真説日本古代史 特別編の七


   
摂津阿武山古墳調査報告書




   
1.プロローグ


  
「乾漆製の寢棺に金絲を纒ふ貴人」

  「わが國最初大阪府下で」

  「奈良朝時代の古墳」

  「大阪府三島郡阿武野村阿武山にある京大地震研究所敷地内の一角から
  最近珍らしい古墳が發掘され考古學界に新たなる研究資料を提供するに
  いたつた−」


  「すなはち同研究所では所長京大理學部教授志田順博士年來の希望であ
 る地震の本質的研究についての特別實驗施設をなすため去る二十二日同研
 究所裏山の頂上松林の中に三間四方の土地を畫し深さ約七尺掘り下げたと
 ころの一角に縦約一尺七寸、巾八寸、厚さ一寸の石瓦を發掘したのでさら
 に掘り下げて行くと石槨に包まれ完全なる形を備へた恰度長持ちのやうな
 乾漆製の棺が發見されるにいたつた、そこで一旦作業を中止し志田博士か
 ら考古學の濱田耕作教授に相談した結果、二十六日濱田博士は東伏見伯、
 西田直二郎博士、醫學部中西博士らとゝもに同所にいたり仔細に調べて見
 ると中には身長五尺五寸の完全な寢姿の人骨のほか毛髪や齒なども殘つて
 をり顔面は織物の殘存物と思はれる金絲で蔽はれてゐるのが發見され奈良
 朝時代のものといふ大體の推定がなされるにいたつた、しかもかゝる乾漆
 製の棺が日本内地で發掘されたことは今回がはじめてゞ考古學上極めて重
 要な資料といはれてゐる」
 (昭和九年四月二九日(日曜日)の『大阪朝日新聞』十一面よりの抜粋)


  昭和九年四月二十二日、大阪府高槻市にある標高214メートルの阿武
 山に、京都大学阿武山地震観測所がある。その構内の山頂近くで七世紀で
 あろう古墳が見つかった。

  本論文は、阿武山古墳とその被葬者について言及するものだが、以下に
 記すところは、『蘇った古代の木乃伊(ミイラ)−藤原鎌足− 小学館刊』
 に依るところが少なくない。

  さて、この古墳には盛り土がなく、地下に墓室をつくっていることが、
 最大の特徴である。

  具体的に言えば、地表から3メートルほど堀りこんだところに、石で組
 んだ小さな部屋をつくり、その内側に漆喰を塗ってある。部屋の上に土を
 かぶせて、平たい瓦を葺き、直径5メートルほどの丸屋根ををつくって、
 さらに上から土をかぶせて、地表と同じ高さになるようにしてある。

  従って、一見すると古墳がどこにあるかわからない。ただ、昭和五十七
 年の国の史蹟に指定されたときの調査から、墓室を中心に直径80メート
 ル余りの丸い溝が、境界線のように掘られていることがわかり、空から見
 るとこの溝によって、古墳の存在がかろうじて判別がつく。

  このような特異な形の古墳は国内に類を見ない。ところが、七世紀に滅
 びた「百済」の首都扶余の陵山里古墳群のなかには、同類のものも見られ
 るという。

  このような古墳であるから、その発見は偶然であった。

  その当時できたばかりの京都大学地震観測所は、山頂に巨大なトンネル
 を掘り、そこに地震観測機器を置く計画を立てていた。それが、昭和九年
 四月のことである。

  作業は地元の人夫を雇って進められた。

  横穴を半分ばかり掘り、縦穴に移行し五十センチばかり掘ったたところ
 で、いきなり瓦の層にぶちあたった。このこと自体解せないことなのだが、
 さらに掘り進めていくと、今度は漆喰の層が見つかり、次に大石を組み合
 わせた室が出現した。

  この大石を取り除かねば、深く掘り進めることは出来ない。

  もともとが発掘調査を目的としていないのだから、そのやりかたもかな
 り荒っぽかったらしい。人夫を増員し鶴嘴で動かそうとしたところ、石と
 石との間に隙間が出来た。そのすきまから、人夫の一人が顔を突っ込んだ
 ところ、くすんだ黒っぽい箱が発見された。これが乾漆製の棺であったの
 である。

  その表面を拭ってみたところ、実際の棺の色は真っ赤であったという。

  ここで工事は中止になり、京都大学の考古学教室や大阪府庁など関係先
 に状況報告をした。

  その後、改めて大阪府庁役人の立ち会いのもとで、考古学教室の調査と
 なった。石室が空けられ、中の棺が取り出されたのだが、棺の蓋を開ける
 段になって、木の根が隙間に入り込み、なかなか開けることが出来ない。
  そこで、バールで無理矢理にこじ開けたところ、蓋はバキバキと音を立
 てて、真っ二つに割れてしまったという。

  棺の中から出現したものは、ミイラ化した白骨遺体であった。半分骨に
 なりながら肉片や毛髪、それに衣装も残るといった信じられない保存状態
 であった。一説によれば、男性器や陰毛までもが確認できたらしい。

  なかでも目を惹いたものは、ピカピカと光る金糸であった。

  後の調査で、この金糸は長さ100メートル以上にのぼることがわかっ
 た。
  他に副葬品といえば玉枕以外になく、通常の古墳に見られる、鏡・剣・
 玉のセットは発見されなかったことが、逆に珍しいくらいであった。

  ただしこの古墳は盗掘にはあっていない。

  また、これがもし戦後の発見であれば、高松塚古墳以上の発見であった
 ことは間違いない。

  このような状況を、「金糸を纏う貴人は男子?」という見出しで、当時
 の朝日新聞がすっぱ抜いた。これは他社を寄せ付けず、完全なスクープで
 あった。

  このスクープにより、一気に世間に知れ渡ることになってしまった阿武
 山古墳は、まもなく公開せざるを得なくなるのだが、これが一週間に二万
 人という、この村始まって以来の大騒動になった。

  こんな騒ぎをよそに、京都大学内部には大きな亀裂がひろがっていた。

  と言うのも、これら一連の動きが、京都大学地震観測所の一方的な主導
 のもと、行われていたからである。
  当時の京都大学は各部の独自性が強く、理学部内部では天皇とさえ呼ば
 れている地震観測所の博士に、考古学教室側が遠慮せざるを得なかったか
 ららしいのだ。

  考古学教室からは、初回の立会い以来一回も阿武山に訪れることが出来
 ず、その後も続いた地震観測所の一方的な発掘調査に、面目をつぶされた
 形となった。

  地震観測所の博士は、その道ではたいそう名が知られた人物であったが、
 考古学に関しては、まったく無縁であった。
  従って、その発掘には相当な無茶があったらしい。

  実際、遺体の腰のあたりから肉片を掴み出したり、玉枕の布を無造作に
 切ったり、またこのとき手鉤を突っ込んで、玉枕を無理矢理に引きずり出
 したため、その一部が破損した、という証言もあるほどである。
  白骨も乾燥して黒くなり、棺ゆがみもひどくなる一方であった。

  こうした状況を憂慮した大阪府は、博士の無謀に対し書面をもって厳重
 抗議をおこなった。
  
  考古学教室に地震観測所、そこに大阪府が加わり、三つ巴の感情的な対
 立の様相となった最中、一部新聞では阿武山古墳=藤原鎌足墓説を展開し、
 巷では天皇の御陵かもしれないとも、ささやかれ始めていた。

  そしてついには、内務省、宮内省官僚もが出席した、大阪府庁で開催の
 大協議会において、遺体はもとの石室に埋め戻すことが決まったのである。

  理由は、


  
「科学的な調査は、御料の可能性がある古墳とへの冒涜」


  であった。

  この協議会の後、憲兵隊が派遣され、山道を封鎖してしまったため、こ
 れまでの人だかりが嘘のように静まり、それ以上の発掘も憲兵隊に妨害さ
 れ、思うにまかせなくなった。

  調査は、貴人を冒涜しないための最小限の調査にとどめられ、八月十一
 日、古墳発掘から108日目に、遺体は再び埋め戻されることになったの
 である。

  このときの調査の結果は、後日改めて「報告書」としてまとめられるこ
 とになった。
 
  以下が、その「報告書」の孫引きである。



   
2.「攝津阿武山古墓調査報告書」抄録 一序説


  
『大阪市史蹟名勝天然記念物調査報告書』第七輯より抄録
                昭和一一年三月 大阪府刊
                   大阪府教育委員会蔵


  鐵道東海道本線の攝津富田・高槻間から北望する人は程遠からぬ翠高フ
 山丘上に白堊の高い建築を見出すであらう。それは、京都帝國大學の阿武
 山地震觀測所であって、ヘ受志田順氏の熱心な企劃に依って前年建設せら
 れ、其の特殊な研究設備を以て斯界に知られた所である。處が此の裏山か
 ら昭和九年四月下旬、同觀測所の一施設工事の際、はからずも一個の古墓
 が見出され、壮麗な其の石室内に埋藏の夾紵棺には遺骸が完存し、また金
 糸が纒つてゐた所から、廣く一般世人の注意と興味とを聚めることになつ
 た。
  右の遺跡の檢出並に當初の調査は、志田博士の手でなされたのであつた
 が、「金糸を纒へる貴人の墓」として世に傅稱せられるに至つて、保存顯
 彰の見地から、それの調査が當然本府史蹟調査會の事業とならざるを得な
 くなつた。尤も當初大規模の調査を計畫せられた發見者志田博士は中途か
 らかゝることは死人に對する敬意に缺けるとして、徹底的な學術調査を望
 まれない様に見え、それに關連して若干の問題も起こつたので、府では調
 査の着手に先立って、關係者の協議會を開いた。其の結果夾紵棺を再びも
 との室内に埋藏して永久に保存するの方針が定められ、此の埋藏に先立つ
 て學術上必要な最小限の調査を行ふことになつた。かくて諸般の準備を整
 へた上、八月九日から委員の手で調査を開始し、二日にして作業を終へ、
 十一日に所謂「貴人の遺骸」を棺と共にもとの奧城に歸葬したのであつた。
 今こゝに發見以来の所見を纒めて、再び見ることの出來なくなつた其の實
 際を切り区の上に傅へ、以て史料を學界に提供すると共に、他面史蹟顯彰
 の意をもそれに寓することにする。



  古墳の位置


  古墓の見出された阿武山は大阪府の北部なる三島郡の略ぼ中央にあつて、
 其の山稜は阿武山・石河二村の境界をしてゐる。山は東攝津と丹波とが境
 する邊にある標高六〇〇米の連山から南に延びた連嶺で北から發して南流
 する芥川と安威川とに狹まれて居り、其の末端の攝津平原に接する所に存
 在する。
  攝津富田驛から北に向ふと、水田の彼方に佐程高くない山が其の裾に洪
 積層の臺地を纒つて東西に並んでゐる。これが行者山・阿武山・鉢伏山等
 の連丘であつて、上述丹波の山地が南に下り、淀川の地溝に終らうとする
 末端に相當る。而して是等の連丘の東には一段高く見える釋迦岳、西には
 石堂ヶ岡がのぞいて居り、松樹繁つてなだらかな山容をなす。阿武山は中
 で地震觀測所の高い塔が著しい目標となつて居り、驛からの距離は約二粁
 で其の色濃い山影は、二つの山頂が前後に相重なり、丸味ある姿を明示し
 てゐる。
  さて此の阿武山の地質は、東に古期洪積層臺地、西に同じく洪積層臺地
 並に花崗岩の噴出地を有し、其の間に北から約一粁の幅を以て舌状に突出
 した古生層の山地に外ならぬ。山稜の方向は正しく南に向ふてゐて、約六
 〇〇米の隔りで大小二つの山頂があり、北が標高二八一米、南が二一四米
 突を測り、其の間が尾根に依つて結ばれてゐる。從つて西南麓の安威村附
 近から稍々斜に見上げると、右の二つのふくらみが相合して瓢形に近い外
 観を呈する。尤も北頂は古生層の山らしく幾分角立つてゐるが、南半は丘
 綾とも言ふ可き極めてなだらかな線をなして、饅頭型ににた趣が多い。本
 報告の對象とする古墓の位置は後者の頂部であつて、其の南側に築造した
 觀測所の背後に當るのである。
  いま更に稍々詳しく附近の形成を擧げるならば、山の東にある阿武野村
 の洪積層臺地が山腹に對して可なりの高度にまで纒つはり、從つて同部を
 幾分不規則にしてゐるし、この臺地は複雑なる起伏を以て東に延びて芥川
 の沖積地に及んでゐる。地震觀測所への道路は右の臺地上の奈佐原から切
 開かれて通じてある。東側と違つて西側は傾斜が稍々急で、直ちに荒れ川
 觀ある安威川の岸に下つて居るから、こ々では山體の境界が明瞭である。
 山の北は尾根が續き地獄谷峠附近に及んでいるが、南は直ちに平野に臨み、
 脚下に新期洪積層臺地が發達してゐる。かくて阿武山を續つて是等の間に
 は東奈佐原から南に塚原・安威・西に桑原・奧垣内・大門寺などの聚落が
 見出されるのである。右の地勢からして山そのものは佐程高くないが、眺
 望がよくて、攝河の平野を中にし、正面に生駒山・右には笠置山脈が遠く
 姿を見せ、左にはおぼろげながら六甲山すら認めることが出来る。なほ別
 にこれを繞る山麓地帯が東攝に於ける主要な古墳の分布地帯として、東方
 芥川の今城塚から、岡本・土室・塚原・阿威・h芬專凾ノ亘る地域に於け
 る顯著なる遺跡の存在は、前面直下にある繼體低陵と併せて、本山丘を中
 核として營造せられたかの外觀を呈するのであつて、此の形勝の域に於け
 る遺跡の發見の偶然でないことを思はしめるものがある。

 

  遺跡の發見と調査の經過


  阿武山は前記のような勝域に屬し、其の南丘の山容は古墳にふさはしい
 饅頭型をしてゐるのではあるが、傾斜が稍なだらかに過ぎ、且つ大きいと
 ころから、從来未だ其處に遺跡のあることを注意する者はなかつた。從つ
 て此の發見は全く地震觀測所の建設から導かれた偶然の事情に基くものに
 外ならぬ。
 同所の建設成つてから、志田博士は更に地震觀測の本質的な研究施設と
 して、背後の地下即ち此の山丘の深所に、年中温度不變の實験室を作る可
 く、既にお行なはれてゐた側面からする坑道の掘鑿と並んで、丘頂からも
 直下壙を穿つて、其の豫定地たる表面下敷十尺に達する工事に着手した。
 それは、昭和九年四月二十二日の事であった。然るにたまたま丘上に撰定
 した約三間四方の區劃を掘り下げると、北半は直ちに岩盤に達したが、南
 邊の部分は一度掘り返された形迹があつて、掘ること三、四尺で甎敷きの
 一部を見出すに至つた。萬事に周密な志田博士は、この事實から同部の下
 方に特殊な埋藏のあることを推察し、人夫に注意を與へて徐々に掘り續け
 しめた所、石積みの一部が出て來たのである。博士は架構より見て其の古
 墳の石室なるを察し、開口に先立つて之を考古學教室の濱田教授に報じて
 立會を求められた。これが二十四日であつた。翌夕教室から出掛けた末永
 雅雄君の齎し歸つた報告では、石室の架構に漆喰を用い、なほ内に夾紵棺
 と覺しいものがあると云ふ興味の多いものであつたので、二十六日朝余は
 濱田教授に從随し、國史教室の西田教授、東伏見伯爵等と共に現場に出掛
 けて、志田博士の手で行はれる内部の調査を見學した。而して此の日の調
 査に於いて珍しい遺跡の全貌が始めて明確になつたのである。
  殆ど間隙などなく整然と築成せられてゐる壁石の一部が、博士の指揮の
 下に取り除かれて内部を見得ることになつた際、南北に細長い白堊の面を
 した室の下底に大きな棺臺が作られてゐて、上に置かれた夾紵棺が一方に
 偏し乍らほゝ゛完成を保つと云ふ。通有な石室の場合と頗る状景が認めら
 れて、参觀者に異常な緊張味を加へしめるものがあつた。こゝで右の特殊
 な構造にふさはしい副葬品の遺存が考えられ、墓誌の存在なども豫想せら
 れて、それに更に多くの希望を懸けることになつた。併し其の日の午後僅
 かに身體を入れ得る室内に二、三の人が這入り込んで、棺の蓋を外部に搬
 出してから、懐中電灯の光で内部を窺ふた瞬間、目に着いたのは空隙から
 入り込んだ木草根の間に横つてゐる遺骸でであつた。それは南枕に伸展葬
 せられて居り、若干の布帛がなほ遺存して埋葬當時の状をとゞめ、一種森
 嚴の氣に打たれたのであつたが、さて副葬品としては殆ど見るべきものが
 なく、僅かに頭部に近接した所に枕かとも思はれる隆起物と、頭蓋からこ
 の部分に亘つて金糸が依存してゐるに過ぎないで當初の期待を裏切つた。
 それは兎も角として既に石室の一部が開かれた爲に、此の儘に棺を室内に
 置くことは保存上の上から困難となつたので、一先づ棺を觀測所地下の一
 室に搬び入れ、正規の手續きを了した上で、第二段の調査に着手すること
 にして、吾々は珍らしい石室の構造を檢し、略測を行ふて夕刻引き上げた
 のであつた。
  此の後志田博士は棺内の於ける人骨の遺存状態と金糸等に異常の興味を
 覺えられたと見えて、それに先立つ所の急速な調査を排せられる事になつ
 た。處が發見が新聞紙上に報ぜられ、藤原鎌足の墓とする想像説が生じ、
 それが金糸を纒ふた貴人の棺と結びついて、世人の興味を惹いた。かくて
 學者の見學の外に遺跡を訪ふもの踵を接し、爾後月餘の間に二萬を超ゆる
 と云ふ盛況を呈し、徹底的な調査が延び延びになる傾向を示した。
  尤も此の間にあつて、早く博士の手で石室の南方部が穿鑿されて、同部
 の状態から一見矩形に見えた石室が南方につゞき、底部に礫石を敷く所、
 同時に水抜きの川をも兼ねたと考へられる構造や、石室を中心に饅頭型の
 頂部の周圍に境界を劃した化粧のあること等の重要な事項も確かめられた。
 なほ棺内の状態に就いても、残存の布帛其他に對する顯微鏡に依る調査、
 頭部の枕状隆起物が絹布から成つて、中核に玻璃玉の存する新事實なども
 段々と分明して來たのであつた。
  博士は是等の調査と共に棺の保存などに就いて細心な考慮を拂はれた模
 様であるが、而も時の經過に伴い刻々と變化していく遺骸に對する臨機の
 處置が望ましく、現状の儘に放置して、恰も人々の觀覧にまかせるが如き
 感を與へた。この風教上考慮すべき點がたまたま現地を視察した縣府知事
 の注意する所となり、爲に六月の後半に入つて主務省と打合せの上、府の
 調査會に於いて適當な處置を講ずる事になつた。而も前後の經過に省みて
 愼重を期し、それに先だつて同月二十日府廳で關係の協議會を開いたこと
 既に記した如くである。この會には府の招請に應じて、志田博士をはじめ、
 文部省の荻野仲三郎氏、宮内省諸陵寮の山口隆一氏等参集せられた。それ
 に府の委員と、當時志田博士と共同調査の爲來合されてゐた帝室博物館の
 後藤・石田兩氏も列席、協議に入つた。其の際志田博士から改めて「餘り
 に科學的な調査は貴人に對する冒涜である」との新提議があり、且つ棺の
 再埋葬の希望が出たので、委員の手に依る調査は最小限度にとゞめ、其の
 終了を持つて可及的速に再び棺を石室に埋藏、史蹟として保存することに
 議が決した。
  依つて府では右に關する準備を進めて八月九日、十日の調査となつたの
 であるが、それに先立ち、別に志田博士の手で關戸信吉氏のレントゲン寫
 眞の撮影の事などのあつたのを記す可きである。而して本調査には志田博
 士が病氣の爲に遂に立會はれなかつたが、佐々助教授代つて發見者側とし
て局に當られ、府の理事者並に委員の外に、清野博士・三宅學士が特に参
 加して遺骸の人類學的觀察に從事せられ、委員の遺跡の實測等と相俟つて、
 故障なく事がはこんだ其の調査を終へて十一日に棺を再び埋藏するに當つ
 ては濱田・清野兩博の注意に基いて、白木の外棺を新たに作製、それに納
 めて保存するに資する所あり、また當初の調査に基いて、石室の閉塞はつ
 とめて舊形に依つた。かくて發見後百餘日にして、遺骸は再び永久の眠に
 就いたのであつた。なほ此の際初に森川阿爲神社々掌の修祓があり、埋葬
 後大島徹水師に讀經を講ふて慰靈の式を行ふたことを附記すべきである。
  以上概記した様に、本遺跡は右の如き經過からして、これを純然たる學
 術的の見地からすると、稀有の好資料に對する十二分の調査を加へ得なか
 つた憾がないではない。併し其の性質の一斑を推す所の資料は、前後を通
 じてこれを集めて略ぼ缺くる所がないから、以下項を分つてそれを録する
 であらう。



   
3.エピローグ


  ご覧戴いたように「報告書」では、「鎌足」の墓であろうと結論づけて
 はいるものの、その内容と言えば非常に欲求不満が残るものでしかない。
  実際、執筆者自身が本文の中で何度も嘆いているくらい、不完全なもの
 である。

  その後古墳は秘密裏に埋葬し直されたためか、古墳の存在は忘れ去られ
 ていた始末であった。
  昭和五十七年、ある学校法人がグランド造成のため、古墳の一部をばっ
 さり削り取ってしまっていたのである。

  古墳には墳丘もなく、どこが古墳なのだかわからないにしても、グラン
 ドの造成には行政の許可が必要なはずである。行政担当書も古墳の存在を
 知らなかったのであろう、なんと正式な許可が出されていたのである。

  事態を重く見た文化庁は、異例の早さで国の史蹟に指定した。といって
 も、もっと早く発見当初から史跡に指定されていれば、このような破壊は
 行われなかったのだが、何はともあれ、工事は中止させられた

  こんなことがあって、阿武山古墳は再び世間の注目を浴びることになっ
 たのだが、同年、地震観測所からとんでもないものが見つかった。

  調査当時の古墳発掘状況を撮影した、34枚のX線写真だったのである。

  さらに写真原板、いわゆるガラス乾板も多数見つかった。

  太平洋戦争を挟んでなお、発見されたということ自体驚きだったのであ
 るが、昭和九年当時としては、超高級機であろうX線撮影機材を使って、
 不敬罪に問われるかも知れない中での撮影の様子は、簡単に想像できるも
 のではない。

  しかし、せっかくの大発見であった原板も、そのままでは使い物になら
 なかった。とりあえず、京大考古学教室がひきとることになったものの、
 根気と熟練を必要とした、気の遠くなるような復元作業が行われ続けた。

  復元され世に発表されるまで、五年半の歳月を必要としたのである。

  修復を受けた写真を大別すると、


  
(1)古墳の発掘状況        2枚
  (2)乾漆棺            6枚
  (3)遺体の様子          7枚
  (4)遺体とガラス枕のX線写真  19枚


  となる。

  これら写真撮影技術は、たいしたものであるらしく、とても半世紀以上
 前に撮影したものとは考えられないほどのできばえであり、また遺体の実
 体写真から見た第一印象は、七世紀の遺体であるとしたら、信じられない
 くらい良い保存状態であるらしかった。
  骨の組織や軟骨部まで見分けることができたということである。

  他に、京大考古学教室が、独自に保管していた別の14枚の写真も、新
 たに加わり、画像の読影から、昭和九年の発掘当時では、つまびらかにで
 きなかった事実が、次々と明らかになってきた。

  以下は、オリジナルフィルムを見た、東海大学医学部の各診療部門の所
 見である。


  
1.複合の骨折損傷が認められる。腰椎および胸椎、また、左上腕骨の
    大結節部の骨折あるいは脱臼骨折がみられる。脊椎の下方で脊髄損
    傷を起こしている。

  2,以上の結果、事故による(例えば落馬など)骨折によって即死でな
    く(これは肋骨や脊椎の一部に修復のあとがみられる)、下半身麻
    痺を起こし足の運動障害、知覚麻痺、排便、排尿障害などがあり、
    二次的な合併症、例えば肺炎、床ずれ、尿路感染症などで悪化した
    と推定される。

  3.肘の変形がみられる。これは乗馬、弓などの使用によるものではな
    いかと考える。歯については咬耗が強いので、現代人ならば五〇〜
    六〇歳ともてもよい。X線画像からは歯槽骨の吸収はある。頭骸骨
    の縫合の一部が石灰化している五〇歳代としても矛盾はない。

  4.脊椎の変形が少なく、整形の立場から見ると年齢は若く見える。死
    因については内臓が残っていないので不明だが、脊椎の損傷から見
    れば、これが原因とも考えられる。


  要するに、事件か事故かはともかく、高所からの墜落によって脊椎・腰
 椎の損傷により、下半身不随になり、寝たきりのまま二次的な感染症がも
 とで、死亡したと考えられる。
  骨の修復痕があるというのだから、数ヶ月に渡り生きていたことになろ
 うが、麻酔のない時代の激痛・苦痛は想像を絶するものであったろう。

  時は移り昭和六十二年11月3日、文化の日である。この日の朝日新聞
 朝刊の一面トップの見出しは、


  
「藤原鎌足の墓だった」


  というもので、玉枕などのカラー写真入りであった。

  「鎌足」と断定された重大な理由は金糸である。

  金糸、むしろ金モールと言ったほうが理解しやすいかも知れないが、実
 は、阿武山古墳発掘当時、金モールが見つかっていた古墳は、国内で三例
 を掲げるに過ぎず、それも数センチ単位だったのである。

  ところが、阿武山古墳の金モールは、写真鑑定ながら100メートル以
 上であったのである。
  金モールは、遺体の限られた範囲で分布していて、肩口を底辺にして、
 頭頂に向かって三角形の形をしていた。
  そのうち肩口の金モールは、幅4センチ、一周およそ60センチのリン
 グ状であることも確認できた。

  金モールは刺繍であることは明白であった。

  X線写真の解析から、金モールは頭頂部で折曲がっており、金モールを
 刺繍した布地こそ腐ってはいるが、芯となる樹皮部が残っており、肩口を
 開口部とした袋状の織物であることが解明できたのである。ちょうど、昆
 虫採集用の網の形状を想像すると良いだろう。

  これは帽子、頭巾、冠のたぐいではないのだろうか。

  この冠帽は、織冠と断定された。

  というのも、もう一つの副葬品である玉枕が、過去の出土実績をみれば
 飛鳥時代の枕は、出土例は少ないものの、いずれも天皇陵級の古墳からし
 か出土してないことから、阿武山古墳の被葬者は、玉枕を使うことのでき
 た第一級の人物と考えたほうが自然だからである。

  これに似た玉枕は、『阿不幾乃山稜記』に書かれている。

  この『山稜記』は鎌倉時代にあたる1235年(文暦二年)に野口王墓
 古墳を開掘(盗掘)した際の実見記をもとにしたもので、その墳丘・墓室・
 副葬品の様子について実に簡潔に書き留めたものであるが、それによれば、


  
「御枕、金銀珠玉を以てこれを餝る、唐物に似たり、言語に及び難きに
 依りて、これを注さず、仮分其の形、鼓の如し」


  とあって、金銀の玉枕は鼓の形をしていたことがわかる。

  ちなみにこの山稜は天武・持統天皇合葬陵であり、玉枕は天武天皇につ
 いての記述である。

  阿武山古墳被葬者の夾紵棺や玉枕は、いずれも超一級の作品で、これら
 から鑑みても、この冠帽が大化三年の七種十三階の冠位の制に基づくもの
 とすれば、最高冠位の織冠か、それに次ぐ繍冠としか考えられない。

  ところが繍冠の記録は歴史上一つもないことからすると、織冠にあたる
 ことになるのだが、織冠を授けられた人物は、「余豊璋」と「藤原鎌足」
 のわずか二人だけである。
  「余豊璋」は白村江の敗戦の後「高句麗」へ逃れているから、阿武山古
 墳の被葬者は「藤原鎌足」であり、金モールは大織冠であったことになる。

  このような理由で断定されたのであった。

  しかしながら、阿武山古墳を「鎌足」の墓だとすると、よく言われてい
 る多武峰の墓はどうなるのか。

  多武峰にある談山神社は、大織冠「鎌足」の廟所であるとの認識がある。
 
  文献で言えば、


  
『日本三大実録』(一般に『三代実録』と称している)
  『類聚符宣抄』
  『扶桑略記』


  などが、そのように伝えている。

  特に『三代実録』は六国史最後の史書であり、まぎれもなく国の正史な
 のである。
  しかも、天安二年(858)八月から始まるそ史書は、完成の時期も、
 延喜元年(901)と「鎌足」の死から二百年あまりしか経っておらず、
 いい加減な記述がされているとは思えない。

  ところが、『延喜式』諸陵寮の条の「多武岑墓」は、


  
「贈太政大臣正一位淡海公藤原朝臣、在大和国十市郡、兆域東西十二町、
 南北十二町、無守戸」


  としている。

  「淡海公」(たんかいこう)とは「不比等」のことであり、多部峰の墓
 の主は「鎌足」ではなく「不比等」であることになる。

  『多部峰略記』・『多部峰縁起』では、「鎌足」の遺骸は多武峰に移葬
 されたということになっており、しかも当初埋葬された場所は、阿武山で
 はなく阿威山であるという。
  ただ、阿武山も阿威山も「摂津国」にあり、これを同じ山であるとする
 説もある。

  「阿武山古墳」は金モールを、太織冠の遺存とする限り、「鎌足」の墓
 に断定されてしまう。実際「摂津国阿威」には「大織冠神社」があり、か
 つては、この神社は「鎌足公の古廟」と言われていた。
  もっとも、古墳築造の年代から疑問を持たれていたのだが。
  それでも、この地方が「鎌足」と縁が深いことだけは判明しよう。

  ここは『延喜式』に軍配を上げなければならない。

  ではなぜ多武峰が「鎌足」の墓と言われるようになったのだろうか。

  これには、阿威山から多武峰に移葬したという諸伝を、捏造したのは誰
 であったか探し当てればよい。

  それは、おそらく「藤原氏」であろう。

  「鎌足」は死に際して、


  「・・・ただ一つ私の葬儀は簡素にして頂きたい。生きては軍国のため
 にお役に立てず、死にあたってどうしてご厄介をかけることができましょ
 うか」


  と答えたと言うが、なるほど確かに墓とさえわからないほどの墳墓であ
 る。しかしこれは『日本書紀』によるあとづけだろう。

  この古墳の特徴は、その形状もさることながら、その副葬品にある。大
 家級の墳墓には必ずと言って良いほど副葬されている、鏡と剣がみられな
 いことである。
  しかも古墳の形状は、どうやら百済式であるらしい。

  なぜ百済式なのか。

  「鎌足」が百済王家の末裔だからであろうか。

  「阿武山古墳」は、地震観測所のトンネル工事がなければ発見されるこ
 とはなかった。いわば偶然の産物である。
  逆に言えば、それ以前は古墳であることすらわからなかったわけである。

  あるいは百済式が選ばれた理由は、そのほうが都合が良かった。つまり、
 墳墓の存在を明らかにしたくなかったからであろうか。
  
  おそらく、その両方の理由からであろう。
 
  「鎌足」の墓所が多武峰であるという説は、平安時代には成立していた
 というが、それは阿威からの移葬であり、阿武山ではない。

  阿武山が「鎌足」の墳墓と判明した今、阿威山は阿武山の誤記とも言え
 なくもないが、阿威山であるか阿武山であるかさえ、わからなくなってい
 たのではないだろうか。
  その墳墓の形状と、発見された状況からみた場合、厳格でありながらも、
 秘密裏に埋葬されたような気がする。
      ・・
  私はある理由から、現在の天智天皇比定陵は、「鎌足天智」の御陵であ
 ると考えている。
  別章にて言及することになろうが、そこには誰も埋葬されていない。

  真実の「鎌足」を闇に葬りながら、偶像としての「鎌足天智」を祀り上
 げる。そんなことから想像する「鎌足」は、希代の英雄でありながら、案
 外、天皇家・朝廷からみれば、煩わしい存在であったのではないか。
  後々の藤原氏の嫌われかたからすれば、「鎌足」とて例外ではなかった
 のかも知れない。

  「藤原氏」の権力構造が絶対となったとき、真祖「鎌足」を闇の座から
 高座に帰するためには、阿威山という埋葬先すらもはっきりしない場所か
 ら、移葬したという虚言が必要であったのであろう。

  多武峰移葬説は、『籐氏家伝』の著者「藤原仲麻呂」であろう、と想像
 する。

  そこには「藤原氏」の強烈な意地を感じるのである。

 昭和9年の大発見の後、これまた秘密裏に埋め戻されてしまい、それか
 ら半世紀の後、写真の発見がなかったら、完全に忘れ去られてしまってい
 ただろうことには、繰り返される歴史の皮肉を感じてしまう。

  最後に、『三代実録』にある

               ・・
 
 「贈太政大臣正一位藤原朝臣鎌足、多武峯墓、大和国十市郡に在り」


  の「鎌足」の二字は後人の改竄・挿入であるとするのが、「本居宣長」
 の『古事記伝』・「飯田武郷」の『日本書紀通釈』である。


                          2003年5月 了