| 前漢代王・楚元王系図 | 高祖兄弟 | |
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| 【解 説】 |
高祖の兄弟として王に封じられた、代王劉喜(劉仲)と楚元王劉交について解説します。 ちなみに高祖の長兄である劉伯は、比較的早くに亡くなった為諸侯王に封じられることは有りませんでした。しかし更に、代わりにその息子である劉信を諸侯王に立てようと言う話すら、結局のところ出ませんでした。 これは劉信本人の問題と言うより、その母(高祖には嫂にあたる)が窮乏時期の高祖を軽蔑し冷遇したので、それを高祖は最後まで根に持ったからだそうです(笑)。 まだ若く部屋住みの貧乏生活をしていた頃の高祖が、ある時客人を伴って家に戻り、そこで客人に飯を振舞おうとしました。しかし、日頃から高祖の事を「厄介者」として冷たく扱っていたこの嫂は、羮(雑炊の様なもの)の鍋を柄杓でカラカラと鳴らし、まだ羮が残っているにも関わらず、これ見よがしに「振舞うものなんか無いよ」と言う態度を取ったそうです(^^;。 この時(客人に対して)恥をかかされた事を、高祖は後々まで忘れていませんでした。 実は、羮頡侯劉信の「羮頡」の意味は、「羮(の鍋)を頡々(カラカラ)と鳴らす」と言う高祖の皮肉が入り混じった名前だそうです。食べ物の恨みは怖いですね(笑)。 |
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[代 王] ([呉 王]) |
代王劉喜(劉仲)は高祖の次兄で、前漢の天下統一後、塞外民族である匈奴との国境にある代国の王となりましたが、当時の匈奴は首長の冒頓単于に率いられて強く、匈奴が代に侵攻した際、代王喜は封国を放棄して長安に逃げ帰ってしまいました。その為王位を廃され、代わりに合陽侯とされたのです。 そのかわり、ほぼ同じ時期に沛侯となった息子の劉 ただ、その際高祖に「お前には謀反の相がある」と言われたとおり、呉の王太子(系図中の太子劉駒とは別人)が孝文帝の皇太子(後の孝景帝)に些細な諍いで殺されてからは、中央政府に対し半独立の立場をとります。 そして、後に孝景帝が即位し諸侯の整理縮小政策を採ると、呉王 これを「呉楚七王の乱」と呼んでいます。しかしこの前漢中期最大の危機も、孝景帝の同母弟梁王劉武や太尉周亜夫の働きにより結局中央政府側の勝利に終わり、呉王 |
| [楚 王] |
楚元王劉交は高祖の末弟(異母弟だった)で、高祖がまだ漢王だった頃から常に従って行動し、廬棺(高祖の幼なじみ)と共に高祖の信任が非常に篤かったそうです。 その後高祖が天下を統一し、建国の大功によって王となった楚王韓信が(陰謀により)謀反の嫌疑をかけられ王位を剥奪された後、楚国を二分し荊王劉賈(高祖の従兄弟で将軍)と楚王劉交を立てることにしました。 これはこの2人に建国の功績が有るからですが、皇族劉氏の王を立て藩塀(日本の江戸時代でいう「親藩」とほぼ同じ)としようと言う中央政府の意向も有ったからです。 しかし、楚元王交の孫で3代目の楚王劉戊は、不敬罪(薄太后(孝文帝母)の服喪中に姦淫した)を犯し楚王領を大幅に削られた(3郡の内2郡が没収)為この処分を恨み、同じく中央政府に対し不満を持っていた呉王劉 結果は[代王]の解説でも述べた通り呉楚七王側は敗北し、楚王戊は自殺して楚王国は一度滅ぶのですが、時の帝である孝景帝は楚元王交の建国の功績を考慮し、楚元王交の子で平陸侯だった劉禮に楚元王交の後を継がせる事にしました。 これが楚文王禮で、その後4代にわたり楚元王の王家は続きますが、数えて第8代の楚王劉延寿は孝武帝の子である広陵王劉胥を帝位に就かせようと画策するも発覚してしまい、楚王劉延寿は自殺しました。 ここで楚元王の王家は滅亡する事になります。 それとはまた別にこの楚元王の一族からは、宮殿に秘蔵されたままになっていた『春秋左氏伝』を校訂し世に広めた劉 |
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