捨てざり難い説 封印された古代史妄想的話 海部氏本紀編 1.欠史八代の天皇とその皇后 今さら言うことでもないのですが、欠史八代というのは、第二代綏靖天 皇から第九代開化天皇までを言います。 欠史なのですから、架空の天皇とされているわけですね。もちろん、こ れに異論を唱える学者もいますが、どうやら亜説扱いされているように思 います。 私と言えば、欠史八代説には賛同できません。そうかといって、『記紀』 に記されている順に、全部が存在したとも考えておりません。 この時代、九州や近畿といった大きな範囲を、統一していた国家が存在 していたとするほうが、無理があります。従って、欠史八代といわれる天 皇(現在の市区村長あるいは、大きくても県知事でしょう)は、同時多発 的に存在していた人物を、一列の系譜につないだもの、さらには、その一 部が存在していなかったのではないか、と考えております。 神武天皇が欠史と言われていないのは、初代であることと、その膨大な 旧辞の部分があることから、なのでしょうが、これとて、原神武モデルの 存在は認めたとしても、その内容が史実であると言うことは困難で、『神 武紀』自体、ある種の神話です。 さて、ここで取り上げたいのは、その彼らの皇后です。 そこには、正史と言われる『記紀』の間にも、系譜や人名に少なからず 違いが見られ、話をより複雑にしています。 まずは、それらを一覧表にしてみました。 ┌──┬─────────────────────────┐ │天皇│ 皇后 │ │ ├───────────┬─────────────┤ │ │ 日本書紀 │ 古事記 │ ├──┼───────────┼─────────────┤ │神武│姫蹈鞴五十鈴媛 │比売多多良伊須須岐比売 │ ├──┼───────────┼─────────────┤ │綏靖│五十鈴依媛 │河俣毘売 │ ├──┼───────────┼─────────────┤ │安寧│渟名底仲媛(渟名襲媛)│阿久斗比売 │ ├──┼───────────┼─────────────┤ │懿徳│天豊津媛 │賦登麻和訶比売(飯日比売)│ ├──┼───────────┼─────────────┤ │孝昭│世襲足媛 │余曾多本毘娘 │ ├──┼───────────┼─────────────┤ │孝安│押媛 │忍鹿比売 │ ├──┼───────────┼─────────────┤ │孝霊│細媛 │細比売 │ ├──┼───────────┼─────────────┤ │孝元│欝色謎 │内色許売 │ ├──┼───────────┼─────────────┤ │開化│伊香色謎 │伊迦賀色許 │ └──┴───────────┴─────────────┘ このようにすると、違いが一目瞭然です。 しかしながら、古事記は表音文字で書かれている場合が多く、それを考 慮に入れると、孝昭天皇以降は、音韻変化の範囲内と考えられ、『記紀』 の間に大きな違いはないと言えます。特に孝昭天皇以後は、同じと言える でしょう。 ところで、『日本書紀』神話には 「一書云」 として、数々の別伝が記載されていますが、欠史八代の皇后に関しても、 同様な記載があります。 例えば、安寧天皇の条には、 「一書云 磯城縣主葉江女川津媛 一書云 大間宿禰女 糸井媛」 と記載されています。 先ほどの一覧表に、この「一書云」を併せると、次のようになります。 『欠史八代皇后一覧』 すると、綏靖天皇以後は、『記紀』ともよく合ってます。強いて言うな ら安寧が異なりますが、『古事記』の「阿久斗比売」は、『日本書紀』の 「渟名底仲媛」のうち「仲媛」のことだとすれば、 「阿久斗比売」 A KU TOU HIME 「仲媛」 NA KA TSU HIME と発音され、音韻変化と言うまでもないほど、よく合ってます。 問題は、神武・綏靖天皇の皇后なのですが、綏靖は『古事記』が「河俣 毘売」、『日本書紀』の一書が「川派媛」と、一応の共通点がみられます ので、神武の皇后を明らかにするこそ、最重要ポイントになるでしょう。 『日本書紀』の「姫蹈鞴」、『古事記』の「比売多多良」は、ともに、 「ひめたたら」と読みます。そうすると実名の部分は、おのおの「五十鈴 媛」(いすずひめ)、「伊須須岐比売」(いすすきひめ)となります。 「五十鈴媛」と言えば、その音韻から伊勢内宮の脇を流れる清流、「五 十鈴川」が連想されますが、籠神社の社伝には、 「人皇十一代垂仁天皇の御代の二十六年に、伊勢国伊須須川上へ御遷宮 になり…」 という表現があり、「五十鈴」は「伊須須」と書かれることがあった、 ことがわかります。 つまり、「五十鈴媛」は「伊須須比売」と書き換えることができ、一般 的には、『記紀』の間で皇后の名前が異なっているように言われています が、こうしてみると、『日本書紀』の「伊須須比売」、『古事記』の「伊 須須岐比売」は、転訛の範囲内であり、実は両者間に違いはなかったわけ です。 「伊須須岐比売」には、もうひとつ名前がありました。 それは、「伊須気余理比売」なのですが、どちらかと言えば、こちらの ほうがよく知られているように思います。 『日本書紀』では、神武・綏靖の皇后の名がよく似ていて、綏靖の皇后 は「五十鈴依媛」であると言います。 これを『古事記』流に書き改めると、「伊須須余理比売」となり、『古 事記』の神武皇妃、「伊須気余理比売」とほとんど同じになります。と言 うか、同じでしょう。 『日本書紀』神武皇妃の「伊須須比売」、綏靖皇妃の「伊須須余理比売」 は、『古事記』神武皇妃の「伊須須岐比売」、亦の名の「伊須気余理比売」 と、ぴったり対比しており、同一人物であることは、一目瞭然です。 この説を採用すれば、 1.綏靖は自らの母を正妃にした。 2.神武と綏靖には親子関係はない。 の、どちらかが正しいことになります。 どちらかを選択しなければならないとしたら、常識的には2でしょう。 しかし、2は正しいものの、神武と綏靖は同時代人でないことは、『真説 日本古代史』本文で論じています。神武は崇神と同時代人であり(戦って いる)、綏靖以降との親子関係は私見的には考えられません。また、世代 的にも遠く離れていることになります。 『日本書紀』が綏靖皇妃に、「五十鈴依媛」を採用した理由は、神武と 綏靖を親子としたからだと思います。親子関係を強調したいあまり、「五 十鈴媛」・「五十鈴依媛」というよく似た名前を皇后としたのではないで しょうか。うまく説明できませんが、全然関係なさそうな名前よりも、似 た名前のほうが、それらしく感じるものです。 この問題は皇后を検証していくことによって、徐々に明らかになってい くことでしょう。 『日本書紀』の「一書云」では、綏靖皇妃を「川派媛」と、『古事記』 は「河俣毘売」としていることは前述していますが、『日本書紀』で三説、 『古事記』一説の併せて四説のうち、二説に共通点が見られますので、こ れをより確からしい説とすべきだと考えています。 整理すると次のようになります。 ┌──┬───────────┐ │天皇│ 皇后 │ ├──┼───────────┤ │神武│五十鈴媛 │ ├──┼───────────┤ │綏靖│川派媛 │ ├──┼───────────┤ │安寧│渟名底仲媛 │ ├──┼───────────┤ │懿徳│飯日媛 │ ├──┼───────────┤ │孝昭│世襲足媛 │ ├──┼───────────┤ │孝安│押媛 │ ├──┼───────────┤ │孝霊│細媛 │ ├──┼───────────┤ │孝元│欝色謎 │ ├──┼───────────┤ │開化│伊香色謎 │ └──┴───────────┘ そして『記紀』では、これら九代の天皇を親子関係で繋げていますが、 まず、神武がここからはずれることは言うまでもありませんし、『古事記』 では暗に、神武・崇神が同時代人であったことを、認める記載をしていま す。 『古事記』では、編纂者の意図かどうかは別にして、イスケヨリヒメが 「大物主神」の娘であるとしていることです。いくら遠い昔の話であって も、神と人とを混同して考えるわけにはいきません。 イスケヨリヒメが「大物主神」の娘であるというなら、「大物主神」は 人でなければならないでしょう。 その「大物主神」は『崇神紀』で、孝霊天皇の娘・「倭迹迹日百襲姫命」 を妻にしています。これはいくらなんでも世代間が開きすぎています。 『日本書紀』では、その矛盾点に気づいているからこそ、イスズヒメを 「事代主命」の娘としたのだと思いますが、『古事記』は原資料のまま手 を加えなかったのでしょうか、これによって、神武・崇神が同時代人であ ることを認める結果となっています。 そして、綏靖・安寧・懿徳天皇らの皇后は、「磯城県主」の娘で共通し ています。『欠史八代皇后一覧表』にみる「書記一書の1」に限れば、綏 靖の皇后が「磯城県主」の娘、そして安寧・懿徳・孝昭・孝安天皇の連続 した四代の皇后が、「磯城県主葉江」の娘(懿徳は葉江の弟猪手の娘)な わけです。 つまり五代に渡る親子関係の天皇の皇后が、みな同世代ということにな ります。これも非常識な話です。当然同世代の皇后には、同世代の天皇が 相応しいでしょう。せいぜい離れていても親子までではないでしょうか。 「磯城」と言えば「大和」ですから、その当時の「大和」の大王、その 人物を『記紀』が「磯城県主」と言っているのですが、その「磯城大王」 の数多いる娘達に、婿入りしたもの達を後に天皇と呼び、親子関係で繋げ たのだと思います。もちろん万世一系の天皇家を創るためです。アカデミ ズムも、この当時は母性系社会だった、と認めているはずです。 従って、少なくとも綏靖・安寧・懿徳は同世代であり、兄弟であった可 能性はありますが、親子だったという結論には結びつきません。 孝昭・孝安天皇の皇后は、いったん「磯城県主」から離れますが、孝霊 天皇ではまた「磯城県主」系の皇后となります。 ここで、「十市県主」が登場しますが、実は別族ではないと考えていま す。と言うのは、「十市」は韓語で「sipsi 」と発音します。「p 」は、 口の構えをするだけで発音しません。おそらく古代「磯城」は、「sisi」 に近く(その逆かも知れませんが)、「十市」とほぼ同音だったと推察し ます。 「十市」は「磯城」の転訛と考えられ、「十市県主」とは「磯城県主」 のことです。 『十市県主系図』によれば、「十市県」はもと「春日県」といい、考昭 の時代に「十市県」に改められたと言いますから、『書記一書の2』綏靖 皇妃に出てくる「春日県主大日諸」も、「磯城県主」系の人物なわけです。 孝昭・孝安は、懿徳と直系の親子関係で結ばれていますが、懿徳(ある いは、綏靖・安寧)と親子なのは、孝霊でしょう。 孝昭・孝安は、「尾張連」に入り婿した大王と考えられ、先に三人の天 皇とは、王朝を別にするものと思います。「邪馬台国」から脱出した「尾 張氏」が「葛城高尾張邑」に根を張った後に、結び着いた「葛城」土着の 氏族の長だと思います。 孝元・開化天皇は、「尾張氏」よりも世代的に早く、「邪馬台国」から 脱出した「物部氏」に婿入りした、「磯城」土着の氏族の長でしょう。 『古事記』によれば、孝元の子「彦太押信命」は、「置津世襲命」(後 述)の兄弟である「意富那比命」(『勘注系図』による)の妹を妃にして います。(複雑怪奇な話ですが、「置津世襲命」と「意富那比命」が兄弟 ならば、「意富那比命」の妹(『記』)は「置津世襲命」の妹(『紀』) でもあるわけです。そこで『古事記』は、「世襲足媛」を「置津世襲命」 の娘として、つじつまを合わせています。ただ、「置津世襲命」と「意富 那比命」が異名同体であるかもしれませんが。)このことから、孝昭より も孝元のほうが、一世代前であることになります。 そして崇神皇妃の「御間城姫」は、孝霊の子「大彦」の娘ということに なっていますが、一応、崇神の皇后として世代的な矛盾は生じません。 ところで、孝安なのですが、その諡名を「日本足彦国押人」と言います。 孝安の皇后は「押媛」であるらしいのですが、その父は、孝安の兄である 「天足彦国押人」であり、讃え名の部分を除けば「押人」と、全く同名に なります。これをどう考えればいいのか、難しいところですが、今までの 手法からすれば、同一人物になります。 実際、「天足彦国押人」という諡名自体は、天皇と遜色有りません。そ れどころか、『隋書倭国伝』にみられる「阿毎多利思比孤」と同音です。 つまり国家元首そのものの名であり、これが天皇はでないと、はたして言 えるのでしょうか。 このことは、これを書き進めるうちに、見えてくると思いますが、現段 階では、どう扱って良いのか言及できませんので、『記紀』に従いたいと 思います。 さて、崇神天皇の崩御年が、『古事記』の戊寅から258年。神武の即 位が、『日本書紀』の辛酉であり241年と比定しているので、これは全 くの同時代人になります。 また、孝昭皇妃の「世襲足媛」の兄(『日本書紀』によれば父)「瀛津 世襲」は、『勘注系図』(「置津世襲命」)によれば「火明命」の九世孫 です。ところが、肝心の「世襲足媛」の名が『勘注系図』に見あたりませ ん。妹には、「日女命」の名があり、亦の名を「倭迹〃日百襲姫命」と云 う、とあるではありませんか。これには少々驚きましたが、冷静に考える と、充分あり得る話だと思います。ただ、これにより、『記紀』により直 系に結ばれた天皇の有り様が判明してきました。 私の推理する、欠史八代の有り様は、次の一覧表通りです。一応、3世 代に区分してみましたが、2世代・3世代は、少しの年代差があるだけで、 同時代共存の可能性が高い、と思われますし、例えば、『書紀一書の1』 を重要視した場合は、第6代孝安までもが、同世代だったことになります。 ┌────┬────────┬───────┬───────┐ │ │ 磯城王朝系 │ 尾張王朝系 │ 物部王朝系 │ ├────┼────────┼───────┼───────┤ │第1世代│綏靖・懿徳・安寧│ │ │ ├────┼────────┼───────┼───────┤ │第2世代│ 孝霊 │ 孝昭 │ 孝元 │ ├────┼────────┼───────┼───────┤ │ │ │ 孝安 │ 開化 │ │第3世代│ └───────┴───────┤X神武 │ │ 崇神(磯城・尾張・物部による合併王朝) │ └────┴────────────────────────┘ 重要なことは、この時代の権力の中心は母系にあったということです。 例えば、綏靖・懿徳など天皇と称されていても、それは男系社会に移行し ていった後の、『記紀』の編纂者からみた立場であって、実際には、磯城 地方を支配地とする王家に、婿入りしたということであり、真の権力者は、 皇后の父であったことになります。もっとも、男に力(組織的にしろ、個 人的にしろ)がなければ婿入りは実現しませんから、天皇もそれなりの立 場の人であったとも言えます。 ところで、この論文を執筆中に、気づいたことがあります。 まだ漠然としていて、まとまった説になっていませんが、これも書き進 めていくうちに、はっきり見えてくると思うので、章を変えて論じてみた いと思います。 2.海部氏本紀と欠史八代 それは、『記紀』では、孝霊天皇の児となっている「倭迹迹日百襲姫命」 が、「世襲足媛」と異名同体であるとすれば、その兄「瀛津世襲」の父も また孝霊である、ということです。 さらに続ければ、「置津世襲命」の父「日本得魂命」が、孝霊であると いうことにもなります。 テキストのまま論じていては、わかりにくいので、系図をご覧いただき ましょう。 『海部氏本紀』 この『海部氏本紀』とは、すでに説明しておりますが、個人的に称して いるもので、『海部氏本系図』を基に、『勘注系図』の抜粋で補ったもの です。 『勘注系図』は、恐ろしく詳しいのですが、秘伝・別伝が絡み合うよう に記されていて、一見しただけでは解読できません。『本系図』は、巻子 装を開いた中央に淡墨の羅線を縦に引き、その線上に始祖火明命を始めと する、歴代の人物を記しているのですが、始祖火明命から三世孫倭宿祢の 間、二代が記載されておらず、またその後も十八世孫建振熊宿祢の間、十 四代が記載されておりません。従って、これを『勘注系図』から補なわな ければならないのです。 さて、『海部氏本紀』とは別に、『先代旧事本紀』の第五巻『天孫本紀』 には、俗称『尾張氏系図』が記されています こちらは竪系図ではなく、文章によるものなのですが、それを竪系図に 改めると次のようになります。 『尾張氏系図』 『海部氏本紀』と『尾張氏系図』、当然ことながらそっくりです。しか しながら、対比すれば、本流と傍流が混乱していることも判明します。 『海部氏本紀』に関しては、その原文は国宝であり、伝承者自身の系図 で、しかも門外不出の秘伝であったことから、大筋で信頼できるものと思 われます。大筋というのは、『勘注系図』の細かな書き込みについては、 検討の余地があるからなのですが。 『尾張氏系図』は、「物部氏」の私書ではないかとさえ言われている、 『先代旧事本紀』によるものですから、「物部氏」が何らかの理由があっ て、「尾張氏」と同祖と主張しなければならない以上、より確かな資料の 裏付けがあって作成されたものと考えられます。つまりこちらの信頼性も、 高いというわけです。 ただし『海部氏本紀』では、「建稲種命」以下は「海部氏」を本流とし た系図になっていますし、『尾張氏系図』では「尾張氏」が本流となって います。 『海部氏本紀』では、「小登與命」が「乎縫命」の子なのか、「置津世 襲命」の子なのかはっきりしませんし、「置津世襲命」の世代が、『尾張 氏本紀』とは異なります。 実際、二つの系図を見比べていても、見にくいだけなので、『尾張氏系 図』を基に、『勘注系図』の注記(いわゆる秘伝などの書き込み)、『古 事記』に記された系譜で補ったものを、『海部氏修正系図』として作成し ました。 『海部氏修正系図』 とは言うものの、大きく異なる箇所はありません。兄弟の系譜が、一部 異なっているだけで、『海部氏本紀』にあるものは『尾張氏系図』にもあ り、そもそもが同一の資料に基づいているものと思われます。 そして何よりも一番に目を惹く人物名と言えば、四世孫「倭宿禰命」で しょう。堂々と「倭」を名乗るからには、この当時の「尾張氏」(海部氏) は、「大和」の中枢的氏族だったわけです。しかも中には「葛木」の名乗 りまで多く見られます。「葛木・葛城氏」は単一氏族ではなく、葛城山を 聖山と仰ぐ、複数氏族の総称だったと考えていますが、具体的に配下地域 を記録しているのは、「高尾張邑」の「尾張氏」だけにすぎません。考え ようによっては、「葛城氏」とは「尾張氏」のこと、であったと言えます。 「倭宿禰命」ですが、亦の名を「天忍男命」と言います。これは、『勘 注系図』の前代に記載されていますが、『先代旧事本紀』は四世孫に「天 忍男命」と掲げておきながら、五世孫にも「天忍男命」を記しています。 もちろんこれは、同一人物だと思われます。すると、五世孫の「天忍男 命」が一世代繰り上がり、「天戸目命」=「建斗米命」の可能性が出てき ます。「天」も「建」も美字句と考えられますので、これらも同一人物で しょう。 さて、始祖ホアカリの孫に、「天村雲命」の名が見られます。 ホアカリと異なり、あまり重要視されていないようですが、本当にそう なのでしたら、それは、とんでもないことです。 アメノムラクモの名は、『記紀』ではさっぱり見ることができません。 唯一、『日本書紀』の注記で「草薙剣」の元の名として、「天叢雲剣」を 知るにすぎません。 ところが、『宋史、外国伝・日本』、通称『宋史日本伝』には、その名 が列挙されているのです。それも、日本製(と言ったほうが良いでしょう) の『王年代紀』の引用文の中にです。 『宋史日本伝』によれば、日本からの入貢は雍煕元年(984)で、僧 「「然」(ちょうねん)と他に五、六人によるものだったらしく、『職員 令』と『王年代紀』各一巻を献上したというのです。 その『王年代紀』には、 「その年代記に記す所にいう、初めの主は天御中主と号す。次は天村雲 尊といい、その後は皆尊を以て号となす。」 とあるのです。「「然」は東大寺の僧であり、自ら「藤原」と名乗って いるところから、そのような立場の僧が持参した書物が、偽物とは考えら れません。逆に言えば、それこそ正史でなければならないでしょう。しか も984年と言えば、当然『日本書紀』は成立しています。 そんな時期に、『日本書紀』とは記載の異なる『王年代紀』があり、そ れが正史だったのですから、『日本書紀』は大幅に書き改められていると 考えなければなりません。(『古事記』については平安時代の成立と考え られ、従って『日本書紀』に準ずる内容となっている。) と言うよりも、『日本書紀』自体を重要視していなかったことになり、 天武天皇が命じた修史事業での『日本紀』と『日本書紀』は、体裁だけが 同様な全然別物であった可能性があります。 この問題は、今後も触れることがあるでしょうから、どこかであらため て考えてみたいと思います。 話が横道にそれてしまいましたが、日本建国史上最大級に重要であろう アメノムラクモの名が『記紀』にないということは、歴史から抹殺されて いるということです。 つまり、『日本書紀』編纂当時の日本の国家頭首(まあ天皇でしょう) には、アメノムラクモが邪魔な存在だったことになります。 『宋史日本伝』に引用された『王年代紀』は、第64代円融天皇を現在 の天皇として結んでいます。雍煕元年は円融天皇の永観二年のことである ので、そのとおりなのですが、天御中主から円融天皇までが、万世一系で あることを記しているわけです。そこに名を連ねているアメノムラクモは、 当然天皇家の直系の祖先になるわけですから、それを系譜から消したとな れば、アメノムラクモと天皇家の関係こそが、その当時としての国家機密 だったことなのでしょう。 籠神社の国宝『海部氏本系図』からも、アメノムラクモは削除されてい ます。もちろんこれは偶然などではなく、政治的意図が働いていると思い ます。『本系図』は国家に提出された公文書だったからです。ついでなが ら、アメノカグヤマも『本系図』からは、削除されています。 次の文節をご覧下さい。 1.日向国吾田村の吾平津媛を娶とって妃とされた。『神武紀』 2.日向に坐しし時、阿多の…名は阿比良比売を娶りて、『神武記』 3.日向国の吾田邑の吾平津媛を娶とり妃とし、『皇孫本紀』 4.阿俾良依姫を妻とし二男一女を生む。『天孫本紀』 5.日向國之時、娶吾俾良依姫命 『勘注系図』 1.2.3.は神武天皇、4.5.はアメノムラクモなのですが、これ らは同一の伝承ではないかと思うのです。 このことから、神武天皇とアメノムラクモは同時代人、とする見解があ ります。しかしこれはかえっておかしい意見であると思います。 むしろ、積極的に同一人物であるとしたほうが、整合的な解釈であると 思います。 「火火出見尊」の異名を持つホアカリが、神武ではなかったか? そのとおりです。神武天皇もまた、「火火出見尊」の異名を持っていま すだからです。そこは当然、ホアカリを神武時代と同一時代とみる見解も あります。私は、積極的に神武=ホアカリと解釈していますし、『日本書 紀』の「一書云」をみただけみても、そうなります。 だからと言って、神武=アメノムラクモ論を、単なる妄想的話にするつ もりはありません。 『勘注系図』は前段に続き、『籠名神宮祝部丹波國造海部直等之本記』 と題した竪系図となっていきますが、ホアカリの児「天香語山命」には、 「手栗彦命」という別名のほかに、「高志神彦火明命」という別名もある といいます。つまり、父ホアカリと同名なわけです。 そして、そのアメノカグヤマには、『先代旧事本紀』によれば「高倉下 命」(たかくらじのみこと)という別名を持ちますが、『勘注系図』のア メノカグヤマの『本記』は、その名をアメノムラクモの弟であるといいま す。系図上では「熊野高倉下命」となっておりますが、『記紀』では「武 甕雷神」から預かった「ふつのみたま」の剣を、神武天皇に渡した人物が 「熊野高倉下」(『古事記』では単に「高倉下」)であり、「高倉下命」 と同一人物であることに異存はありません。 このことから、どうやらこの親児孫は、異名同体らしいと考えることが できそうです。アメノカグヤマとアメノムラクモは、ホアカリに従卒して 降臨しています。親子とならともかく孫までもの三世代ともなると、話を 創り過ぎではないか、とも思えてきます。まあ、これは言い過ぎですが。 ホアカリ=神武は、そのとおりだと思います。しかし、この場合のホア カリは、人間であって神ではありませんでした。まさに神ホアカリと称さ れた人物であり、ホアカリそのものではなかったはずです。 『勘注系図』にある、始祖ホアカリから親児孫三世代は、本当に天孫で あって人間ではなかった、つまり、観念神というか、物質に宿る精神だっ た、と思うわけです。 具体的に云えば、 天照国照彦火明命=太陽、鏡 天香語山命=天香久山 天村雲命=天叢雲剣・草薙剣 であり、それらを竪系図でつないだのではないでしょうか。 アメノムラクモは文字通り天叢雲剣でしょう。ホアカリは籠神社秘伝に よれば、亦の名を天御蔭命というそうですが、古記伝として、 「古記云、此命以天御蔭之鏡・天村雲之刀、為二璽神寶」 とあるので、ホアカリ=天御蔭鏡と考えられるでしょう。あるいは、伝 承鏡である、息津鏡・邊津鏡を指しているのかも知れません。ちなみに、 此命とは「建田背命」のことです。 ただ、アメノカグヤマは、大和三山の一つの香具山とは別であったと思 います。過去形なのは、いつの時代からかは、大和の香具山と見なされた でことと、思うからなのですが。 香久山は「万葉集」の持統天皇の歌、 「春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣干したり 天の香具山」 巻1−28 がよく知られていますが、象徴的な歌は舒明天皇の歌です。 「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見を すれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」 巻1−2 これは、舒明天皇が香久山に登り、国見をしたときの歌であると言いま すが、 「とりよろふ 天の香具山」 と歌われています。「とりよろふ」は、語義未詳とされていますが、中 西進氏は「りっぱに装っている」と解釈されています。 しかし、大和三山の畝傍山、耳成山がいわゆる神奈備山であるのに対し、 香具山は、独立山ではなく小高い丘といった感じで、おおよそ立派という イメージはありません。 天の香具山は、天から降臨したという伝説があります。だから「天の」 なのですが、『伊豫国風土記逸文』には、 「伊豫の國の風土記に曰わく、伊予の郡。郡家の東北の方に天山あり。 天山と名づくる由は、倭に天加具山あり。天より天降りし時、二つに分れ て、片端は倭の國に天降り、片端は此の土に天降りき。因りて天山と謂ふ、 本なり。」 と記されています。それほど神聖で特別な山と、言われているにもかか わらず、存在する香具山とのギャップはいかんともしがたいですね。 さて、鏡、剣とくれば、三種の神器を連想しますね。私はこれが原型で あったと思います。しかし、天の香久山は持ち運べません。重要であった のは、天の香久山そのものではなく、埴土にあったのだと思います。 もちろん、それは天降ったと言われる、天の香久山の埴土でなければな りません。 「天の香具山の社の土を取って、平瓦八十枚をつくり…」『神武紀』 「ひそかに天香山の埴土を取り、沢山の平瓮を造り…」『神武紀』 「武埴安彦の妻吾田媛がこっそりきて、倭の香具山の土をとって、頒巾 のはし包んで呪言をして…」『崇神記』 と、探せばまだあるでしょうが、埴土こそ重要であったことがわかりま す。 現代でも、よく似た神事は続いております。 住吉大社では、埴使(はにつかい)といって、毎年祈年祭、新嘗祭の前 に祭器を作るための埴土を畝火山頂で採取します。とても大切な神事であ るため、一般に公開してません。この神事は『神武紀』にある香具山伝承 に始まります。 香具山ではなく、なぜ畝傍山なのか。 住吉大社は元来「津守連」が奉仕している神社であり、『新撰姓氏録』 和泉国神別に、 「火明命の男天香山命の後裔」 と載っております。 もう少し興味深い事実を記させていただければ、香具山の北西山麓に、 畝尾坐健土安神社・畝尾都多本神社の二社が鎮座しています。「畝尾」と 書いて「うねお」と読ませるようですが、『延喜式』では「うねび」と読 んでいます。 香具山の北山腹にある天香山神社は、『大和志料』によれば、当社を畝 尾坐健土安神社と定めています。 そうなのです。現代の香具山は本来畝傍山であり、畝傍山こそ本当の香 具山であった、と考えることができます。このことは、またの機会に論ず ることにしましょう。 さて、ホアカリ・アメノカグヤマ・アメノムラクモの三者は精霊だった としても、「倭宿禰命」に繋がっていく人物がいたはずです。その者こそ、 人間ホアカリであり、人間アメノカグヤマであり、人間アメノムラクモで あり、三つの精霊を一人で身にまとった、つまり持参してきた人物であっ たはずです。 その人物の名は、 「建位起命」(たけいたてのみこと) です。 この「命」の名は、私の知る範囲では、『勘注系図』以外で目にするこ とはないと思います。 『勘注系図』前段には、『籠神社祝部氏係圖傅云』として、 彦火明命─彦火〃出見命─建位起命─倭宿禰命─建登目命 という系図を載せ、並列して、 一云 建位起命───宇豆彦命─倭宿禰命 としています。 このことから「倭宿禰命」を中心に考えてみると、「建位起命」=「宇 豆彦命」であるらしい、ことがわかります。そして前段は、「建位起命」 =「建田背命」であるとも、伝えています。 「建田背命」は、『勘注系図』の六世孫です。先に述べた、 「古記云、此命以天御蔭之鏡・天村雲之刀、為二璽神寶」 という古記伝は、「建田背命」の条に記載してあります。そしてこの一 節は、 「此命元名笠水彦命 亦云大海宿禰命云云、一云亦名大己貴命 一云、 天御蔭命 亦名建日潟命 一云、清日子 一云、日高彦命云々」 と続いています。 元名の「笠水彦命」の「笠」は「宇介」と読むらしく、「宇介水彦命」 の亦の名がやはり、「建田背命」であるとされています。 このように紐解いていくと、なんと十六世孫「丹波國造大倉岐命」まで もが、一云あるいは亦名で同一人物となってしまい、おそらくは、整理さ れた『本系図』と同様になってしまうでしょう。 結局そういうことなのか、系図が略されたと思われた『本系図』は、そ れが正しかったということか。 しかし、もう一度考えてみてください。この『本系図』とは、大和朝廷 が各祝部氏に提出を義務づけた、いわば大和朝廷公認の系図ですから、で たらめが記載してあるはずがありません。そこをあえて秘伝『勘注系図』 として残したことは、公にできない理由があったからに違いないのです。 籠神社の秘宝、伝承鏡である息津鏡・邊津鏡は、『古事記』を除けば、 この『勘注系図』にこそ、その由来が記されているのです。これを信じる 私には、『勘注系図』は何か大きなからくりによって、覆われているよう な気がしてなりません。 この章の始めに掲げていた疑問よりも、さらにもっと大きなの疑問とし て、膨らんでしまいました。 そこで、章をあらためて、これらの問題を論じたいと思います。 3.皇室系図と勘注系図 『勘注系図』を正しく把握するためには、皇室系図を神話から史実へと 導き出さなければなりません。なぜなら、神武天皇こと「火火出見尊」は、 『勘注系図』の持ち主、「海部氏」の祖でもあるからです。従って、『勘 注系図』前段に記されている系図と、皇室系図とは同じにならなければな らないはずなのです。 『日本書紀』による皇室系図は、 国常立尊─略─伊奘諾尊 ┌大日靈女貴 ┌略・三女神 ┠──略─┤ ┠───┼─────天忍穂耳尊 伊奘冉尊 └素戔嗚尊 └略・四神 ┠瓊瓊杵尊 ┃ ┃ 高皇産霊尊─栲幡千千姫┃ ┠→ 大山祇神─神吾田津姫 ┌火闌降命 →┼彦火火出見尊 └火明命 ┃ ┠鵜葺草葺不合尊(記) 海神┬豊玉姫 ┠───┬略・三神 └──────玉依姫 └神日本磐余彦尊─以下略 と、まあこのような竪系図になるのですが、もちろんこれを鵜呑みにす る方は、いらっしゃらないはずです。 次ぎに『勘注系図』の前段です。これは、『籠名神社祝部氏係圖傳云、 貞觀本系歴代秘記云、神記云』と題されています。 天御中主尊─伊奘諾尊─天照皇大神─児正哉吾勝〃也速日天押穂耳尊→ →児彦火明命─児彦火火出見命─児建位起命─児倭宿禰命─児天登目命 さて、「神日本磐余彦」とは神武天皇のことですが、『日本書記』の一 書(第三)によれば、「神日本磐余彦火火出見尊」であるといいますが、 ホホデミは、ニニギの三人の子のうちの一人でもあるわけです。 「火闌降命」(ほすせりのみこと)は、海幸彦・山幸彦神話の海幸彦で もあり、ホホデミは山幸彦でもあります。この神話自体も、南方系神話の 混入であると言われております。これらの神話は、天皇即位に直結する話 ではなく、本来別系統の神話であったものを、取り入れたとしか思えず、 はっきり言って、その意図すらわかりません。よく言われている、隼人族 について身分の明文化かもしれません。 神武ホホデミは、ニニギの子ホホデミであったはずです。このように考 えるほうが簡単明瞭ですし、余計な肉付きのない簡単な伝承こそが、最古 であったと思います。 また、『先代旧事本紀』や『日本書紀』別の一書では、ニニギとホアカ リが兄弟であったとしていますが、このあたりの混乱が、系図をより複雑 なものにしているのです。 しかし『勘注系図』前段のなかに、これらの謎を解くヒントがあったの です。 「始祖彦火明命 正哉吾勝〃也速日天押穂耳尊第三御子 一云、穂瓊〃 杵尊御子 亦名穂〃手見之命」 ここで注目すべきは「第三御子」です。 さらに前段には、「籠名神社祝部氏本記云、氏本記一本也」と題した堅 系図があります。実は、これが冒頭最初にあるので、主題のように見える のですが、この注記に、 「一云、彦火明命 亦名彦火瓊〃杵尊」 とあるのです。 ニニギとホアカリは、兄弟や親子ではなく、ニニギあるいはホアカリの 一人であったということです。そしてもう一つ、ホアカリはオシホミミの 第三子であったとうこと。これらを一本化すると、 ┌1.不明 天押穂耳尊─┼2.不明 └3.火明命(彦火火出見命) となり、これが最古の皇室系図であったと想像します。 そしてこの不明な二神を含めた、ホホデミ三兄弟の史実から、「火闌降 命」・「彦火火出見尊」・「火明命」の説話が生まれたのだと思います。 『記紀』をみると、このホホデミ三兄弟の組み合わせは、実に九通りに 及びます。しかしながら、火の中より生まれ出たから、三兄弟の名がすべ て「火」に関連していることは、話を創りすぎです。 そもそも、ホアカリがあり、ホホデミがあったから、それに似せて名付 けられたのでしょう。なぜなら、ニニギ降臨後から、神武東征寸前までの 神話は、天皇即位とは全然関係ないからです。つまりなくてもいいわけで す(むしろ無いほうが理解しやすいと思います)。 この神話を簡単に述べると、次のようになります。 「日向の高千穂峯に降臨したニニギは、大山祇神の娘、神吾田津姫(木 花咲耶姫)を娶ったが、一夜にして妊娠した姫に不審を抱く。姫は身の潔 白を証明するために、無戸室を作って火を放ち、その中で出産した。 炎の中から生まれた三神は、焼けることもなく天神の子であることが証 明されたが、神吾田津姫は亡くなった。しばらくして、ニニギはなくなっ た。 三神の兄、火闌降命は海の幸を、弟の彦火火出見命は山の幸を得る力を 備えていた。 ある日、ホホデミの提案で持ち場を交換したが、ホホデミは兄の大切な 釣り針を無くしてしまった。兄は激怒しホホデミは苦しんだ。 その後、ホホデミは海神の力を借り、釣り針を探し出し、海神から得た 玉の力で兄を懲らしめた。 ホホデミは海神の娘、豊玉姫を娶ったが、姫との約束を破り、出産中の 姿をのぞき見てしまった。怒った姫は鵜葺草葺不合尊を生まれたが、フキ アエズを海辺に棄てて帰ってしまった。久しくたってホホデミが亡くなっ た。 フキアエズは、姫の妹、玉依姫を娶り、神日本磐余彦を生まれた。久し く後、フキアエズは亡くなった。」 他にも、「磐長姫」の説話や「塩土老翁」の説話がちりばめられていま すが、大筋は上記通りです。 『古事記』以前の書、と言われている『古史古伝』には、ウガヤ王朝の 存在を記していますが、これら日向神話は、それを考慮して創作されたの かも知れません。 結局、ホホデミ一神が、ホアカリ、ニニギ、神武に別けられたのだと思 います。 『日本書紀』が編纂されている頃には、ホアカリとニギハヤヒは同体と みなされていたことでしょう。 『先代旧事本紀』が記すホアカリ(ニギハヤヒ)のフルネームは、 「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」 といいます。 ニニギはどうかというと、 「天饒石国饒石天津彦彦火瓊瓊杵尊」 なのです。よく似ていますよね。ちなみに、 「天津彦国光彦火瓊瓊杵尊」(『書記』一書第四) とも言います。ニニギの飾り名である「天津彦」は、他にもう一人いま す。 「天津日高日子穂穂手見命」(『古事記』) すなわち、ホホデミです。神社伝承学的に言えば、これ自体ニニギ=ホ ホデミです。「穂火」とは“火の子”のことであり、「瓊」とは“美しい 赤い玉”のことです。収穫期を迎えた黄金色の稲の穂が、風に揺らぐ様子 は、さながら田が燃えているように見えます。また米の古い品種が赤米で あったことならなおさらでしょう。そして、「手」が“握り”や“取って” を意味することなどから考えると、「穂穂手(見)」と「瓊瓊杵」は、ほ ぼ同じ意味となります。 どちらかをベースに、どちらかの名が造語されたのでしょうが、「瓊瓊 杵」は整いすぎている感が否めません。そこで、ホホデミがオリジナルで、 そこからニニギが派生したのだと考えます。ホアカリもまた、ホホデミの 派生系だと思います。 以後は籠神社の伝承通り、ホホデミをホアカリで統一して記しますが、 ニニギが派生した理由を考えれば、『日本書紀』編纂当時、天皇家から見 れば一介の祝部氏家と、始祖が同じではいかにもまずかったからでしょう か。 さて、ホホデミは神武でもあるわけですから、先の皇室系図は、 ┌1.不明 天押穂耳尊─┼2.不明 └3.神日本磐余彦尊 とも書き換えることができます。この頃は末子相続であったと言います から、第三子の「磐余彦」が王位を継承した(『記紀』では初代天皇)こ とは、理解できることです。 これに『記紀』から読んだ系図を繋げると、 ┌手研耳命(異母) ┌1.不明 ┌┴岐須美美命(異母・記) 天押穂耳尊─┼2.不明 │┌日子八井命(記) └3.神日本磐余彦尊┴┼神八井耳命 (神武天皇) └淳名川耳尊─磯城津彦玉手看尊 (綏靖天皇)(安寧天皇) となります。 ところで、『古代史妄想的話の8』で、『先代旧事本紀』の検証から、 神武はアメノムラクモらしい、ということを述べました。もちろんアメノ ムラクモが、俗に言う「草薙剣」に象徴される神の名であることは、言う までもありませんが、ここでは、そのことには触れずにおきます。 そこで『勘注系図』から系図を追ってみると、 ┌天忍人命(異母) ┌┴天忍男命(異母) │ 天村雲命┴倭宿禰命─笠水彦命─笠津彦命─建田背命 (神武天皇) となります。 さらに『勘注系図』では、 「○此命元名笠水彦命 亦云、大海宿禰命云云」 とあり、この此命とは、「建田背命」のことなのです。『勘注系図』は 注釈が所狭しと書き込まれており、それらが相互間で矛盾していたりもす るのですが、これを採用すれば系図は、 ┌天忍人命(異母) ┌┴天忍男命(異母) │ 天村雲命┴倭宿禰命─建田背命 (神武天皇) と書き換えることができます。 そして「建田背命」は、 「一云、天御桙命之子 一名大宇奈火彦命 亦名高天彦命 亦名大宇那 比彦 一云、彦火火出見命之御孫玉手見命」 ともあり、この「玉手見命」は安寧天皇こと「磯城津彦玉手看尊」と同 一ではないでしょうか。つまり『記紀』皇室系図と『勘注系図』は、完全 に一致しているのです。そうすると、アメノムラクモ神武とタケダセ安寧 に挟まれた「倭宿禰命」が、綏靖天皇に相当することになります。 これだけではありません。さらに『勘注系図』を追っていくと、次のよ うになります。 ┌天忍人命(異母) ┌┴天忍男命(異母) │ 天村雲命┴倭宿禰命─建田背命─建諸隅命─日本得魂命─意富那比命 (神武天皇) (安寧天皇) 『勘注系図』には、「日本得魂命」(やまとえたまのみこと)亦の名に 「御眞津彦命」をあげています。これは孝昭天皇こと「観松彦香殖稲尊」 (みまつひこかえしねのみこと、『記』では御眞津日子訶恵志泥命)と同 名です。 さらには、 「日本得魂命 亦名大那毘命」 とあるうえ、「建諸隅命」(たけもろすみのみこと)には、 「亦云、倭得魂命」 とあり、この三者は同体であると言えましょう。 話は変わりますが、孝昭天皇には二人の子がいました。二人はおのおの 「天足彦国押人命」(あめのたらしひこくにおしひとのみこと) 「日本足彦国押人尊」(やまとたらしひこくにおしひとのみこと) といい。この二人のうち「日本足彦国押人尊」が孝安天皇です。「日本 得魂命」が孝昭天皇ですから(建諸隅命・意富那比命を含める)、この二 人の「国押人」は「日本得魂命」の子に当たるわけです。 ここで、もう一度『勘注系図』前段、『籠神社祝部氏係圖傅云』(古代 史妄想的話の8)を思い出してください。 彦火明命─彦火〃出見命─建位起命─倭宿禰命─建登目命 一云 建位起命───宇豆彦命─倭宿禰命 であったはずです。秘傅では、「建位起命」は「宇豆彦命」であって、 「建田背命」でもあるとしています。そして「倭宿禰命」は「建田背命」 の孫(一云、児)らしいのです。系図が前後して、何を信じてよいやらわ かりませんが、「建田背命」の孫が「倭宿禰命」ならば、「倭宿禰命」と 異母兄弟の「天忍人命」と「天忍男命」も、「建田背命」の孫となり、同 一人物とみなされる安寧天皇の孫でもあるわけです。 つまり、孝昭の二人の子「天足彦国押人命」、「日本足彦国押人尊」は それぞれ、『勘注系図』の「天忍人命」、「天忍男命」に相当してくるこ とになります。 これらのことを含め、『勘注系図』から読み取れる先のことまで、系図 に書き込んでみますと、次のようになります。 (亦云御間木入彦命・崇神天皇?) 亦云小止與命─────建稻種(亦云、彦大毘毘命・開化天皇) ‖ ‖ ┌押媛(忍日女命) (孝昭天皇) ├天足彦国押人命 (孝霊天皇?) 日本得魂命─────┼日本足彦国押人尊─天登目命 ‖ │(亦名、玉勝山背根子命・孝安天皇) ‖ │ ‖ └乙彦命 ‖同一人物 (亦名、彦國玖琉命・孝元天皇) ‖ 建田背命─児───┬─倭宿禰命─(建田背命─建諸隅命─日本得魂命) (安寧天皇) │ ‖ │ 建位起命─────┘ 「押媛」を母に持つという孝霊天皇には、一応「天登目命」を比定しま したが、「押媛」が他氏に嫁いだのだとすれば、孝霊天皇はその氏との子 であることなります。 結局『勘注系図』とは、秘伝・異伝などからなる、異名同体の複数の並 立した系図を、竪系図としたものということがわかります。しかもその系 図は、皇室系図と相違ないとすれば、いわゆる「海部氏」系図は、そっく り皇室系図に持って行かれたことになります。つまり皇室系図の元本は、 海部氏系図であり、海部氏系図を基に皇室系図が作られたということです。 こうしてみると、天皇は縦に結ばれていません。皇室系図の基が海部氏 系図であるかぎり、皇后から見た欠史八代の各天皇に世代差がないことは、 むしろ当然のことであり、それを無理に親子関係で繋いだ結果、矛盾が生 じてしまったのです。 このような仕組みがわかったうえで『勘注系図』を見ると、注記を含め て、驚くほど多くの同じ並立した系図が読み取れます。 「海部氏」は天皇家と同祖ながら、『記紀』伝承にない丹波降臨が伝承 の要となっています。 その系図の基本は、『籠神社祝部氏係圖傅云』であると思います。 彦火明命─彦火〃出見命─建位起命─倭宿禰命─建登目命 始祖ホアカリ・ホホデミは、観念神であると考えていますので、人間ホ アカリは「建位起命」でしょう。従って、人としての始祖はタケイタテに なります。そこで、 建位起命─倭宿禰命─建登目命 というラインに限って考えてみたいと思います。なぜなら、タケイタテ とヤマトノスクネは、異名同体と考えられる人物が、あまりにも多いため に、これだけで系図の説明がついてしまうのではないかと、思えるからで す。 ホアカリの亦の名も、タケイタテの亦の名とすれば、 建位起命 倭宿禰命 天村雲命 天御蔭命 御穂子命 宇豆彦命 稲日命 天忍男命 丹岐穂命 葛木彦命 稲井命 倭得魂命 宇豆彦命 五十瓊敷入彦命 宇介水比古命 川上眞若命 天御蔭命 倭建命 天御桙命 彦田田須美命 建登美命 大熊野命 天登美命 大倉木命 日本得魂命 大縦縫命 建田背命 大倉岐命 笠水彦命 大熊王 笠津彦命 大振熊命 意富那比命 大船城宿禰 建諸隅命 大岐王 川上眞若命 天忍男命 ざっと見ただけでも、これだけの名前が挙がります。しかも、関連付け すれば、まだまだ該当者がいるのですが、切りがないので省略します。 ホアカリを除けばこの中で、始祖伝承を以て語られている者が二人いま す。一人は先祖伝来の「息津鏡・邊津鏡」の神宝を以て奉仕したヤマトノ スクネ。もう一人は「天御蔭之鏡・天村雲之刀」を以て神宝としたタケダ セです。 彼らも異名同体かと問われれば、当然そう思われます。 「天村雲釼」が熱田神宮に、「息津鏡・邊津鏡」が籠神社に伝わってい るにもかかわらず、「天御蔭鏡」が伝わってないのは、これらの神宝を、 二千年近くもの間、大切に伝承してきた両宮の性格から見た場合、おおよ そ考えられません。 しかし、「息津鏡・邊津鏡」=「天御蔭鏡」であれば、問題は氷解しま す(天御蔭鏡が、八咫鏡であったというのならば、話は別ですが、案外そ うかもしれませんね)。従って、タケダセ=ヤマトノスクネと考えること に無理はないでしょう。 もう少し具体的に言えば、タケダセもヤマトノスクネの一人であった、 ということです。今さら言うことでもないのですが、ヤマトノスクネとい う呼称は、誰か特定の人物を指す固有名詞ではありません。例えば、「耳 成山」は大和三山ですが、大和三山は「耳成山」だけではありません。 しかし、そこをあえて始祖伝承を二人に付与したからには、それなりの 理由があったからに違いありません。 タケダセがタケイタテであることは、その名の母音からも説明できます。 タケイタテ TA-KE-I-TA-TE タケダセ TA-KE- DA-SE タケイタテは、「海部氏・尾張氏」の祖先であると同時に、ヤマトノス クネの名で語られることもあったと思います。しかし、『勘注系図』で直 系とされているタケイタテとヤマトノスクネは、同一人物ではないと考え られるのです。 この二人の始祖伝承について、具体的に次のように考えます。 タケダセ─「尾張氏」 ヤマトノスクネ─「海部氏」 と繋がっていくのだと思います。 丹波降臨伝承は「海部氏」のものであって、「邪馬台国」出身の「尾張 氏」にはありません。 『先代旧事本紀』の天孫本紀、「尾張氏系図」は、『勘注系図』とほぼ 同じです。しかし、アメノムラクモの次に続く人物は、「海部氏」直系の ヤマトノスクネではなく、異母兄弟の「天忍人命」なのです。この後、系 図はタケダセからまた一緒になりますが、「尾張氏」・「海部氏」の両氏 は、ホアカリを始祖とする親族でありながら、九州降臨後ヤマト入りした 「尾張氏」と、丹波降臨の「海部氏」との二派に分列していた、と思われ ます。 それは九州を経て、直接丹波へ降臨したか、九州、大和を経て丹波へ降 臨したかのどちらかなのでしょうが、私は、本編で解説したとおり、後者 を採用しています。 さて、ここまで来れば、「海部氏」にとってのヤマトノスクネは誰だっ たか。ヤマトノスクネの正体探しです。ここで、ふと『本系図』のことが 頭をよぎりました。というのは、『勘注系図』は省略された『本系図』を 補うものである、ということを前提にして述べてきました。従って、『本 系図』自体の内容は、全然問題にしませんでした。 しかし『勘注系図』が、ある意味伝承の寄せ集めであり、重複や矛盾す るそれらが、隙間なく記されていることから、『勘注系図』の内容は資料 であり、「海部祝部氏」の生粋の系図、つまり、絶対の自信を持って天下 に公表できる系図こそ、『本系図』であったのではないかと思われるので す。 『本系図』は公表がはばかれるから省略してあるのではなく、不明な部 分は不明なままとした、伝説ではない人間『海部氏』の系図ではないか、 と思えてしまうのです。 そうすると、ますますヤマトノスクネの正体が、重要になってきます。 『本系図』に記された初代三代は、 │正哉吾勝〃也速日天押穂耳尊 始祖彦火明命─┴┬─────────────三世孫倭宿禰命──○ │第三御子 ○──孫建振熊宿禰────略 です。これが省略があったわけではなく、『海部祝部氏』の系図であれ ば、『勘注系図』のどこかに、同様の記載を見いだすことができるはずで す。 また、「倭宿禰」は三世孫なので、ホアカリとの間に二代の省略があり ますが、これは、不明であったと解釈します。 ところが、三世孫「倭宿禰」を中心に系図をたどってみても、該当しそ うな箇所は全く見あたりません。そこで起点を変えて、孫「建振熊宿禰」 から見てみることにしました。 もちろん主系図だけ見ていても、解決にはなりません。 すると、「丹波國造海部直伍佰道祝」の脇に、 「一云 十四世孫倭宿禰命 孫難波根子建振熊宿禰」(系図A) という箇所を見つけました。これはぴったり同じです。ただ、ヤマトノ スクネは十四世孫になっています。ちなみに主系図の「建振熊宿禰」は十 八世孫ですが、そのことが検証の問題にはなりません。 さらに該当しそうな箇所は、 「一云、 山代根子 彦火明命 三世孫曾熊振宿禰 孫建振熊宿禰 云云」(系図B) がありました。三世孫はヤマトノスクネではありませんが、その左に、 「十四世孫 曾熊振宿禰───┐ 十四世孫 一云 山代根子命 └─一一云、亦名倭宿禰命──────────○ 一云、高倉下命之 十五世孫 ○──────────兒難波根子 兒倭宿禰命云云 建振熊宿禰────────略」(系図C) とあります。主系図の十五世孫と言えば、「丹波大矢田彦命」ですが、 彼には 「一云、難波根子建振熊宿禰」 という注記があり、亦名を「川上麻須稚郎子」といいます。「建振熊宿 禰」の父が「曾熊振宿禰」であることには、その名前からして想像し得る ことですが、別名とされる「川上麻須稚郎子」の父の名が「曾熊振宿禰」 では、かなり違和感があります。そう思って主系図の十四世孫をみると、 これが「川上眞稚命」であり、これでしたら何ら疑問はありません。 あとは、「曾熊振宿禰」=「川上眞稚命」が実証されれば良いわけです が、『勘注系図』を細かく追っていくと、 「一云、建田背命之児大矢田宿禰 兒倭宿禰命 亦名曾熊振命 児難波 根子建振熊命 兒建振熊宿禰云云 一云 倭宿禰命 亦名 大振熊命」 という注記があり、別に 「一云、倭宿禰命 亦名大熊野命 亦名大振熊命 亦名川上眞若命 亦 名倭得魂彦命」 ともありました。これらにより「建振熊宿禰」の父であるヤマトノスク ネの該当者は、「川上眞稚命」であったことがわかりました。 しかしながら、この「川上眞稚命」(かわかみまわかのみこと)なる人 物は、『記紀』には登場しませし、耳にされた方もそう多くないのではな いか、と思われます。実際、『勘注系図』だけ見ていては、何者なのかは まったく不明です。 ただ、カワカミマワカの亦名に「彦田田須命」があります。この名は、 『古事記』によれば、「彦坐王」(ひこいますおう)の子「丹波比古多多 須美知能宇斯王」(たにはのひこたたすみちのうしのおう)として、登場 します。この者は、『垂仁記』では垂仁天皇の后、「比婆須比賣命」(ひ ばすひめのみこと)の父なのですが、『垂仁紀』でのヒバスヒメ(日葉酢 媛)の父は「丹波道主命」なのです。 『勘注系図』にも、 「一云、道主王」 と記されておりますので、これによりこれが「丹波道主命」であると、 比定できました。彼は、『日本書紀』によれば四道将軍の一人であり、崇 神天皇の命により、「丹波」を平定した人物として書かれておりますが、 「丹波」を名乗る人物が大和国家の命により、「丹波」を平定したとすれ ば、それは地元に対する裏切り行為にすぎません。そんな人物の後裔が、 この後何世代も続いていくことは、適わないでしょうから、これは後に付 加された説話であると思います。 重要なことは、「丹波道主命」の娘、ヒバスヒメが垂仁后として迎えら れたということです。この時代は、外戚方が政治の主導権を握っていたの です。迎えられたと書いたものの、力関係は、丹波>大和であったと思わ れます。外戚方が政治を主導するということは、外戚方が常に優位であっ たとも考えられます。簡単に言えば、力のある者が内政干渉したというこ とです。 『勘注系図』はカワカミマワカについて、次のように注記を加えていま す。 「稚足彦天皇の御代、諸国に令して長を立てられる。この時、盾桙等を 賜り、大県主となり以て仕え奉る。竹野郡将軍山(一云熊野郡甲山)に葬 る。」 ここに記されている時代は、『記紀』による観かたでしょうから、信じ るに足りませんが、大県主になったという記述は、大変重要です。 この時代には、中央集権国家から任命された県主制度はありませんし、 だいたいヤマトという一地方都市が、中央集権国家であったはずがありま せん。 つまり、大県主=国王なわけです。 その規模はというと、「丹波」・「丹後」(この時代には分割されてい ないが)・「但馬」はおろか、 「丹波国造 志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に尾張の同祖の建稲根命の四世の孫 の大倉岐命(おおくらきのみこと)を国造に定められた。」『先代旧事本 紀・国造本紀』 「但遅麻国造 志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に竹野君(たけぬのきみ)と同祖の 彦坐王の五世の孫の船穂足尼(ふねほのすくね)を国造に定められた。」 『先代旧事本紀・国造本紀』 「稲葉国造 志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に彦坐王の子の彦多都彦命(ひこた つひこのみこと)を国造に定められた。」『先代旧事本紀・国造本紀』 とあるように、「因幡」までもが、その支配領域であったと考えられま す。(「彦多都彦命」は「彦田田須命」でしょうが、「大倉岐命」・「船 穂宿禰」も、ヤマトノスクネという亦名がありますので、すべてカワカミ マワカに行き着くものと思われます。三世代に渡る国造が成務一代の間と は、考えられなくもないですが、かなり無理があると思います。) カワカミマワカがヤマトノスクネと比定できるならば、その名から、彼 の支配領域は、「丹波・丹後・但馬」の三丹+「因幡」に加えて、ヤマト をも含めていたと考えることができます。 『本系図』に記されたヤマトノスクネは三世孫ですから、始祖「彦火明 命」の後、二代の省略があります。これらは当然、「天香語山命」・「天 村雲命」のことでしょう。そして、これら始祖三代は、各々、鏡・埴土・ 剣の精霊ですから、事実上の始祖はヤマトノスクネになります。 現存する国宝『本系図』は、「丹後国印」四文字の朱印が、各代宮司の 上に押印されています。それは合計28個であるといいます。これは丹後 国庁の承認であることから、「丹後国」側としても、この系図に異論は全 然なかったわけです。 この『本系図』は、先に示した系図Aあるいは、B・Cと同種のもので あり、これらの秘伝・口伝から作成されたものだと推測できます。 従って、『本系図』のヤマトノスクネもまた、カワカミマワカに比定で き、俗に言う丹後王朝(もちろん三丹のことです)の初代大王こそ、カワ カミマワカであり、まぎれもなく歴史上の人物であったと思われます。 最後になりますが、『勘注系図』によるヤマトノスクネは、 「『息津鏡・邊津鏡』の神宝を以て奉仕した…」 という、始祖伝承を持っていました。これは先にも述べたことです。 『古事記』では、「息津鏡・邊津鏡」を含む八種の神宝を持って、海を 渡ってきた人物を、「天之日矛」(あめのひぼこ)であると、伝えていま す。 2007年 7月 了 2012年 6月 改訂 |