真説日本古代史 特別編の九


   
古見塚(失われた古伝承を求めて)




   
1.プロローグ


  はたして、このレポートをここで紹介して良いものかどうか、少なから
 ず迷ったのだが、このテーマを与えてくださった方と、その結果に敬意を
 表して、『真説日本古代史』特別編として、ここに掲載することにした。
 
  というのも、その背景が古代ではないし、歴史の謎解きでもないからで
 ある。しかし、人知れず歴史の闇に埋もれかけていた史跡を、将来に渡っ
 て語り継がれていくであろう史跡に変えることができたことには、大変な
 喜びを感じている。

  場所は愛知県安城市である。

  安城市と言えば、弥生時代の圦上遺跡があるが、このレポートを書いて
 いる最中(2008年1月18日)にも、同遺跡から韓式系の土器片が発
 掘調査で出土したし、それがこの地方の土での製作であった、と発表して
 いる(安城市埋蔵文化センター)ことから、渡来系技術人とも密接に関わっ
 ていたんだろうと推察できる。文化交流はなにも九州や近畿地方だけの専
 売特許ではないのである。

  昭和27年に市政を施行した安城市は、日本のデンマークと呼ばれるほ
 どの農業先進国であったが、近年はトヨタ自動車関連企業が進出する、皮
 肉っぽく言えばトヨタ王国の一員である。
  また七夕祭りは有名で、仙台・平塚と並び日本三大七夕祭りに数えられ
 ることもある。
 
  そんな安城市の中心部、JR安城駅からそれほど遠くない所に、それは
 あった。



   
2.古見塚


  さて、話は数年前にさかのぼる。

  ことの発端は、当時親しくしていた女性の口をついた、次のような疑問
 からであった。


 
 「私の家の敷地内に、古見塚という塚があって、祖父母の代からお祀り
 している。いや、もっと昔からかも知れない。親戚の伯母様からも、大切
 に守るように言われているのだが、それが何の塚で何の為なのかは、実は
 誰もがわかっていないから、調べて欲しい。」



  もちろん、彼女は私が歴史の研究をしていることを承知して、言ったの
 であるし、彼女は時代が時代なら名家のご令嬢であると思われるほど、大
 きなお屋敷に住んでいるのであるから、その敷地に塚があっても不思議で
 はないのだが、せいぜい旧家を取り壊した際に出た、大黒柱の礎石を埋葬
 してあるか、先祖の功績を讃えるための塚であろう、と想像していたので
 ある。

  しかしその頃は、『真説日本古代史』本編の執筆中であり、とても他事
 に構っていられなかったし、上記の理由もあって、そのまま聞き流してい
 た。

  その後エピソードである『持統天皇』の執筆が終わり、『真説日本古代
 史』は当初の目的であった、『日本書紀』の謎解きが本編・特別編を通じ
 て一息をつき、他に目を向ける余裕が生まれたことから、ふと古見塚のこ
 とを思い出した。

  調べてみようかと、やっとのことで思い立ち、とりあえず、現地を案内
 してもらったのだが、それは南北に走る公道に挟まれた、広い土地のほぼ
 中心部に位置していた。ざっと見ただけで一千坪は優に超えるであろう、
 その東西は隣家なのだが、その間も100メートル近くはあると思う。
  その土地の東北の区画が、北側の公道に面した宅地になっており、四方
 を青垣で囲ってある。その南側・西側は自耗田で、古見塚は、宅地の西辺
 に接して水田に突出しており、その部分は垣根を一部切り割いてあり、宅
 地側から臨めるようになっている。
  
  古見塚は、直径2メートル強、高さ50〜60センチメートルの墳丘で、
 頂に植樹されている。塚本体は水田の区画内にあるのだが、塚を避けるよ
 うに水田が構築され、墳丘の周りは一段の石盛がされ、一目で大切に扱わ
 れてきたであろうことはわかった。

  宅地側から見ると、古見塚と掘られた石碑が建てられており、献花台が
 備わっているが、これは後世の造作であろうが、少なくとも彼女が生まれ
 たときには、この状態だったらしい。


  帰宅後、早速調査を試みたが、いざとなると、何をどう調べて良いのか
 全然わからない。所詮、個人の所有物については、所有者が資料を持って
 ないと、まったくお手上げの状態であった。

  ただ、現地での会話の中で、


 
 「大学の偉い教授も、拝観に来たことがある。」


  と言っていたのを思い出し、それについて誰かが書いた、既出のレポー
 トがあることを期待して、ネットで検索してみた。

  キーワードは無論、


 
 「古見塚」


  である。

  検索でまずヒットしたのは、ホームページ『日本掃苔録』である。

  
このホームページの管理者は、亡くなった著名人の墓碑や史跡を巡り歩
 くことを、趣味とされており、平成19年1月28日の訪問先に「古見塚」
 を記載している


  そしてもうひとつ、


  
「安城市安城町古見塚」


  という住所である。

  この住所は、現在の安城市南町であることが判明した。ここは、もちろ
 ん古見塚の所在地である。かつては安城町古見塚であったのだ。

  このことから、古見塚は単なる個人の遺跡にとどまらず、もっと大きな
 意味を持ったものであることもわかった。

  さらなる答えを期待したのだが、残念ながら、これ以上の成果は見られ
 なかった。



   
3.安祥城址


  何の手がかりも得られぬまま、数日が過ぎたのだが、せっかく安城市と
 関わり合ったのだから、安祥城址でも調べてみることにした。

  安祥城址について、安城市埋蔵文化財センターは次のように説明してい
 る。


     「安城町に所在し、碧海台地東縁部の半島状にのびる台地上に位置して
 います。台地の南・東・西側は湿田となっていて、天然の要害となってい
 ました。築城・廃絶時期は明らかではありませんが、戦国時代には松平氏
 の居城となり、城を巡って織田氏との間で数度の攻防が繰り広げられたこ
 とは有名です。清康の代になって本拠地が岡崎に移され、江戸時代には畑
 となっていましたが、1792(寛政4)年に了雲院が移転してきて現在に至っ
 ています。1988(昭和63)年以来数度の調査が行われた結果、多くの地点で
 堀が確認され、一部の堀は堀の中を区切る畦状の遺構が検出されています。
 また、本丸に当たる現了雲院境内地の調査では、江戸時代の畑状遺構のさ
 らに下層に戦国時代の遺構が残っており、現地表面から1m近く盛り土がれ
 さていることが確認されました。」



  現在の安祥城址は、
安祥城祉公園として整備され、本丸址に大乗寺、二
 の丸跡に八幡社、他に安城市歴史博物館・安城埋蔵物文化財センターが並
 立している。

  そもそも安祥城は、永享12年(1440)、和田親平の築城であると言われ、
 天守閣を持たないことを特徴とした平山城であった。

  文明3年(1471)、岩津城の松平信光が攻め取り、以後50余年間、安城
 松平四代(親忠・長親・信忠・清康)の居城となった。
  松平氏の入城は無血であったというが、この時用いられた策というのが、


 
 「信光に雇われた若い男女が、城外で盆踊りを催した、これがあまりに
 楽しそうだったので、城兵の多くは城を出て見物に出かけてしまった。
  そこを用意していた松平氏の兵が城内に攻め入り、城を占領してしまっ
 た。」


  という奇策であったという。

  大永4年(1524)、四代目の松平清康(家康の祖父)が居城を岡崎に移す
 と、長家(清康の大叔父)が城代となる。

  天文4年(1535)、清康が守山城で家臣の阿部弥七郎に殺害された、いわ
 ゆる守山崩れが起きると、若干13歳の嫡男広忠は、事件の収集を納める
 事もできないままに、松平家は弱体化していった。
  天文9年(1540)、この機を活かした、尾張の織田信秀(信長の父)が安
 祥城を攻略し、信広(信長の異母兄)を入城させた。(第一次安城合戦)
  さらに安祥城奪還を試みた、天文14年(1545)の合戦に破れ、松平家の
 弱体化はもはや決定的となった。(第二次安城合戦)

  天文16年(1547)、織田討伐軍の侵攻に抵抗できない岡崎松平家は今川
 家から援助を得るため、嫡男竹千代(後の家康)を人質に送るが、護送途
 中に田原城主戸田康光に奪われ、織田家に引き渡されてしまった。
  織田信秀は竹千代を質に松平家の恭順をうながすが広忠は拒否、竹千代
 は熱田で人質となったままであった。

  天文18年(1549)、今川・松平連合軍は、その前後二度の合戦を経て安
 祥城落城させた。(第三、四次安城合戦)。捕縛された安祥城主織田信広
 は、その後尾張の人質、竹千代との間で捕虜交換が行われた。

  安祥城・岡崎城は今川が治め、三河は今川家にそのほとんどを乗っ取ら
 れたが、有名な桶狭間の戦いで、織田信長に敗れた今川家から、独立した
 松平元康(後の家康)と織田信長が清洲同盟を結び、岡崎に対する前線の
 役目を終え廃城とされた。

  安祥城址公園には、本多忠高の墓碑があるが、彼は天文18年の合戦の
 時の松平方の主将であり、ここで戦死した。説明板には、


  
「城の防衛戦を攻め破り、本丸近くまで迫りましたが…」


  とある。



   
4.十三塚


  安祥城址の本丸跡と二の丸跡との中間に、姫塚と呼ばれる墳丘がある。

  合戦により亡くなった女性を葬った墓である、とのことなので、城内に
 残され、そのまま死んでいった女性が、お祀りされているのだろう。

  興味深いことに、その形状も規模も古見塚とほぼ同様なのである。


  安城市教育委員会発行で、安城市歴史博物館配布の『安城歴史の散歩道』
 〜安祥城址と古戦場めぐり〜には、他にも東条塚・千人塚を掲載している
 が、東条塚もまた同様に見える。

  東条塚は、天文9年の合戦で討ち死にした松平康忠を葬った所であるらし
 い。
 
  察するに、古見塚もまた、天文年間の合戦で討ち死にした兵士を葬ったと
 ころではないか。
  この考えは、当たらずとも遠くないであろう。否、正直なところ、これが
 解答であると言っても過言ではないと思う。

  しかし、公言するにはもっと確固たる証拠が欲しいところだ。

  そんな折、一冊の書誌に出会った。

  『安城村関係石碑集』である。

  灯台もと暗しとは、まさにこのことを言うのだろう。実はこの書誌、古見
 塚のある御宅で、無造作に積まれていたものだったのである。
  (しかし、安城市立図書館の蔵書検索ではヒットしなかった。)


  この中に、『もろもろの石碑集』という章があり、そこの『十三塚』とい
 う項に、それを見い出した。


  
「◎十三塚」

  「安城の地は、文明三(一四七一)年松平信光が安祥城攻略を初めとして、
 天文年間五回の戦斗が行われた激戦地でありました。それだけに安祥城を中
 心とした広い地域に戦斗によってなくなられた将兵の遺霊を葬った墳墓が残
 されております。
  現在傳っている墳墓を十三塚といっております。次ぎに分かる範囲で載せ
 てみます。」



  で書き始められたこの項には、以下の塚が掲載されていたのである。


  ○鏡塚
  ○古見塚
  ○貴人塚
  ○貴人塚(堀平十郎宗正之塚)
  ○東条塚
  ○大道塚
  ○金蔵塚
  ○富士塚
  ○姫塚
  ○恋塚
  ○千人塚
  ○赤塚
  ○大胴塚



  この紹介文には、私の調べとは異なり五回の戦斗となっているが、天文9
 年と14年の2度の安城合戦の間に、天文13年にも合戦もあり、安祥城の
 攻略は9年の合戦で失敗し、天文13年8、9月の二度にわたる攻撃で、よ
 うやくのこと落城させた、という説もあるので、そちらを採用したのであろ
 う。

  いずれにしても、天文年間の合戦で討ち死にした兵士を葬った、とした私
 の考えは、ずばり的を射たわけである。

  記録によれば、この十三塚のうち、鏡塚、堀平十郎宗正之塚は、安城合戦
 との関係は薄いようであるし、赤塚、大胴塚は現在所在が判明しないそうで
 ある。
  また、聞くところによれば、かつては古見塚の周りに、同様の塚が複数基
 存在していたらしいが、、宅地化に伴い消滅したらしいとのことであり、こ
 れらのことから、十三塚という括りかたは、後の時代に石碑・石塔等が調査
 され、整理する意味合いで命名された可能性が考えられる。
  実際、十三塚という名称は、日本の各地に分布しており、もともとは十三
 仏信仰に由来すると思われる。

  しかしながら、それはあくまでも十三塚という括りかたのことであって、
 これらの墳墓は間違いなく史跡であって、このことによって、歴史的価値が
 失われることは微塵もない。
  むしろ、この地は古戦場だったのだ、と認識させるに十分な史跡である。

  古戦場と言えば、例えば古戦場公園という、整備された狭い範囲しか思い
 が及ばないが、安城市なら安城市という広範囲が、すべて古戦場だったので
 ある。

  これらの塚を築造したのは、同地の民間人であり、その大半が農民である
 と思う。
  名のある武将は、墓碑を建立され歴史にその名を残すが、戦場に累々と横
 たわる屍のほとんどは、故郷に思いを寄せながら、討ち死にした名もない雑
 兵である。農民達は、彼らの無念を感じ胸に手を当てながら、亡骸を葬った
 のだろうか。

  残念ながら、そうではないだろう。

  合戦となると、一番割を食うのは、罪も利害関係もない農民である。戦場
 となるのは、決して荒野ではない。農民達が血を汗に変え、命を削って耕し
 た田畑である。

  軍兵は、それらを踏みにじって行く。後に残されたのは、荒廃した農地と
 死体の山だ。農民達が生きていくためには、それらを片づけなければならな
 い。そこにあるのは、討ち死にした軍兵の無念の思いと、農民のやるせない
 無情の思いであり、それが塚に込められていると思う。

  この塚は、戦国の世に造成され、推定で400年もの歴史を持つ由緒ある
 ものだ。中世・近世を通じて、激しく移り変わっていった世の中にもかかわ
 らず、ここに戦国時代をうかがい知ることが出来ることは、実に感慨深い。

  補足ながら、古見塚は幼児がこの塚にあがると「おこり」がおきると伝え
 られていたらしい。「おこり」とは、マラリアのような熱病であるが、逆に
 言えば、子供がよく登って遊んでいたということだ。この言い伝えは、それ
 を戒めるものであろうし、頂に植樹されているのは、登らせないためなのだ
 ろう。



   
5.本多光太郎


  彼女の祖母の旧姓を本多というのだそうだ。敷地の規模や古見塚があるこ
 となどから、松平方であった本多忠高の後裔か縁者だろうかと勝手に想像し
 ていたら、どうやらそれは見当違いであった。

  ところが、本多は本多でも物理学者の本多光太郎の血縁であると言うでは
 ないか。祖母の伯父に当たるというので、これにはかなり驚いた。

  

  鉄鋼の世界的権威であり「鉄鋼の父」の異名を持つ本多光太郎は、第一回
 の文化勲章の受章者である。

  最後に、彼のプロフィールを紹介してあとがきに変えたいと思う。


  愛知県碧海郡矢作町(現岡崎市)生まれ。物理学者。
  第一高等中学、帝国大学を卒業。
  明治36年(1903)理学博士。
  明治40年(1907)よりヨーロッパに留学。
  明治44年(1911)に帰国後、東北帝国大学教授となる。
  大正6年(1917)にKS鋼発明。
  昭和8年(1933)には新KS鋼という強力磁石鋼を発明、名声を博した。
  昭和6年 (1931)東北帝国大学総長。
  昭和12年(1937)に第1回文化勲章を受賞。



                        2008年 1月 了


  
<参考サイト>

  望遠鏡(安城市ホームページ)

  安城市埋蔵文化財センター

  安城市歴史博物館

  安祥城 - Wikipedia

  
日本掃苔録
      

  本多光太郎(近代日本人の肖像)



  
<参考文献>

  安城村関係石碑集(安城町西尾資料研究会)

  安城 歴史の散歩道(安城市教育委員会)