捨てざり難い説


   
まえがきにかえて




 
 完結した歴史ストーリーは、数多ある自説や私見といった、諸説が積み
 重ねられた結果です。それら諸説の中の数少ない発見が繋がったとき、一
 本の歴史ストーリーになる、と考えています。
  数少ない発見とは、ストーリーの中に活かされているものなのですが、
 それら以外多くの整理された説が、いい加減であるというわけではありま
 せん。

  中には、本流を凌駕するような、もっともな説もありました。

  しかし、それが活かされなかった理由は、その説だけを採れば、まこと
 に確からしいのですが、前後の説が続いてこない、すなわち、ストーリー
 にならなかったために、整理せざるを得なかったからです。

  歴史とは、途切れることなく続いてきた時間の上に起きた出来事であり、
 それを書き留めているものが歴史書でしょう。従って、ある時点から過去
 を振り返ってみたとき、その過去の出来事がいかにして起こったかが、大
 なり小なり説明できるものです。たとえそれが伝説に過ぎなかったにして
 も、一連のストーリーを形成できているものでなくてはならない、と考え
 ています。ただし空想では困ったもので、歴史資料としての文献なり、遺
 物・遺跡などにて、裏づけがとれるものでなくてはなりません。
  中には、新たに発掘された出土文字資料により、ひっくり返ってしまう
 歴史もあります。文献資料がいかに優れていようとも、一次的な原資料に
 手を加えて編纂した、編纂資料は二次的な資料でしかありません。
  従って、出土文字資料や古文書といった、当時さながらの資料が発見さ
 れた場合、定説と言われている歴史すら、修正されなければなりません。
 場合によっては、放棄せざるを得ないことだってあるはずです。
  最悪の自体は、自説を尊重するあまり、発見された史実を、それは偶然
 であったとか、この場合は例外であるとしてしまうことです。

  話が横道にそれてしまいましたが、どんなに魅力的な説でも、その場面
 にだけしか有効でない説は、歴史ストーリーを展開していた上で、結局は
 淘汰されていったのです。

  ところが、中には整理しきれなかった説もあり、始末が悪いことに、そ
 れが頭の片隅から、離れていかないのです。それらは、本編と関連を持た
 せ難い説であり、もっと言うならば、大きくかけ離れているのです。

  それが分かっていながら、どうしても捨てきれない。

  どうせ捨てきれないなら、一度整頓してみようと思い立ち、ここに妄想
 的話として、書き留めておくことにしました。

  本編と大きく異なる部分や、矛盾箇所が多々ありますが、そこは、狂信
 者的発想であるとして、ご勘弁いただきたく思います。
  また、狂信的発想を少しでも和らげようと、文体を「です」・「ます」
 調に改めてみました。

  よろしくお願いします。

                      2006年 7月 17日