捨てざり難い説


   
豊御食炊屋姫尊



  「豊御食炊屋姫尊」とは推古天皇のことです。

  「真説日本古代史」本編でも『日本書紀』の推古天皇、またその二代前
 の用明天皇、先代の崇峻天皇についての記述が、かなり疑わしいことを明
 らかにしましたが、ここではさらに捕捉して記したいと思います。
  従って、本来この論文は「特別編」に編入されるべきですなのですが、
 あえて「古代史妄想的話」としました。理由は次第に見えてくると思いま
 す。

  まずは、本編のおさらいをしてみましょう。

  用明・崇峻・推古の三代については、本編第九部〜第十部にその記載が
 ありました。詳しくはそちらをお読みして頂くことにして、箇条書きにす
 ると次のようになります。


 
 ○推古の年齢から逆算すると用明の即位する余地がない。
  ○「厩戸皇子」(聖徳太子)は、実在性が疑われる用明の子であった。
  ○崇峻は「蘇我馬子」により刹されたが、崇峻を叔父とする「厩戸皇子」
   は、その殺人犯「馬子」とわだかまりなく政治を司っていた。
  ○「蘇我入鹿」は「厩戸皇子」のスケープゴートであった。
  ○『隋書倭国伝』は、推古時代の倭王を「阿海多利思比弧」と記してい
   る。
  ○推古と同時期に大々王なる女帝がいた。


  これらのことから、用明天皇はいなかったことになり、その子「厩戸皇
 子」もいなかったことになります。
  また、「厩戸皇子」は「蘇我入鹿」のダミーなのですから、「馬子」と
 仲良く政治ができたのも当然なわけです。

  「阿海多利思比弧」は、もちろん「蘇我馬子」のことです。

  さらに大々王といわれた女帝は、「物部守屋」の妹で「物部鎌姫大刀自
 連公」といい、「蘇我馬子」の妃(后と書くべきか)だったのです。
  
  ちなみに『先代旧事本紀』では、「物部鎌姫大刀自連公」は「物部守屋」
 の姪となっていますが、「鎌姫」を「守屋」の妹に比定したのは、『聖徳
 太子は蘇我入鹿である』(フットワーク出版社)の著者である「関祐二氏」
 で、彼によれば、『日本書紀』・『先代旧事本紀』・『元興寺資材帳』か
 ら導き出された系譜であって、私はこの説に賛同しております。

  『皇極紀』では「蘇我入鹿」の弟を


  
「またその弟をよんで物部大臣といった。」


  とありますが、続いて次のように説明しています。


  「大臣の祖母は物部弓削大連の妹である。母方の財力によって、世に威
 勢を張ったのである。」

  
  ちなみに『聖徳太子伝暦』では、


  
「復呼其第字 曰物部大臣」


  とあって、弟ではなく第です。つまり「入鹿」が物部大臣であったこと
 になります。
  『日本書紀』では、物部大臣ことを「入鹿」の弟ということで限定して
 いますが、他に名前さえ記述のない弟が、いきなり物部大臣と呼ばれてい
 たとするこの記述には、違和感が拭えませんでした。
  しかし、物部大臣=「蘇我入鹿」であれば、スムーズに理解できます。
 
  渡来者である「蘇我氏」は百済王家に近い筋とはいえ、来訪当時の「倭
 国」での財力は無に等しかったことは当然です。「蘇我氏」と「物部氏」
 がどのような経緯で結びついたかはわかりませんが、『崇峻紀』をみると


  
「蘇我大臣の妻は、物部守屋の妹だ。大臣は軽々しく妻の計を用いて、
 大連を殺した」と。


  あります。

  これらの記述を総合して考えると、「蘇我氏」は「物部氏」を滅ぼして、
 その財産を奪略したように読めます。

  ところが、これこそ『日本書紀』の罠だと思います。

  なぜなら、まず兄殺しの男と兄を殺された妹が婚姻関係である、という
 ことに驚かされます。政略結婚が当たり前であった上古のこととはいえ、
 これは私の理解の範疇を超えています。
  そして『先代旧事本紀』では、「蘇我氏」と「物部氏」の武力衝突の記
 述は一切されておらず、「守屋」は殺されたのかもしれませんが、「蘇我
 vs物部」の崇仏排仏戦争はなかったのではないか、と考えられるのです。
  『先代旧事本紀』は、「物部氏」の私史書であるといっていいくらいの
 内容になっており、前編にわたり「物部氏」がいかに名門であったのかと
 いうことが下書きになっています。
  ところが、最終巻は聖徳太子の死で終わっており、太子を讃える内容に
 なっています。『日本書紀』によれば、太子は「馬子」と共に「守屋」殺
 しの張本人です。

  また、私見による「蘇我氏」は「百済王家」、「それも「武寧王」に近
 い出自ですが、「物部氏」はそんな「蘇我氏」も自らの系譜上に取り込ん
 でいます。「蘇我氏」が「武内宿禰」を祖とすることは、『日本書紀』に
 も記されており、『先代旧事本紀』もそう記しています。この「武内宿禰」 
 と同祖に「彦太忍信命」がいますが、彼の祖をたどっていくと、「物部氏」
 の祖「鬱色雄命」の名が見えます。これらを信じれば、「蘇我氏」と「物
 部氏」は同祖の一族であることになります。

  これらは「物部氏」側の証言であることが重要です。「物部氏」は『日
 本書紀』がなんと言おうと、「蘇我氏」を同族にしたがっている、という
 ことです。
  似たような例では「尾張氏」の存在があります。「尾張氏」の祖、「天
 日明命」と「物部氏」の「櫛玉饒速日尊」とは、異名同体の関係であると
 いいます。筆者はこの説を採りませんが、『先代旧事本紀』はそう解答し
 ています。つまり「物部氏」は「尾張氏」と同族であると主張したがって
 いる、ということです。

  「守屋」が殺されたことは史実なのかもしれませんが、そのことが原因
 で、「蘇我」・「物部」両者の仲を裂くことにはなりませんでした。
  「守屋」殺害は、両者の思惑が一致した結果であったはずです。

  「物部守屋」滅亡は、『崇峻紀』に記されていますが、それによれば、


  
「物部守屋の軍兵が、三度も人々を驚かし騒がせた。」


  とあります。またその前後の記事をみると、どうも「穴穂部皇子」の
 

  
「ひそかに天下の王たらんこと」


  という企てに「守屋」が荷担していたように読め、まさにこのことが原
 因ではなかったか、と思われます。

  話が横道にそれましたが、「蘇我氏」を超悪玉にしたてている『日本書
 紀』ですが、古豪「物部氏」が同祖と認識している「蘇我氏」は、実は名
 門中の名門であったのであり、天皇家に肩を並べるか、それ以上の国王家
 であったと思われます。

  『日本書紀』は、


 
 「蘇我入鹿が君臣の長幼の序をわきまえず、国家をかすめようとする企
 てを抱いている…。」


  と記していますが、どうしても君臣の関係を固持しなければならないの
 は、『日本書紀』が天皇家の史書(私書)だからです。

  「蘇我氏」本宗家、つまり「蘇我蝦夷」は死に際に、


 
 「すべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。」


  といいます。

  珍宝を焼いたのは略奪阻止であることは容易にわかりますが、天皇記・
 国記と言えば、誰もが神代から神武天皇の即位を経て、今なお面々と続く
 天皇家の記録を想像します。「蘇我氏」がそれを葬らなければならなかっ
 た理由は何なのでしよう。なぜ焼く必要があったのでしょうか。
  そもそも、天皇記・国記は天皇家に保管してあるはずで、君臣の長幼の
 序をわきまえず、という「蘇我氏」が保管していたこと自体不自然です。
  仮に、それを「蘇我氏」が焼いたとしても、天皇家にもあるはずですか
 らその行為に何ら意味をなしません。

  従って、「蘇我蝦夷」が焼いたという天皇記・国記は、「蘇我氏」の歴
 史書以外にないのです。死に際に歴史書を焼かなければならなかった理由
 とは、敵対王権に自身の歴史を汚させないためです。

  筆者は、「蘇我馬子」が登場する以降の『日本書紀』は大きな改ざんが
 あったと考えています。具体的にそれは敏達天皇以降の巻です。
  それは「蘇我氏」の本当の姿を歴史から抹殺するためです。

  推古天皇の時代は間違いなく女帝の時代でしたが、それは「豊御食炊屋
 姫尊」ではなく「物部守屋」の妹、大々王「物部鎌姫大刀自連公」のこと
 です。
  「豊御食炊屋姫尊」の幼名を「額田部皇女」と呼んだそうですが、どう
 もこちらが正式名だったのではないでしょうか。

  というのも、『推古紀』の冒頭で


  
「幼少の時は額田部皇女と申しあげた。」


  と記しながら、すぐ後の段では


  
「敏達天皇の皇后である額田部皇女に…」


  と続いているからです。

  もちろん、「物部鎌姫大刀自連公」が女帝であった以上、「額田部皇女」
 は女帝ではありません。敵対王朝の女帝であったとはいえるかもしれませ
 んが、中国と外交ができた「倭国」の正式王朝は「蘇我家」でした。

  さて、本章の本論はここからです。

  女帝でもなく「額田部皇女」でもない「豊御食炊屋姫尊」とは何だった
 のでしょうか。

  実は『記紀』には、もう一人別に「御食炊屋姫」が登場します。

  それは『神武紀』神武東征に、「長髄彦」(ながすねひこ)の妹として
 記されている「三炊屋媛」です。彼女は天神「櫛玉饒速日命」の妻となり、
 「可美真手命」(うましまでのみこと)を生みました。これが「物部氏」
 の祖です。
  『古事記』では「宇摩志麻遅命」(うましまじのみこと)と書き、こち
 らの表音・表記のほうが一般的です。

  「御食炊屋姫」と「三炊屋媛」の表音が同じだと気づいたとき、ウマシ
 マジも「馬子馬子」と当て字ができる、と思いました。

  さらに、次のような偶然もありました。

  『先代旧事本紀』によれば、ナガスネヒコはウマシマジに斬られていま
 すが、崇峻天皇は「蘇我馬子」の命により殺されています。
  さらに用明天皇の「橘豊日」に「饒速日」とよく似ています。

  私は、『日本書紀』の聖徳太子と併存した天皇の実在を、認めておりま
 せん。その時代は「蘇我馬子・蘇我入鹿」が第一王朝で、万世一系の天皇
 家筋ではなかったと信じているからです。

  単刀直入に言えば、ナガスネヒコ時代のエピソードを利用して、用明・
 崇峻・推古三代をねつ造したくらいに考えています。
  なぜかと問われれば答えに窮しますが、案外、ウマシがウマコに似てた
 からではないかな、という単純な理由でしょう。
  おもしろいことに、これら三代天皇の時代に「物部氏」本宗家は、滅ぼ
 されたことになっているので、「物部氏」の祖からねつ造された天皇家が、
 「物部氏」を滅ぼすという何とも皮肉な結末になっています。
  しかし、これとて計算された作り事と考えれば納得できます。

  ウマシマジは、「物部氏」の祖であるといいますが、『日本書紀』の説
 話通りなら、「物部氏」は天皇家に二回滅ぼされています。
  初めは、神武東征による「饒速日尊」の投降のとき、二度目はもちろん、
 「蘇我・物部」の崇仏・排仏戦争に敗れたときです。

 『先代旧事本紀』は、「物部氏」の私的史書と言われながら、「蘇我・物
 部」戦争を記しておりません。卑劣な「蘇我氏」に滅ぼされた、と声高々
 に主張すべきでしょうが、逆に「蘇我氏」との親密な関係を記しています。

  はたして二度目はあったのでしょうか。

  現在、大阪府八尾市を訪問すると、伝承地ながら戦争史跡を目にするこ
 とができます。従って、それをなかったことと言うのには無理があります。
  滅んだとされる「物部守屋」は、「物部氏」本宗家とは考えておりませ
 んが、「物部氏」の中には「守屋」のように、崇仏に抵抗し挙兵する者が
 あったとは言えるでしょう。
  それが大悪党「蘇我氏」を強く印象つけるために、利用されたと考えて
 おります。


                        2011年 4月 了