捨てざり難い説


   
封印された古代史妄想的話 四方山話編一



  
 天照大神について


  まず手始めに、皇祖・天照大神についてですが、私の知る限り『日本書
 紀』
に、アマテラスが皇祖であるという表現はでてきません。見落としが
 あったら、申し訳ないのですが、確かなかったと思います。
  そればかりか、アマテラスの初登場は「大日霎貴」(おおひるめむち)
 (実は「霎」の文字は、フォントがないため便宜上使用しているだけです。
 実際には、「雨」冠の下に「口」を三つ並べて書き、その下に「女」と書
 きます。霎=靈+女とお考え下さい)という、別名で記されています。
  「大」と「貴」は美字句ですから、実態は「日霎」ですね。これは「日
 巫女」と同じ意味になります。そこで、「邪馬台国」の「卑弥呼」が、ク
 ローズアップされてくることになります。

  神祀りをする側の巫女が、日神にすり替わっていたとしたら、それは大
 変な問題ですね。
  その上、崇神天皇の時、アマテラスは宮中を追い出されています。天皇
 が、祖神を追い出すとは、先にも増して由々しき問題です。こんなことが
 できたのも、アマテラスが、本来他家の祖先だったからではないでしょう
 か。
  これは本編でも述べていることですが、アマテラスを追求していくと、
 「天照国照彦」(あまてるくにてるひこ)に到達します。これは、「彦火
 明」(ひこほあかり)のことです。「饒速日」(にぎはやひ)と同一説が
 有力ですが、私は採用してません。
  ということは、ヒミコは神ホアカリをお祀りする巫女であったのを、男
 神アマテラス・ホアカリを抹殺して、女神アマテラスとした、ということ
 でしょう。

  とまあこのあたりまでは、神社伝承学にはまっている方であれば、今さ
 ら何を、と仰りたい内容ですね。

  さて、その神社伝承学なのですが、創建の古い神社に伝わる由緒から、
 歴史ストーリーを完成させている学問です。同時に、神社名と祭神とを考
 察して、その関係はイコールであることを証明しています。例えば、日本
 全国ある「氷川神社」には、必ず「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)が祀
 られている、といった具合です。

  ところが、どうも神社伝承学的に説明しにくい神社がありまして、いや
 いや説明しにくいと言っているのは、私だけかもしれませんが、島根県簸
 川郡大社町に日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)があります。島根県で大
 社町と言えば、言わずと知れた出雲大社ですが、日御碕も稲佐浜と言い替
 えれば、神話好きの方でしたら、お分かりになると思います。
  その日御崎神社ですが、上下二社から成り立っています。上宮は神の宮、
 下宮は日沈宮(ひしずみのみや)と言います。出雲で神と言えばスサノオ
 であるように、神の宮の祭神はスサノオです。社伝によれば、スサノオの
 子である「天葺根命」(あめのふきねのみこと)が上古、現在地の背後の
 隠ヶ丘に祭神を祀り、それを現在地に移したということです。

  日沈宮はというと、これがアマテラスなんですね。

  なるほど出雲でアマテラスと言えば、オオヒルメムチではなく、ホアカ
 リだろうと見当をつけがちですが、こちらは天暦二年(945)に、沖合
 の経島(ふみしま)から遷座したものですから、『日本書紀』成立後のア
 マテラスは、オオヒルメムチなのです。

  いずれにしても、アマテラスと言えば、東から昇るの朝日を連想させる
 太陽神なわけです。それを沈む夕日に象徴させるとは、祀る側に相当な憤
 りがあったのだろう、と想像します。そう考えると、このアマテラスは、
 やはりオオヒルメムチですね。

  しかし、遷座前の経島にあった頃は、どうだったでしょうか。おそらく、
 このころのアマテラスはオオヒルメムチではありません。西の海上から、
 燦々と輝く太陽が空に昇っていたのでしょうか。そんな現象は天変地異で
 もない限り起こり得ません。しかし、そう例えられる伝説があったのだと
 思います。そう考えて思い当たるのは、『古事記』にある


  
「この時に海を光して依り来る神ありき。」


  です。この神は「大物主」であったといいますが、私は本編で述べたと
 おり、スサノオだったと思います。
  つまり本来、上宮も下宮もスサノオを祀る宮だったのです。そして、ス
 サノオこそ原始アマテラスだったのでしょう。アマテラスとは、海原を照
 らすであったと思います。もっとも古代、天も海も同意なので、海照は天
 照でもあるのです。

  神社伝承学の言うとおり、スサノオの子がホアカリ=ニギハヤヒであっ
 たのなら、父がアマテラスだったから、子もアマテラスとされたのかも知
 れません。

  考えてみれば、神祖スサノオこそ、天照大神と称するに相応しい人物で
 はないでしょうか。


                                了



   
八幡大井の神


  『記紀』のいつまでが神代だと思われるでしょうか。

  『日本書紀』では、巻一・二が神代(かみよ)というタイトルになって
 います。『古事記』でこれに相当するのは上巻となります。
  しかし内容からすれば、『古事記』上巻はもちろん、中巻でさえ神話と
 言えるのではないでしょうか。景行天皇の「日本武尊」(やまとたけるの
 みこと)の説話などは、神話そのものです。

  『古事記』の下巻、仁徳天皇の頃から、ようやく歴史らしくなってくる
 ように思えます。仁徳天皇と言えば「倭の五王」の初め、倭王・「讃」と
 重ねて考えることができ、そういった意味で実在した王と見なす、ぎりぎ
 りのところでしょう。

  ハツクニシラスと称された崇神天皇からは、実在性が高いと言われてい
 ますが、大物主大神の説話などは、その内容から神話と言うほかありませ
 ん。

  仲哀・神功・応神に渡り登場する、「武内宿禰」(たけしうちのすくね)
 は、三百年間も生きていたことになり、これ自体無茶苦茶な話です。

  さて、その応神天皇ですが、御柱祭りで有名な諏訪大社には、応神にま
 つわる伝承があります。諏訪の神と言えば、「建御名方命」(たけみなか
 たのみこと)であり、応神とは何の関係もなさそうなのですが、『諏訪大
 明神画詞』のなかに、


  
「八幡大井、諏訪、住吉同体ノ由来アリト申」


  とあるではありませんか。

  この指摘は、『抹殺された古代日本史の謎』(文芸社)で、著者の「関
 裕二さん」がご指摘されています。それは次のとおりです。


 
 「建御名方の逃げたとされる諏訪には、御柱祭りで有名な諏訪大社があっ
 て、その伝承『諏訪大明神画詞』のなかには、建御名方に関する興味深い
 言い伝えが残されている。

  『当社明神ノ化現ハ仁皇十五代神巧皇后元年ナリ』

 
 とあって、諏訪大明神(建御名方)が化現(神仏が姿を変えてこの世に
 人間として現れること)したのは神巧皇后元年のことだったという。ちな
 みにこれは、応神天皇の誕生とほとんど同時である。
  さらにこの文章は、

  
「筑紫ノ蚊田ニテ応神天皇降誕シ給フ。八幡大井是也」

  つまり、筑紫の博多で誕生した応神天皇の別名は、八幡大井だったとし
 たうえで、

  
「八幡大井、諏訪、住吉同体ノ由来アリト申」

  というのだ。要するに、神巧皇后の生んだ応神天皇(八幡大井)は、諏
 訪大明神(建御名方)と同一人物だったというのである。
  このあまりに大胆な諏訪大社の発言は、はたしてほんとうだろうか。
  『日本古典文学大系「古事記」』(岩波書店)の文註には、このあたり
 の事情を明確にする興味深い指摘がある。

 
 「(建御名方)名義は未詳であるが、ミナカタとムナカタ(胸形・宗像)
 はもと同語ではあるまいか」

  つまり、建御名方は建宗像だったというのである。」


  とまあ、こんな具合なのですが、応神=タケミナカタ説を信じれば、彼
 らは同時代人だったことになり、おいおいちょっと待てよ、となるところ
 ですが、『諏訪大明神画詞』の編纂が、『日本書紀』成立後の1356年
 であることから、紀年に基づいているとすれば、神功三十九年を景初三年
 と記す『日本書紀』から、同時代人説も成り立つかな、と言えなくもない
 ですね。

  ところで、八幡さまと言えば宇佐神宮が総本宮ですが、なるほどここの
 主祭神は応神です。宇佐神宮は他に、神功、比売大神(ひめおおかみ)の
 二神を並べて祀りますが、社の序列がちょっと変わっています。
  通常、中央に主祭神、他をその両側という風に祀るものです。ところが、
 ここは、左を一之御殿とし応神を祀り、順に二之御殿に比売大神、三之御
 殿に神功を祀っているのです。

  また興味深いのは、宇佐神宮は四拍手の拝礼であることです。これは、
 出雲大社と同じで、国内では他に例をみません。出雲との関係は大いに気
 になるところですが、先に進みましょう。

  八幡神社の数は、全国に二万とも四万とも言われ、日本で一番多い神社
 ですが、実際には、八幡さまについては、よくわからない謎の多い神なの
 です。
  応神のご神霊であるという説も、欽明天皇三十二年(571)に、三歳
 の小児となって出現し、


  
「われは誉田天皇広幡八幡麻呂なり」


  と名乗ったことを始まりとしているくらいですから、これを史実と捉え
 ることは困難でしょう。しかし、このようなおとぎ話の中に、真実が隠さ
 れていることはあります。

  そしてこれまた興味深いことは、けっこう有名な八幡神社の間でも、応
 神・神功以外の祭神はまちまちであるということです。
  例えば、佐賀県にある千栗八幡宮は仲哀天皇ですし、熊本県の藤崎八幡
 宮は住吉大神です。この二社は石清水八幡宮の分霊を勧請したのですが、
 石清水は宇佐神宮から勧請され、ちゃんと比売大神なのです。
  ということは神社伝承学の見知からすると、比売大神=住吉大神=仲哀
 天皇ということになってしまいます。

  もう一つ付け加えますと、宇佐神宮の社の序列は、左から一之御殿では
 なくて、常識的に真ん中の社が第一位、すなわち二之御殿こそが、本来の
 一之御殿だったのでしょう。そうでなければ、今日に至るまで謎多い神だ
 と伝承されることはないはずです。

  宇佐神宮の由緒にも、比売大神は、


  
「八幡様のあらわれる以前の古い神、地主の神であるとされている。」


  としているくらいですから、これはもう間違いないでしょう。
 
  『古事記』の文註にある、ミナカタ=ムナカタ説は、案外的を得ている
 ように思えます。というのも、宗像大社の神は「市杵島姫神」(いちきし
 まひめのかみ)を長女とする、通称、宗像三女神であり、住吉大社の神は
 「底筒男命」(そこつつのおのみこと)・「中筒男命」(なかつつのおの
 みこと)・「表筒男命」(うわつつのおのみこと)の筒男三神、あるいは、
 住吉三神と呼ばれる、男女の違いこそあれ、ともに水に関係する三神なの
 です。
  また、宗像三女神はイチキシマヒメだけが人格神であって、他の二神は
 水神・航海神の性格を示す自然神であるといいます。住吉三神も『記紀』
 にある誕生説話は三神同時誕生なので、宗像と同様に考えることができる
 のではないでしょうか。すなわち一神です。
  ちなみに、火火出見尊・火明命・火酢芹命の三兄弟も同様に考えていま
 す。そう考えると、アマテラス三貴神も一神だったのかと思えてなりませ
 んが、これは余談ですね。

  タケミナカタと住吉が同体ならば、ミナカタ=ムナカタもあり得る説と
 なります。男女の違いはと言うと、神に男女はないでしょう。内宮のアマ
 テラスは、男性の装いながら、女神として祀られているではありませんか。

  応神と宗像三女神とは、直接的には何ら関係がないように思います。
 
  ところが、『古事記』に記されているある系図から、実は深く関わって
 いるのではないかと思えてないません。それは、『応神記』の冒頭に記さ
 れています。それを竪系図にしたものが次のそれです。


 
 建伊那陀宿禰─志理都紀斗賣
             ├──品陀眞若王─三柱女王
         五百木入日子命        │
                      品陀和氣命(応神天皇)


  この三柱の女神は、それぞれ『記紀』の「高城入姫」(たかぎのいりび
 め)・「仲姫」(なかつひめ)・「弟姫」(おとひめ)であり、応神の皇
 后は「仲姫」なのですが、三姉妹とも応神妃なのです。そこで三柱の女王
 と言います。

  宗像三女神と三柱の女王。これは同一人物なのではないでしょうか。

  ここだけを見るならば、単なる偶然で済まされるでしょう。しかし、三
 柱の女王がホアカリ系だと言えばどうでしょうか。「建伊那陀宿禰」(た
 けいなだのすくね)とは、「熱田神宮」の神の一人であり、ホアカリの十
 二世孫にあたります。
  実は住吉三神もまたホアカリ系なのです。住吉大社は代々「津守氏」が
 奉祭する神社であり、同氏は『新撰姓氏録』摂津国神別に


  「津守宿禰。尾張宿禰同族。火明命八世孫、大御日足尼之後也」(大御
 日足尼の日は田の間違いであろうとされています)


  とあるように、ホアカリの直系尾張族でなのです。住吉=応神であるの
 で、宗像三女神=三柱の女神も同一神の可能性は、かなり確率が高いので
 はないでしょうか。
  実際、真ん中の神殿、つまり現代でいう二の御殿の祭神は、古来より、
 宗像三女神であるとか、応神天皇の后であるとか言われているようです。
  けっして、宗像三女神で応神天皇の后だ、と言われているわけではあり
 ませんが、『古事記』によれば、「多紀理毘賣」(たきりびめのみこと、
 宗像大社奥津宮に坐す宗像三女神の一人。私見によるイチキシマヒメとは
 同一神)は「大国主命」と結婚しています。

  三女神という名称にこだわれば、「飛鳥神奈備三日女神」(飛鳥三日日
 女神、あすかのみかひひめ)も何やら三位一体を感じさせますね。
  この女神は、飛鳥座神社(あすかにいますじんじゃ)の祭神の一人であ
 り、「賀夜奈留美命」(かやなるみのみこと)という別名を持っています。
  創建当初の祭神は「事代主神」とミカヒヒメで、この二人はオオクニヌ
 シを父にもつ兄妹ということになっています。
  さらにミカヒヒメは、「下照姫命」・「高照光姫大神命」・「高比売命」
 と異名同体とまで言われています。

  このうち、「高照光姫大神命」(たかてるひめおおみかみのみこと)は、
 「天道日女命」(あめのみちひめのみこと)であると証言しているものが、
 『海部氏勘注系図』です。
  『勘注系図』が国宝であることは、いまさら言うまでもありません。し
 かし、その系図の信憑性を疑うものではありませんが、それを補足する割
 注の部分は、国宝ながら頭を抱えてしまう内容なのです。
  例えば、十世「乎縫命」のまたの名を「小止与命」としながら、十一世
 にも「小登与命」を載せているというような、混同や重複が少なからずみ
 られるからです。また、これは未確認なのですが、ホアカリ二世「天香語
 山命」の名が、十一世孫「阿多根命」のまたの名としても記されていると
 いいます。従って本編ではあえて採用しませんでした。
  そうかと言っても、『勘注系図』からみた古代史観は、その常識を覆し
 てしまう内容から、興味は尽きません。後日紙面の場を変えて記したいと
 思っております。

  『勘注系図』とは別に『本系図』があり、こちらも国宝指定なのですが、
 なぜか三世孫「倭宿祢」から十八世孫「健振熊宿祢」までを、省略してい
 ます。この省略が、いわゆるお上の目を気にしてのことでしたら、それを
 補う『勘注系図』は、逆に褒められるべきでしょうね。

  アメノミチヒメことタカテルヒメには、「下照姫命」(シタテルヒメ)
 というまたの名がありました。タカテルに対してシタテルなのでしょうが、
 これを一緒にすると、高照下照となり天照国照に対比してるよう気がして
 なりません。
  さらに、『高市郡神社誌』の一節によると、カヤナルミの名はアマテラ
 スの隠号であるといいます。つまり同一神ということになるのですが、隠
 号というからには、悟られてはいけない呼称ということなのでしょう。
  そうであれば、むしろカヤナルミの隠号こそ、アマテラスであったので
 はないでしょうか。

  『記紀』がいうアマテラスが、持統天皇・斉明天皇といた「藤原」政権
 下の、女帝の時代をモチーフにした造作であろうことは、おおよそ見当が
 つきます。もちろん、その記された年代毎には、れっきとした対象になる
 人物がいたことが前提での話です。
  『記紀』以前の女神アマテラスは、カヤナルミでありタカテルヒメであ
 り、アメノミチヒメであり、そしてそれらは全部一神のことだったという
 ことです。
  アメノミチヒメはホアカリ(天照国照彦天火明命)の后だったから、ア
 マテラスなのでしょう。先の天照国照に対する高照下照です。

  これらを総合すると、宇佐神宮の比売大神はアメノミチヒメのことにな
 ります。むろん、ここまでに登場した女神はみな同体です。
  考えてみれば、大神の称号をもつ神が、どこにでもいること自体問題で、
 実はそれらはみな異名同体で一神であった、とするほうがはるかにすっき
 りします。

  二之御殿(私見ではこれこそ一之御殿なので、以後は一と二を入れ替え
 て話を進めます)の祭神がアメノミチヒメだったと判明したところで、左
 右の神殿の祭神を考えてみましょう。
  現代では二之御殿を応神天皇、三之御殿を神功皇后としていますが、も
 ちろんそうは考えていません。
  この神殿は一之御殿から順に、725年、733年、823年に造営さ
 れたとのことです。三之御殿が造営される前までは、一之御殿と二之御殿
 が並んで建っていたので、この二つの神は夫婦であるとか、八幡様と縁を
 取り持つ女神であるとか言われていたそうです。そこへしばらく時間をお
 いて三之御殿が造営され、八幡造の本殿が完成しました。

  重要なことは、二之御殿・三之御殿の造営が、『記紀』成立よりも後で
 あるということです。三之御殿の神功皇后は、『記紀』の歴史観からみて、
 二之御殿に関係が深い神が祀られたのだと思います。しかも、二之御殿の
 神は一之御殿とも関係がなければなりません。
  そう考えた場合、その条件に該当する神は一人しかいません。

  それは「事代主命」(ことしろぬしのみこと)です。

  コトシロヌシであれば、四拍手の拝礼も合点が行きます。出雲の国譲り
 の説話で、天孫族に何ら抵抗することなく、天孫族の要求を受け入れ、海
 中に身を静めていったコトシロヌシは、オオクニヌシの立場と同じです。
  769年の「弓削道鏡」神託事件も、真の女神アマテラスとコトシロヌ
 シであったからこそなのでしょう。

  タケミナカタは『日本書紀』には登場しない神ですが、コトシロヌシと
 ともにオオクニヌシの息子です。異名同体とまでは言いませんが、諏訪神
 社と宇佐神宮との関係の傍証にはなると思います。

  最後に、コトシロヌシが応神天皇にすりかわってしまった理由を考えて
 みたいと思います。
  この二人には、一見すると何ら繋がりがなさそうのですが、実はある人
 物で繋がっています。「武内宿禰」です。
  コトシロヌシは、『雄略紀』に出てくる「葛城の一事主神」でもありま
 す。つまりコトシロヌシの名は、「言代」からきているのだと思います。
 すなわち、神の代弁者です。『神功紀』の「武内宿禰」は、女性ならば巫
 女のごとく振舞っています。男性の場合「男覡」(おかんなぎ)というそ
 うですが、まさにコトシロヌシですね。また「葛城」でも共通しています。
 「武内宿禰」は「葛城氏」の祖であるからです。

  応神天皇と「武内宿禰」との関係は言うまでもありません。簡単に言え
 ば、育ての親ですが、親子であるという説もあるくらいです。

  コトシロヌシの子もまた、コトシロヌシなのでしょう。

  そして、二之御殿の造営が『記紀』以後のことからすると、一之御殿に
 祀られている、三柱の女神を娶った人物が応神天皇であったから、二之御
 殿の神と同一視されたと言うことでしょう。この神が、比売大神と夫婦で
 あるとか、仲を取り持つ神であるという伝承は、コトシロヌシから応神天
 皇に祭神が移りかわっていったことを、象徴していると思います。 


                                了



  
 三貴神


  「伊奘諾尊」(いざなぎのみこと)・「伊奘冉尊」(いざなみのみこと)
 との間にできた、アマテラス・スサノオ・「月読(月弓)尊」(つくよみ
 のみこと)の三神を、通称、三貴神あるいは三貴子と称します。

  これはいちいち説明する必要のないくらい有名な話ですね。

  その三貴神について、少し話を続けたいと思います。

  この三人は、『記紀』により、誕生のしかたが異なります。『日本書紀』
 では、イザナギ・イザナミの二人が大八州国・山川草木を生んだ後、アマ
 テラス・ツクヨミ・スサノオの順に生んだとしています。
  『古事記』では、イザナギが黄泉の国から生還した後、禊ぎにより生ま
 れたとしています。つまり男であるイザナギが、一人で生んだということ
 です。『日本書紀』のある一書にも同様の記載があるものがありますが、
 イザナギのクローンじゃあるまいし、いくらなんでもこれはおかしな話で
 す。ただ、少し視点を変えると、面白いことに気づきます。

  『古事記』による三貴神の誕生は、イザナギが左目を洗ったときにアマ
 テラスが、右目を洗ったときにツクヨミ、そして鼻を洗ったときにスサノ
 オが生まれたのですが、鼻=ハナ=初と考えれば、本来、スサノオが長子
 だったということになります。

  実はこのようなスサノオ観は、大本教と『霊界物語』の「出口王任三郎」
 (でぐちおにさぶろう)氏が説いていたものです。大本教は知らずとも、
 「王任三郎」の名前くらいは聞いたことがあると思います。
  彼についての解説は、ここでは本筋ではないので避けますが、「ハナ」
 については、「佐治芳彦」氏がおもしろいことを述べておられるので、引
 用してみました。


  「だがそこに一貫しているのは、(スサノオ)が高天原に反抗したが、
 結局は高天原に屈服したという悪神改悛のイメージしかない。
  一方、このようなスサノオ観に対して、まったく異なったスサノオのイ
 メージを展開してみせたのは出口王任三郎である。
  彼はまず、その誕生について、つまりイザナギが『鼻』を洗ったときに
 生まれたという伝承から、三貴子のうち『ハナ』、つまり最初(先頭)に
 生まれたのがスサノオであったという。この王任三郎の解釈(説)のもつ
 潜在的破壊力は、まさにスサノオ的な物凄いものであるはずだ。
  つまりアマテラスとスサノオとの姉弟関係は当然逆転する。ということ
 は、日本神話の神統譜が大きく狂うだけでなく、その神統譜に依拠してい
 る皇祖アマテラスから万世一系、連綿と続くと称される皇統のカリスマ性
 が一挙に崩壊してしまうことを意味する。つまりアマテラスからニニギ、
 神武……と継承された天津日嗣(皇位)の正統性が否定されることとなり、
 出雲王朝(スサノオからオオクニヌシ、コトシロヌシと続く)が正統なの
 だという主張になる。
  神話の読解は、このようにある意味では暗号である。古事記神話の場合
 もそうである。そこには、天武系諸天皇やそれに連なる藤原不比等など高
 級官僚の意図とは別に、編者の太安万侶のレジスタンス、さらに安万呂で
 さえ気づかずに見過ごした日本列島先住民の集団無意識が多分に内蔵され
 ている。
  したがってこの書(古事記)でも、文中の隠喩や比喩が編集サイドの意
 図とは独立して息づいている場合がある。それが前後矛盾した記述として
 残されているわけだが、それを神話だからといって見逃しては、本当に、
 『古事記』を読んだことにはならない。
  私個人は、これまで『古事記』や『日本書紀』について総体的に否定的
 な態度をとってきた。その主な理由は、これまで多くの学者や、研究者に
 よって試みられた暗号解読にどうしてもなじめなかったからである。
 だが、いま、これまでとりあげた王任三郎の解読――キー・ワードとして
 の『鼻』=『ハナ』=『先頭』=『第一子』説――による見事な解読に接
 してから、これまでの否定的な記紀観ををいささか改めることにした。つ
 まり神話には神話なりの、史料には史料なりの、解読のためのキー・ワー
 ドがあり、それを見出すことによって、文字の背後の史実にアプローチで
 きるという可能性に、私なりに確信をもてたということである。」
        (『王任三郎の巨大予言』より 佐治芳彦著 徳間書店)


  このように、執筆者の意図とは関係なく、無意識に真実を述べてしまう
 ことがあるとすれば(私自身、歴史の謎解きはこの姿勢によるものなので
 すが)、実はスサノオは長男であり、『記紀』編纂側によって、アマテラ
 スの弟にされてしまったわけです。

  さて、三貴神の中でも、何やらぱっとしないのがツクヨミです。

  『古事記』では、誕生説話の後のツクヨミと言えば、夜の世界を任せら
 れたきり、その後一切語られることはありません。
  『日本書紀』の本文では、扱いがもっと低く、それどころか、存在すら
 語られておりません。『日本書紀』でツクヨミという名で、述べられてい
 る箇所は、数ある一書の引用のうち、一書の第一と第十一の二つに限られ
 ます。

  どうもこのツクヨミという神は、『日本書紀』編纂の都合上、スサノオ
 と結び付けられて語られてる、と思えてなりません。
  というのも、『古事記』では、「大気津比売神」(おおけつひめのかみ)
 を殺したのは、スサノオであったことになっていますが、『日本書紀』の
 一書の第十一では、同じ説話をあげ(殺されたのは「保食神」(うけもち
 のかみ))、ツクヨミが殺したことになっています。この説話というのは、
 鼻や口、尻から食物を出して、もてなそうとした神を、不浄なものとして
 殺してしまうというものですが、混同している内容は、これだけではあり
 ません。『古事記』と『日本書紀』一書の第十一ではスサノオに、『日本
 書紀』一書の第六ではツクヨミに、海原を治めさせています。

  「三」を一組にする考え方(信仰?)は、上古日本の流行だったのでは
 ないかと思われます。三貴神、三種の神器、宗像三女神や、天地創造の神
 も三神です。代表的な例は神社の祭神です。中央に主祭神、左右に二柱の
 神を祀るという形体が一般的ではないでしょうか。
  理由はよくわかりませんが、「老子」の『道徳経』にあるような、


  「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。」


  という考えが根底にあったのかもしれません。

  そこで、三貴神神話については、次のように考えています。


  
「神話のもともとの形は、日の神・月の神という一対の自然神という構
 成であったのだが、編纂の過程で人間スサノオの英雄説話を、無理矢理に
 くっつけてしまったものである。」


  それは、いたるところに祀られている、スサノオやオオクニヌシなどの
 国津神を、天皇配下に組み入れるためだと思います。それだけ民衆に支持
 されていたのでしょう。

  神話の原型を最も表しているのが、『日本書紀』一書の第二だと思いま
 す。それは次のようです。


  「一書(第二)に曰く。日と月が生まれられたあと蛭子が生まれた。こ
 の児は年が三つになっても脚が立たなかった。はじめ伊奘諾尊・伊奘冉尊
 が、柱を回られたときに、女神が先に喜びの言葉をいわれた。それが陰陽
 の道理にかなっていなかった。そのために蛭児が生まれた。次に素戔嗚尊
 が生まれた。…後略」


  実はこの一書が、一番本文に似ています。本文が新たに編纂されたもの
 であるとすれば、この一書が基本になった可能性が考えられます。
  相似した内容の中で、大きく違うのは、本文のほうが、日の神を「大日
 靈女貴」(おおひるめむちのみこと、注:『日本書紀』は「靈女」を一文
 字で表現しています)と称すとし、一書を持ち出して「天照大神」として
 いるところです。
  なぜ、一書持ち出すという、回りくどいことをして、アマテラスとした
 のかは大きな疑問です。今後ストーリーを展開していく上での主役であり
 皇祖であるならば、本文自らオオヒルメムチは、アマテラスであると断言
 すべきではありませんか。

  察するに、皇祖オオヒルメムチは、アマテラスとは呼ばれていなかった、
 ということです。
  そもそもアマテラスという名称は、神話誕生当時にはなかったと思われ
 ます。先にも述べたように、単に日の神、月の神であり、固有名詞である
 アマテラスやツクヨミは、スサノオを高天原神話に取り上げたことにより、
 対比上つけられた名称だと思います。
  スサノオという名に対して、アマテラスやツクヨミは、あまりにも安易
 な名であると思えます。

  現実のオオヒルメムチは、太陽神を祀る大巫女(ずばり「邪馬台国」の
 「卑弥呼」ですね)だったのでしょうが、祀る側が祀られる側になったと
 き(亡くなったということです)、それまで祀っていた日の神と、同一視
 されるようになったことは、考えられることです。

  さらに言えば、自然神である日の神は太陽に他なりませんが、人間太陽
 神はスサノオだったのではないかと思えてなりません。
  『日本書紀』は一書(第六)として、本文と間違えるほど長い文章を引
 用していますが、その中の一節に


  「素戔嗚尊は天下を治めなさい」


  とあります。

  本来の姿はまさにこのとおりであって、天下の治める大王であったと思
 います。従って後世、天皇支配の世になったとき、神代、皇祖を差し置い
 て君臨にしていた人物がいたとあっては、はなはだ不都合だったため、日
 の神よりも下位にスサノオを置き、日の神に懲らしめられるという立場に
 なったと思われます。
  神代であっても、スサノオを下位に置いたということは、古代から民衆
 は天皇支配に組み入れられていたのだと、言いたいわけです。

  これを逆に考えれば、皇祖よりも格上だったことになり、『日本書紀』
 が皇祖を太陽神と力説すればするほど、スサノオ=太陽神であったことが、
 浮き彫りになってきます。

  想像するのに、日の神、月の神は、高天原にいて、悪事を繰り返してば
 かりいる月の神は、日の神の怒りをかって、昼と夜と分けた後、月の神は
 夜に住むように強いられた、という民間伝承だったと思われます。
  『日本書紀』神話は、その月の神の役割を、スサノオの仕業に置き換え
 てアマテラス、ツクヨミ、スサノオの三貴神にしたてたため、月の神の説
 話がなくなってしまい、消化不良の神話になっているのです。

  蛇足ながら、『古事記』と『日本書紀』の説話の違いから、『日本書紀』
 よりもあとに編集された『古事記』という図式が、はっきりわかります。
  月の神をツクヨミと書き、その説話のない『古事記』のほうがより新し
 いわけです。


                                了



  
 「邪馬台国」と「尾張」


  古代史を語る上で、天皇家と大変深い関係でいながら、軽視されている
 氏族が「尾張連」(おわりのむらじ)です。深いというより、天皇家を構
 成していた一古代豪族であったと思われます。

  綏靖から開化までを、アカデミズムは欠史八代と言い、その存在を否定
 していますが、その時代に天皇と婚姻関係をもち、幾人かの皇后を輩出し
 てきた氏族なのです。少なくとも、『記紀』にはそう記されています。
  欠史八代ですから、その皇后家もまた架空であろうと考えがちですが、
 実在と言われている崇神天皇、その妃「尾張大海媛」(おわりおおあまひ
 め)は何とするのでしょう。妃は架空だが、天皇は実在とするのもおかし
 なものです。ちなみに二人の間には「八坂入彦命」(やさかいりひこのみ
 こと)・「淳名城入姫命」(ぬなきいりびめのみこと)・「十市瓊入姫命」
 (といちにいりびめのみこと)が生まれています。

  『古事記』では、「大入杵命」を含め二男二女となっていますが、この
 うち「八坂入彦命」の墓が岐阜県可児市久々利にあり、また彼の娘である
 「弟媛」(おとひめ)・「八坂入媛」(やさかいりひめ)は、後に景行天
 皇妃となっています。

  前代に転じれば、『崇神紀』に登場する「倭迹迹日百襲姫命」(やまと
 ととびももそひめのみこと、大和=邪馬台国説の卑弥呼と言われている)
 は、第七代考霊天皇の娘です。
  このようにどこかを架空とすれば、前後のつながりが切れてしまいます。

  だからと言って、欠史八代をはじめとする、すべてが実在したと言いた
 いわけではありません。残念ながら、『記紀』間で皇后の世代が異なって
 記載されている割には、縁戚関係が明瞭過ぎる嫌いもあり、疑わしい部分
 は多く見受けられます。

  そうであったとしても、その全部を欠史としていることは、いかがなも
 のかと思うわけです。

  余談になりましたが、さて、京都府宮津市に丹後国一宮である籠神社
 は、『海部氏本紀』と呼ばれる系図が伝わっています。正式には『籠名神
 社祝部氏系図』(いわゆる『本系図』)といい、昭和51年六月に現存す
 る最古の系図として、国宝に指定されています。この系図は世襲の直系を
 一本の縦線上に記したものであり、当時、丹後国庁から大和朝廷に提出さ
 れ認知を受けた、いわば国家公認の系図であったことがわかっています。
  しかしながら、始祖彦火明命の次は、三世孫倭宿禰命、その孫健振熊宿
 禰と続き、その後はいきなり児海部直都比となって、世代が飛ばされてい
 るのです。朝廷に提出するにあたり、朝廷にとって都合の悪い記述は、あ
 らかじめ省いていたであろうことは、おおよそ推測ができました。

  この『海部氏本紀』と呼ばれる系図は、さらに、別の『籠名神社祝部海
 部直等之氏系図』(いわゆる『勘注系図』)と呼ばれる二種類の系図から
 成っていたのです。
  そしてこの『勘注系図』に系譜が省略されることなく、記されていたの
 です。

  『本系図』は平安時代貞観年中に、『勘注系図』江戸時代初期に書かれ
 たものですが、『勘注系図』は縦系図ではないものの、他の史書には見ら
 れない伝承が注記されているので、注目が集まりました。

  それを縦系図にしたものが下記のものです。
 
 
 
始祖彦火明天命─児天香語山命─孫天村雲命┬三世孫天忍人命─天登米命→
                      ├弟天忍男命─以下略
                        │(倭宿禰命)
                     │
                      ├妹忍日女命
                       ├別伝三世孫倭宿禰─以下略
                      └妹葛木出石姫命

 ─建登米命─建田背命┬建諸隅命┬日本得魂命┬意富那毘命┬乎縫命→
           └建宇比命└大海姫命 └日女命   └淡夜別命
                 (和多津見命)

 ┬小登与命─建稲種命─<<略>>─一八世孫難波根子建振熊命─以下略
 └日女命
  (小止与姫)


  この系図は『真説日本古代史』第一部冒頭のものと同じですが、ここに
 崇神天皇妃「大海姫」の名を見ることができます。
  そうです、今さら言う事でもないのですが、「海部氏」と「尾張氏」は
 同族なのです。どちらが本家でどちらが分家か、ということまではわかり
 ませんが、あえて言えば、『記紀』に記される「尾張氏」の事績や、『先
 代旧事本紀』に記された『海部氏系図』とそっくり同じ系図が、『尾張氏
 系図』とされていることから考えてみれば、「尾張氏」が本宗家になるの
 でしょう。
  もっとも、尾張地方に移住する前の「尾張氏」と、丹後地方の「海部氏」
 は、その呼び名が異なるだけで、完全に同系譜と言ってよく、どちらが本
 宗家という言い方自体、間違っているのかもしれません。

  ちなみに「尾張」とは、現代は愛知県西部の一地方を示す名称になって
 いますが、もともとは「憂婆畏」(うばい)の発音が訛ったものであり、
 これは、女性統治の仏教国徒またはその支配者を指す名詞だったことは、
 本編中に述べてあります。仏教と言っても、「蘇我氏」が伝えたという仏
 教ではなく、シンボルを崇拝しない原始的な仏教だったことでしょう。
  そういう意味では、原始神道とたいした違いはないと考えております。

  ほかにも、「難波根子建振熊命」(ないわねこたけふるくまのみこと)
 は『仲哀記』に登場していますし、「建稲種命」(たけいなだねのみこと)
 は『応神記』に「建伊那陀宿禰」(たけいなだのすくね)として記されて
 います。

  話は変わりますが、『記紀』を人造亡霊だ、と言い切った学説がありま
 す。原田常治氏の『古代日本正史』がそれです。
  内容は著書を読まれて自身で確認されることをお勧めしますが、簡単に
 言ってしまえば、『記紀』成立以前からある神社の古記録・伝承を、つぶ
 さに調べ上げ、『記紀』にない歴史ストーリーを突き止めてしまった、と
 いうものです。これを神社伝承学と呼んでいます。
  この学説で受けた一番強烈な印象は、『記紀』神話で悪玉とされている
 スサノオが、実は日本建国の祖であった、と解明したところにあると思い
 ます。
  と言いますのは、私が幼いころに読み聞きした日本神話のスサノオは、
 ヤマタノオロチを退治した出雲の英雄だったにもかかわらず、高天原では
 大の厄介者だったのです。
  ただ、そうしたことは神話の世界でなくともあることでしょうが、スサ
 ノオが高天原で行った行為は、泣き喚くとか田を壊すとか、死体を投げ入
 れるといった、英雄武勇とはあまりにもかけ離れすぎて、オロチ退治神話
 が好きだった私は、幼いながらも情けない思いをしたものでした。
  それがいきなり建国の祖ですから、してやったりと原田学説にどっぷり
 はまってしまったのです。

  神社伝承学は、一度はまってしまうとなかなか気持ちのよいもので、日
 本の古代から上古にかけての歴史は、一発回答、これで解決だ、と思えて
 なりませんでした。『原田説』のすごいところは、「邪馬台国」と『記紀
 神話』の関係を、実に明瞭に説いたところです。
  その概略を紹介すると、次のようになります。これは、本編でも述べた
 もので、『原田説』を基に古代史の謎解きをする関裕二氏が、著書『抹殺
 された古代日本史の謎』のなかで、まとめられたものです。


  
「スサノオは、西暦122年ごろ、出雲国沼田郷で生まれた。スサノオ
 が20歳ごろ、出雲第一の豪族・ヤマタノオロチを討ち倒し、35歳ごろ
 には、出雲で頭角を現す。やがて出雲を統一したスサノオは、西暦173
 年ごろには九州遠征を決行し、これを平定、アマテラス(『魏志倭人伝』
 のヒミコ)と出会い、両者はここで同盟関係となる。

  いっぽう、スサノオの第五子・ニギハヤヒは、西暦150〜151年ご
 ろの生まれで、20歳をすぎたころスサノオとともに九州に遠征し、18
 3年ごろ、スサノオの命で大和に向かった。
  ニギハヤヒは、それまで大和を支配していたナガスネヒコをたたかわず
 して臣下におさめ、その妹の三炊屋媛を娶る。さらにニギハヤヒは休む間
 もなく、瀬戸内沿岸を次々に攻略、出雲王朝の基礎を築いたのである。
  ところが、九州から大和に至る一大勢力となった出雲王朝も、スサノオ
 の死後、あっけなく衰退していく。相続問題のこじれを、ヒミコの九州王
 朝(天皇家)につけ込まれたのである。
  この結果、九州王朝は出雲からの独立に成功する。ちなみにこの事件が、
 “出雲の国譲り神話”もとになったという。

  さて、王朝の中心を大和に遷した出雲王朝では、やがてニギハヤヒも亡
 くなり、末子が幼少であったため(この当時は末子相続であったと原田氏
 は説く)長子のウマシマチが代理人として政務を司っていた。
  西暦230年ごろ、九州王朝は大和の出雲王朝に、あるひとつの提案を
 もち込んだ。両国を合併させようという大同団結を提唱したのである。幸
 い出雲王朝の相続人は、「伊須気依姫」という女子、かたや九州王朝の相
 続人は、ヒミコの孫で、末子の「伊波礼彦」(のちの神武天皇)、どちら
 も正統な相続人であった。

  ここに、両朝は合併に合意した。これが、『日本書紀』に記された神武
 東遷の真相であったと原田氏はいう。そして新王朝誕生と同時に、両朝は
 重大な取り決めを交わした。
  それは、代々の天皇は九州王朝の男子とし、その正妃は出雲王朝の女子
 から選ぶこと、そしてその正妃の親族が天皇を補佐し、政治の実験を握る、
 というものであった。
  このように、出雲・九州両朝の合併によって成立したのが大和朝廷であ
 り、ニギハヤヒの末裔・物部氏が衰弱した七世紀、出雲王朝の実像は天皇
 家の手によって抹殺されてしまったと、原田氏は説くのである。」


  アカデミズムは、この説を一切無視しています。神社の伝承と『記紀』
 とでは信頼性に雲泥の差があるというのが、その理由らしいですが、『海
 部氏本紀』にしたところで神社伝承なのですから、そこに大きな違いはな
 いはずです。

  とまあ、素晴らしい発見なのですが、神社伝承学は、良くも悪くも神社
 伝承がすべてですから、これ以上の発見は望めません。これが真の古代史
 であれば何ら問題はないでしょう。しかし、神社伝承学にプラスアルファ
 を求め、たどり着いたとき、時間の経緯を別にすれば(神社伝承学では年
 代までは特定ができないため)、ただ一点において、納得できない部分が
 でて来たのです。

  『原田説』のニギハヤヒとは、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」のこ
 とですが、この長い神名には大きく二つの要素があります。

  「天照国照彦天火明」と「櫛玉饒速日」が、それなのですが、ニギハヤ
 ヒは一神でありながら、このように二つの神名に分けて祀られていること
 が多々あります。
  それは、古代の「大和」大王ニギハヤヒの実体を抹殺するための、朝廷
 の策であったという説に繋がっているようです。つまり、一神を複数神に
 して混乱させたということですが、これは逆だと考えています。複数の神
 をあたかも一神であるように習合したと思うのです。すでに本編で述べて
 ますのでこれ以上の重複を避けますが、ホアカリとニギハヤヒは別神格で
 す。このあたりが神社伝承学の限界なのではないでしょうか。とは言え、
 そのアプローチ、そこから展開されている歴史ストーリーは、ニギハヤヒ
 についてさえ理解していれば、大変素晴らしいものです。

  ところで、ここまで長々と引っ張ったのは、それなりの理由があります。
 『原田説』で言う、スサノオとヒミコの出会いが、『記紀』のある説話に
 そっくりだと思うからです。

  『古事記物語』(大田善磨著、教養文庫)から、その部分を引用すると、
 

  「こうして、倭建の命は、尾張の国に進まれましたが、そこで尾張の国
 造の祖先にあたるみやずひめの家にお宿りになりました。その時、みやず
 ひめとご結婚なさろうとお思いになりましたけれども、ご結婚のことはお
 役目を終えてまたお帰りの時にとのお考えで、婚約だけなさって、東の国々
 にお旅立ちになりました。そして、片はじから、その地方の不穏な土着神
 や服従しない者どもを平らげて行かれました。」

  「尾張の国に帰って来られて、以前立ち寄られた時に婚約をなさってい
 たみやずひめの家にお入りになりました。その時、みやずひめは、命にお
 食事をお進めする際に、お酒盃をたてまつつりました。ところが、みやず
 ひめの長い上着のすそに月の障りのものがついていて、それを見られた命
 が…」


  月の障りのものは余分ですが、「倭建命」(やまとたけるのみこと)を
 スサノオに置き換えれば、みやずひめはヒミコに当たります。
  原田氏は次のように記しています。


  「怒涛のように南下してきた出雲の騎馬部隊(出雲の古墳からは馬具が
 多く出土する)の大将、素佐之男尊の勇士が大日霊女の目にどんなに素晴
 らしく、頼もしく、魅力的映ったか、想像に難くない。<中略>
  宮崎から鹿児島のほうまで駒を進めた素佐之男に、あるいは大日霊女の
 ほうから、積極的に接近したのではないかと想像される。それが女性の本
 来の姿であると思う。」


  「倭建命」は『日本書紀』では「日本武尊」です。

  本編では、ヤマトタケルは「倭の五王」の「倭王武」、すなわち雄略天
 皇だと結論付けています。「倭王武」の名は、そのままヤマトタケルです
 ね。
  もちろん、その結論に変わりはありませんが、この説話に関する限り、
 どうも起源を同じにしているのではないかと思えてしまいます。
  また、『原田説』のスサノオも、スサノオ本人のことではなく、例えば
 「物部氏」の棟梁、ニギハヤヒのような人物だったかも知れません。

  説話としては、武力を持って侵入してきたA国の王と、侵入されたB国
 の女王とが政略結婚をしたと言う、どこにもありそうなクレオパトラ的説
 話なのですが、「尾張」と「邪馬台国」の姿を重ねて考える理由は、みや
 ずひめにあります。
  みやずひめは、「宮簀媛」(日本書紀)あるいは「美夜受比賣」(古事
 記)と書き、おそらくその意味するところは、「宮主の媛」だと思われま
 す。言い換えれば、女神主と言えるでしょう。つまり、日霊女(日巫女、
 ヒミコ)とも言えるわけです。

  また、『記紀』のみやずひめは、尾張の国造の祖でありながら、『海部
 氏本紀』や『先代旧事本紀』の『天神系神別系図』、通称『尾張氏系図』
 に名を連ねていません。これはどういうことかと言うと、みやずひめは、
 架空の人物であった可能性が考えられる、と言うことです。
  誤解があってはいけませんから、一言付け加えますと、「尾張」はその
 名の通り女王国なわけですから、みやずひめの立場に当たる人物は、上古
 のいつの時代でもいたはずです。『記紀』にいう、みやずひめという固有
 名詞を持つ人物が、架空であったということです。
 
  そして「草薙剣」の存在があります。「草薙剣」はヤマトタケルが「尾
 張」に伝えたことになっていますが、それは伊勢神宮の「倭姫」から、授
 かったものでした。この時代、伊勢神宮は成立しておりません。ありもし
 ない伊勢神宮から、「草薙剣」をどうやって授かるのでしょう。
  「草薙剣」は、もともと「尾張国」にあったと考えたほうが、無理があ
 りません。

  かたや、「草薙剣」はスサノオ説話には切っても切れない存在です。そ
 の「草薙剣」が「尾張国」にあったとすれば、スサノオと「尾張国」は、
 直接関係ないにしても、因縁はただならぬものと考えることができます。
  「邪馬台国」連合に参加していた国の一つに、「己百支国」があります。
 「己百支」とは「五百木」と同音だと思います。「五百木」と言えば「五
 百木入彦命」を連想しますが、「五百木」姓は、『新撰姓氏録』に、


 
 「火明命之後也」


  とあるように、「尾張氏」と同祖です。また、「尾張氏」の出身地に、
 よく「高尾張邑」があげられますが、「先代旧事本紀」の「天神本紀」で
 は、ニギハヤヒが天神の御祖の命令を受け、天磐船(あめのいわふね)に
 乗って「河内国」の河上の「哮峰」(いかるがのみね)に天下ったとき、
 ニギハヤヒに伴った三十二の天神の中に、「尾張氏」の祖「天香語山命」
 (あめのかぐやまのみこと)と「天牟良雲命」(あめのむらくものみこと)
 が、名を連ねています。
  つまり「尾張氏」も天下ってきたわけですから、「高尾張邑」を本拠地
 とする以前は、その天下り先にいたことになります。
  『記紀』に従うならば、それは「高天原」になるのでしょうが、まさか、
 実際に天から降臨してきたわけではないでしょう。それは、やはり九州で
 あったと思うのです。

  古代において、何度か筑紫から大和への、集団的民族大移動がありまし
 た。神武東征や応神東遷などの『記紀』説話も、それに似た歴史的事実が
 あったからこその説話でしょう。
  顕著な例は、「安本美典」氏の発表された説にあります。それは、福岡
 県甘木市一帯と奈良県大和郷一帯の地名とその位置に、見事な一致がある
 という事実です。
  当然、集団的大移動があったと考えられるべきです。それも地名を伴っ
 ているとなれば、これは国家レベルの移動であったと言えるのです。
  
  アメノカグヤマもアメノムラクモも、九州からきたとすれば、ある時期
 の「尾張氏」は、九州を本拠にしていたと考えられます。その時期を「邪
 馬台国」と重ねて考えれば、ある時期の「尾張氏」の本拠とは「己百支国」
 であると思います。

  「尾張氏」の出自が、「邪馬台国」連合の一国である「己百支国」とな
 ると、ミヤズヒメはヒミコであった可能性も、なくはないことになります。

  なぜなら、「尾張」とは女王国そのものであり、「尾張国」に「草薙剣」
 伝承されている理由も、ヤマトタケル(スサノオ)からみやずひめ(ヒミ
 コ)に渡されたと地が、「邪馬台国」だったとすれば、つじつまが合いま
 す。
  従って、『記紀』にみられるヤマトタケルとみやずひめの恋愛説話は、
 「原田氏」の説くスサノオ・ヒミコ説話と、起源は同じだった可能性が高
 いということです。
  つまり「尾張氏」の持つヒミコの記憶が、遠く離れた「尾張国」に移住
 した後、氏族の祖としてのみやずひめを創造させたからだ、と考えられま
 す。簡単に言えば、所が変わったので、人物も変わったということですね。

  『記紀』にみやずひめが登場するのは、『景行記』・『景行紀』です。
 ここに登場するみやずひめは、これを固有名詞と考えるならば、まったく
 の架空と言えます。繰り返しますが、それは過去の女王説話のリフレイン
 です。
  興味深いことに、『勘注系図』を見てみると、「日女命」が三人でてき
 ます。

  おそらく、彼女たちこそ普通名詞としてのみやずひめだったのでしょう。
 「日女命」もまた普通名詞だと考えられ、祭を司る斎王のことだったと思
 われます。三代目の「日女命」には、系図から「小止与姫」という別名を
 読むことができます。

  これを何と読むかと言えば、「おとよ」・「ことよ」です。

  この名前からは、その後の「邪馬台国」の「臺与」(トヨ)を連想しな
 いわけにはいきません。
  「尾張氏」から「邪馬台国」をうかがい知る事ができるとなると、この
 三代目の「日女命」は、確実にトヨに比定できます。そうすると、その二
 代前の「日女命」こそ、ヒミコになるわけです。

  この二人の「日女命」こそ、中国が認めた「倭国」の女王だったとすれ
 ば、『記紀』に何らかの痕跡が残っていてもよさそうなものです。
  なぜなら、『勘注系図』に記されている名前は、おおよそ『記紀』から
 も読めるからです。例えば『勘注系図』に名を残す「大海姫」が、『記紀』
 では、崇神の妃であったと記されているわけですから、それ以上の「倭国」
 女王となれば、完全には無視できないと思われるのです。

  ただし、『記紀』からそれを読むことはできません。

  やはりそこは、『勘注系図』となるわけです。

  実は、ヒミコこと「日女命」は、またの名を「神大市姫命」・「倭迹々
 日百襲姫命」としています。この名は前文でも出てきましたが、『崇神紀』
 では「大物主大神」の妻となった、神がかり的な女性です。ヒミコは「邪
 馬台国」で亡くなっているので、「大和」=「邪馬台国」説に大きく傾く
 説になります。
  彼女は、考霊天皇の娘ですので、三代目の「日女命」は、次の孝元天皇
 の娘「倭迹々姫命」あたりになるのでしょう。

  このように、『勘注家図』と『記紀』とを、対比させることによって、
 『記紀』だけに頼った歴史観が覆ってしまう、推論を展開することができ
 ます。

  これぞ真実、と断言したいところですが、そうはいかないところから、
 妄想的話になってしまいます。

  問題は、『勘注系図』そのものにあります。

  『勘注系図』は、『本系図』を補うものとされております。『勘注系図』
 には籠神社の神殿奥に秘蔵されてきた伝世鏡、「息津鏡」・「辺津鏡」に
 ついての記述があります。
  この鏡は、昭和62年に公開され、それぞれ、「後漢」・「前漢」時代
 の鏡であることが判明しました。重要な事は、それらが出土史料ではない
 ことです。つまり太古より手元にあったということです。
  このことは、『系図』の信憑性を高めるのに、大いに役立っていますよ
 ね。

  しかし、『本系図』・『勘注系図』合わせて『国宝』なのですが、『勘
 注系図』の系図はともかくとして、その伝記部分には、いささか問題があ
 るように思います。

  一例をあげてみますと、神代系譜が『記紀』に類似していることです。
 『古事記』とは、ほとんど同類の系譜となっております。それ自体は、や
 むをえないことと思われますが、「天御中主尊」、「伊弉諾尊」につづく
 三代に、「天照皇大神」の名称をもってきたことは、やりすぎでしょう。

  十世孫「乎縫命」(おぬいのみこと)は、別名「小止与命」ともされて
 いますが、オトヨは次代の「小登与命」と同音です。さらに「小登与命」
 は「御間木入彦命」ともされています。ミマキイリヒコと言えば崇神天皇
 ですが、オトヨは「尾張」の古代史に精通している方ならば、時代的に成
 り立たないことは、お分かりになるでしょう。(ただ、崇神が「大和」で
 亡くなってはいなく、「尾張」へ逃れて亡くなったとすれば話は別ですな
 のですが。)

  同世孫に、「阿多根命」と「建稲種命」が記されていますが、それぞれ
 別名が「天香語山命」・「須佐之男命」であるといいます。
  「建稲種命」=「須佐之男命」は、「草薙剣」つながりから、同一人物
 説を考えたこともありましたが、「阿多根命」が「天香語山命」となると、
 『本系図』の二代目に記されている「天香語山命」との関係は、どう考え
 ればいいのでしょうか。

  挙げれば、まだ数箇所見られますが、『勘注系図』の伝記自体を、ある
 ところは整理し、あるところは、他の史書にて補足するなどすれば、整合
 性を持った史実に近づく可能性はあるでしょうが、まだまだ、遠く及びま
 せん。現時点では、妄想的話にとどめておきたいと思います。

  最後に『海部氏系図』について補足しておきたいと思います。

  『真説日本古代史』本文中、あるいはこの『古代史妄想的話』の中で、
 たびたび『海部氏本紀』や『海部氏系図』なる名称が出てきますが、これ
 らの『海部氏云々』とは、元伊勢と呼ばれる籠神社に伝承されている、次
 の二つの系図から成り立っています。

  
       ・・
  『籠神社祝部氏係圖』(通称『海部氏本系図』現存する日本最古の系図)

  『籠名神社祝部氏本記云』(通称『海部氏勘注系図』)


  この両者はともに国宝(昭和51年国宝指定)なのですが、『本系図』
 は平安時代の初期、貞観年間中の書写。『勘注系図』は江戸時代の初期の
 書写であることがわかっています。
  『勘注系図』の主題は、『籠名神社祝部氏本記云』なのですが、それは
 前書のタイトルのようであり、巻首には別に『籠名神宮祝部丹波國造海部
 直等氏之本記』というタイトルがあり、「始祖彦火明命」から始まってい
 ます。
  『本系図』は「彦火明命」から「海部直田雄祝」までを、竪系線で貫か
 れて書かれていて、血統の正確さを示そうとしていますが、「三世孫倭宿
 祢命」から「十八世孫建振熊宿祢」の十四代を略されているので、これを
 『勘注系図』によって補っています。

  文中で使用している竪系図は、この両者を併せ一つの系図にしたもので、
 それを個人的に『海部氏本紀』と称しています。
            ・・   ・・
  また、『籠神社祝部氏係圖』の「係圖」の部分は系図のままであり、書
 写の際の誤字だと思われます。本文中では「系図」としてあります。


                        2006年 7月 了