あなたがいないと願うふたりぽっち。


Claps.



 
 *  訣別。

 
 わたしは、思ってもみなかったんです。
 
 それが最期の別れだったなんて。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 沢山のことがありました。わたしがスザクさんに会うことができたのは、たぶん、もう何も出来なくなったとき。始まりの終わりだったのでしょう。
 
 
 見知った気配に顔を上げれば暗闇の中から手が伸ばされました。わたしの視界はいつだって暗闇ですが、僅かばかりの明暗は解ります。その時は真っ暗でした。建物の中だからなのか、夜だからなのかは解りませんが。
 
 
 人から手を伸ばされるのは怖いことです。先にいるのが誰か、良い人か悪い人か、知っている人か知らない人かとか、男の人か女の人か、年齢、立場、わたしには全く解らないからです。
 
 
 わたしのお世話をしてくれる小夜子さんやおにいさまは、まず必ずわたしに声をかけて、返事を待ってからわたしに触れてくれます。そんなお兄様を見て、学校の生徒会の――ミレイさん、シャーリーさん、ニーナさんにリヴァルさん、スザクさんも、お兄様と同じように、まずわたしに声をかけくれました。
 してもらうことが圧倒的に多いわたしの生活の中で、人に触れられない日はありません。でも、怖いと思うことがなかったのは、こんな風に優しい気遣いをしてくれる人たちがたくさんいてくれたからでしょう。
 わたしは拙くてもありがとうとだけは必ず伝えようと思っています。目は見えないから、必死に傍にいる人の声や雰囲気やてのひらの暖かさを覚えて、絶対に名前を間違えないように。
 
 
 だからすぐに解りました。その手のひらは温かくて、寂しくて、久しぶりで、懐かしい人の手のひらでした。
 
 スザクさん、と手を伸ばすと、一瞬ですが、スザクさんはわたしに触れるのを躊躇うように指先を揺らしました。
 
「ごめんね、今、汚れているから」
 
 ナナリーとよぶ声が酷く儚くて壊れそうで、わたしの心は不安でいっぱいになったのです。
 
「そんなこと構いません。スザクさんは大丈夫でしたか?お怪我はありませんか?」
 
 足音がこつんと響きました。スザクさんの軍靴の音です。時折ですが、スザクさんはこの音をさせてお兄様とわたしの家へ遊びに来てくれました。まだほんの小さい頃、宮殿に住んでいたわたしの身の回りを護ってくれた衛兵たちが同じ足音をしていたのを良く覚えています。確かどこかの辺境伯ご子息が、お兄様とわたしが中庭で遊んでいるときによく見ていてくれたのでした。
 
「スザクさん?」
 
 呼びかけに答えるように、跪いて来る気配。スザクさんはわたしの顔を覗き込むように、いつも視線を合わせてくれます。わたしには視線なんてありませんけれど、とても嬉しかったです。
 でも今は、いつも暖かく笑ってわたしとお兄様を見てくれたスザクさんの雰囲気が、酷く張りつめている気がして、思わずわたしは手を伸ばしたのでした。
 
 車椅子の肘掛けから腕を浮かせて、そっと指を伸ばすと固い手のひらがおそるおそると言ったように触れてくれました。傷や包帯は無いか確かめてから、わたしは両手を伸ばして、スザクさんの手を固く握りしめました。離したら、消えてしまいそうだった。
 
「どうしたんですか?いったい何が」
 
「ナナリー、君の」
 
「え?」
 
 君のおにいさんを、と掠れた吐息が吐き出されて、わたしは動揺しました。まだ兄の消息は不明だったのです。
 
「おにいさま?おにいさまが見つかったのですか?スザクさん、お兄様はご無事ですか?今どこに?」
 
 お兄様のことを言われれば、わたしの思考はお兄様のことで塗りつぶされてしまいました。固く握った両手の震えが解ったのでしょう。今度はスザクさんがわたしの手のひらを確かめるように握りしめてくれました。
 
「――ごめん、まだ情報が錯綜していて、解らないんだ。もう少しだけ時間をもらって良いかな。必ず、僕が」
 
 決意の籠もった言葉でした。必ず見つけてくれる。大丈夫、スザクさんは信じて良い。わたしの世界はとても小さくて、経験だって浅くて、わたしには何の力もない。けれど、こうして信じられる人が傍にいてくれることが何よりも嬉しい。
 わたしはスザクさんに向かって肯いて、泣きそうになった顔を無理矢理笑顔に変えました。
 
「はい、ありがとうございます。スザクさんなら必ずお兄様を捜してくれます、きっとご無事でいらっしゃる。わたしは大丈夫です」
 
 不安なのには変わりないけれど、必ずお兄様はわたしの元へ来てくださるはずだとわたしは信じていました。いつものように、大丈夫だよと笑って抱きしめてくださるはずだと。それなら、お兄様がわたしに望むのはわたしが健やかで笑顔でいることです。お兄様が望むなら、わたしはいつだって笑っています。
 
「ご心配をお掛けしてごめんなさい。スザクさん、忙しいのにわたしったらわがままを言ってしまって」
 
「気にすることじゃないよ。今は一休みしても大丈夫って言われてるんだ、だから」
 
 平気なんだ、と大きな手のひらがそっとわたしの髪を撫でてくれました。頬を包み込む暖かさは、雨の日に、森の中でわたしを捜し出して、おんぶして、秘密基地に匿ってくれた頃とちっとも変わりません。
 
 わたしはそれに安堵して、ぎゅっと手のひらを握りしめました。
 
 でもスザクさんがわたしに言いに来たのはそのことではなかったのです。
 
「ナナリー、良く聞いて。――ユフィに、会いたい?」
 
「え」
 
 優しくわたしの頬を撫でていた手が離れていくと同時に、スザクさんはわたしの目をじっと見つめました。見えないわたしの目を、感情を射抜くように強く、でも切実に。わたしには見えなかったけれど、でも確かに真っ直ぐ、わたしを見ていたんです。
 
「ユフィ、ねえさま?」
 
「そう、もし、会いたいなら――今なら会える。ううん、これは正しくない」
 
 スザクさんの手を握りしめたわたしの手の上から、スザクさんのもう片方の手が覆い被さって握りしめました。
 
「今じゃないと会えない。もう。これが最期なんだ。ナナリー……どうする?」
 会わせて下さい。そう言ったはずです。精いっぱい必死に。でも、スザクさんは何事かを躊躇うように、わたしにいつまでも返事を返してくれませんでした。わたしの手を握りしめて何かを迷っていらっしゃるように。
 ユフィ姉様のことは、それこそ情報が錯綜していて何か信じられないようなことばかりをわたしは聞いていました。でも、沢山の言葉はみな同じことを言うのです。わたしはそれが信じられなかったし、信じたくもなかった。
 思い出すのは学園祭にいらした、あの頃とちっともお変わりない優しい姉の姿。お兄様とわたしとユフィ姉様と三人一緒に眠ったころ、喧嘩して、遊んで、とても優しくて大好きだったわたしのおねえさま。
 柔らかに長い髪、良いにおいがして、耳に優しい声と言葉。
 触れてくれた手は女の人に近くなっていて、がりがりに痩せた自分がとても恥ずかしく思えました。動かせない足に、見えない瞳。きっとあの頃よりも醜くなっているはずです。
 けれどお姉様は、昔とちっとも変わらないと笑って、途惑いながら抱きしめてくれました。
 未だ皇女であるお姉様とわたしとでは身分に隔たりがありすぎて、これまでの境遇も沢山の壁になる、けれどもっと話す機会があればまた昔のように接してくれるとわたしは確信しました。だって昔と同じように、お優しかったから。躊躇いなくわたしの車椅子を押してくれて、うち解けて笑いかけてくださった。生きていたことを本当に安堵してくださった。
 何よりスザクさんを騎士に選んだのはユフィ姉様。スザクさんともお姉様とも、ああ、なんて距離が出来てしまったのだろうと寂しく思う気持ちも本当ですけれど、ブリタニア人ですらなく、他の誰でもなく、スザクさんをご自分の騎士に選ばれたユフィ姉様が信じられないはずがありません。昔と同じようにお優しい方なんだって。
 ――どうして、最期だなんて信じられるでしょうか。
 
 
「おねえさま?」
 
 スザクさんは、わたしをどこかへ連れて行ってくれました。
 暗くて寂しい場所。花の香りがしました。カサブランカの香りです。結婚式や――そう、お葬式によく見かける大きな百合の花。
 
 わたしの手を取ってスザクさんは何も言わずに何か、固いものの上に手をのせてくれました。
 
「スザクさん?」
 
「ここに、居るよ」
 
 固い。冷たい。平面の、箱のような。手触りはガラスのようでした。とても冷んやりとしていました。
 
 わたしは呆然としました。
 
 ナナリー……ナナちゃん。
 
 声に驚愕と涙を浮かべて、笑い崩れてわたしに手を寄せてこつんと額を会わせてくださった、あの学園祭の日のお姉様はどこに行ってしまったのでしょう。握りしめた手の温かさ。あわせた頬を柔らかさ。ふんわり香る良いにおい。抱きしめて下さった体の柔らかさや流れるように艶やかな髪。
 
 ここにユフィ姉様が居るというスザクさんの声が信じられません。だってお姉様は柔らかくて暖かくて良いにおいがして。
 
「スザクさん――ユフィねえさまは――」
 
 錯綜する情報がわたしに告げる最後のできごとは、ユフィ姉様の死でした。わたしは信じられなくて口を閉ざしたまま、そんなことを言う人はどこかへ行ってしまえばいいのにと思っていました。今この瞬間にも、たくさんの人が死んで行っていて、それはこの人のせいだとみんなが言いました。そんなことどうして信じられるのかわたしには解りません。
 だって日本人を一番愛していたブリタニア皇族はユーフェミアお姉様です。スザクさんを騎士に選んだのも、特区設立を宣言したのもユフィ姉様なんです。
 
 スザクさんは何も言いませんでした。一言も、ユフィ姉様のことを口に出しませんでした。自分の中に抱きしめて、一欠片も零さないようにするためみたいに。
 
 かしゃん、と何かが壊れる音がしました。それはきっとわたしの中のユフィ姉様への何かで、スザクさんが何も言わないことが、わたしには何よりも雄弁に語る様に思えたのです。
 
 学園祭の後、スザクさんはお姉様の補佐をするためにとても忙しくなりました。学校にもほとんど来れなくなるほど。でも、お忙しい合間を縫ってわたしに時々会いに来て下さったのです。その時々に、小夜子さんやお兄様も居ないときには必ずユフィ姉様のことをお話ししていかれました。
 昔とちっともお変わりないんだなあって聞いていて嬉しくなりました。お母様のお皿を半分こしたときと変わらないまま、無邪気で突拍子が無くて優しいまま。アーサーの名前のことを聞いてわたしがどんなに嬉しく思ったかおわかり無いでしょう?でもこれはいつかわたしが直接お話しするってスザクさんに言ったから、まだお姉様は知らないはず。わたしはいつかお話しできることを楽しみにしていて――そう、学園祭のやり直しが叶ったらその時にはきっとって――。
 
「スザクさん、これはガラス、ですか?」
 
「ナナリー?」
 
「お願いします、教えて下さい」
 
「――うん、そう。服は白くて、髪飾りは花だ。白い百合がいっぱい」
 
「カサブランカですね、お姉様がお好きでいらっしゃいました。でも、もっと、温室に咲く花でなくて、野原に咲くような小さな花も」
 
 そこまで言って、それ以上は言葉に出来ませんでした。きっとそんな他愛ないこと、スザクさんだって知っているに決まっています。それほど、スザクさんが話してくださることから想像するお二人はむつまじかったのです。まぶたに幾度も思い描いたお姉様の笑顔が浮かんでわたしは強く目を閉じました。熱い固まりが胸やお腹のそこからせり上がってきて、今にも目から零れそうだったのです。いつの間にか震えていた指先をぐっと押さえてわたしはスザクさんを振りあおぎました。
「スザクさん、ユフィ姉様に触れたら、怒りますか?」
 
「え?」
 
「わたしは見えないんです。――見えないんです。お願いします、あの時抱きしめてもらったのが最後だなんて知らなかった。もっと触らせてもらえば良かった、もっと覚えておくのだった」
 
 ユフィ姉様のお姿をやきつけるためにきっとガラスの箱なのでしょう。でもわたしには見えないのです。すぐお側にいらっしゃっても、解らないのです。
 
 今、このときほど、わたしは自分の目が見えないことを呪ったことはありません。兄の荷物になる自分を疎ましく、居なくなってしまえばいいのにと願ったことは数知れないけれど、呪うことはなかった。お兄様はこんなわたしごといつだって愛してくれたから。でも、いま、視界を遮っている全てのものを破り去ってしまいたいくらいわたしはユフィ姉様のお側に行きたかった。光を写す瞳を持つ全ての人を羨ましく思った。
 
 ぺたりと触れる手のひらは冷たくて硬くてひらたくて。ユフィ姉様はこんなんじゃありません。わたしのお姉様は暖かくて優しくて、柔らかな人だったのです。
 
 物音がしました。スザクさんがわたしの手を握ってガラスの上から手をどけさせました。微かな機械音の後、ガラスがスライドする音。
 スザクさんがわたしの手をもう一度引っ張りました。わたしは指先が震えてしまうのが解りました。自分で願っておいてなんて意気地無しなのでしょうか。一瞬躊躇ったスザクさんの指先を大丈夫ですから、と言う気持ちを込めて握りしめました。
 スザクさんはそっとわたしの手のひらをおろしてくれました。
 
 まろやかな手触りがしました。何もかもが柔らかな線を描いていました。ふんわりと柔らかい髪、なめらかな額、薄い瞼、柔らかな頬にわたしは手のひらをぺたりとくっつけました。お口とお鼻は怖くて触れませんでした。吐息が触れなかったらわたしはその瞬間、壊れたみたいに泣いてしまうと解っていたのです。
 
「ユフィ、ねえさま」
 
 抱きしめて下さった腕の暖かさを忘れそうになるくらいひんやりとしていらした。小さな頬に寄せた手で呆然と触れながら、わたしは頭がくらくらするのが解りました。足下がふらふらします。立てない足でこれ以上何を感じるのか解りませんが、わたしの世界がとたんに希薄になって、手のひらに伝わるもので全てになりました。
 
 錯綜する情報の中で、殺された、と伝えられました。
 
 わたしは何度だって嘘だと言います。言い続けます。今、この瞬間にも。
 わたしの頭の中に幾度もこだまする響きは、以前義兄を殺し、今また姉を、ユフィ姉様を奪っていったと噂される仮面の人の名でした。
 
 その響きは真っ暗なコールタールのように胸に染みついて離れなくて。そして更にそれを上塗りするように、ユフィ姉様のことがあふれ出すのです。ユフィ姉様に頂いた半分のお皿のこと、一緒に眠った晩、ピクニックに出かけたこと、花冠を作ったこと、お菓子を分け合ったこと、歌を歌ったこと、手を繋いでお昼寝したこと、――ブリタニアを離れる少し前の日に、わたしの車椅子に駆け寄ってきたお顔を泣きはらしていらっしゃったこと、涙の滲んだ目が熱かったこと――学園祭の日に躊躇うようにでもとても暖かく優しく、わたしを抱きしめて下さったときも、露を含んで熱くて、昔のように幾度もわたしの名前をよんで下さった。生きていて良かったと。
 
 
 いつの間にか涙が溢れていました。後から後から溢れて止まることはありませんでした。ユフィ姉様に会ったら言いたい言葉が沢山あったはずなのに、わたしの声は掠れてしまって、こんなのじゃちゃんとユフィ姉様に聞こえないと思って、頑張って息継ぎをしました。けれど息を吸う端から、熱い固まりが零れてしまうから、上手く声が出せるわけもなかったのです。
 たくさんの人を見送ってきました。けれど、これに堪えることは出来ませんでした。
 
 
「もう一度があるって信じていたのに」
 
 お姉様、お姉様、ユフィ姉様。
 零れ落ちる言葉はがたがたに歯車をずらしていて、きっと傍にいるスザクさんにも聞き取れなかったことでしょう。
 
 ふわりと頭に触れる手がありました。スザクさんの大きな手のひらでした。
 スザクさんはごめん、と言いました。わたしは頭を振ってそれを拒否しました。
 痛いのも辛いのも、ユフィ姉様とスザクさんです。いつも何かを置き去りにしていたようなスザクさんが、ユフィ姉様と出会ってからお変わりになられました。騎士になってしばらくしてからは、自分に縁を持たずいつ消えてしまうか解らないような不安感をゆっくりと薄れさせて、木が根を下ろす場所を見つけたように、少しずつだけれどしなやかに顔を上げて空を仰ぐさまを思い出させるのでした。
 そんなスザクさんにとってはユフィ姉様は太陽だったのでしょう。世界から太陽が消えて哀しんでいる人に、これ以上何を言えば良いというのでしょうか。
 
 小さく小さく零れる声は、守れなくてごめんと一度だけ、囁きました。ユフィ姉様の騎士。わたしはその妹。きっと責める権利がある。騎士は主君に身命を尽くしてその名誉と心身を護るもの。スザクさんはユフィ姉様だけを何があろうと護る騎士――どうして護ってくれなかったのかと責める権利がある。でも、こんな深い嘆きを一身に背負う人にこれ以上何を言えるというのでしょうか。わたしは必死に首を振って謝らなくても良いんだと伝えようとしました。息も出来ないほど苦しい中で、必死にユフィ姉様に寄り添いながら、わたしの見えない目はぼろぼろと涙をこぼし続けました。こんなに泣いたことは――そう、スザクさんが戻っていらした時以来でした。今、血を吐くような哀しみを吐露しているこの人が笑ってくれた日、以来だったのです。
 
 
 おにいさま!
 早くいらしてください。スザクさんが泣いていらっしゃるんです、哀しんでいらっしゃいます。こんなに辛そうなスザクさんは初めてです、七年前よりもっともっと苦しそうで――ユフィ姉様もきっと哀しんでいます。きっとお兄様しかこんなに辛いスザクさんの支えにはなれない。
 それに、わたしも哀しすぎて世界が押しつぶされそうなのです。早くここに来て、ナナリーを抱きしめてください。一緒に泣いてください。
 
 
 どうか、おにいさま――!












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