恋心すら柔らかく。



きみにきす



 ずっとシャーリーと一定の距離を置いていたルルーシュを気にし始めてから、その距離がいつの頃からか、段々と縮まっていくのをシャーリーは嬉しいと思っていた。
 初めてルル、と呼んだときの恥ずかしさとか混乱ぶりとか、切なさとか、今でも覚えているけれど、それ以上に印象的だったのはあの紫の双眸だ。紫電の烈しさが壊れそうなくらいに哀しげに、切なげに、優しくなって。今思うと、お互いに、たった一言にどうしてあんなに揺れたんだろうと不思議に思うくらいに。
 自分の席にカバンを置いたまま、シャーリーは隣の椅子を引いた。ルルーシュの椅子だ。すとん、と腰を下ろす。
 結論。このままにしておけない。けれど寝かせてあげたい。なら起きるのを待っている。人の気配が在ればルルーシュは敏感に目を覚ますだろうから。そして目が覚めたときにおはよって言ってあげる。そしたら、きっとルルーシュは寂しくない。
 しかし結論を定めてしまったはいいものの、これってうざくない?大丈夫?嫌われない?とぐるぐると頭が回り始めてまた思考回路が迷宮入りする。恋する乙女は複雑なのだ。
 ぺたっと座った椅子には普段ルルーシュが座っているもので、シャーリーはそれだけで嬉しくて舞い上がってしまう。そんな風に単純なのに、一端嫌われるかも、なんて思うともう臆病になって仕方がない。自分はこんなんじゃなかった、もっとさばさばしててちっぽけなことに一々ぐだぐだ悩む方ではなかったはずだ。
 ルルーシュに会ってからシャーリーは変わった。そんな自分が嫌になる。でも、おおむね、好きだった。だってルルが好きだからだ。馬鹿みたいに好きだ。
 窓枠に腰掛けて落ちる黒髪に額を隠して、目を閉じている顔を遠くからじっと見つめる。頬が熱を上げるのを自覚しながら、シャーリーはそっと溜息をついた。
 門限破りなんて気にするものか。今ここで、こうしていられるのなら、来月のお小遣い天引きされたって構わない。
 どうにも落ち着かない思考を別方向に向けるべく、数学の続きでもやってようかなとかシャーリーは自分の椅子の上にある筆記具とノートを引っ張り出した。テーブルの上に、チェック柄のプリントの可愛い下敷きを挟んだノートをぱらっと開くと数字の羅列。関数のグラフが曲線を描いてる。こんな風に数字の羅列を積み重ねても、心なんて割り切れるものではない。だから苦しいけれど、シャーリーはそれで良いって思っている。心を数字みたいに割り切れたら楽だろうけれど、暗数のように解らない、グレーゾーンが心の中には絶対必要だと思うから。
 シャーペンの芯をかちかち押し出して、テキストを開こうとする。その時、ちらっと見えたルルーシュのまぶたがぴくりと動いた。
 あ、起きた。と思って身体が固まる。どうしよう、なんて言うんだっけ、それともまだ起きてない?もしかして起こしちゃった?
 ばくばくと心拍数が上がる中、どうしようどうしようと考えながらもどうしようもないという結論しか出てこなくてシャーリーは落ち込んだ。
 しかしルルーシュは瞳を開けない。凍り付いた空間に、時計の針の音だけがかちかちと響いてる。秒針が何周しただろうか。その頃にはシャーリーだって流石に気が付いてた。
「…………ルル、起きてるでしょ」
 多少、低い声が出た。それでもルルーシュはまだ無言だ。窓枠に身体を預けて目を閉じたまま。ああ、もしかして、一人にして欲しかったんだ。
 やっと答えを見つけて、しまった。
 途端、泣きそうになった。
 ぱんっと勢いよくシャーリーはノートを閉じる。テキストも閉じて、乱暴に重ねた。ぐだぐだ悩んでた自分の葛藤とか、考えてみると本当に愚かでどうしようもない。緑の瞳を瞬かせ、生徒会室のドアと窓辺を二回視線が往復した。そしてシャーリーは迷わず足を、出口ではなく、ルルーシュの方へと進めた。
 一歩二歩三歩四歩、歩数を数えながらシャーリーはすたすたとルルーシュのいる窓辺へと近づく。それでも最後の数歩は足音を殺すように密やかになった。
 眠ってるアーサーに近づくときのスザクとかはこんな気持ちなのかもしれない。
 噛みつかれてばかりいるけれど、何か、本当に、命みたいに大事に撫でるときだけ、アーサーはスザクの手に噛みつかずに大きな硬い掌を甘受する。目を閉じて、愛おしい思い出を噛みしめるように。
 そう言うときのスザクはとても遠くを見ていて、そして柔らかな切なくなる顔をしている。ああ、恋をしている。素直に思えた。そんな表情をさせる誰かは、きっと幸せだろうと思った。
 シャーリーも、あの手の優しさを精いっぱい思い出して、何より、ルルーシュに籠めた思いの全部をのせて、そうっと手を伸ばす。触れた指先で黒髪が揺れる。髪先を梳く様に、触れてそろっと額を撫で上げる。
 噛みつかれませんように、嫌われませんように、スザクに撫でられたアーサーみたいに。
「……たぬき」
 顕わになった白い額に静かに触れながら、ぽつんと呟いてやると、漸くルルーシュの長い睫が震えて、ゆるゆると紫電の瞳が現れる。双眸は眠気に微睡んでいることもなく、どことなくばつが悪そうだった。
 どうしてかとても満ち足りた気持ちになって、くしゃっとシャーリーが笑った。
「おはよ、ルル」
「…………おはようシャーリー」
 ものすごく棒読みだった。けれど、ふて腐れたようにふいっと逸らされた瞳が、少しだけ穏やかだったからシャーリーはルルーシュを一人にしなくて、正解だったのだと確信した。
「部活帰り?」
「うん、そう。ぎりぎりまで泳いでて……」
 そこではっと思い出す。髪は生乾きで、結んでる髪はほとんど解けて、走ってきたせいで乱れている。ネクタイは緩んでるし第二ボタンまで外してる上にスカートの裾は乱れていないか、待って、今わたしすっぴんだってば!と今更ながらに思い起こされて、もう穴があったら入りたいくらいな気持ちだ。切羽詰まりすぎているにも程がある。しかし、恋する女の子にとって見たら死活問題である。せめてリップとかでもしてくれば良かったと泣きそうになりながら思考の迷宮に入っていると、ルルーシュが無防備に手を伸ばしてくる。
「風邪を引く。髪。まだ濡れてるぞ」
「うひゃあ!?」
 つん、と一房、しめった髪をルルーシュの、綺麗な指が絡めて掴む。一気に上昇した体温が途端声になって外に出た。
「は?」
 ぽかん、と惚けたルルーシュがシャーリーを見上げてくるのに、もう、ぶんぶんと首を振るしか出来なくて、せめて赤い頬が夕日に隠れてくれますようにと必死に祈った。
「うううううん何でもないよ、何でも!」
 ぶんぶん首を振るからばっさばっさと髪が。ああ、もうぐしゃぐしゃになってしまう。これ以上の醜態も無いだろうと思って、今すぐここから駆け去りたくなった。
 訝しんだ視線が突き刺さる自覚はあるが、自分にはどうしようもない。敢えて言うならばルルーシュが悪い。女の子の髪に触れるなんて、そんな。酷い。何が酷いとか解らないけれど恥ずかしくて堪らないのはどうしてだ。
「そ、っれより!何で寝たふり?」
 真っ赤な顔を隠すために逆に勢いをつけて胸を張って腰に手を当てると、今度はルルーシュがそっぽを向いた。
「……かんがえごとをしてた」
「え、わたし邪魔しちゃった?」
 思いも寄らない素直さで、恐らく正直に答えてくれたことにシャーリーは慌てる。やっぱり帰った方が良かったのかもしれない。
 不安そうに緑の瞳が瞬くのを、紫電の瞳が眩しげに見上げた。
「いや、別に」
 ゆっくりと瞬く紫に、夕日の色が反射して綺麗だ。不思議な彩りで美しい。
「……邪魔じゃなかった」
 そう、邪魔どころではなかった。すぐに、部屋に入ってきたのはシャーリーだと解った。ルルーシュが誰より巻き込みたくないと願う人物。父を奪い、彼女の未来を奪い、記憶を奪い、偽り、およそ償えない罪の全てを負って今なお偽り続けている人。だから、誰よりも距離を置いて、誰よりも注意深く見守った。聊かも危難の及ばないように。
 だから、もともと人の気配に聡いルルーシュは、シャーリーの気配ならすぐに解るようになった。
 彼女のカバンを椅子の上に見つけていたから、昼休みの忘れ物を取りに来たのだろうと見当をつけて、すぐに出て行くだろうと考えた。眠ったふりをしていればそっと出て行ってくれるだろうとも思った。ルルーシュが住んでいるのは学園の敷地内だから慌てて起こす必要も、他の生徒に比べれば少ない。今日は宿題も多く出ていた。早く帰って手をつけなければならない。
 だからすぐに、自分を放って出て行くだろうと。
 なのに、何を躊躇したのか、シャーリーはその場に留まった。そして、ルルーシュの居る居場所を乱すでもなく、ただ静かにそこにいた。
 なぜそんなことをしているのか、シャーリーが何の目的でそうしているのか、ルルーシュは目を伏せながらずっと考えていた。――考えている間に、敵のことも、ナナリーのことも、組織のことも、全部思考が取って代わられた。
 シャーリーのことだ、不穏な思惑があるはずもない。自分に危害を加えるはずもない。――思い出さない限り。そして思い出すことは二度と無い。自分がそう、封印したのだ。それなのに、シャーリーは以前と同じようにルルーシュに接して、距離を置いていたのにいつの間にか近くなって、いつの間にか名前の呼び方も。
 ルルと。
 ――そう呼ばれた瞬間の思いをルルーシュは生涯忘れ得ない。彼女の記憶を封じた時と同じほど、鮮やかに鮮烈に刻み込まれて忘れられない。
 いつの間にか、たくさんのことで荒れていた心が非日常に戻っていってた。血飛沫の舞う日常から、ただの学生である非日常へと。
 異母妹を踏みにじったとき、ルルーシュはもう二度と引き返せなくなった。それなのにこうして心は、時折修羅から穏やかさを取り戻す。常に神経を張っていては生きていけないけれど、忘れることなど絶対にない。それだけのことをした。
 それなのに、たくさんのささやかな優しいことを、この学校は、生徒会の面子は、シャーリーは、ルルーシュに一つ一つ、丁寧に教えてくれる。おはよう、なんて。何の意味もない挨拶を、何の含みもなく受け取ったのはいつ以来だったろうか。
「邪魔じゃ、なかったら、良いんだけれど」
 ちょっとの沈黙の後、頬に手を当ててシャーリーはルルーシュとは反対の窓枠に手を突いて外を眺めた。一面に広がる柔らかな雲が夕焼け色に染められている。東風に吹かれて東へ東へ、ゆっくりと流れていくその先は淡い宵闇のグラデーション。ああ、あの紫の色が今のルルのに似ている。
「綺麗だね、夕焼け」
 ルルーシュにとって血の臭いしかしない夕焼けを、素直な感性でシャーリーは口にする。
「そうだな」
 反駁もすることなくルルーシュは素直に頷いた。自分でも不思議に思うくらいの素直さだった。
「ね、一人でさ、考えてても良いこと無いよ」
 夕焼けに目を向けたまま、シャーリーが窓枠に寄りかかった。ふんわりと少し濡れてる髪が流れた。
「勿論さ、話したくないなら話さなくて良いけど!」
 でもね、とくるっとルルーシュの瞳を覗き込んで、新緑の緑が優しく和んだ。
「こんなとこに皺寄せて考えなきゃいけないことを、一人だけでずっと考えてるのは苦しいだけだと思う」
 柔らかな人差し指が、つんとルルーシュの眉間をつつく。思わず呼吸が止まった。表情に出したつもりなんて欠片もなかったからだ。口を開いて、否定しようとして、でもきっとシャーリーにはばれてしまうだろう。
「ねえ、ルル」
「……何」
 つつかれて、言葉も出ないまま、夕焼けの橙を孕んだ緑色の瞳を見返す。緑という色彩は様々な色をきらきらと反射させる色だ。……あいつの色はもっと濃い。シャーリーが新緑ならあれは深緑。様々なことが一気に蘇る。
 ギアス、
 C.C.、
 スザク、
 ユフィ、
 そしてナナリー。
 何も知らないくせに、とわめきたくなった。贖罪すら出来ない罪を犯したこととか、それは全部自分のせいだとか、仕方がなかったとか、叫いて喚いて、そうして吐き出したかった。でもシャーリーにそんな泥を見せてこれ以上、どう傷つけろと言うのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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