ケツァルコアトルと
人身犠牲
緒言
『ロマン・サイエンスの世界』P189に、こんな事が書かれている。
「あの本では古代アメリカの絶対神だった「ケツアルコアトル」が、残虐な生贄の儀式を行なわせた神と断言し、自分の知識に酔いしれているようだが果たしてそうなのか?
否。あの本の作者は全く不勉強である!」
そして、テスカトリポカが生贄の儀式を行なわせたとして、こう述べる。
「それを止めさせようとしたのがケツアルコアトルだったことは、古代アメリカ史の上で、常識中の常識の知識なのだ。権威のある研究書ならどこにでも記載されている。
一体あの本の作者は、どこの文庫本でそんな知識を得て、自分を検証者という立派な立場に置いたのか?」(p190)
本のサイズで中身の価値が決定されるとは思わないが、それは置いておこう。
ここで飛鳥氏が筆者の無知をなじっている箇所を紹介しよう。
「それから、そのイエス・キリストがケツアルコアトルになったというが、実際の所、ケツアルコアトルはいけにえを求める残酷な神である」(『飛鳥昭雄の大真実!?』P110)
これは、常識外れな見解でも飛躍した結論でもない。古代アメリカ史研究における当然の帰結にすぎないのだが、説明不足の恨みがある事は否めない。
そこで、以下にその根拠を示したい。
ケツァルコアトルが、人身犠牲に反対したためにトゥーラの都(トルテカの首都)を追い出されたという伝説は、確かに存在する。
それによると、ケツァルコアトルが生きていた時、悪魔は人身犠牲を行なって人を殺させようとしたが、彼はそれに決して同意しなかった。なぜなら、彼はトルテカ人達をとても愛していたからだ。そのため、悪魔は怒り、ケツァルコアトルを嘲り、追い出してしまうのである。(『クアウティトラン年代記』より)
だが、それは「ケツァルコアトル神」ではなく、ケツァルコアトルを名乗っていたトルテカの王「セ・アカトル」(一の葦)の、十世紀頃の事件が元になっていると見なされている。このセ・アカトルが生贄に反対していたとしても、それをケツァルコアトル信仰の特徴だとするのは根拠の無い拡大解釈というものである。
しかし、このケツァルコアトルが人身犠牲に反対したとする神話には、疑問が付されている。ケツァルコアトルの都落ち神話にはいくつかのバージョンがあるが、その原因を人身犠牲反対に帰している出所は『クアウティトラン年代記』ただ一つなのに対し、他の出所では、酩酊して妹と近親相姦したためだとか、あるいは自分の醜い顔を鏡で見せられたためとしているのである。それらでは、人身犠牲反対というテーマは全く現れない。
『クアウティトラン年代記』はナワトル語で書かれているため、その記述に疑いを持たない研究家も多い。しかし、『クアウティトラン年代記』が書かれたと推定される年代は1570年であり、コルテスによる征服から、およそ50年を経ているのである。当然、それが現地人の手で書かれていようとも、スペイン人の影響を考慮する必要がある。
研究家のブラント・ガードナー氏は、こう述べる。
「ナワトル語のテキストはより正確であると推察されてきた。この仮定は合理的に見えるかもしれない、そして、一般的に言って生産力のある大雑把なやり方である。しかし、信頼はできない」
「ケツァルコアトルが人身犠牲に反対したというのが歪曲されたテーマであることの第1のほのめかしは、『クアウティトラン年代記』自体から来る。それは、ケツァルコアトルの出発の原因を人身犠牲への嫌悪感だとしているただ一つの出所である。他の全ての出所は、出発の原因を酩酊、あるいは純潔を破ったためだとしている。『クアウティトラン年代記』の中の人身犠牲への反対の単一の証言とは全くの対称をなすが、後者の方が、真の本来の伝説の一部としての要素は非常に強い。しかしながら、もし他の不調和がなければ、それでもなお、本来の伝説として妥当な選択肢と考えられるかもしれない」
では、「他の不調和」を見てみよう。
1519年、コルテス一行がメキシコに現れたが、その年は「一の葦」の年にあたり、同じく一の葦の年にトゥーラを立ち去った、ケツァルコアトルをアステカ人達に連想させた。ただし、アステカ人が初めてスペイン人と接触したのは前年の1518年であり、使者達は皇帝に神々を見たと報告している。
ともかく、コルテス一行はケツァルコアトルだと間違えられたわけだが、問題は、コルテス一行に対するアステカ人の対応である。アステカの皇帝モクテスマはさっそく彼らに使者を出し、贈り物を届けたのだが、その中には人間の血を塗ったパンがあった。
「モクテスマは疑いもせずにケツァルコアトル神の再来と確信し、コルテスを出迎える使者を送った‥‥略‥‥使者たちはスペイン人に会いに行き、人間の血を塗ったトルテーリャ(とうもろこしのパン)を差し出した。スペイン人たちはぞっとした。しかしこの食物は、モクテスマが彼らを神と考えていた証拠である。アステカの神にふさわしい食物は、人間の血だったからである」
(『アステカ文明の謎』P180,181 )
さらにこの時、クイトラルピトクというインディオがいけにえのために連れられていた。だが、この再来した「ケツァルコアトル」は、人身犠牲を否定する神であった。コルテスは当然断る。
しかし、アステカ人から証言を集めた『コディセ・フロレンティーノ』によると、使者たちが首都テノチティトランに帰ると、皇帝モクテスマは彼らに人身犠牲を捧げたという。
「使者たちが蛇の宮殿に行くと、モテクソーマがすがたをあらわした。そこ彼の面前で、ふたりの捕虜がいけにえにささげられた。彼らの胸は引きさかれ、使者たちはその血を浴びた。このことが行なわれた理由は、使者が困難な使命をはたし、神々をその眼で見、またその顔をまのあたりに見たからだ」(『古代アステカ王国』P90)
当然の事のように、「ケツァルコアトル」に対して食物として人間の血が捧げられ、生贄として人間が捧げられているのである。
今度は、ケツァルコアトル神話を見てみよう。そこには、生贄に反対する慈悲深いケツァルコアトル神は存在しない。
ケツァルコアトルの父は叔父達、あるいは兄弟達に殺されてしまう。『クアウティトラン年代記』では単に父の骨を探しに行った書かれているが、他の出所では、ケツァルコアトルは父を殺した血縁者を殺してしまう。
まず、山の中でケツァルコアトルの父を殺した兄弟達の話。
「彼らは父を山の中に誘いこんで、この計画を実行した。そのあとでケツァルコアトルをつれに行き、父は石になったとだまして、みんなでこの石にジャガーか、鷲か、鹿か、ちょうか、何かしらいけにえをささげようではないか、と説いた。彼らはこうして、彼を殺す機会を見つけようと考えたのである。彼にはこういうけものが手に入るまい、というのであった。ケツァルコアトルは、それに応じなかった。それで彼らは彼を殺そうとしたが、彼は彼らの手をのがれて、木の上、あるいは、こっちのほうがもっとほんとうらしく思われるが、例の岩の上に逃げて、彼ら全部を矢で射殺した。こうして、かたがつくと、彼をたいそう愛していた信奉者たちが、彼をうやうやしく迎え、兄たちの首をとって、脳みそを取り除いてから、杯にし、さっそくそれで酒を飲んで酔っぱらった」 (『世界の民話 アメリカ大陸(2)』P232,233)
この神話は、ケツァルコアトルが生贄として蛇、鳥、蝶しか認めなかったという話と平行関係にあるように思われる。また、生贄を拒んで相手を怒らせるという構造も、一応見られる。ただし、その前に鹿とウサギを射殺しており、それが残虐だという理由で拒んだわけではなさそうである。
さらに、他のバージョンを見てみよう。それらでは、父を殺したのが叔父達となっている。
「一の葦」(ケツァルコアトル)は、彼の父を殺したのは「雲へび」(魔法使い)である叔父たち、アパネカトル、ソルトン、クイルトンだと知る。
「『一の葦』は言った。『神殿を清めるのに何を使ったらいいのだろう? 家うさぎかへびにして、あとで食べてしまうのだろうか?』(雲へびたちは)答えた『それには、ジャガー、鷲、洗いぐまが向いている』――『一の葦』は言った『よろしい。彼らを(いけにえに)しましょう』」
しかし、「一の葦」は動物たちにこう言った。
「あなたがたは死ぬのではなく、わたしが(ほんとうに)神殿を清めるのに使おうと思っている者たちを食うことになるのです」
「一の葦」は神殿に先回りして、叔父たちを殺してしまう。
「『一の葦』は立ち上がり、鏡へびでアパネカトルを粉砕すると、アパネカトルは下へ転げ落ちた。それから彼は、ソルトンとクイルトンを捕まえた。猛獣どもはふうふう息をはいたが、彼は彼らをいけにえにした。それからみんなで、その体にこしょうをふりかけ、肉を細かく切って、料理したあとで汁をかけた」
(『世界の民話 アメリカ大陸(2)』P230,231 カッコ内は原文のママ)
こちらでは、ケツァルコアトルは生贄を肯定しているばかりか、叔父達を生贄にしている。ただし、これでは単にお料理しているかのようだが(笑)、アステカでは実際に供犠後のカニバリズムが行なわれていた。
『五つの太陽の伝説』のバージョンでは、人身犠牲の要素がより強く表れている。
「彼の叔父たちは非常に怒り、すぐに去った。そして、すぐに出てきたアパネカトルの前に行く。一の葦は立ち上がり、彼の頭を深く、なめらかに切り裂いた。そのため、(アパネカトルは)地面に落ちた。ただちに(ケツァルコアトルは)ソルトンとクイルトンを捕まえた。動物たちは火を起こし、彼は速やかに彼らを殺した。彼らは叔父たちを集め、彼らの肉を少し切った。そして拷問の後、彼らの胸を開いた」
胸を開くという記述は、心臓を取り出すアステカの儀式を直ちに思い起こさせるだろう。火もまた、アステカの人身犠牲によく見られる要素である。
このように、神話の中に存在するケツァルコアトルは、古代メソアメリカでは当たり前だが、現代人の眼には野蛮に写るプリミティブな神なのである。
今度は、五つ目の太陽の神話を見てみよう。五番目の太陽は現在の太陽とされているが、この太陽を創造したのが、ケツァルコアトルなのである。この神話はアステカの人身犠牲と関係するため、大変重要である。
この太陽は天空に昇ったものの動かなかったため、神々の心臓が捧げられる。注意深く神々の胸が切り開かれ、取り出された心臓は太陽神に捧げられた。それにより、やっと太陽は動き出す。
この儀式の執行者は、風の神エエカトル、つまりケツァルコアトルだったという。
また、文字通り自らを犠牲にして五番目の太陽となった神も、ナナワトル、つまりケツァルコアトルの分身なのである。
注意すべきは、アステカで人身御供が頻繁に行なわれたのは、太陽が動きを止めないように太陽神の食物としての血の犠牲を捧げるためであったということである。つまり、アステカではエエカトル(=ケツァルコアトル)にならって儀式を遂行し、ケツァルコアトルの分身ナナワトルに人身犠牲を捧げるのである。神話上、ケツァルコアトルはアステカの人身犠牲の中心的神と結論づけられるのだ。
さらに言えば、この儀式を執行したのは、ケツァルコアトルの衣装を身にまとった神官達らしいのである。
(ケツァルコアトルは人間の生贄をいたく嫌ったとあるが)
「その他の資料は、スペイン征服三十年前にアステカの首都で起った大量の生贄――伝聞によれば八万人という――について記しているが、その際僧侶達はケツァルコアトルの衣装を着て、指導的役割を果したという」
(『古代アメリカ文明の謎』P129)
さらに、古代文書の記述を見てみよう。実は、ケツァルコアトルが人身犠牲と関係している事、さらにケツァルコアトルに対して人身犠牲が行なわれた事については、多くの記録がある。
新しい火の儀式
52年ごとに催された儀式。住民が全ての火を消し、山の頂上で新しい火を点火する。サアグンによる記述。
「火は真夜中につけられた。火付け棒は、戦争で得た捕虜の胸の上に立てられた。よく乾いた、矢柄のように細く長い棒を、両手できりもむようにして火がつけられた。うまく火がつくと、すぐに捕虜の胸を切り開き、心臓をとり出して火に投げ込み、身体もまた焼いた。‥‥ (略) この儀式の発明者は、ケツァルコアトルだった、といわれている」(『消された歴史を掘る』P104)
サアグンは同一のテーマについて複数の現地人から情報収集した修道僧であり、その記録は信憑性が高い。
チョルーラの人身犠牲
チョルーラはトルテカ時代からのケツァルコアトル信仰の重要な拠点だが、そのチョルーラのケツァルコアトルのピラミッドでも、人身犠牲が行なわれている。選び出された奴隷は、祭りの前の四十日間、神と見なされる。
「祭りの九日前に、ふたりの神官が彼のところにやって来て、間もなく彼がいけにえに捧げられることを宣言する。そして祭りの中の真夜中、彼は犠牲の石の上で胸を切りさかれ、その心臓は羽毛の蛇の神像の前に捧げられるのだ」
「この神聖な儀式は、いけにえに捧げられた奴隷の肉をケツァルコアトルの神の肉に変えると信じられていた。(略)奴隷をささげた商人たちは、儀式のあとで彼の肉をむさぼり喰うことにより神と直接に交わりをかわすことができると考えたのだ」(『古代アステカ王国』P108)
また、こういう記述もある。
「アステカの複雑な宗教体系で、ケツァルコアトルの神は、天上に上ると、宵と暁の明星、金星になる、と信じられていた。ところが、金星は太陽に近い星だから、一定の周期をおいて、太陽のうしろにかくれ、そうなると八日間姿をあらわさない。アステカの宗教では、この期間、ケツァルコアトルの勢力が弱まるものと考えて、さかんに彼のために、人身犠牲をおこなう」(『古代アステカ王国』P213)
飛鳥氏が写真入で示した『マヤ・アステカの神話』にも、こんな一節がある。
「ケツァルコアトルと呼ばれる一連の神官たちは、(略)メキシコの宗教における神官の、理想的な型だった。真相がそれほどではなかったことは、彼らの名前で実行された血に飢えた慣行から推論できる」(P188)
アトルカワロ
アステカでは1年が18か月あり、1月が20日だった。1月(アトルカワロ…水が止まる)には雨乞いの人身犠牲が行なわれた。以下、サアグンの記述。
「この月の最初の日に、ある者によれば、雨の神とみなされていたトラロケの神々、また他の者によると、その姉にあたる雨の女神チャルチウトリクエ、さらに別の者によれば、風の大神官ないしは神である、ケツァルコアトルのための祭りが行なわれた。すなわち、これらすべての神々のために、祭りを行なったといってよいだろう。 この月には多くの子供を殺した。山の頂やいろいろな場所で子供をいけにえにした。雨の神々に対し、水や雨をもたらしてくれるようにと願って、心臓をとり出したのである。(略)子供を連れていくとき、子供が泣いて大きな涙をこぼすと、雨が多い年になる前兆だとして、同行の人々は喜んだ」(『アステカ文明の謎』P105-110)
いけにえにされた子供たちの死体は、煮て食べられたという。また、この月には多くの捕虜をいけにえにしたそうだ。
「文字通りに白塗りにされる前のインディアンの神の冷酷な性質を正しく判別し得るためには、ボルヒアの古写本を一瞥するだけで充分である。そこには、哀れな小さな奴隷の目を刳り抜くケツァルコアトルの姿が示されている――これはとてもキリスト者の所業とは思えない。この図では、彼は特色のある赤と黒の嘴のある動物のマスクを被り、代赭色の羽でできた髯をつけている(この古写本の神がもしマスクをつけずに描かれるとすれば、彼の顔の色は通常黒であり、往々黄色い鼻と、時に赤い口をもっている)」(『古代アメリカ文明の謎』P129)
以上のように、アステカでケツァルコアトルが人身犠牲に関係していた事は間違いない。しかし、人身犠牲は何もアステカ時代に限って行なわれていたわけではなく、メソアメリカではどの文化でも一般的に行なわれていた。
アステカ文明は13世紀頃から1521年までだが、ケツァルコアトルへの人身犠牲は、実はさらに以前に遡る事が考古学調査により確かめられている。
ティオティワカン滅亡(650年頃)からトルテカ時代までの期間(古典期後期)はケツァルコアトル信仰が成立、普及した時代と目されており、すでにケツァルコアトル神話がショチカルコの石碑に刻まれている。ショチカルコはこの時代の文化の中心であり、ケツァルコアトルを主神とする宗教を発展させた。この時代の遺跡からも、人身犠牲の証拠が見つかっている。
「もうひとつ注意しなければならないことは、ケツァルコアトル神信仰に苦行はつきものであることと、人身犠牲もまた要求されたことである。ショチカルコ遺跡には、人身犠牲を示すものはまだみつかっていないが、エル・タヒン遺跡やチチェン・イッツァ遺跡など、この信仰の一大中心地とされる遺跡の石彫などにその証拠がみられ、一般に考えられているように、ケツァルコアトル神が人身犠牲を否定する神ではないことに留意したい」
(『消された歴史を掘る』P110,111)
ここで言う苦行とは、刺で自らの身体を傷つけ、その血を神に捧げることを指す。
さらに、ショチカルコでも黒曜石の大型ナイフ数点が見つかっている。
「解釈はむずかしいが、アステカ時代に儀式用ナイフ、具体的に人身犠牲を行なうために用いられたことから、その可能性も十分考えられる。とくに先に述べたようなテオテナンゴにおける人身犠牲の例をみるとき、その可能性は大となる。同時に、この時期にみる人身犠牲の存在は、ケツァルコアトル信仰に人身犠牲が伴ったことを示すものとして興味深い」
(『消された歴史を掘る』P140)
テオテナンゴとはトルメカ時代の遺跡で、黒曜石ナイフ、人身犠牲による寸断された人骨が見つかっている。トルメカもまたショチカルコの文化を受け継ぎ、ケツァルコアトル信仰を中心とした文明である。
このように、ケツァルコアトルの人身犠牲は、少なくともトルテカ時代、さらには古典期後期に遡るのである。しかし、そのさらに以前のテオティワカン時代のケツァルコアトル神殿からも、人柱らしい20体以上の人骨が発見されている。暦の数字通りに出土したので、全部で360体はあるとも推測されている。
テオティワカン時代(紀元前から紀元650年頃)は、ケツァルコアトル神が生み出された時代と言われている。この頃のケツァルコアトルは、神話からうかがえる属性を持っていたかどうかはわからないが、その発生段階においても人間の犠牲が結びついていたらしい(人柱だとしても)。
これらの事から、ケツァルコアトル信仰には人身犠牲が付物だったと結論することができる。しかし、それは古代メキシコの神々にとっては、ごく当たり前のことだったのである。
皇帝モクテスマがコルテスに血塗られたパンを捧げた事も、古文書においてケツァルコアトルによる人身犠牲が語られている事も、不思議でも何でもない。『クアウティトラン年代記』の記述は、トルテカ文明、そしてケツァルコアトル信仰の実状に合わない、歪められた神話と見るべきである。その原因としては、スペイン人の影響を考えねばならないだろう。
もし、慈悲深い神としてケツァルコアトルを思い描いているとしたら、認識を改める必要があるだろう。ケツァルコアトルは人身犠牲の教義の中心に位置し、彼自身のためにも多くの血が流されたのである。
これをもってケツァルコアトルを残酷な神だと断ずる事は、現代人の先入観による偏見というものかもしれない。しかし、少なくとも慈悲深い神だとは言えないことは確かである。
長くなってしまったが、ここまで読んでいただいた方々には、感謝したい。
しかし、たった一行の文章を裏付けるために、我ながら随分と労力を払ったものである(苦笑)。
飛鳥氏には、人を批判する前に、もう少し下調べをしろと言っておきたい。『ロマン・サイエンスの世界』の批判は通説の都合のいい部分を拡大解釈したに過ぎず、前提となるべき基礎条件を欠いており、それ故に無意味である。そして、それはケツァルコアトルについての不勉強を、自ら暴露する事に他ならない。
しかし、こういう時に限って“権威”や“常識”に頼るというのも、情けない気がする。
常識だから正しいのだろうか?
自分が書いてきた事を思い起こしてほしいものである。
古代アステカ王国 征服された黄金の国 |
増田義郎 | 中央公論社 | 1963 |
世界の民話12 アメリカ大陸2 | 関楠生 | ぎょうせい | 1977 |
アステカ文明の謎 いけにえの祭り |
高山智博 | 講談社 | 1979 |
古代アメリカ文明の謎 コロンブス以前のアメリカ大陸 |
ナイジェル・デーヴィス | 佑学社 | 1980 |
消された歴史を掘る ―メキシコ古代史の再構成 |
大井邦明 | 平凡社 | 1985 |
マヤ・アステカの神話 | アイリーン・ニコルソン | 青土社 | 1992 |
アステカ・マヤの神話 | カール・タウベ | 丸善 | 1996 |
参考Webページ ケツァルコアトルを二十年来研究している、ガードナー氏のページ。非常に充実している。英文。 ANDA ANDA MEXICO CITY ティオティワカンのページを参考にしました。