捨てざり難い説


   
任那と対馬



  『エピソード4・任那日本府』を執筆し終えたばかりで、また「任那」
 問題なのですが、『エピソード4』の巻末近くで、「対馬」に「任那」が
 あった可能性について、少しふれました。

  その可能性を示唆する一文が、『欽明紀』に記されているからです。


  
「遠く離れている壱岐の海路を、わざわざ目頬子がやってきた。」


  上記は、「目頬子」が「倭国」から「任那」に渡航してきたときの記述
 なのですが、


  
「壱岐の海路」


  の先は、「任那」ではなく「対馬」なのです。ここで、疑問が生じるわ
 けです。

  なぜ「対馬の海路」としなかったのか。
  あるいは、なぜ「対馬にやってきた」としなかったのか。

  それは、「対馬」が「任那」だったか、「対馬」も「任那」だったか、
 のどちらかではないか、と導き出されます。

  これだけだったら、書き間違いであった、としてもいいのでしょうが、
 それを裏付けるものとして、次の文献が挙げられることがあります。

  それが、『桓檀古記』です。その『高句麗国本紀』には次のような記述
 があります。


 
 「任那者本在對馬島西北界 北阻海有治 … 後對馬二島遂爲任那所制
 故自是任那乃對馬全稱也」
  (任那はもと対馬島の西北界にあって、北は海ありで阻まれている。後
 に対馬二島は任那の制するところとなり、これにより任那は対馬の全称と
 なった。)



  朝鮮半島にあった「任那」が、「対馬」二島を制して「任那」にした、
 というのです。
  「対馬」は一島ですが、二島というのは、上島と下島に別れているから
 でしょうが、これは運河を設けた結果のことであり、江戸時代末期までは
 一つの島でした。「対馬」二島は近代の表現です。

  『桓檀古記』は20世紀の出版であり、「対馬」二島と記すことからも、
 旧事・故事によったものではありませんし、当然、史学会では偽書で通っ
 ています。

  この文の後は、


 
 「自古 仇州對馬乃三韓分治之地也 本非倭人世居地」

  (古くは、九州対馬は三韓分治の地であり、もとより倭人の世居する地
 ではなかった。)



  と続きます。

  この可能を否定はできませんが、倭人がいなかったというのは、誰も納
 得しないでしょう。中国の史書は朝鮮半島南部に、倭人の居を認めており
 ます。また『三国史記』でさえ、倭人の襲来を記しています。
  それにもかかわらず、九州対馬に倭人がいなかった、というのは荒唐無
 稽です。

  極めつけは、


 
 「永樂十年 三加羅盡歸我 自是海陸諸倭 悉統於任那 分治十國 號
 爲聯政 然直轄於高句麗 非烈帝所命 不得自專也」
  (永楽十年(400)三加羅は尽く我に帰し、これより海陸の諸々の倭
 も任那に統治された。十国に分治し聯政をなした。然るに高句麗が直轄し、
 烈帝の命ずることなしに、勝手に行なうことはできなかった。」



  とあって、なるほど、これでは偽書とされるだけのことはあります。

  さて、この永楽十年の「烈帝」とは、「広開土王」のことですが、上に
 記されている、


 
 「高句麗が直轄し」


  は、どうも『高句麗好太王碑文』(高句麗広開土王碑文)の次の部分、


  
「百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来□海破百残□□新羅以為臣
 民」


  の解釈が基本になっているように思われます。

  “解釈”が、というのは、今日では、


  
「百済、新羅は(高句麗)の元属民であり、かねてより朝貢してきた。
 辛卯年(391)、倭が□を渡り来て、百済、□□、新羅を破って臣民に
 した。」



  とされていますが、この解釈について異論が出され、□を渡って来た国
 が「高句麗」であったという解釈がありました。
  つまり、□を渡って来たのは、「倭」ではなかった、というものです。

  この解釈で訳せば、


  
「百済、新羅は(高句麗)の元属民であり、かねてより朝貢してきた。
 倭は辛卯年(391)、(高句麗は)□を渡り来て、百済、□□、新羅を
 破って臣民にした。」

 

  となり、意味をなしません。

  しかし、こちらの解釈であっても、意味をなさないだけで、筋の通る説
 明ができます。

  第一に、「好太王」の事績を記した碑なのだから、主語の記載がなけれ
 ば、「高句麗」が主語であること。
  第二に、「民」は「高句麗」の配下に限って使われる文字であること、
 が挙げられます。

  この主張は、もっともであり、この部分だけ例外であるというのは、身
 勝手な反論でしょう。

  ところで、


  
「□を渡り」


  の□は、残欠の研究から


  
「海」


  であるとされています。

  すると、先ほどの身勝手な反論も、身勝手ではなくなってきます。

  「百済」・「新羅」を、海を渡って臣民に出来るのは、常識的には「倭」
 でしかありません。
  過去には、日本陸軍による改竄があったという「碑文改竄説」がありま
 したが、これは、1881年に作成された現存最古の拓本が、中国で発見
 され、改竄節は否定されました。

  そうしますと、


  
「海を渡り」


  は、ますます「倭」になるわけです。

  このことを踏まえて再考すると、『桓檀古記』永楽十年の記事は、碑文
 解釈の異論と同思考に基づいているもの、と言えるのではないしょうか。
  それでも、主語は「高句麗」という(ここでは異論ですが)主張ほうが
 正当性がある、という問題は残りますが、中国の史書からみても、「高句
 麗」が「対馬」・「九州」に渡航したという記録は、発見できません。

  ただし、「北陸」・「東北」なら話は別です。「高句麗」から渡航すれ
 ば、その位置関係から「福井」・「新潟」に到着します。『日本書紀』に
 も記されている箇所があり、「越前」・「越中」・「越後」の「越」は、
 “えつ”・“えち”と読めば、私見による「尾張族」移動の始まりの地点
 であり、“こし”と読めば、「高句麗」族の居住地です。

  こうしてみると、『桓檀古記』にあるような「韓人」主権の「任那」は、
 絶対「対馬」ではありません。

  しかし、


  
「壱岐の海路」


  については、どうでしょうか?これは、「対馬」が「任那」であったか。
 「任那」に含まれていたか。あるいは、「対馬」が「任那」の本拠地で、
 朝鮮半島南部の「任那」が従属地だったか、のいづれかが考えられます。

  ただ、先にことわっておかなければなりませんが、「任那」とひとこと
 に言っても、朝鮮半島諸国からみた「任那」と「倭国」からみた「任那」
 とは、おのずと違っているということです。

  朝鮮の史料にみられる「任那」は、史料の突き合わせから「金官加羅」
 であることは判明してます。しかし「倭国」の史料、つまり『日本書紀』
 ですが、そこから推測できる「任那」は、「金官加羅」一国のみならず、
 「伽耶」諸国全体をさしていたり、具体的に「任那」十国という表現も
 あったりで、多義に渡ります。

  従って、『桓檀古記』にしろ他の朝鮮の史料しろ、「対馬」が「任那」
 である可能性を残しているケースはありません。
  むしろその可能性を残しているのは、『日本書紀』のほうなのです。

  しかし、それにしたところで「対馬」=「任那」の疑問の原点は、


  
「壱岐の海路」


  この一点につきます。

  ただし、「任那」を土地・国として考えた場合、「対馬」=「任那」は
 否定されます。
  『魏志倭人伝』は、「任那」の前身と考えられる「狗邪韓国」とは別に
 「對海国」、すなわち「対馬」を記しているからです。

  そうすると、物理的には「対馬」が「任那」であった可能性が、消えて
 しまいました。

  さて、「任那」には「君主の国」という意味がありました。朝鮮音では
 「nimna」と発音するらしいですが、その場合に限り「対馬」を「任
 那」と考えることができます。

  「倭国」で君主と言えば、言わずと知れた大王=天皇です。つまり「対
 馬」は天皇の祖国としての、「任那」であったと考えられるのです。

  天皇の太祖と言えば天照大神ですが、その女神の居ました場所は『記紀』
 に云う高天原でした。しかし、それが「任那」や「対馬」だというのでは
 ありません。残念ながらアマテラスが、「任那」から来たとか、「対馬」
 から来た、という文献を探すことはできません。また、アマテラスは天皇
 の太祖とは言えましょうが、皇国の本主ではありません。

  大同五年(810)正月、嵯峨天皇は次の言葉を残しております。


  
「素戔嗚尊は即ち皇国の本主なり、故に日本の総社と崇め給いしなり」


  これは、愛知県津島神社に伝わる縁起ですが、このことから津島神社は、
 日本の総社の称号を得ています。
  いずれ、詳しく記す機会もあるでしょうから、ここではこれ以上触れま
 せんが、スサノオこそ「倭国」建国の太祖です。

  津島神社は別名天王社といい、全国に三千の分社を持つ総本社ですが、
 津島神社の「津島」は、無論「対馬」のことです。というより、「対馬」
 が「津島」の当て字であると思われます。
  「対馬」は海を隔て「馬韓」に対していたため、「対馬」と記されたも
 のと考えられ、本来は寄港の島である「津島」であったと思われます。

  さて、その津島神社にスサノオが祀られることとなった経緯が、神社の
 縁起として残っております。


  
 
 「須佐之男命韓国に渡りましける時、その荒御魂(あらみたま)は尚出
 雲國に鎮まりまして日御崎の神となり給ひ、又和御魂(にぎみたま)は孝
 霊天皇の四十五年乙卯(前二四五)に一旦西海の對馬州に鎮まりまし、欽
 明天皇の元年庚申(五四○)この地藤浪の里馬津港居森の地神島の南(南
 参道居森社の地)に移らせ給ひ、聖武天皇の天平元年己巳(七五七)神託
 によりて北方柏森(境内栢森社の地)に移し奉り、嵯峨天皇の弘仁九年庚
 寅(八一〇)今の地に移り給ふたとある。」



  本地を津島神社を称するのは、スサノオの和魂が「対馬」から渡ってき
 たからであり、皇国の本主・スサノオの故地が「任那」、すなわち君主の
 国ならば、「対馬」やその前の「韓国」(『日本書紀』では「新羅」)が、
 「任那」とされることは、もっともなことだと思います。

  日本の神代史は『日本書紀』の編纂により、建国の祖・スサノオは、そ
 の立場をアマテラスに取って代わられてしまいました。そのため、欽明天
 皇を始めとする「任那」復興の強い思いが、全然理由のわからないものに
 なってしまいました。

  近年、皇室典範における皇位継承と女帝問題の議論を、耳にすることが
 多くなりましたが、天王の太祖が女神・アマテラスであるならば、男系男
 子の伝統といわれる皇位継承(非常時を除く)は、その大本が女性であっ
 たのですから、議論の対象である女帝論は簡単に済むはずです。
  にもかかわらず、議論が白熱するということは、誰しも潜在的に『日本
 書紀』の嘘を見抜いているわけです。

                        2009年 3月 了