中書省    中国歴史コラム 

 第三回  言葉は同じなのに微妙に意味が違う?!
      〜中国の故事・成句と現代日本のことわざ(其の二)〜
 
 今回も前回に引き続き、これら「現在の日本で、元とは違った意味で使われてしまっている故事・成句」を、元の出典を交えて紹介しましょう。
 
 なお、紹介する各故事・成句には「変化度数」なるものを独断と偏見で付けてみました。
 (あくまで個人的な考え方ですので、ムキにならないで下さいね(^^;)

<変化度数:★☆☆>…… 言葉の意味は殆ど変わっていないが、
使われ方が微妙に違ってきているもの。
<変化度数:★★☆>…… 言葉のニュアンスとしてはそれほど変化していないが、
本質の部分の意味合いが変化してしまったもの。
<変化度数:★★★>…… 言葉のニュアンスも本質の意味も、出典とは全くと言って良い程
変化してしまったもの(多くは勘違いが広まってしまったもの)。

 
四面楚歌 <変化度数:★☆☆>
 
 まずはこの言葉から。ご存知の方も多いとは思いますが、出典は『史記 項羽本紀』で、
 最後の最後で敗勢が濃くなった項羽軍が垓下という土地に逃れてその夜を迎えた際のくだりに、
 
 項王軍壁垓下。兵少食尽。漢軍及諸侯囲之数重。夜聞漢軍四面楚歌、項王乃大驚曰、漢皆既得楚乎。是何楚人之多也。
 (項王の軍は垓下に砦を築いて立籠った。既に兵は少なく、食料も底を尽きようとしている。それを漢軍と漢に味方した諸侯は幾重にも包囲した。
  夜、漢軍の陣地がある四方(四面)から、「楚の歌」の歌声が流れてくるのを聞いた項王はとても驚く。
 「漢は既に楚の土地を征服してしまったのか。漢の陣地にいる(楚歌を歌っている)同胞[楚人]のなんと多いことか…」とつぶやいた)


 と、この部分が出典です。さて、今現在使われている意味は「周り全て(四面)が敵ばかりだ」という意味で、確かに基本的な意味としては間違っていないのですが、
 ここで項羽(項王)が痛感したのは、単に「周り全てが敵だ」という事ではなく、本来同胞で自身にとっては絶対裏切らない(漢などに組しない)と思っていた「楚人」が漢軍に味方し、漢の陣で楚の歌を歌っている、つまり
 味方と信じていた楚人が敵となり、周りを囲んでいるという状態であり、これに大変ショックを受けたのでした。
 事実、この後項羽はこれ以上漢軍と対等以上に渡り合う事を諦め、垓下からの脱出の際には(漢軍の攻撃が激しくて)とても連れて行けない愛妾の虞美人を泣く泣く自ら斬って別れを告げます。
 そして南下して長江に達した際も、項羽に好意的な渡し舟の船頭が「長江を渡って(項羽が最初に軍を興した)江南に移り、再起を図ってください。項王なら江南の民を集めて再起出来ます」と進言したのに対し、「もう無理だ。私を滅ぼそうとしているのは漢などではなく、天の意思なのだから」と、愛馬にも別れを告げて単身追撃してくる漢軍に挑み、壮烈な最期を遂げるのです。

 この「四面楚歌」は、実際のところ漢軍に居る名参謀張良、若しくは天才的戦術家の将軍韓信が敵(項羽軍)の戦意喪失を狙う為に、漢軍の陣に居る楚人兵士以外の兵士にも一緒に唱和させた、という説も残っていて、それも十分あり得る話だと思います。
 ここら辺、結構微妙な心理部分が介在してきますが、こう言う部分も読み取ろうとすれば、歴史を読む「楽しさ」より増えると思います(^^)。
 

 
折檻 <変化度数:★★★>
 
 次にこの言葉を取り上げます。前回取り上げた「君子、豹変す」も似たところがありましたけど、この言葉も、現在の日本では悪いイメージでしか使われていないと思います(^^;。
 
 まずはこの言葉の出典を挙げましょう。出典は『漢書 朱雲傳』からです。
 
 この朱雲傳の主人公である朱雲が居た時代は、前漢の成帝(第9代皇帝)の時期に当たります。
 当時、段々と外戚である王氏(成帝の皇太后)一族の勢力が強くなってきていたのにも関わらず、成帝の皇太子時代の教育係で、今は政府の最高官である丞相の張禹は王氏と争うことを保身上嫌い、見て見ぬ振りをしているといった状態でした。
 これに憤りを感じた朱雲が、諫言のため成帝に謁見を求めるくだりから始まります。
 
 至成帝時、丞相故安昌侯張禹、以帝師位特進甚尊重。雲上書求見。公卿在前。
 雲曰、今朝廷大臣、上不能去蛛A下亡以益民。皆尸位素餐。孔子所謂、鄙夫不可与事君、苟患失之、亡所不至者也。臣願賜尚方斬馬剣、断佞臣一人、以資エ余。
 上問誰也。対曰、安昌侯張禹。上大怒曰、小臣居下○上、廷辱師傅。罪死不赦。
 御史将下。雲攀殿檻、折檻。雲呼曰、臣得下従竜逢比干、遊於地下足矣。未知聖朝何如耳。御史遂将雲去。

 
 (成帝の御代になってから、丞相で元の安昌侯である張禹は、帝の学問の師匠だった為に「特進」の官位を与えられ、非常に尊重されていた。
  これに対し、朱雲は帝に謁見を求め、公卿が立ち並ぶ帝の前でこう言った。
  「今の朝廷に居る大臣は、上に対しては陛下を正すことも出来ず、下に対しても民の利益を計ってやることが出来ません。要するに全て俸禄泥棒(尸位素餐)と同じです。
  孔子が言っている『鄙しい者とは一緒に君主に仕えることは出来ない。何故なら、仮にもし現状の地位を失うとなれば、保身のためにどんな事でもしかねないからだ』と同じ輩です。
  願わくば、私に尚方[宮中製作]の『斬馬剣』を賜り下さい。一番の佞臣を斬り、他の佞臣に対する見せしめにしたいと思いますので」
  帝が「その佞臣とは誰のことか」と下問すると、朱雲は「安昌侯張禹です」と答えた為、帝は非常に怒り「官位の低い者でありながら、高官を誹り、あまつさえ朝廷という場で朕の師を侮辱しおって。死罪にしてくれん、断じて赦さんぞ」と仰った。
  帝の命を受け、監察官である御史が朱雲を宮殿から引きずり出そうとするが、朱雲は宮殿の欄干[]にしがみつき、あくまでも諫めようとする。その為遂に朱雲がしがみついていた欄干は折れてしまった[折檻]。
  朱雲は御史に引きずられながらも、「私はこのまま死刑にされても、あの世で竜逢比干[2人とも君主に諫言して殺された忠臣]と知己になれれば満足ですが、佞臣がはびこるこの現世の朝廷はどうするのですか。それが心残りです」と言い残し、宮殿から引きずり出されていった。)
 
 ……この後、朱雲は命令通り処刑されそうになるのですが、この「命を賭けた諫言」に対し、その場に居た左将軍の辛慶忌がこれに感銘を受け、自分も免職になるのを覚悟で「朱雲を処刑せず、赦免するように」と諫言したため、成帝も冷静になって朱雲の処刑を中止し、赦す事にしました。
 そして、朱雲が諫言した際に壊してしまった、宮殿の欄干を修繕しようとした時に、成帝が
 「それはそのまま修繕せず、折れた欄干を繋ぎ合わせるだけにしなさい。こうしておくことによって、直言の忠臣を表彰することにもなるし、朕自身に対する諫めにもなる」と言った為、この欄干はそのままになったそうです。
 
 要するに、この折檻の意味は、目下の者(家臣等)が、目上の者(君主等)を、自分の立場を恐れず強く諫めるという意味だったのです。
 しかし現在の日本では、この言葉の意味は主に「強者が弱者に対し責め苛む、暴力を振るう」という、全く正反対と言っていいような意味に変わってしまっています(^^;。
 どうしてこうなってしまったのかは、私には分かりませんが、出来れば誤った意味のまま使い続けるのは止めて欲しいですね(^^;。
 

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