触れ得たのは実際は数えるほどでしかない。自分から触れたことは皆無に近い。最も年頃の女性に男の方から近づくのは、下手をしなくとも犯罪行為に近い気がするのだが。
 そして彼女には謝罪しきれないほど、触れた記憶は優しい思い出に包まれているとは言い難い。
 ただどんなときも彼女は柔らかかった。雨の中でも夕焼けの中でも学園の日常においてもそして




きみにきす



 記憶が戻ってからめまぐるしい勢いで回り始めた非日常はルルーシュ・ランペルージにとっては元の日常を取り戻したに等しい。テロ、懸案、会議、指揮、相談、作戦、作戦、指揮。それが日常。ゼロの。
 人の命のやりとりに思考の大半を置く事を特に苦にはしていないつもりだった。何を置いても取り戻したいと誓ったことがあったから、ルルーシュにとっては面倒ごとなど全部まとめて掛かってこいとでも言えるくらいの気概がある。
 だからこれまでの穏やかな平穏こそが非日常であったのだ。
 脳内で演算していた戦略と戦術のシュミレーションを終えて、ルルーシュは目を閉じた。幾百通りの思考の羅列が収束していく。神経の束を頼集める感じ。その一本一本が確実に機能し、ルルーシュの意図するままに事象を操る。
 絶対遵守の呪詛ギアスよりも、これぞルルーシュの真の凶器だ。
 しかし流石に、神経を働かせすぎたか、目を瞑ったら頭がくらりと傾いた。気を張っている間は決して折れることはないが、体力の無さは己の懸案事項だなと最後に胸の中に何千回目かを数える注意書きを施して、溜息を吐く。
 誰も居ない生徒会室は、窓際に椅子を寄せてうたた寝をするには絶好の場所だ。実際授業をさぼるなら、一般生徒がより付かないここか屋上が丁度良い。
 実際、端から見ればルルーシュも、今は居眠りでもしているように見えるだろう。人殺しの方法を何百通りと考えていたとは誰だって解らないに違いない。……ただ一人の親友と、偽りの弟をのぞけば。
 時刻は五時半。部活もそろそろ終わる頃で、窓から見下ろせる緑のゆたかな中庭にもほとんど人気はなく、閑散としていた。此処には誰も居ない、誰も。
 窓枠に腰掛けて、冷たい硝子にごつんと額をくっつけた。演算続きだった頭の中にまで冷たさが伝わってくるような気がして気持ちが良い。
 固くて冷たい硝子の感触。風が当たって砕ける音が耳に響いた。窓を開けると、丁度良い夕闇の風の涼しさが感じられることだろう。
 おにいさま、お日さまの光が変わりましたね。もう夕方ですか?
 小さな声がする。耳の奥で木霊している。幾度も幾度も。盲目のまま小さな掌にオレンジ色の光を手に浴びて、昼間とは変わった温度を感じて穏やかに微笑んでいる。
 ナナリー。小さな妹。見えない目で、たくさんのものを見ることが出来た希有な妹。そして今、此処にいない妹。
 長い腕を組んで、肘を掴んだ腕にぎりっと力が入った。
 取り戻せ。取り戻せ。取り戻せ。
 あの幸せは、俺のものだ。他の誰の者でもない。スザクでさえ奪えない。
 冷たい硝子が頬を冷たく冷やしていく。ナナリーのことを思うだけでこんなに追いつめられていく自分の危うさを胸に刻みながら、必ず、冷徹な意志を持って、これを取り戻すとルルーシュは何度だって誓ってみせる。
 空は穏やかな夕焼け色に染まっていた。橙色が暖かい、染まりきっていく西の空を追いかけるように、東の空に星が昇り始めている。斜めに落ちる赤みを増した光の中で、クールダウンさせたはずの思考を、穏やかにするように努めていく。けれど思考は荒れたまま、また神経がささくれ立って様々なことを考え始める。
 組織の編成案はあれでいいのか、予算はどこからかき集めるか、支出の細密事項は出来るだけ早くに出させねば、中華連邦との繋がりは、諜報機関からの連絡は。考えることなど尽きることなく湧いてくる。紫電の瞳が夕焼けを写して眇められた。血糊の色だとおもった。
 死ねと命じてきたぶんだけ自分かかぶった飛沫。――全てはナナリーのために。
 こつん。
 小さな足音がした。生徒会室にむかってぱたぱたと走ってやってくる。此処まで近くなるまで気が付かなかったなんて相当に頭がやられてる。
 常に暗殺の危機にあった幼少の頃から人の気配には敏感であったのに。シニカルな笑みを浮かべて、端正な顔が伏せられた。さらっと黒髪が落ちていく。
 がらりとスライド式のドアが開いた。ふんわりとした、オレンジが勝った亜麻色の髪が優しく長く、翻って流れたのを伏せた視界の端に捉える。
「あれ?………………ルル?」
 呼ばれた声に振り返らず、窓枠に腰掛けたまま伏せた顔をルルーシュは上げない。うたた寝をしている振りを貫くつもりだった。
 今、自分の思考が荒れていることは良く解っている。もしその感情が一片たりとも自分の双眸にうつったらと思うと、ルルーシュは目を開けてはいられないのだった。
 いや、もしも、例えば完璧に隠しおせたとしても、これ以上の偽りを彼女に重ねることをルルーシュは望んでいなかった。
 
 
 
 
 明日の宿題をしなければいけないのに、課題のノートのを生徒会室に置き忘れてきたのは失態だった。部活の後で気が付いたから、髪の毛は生乾きだしシャワーで火照った顔はメイクだってしてない。でも、明日の数学の先生は厳しくて、しかもシャーリーは絶対に当てられる予感がしているから仕方ない。自分の出席番号がばっちり重なる日付だからだ。フェネットのFを結構憎いなーと思うのはこんな時だ。偶然の暗合を気分次第で悔しく思ったりしても、埒もないけれど。
 シャワールームの姿見で大慌てで着込んだ制服をざっと確認。スカート、裾、上着、シャツ、オッケー。ネクタイ、……緩んでるけれど大目に見る。シャツのボタン、第一第二は解禁。大丈夫、このくらいなら自分的に許容範囲。
 今日は最後まで残って泳いでいたからいつもよりも時間が遅い。シャーリーが最後の一人だ。
 シャワールームと部室をつなぐドアがノックされる音にシャーリーは慌てて荷物をまとめた。ほとんど丸めて突っ込む類。大丈夫、どうせ全部ランドリー行きだ。どうぞ、と言えば銀髪と褐色の膚の綺麗な顔がひょこんとのぞいた。
「遅いぞシャーリー。下校時間を解ってるか」
 とんとん、と手首につけた腕時計を人差し指で叩きながら綺麗な眉が寄せられる。ぱんっと掌をあわせて頭をぺこんと下げると、勢いよく髪が流れた。
「ヴィレッタ先生、遅くなってごめんなさい!」
 顧問のヴィレッタが、溜息をつきながらも仕方ない、と言う仕草で肩を落とした。
「寄り道しないで、急いで帰ること」
 ああ、それはだめだ。寄り道は決定事項だから。数学の先生は出来るのに、やらないでいることをしっかりしかる教育者の鏡のような人物なので尚更。
「えっと、出来るだけ急いで帰ります!」
 するっと素早い動きでシャーリーはヴィレッタの横をすり抜ける。運動神経良く生んでくれた母に感謝。
「シャーリー!鍵は?」
「あっ!」
 たったかと逃げる方針をとったシャーリーは後ろから追いかけてくる声に最後に振り返った。
 つかみ取った部活用のカバンと一緒に部室の鍵も、一緒に手の中。慌ててきゅっとかかとで回って踵を返し、戻ろうとすると片手を振られたので、そのままぽおんと投げてしまう。しゃんっと銀色の軌跡を描いて放物線がヴィレッタの褐色の手の中に収まった。
 さっさと行ってしまえと手を振られた、その鷹揚さに感謝してシャーリーは廊下を走り始める。
 存外、生徒の我がままを聴いてくれたり、相談事になんだかんだ言いつつ乗ってくれる美人のヴィレッタ先生は生徒間では結構人気者だ。ルルーシュに関してはどうしてか含むところがあるらしいが、当初謎に思っていたシャーリーですら、日常茶飯事とついには諦めたが。どうにも色っぽい展開になりようが無い関係だったので。……でもこの頃は、あのころの大騒ぎの日常もなりを潜めている。
 ルルーシュが突然に居なくなったり、授業をさぼる頻度は増しているのに。胸に過ぎった黒い影を掻き消すようにシャーリーは髪を翻して走り始めた。
 だって宿題が待っているんだから。
「せんせ、ありがと、さよなら!大好きー!」
 おざなりにもほどがある感謝の言葉に、ヴィレッタは額に手を当てて溜息をついた。
「……本人はまあまあなんだがな、男の趣味が悪い」
 人のことは言えないのか。馬鹿なことを呟いて、不機嫌な気持ちに蓋をしようと、部室内を確認してからがしゃんと乱暴にヴィレッタは鍵をかけた。
 
 
 廊下には案の定誰も居ない。少々乱れた姿でたったか走るシャーリーはスカートの裾を気にする必要もなく、階段を一段飛ばしで駆け上がっていく。人気の少ない閑散とした建物、長い廊下に連なる窓には橙色のあったかい夕焼け色が、光り、斜めに空間に落ちる。
 そんな中を走っていくシャーリーの髪の色が鮮やかに映えるのをシャーリー自身は知らない。
 目指す一室、昼休みにみんなと一緒に大量に出された宿題を片づけていた場所。生徒会室。
 ドアが見えてからシャーリーはやっと歩調をゆるめた。ほっと息を整えて緩い小走りになる。それから気が付いた。もう施錠されていたらどうしよう。その可能性を考えなかった己の迂闊さに真っ白になりながら、そうしたらクラブハウスのルルに連絡して何とか拝み倒して開けて貰えばいいとかこそくな手段を考えている。ついでにルルに電話出来る口実も。それならちょっとだけ、閉まってても良いかななんて思えてくる自分の現金さが馬鹿みたいだ。
 ほっぺたを上がった息とかその他色々で赤くして、シャーリーはドアの前に立つ。取っ手に手をかけて、えいやとドアを開く。
 覚悟に反して、ドアはすんなり開いてしまった。拍子抜けしたシャーリーは我知らず、空いちゃったと呟いて、ちょっとだけ溜息を吐いた。室内は生徒会メンバーは勿論他の誰の気配もなくて、シャーリーは安心して辺りを見回した。大きなテーブルの、シャーリーの座る定位置、ルルーシュの隣の椅子にちょこんと置いてあるランチボックスとテキストとノートを放り込んだカバンを発見。
 やっぱり此処にあった、とほっとして初期目標を終えたシャーリーは室内に足を踏み入れた。
 駆け寄ってカバンに手を伸ばそうとして、そこに長い影が伸びていることに気が付く。
 窓から差し込む夕焼けの色に反して、落ちる影は暗い。室内は代々の光にたっぷり満たされていたけれど、影の暗さは隠しようもなく、それに紛れて細い、人影。この頃少しだけ背が伸びた気がする。え?と視界が、捉われた。
「………………ルル?」
 小さな声は呼びかけだったのか、ただの呟きだったのか判然としない。小さな声は、がらんとした室内に良く響いて、はっとする。窓枠に腰掛けて硝子に額を寄せているルルーシュはぴくりとも動かない。うたた寝をしているのだろうか、慌てて口元に手を当てて、そっと様子を窺うが、ルルーシュが動く様子は全くなかった。
 ほっと手を胸に当ててよかったと思った矢先に、シャーリーは新たな喚問にぶち当たる。
 ……窓は夕焼け、もう時間も時間だ。起こさなくて良いのかとか、こんなとこで寝てたら風邪ひいちゃうよとか、頭の中が別のことでぐるぐる回り始めてる。ううっと百面相をしながらも、寝ているルルって貴重だよねとか、思っちゃう自分の思考がとにかく末期だ。だってどんな姿だって見ていたい。
 それに、この頃ルルーシュはお疲れぎみなのだ。シャーリーには良く解る。全部隠そうといつだって朗らかに笑ってるけれど、ルルーシュは確実に疲労している。……違う、磨り減っていっているのだ。
 それを思うと起こすことも出来ない。気配に聡いルルーシュは此処にシャーリーがいてはきっとすぐにおきてしまうだろう。ゆっくり寝かせてあげたいと思いながらも、風邪ひいたらルルが、と思考が迷路のように出口を見せない。それに、多分、目が覚めたときにひとりぽっちだったらシャーリーは寂しい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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