恋愛なのか慈しみなのか解らない。でも互いが共に歩む人だと決めた。たった一人だった世界が二人になって、こんなに世界が優しかったのだと初めて知った。



Prayers.



  行政特区日本設立の劇的な宣言から既に一週間がたつ。様々な諸事に負われ、今までのお飾りのお人形のスケジュールは嘘みたいに忙しくなった。人形には人形なりの役割があるものだ。なにしろ、形の上だけでも特区の代表者としてユーフェミアを建てた手前、彼女が居ないとお話にならない。たとえ実務面を他の者に任せるとしても、政界や業界、軍閥、本国とのつながりや貴族との懇談は引きも切らないほどある。本当なら何ヶ月もかけて、綿密な準備を経て、それで行われるような一大改革だ。諸外国との軋轢も考えればアジアの提携国とも顔をつないでおきたいし、ブリタニア帝国の動向をうかがう諸外国、貴族の面々としてはとしてはとにかく皇族に顔を繋いでおきたいだろう。あの王国が、特区とはいえ、一国を容認するという異例の事態を起こしたその真意を世界中が知りたがっている。
 だが出迎えるのは内実を把握するシュナイゼルではなく、ほぼ全ての迎賓はユーフェミアの仕事としてまわされたのだった。本当に知りたいことはこの娘の兄の腹の内であるのに、と各国首脳や政界、財界の要人達は皆一様にため息を漏らした。だがユーフェミアはエリア11の副総督であり、玉座に最も近いと言われるシュナイゼル第二皇子の妹君にして大ブリタニア帝国第三皇女。地位も肩書きも身分も、無視をするには大きすぎる上に、ブリタニアにとっては出迎えをするにはこれ以上の名誉はないといえる人物を送り込んできているのだ。文句を言える立場ではないし、まして疎かにするなど論外であった。
 それならば、まだ娘の皇女から洗いざらい、知っていることを語らせるまでだと老練な政治家達が手ぐすね引いて話題を向ければ、柔らかな笑顔と淑やかな、年相応のほほえましい話題が可憐な唇から零れるばかりだ。ユーフェミアは学生として過ごしていた期間が長い。表舞台にでて殆ど立っていない上、若年にして勇ましい美貌を誇る姉姫とはまた違った可憐な美しさを持っており、すでにその美貌を他国に広く知らしめていた。微笑む姿はブリタニアの生きた国宝とまで呼ばれている。そんな微笑みを絶えず向けられ、どんなにこちらが水を向けて話させようとしても彼女は必要以外の政治的な内容を一切漏らさない。堪えない微笑みと賓客をもてなすのどかな話題のおかげで、会談のはずだったのに一気に皇女のサロンに変わってしまったかのようだ。
 若年と言うだけで軽んじているものはまずこれにあっけにとられる。ただの頭の足りない小娘なのかと面食らう。実際、彼女の人気は非常に高いが、人気者の例に漏れず常にゴシップがついて回る。それが、彼女の隣に影のように常に控える親衛隊長だ。ブリタニアが国是としている被差別階級の人間をブリタニア皇女ともあろうものが己の専属騎士に叙任したのは、まだ皇女がお若いからだという話は尾ひれがついて、何処の国でも噂の的だった。この騎士がまた、見目がよいからたちが悪い。噂通り、頭は軽いか。
 恐らくただ重要な案件は兄と姉のところで差し止められ、知らされていないに違いない、やはりただの見目良い看板とパフォーマンスなのだろうと軽んじたある政治家が、零した。
「初めて騎士の叙任をされたそうですな。親衛隊も盤石を極めましょう。殿下の御身が今回の騎士叙任によってますます御健やかになることは臣民の喜びでございますれば、私も嬉しい限りでございます」
「知勇と武勇を兼ね備えた騎士を迎えられたことはわたくしのことだけではなく、ひいてはブリタニア皇室の財産となると考えておりますわ」
「これはこれは。ずいぶんとご信頼を置かれているご様子ですな」
「主君は臣の忠誠を寛大に受けとるものであり、騎士の忠誠とは誠、真実なるものであると主君が信じることは剣を捧げられた人間として当然のこととわたくしは姉上の姿に教わりました。わたくしの信は我が騎士に預けております」
 ふんわりと柔らかく微笑むたった十六才の少女の言葉にはつやめいた色はなく、ただ静かに、無邪気とも言える無垢さで、深い信頼を寄せていることを伺わせた。
「その御言葉、この度叙任された騎士殿にとって恐悦の極みであるとご推察申し上げます」
 口を差し挟むことなく、部屋の隅に空気のように控えた騎士章をつけた少年と青年の過渡期にいる年代の子どもをちらりと見やると、これまた良くできたもので無礼にならないよう目上の者と視線を合わせることをさけ、折り目正しく視線を伏せて僅かに黙礼した。その様すら全く主人の邪魔になる余分がない。
 付け入る隙を決して見せないのが皇女の騎士の最たる特徴だった。空気のように気配を殺したかと思えば、皇女の身に何かあれば身を挺して相手の注意を積極的に自分に引き寄せ皇女を危難から逃れさせようとする。身分の高い者を相手にする主君にとって過分もなく、不可分もない従卒。正しくそれは皇室の理想の騎士である。
 忌々しい。
「ええ、今回のことで本当に忙しくなってしまいました。随分たくさん引っ張り回してしまって」
「それならば慰めの御言葉と休養を賜ればよろしいでしょう。幸い、今回出来る特区は皇女殿下の騎士殿にとっては故郷とも言えるものと聞き及びました。お疲れでしたら尚のこと、あとのことは兄上様方にお任せしてそちらでゆっくりとご一緒にご静養なされるのがよろしいかと存じます」
 あざけりの言葉は確かな棘であった。スザクがイレブンだからこのようなばかげた特区などという話を思いついたのだろうという当てこすりだ。実際、本国でもない辺境のエリア11内の中でも貴族達から爪弾きに会うようなお飾りの空っぽな頭が思いつきそうなことだと。
「まあ、それは素敵な提案ですわ」
 胸元で可愛らしく手を合わせたユーフェミアはスザクを振り返ってにっこりと笑った。だが、たちまちその花のかんばせがふっと曇る。憂う瞳にひっそりと影が落ちるのは息をのむほど美しい仕草だ。
「でも、せっかくのご提案なのですが、特区の申請住民の把握が予想を上回っておりわたくしどもが落ち着けるのはまだ当分先のことになりそうですの。この調子なら当初予定していた移住区域も都市計画も、修正が必要になりそうですわ。シュナイゼル兄上にも総督にも、まだまだ仕事は残っていると言われておりますし」
 ふんわりと長い髪が華やかに宙を舞って弧を描く。花咲く笑みは美しいさくらと薄紫の瞳に鮮やかに彩られていた。
「ごめんなさい、スザク。もう少しわたくしを手伝ってくださいね?」
 柔らかく小首をかしげて、座っているソファから顔を向けてスザクにユーフェミアが話しかけると、一瞬ユーフェミアに向かって微笑んだ彼女の騎士は実に見事に礼をした。
「イエスユアハイネス、どうぞ御心のままに」
「ありがとう、スザク」
 ほんわりとした空気が辺りを流れる。二人が目と目で笑い合うと、スザクは静かに申し出た。
「……ユーフェミア様、そろそろお時間です」
「わかりました」
 小さな首が頷いて、今一度、正面にきちんと向き直ると今日一番の微笑みを見せてユーフェミアは膝の上で手をそろえた。
「それでは失礼いたしますわ。今日お会いできたことは我が国にとって重要な国益に繋がるでしょう。また、これを機会に交友を深めてくださる事をブリタニアは願っております。この僅かな時間は、お互いにとって掛け替えのないものになると信じています」
 べらべらと一息に話された特区内情は、例え僅かであろうとユーフェミア副総督が政務を直接知る位置にあるという事実を告げられたも同様の内容であった。真っ青になったのはこちらの方だ。彼女の上の兄も姉も容易に手を出せる人物ではない。唯一籠絡できるとすればこの第三皇女。どんな些細なことであろうと洗いざらい話してもらわなくては困る。
「お、おまちください。今少し!」
「申し訳ありません。もう本当に行かなくては。あ、この辺りはエリア11の重要な文化財がたくさんある地域なんです。千年前より継承されてきた楽は国宝級の伝統として受け継がれておりますし、近くの美術館にはこの楽の伝統が生まれたものと同時代の絵巻物が置かれているんですよ。世界最古にも数えられる絵巻物だとか。この二つは偶然に同時代とされておりますがモチーフに共通点が見られると思いますの。気になって芸能の方に訊ねてみましたら、やっぱり何らかの関連性があったようだといわれているそうです、どうぞ見ていらしてください。我がブリタニアと行政特区日本の誇る国の宝ですわ」
 立て板に水とばかりに、このままいくらでも深い教養を披露してくれそうなユーフェミアの声を控えめに遮ったのはスザクだ。もう本当に時間がおしているのだろう。
「このたびは特区日本設立について懇談の機会を設けていただき、感謝申し上げます。この時間は特区についてよりよい礎になったと確信しておりますわ」
 それでは失礼いたします、と優美な所作で立ち上がった。だが此処で少しでも特区日本の今後の動向について把握しなければならないこちらの都合はどうなるのか。ブリタニア帝国エリア11、サクラダイトを豊富に保有する軍事バランスの国際的な要の地。辺境であろうと、継承権の高い皇族自らを、しかも複数、施政者に据えるのはそれだけでこの地を抑えるか否かが世界のパワーバランスの動向を左右するとブリタニアが認識していると内外に知らしめているというものだ。この小さな島国を小さな情報を、世界中がほしがっていた。
 どうぞお待ちを、と何とかユーフェミアを行かせまいとするのを体で遮って、彼女を視界から遮ったのは部屋に控えていた皇女の騎士だった。視線で少女を扉へと促す。
「あらかじめ殿下のスケジュールは双方で決められておられたはずです。その時間内で会談を終えていただかなければなりません。申し訳ありませんが、また次の機会に」
 きまじめな騎士の声と、ごきげんようと華やかな皇女の声が観音開きの扉の向こうにあっさり消え去ったのを後に残された男は呆然と見ているしかなかった。
 
 
「おしゃべりが、過ぎてしまったでしょうか……?」
 ただの迎賓などではない。そこで交わされる一言が万金に変わるのが、ユーフェミアの居る戦場だと兄に言われたのに。「お前なら誰でも歓迎できるよ、可愛いユフィ」、極度に外向的な場所に役立てる己ではないことは痛いほど解っている。だからこそ、期待をかけられた分、頑張ろうと思っていたのに。貴族や国賓を迎え、特区日本の理念を受け入れてもらうことこそがユフィの仕事だ。ユフィが出来ないところはただでさえ、頼り切りなのに、国内の内情を漏らすようなことを。
「大丈夫ですよ、あの程度なら誰にでも予測可能なことです。特に支障はないと思いますよ」
「ええ……」
 すっと小さな顔に影が差す。淡いさくらいろの髪がさらさら流れて小さい頭がうなだれた。髪をまとめる白いシフォンのリボンが頬のところでさらりと揺れる。
 ユフィは姉が自分のためにとよこしてくれた、姉の部下であり、信頼に値する方の話を聞きかじったのを、ただ自分の感想と一緒に正直にしゃべっただけだ。切り札も何もあったものではない。教養は幼い頃から嫌と言うほど叩き込まれて育った。学生とはいえ、ユーフェミアの取る選択科目は特に語学と教養、歴史、政経を中心に選択していた。ナイトメアフレームの操縦資格まで持ってる。全部全部、姉のため。でも自分は学生という立場で皇族としては何の責任もない気楽な立場で、ただ愛されて育った。そうやって過ごしてきた日々。十六年に少し、足りない。学校を当たり前に楽しみながら、ずっと姉のためだけに。心の中を占めていたのはそのただ一つのことだった。
 その努力が実って、ユフィは「お姫様」になることが出来た。知識教養趣味の良さ、どれをとっても皇女の気品に相応しい。お姫様には血なまぐさい話は似合わないから、偉い人の前ではにこにこ笑って先日のオペラは実に斬新な演出をしていましたわ。ご招待ありがとう存じます。あのソプラノ歌手、かのメルロ・ビシューの声を継いでいるような気がしましたのですが……まあ、やっぱり。彼女は孫弟子に当たる方でしたのね。なんて素晴らしいのでしょう。きっと師匠を超える声をお持ちだわ。ニーヴィゲルンのジョゼフィーヌの訳がきっとにあうでしょうね。つややかで伸びやかで、けれど奔放で、それでいて悲劇的な役柄がぴったり。とても力を持った方ですわ。等と話していればいい。
 行政特区の理想を歌い、真摯に協力を請い、内情を探ろうとするものの手管を交わしていく。
 兄、姉、共に天然と言わしめるユーフェミア・リ・ブリタニアはこのタイミングが絶妙に上手い。
 行政特区の計画が立ち上がってから激務になったユーフェミアに付き従ってあちらこちらを飛び回るスザクは無邪気ににこにこしながら、ユフィが偉い人たちを素で振り回していくのを間近に見ていた。ロイドさん達へのおみやげ話はこれで決定だろう。天然ほどたちの悪いものはない。後日それを言ったスザクに、特派の面々は非常に複雑な顔をして百万語を飲み込んでいたが。
「……少し、疲れましたか?」
「っいいえ!」
 ノーブルスカーレットの絨毯を敷き詰めた迎賓館の回廊を行きながら、顔色の悪いユフィをそっとのぞき込むと紫の瞳が大きく瞬いて、ユフィはとっさに否定をした。
「大丈夫です、さあ、次に行きましょう」
 きゅっと唇を引き結んで胸を張って前を望む。凜と背筋を伸ばすと、長い髪が美しく靡いた。
「……殿下、先ほどは」
「ごめんなさい。少しだけ、怒ってしまいました」
 懇談の時間は終わりだったのは本当だけれど、次のスケジュールまで時間があったのも事実だった。けれど、一刻もあの場所にいたくなかった。スザクをあざけり、思わず漏らしてしまった会話を打ち切りたくて出てきた言葉は的確に相手の急所をついて、相手はユーフェミアを引き留めるタイミングを完全に失った。自分に砂粒ほどでも価値があると解ればよってたかってむしり取ろうとするのは別に構わない。当てこすりにも嫌みにもいい加減慣れた。そのたびに手を挙げるわけにも行かない。頬をひっぱたいて黙らせたい。自分がお飾りなのは解る、けれどスザクが。
「あなたが侮辱を受ける言われはありません。私は自分の騎士の名誉を守ったのです。当然のことです」
 きゅっと唇を噛みしめて俯くと、さらさらと髪が流れていく。この頃、真っ直ぐ前を向いているのは公務の間だけで、日常に引き戻されると俯いてしまう気がする。自分で決めたことなのに。特にスザクの側にいる時は、感情の振り幅が激しい。そんなこと言っていられないのに。時間は有限。ならば常に有言実行あるのみ。
 じっと押し黙ってユフィの横顔を見つめてくる翡翠の視線は恐ろしいほど真っ直ぐで澄んでいる。何もかもを読まれてしまいそうな――そして何もかもを隠してしまいそうな深い深い翠色。
「スザク、次の予定時間まではまだ少し大丈夫ですよね?」
「ええ、次は一時間後。近くの孤児院の訪問です」
「……旧宮家筋の方からの懇親会はどうなったのですか?」
「明日にずれ込みました。ですから、スケジュールを調整して。僕の方もやらなくちゃいけないことがあったし」
「え?」

 
 
 
 


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