オーパーツのないオーパーツ本

『完全解明! オーパーツの謎!!』(アスキー)を斬る




『完全解明!オーパーツの謎!!』はインチキ本である。日本のオーパーツがテーマと銘打っている割に、ちっともオーパーツが出てこない。百歩譲って、この本でオーパーツと言えるのは、プロローグに出てくる“聖徳太子の地球儀”のみである。

しかし、この地利石にしても、別に特別な技術で造られているわけでもないし、“南極大陸”にしても別段不思議なものではない。当時(16世紀頃)の地図には、仮想上の南方大陸(テラ・アウストラリス)が描かれていた。また、当時から西欧では地球儀が造られているし、日本にも渡来している。
ピリレイスやオロンテウスの地図がオーパーツと言われていたのは、それに氷の下の正確な海岸線が描かれているとされたためだが(疑わしいが)、地利石はどう贔屓目に見ても稚拙な出来としか言いようがない。新ネタでもない。

しかし、このプロローグはまだ
マシなのである。本文になると、さらにアホ臭い
利島、行基図、三柱鳥居、『未来記』と『未然記』、さらには
琵琶湖までオーパーツだというのだ。

しかし、オーパーツの定義は人によってマチマチであるとはいえ、最低限の必要条件というものがあるだろう。その時代のレベルには合わない技術、知識が使われている事、そして「人の造りしもの」、というのがそれだ。そもそもオーパーツとは、out−of−place artifacts、「場違いな工芸品」という意味なのだ。なんぼなんでも琵琶湖がオーパーツというのはひどすぎる。

しかし、飛鳥氏は先手を打っている。今回の本により、オーパーツの定義さえ変えてしまうというのだ。そして、“場違い”という意味合いを自分勝手に拡大解釈し、アカデミズムから見て「あってはならないもの」、というより自分から見て定説を覆すような物を、何でもかんでもオーパーツにしてしまうのである。この定義の仕方は、二重に
ひとりよがりである。まず、今まで多くの超常現象研究家が築き上げてきたコンセンサスを無視している事、そして、オーパーツかどうかの判定基準を自分の造った理論に依存している事である。


それでは、なぜ琵琶湖がその“オーパーツ”なのかというと、そこからアカデミズムの常識を覆す遺跡が見つかったからだという。湖底から奈良時代の土器が見つかったので、古琵琶湖が三重県から滋賀県に移動してきたのは
奈良時代だというのだ。
その根拠とされているのが、葛篭尾崎(つづらおざき)の湖底遺跡である。ここでは、確かに水深15〜70mの湖底から縄文時代、弥生時代の土器や奈良時代の土師器(はじき)が発見されている。しかし、
平安時代の土器まで見つかっている事実は、どう説明するのだろうか。奈良時代の土器があるから琵琶湖の移動は奈良時代だというなら、平安時代の土器があるからには平安時代に移動したことにしなければなるまい。
しかし、そのような推定の成り立たない事は、他の湖底遺跡を見れば明らかである。琵琶湖には80箇所以上もの湖底遺跡があるが、葛篭尾崎以外の遺跡は最深でも水深4mであり、その位置も湖岸周辺なのである。click here!
 
また、その出土物にしても、縄文早期から
安土桃山時代にかけての物なのだ。これらの遺跡から言える事は、少なくとも縄文早期には、琵琶湖が今の位置にあったという事である。よって、これらの遺跡の成立原因が、古琵琶湖の移動ではない事は明らかである。

成立原因としては、琵琶湖周辺全体が一様に地盤沈下したとは考えられないから、琵琶湖の水位の上昇によるものと見て間違いない。また、その原因は、琵琶湖唯一の排水口である瀬田川の河床の疎通能力の低下だと考えられるのである。

さて、これらの湖底遺跡の中で、葛篭尾崎だけが例外的に深い湖底に位置している。その謎は完全に解けているとは言えないが、まず、発見された遺物が縄文時代から平安時代の9000年間にも及ぶ事から、船舶遭難説は否定できる。同様の理由と、遺物が日常生活に使用されたものであることから、祭祀目的で沈められたという説も無理がある。
検討に値する説は、水位上昇による侵食により、洗い出された遺物が湖底に落下したという説と、地殻変動説であろう。ここで踏まえておかなければならないのは、葛篭尾崎湖底の地形が急激な斜面になっている事である。
地殻変動説については、土器類の多くが破壊されていない事から、地すべりによるものとは考えにくい。また、土器が湖底で口縁部を上に向けていることも、地すべり説には不利な点である。

しかし、滋賀県埋蔵文化財センターの秋田弘毅氏は、地震による液状化現象で生じた
フロッグ・グライド(地塊すべり)により、潟湖(ラグーン)に捨てられた遺物が湖底に落下したものと推定している。フロッグ・グライドとは塊状の地盤がすべり落ちる地すべりで、破壊度も少なく、大きいものでは幅数100m、奥行き数10mに達する。葛篭尾崎の遺物出土範囲は幅約500mだが、その幅のフロッグ・グライドが起こる事も、充分考えられるのである。秋田氏は、その発生時期を平安時代末の元暦二年(1185)の地震の時と推定している。遺跡の規模、分布の点からも、かなり説得力のある説と思える。まさに、特命リサーチ200Xで紹介すべき説であろう(笑)。
いずれにしろ、葛篭尾崎湖底遺跡は、急峻な湖底谷をその成立要因とした、局所的な遺跡と考えられるのである。

他の物にしても、オーパーツの概念を覆すほどの説得力はない。利島や黒又山にしても、それが自然の山である事は飛鳥氏も認めており、仮に多少の加工がしてあったとしても、アカデミズムの理論体系を覆すような“オーパーツ”でない事は明白である。

行基図については『大真実』で、九州を上にしたものだけではなく北上位、東上位、南上位のものが存在している事を指摘したのだが、どうやらこの本ではそれについて反論をしているらしい(ここを書くためによく読んでみて気がついた)。

毎度の事ながら飛鳥氏の理屈についていくのは骨が折れるが、要約してみよう。
江戸時代の絵地図は北を上にしていないものも作成されているので、方位と無関係に九州を上にしただけだと考える人間もいるかもしれないが、「復刻版」の行基図は行基が作成した地図を手を加えずに写図したものである(飛鳥氏によれば、行基図の原版は残っていないが、江戸時代に復刻されたために今に伝わっているという)
それに、そうした江戸時代の絵地図には風景か地図かわからないような美術的な地図もあった。

「よって、江戸時代の地図作りの習慣を当てはめる行為は、歴史観の全く欠如した人間の判断というしかない」(P36)

さらに、江戸時代の地図でも北を上にしたものが多数作られているし、西洋地図の影響を受けていた時代でもあり、伊能忠敬も北を上にして地図を描いている。それに時代が遡るほど
天帝思想(北を森羅万象の源とする)の影響があるので、「当時の地図は全て北を上にして作られていた」。だから、行基図は初めから九州を北にして描かれていたのである・・・・
ちなみに、復刻版行基図には文字が書かれていないと断言しているが、この、まるで行基図を見た事がないような弁には頭をひねらざるをえない。(「復刻版」に手が加えられていないのを強調しているのだろうか)

長々と紹介してしまったが、現実の古地図の基本的データに基づかない、無意味な主張と言う他ない。まず、現存する最古の行基図は1305年(室町時代)の仁和寺蔵日本図で、南方上位で描かれている(天帝思想はどうした)。

西端部は欠落

仁和寺蔵日本図 『地図の文化史』P90より

クリックすると全体図に!う一つ、14世紀初頭には金沢文庫蔵日本図が作成されているが、これも南方上位であり、しかも九州の横には「西国」と書かれているのである。

西方上位(つまり九州が上)の行基図には、延暦廿四年(805)改定と伝えられる輿地図(よちず)があるが、現存するのは江戸時代に写図されたものであり、しかも九州の上には西、東北地方の下にはと書かれている。

※西方上位

1796年『集古図』収録「輿地図」 『地図の文化史』P90より

正統図 クリックで全体た、1550年(室町時代)の正統図(しょうとうず)も西方上位だが、九州の上には朝鮮ではなく「大唐」が位置しており、まさしく九州が西方にある事を示している。
他に、1624年の国立博物館蔵正統図は北方上位、十六世紀の拾芥抄(しゅうがいしょう)所載大日本国図は東方上位である。

以上の例からもお分かりいただけると思うが、西洋地図に影響される以前の日本の古地図というものは、
どの方角を上にするかは定まっていなかったのである。‥‥というよりは、古代から江戸時代に至るまで日本の地図は上下左右の観念が乏しく、色々な方向から見れるように作成されるのが普通であり、地名も色々な方向に書かれていたりする。図の中央に向かい、四辺に東西南北が書かれている地図は、それを雄弁に物語る例である。
西方上位の行基図にしても、東から日本を見ているという考え方もできるだろう。


北方上位の古地図は北極星を重視する観点から(天帝思想?)、南方上位のものは陰陽説の南方を陽とする立場から、東方上位のものは日の昇る方角を、西方上位は大陸を意識してのものという分析もなされている(考えすぎという気もするが)。
1402年に作成された例の李氏朝鮮の古地図、竜谷図は、そのような西方上位の行基図が誤解された結果、生み出されたものである。(竜谷図作成に当り行基図が参考にされた事は、竜谷図記載の記事からも明らか)
このような例は、決して珍しいものではない。ヨーロッパでも行基図を基に日本周辺の地図が作成されたが、その中には日本が東部分を上にして立ち上がった物や、ブリッジしているようなものもある。

右上が日本

ラングレンの東亜図 『古地図の世界』P231より

「当時の地図と一まとめで考えてしまうととんでもない誤りを仕出かす」(江戸時代の絵地図の事らしい)というが、古地図に関して、竜谷図を見て実際に日本が九州を上にしていたと考える以上にトンデモな誤りは、なかなか思いつかない。


未来記と未然記、三柱鳥居については、ここで論ずる必要も感じない。単に、
今まで発表してきたネタをオーパーツと言い換えているだけである。
飛鳥の地上絵については、何度見てもあの巨人像は笑えるとだけ言っておこう(笑)。
最後は失われたアークが伊勢神宮にあるという使い回しのネタなのだが、まだ出てきてもいない物をオーパーツだと言い張る神経は理解できない。これでは「あってはならないもの」ではなく、「あるかどうかわからないもの」と言った方が正しい。


‥‥最後まで、オーパーツについての本を読んでいるという気がしなかった。(飛鳥氏を除き)誰が見てもオーパーツとは言えない物をオーパーツだオーパーツだと騒ぐ姿は、さながら××には見えない着物を着て得意がる例の王様の如くである。
南山宏氏がこのテーマで書いたら、もう少し気の利いた内容になっていたに違いない。

日本のオーパーツの本を書こうというなら、それなりのネタを仕入れてから書くべきだろう。


‥‥だがそう言いつつ、
ネタがないから「オーパーツの概念」を変えざるを得なかったのだという疑念が一瞬、ふと筆者の心をよぎるのであった(笑)。










参考文献
『完全解明! オーパーツの謎!!』(AFS3) 飛鳥昭雄 アスキー 1999
『びわ湖 湖底遺跡の謎』 秋田弘毅 創元社 1997
『水中考古学入門』 小江慶雄 日本放送出版協会 1982
『古地図と邪馬台国』 弘中芳男 大和書房 1988
『地図の文化史』 海野一隆 八坂書房 1996
『古地図の世界』 織田武雄 講談社 1981
『絵地図の世界像』 応地利明 岩波書店 1996


Update/1999.12.8

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