捨てざり難い説 味耜高彦根神と天稚彦 1.味耜高彦根神と天稚彦 「味耜高彦根神」(あぢしきたかひこねのかみ)という神が『記紀』に 記されています。 『記紀』ともに、 「あめなるや おとたなばたの うながせる 玉のみすまる あな玉は や み谷 ふたわたらす あぢしき 高ひこねの神ぞ」 (天にいる、若い織り姫が、首にかけている玉を連ねた首飾り、その連 ねたあな玉は大変美しいが、それは深い谷を二つに渡って輝いている、味 耜高彦根神と同じである) という歌を載せるほど、すばらしく輝き照らす神であると言うのです。 『古事記』では、「阿遅鋤高日子根神」とも「阿遅志貴高日子根神」と も書かれています。 エピソードを簡単に紹介しますと、次のようになります。これは、「出 雲の国譲り」に先行する説話です。 「葦原中国平定のため、まず天穂日命が派遣されるものの、この神は三 年たっても戻って来なかった。そこで次に天稚彦が派遣される。 しかし、この神は味耜高彦根神の妹の下照姫と結婚し、『私も葦原中国 を治めようと思う』と言って戻らなかった。 ついには天稚彦のもとへ無名雉を遣わすことになったが、天稚彦は弓矢 で雉を射殺してしまった。この時雉を射抜いた矢が高天原にまで達し、そ の矢は高皇産霊尊の御前に届いた。『この矢は昔、私が天稚彦に与えた矢 である。血が矢についている。きっと国神と闘ったのだろう』とその矢を 投げ返した。その矢は、見事に天稚彦の胸を射抜き、天稚彦は立ちどころ に亡くなった。 天稚彦の死を嘆く下照姫の鳴き声が天上まで響くと、天稚彦が死んだこ とを知って、屍を天に上げ送らせた。そこで喪屋を造って葬儀をした。 天稚彦が葦原中国にいたとき、味耜高彦根神と仲が良かった。それで味 耜高彦根神は弔いに訪れたのだが、味耜高彦根神と天稚神とは、顔かたち がよく似ていたため、天稚彦の親族妻子は、『まだ死なないで居られた』 と衣の端を手に取って喜び泣いた。味耜高彦根神は怒り、『私を死人と間 違えるとは』と言い、剣を抜いて喪屋を切り倒した。これが下界に落ちて 山となった。いま美濃国藍見川上にある喪山がこれである。」 この後、「出雲の国譲り」説話を経て、ニニギの降臨へと話は続いてい きます。 この説話の中には、おおよそ五人の神が出てきます。 順に、「天穂日命」(あめのほひのみこと)・「天稚彦」(あめのわか ひこ)・「味耜高彦根神」・「下照姫」(したてるひめ)・「高皇産霊尊」 (たかみむすびのみこと)です。 アメノホヒは、いわゆるアマテラスとスサノオの誓約によりできた、五 男三女神の一人で、「出雲土師連」の祖先とされています。その系譜を辿 れば、「菅原道真」に行き着きます。また、出雲大社の祭祀は、代々「出 雲国造」が司ることになっており、それがアメノホヒの神裔であるという ことなので、国譲り説話は単なる伝承ではなく、そこに史実の片鱗をみる ことができます。 ただし、天孫族からみれば裏切り者のアメノホヒが、「出雲国造」家と なったことは解せません。そこで、実はスパイだったと言う説が浮上して きますね。 後述しますが、個人的には、この説には賛同しません。 タカミムスビは、いまさら解説の必要はないでしょうが、アマテラスと 並ぶ(それ以上かもしれません)、高天原の支配者であり、皇祖です。 アマテラスが父方であり、タカミムビは母方に当たります。 他の三人は、『記紀』にはプロフィールが書かれおらず、何ともよくわ かりません。しかし、説話が挿入されている以上、日本建国史上に意味を 持たされていると思うのです。 長らく『記紀』に接していますと、何気なく挿入されている説話は、他 の文献にある説話や、口頭伝承・伝説類の焼き直しであったことや、別の 説話に置き換えて真実を述べているケースが、度々ありました。 そこで、今回もそうではないかと考えたわけです。特に、アジシキタカ ヒコネを称えた歌は、そう考えさせるのに充分な内容となっていると思い ます。 わからないことは神社に聞け、ですね。この三人を同殿に祀っている神 社があります。それは、通称「葛城」の高鴨神社です。鴨と言えば、京都 の加茂大社を連想しますが、ご推察の通り、高鴨神社は全国の賀茂社の総 社なのです。 主祭神は無論、アジシキタカヒコネですが、彼は、亦の名を「迦毛之大 御神」と言います。大御神とされているのですから、これだけでも、アマ テラスと同格と言えましょう。 高鴨神社の説明によれば、「カモ」は「カミ」であるとのことです。 さらに、神社の由緒には、 「弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に 移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめました。ま た東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入 りました。そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社 を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一族の神社であります。」 とあります。 鴨都波神社の祭神はと言うと、これが「鴨都八重事代主命」と「下照姫 命」なのです。神社伝承学的に言えば、アジシキタカヒコネとコトシロヌ シは、異名同体の関係になるのですが、少なくとも、神社を創建した者た ちは、そう考えていたということになります。 コトシロヌシもアジシキタカヒコネも、「大国主命」の息子なのですか ら、無い話ではありませんし、むしろあり得る話だと思います。 しかも、コトシロヌシは「葛城」の神であり、「出雲」では祀られてい ない事実が、いっそうそう思わせます。 『出雲国風土記』では、 「八握もあるほどの長い髭が生えるまで、昼も夜も泣き通して、物を言 わなかった」 という逸話が記されており、「須佐之男命」(すさのおのみこと『古事 記』)とのよく似た表現となっています。 ちなみに『出雲国風土記』では、「阿遅須枳高日子命」となっており、 “あじすきたかひこね”と発生するほうが、一般的なのかも知れません。 御歳神社の主祭神は、その名の通り「御歳神」であり、相殿に「高照姫 命」を祀っています。 神社の説明を借りれば、 「古事記には須佐之男命(スサノヲノミコト)と神大市比売命の御子が 大年神で、大年神と香用比売命の御子が御歳神であると記されています。」 となっており、さらに「高照姫命」に関して、 「相殿の高照姫命は大国主神の娘神で八重事代主神の妹神であります。 一説には高照姫命は下照姫命(拠-古事記に高比売命=高照姫、別名下照 姫命とある)、加夜奈留美命(拠-五郡神社記)、阿加流姫命と同一神と も云われています。」 とあることから、高鴨・御歳・鴨都波の三社は、同じ図式の神祭りをし ているようです。つまり、主祭神の名こそ違え、その実態は同一神であろ うということです。実際、同じ「鴨一族」の祀った神社なのですから、そ れはむしろ当然であると言えるでしょう。 さてさて、アメノワカヒコですが、父を「天国玉命」(あめのくにたま のみこと)といいます。私見ながら、この「玉」の文字は「王」のことで はないか、と考えています。例えば将棋の駒の「王将」は、敵方を「玉将」 としていますし、「玉座」・「玉璽」など「王」を意味するものばかりで す。 「国玉」とはずばり「国王」の意ではないでしょうか。 それを高天原とすれば(高天原がどの国を指すのかは分かりませんが)、 「天国玉命」はこの時点での、高天原の国王だったと解釈できそうです。 すると、アマノワカヒコは王子だったことになり、先に復命しなかった アメノホヒよりも、ずっと信頼が厚かったはずです。 『日本書紀』のよれば、アメノホヒには三年間で復命をあきらめたのに 対して、アメノワカヒコは八年間ですから、王子までがまさかという思い があったのだろう、と考えることはできます。 そのアメノワカヒコは、葦原中国にてアジシキタカヒコネの妹、シタデ ルヒメを娶るものの、自ら放った「天鹿児弓・天羽羽矢」が射返され、胸 に当たって死んでしまいました。 『日本書紀』はシタデルヒメの別名に、「稚国玉」を記しています。父 が「顕国玉」(オオクニヌシの別名)であることから、父は国王であった と考えられます。するとシタデルヒメは、父の死後その国を継承した女王 であったことになります。 「葛城」地方は、「尾張氏」との関わりが深いので、女王国であったと しても不思議ではありませんが(本編第五部参照)、アメノワカヒコは、 女王と一緒になったわけですから、 「私も葦原中国を治めようと思う」 という言葉も、おおげさではありません。 『記紀』では、アメノワカヒコの死後『出雲の国譲り』説話へと続くわ けですが、彼が復命してこなかったという葦原中国が、「出雲」であった とすれば、この説話は解せない内容になっています。 というのも、アメノワカヒコがシタデルヒメと婚姻関係になった時点で、 葦原中国の平定は解決済みと考えられるからです。 両国の王子と女王が婚姻しているのに、それを王子の裏切りと考える理 由は何でしょうか?婚姻で二国は一つとなり、さらに高天原側は、彼らの 間にできた子に、また誰かを嫁がせるなり妻を取るなりすれば、万全では ないでしょうか。このことは葦原中国側からみても同じことが言えます。 ここに軍事の必要性は全然ありません。 アメノホヒについても、同様に考えることができるでしょう。彼が平定 した後、さらに平定の使者をやる必然性はないのです。 これを史実に基づいた説話とし、合理的に考えれば、アメノホヒとアメ ノワカヒコの派遣先か、派遣元が違っていたことになり、この二人の裏切 り説話は、アメノワカヒコの死と、義父、オオクニクシ殺しの理由が必要 だったための、史実の改竄だったものと思います。 アメノホヒの後裔は、出雲国造家へとなっていくわけですから、これも 裏切ったにの何故?と考えなくてもいいのです。平定した結果と考えるべ きでしょう。 にもかかわらず、タケミカヅチは、 「高皇産霊尊が皇孫を降らせ、この地に君臨しようと思っておられる。 ・・・お前の心はどうか、お譲りするか、否か」 と、オオクニヌシに問うています。これは妙な話です。この状況で考え られるケースは、後継者争いですが、もう一度考えてみてください。 アメノホヒが復命しなかった時点で、亡くなっていない限り、葦原中国 は平定されているのです。その延長が出雲国造家なのですから、この葦原 中国とは、当然「出雲」です。すると、オオクニヌシに「国を譲れ」と迫 るのは筋違いです。 つまり後継者争いではありません。 もう一つは、オオクニヌシの謀反です。しかし、謀反を企てた人物に遠 慮は要りません。オオクニヌシには雲太といわれる、巨大な社が建造され ています。『記紀』に記されたオオクニヌシの態度からもみても、謀反も またありません。 ・・・・・ 結局、オオクニヌシの存在が邪魔だから殺された、ということです。そ れを「出雲の国譲り」説話としてねじ曲げられた、というのが本当ではな いかと思います。 アメノワカヒコは自然死だったと思います。それがオオクニヌシ殺害に 利用されただけです。葦原中国を、それだけ「騒がしい国」に仕立てる必 要があったのでしょう。 暗殺を平定にすり替えるのですから、より「騒がしい国」でないとまず いわけです。 さて、アメノワカヒコの派遣先ですが、「出雲」でありません。考える までもなく、それは「葛城」地方です。時代を考えれば、そこが「原大和」 と言えると思います。 そのアメノワカヒコと結婚したシタデルヒメですが、先の御歳神社の由 緒から、「高照姫命」と「下照姫命」とは、異名同体の関係であることが わかります。シタテルは「下光」とも書かれることから、タカテルは「高 光」とも書かれます。 「高光姫」(高光日女)と書けば、これがなんと『海部氏勘注系図』の 「天道姫命」(あめのみちひめのみこと)の別名に当たります。すると、 アメノワカヒコは「海部氏」の始祖、「彦火明命」に該当してきます。 つまり神社伝承学でいう「饒速日尊」(にぎはやひのみこと)になるわ けです。 アメノワカヒコがニギハヤヒのことだったとすれば、どうなるでしょう。 『日本書紀』のニギハヤヒは、「長髄彦」(ながすねひこ)を斬って、 東征してきた神武天皇に降伏したとされておりますが、『先代旧事本紀』 では、ナガスネヒコの妹の「御炊屋姫」(みかしきやひめ) と婚姻して、 まもなく神去ってしまったといいます。 これは、シタデルヒメと婚姻した後、亡くなってしまうアメノワカヒコ の立場と、よく似てます。 そうすると今度は、アジスキタカヒコネ=ナガスネヒコでなくてはなり ません。 ・・・・・ 私は、アジスキタカヒコネの“キタカヒコ”の部分は、美称で「日高彦」 ではなかったか、と考えるようになりました。 「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)をはじめとする、通称日向三代と呼ば れている神の美称の一つに、“天津日高彦”があります。例えば、ニニギ のフルネームは、「天饒石国饒石天津日高彦(あるいは天津彦彦)火瓊瓊 杵尊」であり、“瓊瓊杵”以外の部句はすべて美称です。 これをアジスキタカヒコネに当てはめ美称を省くと、“アジスネ”とな ります。「高彦」だとしても“アジスキネ”です。これは、“ナガスネ” の転訛と考えられなくはありません。 アジスネ AJISUNE ナガスネ NAGASUNE からもわかるように、母音はほぼ同じです。このように、シタデルヒメ を介することにより、アジスキタカヒコネとナガスネヒコが、同一人物と して繋がって来るのです。 「迦毛之大御神」と称されたアジスキタカヒコネがナガスネヒコであっ たならば、当然、ナガスネヒコ=コトシロヌシとなるわけですが、『日本 書紀』によれば、ナガスネヒコはニギハヤヒに殺されています。ナガスネ ヒコが天孫・神武に降伏する意志がなかったから、というのが理由です。 ということは、コトシロヌシが殺されたことになりますね。 ところが、コトシロヌシは逆らうどころか、どの古伝も一様に帰順した ように記しています。確かにコトシロヌシが殺されたというのは、コトシ ロヌシのイメージに遠く及びません。 そこで、ナガスネヒコ=コトシロヌシの前提に立って、ナガスネヒコの 消息をたどってみると、『古事記』では、ナガスネヒコの生死についての 言及をしていません。『先代旧事本紀』では、ウマシマジが斬ったとして いますが、それを基にしたであろう当代随一の偽書のレッテルを貼られた 『先代旧事本紀大成経』は、東北亡命説を掲げております。 偽書と言えば、『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)も東北亡 命説を唱えております。 『外三郡誌』で興味深いことは、ナガスネヒコは畿内にあった耶馬台国 (邪馬台国とは書いてないが、耶は邪の文字を嫌ったものであると、当然 考えられる。)と呼ばれた五畿七道五十七カ国の連合の盟主であり、それ はナガスネヒコと弟の安日彦(あびひこ)によって、統一された連合国で あったとしている点です。 詳しいことはその筋の解説本に委ねますが、簡単に言うと、日向一族の 侵攻を受けた耶馬台国は、連合が解体され、ナガスネヒコはニギハヤヒの 部下の矢に当たり負傷、アビヒコは越の国に落ち延び、ナガスネヒコは東 北へ退却、後に落ち合って、同時に集団亡命していた耶馬台族らと、東日 流民族と結び、荒吐族(あらはばきぞく)となったというものです。 この話は、『記紀』にみえる『出雲の国譲り』説話と、非常によく似て いると思います。 『古事記』によれば、高天原からの使者、タケミカヅチの要求を呑んだ コトシロヌシは自ら身を隠し、建御名方命(たけみなかたのみこと)は、 戦いを挑んで退却、信濃に身を寄せることになりました。 ただし『日本書紀』では、タケミナカタは記されていません。 これを順に『外三郡誌』の、ニギハヤヒ、ナガスネヒコ、アビヒコに当 てはめますと、ほぼ同じ説話になります。しかも『日本書紀』にアビヒコ は登場しません。 アメノワカヒコの説話、それに続く『出雲の国譲り』の説話、そして、 神武東征時のナガスネヒコの説話は、すべて同じ話を本にしているのでは ないかと思います。 また『出雲の国譲り』の「出雲」とは、島根県の「出雲」ではありませ ん。「出雲」には、なぜかコトシロヌシを祀る神社がないのです。(出雲 には、ゑびすさまの総社と言われる美保神社があり、ゑびすと言えばコト シロヌシなのだが、『出雲国風土記』は「御穂須須美命」を記すのみであ る。コトシロヌシの名がみえるのは、文亀三年(1503)「吉田兼倶」 の『延喜式神名帳頭註』であるが、 「島根郡美保 三穂津姫也 一座事代主」 とあくまでも、主祭神は「三穂津姫」である。この「三穂津姫」も『出 雲国風土記』の「御穂須須美命」と同一神であることに疑問が残るが、こ こでは明らかにしない。ちなみにゑびすには蛭子神系のもあり、こちらの ゑびす社の総本社は西宮神社である。) 前述通り、コトシロヌシを祀る神社は葛城地方にあり、それは鴨族によ り神祀りがされていたのですから、鴨族の神に違いありません。 すると、国譲りのあった「出雲」というのは、島根県の狭義の「出雲」 ではなく、「出雲国」が畿内までもを、勢力下に置いていた頃の「出雲」 であり、それは葛城地方であったことになります。 葛城地方とは、古代の感覚では現葛城山と金剛山周辺のことですが、こ の葛城山地は、奈良盆地を挟んで大和の三輪山とは、おおよそ東西に位置 します。 『延喜式』神名帳に記されている「大和国」名神大社二十六社のうち、 七社がこの山麓に集中しています。 そのうち豪族と関係が深い神社は、北から順に 葛城坐火雷神社 鴨都味波八重事代主命神社 葛木御歳神社 高天彦神社 高鴨阿治須岐託彦根命神社 の五社です。ほかに葛木坐一言主神社と葛木水分神社がありますが、一 言主神社は雄略天皇と一言主の神にちなんで祀られたもの、水分神社は水 の神を祀ったものなので、ここでは除きます。 さて、この五社は、次の三つのグループに別けることができます。 1.葛城坐火雷神社 2.鴨都味波八重事代主命神社 葛木御歳神社 高鴨阿治須岐託彦根命神社 3.高天彦神社 このうち、1.の葛城坐火雷神社は、尾張族の神社であり、祭神は火雷 神です。 2.の三社は、既出ですが、コトシロヌシを祀った鴨族の神社、3.の 高天彦神社の祭神は、タカミムスビなのですが、どの氏族によって祀られ たものなのか、はっきりしません。 『真説日本古代史』本編では、出雲の国譲りとは、侵攻してきた「尾張 氏」が、葛城地方の先住民族「鴨氏」と結んだ事実の説話化、と説きまし た。『記紀』では、武甕槌神(『紀』による、たけみかつちのかみ、『古 事記』では建御雷神)は、タカミムスビによって派遣された神ですから、 国譲りの舞台である葛城地方に、タカミムスビが祀られていることは、あ る意味当然と言えましょうが、上記通り、これを祀った氏族がわかりませ ん。 私は、これを葛城族ではないかと考えています。六世紀の「葛城氏」と 区別して、ここでは「葛木氏」とします。 「葛木氏」と尾張族の結びつきは、『海部氏勘注系図』を見れば、具体 的に記されています。はっきり言って、両者の関係は同族です。 「尾張氏」は「葛城」の「高尾張邑」を領地としていました。「高尾張 邑」は、現在地名が失われて所在が解りませんが、葛城坐火雷神社界わい であることは想像できます。 「尾張氏」の前身は、高尾張族です。「葛城」の高尾張族が、尾張地方 に渡り「尾張氏」を名乗り、現地に残った高尾張族は「笛吹氏」となった といいます。葛城坐火雷神社は別名、笛吹神社と呼ばれています。 もともと当地にあった、火雷神社と笛吹神社(祭神は天香山命)とが合 祀されたものであるからです。 実際の「高尾張氏」の氏名は、九世紀のものですから、神武以前では、 単に高尾張族でしょうが、「高尾張」の名称の実在は『記紀』が証明して ます。 「尾張」・「高尾張」に対して、「鴨」には「高鴨」があります。高鴨 阿治須岐託彦根命神社もその例の一つです。 高天彦神社も、その祭神のタカミムスビも「高」ですが、タカミムズビ には「高木神」という別名があって、これも「高」です。 この地方が「葛城」でありながら、その名称を有する氏族の名残が、こ の地方にないこと自体、不思議でなりません。 そう考えた場合、この「高木」は「高葛木」ではなかったか、と考える ほうが自然な気がします。 「高木」 TAKA KI 「高葛木」TAKA(KA)TURA KI のように、転訛と考えられると思います。 さらには、 「『葛城』の地名については、諸説があるが『葛』は一般には蔓(つる) の「かずら」と考えられている。しかし『桂』の落葉種の高木とみる考え もある。すると山城国葛野郡に『桂』という地名があることとも関係して きそうだ。 また葛城地方の『高城』も『高木』とも考えられそうだ。そうしたこと から、『葛城』とは『葛城の高宮』つまり『高城=高地の砦(高宮・宮城、 国見の場・祭場)=高木』とも解釈できそうである(葛城山は葛城氏にとっ て御諸山であり聖地であったのある)。 すると『葛城の神』とは『高木の神』であり、・・・・ (◆京の歴史と文化と人物【スサノヲの京都学】京つう より引用) とされる識者もおられ、これは「葛木」が「高木」であったことを、実 に上手く言い当てている説だと思います。 「葛木氏」の始祖をタカミムスビとすれば、この神自体、皇祖母方であ り、尾張族・鴨族(『日本書紀』は神武・綏靖の后をコトシロヌシの娘と している)も后・妃を輩出していることから、継体天皇出現までの外戚は、 「葛木」出身の氏族が深く関与していたことになります。 別の「葛城氏」とは「葛城襲津彦」に代表される、「武内宿禰」を祖と する氏族ですが、六世紀の氏姓制度成立以前において、「葛城」氏名の存 在ははなはだ懐疑的とされています。 「葛城氏」が「葛木氏」であったとすれば、同じ皇祖である、アマテラ スの系譜が、今日まで継承されているのに対し(天皇家だから当たり前で すが)、タカミムスビは母方ではあるということを差し引いたとしても、 何も伝わっていないのは、そもそも「葛城氏」は「葛木氏」ではなかった からでしょう。 神武〜欠史八代の天皇の実在性を認め、大和王権に先行する葛城王朝が 存在したことを、唱えている代表格が「鳥越憲三郎」氏です。 私は、葛木王朝(葛城ではない)の存在を認めますが、それは先行して いたのではなく、大和王朝と並立していて、後に合併し、王朝としての葛 木の歴史は終わったのだと思います。それが四世紀初頭でしょう。 しかし葛木王朝と言いながら、その地名を代表してもよさそうな、「葛 木」あるいは「葛城」の氏名は、神武〜開化朝にみることはできません。 「葛木出石姫」・「葛木高田姫」など、「葛木」を有する名を残す文献 は、例の『海部氏勘注系図』だけなのです。 一応「葛木氏」は、「尾張氏」に吸収され、同族化していったと考える ことができます。 その傍証として、高天彦神社が挙げられます。先に述べたとおり、ここ はタカミムスビを祀っていますが、「高天彦」は「建田勢命」の亦名とし て、『勘注系図』は記しています。そして「建田勢命」の妃に「葛木高田 姫」を記しています。 「建田勢命」は、「尾張氏」版ヤマトノスクネです(『封印された古代 史妄想的話 其の9』)。彼がタカミムスビとイコールで結ばれるとなる と、「葛木氏」とは「尾張氏」そのものになります。「尾張氏」の名乗り が尾張地方に移住をきっかけにしたものだったとすれば、「尾張氏」が、 「高尾張邑」にいた頃は、「葛木氏」を名乗っていたかもしれません。 あるいは「葛木氏」ではなく「葛木族」であって、「尾張氏」と「鴨氏」 が結びついた結果、その両氏がまさに「葛木族」そのものとなり、彼ら共 通の神として定めた、「高天彦」を祀ったのかもしれません。 さて、アメノワカヒコからは、話がそれていった感も否めませんので、 ここでまとめてみましょう。 『記紀』のアメノワカヒコ説話の裏に隠された背景とは、なんだったの かを、今一度考えてみたいと思います。 ます葦原中国へ先だって派遣されたアメノホヒについてですが、復命し なかったという彼は、葦原中国王家と婚姻関係になり、次代の葦原中国王 となったものと思われます。このときの葦原中国とは、どうやら「出雲国」 のようです。そして、ここは平和的に解決しており、アメノワカヒコ派遣 には結びつきません。アメノワカヒコはアメノホヒとの繋がりはなく、独 立であったはずです。そうであるからこそ、両者のからみがないのです。 アメノワカヒコの派遣先、葦原中国は「出雲国」ではありません。「大 和国」だったのです。そしてアメノワカヒコとはニギハヤヒの別の顔でし た。 ところで、「出雲国造」家の祖がアメノホヒであったことについて、疑 問の声がありますが、アメノホヒはスサノオとアマテラスと間にできた、 第二子であることから、「出雲国」継承の有資格者なのです。 アマテラスとスサノオが誓約をしたときにできた子は、通称八王子と称 され、次の五男三女なのですが、 天忍穂耳命(あめのおしほみみ) 天穂日命 (あめのほひ) 天津彦根命(あまつひこね) 活津彦根命(いくつひこね) 熊野[橡]樟日命(くまのくすひ) [ ]は木ヘンに豫 田心姫(たごりひめ) 湍津姫(たぎつひめ) 市杵嶋姫(いちきしまひめ) 『記紀』は五男をアマテラスの子、三女をスサノオの子としています。 普通に考えれば、これはおかしな話です。両親は共通なのですから、子供 を区別する考え方には理解ができませんが、『記紀』はスサノオを皇祖と 認めたくないのでしょう。だいたい、アマテラスの子と主張するのなら、 いくらなんでも熊野はまずいのでしょう。 ここは、アマテラスの子としなければならなかった、『記紀』の事情を 察することが、真の古代史である、ということにしておきます。 さて「大和国」に派遣されたアメノワカヒコですが、彼はニギハヤヒで もあるため、『先代旧事本紀』を見てみると、 「饒速日尊は天神の御祖の命令を受け天磐船にのって、河内の国の河上 の哮峰に天下った。大倭の国の鳥見の白庭山に移った。所謂、天磐船に乗 り、大空を駆け行き郷を巡り見て天下られた。所謂、空より見た日本の国 とはこれで有る。饒速日尊は長髄彦の娘の御炊屋姫を娶り、懐妊させた。 生まれる前に、饒速日尊はお亡くなりに成った。天上に未だ戻られて無 かったので、高皇産霊尊は速飄神に 『我が神の御子の饒速日尊を葦原中国に使わしたが、疑わしく思うとこ ろがある。故に汝、調査して報告せよ。』 と命じられた。速飄神は命令を受けて降りて来たが、饒速日尊が亡くな られたのを見て天上へ取って返し、 『神の御子は、お亡くなりに成りました』 と報告を行った。」 とあり、『記紀』のアメノワカヒコ説話に実によく似ています。もっと も似てて当たり前なのですが。 ナガスネヒコはアジスキタカヒコネでもあるわけですから、ニギハヤヒ とナガスネヒコは、その風貌が大変よく似ていたことになります。 また、ナガスネヒコは後に「迦毛之大御神」と称されたことから、「鴨 族」の大王だったのであり、「葛城山」を聖地とするその周辺が、ナガス ネヒコの治める土地だったのでしょう。 「尾張族」は、元々葛城地方の土着民族ではないと思います。ニギハヤ ヒよりは先でしょうが、先行して葛城地方に入り、「鴨族」と和平を結び 「高尾張邑」に根付いたのだと思います。上賀茂神社の祭神、「別雷大神」 が「尾張氏」の祖神、「彦火明命」と異名同体の関係であることから、侵 略による葛城占拠と考えることは難しいでしょう。 その後、ニギハヤヒが天下ったものと思われます。ホアカリはニギハヤ ヒの別名と言われておりますが、この辺の事情から発生したのではないか と考えられます。 ニギハヤヒが「物部氏」の祖であるならば、「物部」・「尾張」・「鴨」 の三つの氏族が、「高天彦」を共通の神と定めたのでしょう。しかし、中 身は三者三様だったに違いありません。 ナガスネヒコは、『日本書紀』ではニギハヤヒによって、『先代旧事本 紀』ではウマシマジによって討たれていますが、『東日流外三郡誌』では、 東北へ逃れています。 もちろん、『東日流外三郡誌』は評価を下げていますが、ここに記載の 「荒吐五王」の一人に「物部氏」が名を連ねていることは、「秋田物部氏」 との関係を考えると、これまた誠に興味深いことです。 2008年 10月 了 |