真説日本古代史 特別編の五


   
藤原鎌足を考える




   
1.「中臣氏」と鹿島神宮




  「藤原氏」は、日本歴史上最高の名門名家でありながら、その出自は謎
 につつまれたままであり、「藤原氏」の元祖ともいえる「鎌足」に至って
 は、経歴すらはっきりわかっていない。

  「藤原」の姓は、天智天皇八年(669)十月十五日に、大織冠と大臣
 の位を授けられたと同時に「鎌足」に賜っている。それ以前は、「中臣」
 姓を名乗っていたことになっている。

  「中臣氏」との関連が深いとされているのが、「常陸国」鹿島社であり、
 現在の鹿島神宮である。

  鹿島神宮の由来は、『常陸国風土記』が詳しい。香島郡の条には、


  「古老のいへらく、難波の長柄の豊前の宮の大朝に馭宇しめしし天皇の
 世、己酉の年、大乙上中臣■子、大乙下中臣部兎子等、惣領高向の大夫に
 請ひて、下総の國、海上の國造の部内、軽野より南の一里と、那賀の國造
 の部内、寒田より北の五里とを割きて、別きて神の郡を置きき。其處に有
 ませる天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社、三處を合せて、惣べて香島の
 天の大神と稱ふ。因りて郡に名づく。」


  とあり、天の大神を主神とし、在来からの坂戸・沼尾の地主神を合わせ
 て鹿島神宮が構成されたことがわかる。

  ただし、「中臣■子」の■は脱字とするが、近世唯一の校訂板本である
 天保十年に刊行された、「西野宣明」の『訂正常陸国風土記』によれば、
 「鎌」を補ったとするのは不可とされている。従って「中臣鎌子」ではあ
 りえないことになる。『常陸国風土記』は主祭神の名を記していないが、
 現在はタケミカズチを祀っているし、神護景雲二年、平城京の鎮護の神と
 して「藤原氏」が、鹿島神宮からタケミカズチを勧請し、春日大社を創建
 したと言われているので、それで良いと思う。

  いずれにしても「中臣氏」に縁が深いことは、疑いのないようである。

  さらに言えば、『垂仁紀』二十五年春二月八日には 、


 
 「中臣連の先祖大鹿島」


  としているので、「中臣氏」と鹿島神宮との関係の歴史は、かなり古く
 からであったのだろう。



   
2.「中臣氏」は「藤原氏」の姐ではない


  さて、下記は現在に伝わっている「鎌足」までの「藤原氏」の系図であ
 る。


  天津児屋根尊─天押雲命─天多称伎命─宇佐津臣命─御食津臣命─伊賀
 津臣命─伊賀津臣命─梨迹臣命─神聞勝命─久志宇賀主命─國摩大鹿島命
 ─臣陝山命─跨耳命─大小橋命─阿麻比舎卿─真人大連─鎌太夫─黒田大
 連─常磐大連─可多能祐大連─御食子卿─鎌足


  「天児屋尊」(「天津児屋根尊」と同じ、以下アメノコヤネ)は、アマ
 テラスの「岩戸隠れ」の際に登場しているので、アマテラスとは同世代と
 言えるだろう。
  ところで、アメノコヤネから「鎌足」まで二十二代であるが、「鎌足」
 と同時代である皇極天皇は、神武天皇から数えて三十五代である。
  『日本書紀』によれば、神武以前に神代五代あるわけだから、併せれば
 四十代となるわけだ。

  まあ、このような単純計算での比較は無意味かもしれない。また『日本
 書紀』による天皇代位も多分に造作があるであろう。しかし、この差は無
 視しがたいものがある。

  「藤原」姓は、「鎌足」に賜ったものであったが、旧来の「中臣氏」も
 「藤原」姓を踏襲しており、神官など神事に関係した場合を除き、「中臣
 氏」は「藤原」を名乗ったのである。

  ところが、文武二年(698)八月に出されたのは次の詔である。


  「藤原朝臣賜はりし姓は、その子不比等をして承けしむべし。但し意美
 麻呂らは、神事に供れるに縁りて、旧の姓に復すべし。」


  この詔は、「鎌足」に授けた「藤原」姓は、子孫の「不比等」のみが継
 承し、「意美麻呂」(おみまろ、鎌足のいとこで中臣国足の子)らは旧姓
 に復することを、指示したものである。つまり「不比等」の直系以外には、
 「藤原」姓の使用を制限したのである。

  現代では単なる名字にすぎない「藤原」であるので、「不比等」が「藤
 原」にこだわること自体、理解しにくいことかもしれないが、この姓を天
 皇が賜った理由を考えていただきたい。「藤原」には重要な意味が込めら
 れているのである。

  「藤原」とは「百ホ・済ゼ・倭ワ・国ラ」の当て字であった。

  滅亡後の「百済」と「倭国」が日本列島で合体し、「日本」という国を
 成立させたことはおわかりになられるだろう。
  「百済」+「倭国」=「日本」ならば、「藤原」は「日本」を意味する
 文字そのものではないか。

  そうであるならば「日本」国の成立は、「鎌足」が心血をそそいだ政治
 活動の結果であったことが伺い知れる。

  「藤原」を名乗ること、それは国号を姓に持つことに等しい。すなわち、
 姓がないと言われている天皇家を除けば、最高の地位と名誉を表すること
 である。

  蛇足ながら、天智天皇の皇太子時代は「中大兄皇子」と呼ばれていたこ
 とになっているが、彼は二人の人物の事績を一人で表記したものと考えて
 いる。

   それは「余豊璋」と「葛城皇子」である。

  では天智はどうであるかというと、それは「葛城皇子」であろう。

  百済王子・「余豊璋」が、「百済」を「ほぜ」と読んだとは考えにくい。
 「百済」を「ほぜ」と読むものは、漢字の倭訓を知っている者であろう。
 百済王子の「余豊璋」であれば、別の読み方をするはずであろうし、おそ
 らく国号も「百済」としたはずである。

  「鎌足」の息子は二人いたことになっている。学問僧・「定恵」と「不
 比等」である。
  しかし、通説による「定恵」は天智四年(665)「唐」から帰国後、
 まもなく亡くなっており、私見にしたところで、文武二年の時点では亡く
 なっている。この時点では「不比等」一人となっていた。
  従って、文武二年八月に出された詔の該当者は、「不比等」ただ一人だ
 けであったことになる。(不比等の娘・宮子は文武天皇の皇后となってい
 る。)

  「藤原」姓の使用制限は、「不比等」と他の「中臣氏」を差別化するこ
 とであり、またこの詔は、「不比等」の意志の反映であることは言うまで
 もない。そして「藤原」の意味を知っている今、「不比等」の要求はむし
 ろ当然であるように思える。

  倭国在地の「中臣氏」の職業は「中ツ臣」であり、神の託宣を天皇に伝
 えることであった。
  ところが、「鎌足」に至っては、どうもこれに当てはまらないように思
 える。「鎌足」は「乙巳の変」(大化改新)の直前に、彗星の如く歴史に
 登場し、最高冠位・大織と大臣の位を授けられ亡くなっているが、私見に
 よる「鎌足」は百済王家の出自である。
  仮に「鎌足」が在来の「中臣氏」であったとしたら、「百済」と「倭国」
 のために尽力する必要がどこにあるのだろうか。ましてやその功績により
 「百ホ・済ゼ・倭ワ・国ラ」姓を授かったとされているほどなのである。

  「乙巳の変」を初めとする一連の「鎌足」の行動は、百済出身であった
 からとする以外に、納得する説明ができない。
  「鎌足」の名乗った「中臣」とは、「百済」と「倭国」との仲介者とし
 ての「中ツ臣」であり、神官職の「中臣」ではなかったのである。



   
3. 鎌足」の来訪はいつだったか


  「鎌足」(当時は「鎌子」)が『日本書紀』に登場するのは、皇極三年
 春一月一日の次の条が最初である。(このことを『家伝』では舒明元年と
 する)


  
「中臣鎌子連を神祗伯に任ぜられたが、再三辞退してお受けしなかった。
 病と称して退去し、摂津三島に住んだ。このころ軽皇子も脚の病で参朝さ
 なかった。中臣鎌足は以前から軽皇子と親しかった。・・・後略・・・」


  神祗伯を辞退したとは、「中臣」を名乗ることになった「鎌足」に対し
 て、用意された長官職であろうが、従来の「中臣」職にはつかないことの
 表明だと思う。
  「鎌足」の出自については前述しているので、この記録が「鎌足」の初
 見であることにとどめるが、このとき突然海を渡ってやってきたわけでは
 ない。
  
  次の皇極元年二月二日の記録が、どうもそれではないかと思われる。


  「二月二日、阿曇山背連比羅夫・草壁吉士磐金・倭漢書直県を、百済の
 弔使のもとに遣わして、その国の様子を尋ねさせた。弔使は、『百済国王
 は私に『寒上はいつも悪いことをしている。帰国する使いにつけて、帰ら
 せて頂きたいのですがと申し上げても天皇は許されまい』といいました』
 とのべた。
  百済の弔使の従者たちは、『去年十一月、大佐平智積が死にました。ま
 た百済の使人昆倫の使いを海中に投げ入れました。今年一月、国王の母が
 亡くなりました。また弟王子に当る子の翹岐や同母妹の女子四人、内佐平
 岐味、それに高名の人々四十人あまりが島流しになりました』といった。


  この百済王とは「義慈王」(ぎじおう)である。ちなみに「義慈王」の
 子が「余豊璋」だ。
  島流しになったという「翹岐」(ぎょうぎ)は、「余豊璋」の弟に当た
 ることになろうか。
  この「翹岐」こそ「鎌足」であるか、島流しにあった高名な人四十人余
 りの一人に、「鎌足」がいたのではないかと思うが、「翹岐」=「鎌足」
 説を正論としたい。『日本書紀』から「翹岐」の名が見えなくなると同時
 に、「鎌足」が初見しているのである。

  ただし、これが皇極元年のことかというと、どうやら違うらしい。と言
 うのは、去年の十一月に死んだという「大佐平智積」(たいさへいちしゃ
 く)が、その後「百済」の使者として来訪しているのである。
  思うに、皇極元年と二年の記録は明らかな作為の跡がみられる。それら
 を箇条書きにすると、次の通りになる。


  
舒明十三年十一月  
      大佐平智積死ぬ。
  皇極元年 一月   
      百済国王の母死ぬ。弟王子翹岐ら島流しになる。
       二月二十四日
      翹岐を呼んで阿曇山背連の家に住まわせる。
       四月八日
      翹岐が従者をつれて帝(天皇)に拝謁した。
       四月十日
      蘇我蝦夷は畝傍の家に翹岐らを呼んで、親しく対談した。
       五月五日
      翹岐らを呼んで騎射を見物させた。
       五月二十一日
      翹岐の従者の一人が死んだ。
       五月二十二日
      翹岐の子どもが死んだ。
       五月二十四日
      翹岐は妻子をつれて、百済の大井の家に移った。
       七月二十二日
      大佐平智積らに朝廷で饗応された。翹岐の前で相撲をとらせた。
      智積らは宴会が終わって退出し、翹岐の家に行き門前で拝礼し
      た。
  皇極二年 二月二十一日
      百済国王の子翹岐弟王子が調使と共に、筑紫に到着する。


  舒明十三年に死んだ「大佐平智積」が、皇極元年七月の朝廷の饗応に参
 加できるはずがないので、これらを整合的に解釈しようとすれば、皇極二
 年の「翹岐」到着の記録を、皇極元年一月の島流しの後に入れ、「翹岐」
 一連の記録を皇極二年と変更した上で、「大佐平智積」の死を皇極元年十
 一月にすれば、何の矛盾もなくなるのである。

  従って、「翹岐」らは皇極二年二月二十二日にやって来て、同年七月二
 十二日、百済の大井の家に移ったことになる。
  そしてその五ヶ月後の皇極三年一月一日、「中臣鎌子」として「藤原氏」
 の歴史の最初を記したのだろう。

  おそらく「中臣」姓もそのときに、賜ったのではないだろうか。あるい
 は自ら選んだのかも知れない。(後者と考えている)「中臣」姓と同時に
 神祗伯に任ぜられたと思うのだが、「鎌足」は弟王子という立場もあり、
 一長官に修まって満足するような人物ではなく、何よりも野望があったの
 かもしれない。



   
4.「鎌足」の来訪理由とは


  「鎌足」が来訪した理由は、別に難しいことではない。なぜなら、『日
 本書紀』も証言しているからである。

  前に紹介した通り、


  「去年十一月、大佐平智積が死にました。また百済の使人昆倫の使いを
 海中に投げ入れました。今年一月、国王の母が亡くなりました。また弟王
 子に当る子の翹岐や同母妹の女子四人、内佐平岐味、それに高名の人々四
 十人あまりが島流しになりました」


  が理由である。

  また同じ年、「百済」が大乱であったことを証言する記録もある。
  皇極元年1月29日の、「阿曇連比羅夫」の言葉がそれである。


  
「百済国は天皇が崩御されたことを聞き、弔使を遣わしてきました。私
 は弔使に従って筑紫まで来ましたが、葬礼に間に合うようにと、先立って
 ひとり参りました。しかもあの国はいま大乱になっています」


  ここに記された天皇の崩御とは舒明天皇のことであるが、検証の通り年
 代には作為がみられてあてにはならない。しかし、これらの記録から推察
 できることはある。

  島流しになったとは罪人であったことになる。大乱になってるとは、政
 変であることを意味しよう。そしてそれは、国王の母が亡くなったことが
 関係しているらしい。
  そして「義慈王」の即位が641年であったことである。なんと「阿曇
 連比羅夫」が大乱を告げた皇極元年とは642年、「義慈王」即位の翌年
 なのである。

  ヒントと言うには遠いかも知れないが、斉明四年に「雀魚」(すずみお)
 と呼ばれる摩訶不思議な魚が、「出雲」にあがった報告がされている。
  そのことを「−ある本によると」ということわりをいれて、次のように
 説明している。


  
「大唐と新羅が力を合わせて、わが国(「百済」)を攻めました。そし
 て、義慈王・王后・太子を捕虜としてつれ去りました。このため国では戦
 士を西北の境に配置し、城柵を繕い、山川を断ちふさぎました。これはそ
 のことの前兆です」


  「雀魚」が「百済」滅亡の前兆とは首を傾げたくなるが、問題にしたい
 のは内容ではない。
  ここには太子が引用されている。「百済」は「義慈王」で滅ぼされてい
 るので、次期王については『日本書紀』から読むことができないが、太子
 が王位継承者であることは確実である。それは百済王子の「余豊璋」でも、
 「翹岐」でもない。ちなみに彼の名は「隆」(りゅう)であるという。

  ところが、『三国史記』の 『百済本紀第六・義慈王』では、最初は太
 子を「隆」としながらも、義慈王二十年の記述では太子の名は「考」とし
 ており、「隆」は王子であるという。

  これはいったいどうしたものであろうか。

  推察するに「阿曇連比羅夫」が報告した大乱とは、次期王位継承者問題
 が原因となっていたのであろう。
  もちろん、この時代の朝鮮三国は戦乱の世であったので、そうでなくと
 も大乱であったことには違いないのだが、そこには「義慈王」を中心に王
 后と、王の母との対立を感じずにはおれない。というのは、王の母がこれ
 に絡んでいると考えられるので、王位継承権問題がクローズアップされる
 ように思えてしまう。

  あるいは王の母の死後(殺された?)、島流しにされたという「翹岐」
 こそ、立太子してしかるべき人物だったのかもしれない。

  「鎌足」は『日本書紀』によれば、天智八年(669)に亡くなってい
 る。享年50歳と記すが、56歳という異伝も載せている。『家伝』によ
 れば推古二十二年(614)の生誕らしい。とすれば56歳薨年が正しそ
 うだ。

  「翹岐」=「鎌足」とすれば、皇極二年には29か30歳である。

  皇位継承権争いに巻き込まれ、祖国を追われた「鎌足」の向かう先は、
 東海の孤島だったと考えることに、無理はないと言えるのではないだろう
 か。

  では「余豊璋」はどうであろうかと言えば、彼は「義慈王」の息子では
 なく、その先代の「武王」(名は「余璋」という)の子ではないかと思う。
  これは類似する名から推測したにすぎないが、彼の来訪した舒明三年は、
 631年である。そのことを『日本書紀』は次のように記している。


  
「三月一日、百済王、義慈は王子豊璋を人質として送ってきた。」


  ところが、この時代の百済王は「武王」であり「義慈王」ではない。

  従って、「余豊璋」が「武王」の子であった可能性は高いと思う。「義
 慈王」が立太子のは、その翌年の632年であるという。



   
5.「乙巳の変」と「鎌足」


  「鎌足」がまず頼ってきたのは、後の多武峯・百済分国ではなく、蘇我・
 倭国政権のようである。「蘇我氏」の歓待ぶりからみても間違いないもの
 と思われる。
  ところが、後に百済の大井の家に移っている。百済の大井とは、百済政
 権初代の敏達天皇が宮を構えた場所である。つまり、百済政権に寝返って
 いるのである。

  もっとも、百済宗国から追放された身であるので、百済政権を訪ねるわ
 けには行かなかったのかも知れないが、『日本書紀』に記された歓待ぶり
 をみても、彼に都合の悪い事実は認められない。

  しかし彼が百済の大井に移る数日前、彼の従者と子どもが連日亡くなっ
 ている。
  「鎌足」が来訪して三ヶ月が過ぎようとしていた。彼も蘇我・倭国政権
 の歓待を内心心地よく思ったに違いない。そんな最中、彼はこの事態をど
 のように受け止めたのだろうか。
  毒殺を真っ先に疑ったことであろうと思う。自身の保身のためには、百
 済政権に身を寄せることが最前の策であったはずだ。(近年、大阪府高槻
 市の阿武山古墳が発掘調査され、織冠が確認されたことから、「鎌足」の
 墓とみなされるようになったが、なんとその人骨から、 砒素が検出され
 ているという。)

  ただ、これとて常に危険がつきまとうことであったのだが、彼は「中大
 兄皇子」(すなわち「余豊璋」)と親しくなることで、百済政権の中枢に
 入り込んで行くことができた。
  『日本書紀』のいう蹴鞠の催しである。

  追放されたとはいえ、「鎌足」は皇太子候補だったわけである。そうで
 あるから蘇我・倭国政権は彼を歓待したのであるし、多武峯・百済にとっ
 ても要人には違いなかった。しかし百済宗国の手前、彼が前面に出るわけ
 には行かなかったことであろうし、後の「藤原氏」の立場を暗示している
 ようにも思う。前面にでれば暗殺の可能性も否定できない。

  この後「鎌足」が何を吹き込まれたかはわからないが、時代は「鎌足」
 を主役の座へと後押していく。645年「乙巳の変」がそれである。(た
 だし、「鎌足」は首謀者の一人ではあるものの、殺害には直接手を貸して
 いない。)

  孝徳天皇即位後、天智三年まで「鎌足」は『日本書紀』から姿を消して
 いる。彼は「乙巳の変」の選択が間違いであったことに、気づいたのでは
 ないろうか。

  梅原猛氏の著書・『隠された十字架』によれば、法隆寺は「聖徳太子」
 の鎮魂の寺であったという。これによれば『法隆寺資材帳』の最後に「法
 隆寺」へ三度食封(へひと)が下され、二度停止になったことが記されて
 いるという。

  最初に食封が下されたのは、「乙巳の変」の二年後の647年である。
 天武八年(梅原氏は天武九年の誤りであるとする)に一度停止されたもの
 の、養老六年(722)元正女帝の御代に再開されている。
  この間何が起こっているのかというと、養老四年八月、「藤原不比等」
 が死に、翌五年十二月元明が死んでいる。
  そして三度目の食封は、天平十年(738)四月十二日になされている
 が、この前年に藤原四兄弟が相次いで死んでいるのである。

  これらの食封は、「藤原氏」らの死と決して無関係ではないはずだ。

  「梅原氏」の言葉を借りれば、


  
「深い太子(聖徳太子)の聖霊への恐れ」


  であり、すなわち「聖徳太子」の祟りを恐れたのである。

  「藤原氏」の潜在意識には、常に聖者「聖徳太子」=「蘇我入鹿」暗殺
 の罪の意識があったのだろう。それは「鎌足」から脈々と受け継がれたも
 のであったと思うし、後悔の念であったと思う。



   
6.調停者「藤原鎌足」


  一般的には「中臣鎌足」よりも、「藤原鎌足」として知られているが、
 「鎌足」が「藤原」姓を賜ったのは、わずかに死の一日前でしかない。
  従って「藤原」姓を大いに利用し、欲しいままにしたのは、息子の「不
 比等」である。

  さらに、文武二年八月の詔により「藤原」姓は、「不比等」ただ一人の
 ものになったといっても過言ではない。

  我が国で初めての恒久的な都と言えば、「平城京」を思い浮かべる方が
 多いのではないだろうか。
  その「平城京」遷都が710年のことである。

  「藤原京」は「平城京」の前の都であるが、「藤原京」遷都が694年
 であるので、16年の短い都であったことになる。
  教科書でも「藤原京」の扱いは少なく、短命だったことも併せて印象は
 より薄いものとなっている。

  当初、「藤原京」は大和三山に囲まれた地域に、収まってしまう程度の
 都であると考えられていた。
  ところが96年の発掘調査の結果、東西が約3.5キロメートル、南北
 は約4.8キロメートルと推定され、推定面積は約25.3キロ平方メー
 トルとなり、「平城京」をしのぐ規模であることが判明したのである。

  これを「大藤原京」と呼ぶ。

  実は「藤原京」という名称は正式なものではない。『日本書紀』は「藤
 原の宮」という表現はしているが、「藤原京」という呼び方はしていない。
  しかし、「藤原宮」がその中心に位置する都であることは間違いないの
 で、「藤原京」と呼ばれていた可能性は高いだろう。

  「藤原宮」しろ「藤原京」にしろ、その名が「藤原」であるということ
 は、まさに「不比等」の都であると言えるのではないか。

  ところが都が「藤原」と名づけられているにもかかわらず、「不比等」
 は最高位に就いていない。最高位とはもちろん天皇のことである。
  万世一系を主張する歴史観では、「不比等」が天皇位に就けるはずがな
 いことになるが、最高権力者ともいえる「不比等」をもってすれば、不可
 能ではなかったはずであろう。

  このあたりに「藤原氏」として「不比等」が受け継いだ、「鎌足」の意
 志を感じずにはいられない。

  「鎌足」の祖はアメノコヤネであるとしてるが、この神はアマテラスの
 岩戸隠れの際、神祝(かみほぎ)を述べ岩戸開きの功労者となっている。
  アマテラスの岩戸隠れの原因は、『記紀』神話によるとスサノオの暴行
 であった。           ・・・・
  その後スサノオは、すべての罪をきせられ追放されているのだ。ところ
 がそのスサノオは、「出雲」でオロチ退治をして国を治める英雄となって
 いる。

  蛇足ながらこの天の岩戸神話は、「乙巳の変」と前後を暗示させる表記
 になっているように思う。
        ・・・・
  すべての罪をきせられ、根国(死者の国)に追放させられたスサノオは、
 「蘇我の男」(そがのお)すなわち「入鹿」であり、アマテラスは皇極天
 皇である。
  「入鹿」暗殺後の天皇は孝徳であり、やはり「蘇我の男」である。多武
 峯に籠城した皇極朝は、岩戸隠れそのものではないか。

  こじつけだと言われればそれまでだが、「鎌足」の立場を考えたときに
 は、興味深いものがある。アメノコヤネがそうであるように、「鎌足」も
 また仲介者であろうとしたのではないか。
  この『記紀』神話の編集責任者が、「鎌足」の子・「藤原不比等」だっ
 たであろうことから、自らの姐をアメノコヤネに位置づけ、その役割を仲
 介者としたことは、父・「鎌足」がそうだったからとすることにより説得
 力を持ってくる。

  仲介するとは両者の中に立つことである。つまり調停と言い換えること
 もできよう。つまり「鎌足」は自らを最高裁長官と位置づけ、多武峯・百
 済と蘇我・倭国との中に立つことにより、大陸の影響下にさらされない、
 独立した新生国家を実現しようとしたのではないか。

  「不比等」が最高権力者でありながら、最高位に就かなかった理由も、
 おそらくこのような理由であったものと推測する。

  『家伝』は興味深いエピソードを伝えている。それは天智摂政七年に起
 こっている。俗言う「浜楼事件」である。


  
「七年正月、即天皇位。是為天命開別天皇。朝廷無事、遊覧是好。人無
 菜色、家有余蓄。民咸称太平之代。帝召群臣、置酒浜楼、酒酣極歓。於是、
 大皇弟以長槍、刺貫敷板。帝驚大怒、以将執害。大臣固諌、帝即止之。」


  正月であることから宴会でも催していたのだろうか、天智天皇と「大海
 人皇子」がその最中口論になり、怒った「大海人皇子」が槍を床に突き刺
 したというのである。それを見て激怒した天智は、「大海人皇子」を殺そ
 うとするのだが、「鎌足」の取りなしで事なきを得たという。

  「鎌足」は権力争いの結果、「百済」を追放された身分であった。同一
 国内で争う愚かさを身をもって知っていたからこそ、天皇をも裁くという
 態度も可能であったのだ思う。

  策士としてのイメージが強い「鎌足」であるのだが、我々が考えている
 以上に賢者であったのではないだろうか。百済王子の身でありながら、倭
 地で生きていかなければならないと決断したそのときから、国の枠組みに
 とらわれることなく、自ら調停者としての立場を貫き通す意志を固めたの
 であろうと思う。

  ただ唯一の誤算は「乙巳の変」という愚行であった。愚行でありそのこ
 とに気づいたからこそ、「入鹿」の怨霊に悩まされ続けるのである。


                          2001年7月 了