前漢趙三王(隠・幽・共)・ 
   燕靈王系図
  高祖子
 (趙隠王母:戚夫人) 
 
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前漢趙三王(隠王・幽王・共王)・燕靈王系図
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        諸侯に封じられなかった人物の場合ハイフン(-)
   {  }・・・歴任した諸侯王・列侯名
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   ・・・・・・(破線)は、この図ではその先の系譜を省略している事を示しています

【解 説】 趙三王(趙隠王劉如意趙幽王劉友趙共王劉恢)と燕靈王劉建は全て高祖の子です。
ただ各王の母については、趙隠王如意の母が戚夫人であると記されているものの、他の王については記載がありません。
これは、これらの王が比較的早くに亡くなって(殺されて)しまい、王家として存続しなかった事と、その母が后妃としてはあまり高い身分でなく更に高祖に特別の寵愛を受けなかった為、重要視されなかったからと考えられます。
ともかくこの4人の王は、何らかの形で高祖の皇后である呂皇后(孝惠帝即位後は呂太后)に王自身または王家の死命を制せられていたのでした。
[趙隠王] 趙隠王劉如意については、本人よりもその母である戚夫人に関する内容の方が多く語られています。
高祖呂后と結婚した当初については、呂后自身の容色に加え姻戚である呂氏一族の力を借りたい、という理由から呂后を寵愛していたようですが、秦を滅ぼし漢王となり西楚覇王項籍(項羽)と決戦を行う頃になると、その頃は呂后と離れて生活(呂后高祖の両親らと一緒に居た)しており、また呂后の容色も衰え始めていた為、代わって戚夫人高祖の寵愛を受けるようになり、やがては高祖は戦場に赴く際も常に戚夫人を側に置くようになります。
更に天下統一後、呂后の子で皇太子の(後の孝惠帝)劉盈が繊細な性格で頼りなげだったのに比べ、趙王劉如意の方が逞しかったようで、戚夫人の連日の懇願もあり高祖も何度か皇太子を替えようと考えたようです。
しかしこれは呂后に泣きつかれた(^^;留侯張良の策により阻止されました。ここから戚夫人趙隠王如意の悲劇が始まります。
高祖も我が身亡き後のこの2人の行く末を心配したようで、建国の功臣である汾陰侯周昌を趙国の相として配置し後事を託したのですが、呂后戚夫人に対する憎しみは相当に深く、結局趙王如意は長安に入朝した際に毒殺され、その母戚夫人に対しては、
手足を断ちきり、眼球をくり抜いて盲とし、耳を燻べて聾とし、薬を飲ませ唖とし、便所に飼わせてこれを人(tei)(じんてい・人豚と言う意味)』と名付けた」と言う恐ろしい事をやってのけました(注:古代中国では、豚は便所で飼い人糞や残飯を餌とした)。
これを後で見せられた息子の孝惠帝は繊細な性格もあって非常に衝撃を受け、早く死にたいと酒に溺れ政治を顧みなくなります(現代の我々でも耐えられない光景ではありますが(^^;)。
なお戚夫人は、『人(tei)』にされてからも2,3日は生きていたそうです。
[趙幽王]
([河間王])
趙幽王劉友は、高祖の子として最初は淮陽王に封じられました。
そして前述の趙隠王如意が亡くなったため、その後に移されて趙王となったのです(淮陽王には代わりに孝惠帝の庶子が封じられた)。
当時は孝惠帝の世になっており、実権は母の呂太后が握っていました。
呂太后は皇族である劉氏の諸侯王に呂一族の女性を王后として輿入れさせたり、劉氏の王を更に多く立てる代わりに、呂氏一族からも王を立てることを時の大臣に認めさせることで、自分の実家である呂氏の勢力拡大を狙ったのです。
しかし、この行動に反発する劉氏の皇族は多く、特に趙幽王友は送り込まれた呂氏の王后を全く寵愛せず、呂氏から王が出ることを公然と非難していました。
そこでこの態度に怒った呂太后は、趙幽王友が入朝(実際は召喚)した際に趙王自身の屋敷に軟禁し、更に食事も与えませんでした。その為、趙幽王友は恨みの詩を残して餓死したのです。
ここで一旦趙幽王友の王家としての血筋は絶えますが、その後呂太后が亡くなり、直後に呂氏一族が誅滅され孝文帝が即位すると、帝は兄弟の不遇の死を哀れみ、趙幽王友の子が残っていた為長子の劉遂趙王に、その弟の劉辟彊を趙国から分割した河間の王としました。
その後趙王遂は過失の犯したことを理由に領地を削られたためこれを恨み、呉王劉劉(hi)楚王劉戊らと共に「呉楚七王の乱」をおこしますが、結果として戦いに敗れ趙王遂は自殺した為、趙幽王の本家は断絶することになりました。
また、趙幽王の次子が封じられた河間王の王家も、初代の河間文王辟彊の子、河間哀王福が後嗣無くして薨去した為、ここに趙幽王の王家は完全に断絶するに至ったのです。
[趙共王] 趙共王劉恢は初め、建国の功臣である梁王彭越が陰謀により誅殺された後に梁王として立てられましたが、趙幽王友が餓死した後に移って趙王となりました。
趙共王恢はもう既に2人の王が不幸にあっているこの趙王の位を密かに嫌っていました。
更に趙共王恢趙幽王友と場合と同様、王后に呂氏一族の女性(呂産の娘)をあてがわれ、更にそれまで趙共王恢が寵愛していた妃を呂太后の差し金により毒殺されてしまいます。
ただ、公然と非難を表明した趙幽王友とは違い、趙共王恢はひたすら我が身の不遇を嘆き悲しみ、やがては自殺してしまいました。
呂太后は、「婦人のことで自殺するとは王の資格が無い」と断定して、どうやら後嗣が存在したらしいにもかかわらず、この趙共王の王家を断絶してしまったようです。
[燕靈王] 燕靈王劉建は、高祖の幼なじみで信任の篤かった燕王廬棺が、匈奴との戦の過程で匈奴に内通していると高祖に疑われ、最後には燕の地を捨て匈奴に降伏してしまった後を受け、皇族として燕王に封じられました。
燕靈王建の場合、その在位中には特に目立ったことはなかったようですが、燕靈王建が薨去した際、その妃との間に後嗣となる子が存在したにも関わらず、当時呂氏一族の勢力を拡大するために皇族劉氏の実質的な勢力を削減しようと企んでいた呂太后によりその後嗣は暗殺され、上記の趙共王と同様に燕靈王の王家も断絶してしまいました。

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