数十秒後、ばたんと背後のフランス窓がふるえる勢いで開かれた。びくっと震えてでもなんだか怖くて動けない。心臓がどきどきして、いつもスザクに会うときのふわふわする気持ちが今日はなんだか微妙に違う。きっと走り去り際に見たあの目の笑っていない、笑顔のせいだ。強い強い碧の光の。
「ユフィ」
「スザク、早かったですね」
「久しぶりに全力で走りました」
 それにしてもここからあそこまで、飛び降りる以外の方法で数十秒でたどり着ける距離ではない。
「スザク、此処は騎士候以上専用の」
「護衛の方には見つからないように来ました」
 どうやって、なんて、聞けない。スザクは凄い軍人さんだ。きっと銃弾だって見切ってしまうに違いない。
「見つかってしまった方にはやむなく皇女殿下が空を飛びたいといいながらバルコニーから離れないので危険を感じたと言ってきました、快く通していただきました」
「スザク!」
「わたくしの姫様ならやりかねません、とのことです」
 それは多分、ユーフェミアが小さな頃から仕えてくれている侍女だ。
「ジョアンナ!酷い、そんなことしません。いくら私だってもうおとぎ話を信じる子どもではありません!」
 ばっと振り向いて弁明すると勢いよくフローレンスピンクの髪が靡いた。その見事に弧を描く柔らかな様にため息をつきつつ。スザクは頭を抑えた。
「……自分の他にも前科がおありでしたか」
 語るに落ちた。
 きゅう、と顔を俯かせぷるぷると震えながらユーフェミアは胸の前で固く拳を握り合わせる。
「……黄色い煉瓦の上で靴の踵を三回鳴らすと空が飛べるんですっ」
「だからって実行しないでください、重力をご存じでしょう」
「勿論です、重力が無くちゃお花畑でお姉様に膝枕してあげることも出来ません」
 ばっと顔を上げ、胸元に強く手のひらを押し当て、力強く皇女殿下が力説した。皇族の兄弟姉妹は何でこんなに仲がよいのか。いや、皇位継承権を巡る争いや廃嫡をかけての陰謀など、様々な血なまぐさい事実を知ってはいるのだがルルーシュとナナリーしかり、この姉姫と妹姫しかり、こんなに平和で良いのだろうか。
 そこでスザクは内心、おや、と首をかしげる。同時に全力で脱力した思考を逸らした。もう一度ユフィをじっと見る。そう、自分は怒っているのだから。
「それで、今度は何処に行かれるおつもりですか?」
「本当に、違います」
 赤くなってスザクをふくれっ面で見ていた小さな顔が、白い額が、薄い光彩のすみれ色の瞳が裾の長いドレスのひだを見つめて俯いた。今日は白を基調としたオレンジのアンサンブルが美しいシンプルなドレスだ。ユフィの普段着の一つでもある。踝までを隠すスカートはたっぷりとひだを取って軽やかに波打つ。すとんとストレートなラインの袖。アクセントに腰に幅広のサテンの鮮やかな色の美しいリボン。日に透けるとオレンジにもピンクにも見えており重なる様が美しい。小さな背をおおう長い髪が細い肩を隠して流れる。
 怒れば怒るほど礼儀正しく他人行儀になる。本当に、もっと必死に怒ると呼び方も口調も変わるけれど、でもこうやって遠回りにせめられるのは一番堪えた。どちらもユフィのためを思ってのことだとは知っているけれど。だって本当に誰かのためを思うなら、駄目なことは駄目だと叱責し、厳しいことを言って叱るのが愛情だから。本当にユフィのためを思っていなければ、ユフィが嫌がる態度なんて取れない。貴族達はいつもあまやかな笑顔で致死の毒を盛ってくるから。
 流れる裾から少しだけ小さなつま先が覗く。今日は普段着だから盛装のようなパニエは付けていない、ひらひら頼りなく揺れるドレスの裾から小さなつま先が見えた。本当に、飛べたらいいのに。
 皇族という逃げられるべくもない、巨大な蛇の腹にも似た道。一人、歩くことすらまともに出来ない駄目な自分。
「……ユフィ?」
 さっき、自分を必死になって止めようとして、敬称を忘れた呼び声が聞こえてユフィはそっと顔を上げた。本当に怒って、心配させて、焦らせた。小さな顔はまだ俯き加減で、いまだ真っ直ぐにスザクを見ることが出来ずに顔が上げられない。長い髪が小さな頬を覆い隠してしまうのを、そっとスザクの手がすくって、かがみ込んで視線を合わせる。
「本当、です」
 じっと、こんどこそ瞳を合わせて唇をきゅっと結ぶと、スザクの瞳がふんわりと和んだ。
「うん、信じる」
 破顔、ではないけれど、本当に、日差しみたいにふんわりと笑う碧の瞳が日差しの光を透かして見事だった。
 緑色の瞳は恋人の条件にも挙げられるが、ユフィはスザクに出会いその理由を初めて理解した。知ってはいても、体感するのとは訳が違う。緑色の色素は太陽の光を複雑に反射する特性を持つ。最も光を反射しやすい色素の一つで、緑色の中に日差しが入り込むと複雑な光彩を放ち、様々な色が一瞬深く映り込む。あたかも万華鏡のように鮮やかな色を散りばめる。その様が酷く美しいのだ。今まで緑色の瞳をした人間を見なかったわけではない。きっとそれらの人々の瞳も、同じような特質を持っていたことだろう。けれどユフィは初めてだと思った。でもこの東の果ての国で、こんな綺麗な碧に出逢った。こんなに素敵に笑う人に出会った。暖かな思いを瞳と笑顔で伝えてくれる人だと感じた。
「……はい」
 翠色の瞳がユフィの言葉に柔らかくなった。信じる、という言葉がこれほど嬉しいと思ったのは、ずっとお人形だった自分、お飾りの自分の言葉を真実として、真っ直ぐ受け止めて、信じてくれるから。だからこの瞳に私は常に誠実に、応え続けなければいけないのだ。
 さっきまで怒っていたスザクの敬語が、柔らかな声の響きなったのにユフィがくしゃりと安心したように笑う。
「でも、スザクが居るなら飛んでいっても良いですね」
「………………止めてください殿下」
 本心から出た言葉は、一気に脱力したスザクの言葉に遮られ、あら、とユフィは首をかしげた。掛け値無しの本音なのに自分は何を間違っただろうか。
「だって、スザクがいるなら大丈夫です。私は自分から会いに行きたい」
「いけません」
 間髪入れぬ返答にきゅっと柳眉が寄せられる。
 どうして、 貴方は必ず私を護るのに、例え私がいやといっても。
 すみれ色の目が言っている。その信頼の所在は己に愚直なまでに真っ直ぐ捧げられていた。スザクが手を差し伸べないなんて、絶対に疑っていないのだ。この歪んだ自分をどうしてそこまで信じられるのか。この危なっかしい女の子をどうして一人きりにさせておけるか。だから。
 小さな口から反論が返される前に、スザクはやっと、敬語を取っ払った。
「そう言うときは、呼んで。そうしたらユフィが居るところ、何処にだってきっと行くから」
 美しい紫がびっくりして見開かれた。何かを言いかけて小さな唇が開かれ、とじる。
 それではまるでわたしのきしみたい。
「でも、軍務があるときは駄目です」
 零れかけた言葉、飲み込んで。
「じゃあ、出来るだけ頑張ってすぐにそこに行くから、何処にだって行くから」
「……凄く凄く遠くにいたらどうしますか?ランスロットに乗って?」
「えーと、ロイドさんが許してくれるなら」
「スザク、白馬の王子様みたい」
「え」
 ユフィに視線を合わせて顔をのぞき込んでくれる困り顔のスザクの額に、ちょこんと小さな額を押しつけて嬉しくて仕方が無くて、笑顔がこぼれ落ちた。
 
 
 


next.
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*神聖ブリタニア帝国第三皇女ユーフェミア付き筆頭女官ジョアンナさん。父は没落子爵。借金の形に貴族に嫁がされ売り飛ばされそうになった当時御年六歳。お見合いに行けといわれた舞踏会でお見合い相手ではなくブリタニア第三皇女ユーフェミア殿下とばったり運命的な出会い。ユフィと仲良くなりお姉様に是非お会いしてくださいませ!と皇女にナンパされる。その後コーネリア付き女官と偶然知り合いだった事実が発覚、ジョアンナさんの実家の内実をしったコーネリアがユフィ付きの女官として召し上げる。以後、ユフィに臣下としても、学友としても篤く遇されたことに恩義を感じ、ブリタニア皇女二人に忠誠を誓う。メイド服が戦闘服。私生活面でユフィの采配を忠実に補佐しエリア11にも当たり前ですとばかりにお引っ越ししてきた。主従の壁を乗り越えてくれないのがユフィは寂しいらしいがそこら辺は臣下として当たり前の心得。ユーフェミア皇女殿下に手を出したくば私の屍を越えて行きなさいを座右の銘とする。コーネリア姫からの信頼も厚い。柔道剣道合気道空手有段者、勿論帯は黒。その他フェンシング乗馬、重火器類の扱いもこなす。女官の嗜みと言い切る容姿端麗才色兼備のスーパーメイドさん、違う、女官さん。イレブンとして、また皇女に近づく悪い虫として枢木スザクを非常に警戒していたが皇女脱走時のことをそれとなく問いつめたとき、ものすごく遠い目をして枢木准尉が、「………………空から、降ってきたんです……………………」と語ったことで一気に同情票を集め株価上昇。またその物腰からただ者じゃないことを悟り皇女殿下の背中を護るに値する力量を認め、以後皇女に何か事がおこったらたかろう、じゃない、利用しよう、でもない、頼ろうと思っている。ユーフェミアが篤い信頼と好意をスザク寄せるにあたり、以後二人の現状を見守る姿勢をつらぬく。天然同士だから発展はしないと確信している処、ユーフェミア皇女殿下の腹心として主君を誰よりも理解しているかもしれない。

なんてことを考えるのがとても楽しくてごめんなさい。(俯き)