捨てざり難い説


   
封印された古代史妄想的話 四方山話編二



  
 建稲種命


  みなさんは、「建稲種命」(たけいなだねのみこと)という人物をご存
 知でしょうか。

  『記紀』を通じて、わずかに一度だけ、彼の名を目にすることができる
 箇所があります。
  それは、『古事記』応神天皇の次の記録です。


  「ほむだわけ命、軽島の明宮に坐しまして、天の下を治らしめしき。こ
 の天皇、ほむだまわか王の女、三柱の女王を娶したまひき。一はしらの名
 は高木の入日賣命。次に中日賣命。次に弟日賣命。−この女王等の父、ほ
 むだまわか王は、五百木の入日子命、尾張連の祖、建伊那陀宿禰の女、志
 理都紀斗賣を娶して、生める子なり。−」


  この文中の「建伊那陀宿禰」(たけいなだのすくね)こそ、タケイナダ
 ネ、その人です。

  ここで、なぜタケイナダネのことを取り上げるのかというと、ある時期、
 彼こそ東国におけるヤマトタケルであった、と考えていたことがあったか
 らです。
  逆にいえば、そう考えさせてしまうくらい、ヤマトタケル伝説上、重要
 な位置にある人物だったいうことです。

  その理由をここで、お話いたしましょう。

  タケイナダネは、熱田神宮を中心にして、東海地方ではよく祀られてい
 る神様です。「尾張氏」の本拠でもある熱田神宮では、古来より「五座の
 大神」と称される五柱の神を、お祀りしてきました。現代でこそ相殿に坐
 す五神ですが、かつては主祭神でした。考えてみればこれはおかしな話な
 のです。
  現代の主祭神はというと、これが「天照大神」なのです。神宮側が唱え
 るその理由といえば、


 
 「(熱田神宮の祭神は熱田大神であり、)祭神の熱田大神とは、三種の
 神器の一つである草薙神剣を御霊代としてよらせられる天照大神のことで
 ある。」


  かららしいのですが、私の認識し得る「草薙剣」は、アマテラスよりも
 むしろ、スサノオの剣であるとしか言えません。『記紀』神話では、スサ
 ノオからアマテラスに献上されていますので、アマテラスのものと言えな
 くもないのですが、当の『記紀』神話でさえ、「草薙の剣」はスサノオ神
 話の中で生き生きと描かれている、と思うのですが。まあ、これはいいで
 しょう。

  相殿の「五座の大神」とは、「建稲種命」・「宮簀媛命」・「日本武尊」・
 「素戔嗚尊」・「天照大神」の五神です。

  これも矛盾しています。

  主祭神がアマテラスならば、相殿でアマテラスを祀る必要は全然ないか
 らです。同じ境内でも接末社など、別殿で祀られることはよくあることで
 すが、同殿内では他に例がないと思います。
  考えられることは、この両アマテラスが実は別神であったのではないか、
 ということです。
  この「五座の大神」は、アマテラスを除きいずれも熱田神宮に縁の深い
 神々です。アマテラスだけが異色です。「草薙剣」つながりならば、縁が
 ないとは言えないかも知れませんが、「尾張」とは縁がなく、やはり奇異
 な感じを受けます。

  実は、私の古代史への恋情は、ここから始まっています。このアマテラ
 スへの追求が、古代史の一歩だったのです。

  神社伝承学を知っている人は、このアマテラスが誰だか、わかっている
 ことでしょう。神社伝承におけるアマテラスは二人います。一人は、『記
 紀』のアマテラスこと「大日靈女貴尊」。もう一人は、「天照御魂大神」
 こと「天火明命」(あまのほあかりのみこと)のことです。
  フルネームは、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」なのですが、私は、
 「天照国照彦天火明尊」・「櫛玉饒速日尊」と分けて考えています。この
 ことは、本文で述べていますので重複を避けますが、ホアカリといえば、
 『海部氏本系図』の頂点に位置する人物、すなわち「尾張氏」の始祖です
 から、「五座の大神」の一人として、ずっと理に適っています。

  さて、タケイナダネですが、『丹後国風土記』ではタケイナダネを丹波
 国国造と記しています。また、『先代旧事本紀』では、タケイナダネの四
 世の孫の「大倉岐命」(おおくらきのみこと)を丹波国国造に定めた、と
 しています。しかしながら、国造ならば現地に居ることが当然なのでしょ
 うが、タケイナダネの活躍は、「尾張国」からしか見えてきません。
  「丹波」と「尾張」の関係は、今さら言うまでもないでしょうが、『勘
 注系図』の「乎止与命」以降は「尾張氏」系なので、「尾張氏」系のタケ
 イナダネを、丹波国国造に据えた記録は、タケイナダネの大物ぶりをうか
 がわせる結果になってます。

  タケイナダネの真骨頂は、何と言ってもヤマトタケル伝説の上において
 でしょう。もちろん『記紀』からは、何の伝承も読むことはできません。
  タケイナダネの足跡を辿るためには、『尾張国熱田太神宮縁起』や、彼
 を祀る神社の由緒・伝承やを探る以外に方法はなさそうです。

  それは嘘か真かは別にして、おおよそ次のようになります。


  
「天皇の勅命により、東征の副将軍として任命されたタケイナダネは、
 ヤマトタケルの軍と合流し、その後海路を目指した。その出航は、現在の
 名古屋市緑区鳴海町にある成海神社(現在に成海神社は、応永年間に根古
 屋(鳴海)城築城のため、現在地に移転されたものです)から行われたら
 しく、神社にはヤマトタケルの出航の故事を伝える、『遠舟流の祭り』が
 続けられている。
  ヤマトタケル軍は、清水港(いわゆる野火の難と呼ばれる、草薙の剣伝
 説。焼津港の可能性もあり。)から上陸するが、タケイナダネ軍は、海上
 に残り後方支援に当たったものと推測する。
  激戦の末、この地の賊を平らげたヤマトタケル軍は、足柄峠を越えて三
 浦半島に向かった。
  再び、船上に戻ったヤマトタケル軍だったが、嵐をついての出航だった
 ので遭難しかけるのだが、弟橘媛の犠牲により何とか上総にたどり着き、
 この後、海路陸奥まで軍を進めたとしている。
  海路であるからには、ここまでは当然、タケイナダネ軍も一緒であるも
 のと推測する。
  こうして東国を平定し、ヤマトタケル軍は帰途についた。タケイナダネ
 軍とは甲斐で別れ、ヤマトタケル軍は、内陸を進んだようである。
  信濃を経て美濃に入り、尾張との国境に差しかかったころ、海路を行っ
 たタケイナダネが、伊豆沖で遭難死したという悲報が伝えられた。
  ヤマトタケルは、『ああ現哉(うつつ)かな、現哉かな。』と嘆いたと
 いう。
  タケイナダネの遺体は、現在の愛知県幡豆郡吉良町の海岸に流れ着いて
 いる。」



  とまあ、こんな具合ですが、ヤマトタケルが


  
「ああ現哉かな、現哉かな。」


  と嘆いた地は、現在内々峠といい、悲報後直ちにタケイナダネが祀られ、
 これが内々神社の起源となっています。
  また、遺体が漂着した幡豆郡吉良町には幡豆神社があり、ここもタケイ
 ナダネを祀っています。

  これらを伝説やお伽噺と決めつけてしまえば、それで話は終わってしま
 いますが、もう少し調べてみると、矛盾する箇所が少なからず生じてしま
 います。

  一般的にヤマトタケルとは、その名から日本を代表する武勇の人であり、
 「日本武尊」と書けば、そのような皇子であるという意味になります。
  つまり、『記紀』にあるその人格自体が創作であると言うのですが、確
 かに『記紀』をみる限り、創作であることは否めません。東西を平定した
 という英雄伝が、一つにまとめられた結果でなのでしょう。

  とは言うものの原ヤマトタケルが、「倭王武」すなわち雄略天皇であっ
 たであろうことは、その名前から創造・想像することは簡単な事です。
  ただし、ヤマトタケル伝説の、どこまでが史実でどこからが創造かはわ
 かるはずもなく、その復元のために議論することは、無意味なことだと思
 います。

  しかし、他方ではタケイナダネが、国宝である『海部氏系図』に名を連
 ね、「尾張国」にヤマトタケルの足跡が残っていることも事実です。この
 ヤマトタケルを雄略と比定すれば、タケイナダネの説話と複数のヤマトタ
 ケルの説話は、大きく時を違え、各々独立した説話だったものが、後世一
 つに編集されたことになります。

  これらを普通に考えれば、大別した本来の姿は、


  
1.東国のヤマトタケル等の伝承
  2.「尾張」のタケイナダネ、ミヤスヒメ伝承
  3.「大和」と「尾張」の小碓(おうす)、大碓(おおうす)伝承
  4.九州地方のヤマトタケル等伝承



  であったと思われます。

  項目3に関して言えば、ヤマトタケルとの関連性は薄いと思われます。
  
  「壬申の乱」以前の「大和」からみた東国は、古代三関のうち「不破」・
 「鈴鹿」の二つまでの関が、「大和」と「尾張」を別ける位置に設置され
 ていることからも、完全な異国(弥生と縄文の可能性もある)であり、ま
 さに「壬申の乱」前夜に「大海人皇子」が、東国に逃げ込んだ際、「近江
 京」では


  
「群臣はことごとぬ恐れをなし、京の内は騒がしかった。」


  とあるように、「尾張」は畏怖の地だったに違いありません。

  『記紀』にはありませんが、兄のオオウスは愛知県豊田氏の猿投山で亡
 くなっております。現在の「猿投神社」がそうですが、『古事記』では、
 弟オウスによって、ばらばらに殺されたというオオウスですが、にわかに
 は信じられないところです。
  さらに、岐阜県美山町の柿野神社の由緒には、


  
「日本武尊が大碓命の後を尋ね、乱賊を征伐しながら当地にやってきた
 ので…」



  と書かれており、実は兄弟仲が良かったのでしょう。このあたりは『記
 紀』伝承とはまったく逆になっております。
  またオウス自身が、本当にヤマトタケルであったかという疑問がありま
 す。私見では、オウスはヤマトタケルのエピソードを修飾する、モデルの
 一人であったと考えています。
  しかし、オオウスが東国へ逃げ込んだ理由は、案外『古事記』の


  
「オオウスは美濃に住む二人の美しい女性を妃にした。」


  というのが史実なのかもしれません。というのは、この女性は、景行天
 皇が召されるために、オオウスを遣いにやったことになっており、オオウ
 スはそれを横取りしたわけです。怒った天皇はオオウスに追手を差し向け
 たということなのです。
  ただし実際には、オオウスはオウスに殺されてはいないので、『古事記』
 のいう、


  
「(天皇は)その皇子(オウス)の激しい気性を恐れられて」


  熊襲征伐に向かわせたという、説話に繋がらなくなります。

  従って、項目3のみならず、4も東征したヤマトタケルとは関係ないと
 思われ、別人だったはずです。

  さて項目1のヤマトタケルですが、『記紀』を除けば『常陸国風土記』
 のその軌跡が記されております。
  『常陸国風土記』のヤマトタケルは、倭武天皇と記され、また


  
「倭武天皇之世」


  とも記されております。これを東征した「倭王武」こと雄略天皇と考え
 れば、『記紀』のヤマトタケル時代の人ではあり得ません。

  実は、熱田神宮の元宮である氷上姉子神社(名古屋市緑区大高町)には、
 向かいの氷上山頂に現在地よりもさらに元宮伝承地があって、そこに倭武
 天皇とミヤスヒメの居住地跡の石碑が見られます。

  ここでも倭武天皇です。

  もっともこの建造は明治時代と新しく、証拠文献になりませんが、甘い
 見方をすれば、何らかの伝説があったかもしれません。
  雄略天皇の東征時には、当然「尾張」の地を踏まなければならず、造船
 技術の乏しい「大和」ならばこそ(『祟神紀』十二年冬十月の条に、初め
 て船舶を造った。とある)、「尾張」に協力を求めた可能性は、かなり高
 い確立であるはずです。

  古代「尾張」はその名からして、国王は女性であったでしょうから、ク
 レオパトラとシーザーしかりの、軍略的ロマンスがあったことは、十分う
 なずけることです。

  しかし、「草薙剣」に関しては、断じて「大和」の剣ではありません。
 仮にタケイナダネが雄略と同時代人だったとしても、雄略が伊勢神宮から
 剣を持って出たことはあり得ないのです。
  「草薙剣」、その前身は「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)と言
 いました。

  アメノムラクモとは、「尾張氏」の祖神、ホアカリの三世孫の名に当た
 ります。この人物が、実際には存在していなくて、これが象徴名であった
 としても、「尾張族」を代表する名称には違いありません。

  そのように命名された剣を、「大和」側にあったと言う『記紀』の主張
 自体、「草薙剣」を三種の神器の一つとしなければならなかった、「大和
 朝廷」の苦肉の策なのです。

  この剣は、「尾張氏」の守り剣でしょう。『熱田国風土記』が、ヤマト
 タケルが忘れていった剣としながらも、


  「剣、光きて神如し、把り得たまはず、即ち宮酢姫に謂りたまひしく、
 『此の剣は神の気あり、斎奉りて吾が形影と為よ』とのりたまいひき。因
 りて社を立てき、郷に由りて名と為しき。」



  というように、神となす剣を熱田神宮を立てて祀っていたのです。

  大和の大王と言えども、尾張一族に伝承されている神剣を持ち出す事は
 不可能でしょう。
  であるならば、タケイナダネの時代に「草薙剣」をもって出ることので
 きる人物は、タケイナダネ本人でしかあり得ません。
  こう考えることによって、ヤマトタケル説話の不自然さは解消されます。

  それは、


  1.「相模国」に進みながら「焼津」に上陸したこと。(『古事記』)
  2.突然現れて犠牲になる「弟橘媛」



  の二点です。

  「相模」から「上総」に向かい、そこから上陸したのは後世の雄略であ
 り、「焼津」のそれは、「草薙剣」伝説の発祥地ですから、タケイナダネ
 です。
  タケイナダネは、「焼津」の帰路、遭難死したのではないでしょうか。

  内々峠で、嘆いた人物は、タケイナダネに随行した別働隊の長であると
 思います。
  愛知県小牧市田県町に田県神社がありますが、ここはタケイナダネの妃
 であった「玉姫」を祭神としています。この父は、すぐ近くの大縣神社の
 祭神である「大荒田命」といいますが、「大荒田命」が統治していた愛知
 県丹羽郡の人々も、タケイナダネの配下として、遠征に参軍していました。
  これは「小椋一葉氏」の調査なのですが、遠征に参加した人々は、みな
 無事戻ってきたそうです。(『伝承が語るヤマトタケル』中日新聞社)こ
 の中にいた大隊長クラスの人物だったのではないでしょうか。
  もう少し考えを巡らせれば、タケイナダネの子である「尻調根命」(し
 ずきねのみこと)かもしれません。この人物は、応神天皇の妃となった三
 姉妹の祖祖父に当たります。

  さて、ヤマトタケルの妃としては、ミヤスヒメよりもオトタチバナヒメ
 のほうが、より知られているように思います。それは、タチバナヒメの悲
 劇性からなのでしょう。
  ただ『記紀』をみると、突然現れたタチバナヒメに戸惑いを覚えます。
 彼女は、ヤマトタケルとの何のエピソードもなしに、自らを犠牲にするた
 めにだけ現れているからです。

  タチバナヒメは、「穂積氏忍山宿禰」(ほずみのうじおしやまのすくね)
 の娘として記されています。「穂積」なのだから、「美濃」の出身なのだ
 ろうと漠然と思っていたところ、これがなんと愛知県知多郡東浦町だった
 のです。東浦町緒川に入海神社があります。境内の中にある国指定史跡の
 入海貝塚が良く知られていますが、そこにタチバナヒメ伝説が残っていま
 す。

  それによれば、


 
 「父穂積氏忍山宿弥命は海路帰途につき緒川に凱旋するが、この時父の
 乗った船の後を追って、弟橘比売命の形見の櫛が、緒川の紅葉川を遡って
 緒川宮(入海神社)に漂着した。」



  というものですが、ヤマトタケル軍にはタチバナヒメとともに、父「忍
 山宿禰」も同伴したらしことがわかります。東浦町の位置は、出航した鳴
 海よりも、ずっと南の知多半島です。すると、ヤマトタケルは、「尾張」
 に寄った後、あらためて東浦町を経由したのでしょうか。

  私はこれをヤマトタケルとは関係ない説話か、タケイナダネの遠征時の
 説話と考えています。

  雄略に限らず、「大和」からの東征は何度もあったのだと思います。現
 代の感覚でいうと、陸路である東海道のほうが安全であり、便利が良いよ
 うに思えますが、江戸の昔、東海道と言えども「桑名」と「熱田」間は、
 伊勢湾を船による渡航でした。木曽三川が整備されておらず、そこは輪中
 と呼ばれる交通の難所だったからです。

  東国を目指すには、「伊勢」から伊勢湾の横断して、渥美半島を海岸伝
 いに進んだほうが、移動距離が短く安全なのです。つまり、「尾張」を経
 由する必要はありません。「忍山宿禰」はその住居地からみても、「尾張
 氏」配下の豪族でしょう。
  「大和」からの初回の渡航時は、「尾張氏」へ礼を尽くすために、「尾
 張国」経由であったであろうと思いますが(非礼は戦争になりかねません
 から)、以後は、「尾張氏」の承諾もあって、直接伊勢湾を横断したもの
 と考えられるのです。そのとき力になった人物が「忍山宿禰」だったので
 は、ないでしょうか。
  あるいは、タケイナダネ亡き後の、「尾張氏」自身は「大和」への協力
 を固辞し、そのために「穂積氏」が役目を買って出たのかも知れません。

  知多半島の対岸である三重県亀山市には「忍山神社」があり、祭神こそ
 スサノオ尊ですが、神社は「押山宿禰」に祀られており、娘は「弟橘媛」
 であったという噂もあります。

  最後になりますが、『海部氏勘注系図』はタケイナダネについて、驚く
 べき記述を残しております。

  それは、


  
「またの名を須佐之男尊」


  であると。

  『勘注系図』を手放しで信じられない理由の一つになっていますが、タ
 ケイナダネが「草薙剣」を手にしていたこと、『熱田国風土記』が、「尾
 張国」名を、ヤマタノオロチの尾を割って出て来た剣に由来している、と
 記してあることから、全然信じられないと言う話でもありませんが、歴史
 ロマンに留めておきたいと思います。


                                了



   
誉田眞若王


  この人物も、タケイナダネに負けず劣らず、歴史的な知名度は高くあり
 ません。“負けず劣らず”は肯定表現ですから、この表現は文法的には適
 切とはいえませんね。

  誉田と書いて、古くは“ほむた”と読んだようです(古日本語発音には
 濁音がないという)。
  大阪府下羽曳野市に「誉田」という地名がありますが、こちらは“こん
 だ”と読みます。“ほ”から“こ”へ音韻変化はよくあることなのですが、
 現代風な“ごんだまわかおう”では冴えないので、“ほむだまわかおう”
 で行きたいと思います。

  ホムダマワカは、『日本書紀』にはその名がみられず、『古事記』でわ
 ずかに一回記されているに過ぎません。それは『応神記』で、割注の形で
 記されています。


  「ほむだわけ命、軽島の明宮に坐しまして、天の下を治らしめしき。こ
 の天皇、ほむだまわか王の女、三柱の女王を娶したまひき。一はしらの名
 は高木の入日賣命。次に中日賣命。次に弟日賣命。−この女王等の父、ほ
 むだまわか王は、五百木の入日子命、尾張連の祖、建伊那陀宿禰の女、志
 理都紀斗賣を娶して、生める子なり。−」



  そうです。これは、タケイナダネのときに引用したものまったく同じで
 あり、これ以外に名をみることができません。ちなみに『古事記』では、


  
「品陀真若王」


  と書きます。


  これによると、「五百城入彦」(『日本書紀』の表示によった)を父に
 持つわけですが、「五百城入彦」の父は、なんとこれが景行天皇なのです。

  『古事記』では景行朝の皇太子を三人定めていて、「五百城入彦」は、
 そのうちの一人に当たります。他の二人はというと、ヤマトタケルと「稚
 足彦」(わかたらしひこ)です。「稚足彦」とは、次代の成務天皇のこと
 です。
  そもそも三人もの皇太子を立てたということ自体、無茶苦茶な話なので
 すが、「五百城」姓とは、『姓氏録』によれば「尾張氏」と同祖であり、
 景行の皇子説には納得できません。

  それはそうと、『古事記』の割注を含めた、尾張氏系図を下記に記しま
 した。
  オトヨはホアカリの十一世孫になります。


  
◎┬小登与命─建稲種命┌志理津彦命─<<略>>
   └日女命    ┠─┼弟尻綱根命
   (小止与姫) 玉姫命└志理津紀斗賣命
                 ┠────誉田真若王 ┌────高木入日賣命
              五百城入彦命     ┃  │        ┃
                         ┠──┼─中日賣命   ┃
                         ┃  │    ┠大雀尊┃
                         ┃  │    ┃   ┃
                      金田屋野姫命│    誉田別皇子
                            │    ┃
                            └─弟日賣命



  このうちの「誉田別皇子」は応神天皇、「大雀尊」とは仁徳天皇です。

  私見では、応神=仁徳ですが、本文中で解説しているので、ここでは触
 れません。

  さて、誉田を名乗る最古の神社に、大阪府羽曳野市の誉田八幡宮があり
 ます。そもそも、羽曳野市“誉田”の謂れは、誉田八幡宮の由来にあると
 思われます。(“羽曳野”はヤマトタケルの白鳥伝説からの転化)
  このあたり一帯は、古市古墳群としてよく知られ、国内第二の大きさを
 誇る応神天皇稜は、羽曳野市役所から一キロに満たないところに位置して
 います。誉田八幡宮の当初は、応神天皇稜の後円部に創建されたものだっ
 たらしいのですが、永承六年(1051)、第70代後冷泉天皇の命で現
 在地に移されたということです。

  八幡宮=応神であることは言うまでもありませんが、誉田八幡宮は、応
 神天皇稜を「御廟山」として祀っており、それが別名、誉田山古墳と呼ば
 れることから、誉田八幡宮なのでしょう。
  つまり誉田とは「誉田別皇子」のことになるのでしょうが、さらに調べ
 てみると、


  「この地に住む誉田真若王の娘、中津姫を皇后に迎えた。」



  という古記にたどり着きました。ということは、どうも「誉田真若王」
 のほうが時期的に早いようなのです。

  もっと調べてみると、意外なことがわかりました。

  詳しい記述は避けますが、誉田八幡宮の前身は、誉田山陵の法楽荘厳の
 ために建立された、「三昧堂」と称される御堂であったらしく、しかも、
 建立時期が長久五年(1044)頃であるといいます。
  現在地に移されたと言う永承六年(1051)、これが


  
「おそらく神社としての誉田八幡宮の始まりであろう」
            (『日本の神々』3 谷川健一編 古田実著 )



  との説もあり、とても最古の八幡宮とは言えなくなってきました。

  応神天皇稜に関しても、陪塚の丸山古墳から出土した馬具の年代が新し
 く、応神天皇陵に比定するのには無理がある(允恭天皇が妥当か)、との
 見解もあります。ということは、元来この地と応神とは無関係だったかも
 しれないのです。

  誉田八幡宮以前より、この地は誉田であったと思われます。それは、や
 はり「誉田真若王」に由来しているのでしょう。誉田と誉田別、その名の
 共通性から、後に八幡宮を勧請した、と考えたほうが無理がないように思
 います。

  しかしここまで書いてきても、誉田真若王の正体は、今一つつかみ所が
 ありません。

  そこで、誉田を名乗るもう一人の人物から見てみたいと思います。すな
 わち「誉田別皇子」です。応神こと誉田別には、「敦賀」の笥飯大神(け
 ひのおおかみ)と名前を交換したという伝承が、『応神紀』に載っていま
 す。
  また、誉田と呼ばれた由来も載っています。

  それらは、互いに補い合うどころか、足を引っ張り合っています。

  まず、誉田の由来とは、


  
「生まれられた時に、腕の上に盛り上った肉があった。その形がちょう
 ど鞆(ほんだ)のようであった。これは皇太后が男装して、鞆をつけなさっ
 たのに似られたのであろう。それでその名を称えて誉田天皇というのであ
 る。」



  というわけであるらしいのですが、「鞆」とは弓を射るときに生ずる反
 動から、左臂を守る革の防具で、応神の盛り上がった腕がそれに似ている、
 ことに由来しているというならば、鞆天皇でいいわけです。

  なのに誉田と当ててある。

  そして、笥飯大神の説話は次のようなものです。


  「ある説によると、天皇がはじめ皇太子となられたとき、越国においで
 になり、敦賀の笥飯大神にお参りになった。そのとき大神と太子と名を入
 れ替えられた。それで大神を名づけて去来紗別神といい、太子を誉田別尊
 と名づけたという。それだと大神のもとの名は誉田別神、太子のもとの名
 は去来紗別尊ということになる。けれどもそういった記憶はなくまだつま
 びらかでない。」



  笥飯大神とは現代の気比神宮の神のことです。主祭神は「伊奢沙別命」
 (いざさわけのみこと)ですが、もちろん「去来紗別神」(いざさわけの
 かみ)のことです。

  また「敦賀」という地名は、


  「──ある説によると、崇神天皇の御代に、額に角の生えた人が、ひと
 つの船に乗って越の国の笥飯の浦についた。そこでそこを名づけて角鹿と
 いう。」(『垂仁紀』)


  とあるように、「角鹿」(つぬが)が訛って「敦賀」になったといいま
 す。
  そして、このとき訪れた人物とは、「大加羅国」の王子「都怒我阿羅斯
 等」(つぬがあらしと)でした。額に角の生えた人がツヌガアラシトとは、
 角がある人の語呂合わせもいいところですが(ツヌガアラシトだから、角
 がある人かもしれませんが)、この人物は気比神宮の摂社、角鹿神社の祭
 神なのです。地名の発祥となった神(人?)が摂社格とは信じられません
 が、気比神宮が702年の修営に際し、仲哀天皇・神宮皇后を合祀して本
 宮となし、などという由緒から、このときが気比神宮建立のルーツの始ま
 りではないかと推測させられます。

  702年当時は、四社之宮と称していたといいますが、それ以前には、
 角鹿の笥飯の浦にある神社といえば、ツヌガアラシトを祀る社だったので
 はないかと思います。そう考えなければ、地名の由来が生きてきません。

  つまり、笥飯大神とはツヌガアラシトのことであったと考えられるので
 す。

  そしてツヌガアラシトは、「天日槍」(アメノヒボコ、『古事記』では
 「天日矛」)と密接に関わっています。
  というのは、『古事記』でのアメノヒボコのエピソードにそっくりなも
 のが、『日本書紀』では、ツヌガアラシトのものになっているからです。

  その一説とは、


  「…しかし阿羅斯等がちょっと離れたすきに娘は失せてしまった。阿羅
 斯等は大いに驚き妻に尋ねた。妻は答えて『東の方に行きました』という。
 探して追って行くと、海を越えて日本国にはいった。探し求めた乙女は、
 難波に至って比売語曽社の神となった。また豊国の国前郡にはいって、比
 売語曽社の神となった。そして二カ所に祀られているという。」『垂仁紀』



  であるのですが、同時代に同一説話を残せる人物と言えば、同一人物に
 他なりません。

  さて、ここから二つの違った結論にたどり着きたいと思います。

  まず一つめです。

  アメノヒボコが追って日本にやってきた娘は、「阿加流比売」(あかる
 ひめ、『古事記』)といいました。比売許曾神社の神と言えば、「下照比
 売命」ですから、「阿加流比売」=「下照比売命」となります。

  「下照比売命」は「高照比売命」でもあり(『古事記』)、実は、『勘
 注系図』によれば、「天道比女命」とは異名同体の関係なのです。

  「天道比女命」と言えば『海部氏本系図』の始祖、ホアカリの后であり、
 アメノカグヤマを生みます。つまり、アメノヒボコ=ホアカリということ
 になりますね。もっともこれは、道筋こそ違え『真説日本古代史』本文中
 でも証明したことです。本文では、さらにホアカリ=神武天皇と結論づけ
 ています。

  こうなりますと、笥飯大神は神武天皇の別名、ということになってしま
 い、


 
 「大神と太子と名を入れ替えられた」


  という伝承が、物を言うようになってきます。

  すなわち、神武と応神が名を入れ替えた、ということになりますね。

  『日本書紀』はこの伝承を、


  「けれどもそういった記憶はなくまだつまびらかでない。」



  といって、話を締めています。これは、記録があるわけでもなく詳細は
 不明である、といっているのですが、ある事実を示唆してる可能性があり
 ます。

  すなわち、神武=応神です。

  歴史家の多くは、神武=応神であることを認めています。もっというな
 らば、神武=崇神=応神です。簡単に言ってしまえば、神武の前半生であ
 る東征神話と、崇神の磯城王朝時代は一人の人物の説話を、二人に分けた
 ものであると言う説プラス、応神東遷を元に神武東征が創造された(ある
 いはその逆)というものです。

  そして、ずばり「誉田真若王」その人でもあると思います。

  応神の幼名は「誉田別尊」でした。「誉田」と「誉田別」、これもまた
 名前を入れ替えたことになるかも知れません。

  すると実際の応神東遷は、邪馬台国連合が崩壊し、官僚らが相次いで脱
 出している最中のことだったことになります。
  そうであれば、「誉田真若王」と「尾張」の関係から考えても、連合の
 一角を担っていた「己百支国」が後ろ盾となってのことだったと思われま
 す。

  と行き着いたものの、「誉田真若王」=神武=応神は、少々行き過ぎの
 ような気もしないではありません。

  そこで、応神と「誉田真若王」は別人と考えます。

  また、アメノヒボコと「誉田真若王」が同一人物だったとすれば、生存
 年代の問題がありますが、それは『記紀』年代にとらわれているからで、
 実際には確信し得る歴代は、推古天皇を遡ることはありません。

  笥飯大神は、先の説同様「誉田真若王」に比定します。

  越前に降臨した後、彼の行き着く先は、「大阪府羽曳野市誉田」です。
 この地名の由来は、応神天皇陵や誉田八幡宮ではないことは、すでに述べ
 てありますね。
  この地が「誉田」であることは、応神天皇でなければ、「誉田真若王」
 に由来している、以外に考えられません。つまりここは「誉田真若王」の
 勢力圏であり王国だったわけです。

  本文中でも紹介しましたが、出雲神族の末裔「富氏」の口伝には、「物
 部」を将としたアメノヒボコ族が、「出雲」に攻め込んでいくという一節
 があります。アメノヒボコ族というのですから、個人ではないことになり
 ますが(ちなみに神武と言われる人物は、七人いたらしいのですが)、ア
 メノヒボコ=「誉田真若王」とすれば、日本海側にいた「誉田真若王」が、
 「河内」にたどり着く経路が推察できます。

  と言うのも、『但馬故事記』にあるニギハヤヒの降臨コースと、多分に
 重なってくるように思えるからです。
  『先代旧事本紀』は、ニギハヤヒの降臨を次のように伝えています。


  
「饒速日尊は天神の御祖の命令を受け天磐船にのって、河内国河上の哮
 峰に天降った。さらに大倭国鳥見の白庭山に移った。いわゆる、天磐船に
 乗り、大空を翔行きこの郷を巡り睨み天降られた。いわゆる、空より見た
 日本の国とはこれである。」


  『但馬故事記』は、この白庭山(しろにわやま)に着くまでの行程を伝
 えていて、


 
 田庭の比地の真名井原→但馬国美伊→小田井→佐々前→屋岡→比治→丹
 庭津国→河内国村上哮峰



  というのですが、簡単に言えば、但馬→丹波→河内の順になります。し
 かし、田庭の比地の真名井原が「丹波国与謝郡」(常識的に考えれば、真
 名井神社のある籠神社)に比定されていますから、「但馬」も「丹波」も
 大きい意味での「丹波」なのでしょう。「田庭」は「但馬」とも「丹波」
 とも読めます。

  その上で大変興味深い伝承があります。
  
  網野町浜詰にある志布比神社の社伝(『網野町史』より。網野町は現在、
 周辺5町と合併し京都府京丹後市として、新たに生まれ変わりました)に
 は、


 
 「創立年代は不詳であるが、第十一代垂仁天皇の御代、新羅王の王子天
 日槍が九種の宝物を日本に伝え、垂仁天皇に献上した。九種の宝物という
 のは、『日の鏡』・『熊の神籬(ひもろぎ)』・『出石の太刀』・『羽太
 玉』・『足高玉』・『金の鉾』・『高馬鵜』・『赤石玉』・『橘』で、こ
 れらを御船に積んで来朝されたのである。 この御船を案内された大神は
 『塩土翁(しおづちのおきな)の神』である。その船の着いた所は竹野郡
 の北浜で筥石(はこいし)の傍である、日本に初めて橘を持って来て下さっ
 たので、この辺を『橘の荘』と名付け、後世文字を替えて『木津』と書く
 ようになった。」



  とあるのです。

  この話には別伝があり、アメノヒボコが上陸した地は、気比神宮の「気
 比」ではなく、兵庫県豊岡市、すなわち「但馬」の「気比の浜」(豊岡市
 気比)であったというものです。
  さらに、ツヌガアラシトが「木津の浜」(網野町浜詰海岸か)に上陸し
 たという伝説もあるようで、後の「但馬モロスク」のことから考えてみて
 も、「敦賀」よりも「田庭」(「但馬」・「丹波」)のほうが、ぴったり
 します。

  そして「富氏の口伝」にある


 
 「物部を将としたアメノヒボコ族」


  の「物部の将」とは、ニギハヤヒ相当の人物のことではないかと思える
 のです。

  無論、ヒボコ族を率いるのは、ヒボコ族の長であったはずです。そして
 ヒボコ族の長とは、個人としてのアメノヒボコ(その時々に、アメノヒボ
 コ相当の人物がいたとも考えられる)にほかならないわけですから、「河
 内国」に天下ったニギハヤヒとは、アメノヒボコだったことになり、「田
 庭」から「河内」までの道筋は、結局、「誉田真若王」の道筋だったこと
 になります。

  私は「河内国」へ降臨したした後、神去ってしまうニギハヤヒのことを、
 もともといなかったものと考えていますから、「物部氏」は「誉田真若王」
 に、神ニギハヤヒ(人間ではない)の姿をダブらせてみたのではないか、
 と考えてしまいます。

  羽曳野市に国を置いた「誉田真若王」は、そのいきさつは不明ながら、
 「誉田別皇子」に出会います。「誉田別」は後のネーミングです。
  では、その前身はと言うと、これは本文中で説明していますが、垂仁天
 皇の皇子「誉津別命」です。

  実は、羽曳野市の名の由来は、ヤマトタケルの白鳥伝説にあります。
  「羽曳野」とは白鳥が羽を曳いて飛び来た野、に語源があると言います。
 羽曳野市市役所は、もう少し違った説明をしていますが、この土地が白鳥
 伝説に由来していることは間違いありません。

  「誉津別命」は口がきけませんでした。その命は飛んでいく白鳥を見て
 口がきけるようになりました。天皇はたいそう喜ばれて、その鳥を捕まえ
 させました。行き着いた先は「出雲」であると言いますが、


 
 「ある人は、『但馬国で捕らえた』ともいう。」


  という別伝があります。

  『古事記』によれば、その「誉津別命」は


 
 「そのほむち別のみ子をお連れして遊んだ模様は、尾張の相津に生えて
 いた二股の杉をきり、それを使って二股のくりぬき舟を作って、それを尾
 張から大和へ持ち運んで来て、それを大和の市師の池・軽の池に浮かばせ
 て、そのみ子をお連れして遊ぶというように、大そう心を入れ手をつくし
 たものでした。」



  と記され、何やら示唆めいたものを感じずにいられません。

  実は『尾張国風土記逸文』の『吾縵郷』に「誉津別命」のことが載って
 います。


  
「尾張の国の風土記(中巻)に曰く、丹羽の郡、吾縵の郷。」


  で始まり、以下を現代語にすると、次のようになります。


  
「垂仁天皇の御世、品津別の皇子は、生後七歳になっても口をきいて語
 ることができなかった。ひろく群臣に問われたけれども、よい意見が得ら
 れなかった。その後、皇后の夢に神が告げられるには、『私は多具の国の
 神、名を阿麻乃弥加津比女(あまのみかつひめ)と云う。私は未だ祀られ
 ることはない。私のために祀人を充ててくれるならば、皇子は口をきくよ
 うになり、ご寿命も長くなる。』と云った。<後略>」



  これもまた、深い意味があるようですが、ここではあえて問題にしませ
 ん。
  なぜ「尾張」なのか、と問われても答えようがありませんが、これをヤ
 マトタケルと結びつけて考えるのならば、「誉津別命」が追って行った白
 鳥とはヤマトタケルの化身であり、私見による雄略天皇(時代考証は前後
 しますが)であったわけで、これまた私見による雄略天皇は、「尾張氏」・
 「五百城氏」の二重政策により殺されたのですから、これを二股と言い換
 えれば、先ほどの示唆めいた…の回答の一端が見えてきそうです。

  もちろん、この白鳥とヤマトタケルの白鳥とは、建前では別物です。し
 かし、ともに創造上の説話であろうにもかかわらず、白鳥で共通している
 ところが、作者の深層心理が働いた結果ではないか、と考えるわけです。

  これらを総合的に考えてみると、漠然とながら「誉田真若王」と「誉津
 別命」との結びつきが、理解できるのですが、これをまとめるとなると、
 どうもうまくいきません。だから妄想的話なのですが、ずばり言ってしま
 えば、「誉田真若王」の勢力が、垂仁王朝の後の勢力を吸収して、新体制
 が「河内」に起こった、ということでしょうか。ただ、「誉田真若王」勢
 が、旧来より「河内」を拠点にしていたのか、新たに「河内」に来たのか
 は、はっきりできません。

  「誉津別命」は、その不遇な記述から、垂仁の皇子と考えられるものの、
 その実、垂仁王朝の人質であったのではないかとも考えられます。

  最後に、ひとつの説として高木彬光氏が、大変興味深い記述をされてい
 ます。


  
「恭介いいたいことは、こういうことだろうと研三は想像した。それは
 宇佐女王が、八岐大蛇のような恐ろしい敵によって苦しめられていたとき、
 どこからか須佐之男命のようにたくましい男、誉田真若がやって来て、救っ
 てくれた。櫛名田比売の立場にあった宇佐女王は、救い主である誉田真若
 と結婚して三人の娘を生んだ──ということだろう。

  「そうすると、誉田真若と宇佐女王との間に生まれた娘たちが、宗像三
 女神というわけですね。」

  「うん。そういうことになる。」

  「では、この二人は宗像海人族と関係があることになりますね。」

  「その点は、こう考えたらどうだろうか。誉田真若の出身地は北九州の
 どこかにあったとして、尾張氏は天火明命系で海人族だから、同じ海人族
 の宗像氏とも結びつきがあってもおかしくはないと言えないだろうか。」

  「まあ、それ以上のことは想像するしかないでしょうね。ところで誉田
 真若は宇佐には留まらないで、宇佐女王と三人の娘を外に連れ出したとい
 うのですか。」

  「そういうことになるね。たまたま、そのころ、朝鮮から帰り、応神天
 皇を産み、さて大和に帰還しようと思うものの、夫の仲哀天皇が大和に残
 してきたという香坂王と忍熊王たちが皇后の帰還を喜んでいないため、進
 退について悩んでいた神功皇后を見て、誉田真若は援助を申し出た──と
 こういう筋書きを考えたのだよ。」

  「つまり、誉田真若は、神功皇后の後楯となって大和入りを実現させた
 というのですね。というのは、その後にできた河内王朝──応神天皇の王
 朝というのは、誉田真若が実権をにぎっていたものだ、ということですか。」

  「察しがいいね。まさしくそのとおりだと思うよ。ただし、誉田真若は
 大王にはならず、王家の外戚となって実権をおさえていたというこになる
 よね。」(名探偵神津恭介シリーズ『古代天皇の秘密』角川文庫 高木彬
 光著)


  宇佐女王というのは、「邪馬台国」の「卑弥呼」のことです。


                        2006年 12月 了