捨てざり難い説 封印された古代史妄想的話 猿田彦大神 「猿田彦神」(さるたひこのかみ)は「邇邇芸命」(ににぎのみこと、 『古事記』)が天降りしようとしたとき、 「天から地へ通じるいろいろな道が集まった要の場所に居て、光って上 は高天の原に輝き、下は葦原の中つ国に輝いている神がありました。」 (『古事記』) と、立ちはだかっていた神です。 また『日本書紀』の一書(第一)は、サルタヒコの容貌を、次のように 記してます。 「その鼻の長さ七握、背の高さ七尺あまり、正に七尋というべきでしょ う。また口の端が明るく光っています。目は八咫鏡のようで、照り輝いて いることは、赤酸漿に似ています。」 この容貌は、まるで天狗ではないか、と思えるほどの異形なのですが、 具体的に容貌についての記述があること自体が、まず特異であると言える でしょう。 神と言うよりもむしろ、化け物や怪物と言う表現のほうが相応しいです ね。その上で神と記されているサルタヒコは、『記紀』編纂者等にとって、 畏怖の念を抱く存在であった、ということだと思います。 恐れ多い神=恐ろしい神、と言い換えることできます。 しかも、高天原から葦原の中つ国まで照らし輝く神であった、というの ですから、サルタヒコは太陽神そのものであったはずなのです。 そのうえ、ニニギを高千穂峰へと案内すると、自らは天鈿女命(あめの うずめのみこと、後述)に送られ、故郷の「伊勢」に帰っていったと言い ます。 「伊勢」と言えば、アマテラスが、 「伊勢国はしきりに浪の打ち寄せる、傍国の美しい国である。この国に 居りたいと思う。」 と言った土地です。そして、アマテラスが始めて天より降りられたとこ ろが、五十鈴川のほとりの磯宮なのです。 しかし、このときよりずっと以前の神代に、サルタヒコは「伊勢」に土 着していて、太陽神とされていた、ということです。 土着の神が居た土地に、新たな神が降臨してくる説話はよくあることで あり、それは新たな部族の侵略・侵入が伝説化された話であって、それ自 体は問題にはなりませんが、ここで問題にしたいことは、「伊勢」にはア マテラス以前に、すでにアマテラスが居たことです。 このことは、これまでに証明してきたことであって、いまさら目新しい ことではなく、このアマテラス以前のアマテラスがサルタヒコであって、 「高天原から葦原の中つ国まで照らし輝く神であった」 とすれば、この神は「天照国照彦天火明」(櫛玉饒速日尊)と称されて いる、「尾張氏」・「海部氏」の祖神、ホアカリと重ねて考えたくなって しまいますし、おそらくそれが正解ではないでしょうか。 それにサルタヒコは、「伊勢」に限った神ではないようです。 『出雲国風土記』では、「佐太大神」(さたのおおかみ)について記し ていますが、この神がサルタヒコと同体ではないかと、考えられています。 その佐太大神は、加賀神崎の説話として記されています。 それによれば、 「いわゆる佐太大神の産まれたところである。大神がまさに産まれよう とするときに、その母神の枳佐加比賣命が弓矢を失くしてしまった。そこ で『吾が御子が麻須羅神の子であれば、失くした弓箭、出でよ。』と願っ た。その時、角の弓射が水に流されて出てきたが、『この弓は吾が弓箭で はない。』と言って、投げ棄ててしまった。今度は金の弓箭が流れてきた。 それを取って、『暗い岩屋であることだ』と言って、射通した。 そういうわけで支佐加比賣命の社が、ここにある。」 となっており、また加賀の地名の由来を、 「佐太大神の生まれたところである。御祖は神魂命であり、その子、支 佐加比賣命は、『暗い岩屋であることだ』と言って、金の弓で射抜いた時 に、光り輝(加加)いた。従って加加という。」 としています。 金の弓箭で貫かれた暗い岩屋は、「佐太大神」の誕生と同時に光り輝い たわけであり、その金の弓箭とは、岩屋を貫く太陽光線と考えられますが、 賀茂別雷神社の丹塗り矢をも思わせます。 この岩屋での誕生説話は、別の説話と比較することで、意外なことを気 づかせてくれます。 岩屋で連想するのは、天照大神の天の岩屋隠れの説話でしょう。 スサノオの蛮行に怒ったアマテラスは、岩屋に入られると岩戸を閉じて 隠ってしまったため、闇世となったという話であり、古代の日蝕ではない かとも言われているものなのですが、このアマテラスを導き出すため、神 懸かりになって踊ったのは、アメノウズメ(天鈿女命)でした。 このときのアメノウズメは、 「胸の乳房をあらわに出し、腰にまとう裳のひもを低く下げて、陰処の あたりまでずらして踊りつづけた。」(『古事記』) であったといいますが、サルタヒコと対した時のアメノウズメは、 「自分の胸を露わにむき出して、腰ひもをへその下まで押し下げ、」 (『一書(第一)』) と、まったく同じ行動を取っているのです。 考えてみれば、女性神であるアマテラスが、ストリップに興味を示して 様子をうかがったというのは、何か解せないものがあります。 しかし、女性神・アマテラスが創造であったのならば、金の弓伝説とサ ルタヒコ伝説から、岩屋隠れの説話が創られたのではないか、と考えるこ とができると思います。 アメノウズメは、サルタヒコとの関係からその後、「猿女君」(さるめ のきみ)を名乗っています。こうした名乗りの由来も原伝承らしいでしょ う。 サルタヒコ=「佐太大神」もまた、プレアマテラスであろうことはわか りました。ホアカリやトヨウケとは、異名同体の関係にあると思われます。 少々横道にそれますが、家庭で神棚を祭るときは、中央には伊勢神宮、 向かって右に氏神様、左に崇敬する神社のお札を祭るのが普通です。 ところが、「猿田彦神」の場合は中央に祭り、右に伊勢神宮、左に氏神 様を祭るのだそうです。天孫の導きの祖神である、というのが理由であり、 そこには当然、アマテラスより古いという誇りが隠れているのだろう、と 思われます。 名古屋市北西部に残っている屋根神様は、向かって左から、熱田・津島・ 秋葉の例が多いことから、伊勢神宮が民衆に知れ渡った時期は、比較的新 しいことがうかがい知れます。 ところでサルタヒコは、「伊勢」の神でありながら、出雲の神でもある ということですから、「伊勢」と「出雲」の関係について、考えなければ なりませんが、一見すると「伊勢」と「出雲」は、相反する、もっと言え ば敵対する関係という認識が根付いています。『記紀』でいう、「出雲」 の国譲り神話が底辺にあるからです。 さて、「佐太大神」は、出雲四大神のうちの一神です。 出雲四大神という名称は、私的な言い方で一般的ではありませんが、こ こではそうします。 ほかの三大神は、 所造天下大神 熊野大神 野城大神 といいます。「所造天下大神」は「大穴持命」、つまりオオクニヌシの ことであり、「熊野大神」とは一般にスサノオであると認知されておりま す。 しかし、よくわからないのが「野城大神」です。 『出雲国風土記』をみますと、意宇郡野城駅の条に 「野城の駅。郡家の正東廿里八十歩なり。野城大神坐す。故れ、野城と 云ふ。」 とあるだけであり、詳細が全然つかめません。島根県安来市能義町に能 義神社があり、『延喜式』では野城神社と記されておりますが、ここには 「野城大神」は祀られておりません。祭神は、「天穂日命」(あめのほひ のみこと)であり、実は「野城大神」の名は、「出雲」のどこにも見あた らないのです。 私自身、「野城大神」がアメノホヒだとは考えていません。能義神社に ある立札には、 「社殿も古雅広壮であったと伝えられていますが、永禄六年(1569) 天災で焼失、慶長十八年(1613)堀尾氏の御造営以来十一回の御遷宮 を経て今日に及ぶ大社造りの古社であります。」 とありますが、実際の社は、行き過ぎてしまうくらいのたたずまいで、 おおよそ旧大社のイメージはなく、無人であることも手伝って、ここが出 雲四大神の一神を祀っているとは思えません。 佐太神社・熊野神社並の社が、再建されても良いはずですなのに、それ がされていないことは、まったく不思議なことです。何たって、「野城大 神」は出雲四大神の一神に数えられるわけですから、再建されなかった理 由は、能義神社には野城大神がいない、また、アメノホヒでもないという ことになります。 アメノホヒは、出雲国造家の祖先神であることから、「野城大神」がア メノホヒであるならば、能義神社は当然再建されていることでしょう。 出雲神話に登場する国造りの神は、大別すると、スサノオ、オオクニヌ シ、スクナヒコナ(少彦名命)であると言えましょう。「佐太大神」はサ ルタヒコであり、出雲神話の範疇に入りませんが、個々に神名を該当させ れば、「野城大神」はスクナヒコナに当たります。調べてはいませんが、 可能性はあると思います。 また、話が横道にそれましたが、もう少しおつきあい頂きましょう。 オオクニヌシの子に「伊勢津彦命」(いせつひこのみこと)があります が、この神の別名は「出雲建子命」(いずもたけこみこと)です。イセツ ヒコの名が「伊勢」国名の由来になっています。 熊野神社は、「紀伊」に全国の熊野神社の総本宮・熊野本宮大社があり、 よくわからない野城大神を除けば、三大神は「伊勢」地方と関係が深いこ とがわかります。 「紀伊」には、スサノオの子「五十猛命」(いたけのみこと、「五十猛 は伊太祁(いたけ)と訓 『紀伊續風土記』)の伝承があり、『日本書紀』 の神代一書の四には、 「五十猛神が天降られるときに、たくさんの樹の種をもって下られた。 けれども韓地に植えないで、すべて持ち帰って、筑紫からはじめて、大八 洲の国の中に播きふやして、全部青山にしてしまわれた。このため五十猛 命を名付けて、有功の神とする。紀伊国においでになる大神はこの神であ る。」 とあり、また、一書の五にも、 「素戔嗚尊がいわれるのに、『韓郷の島には金銀がある。もしわが子の 治める国に、舟がなかったらよくないだろう』と。そこで髯を抜いて放つ と杉の木になった。胸の毛を抜いて放つと桧になった。尻の毛は槙の木に なった。眉の毛は樟になった。そしてその用途をきめられて、いわれるの に、『杉と樟、この二つの木は舟をつくるのによい。桧は宮をつくる木に よい。槙は現世の国民の寝棺を造るのによい。そのため沢山の木の種子を 皆播こう』と。この素戔嗚尊の子を名づけて五十猛命という。妹の大屋津 姫命。次に柧津姫命。この三柱がよく種子を播いた。紀伊国にお祀りして ある。」 とあります。 「紀伊国」は「木国」の転訛であり、この伝承の“木”に由来します。 「出雲国」の建国の祖が、スサノオであったとしたら、広義の「出雲国」 は、「筑紫」から日本海側を経て、「紀伊」という広範囲であった可能性 が考えられます。 これは、ほぼ西日本全体(瀬戸内側を除く)に当たります。これでした ら、「伊勢国」も広義の「出雲国」に含まれることになり、オオクニヌシ の子に伊勢津彦命の名があっても、不思議ではないでしょう。 オオクニヌシは「出雲国」から、近畿のヤマトまで出張しているくらい ですから、子の伊勢津彦命を、地方に赴任させることがあったかも知れま せん。 そうでないにしても、例えばオオクニヌシを奉斎する出雲族が、「伊勢」 に入植したことにより、その地に出雲の神を祀った結果、と言うことも考 えられます。無論、他の地方にしても同様に考えることができましょう。 ところで、「五十猛命」の読みが“イタケ命”であると、『続風土記』 は伝えていますが、私はこれを“イタケル命”と読んでおりました。 “タケル”に誤魔化されて、今まで考えつかなかったのですが、“イタ ケ”であるとすれば、海部氏『勘注系図』にみられる「建位起命」と同名 になるではなりませんか。“建”は美辞名ですから、それを除けば“イタ テ命”です。 『勘注系図』では、「建位起命」を「彦火明命」の別名としています。 ホアカリは神社伝承学で言うニギハヤヒのことです(私的にはこの両神は 別神ですが)。 実は、「熊野大神」を「紀伊熊野」で奉斎したのは、「熊野連」と「尾 張連」なのです。「熊野連」はニギハヤヒの後裔、「尾張連」は言わずと 知れた、ホアカリの後裔です。余談ですが、「熊野坐大神」の御鎮座は神 武東征以前、社殿の創建は崇神六十五年、ということになっていますが、 「熊野連」・「尾張連」の名が一緒となると、神武東征以前というのは、 考えられません。両者が、ニギハヤヒ=ホアカリとみなすのは、祭政をと もに司った崇神朝以降のことですから、社殿の創建が事実、崇神六十五年 ならば、鎮座もまた同時期であると考えられます。 神社伝承学おいては、スサノオの子はニギハヤヒであると証明してます が、『古事記』に「大年神」(「大年神」はニギハヤヒの別名)はスサノ オの子とあるだけで、その他文献では両者の親子関係を示唆するものは皆 無です。 しかし、「五十猛命」=「建位起命」であれば、間接的にですがこれを 裏付ける結果となります。 『但馬故事記』でのニギハヤヒは、麦や黍や粟などの穀類の栽培を拡め たとありますので、「五十猛命」との共通性をうかがい知ることができま す。 元伊勢と呼ばれる「丹後」は、その名称からして「伊勢」との関係が深 い地方ですが、広義の「出雲国」と言えると思います。 ちなみに、広義の「出雲国」の最期は、『出雲国風土記』意宇郡母理郷 の条が、 「天の下所造らしし大神、大穴持命、越の八口を平け賜ひて、還り坐し し時に、長江山に来坐して詔りたまひしく、『我が造り坐して命らす国は、 皇御孫の命、平らけく世所知らせと依さし奉らむ。但、八雲立つ出雲の国 は、我が静まり坐す国と、青垣山廻らし賜ひて、玉珍置き賜ひて守らむ』 と詔りたまひき。」 と伝えています。これは、私が平定した土地は皇孫に渡すが、出雲だけ は自分が守る、と主張した「大穴持命」の言葉です。 これは『記紀』にみえる、「出雲の国譲り神話」に相当するものと思い ます。 これ以降「出雲国」は、地方の一国を示す名称になりました。 サルタヒコは、「出雲」にも「伊勢」にも縁がある神なのですが、「伊 勢」の由来は、イセツヒコの「伊勢」にあったと先に述べました。 福岡県久留米市大石町に伊勢天照御祖神社(同市御井町の高良大社境内 に、同名の末社があるので注意)があります。ここは別名、大石太神宮と 呼ばれているようで、その別名が示すように、御神体は本殿土間にある巨 石であると言います。 『真説日本古代史』の執筆中、この神社に触れましたが、今さら言うま でもなく、祭神は「天照国照彦天火明尊」です。神社名をみると、祭神ホ アカリこそ、伊勢神宮の「天照大神」であり、皇祖神である、と読めるの で、してやったりなのですが(事実、本編では、そのように説いておりま す)、『古代日本正史』の「原田常治氏」は、 「この『伊勢』は『石』の転訛したものらしい。その証拠は町名が大石 である。また境内に大きい石がある。しかし、御祖という以上、この人は 天皇の祖先である。」 と述べられております。 特に祭神に疑問があるわけではないので、読み流していましたが、ここ にきて、ふと感じるものがありました。 このことは「伊勢」全般に言えることではないのか、ということです。 『播磨国風土記』では、「伊和大神」(いわのおおかみ)が登場します。 この神は「出雲」からやってきたと記され、また「播磨国」一の宮である 伊和神社は、『延喜式神名帳』の伊和坐大名持御魂神社でありことから、 「伊和大神」はオオナモチ・オオクニヌシと同体とみる見方が強いです。 「ナ」は「国」のことですから、オオナモチとは「大国持」とも書け、 役職を意味する「大国主」と同じ意味となり、当時の国王(国造)なら、 誰にでも比定できてしまいますが、ここではいわゆる「大国主命」のこと とします。 その「伊和大神」の御子に「伊勢都比古」がいますが、「伊勢津彦」と 同じです。「伊勢」が「石」の転訛であったならば、「伊和大神」は「岩 大神」であったかもしれません。イセツヒコは「岩」の子だから、「石都 比古」です。 このように「伊勢」が「石」であったとすれば、出雲神に「伊勢」の名 があっても、不思議なことではなくなります。 さて、サルタヒコですが、特別編『謎の聖域!伊勢神宮』では、「天日 別命」と同体であることを述べました。「天日別命」はイセツヒコを、東 方へ追いやった神です。従って、イセツヒコはサルタヒコに、「伊勢国」 を乗っ取られたことになります。 そのイセツヒコの遷った土地が、「信濃国水内郡」であったというので す。 イセツヒコは亦の名を「出雲建子命」(いずもたけこのみこと)と言い ます。信濃に逃れた「出雲神」と言えば、「建御名方命」(たけみなかた のみこと)を連想しますが、イセツヒコをタケミナカタとみる考え方は、 結構耳にします。 実際、「出雲」から「諏訪」まで逃れることよりも、「伊勢」から「諏 訪」までのほうが、理に適っています。「伊勢」からであれば、伊勢湾を 渡り、渥美半島から上陸して豊橋を経由し、現在の国道155号線づたい に行けば、「諏訪」に到着します。これでしたら、イセツヒコが東方海上 へ去ったという記述とも合致します。合理的に解釈しようとするならば、 「出雲」よりも「伊勢」になるでしょう。 『真説日本古代史』の本編では、「出雲の国譲り」の経緯を、「尾張族」 と「鴨族」による、聖地「葛城山」の覇権争いであると解きました。出雲 神であるはずの「事代主命」は「出雲」には祀られておらず、その中心は 「葛城山」であるからです。 イセツヒコ=タケミナカタ説に賛同すれば、「出雲の国譲り」は、「葛 城山」と「伊勢」との説話の、合作であったことになります。 「出雲」だけは自分が守る、と言った「大穴持命」の言葉も、裏を返せ ば、国譲りの舞台は「出雲」ではなかった、と理解できます。 そうすると、サルタヒコは「武甕槌神」(たけみかつちのかみ)の役割 を、担っていることになります。 タケミカツチと言えば、「藤原氏」の氏神として名高い春日大社の神で す。それがサルタヒコであるとは、何とも荒唐無稽な気もしますが、「藤 原氏」は「鎌足」を初代とする氏です。「鎌足」は、天智・天武天皇間の 仲裁役として名を馳せました。天津神と国津神の間を取り持ったサルタヒ コにも、共通の人格を感じます。 また、「武甕槌神」は「建御雷神」(『古事記』)とも書きます。「雷 神」は、まさに「尾張氏」の神であり、ホアカリの別名でもあります。 『古事記』では、「建御雷神」を「伊都之尾羽張神」の子であると言い ますから、おもしろいですね。 「藤原氏」と「尾張氏」との関係はと言うと、これがまた奇妙な関係で して、平安中期、白河天皇のころのことです。 「白河天皇のころ、大宮司員職の娘、松(松御前、または職子)は、当 時尾張目代の職にあった藤原季兼(父は実範、文章博士。大学頭で藤原氏 南家武智麻呂の末である)と結婚して季範を生んだ。この季範が、外祖父 員職の跡をついで、大宮司職を継承することになり、大宮司職は尾張氏に かわって藤原氏が世襲することになった。この季範の継承は神託によるも のであるといわれている。」(『熱田神宮』学生社刊、熱田神宮宮司、篠 田康夫氏著) と、まあ歴史は繰り返すというか、熱田大宮司家を世襲するようになっ た「藤原氏」の立場は、時代こそ違え、「雷神」を「藤原氏」の神とした 『記紀』の記述とまったく同じと言えます。 時代的に、「尾張・藤原」のほうが先であるというなら、『記紀』神話 のモデルであったとも、言えるのでしょうが、さうがにそうはいきません ね。 先ほど、「伊和大神」についてふれましたが、その神を祀る伊和神社の 鎮座地を、古くは「伊和の村」「伊和の里」と言いました。 その由来を『播磨国風土記』は 「伊和の村。本の名は神酒なり。大神、酒をこの村に醸みたまふ。故、 神酒の村といふ。又、於和の村といふ。大神、國作り訖へまして以後、の りたまひしく、『於和。我が美岐に等らむ。』とのりたまひき。」 としています。「神酒」・「酒」は“みわ”と発音するので、「伊和」 は“みわ”の転訛であろうことがわかります。 “みわ”と言えば、誰しもが「三輪」を連想することと思います。 実際、「三輪」や「三室」にかかる枕詞は、「味酒」(うまさけ)であ り、「三輪山」を御神体とする大神神社は、酒の神様、醸造の神様として 信仰されてきました。つまり「三輪」=「酒」であることがわかります。 ここにきて、「伊勢」と「三輪」がつながり、なんとその語源が同じで あった可能性が出てきたのです。 伊勢神宮と大神神社との関係は、大神神社の摂社、檜原神社にあります。 檜原神社は、宮廷を出られたアマテラスが、最初に鎮座した笠縫邑伝承 地、すなわち「元伊勢」だからです。その檜原神社は三輪山の西北麓に位 置していて、三つ鳥居が実に印象的です。しかし、それ以外は本殿も拝殿 もありません。三輪山こそが御神体なのです。 大神神社もまた、本殿はありません。拝殿こそありますが、それは後世 になって創建されたものだと言います。 また、拝殿の奥には、三つ鳥居(通称、三輪鳥居)があり、ここを通し て御神体である三輪山を拝むという、神社の原点でもある原始信仰の体を 有しています。 つまり、大神神社から後世創建されたという、拝殿を取り去ってしまえ ば、その形態は檜原神社とまったく同じです。 大神神社が祀る主祭神は、言わずと知れた「大物主神」ですが、檜原神 社の主祭神は「天照大神」です。そりゃそうでしょう、元伊勢なのですか ら。 ところが御神体は、どちらも三輪山です。これでは当然、オオモノヌシ =アマテラスということになりますね。神社伝承学でいう、ニギハヤヒ= オオモノヌシと考えるならば、これでも一応矛盾は生じませんが、ここは もっと妄想的に考えてみます。 『封印された古代史妄想的話の1』で、スサノオがアマテラスと呼ばれ ていた可能性を説きました。そして、「三室山」に住みたいと言ったオオ モノヌシは、『真説日本古代史』本編通りスサノオだったと考えます。 檜原神社のアマテラスは、高天原を追放されたスサノオだった、とすれ ばどうでしょう。つまり三輪山は高天原です。 まあ、これは本当に妄想的な話です。しかし、各地にある元伊勢という 名の神社は、伊勢鳥居であることから、三輪鳥居で祀られている檜原神社 のアマテラスは、これだけみても、皇祖で女神・アマテラスではなかった ことになります。 大神神社は、正式には主祭神をオオモノヌシ、配神にオオクニヌシ・ス クナヒコナを合祀しています。檜原神社はと言えば、主祭神に天照大神若 御魂神、そして伊弉諾尊(イザナギ尊)・伊弉册尊(イザナミ尊)を合祀 しています。 御神体が三輪山で同体ならば、オオモノヌシ=アマテラスとなり、国造 りで協力しあったオオモノヌシとスクナヒコナは、それぞれイザナギ・イ ザナミに相当し、さしずめ常世に神去ったスクナヒコナの説話は、黄泉の 国に行ったイザナギの説話に相当してくるのでしょうか。 こう考えてみると、いわゆる高天原神話は、出雲神話の焼き直しであり、 天津神やその説話の数々も、国津神(出雲神)説話から創られた感がして なりません。 話が大きく脱線しましたが、この『封印された古代史妄想的話』シリー ズは、『まえがきにかえて』にも書いたように、 「本編と大きく異なる部分や、矛盾箇所が多々ありますが、そこは、狂 信者的発想であるとして、ご勘弁いただきたく思います。」 ということを前提に書いております。 説としては魅力的で優れていても、歴史ストーリーを形成できない、な どの理由で、整理されたものなのです。 そのことをふまえて、サルタヒコに戻りましょう。 『古事記』に書かれたサルタヒコの容貌は、 「その鼻の長さ七握、背の高さ七尺あまり、正に七尋というべきでしょ う。また口の端が明るく光っています。目は八咫鏡のようで、照り輝いて いることは、赤酸漿に似ています。」 でした。これは、この章の冒頭に述べていることです。この記述と、よ く似た描写をされた人物?がもう一人います。 「眼は赤酸漿のようである。松や柏が背中に生え、八つの山・八つの谷 の間に一ぱいに広がっていた。」(『日本書紀』) 「そいつの目は丹波ほうずきの熟したもののように真赤でして。からだ は一つですが、八つの頭と八つの尾をもち。その体には、桧や杉や、山深 く育つ日かげかずらまでも生えております。その長さは八つの谷・八つの 尾根を越えわたるほどで、その腹を見ますと、いつも一面に血がしたたっ ておりました。」(『古事記』) とまあ、なんとも仰々しい描写なのですが、これは言わずと知れた、ヤ マタノオロチです。「八岐大蛇」と書き、その発音から、このような怪物 が想像されたのでしょうが、『古事記』では、「高志地方に住むヤマタノ オロチ」と書いているところから、「越」(新潟)地方に住む、大蛇信仰 の高句麗族だったのでしょう。「高志」とは「高句麗」のことでもあるの です。 しかし“ヤマタ”が“ヤマト”の音韻変化だったら、どうなるでしょう か。 “ヤマト”、無論「大和」のことです。 「邪馬台国」の“ヤマタイ”が“ヤマト”であるならば、“ヤマタ”が “ヤマト”であっても、おかしいことではありません。 「八岐大蛇」が「大和大蛇」だったとすれば、これは大変なことです。 「ヤマタノオロチは聖地・三輪山の象徴である」 こう記述するのは、「梅原猛氏」の著である『神々の流竄』です。 そうでなくとも、『日本書紀』は「大物主神」の正体を、「蛇」であっ たと言っています。つまり、スサノオの斬ったヤマタノオロチは、「大物 主神」であったことになり、同時にそれは、サルタヒコでもあったのです。 「大和」の大蛇に例えられる人物は、もう一人考えられます。 「長髄彦」(ナガスネヒコ)です。 ナガスネヒコは、神武との戦いに敗れ亡くなりますが、『記紀』を読め ば、彼が「大和」のもともとの支配者であることは、すぐに判ります。 『本編第三部』でも記述した、出雲神族の末裔「富氏」は、自らを「竜 蛇族」と言います。「とび」・「とみ」は「蛇」のことであるらしく、ナ ガスネヒコは「登美能那賀須泥毘古」(『古事記』)とも書き、蛇神族と 考えられます。 しかも、ナガスネヒコの「なが」もまた、「蛇」のことであると言いま す。つまり、ナガスネヒコは二重に「蛇」、まさに「大蛇」です。 「富氏」の祖は、ナガスネヒコであると主張しておられるので、ナガス ネヒコは出雲神族の祖になります。 ちなみに、出雲神族の大祖先が「岐神」(くなとのかみ)です。『記紀』 は、サルタヒコと同一視しています。また“ちまたのかみ”と読むことも あり、「八衢神」(やちまたのかみ)とも異名同体の関係にあるといいま す。 これなどは、さらにヤマタノオロチと音韻が似ていますね。 神無月にあるという神々の会議の前半が、オオクニヌシの出雲大社、後 半には「佐太大神」の佐太神社に場所を移すと言われていますが、サルタ ヒコの別名がオオモノヌシであったとすれば、この移動の理由も、なんと なく理解できそうな気がします。 スクナヒコナが亡くなった後、オオクニヌシをサポートしたのはオオモ ノヌシであった、と『古事記』は言っています。 しかし、スサノオがオオモノヌシを斬ったとなると、話がかなり複雑に なってきます。そればかりか、私見をも覆しかねません。 まあここは妄想的話ということで、本編との関係は“これはこれ、それ はそれ”が前提なので、ここで私見をどうこう言うのは筋違いですね。 オオモノヌシは神社伝承学でいうニギハヤヒなので、スサノオとは父と 息子の関係になります。従って、スサノオは息子殺しの汚名をも、着せら れてしまいますが、これらについては、次のように考えています。 まず、『出雲国風土記』に 「大穴持命、越の八口を平け賜ひて、還りましし時、」 とあります。「口」は「蛇」のことで、「八口」が「八岐大蛇」である ことは、当然考えられることなので、スサノオにしろオオクニヌシにしろ、 「越」のオロチ族を平定したという説話は、史実であると考えます。 その上で、『記紀』説話をみてみると、オオモノヌシが祟ったのは、崇 神天皇です。古代の神祀りは、殺しておいて祀る、つまり祀るのは殺した ことによる祟りが怖いから、というアンチテーゼがあるのではないでしょ うか。 そう考えると、オオモノヌシを殺したのは、崇神天皇になります。とこ ろが一般的に、三輪王朝時代は崇神、その前半生は神武天皇という、一人 二役が通説となっております。すると、オオモノヌシを殺したのは神武と いうことになります。 もちろん、『記紀』が直接そう言及しているはずがありません。 しかし、オオモノヌシが「大和」の「大蛇」であったことがわかれば、 答えは簡単に見つかります。それは、ウマシマジ(『日本書紀』)か、ニ ギハヤヒ(『古事記』)であり、「大蛇」の正体は、ナガスネヒコです。 これは、身内による裏切り行為です。もっと言えば、それは「物部氏」 です。たとえ、オオモノヌシがニギハヤヒだったとしても、結果は裏切り であり同じことです。 しかし、祟りは天皇家に起こっています。これはおかしいことですね。 「物部氏」はその後も栄え、天皇家は祟りに悩まされる、ということは、 犯人は天皇家だったのであり、それを「物部氏」に仮託した、ということ です。 しかし、「物部氏」はその後、天皇家の外戚として大豪族へと出世しま した。つまり「物部氏」は、この結果に不満はなかった、ということにな ります。 この説話は、スサノオのオロチ退治が基になっていると思います。歴史 は繰り返す、という思想ですね。 編纂者にこのような意図があったかどうかは、わかりませんが、『日本 書紀』の姿勢は、天皇家以外に氏族に対して、常に悪意が感じられます。 それが根底にあるため、説話の数々に、何かしら穏やかでない暗示がされ てしまうだと思います。 『古事記』にしろ、他の史書にしろ、『日本書紀』を底本にしているた め、その暗示はそのまま受け継がれてしまうのです。 ヤマタノオロチは「越」の蛇信仰の豪族だったのでしょう。それを竜蛇 族と言うのでしょうが、当然、敵もいれば味方もいたわけです。 「出雲」の龍神は佐太大神であり、いわゆるサルタヒコだったと思いま す。 「猿」は日神の使いであると言いますし、山神の使いでもあります。 山王宮日吉大社(滋賀県大津市)は、山王権現を信仰する、いわゆる山 王信仰の総本山です。各地にある日枝神社・日吉神社は、その勧請された ものです。 そこでは、猿は神使であると信じられていました。猿は天上界と地上界 を媒介する神なのです。『記紀』では、まさにサルタヒコがその役を演じ ています。サルタヒコはその名の通り、猿神ですね。その実、龍神でもあ りました。どちらも神の化身という共通項があります。 日吉大社では、「大山咋神」(オオヤマクイのかみ)と、「大物主神」 (大国主命と同体とする)を祭神としていますが、神社伝承学で言う「山 王」とは、言うまでもなくニギハヤヒのことで、祭神のオオヤマクイは、 ニギハヤヒを祭神隠しの為、書き改められたものです。 ちなみに「天王」がスサノオです。 さて、ナガスネヒコは、天神ニギハヤヒを君として仕えていました。 『日本書紀』は、彼の言葉を次のように記しています。 「手前は、饒速日命を君として仕えています。一体天神の子は二人おら れるのですか。どうしてまた天神のこと名乗って、人の土地を奪おうとす るのですか。手前が思うのにそれは偽物でしょう。」 そんなナガスネヒコの最期は、出雲神の末路そのものです。 ナガスネヒコ殺しの実行犯は、ニギハヤヒでなかったにしても、「物部 氏」の出世は前述通りです。「物部氏」は「出雲帝国」を裏切り、「原大 和朝廷」を選んだのです。それは、国津神と天津神の架け橋だった自身の 姿を、自ら断ったことに他なりません。 サルタヒコは、天地の途中でニニギを待って高千穂に案内し、自ら「伊 勢」の五十鈴川上に去ってしまいます。両者の架け橋となり、自身は去る (猿)という潔さが、ナガスネヒコとダブって見えます。あるいはニギハ ヤヒとも、ダブってますよね。 オオクニヌシしかり、オオモノヌシしかり、ホアカリ、アメノヒワシ、 スサノオにしても、その屈辱とその潔さは、「出雲」を代表する神々に、 共通する要素です。そのすべての神々(ここで説明した神々の中で、タケ ミカヅチだけは「出雲神」とは言えないかも知れません。しかし、『崇神 記』には大物主神の裔として記されているのです)は、サルタヒコ一神に 投影されているのではないでしょうか。 そうであるから、サルタヒコにあらゆる「出雲神」の姿を、映すことが できるのだと思います。 いまやサルタヒコは、路傍の神である道祖神として、道の辻や三叉路な どの分岐点に、石碑・石像の形で祀られています。 「出雲神」は、古代より民衆に親しまれ、敷居の高いアマテラスよりも ずっと身近な氏神です。なかでもサルタヒコは、いつも手に触れられる距 離にある、「出雲」そのものとも言える神なのです。 論点が多く、上手くまとまっていませんが、それもサルタヒコの性格故、 だとお考え下さい。 最期に、名古屋市中区にある州崎神社は、貞観年間に、スサノオを勧請 して、この地に鎮座、奉斎された神社です。 それをみちびいたのは石神であり、明治後期まで、石神神社として隣接 していました。現在は合祀されておりますが、祭神は四神で、「布都御魂」 「道祖神」、「猿田彦命」、「天鈿女命」ですが、そこはみちびきの神な ので、スサノオの父とされている「布都御魂」は、石神には相応しくあり ません。「布都」を除いた三神となるでしょう。 興味深いことは、あえて「道祖神」を祀っていることです。 神社の祭神として、「道祖神」を祀ってるのは、私の知る限りここだけ です。 2008年 6月 了 |