マイクル・シャーマー著
『なぜ人はニセ科学を信じるのか』(早川書房) P9〜14



序文「懐疑主義の実証力」  
スティーヴン・ジェイ・グールド



健全で安全な生活を、つまらなくて役に立たない式典のような生活に変える――生ゴミ処理機のような――行為。懐疑主義あるいは暴露行為は、こんなふうに非難されることが多い。

とはいえ、この行為には、古くはギリシャの「懐疑学」(もとの意味は「思慮深さ」)の創設から、カール・セーガンの遺稿である『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』にいたる、由緒正しい伝統がある。
(拙著にも同じ領域をあつかった『人間の測りまちがい』があることでもあり、本稿では、わたし自身の思うところを正直に述べるつもりである)。

もともと懐疑主義の――知的、道徳的見地における――必要性は、「人間は<考える葦>である」というパスカルの有名な暗喩に源を発していて、この考えそのものは実にユニークだが、同じにとても脆弱でもある。

意識は、地球の生物の歴史の中で人類にのみ許されたものであり、進化の所産としてはほかの何よりも大きな影響力をもっている。

いくら偶発的で予測不能な結果とはいえ、わが種族の歴史と現在のこの生物圏全体を見わたせば、<ホモ・サピエンス>が、まったく前例のない力を手にしていると言っていい。


しかし、われわれは考える葦ではあるが、道理をわきまえた生物とは言いがたい。なにしろ人間の思考と行動のパターンは、思いやりや合理的な思考のみならず、破壊や残虐行為をまねくことも少なからずあるからだ。


あえて人間の暗黒面の源をたどろうとは思わない。はたしてそれは、進化の過程で受け継いだ「凶暴な自然」のせいなのか、それとも、もともと現在のような統制のとれた集団生活を営むためではなく、まったく異なる目的のために形づくられた脳に、調整不能な瑕疵(※カシ、玉に傷)が残っているだけなのだろうか?

いずれにしてもわれわれは、おぞましくて口にできないほどの陰惨なふるまいであろうと、悲痛なまでの勇敢で気高いふるまいであろうと――いずれも宗教や独裁者や国家の威信などといった大義名分のもとに――遂行することができる。(略)


われわれの内に潜む、まがまがしくも組織化された暴力的性格――十字軍や魔女狩り、奴隷制、ホロコーストなどをもたらした性質――から逃れる方法はふたつしかない。

道徳的な節度もたしかに不可欠な要素のひとつだが、それだけではとても充分とはいえない。では、第二の土台となるものは何かとなると、それはきっと精神の理性的な部分からもたらされるにちがいない。


というのも、もし人間が理性をまともにはたらかせることなく、自然界における真理の探求も認知せず、またそういった認識こそが人間にまともな行動を起こさせるという、論理的な関連性に目を向けなければ、不条理や空想、唯一絶対の「真実」への傾倒、そしてその結果避けられない群衆行動といった、恐るべき力に押し流されてしまうからだ。


人間の本質において、理性はただ占める割合が大きいというだけではない。それは悪徳や、感情に支配されて突発的な群衆行動へ走らないための、内なる救済手段でもある。
懐疑主義は組織化された非合理主義への対抗手段であり――そして、それゆえに社会と市民の良識にはなくてはならないものなのだ。


マイケル・シャーマーは、アメリカの懐疑主義を先導する組織の主導者であり、実力派の運動家にして、前述のようなはたらきをする理性の有効性を説く評論家で、アメリカ人の日常生活にとって実に貴重な人物である。
本書では、彼独自の方法論と経験、そして非合理な信仰の魅力に対する分析がつづられており、懐疑主義の必要性とその功績に広い理解をもたらすことになるだろう。



古い言いまわしだが、この運動のスローガンは「用心しつづけることが、自由をもたらす」というものでなければならない。


たとえば、もし一見穏和そうなカルトの団体でも、実はあからさまな魔女狩りに劣らず影響力の強い、非合理な構造を秘めているとすれば、われわれは思想の抑制を基本とするすべての宗教活動に警戒の目を光らせ、きびしい態度でのぞまなければならないからだ。

わたしがもっとも注目するのは、こういったことを踏まえたうえで、あまり大きな害になりそうにないものに関するシャーマーの分析である――エイン・ランドの<客観主義>運動などは、一見しただけでは、問題があるというよりはある種の解決のようにも思える。

ところがシャーマーは、この一派が派手な言葉で論理や合理的思想を語っているわりに、基本的なふたつの部分で、まさにカルトの様相を呈していると指摘する――

ひとつめは、指導者
(そのカルトの性格を体現している)に対する絶対の忠誠をせまる社会を形成していること、そしてふたつめは、非合理主義に関する知識不足を、組織の一員となる基本条件にしているところだ(誤った信仰は、特異で主観をまじえない道徳観を植えつける恐れがある――もちろん、それは教団の指導者が決定し、命じたものだ)(略)


こういった非合理に対して効果的な武器がひとつだけある――
それが理性である。しかし、現代のアメリカでは、非常に分がわるい。
たとえよかれと思って『オプラ』や『ドナヒュー』に出演しようとも
(シャーマーはどちらの番組でも、本書にもあるように、視聴者の注意を促そうとしたのだ)、正当な分析というより、演出上のかみつき役というふうに解釈されるだけなのだから。


つまり、われわれはもっときびしくやらなければならないというわけだ。われわれにはやれるし、やってきたし、これからもやっていくつもりだ。
なにしろ大から小まで――創造論への最高裁判決から、いんちき超能力者や信仰療法のすっぱ抜きまで――偉大な勝利をすでに手にしているのだ。(略)


必要ではあるが、まちがった言説を否定的に除外するだけの活動。懐疑主義に対する悪評は、そんな印象からくるものだ。
実際の懐疑主義はそうではない――本書にはそれがわかりやすく書かれている。


本当の暴露行為とは、ものごとを説明するのに既存のものとは別のモデルがあるのではないかとさがすことから行なわれるものであって、ニヒリズムを行使することではない。


別の説明モデルとは、合理性そのものであり、道徳的な品位とかたく結びついている――地球上で、もっとも強力な結びつきといえるだろう。







(Update 2000.9.12)

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