真説日本古代史 特別編の十一


   
蘇我氏三代




  1.聖徳太子は蘇我入鹿である


  1991年4月10日、フットワーク出版から『聖徳太子は蘇我入鹿で
 ある』が出版された。著者は歴史謎解きで有名な作家「関祐二」氏であっ
 た。
  とんでも本と思いながらも、タイトルのもの凄さに惹かれて購入したの
 だが、その負の期待は瞬く間に裏切られ、一気に読み終えてしまった。

  聖人君子であったと言われる「聖徳太子」と、上古の大悪人「蘇我入鹿」
 が同一人物であったと解くこの本には、圧倒的に否定的な意見が多いのだ
 が、私はこの説にかなりの部分で傾倒している。
  それもそのはずで、教科書で習った「蘇我入鹿」は「中臣鎌足」と「中
 大兄皇子」の共謀により暗殺された、とあったのだが、暗殺された理由と
 して


  「聖徳太子の没後、蘇我氏一族が横暴にふるまう時代になり、国際情勢
 が急変してきたきびしいときに、国内の政治は混乱をかかえることになっ
 た。豪族の先頭にたって政治を取りしきったのは、蘇我の馬子の子の蝦夷
 だった。彼は天皇の墓にしか使わない陵という言葉をみずからの墓に用い、
 自分の子をすべて王子とよばせた。蝦夷の子の入鹿は、聖徳太子の理想を
 受けつごうとしていた長男の山背大兄王をはじめ、太子の一族を一人残ら
 ず死に追いやった。」


  とある歴史教科書は述べている。

  この説は『日本書紀』の掲げる内容そのままであるのだが、この説通り
 にしても、


  
「太子の一族を一人残らず死に追いやった。」


  のであって、直接手を下したのではない。とは言えそれ自体問題視され
 ても仕方がないのだが、私はそれ以上に「中大兄皇子」のとった行動を許
 せなかった。
  もちろんそれは、幼い現代的な視野の上でのことであったのだが、「中
 大兄皇子」は自らの手で「蘇我入鹿」を殺し、その後天智天皇として即位
 したことに全く合点がいかなかったからであった。
  つまり、戦争はやむを得ないかもしれないが、殺人は許されないという
 幼き考えからである。

  従って、殺した「中大兄皇子」のほうこそ悪人、というイメージがつい
 て回り、どこかで「蘇我入鹿」に同情的だった。

  このことが前提になっていたからであろう、『聖徳太子=蘇我入鹿』は、
 まことに的を射た、我が意を得た説だったのである。

  さて、『聖徳太子=蘇我入鹿』説は、簡単に言ってしまえば次の論法に
 よったものである。


  
『元興寺縁起帳』

     ?
     ├──────聡耳皇子(大王・元興寺をつくる)
    大々王(物部氏の出身)


    巷奇有明子(蘇我馬子)
     ├──────善徳<長子>(元興寺を建てる)
     ?


  『日本書紀』

    蘇我馬子
     ├──────善徳(元興寺の初代管長)
    物部守屋の妹


  『先代旧事本紀』

   宗我嶋大臣(蘇我馬子)
     ├──────豊浦大臣、名を入鹿
   物部鎌姫大刀自連公



  上記のことから、「聡耳皇子」は「善徳」であり、「善徳」は「入鹿」
 である。よって「聡耳皇子」(聖徳太子)は「蘇我入鹿」である、という
 三段論法である。

  「佐治芳彦」氏は著書『聖徳太子の陰謀』(日本文芸社)の中で、この
 説について触れており、


  「これらの仮説は、いわゆる通説打破という点で、一応評価するが、率
 直にいってそれだけである。」


  と言っている。まさにそれだけなのであるが、「聖徳太子」が蘇我一門
 の誰かであり、その実在性が問われているだけに、太子入鹿説は大いに注
 目していいのではないか。

  しかしながら私は、その説にさらにもう一歩踏み込んで考えている。

  私は歴史ストーリーを展開していく上で、時間軸を基準に記載していく
 ので、他に類を見ないほどの魅力的な説でも、時間的につじつまの合わな
 い説や、面々と続くストーリーにならない単発説は、本編(エピソード・
 特別編を含む)に採用せずに整理してきた。
  ただしその中にでも本編にこそ採用できないが、言い得てもっともな説
 が複数あり、それらは『捨て去り難い説』として、本編とは別にまとめる
 ことにしている。

  これから述べる内容は、『捨て去り難い説』の部類かもしれないが、あ
 えて『特別編』として記載していく。それほど、本編と甲乙つけがたい説
 なのである。

  前書きのようになってしまったが、「蘇我氏三代」とは、「蘇我馬子」・
 「蘇我蝦夷」・「蘇我入鹿」のことを指す。
  また、聖徳太子という名称も後世の奈良仏教界が創り出したシンボルで
 あり、『日本書紀』では「厩戸皇子」や「豊聡耳皇子」と記している。し
 かしここでは、便宜上なじみの深い聖徳太子で通すことにする。

  さらに聖徳太子には実名の記載がない。これほど有名な歴史上の人物で
 ありながら、実名すらわからないというのも大いなる謎であるが、「蘇我
 入鹿」のダミーであるのだから、実名が無くて当然ということになろうか。



  
2.上宮王家


  まず断っておくが、私は「関祐二」氏の著書・『聖徳太子は蘇我入鹿で
 ある』の内容に、細部にわたって賛同しているわけではない。
  『聖徳太子=蘇我入鹿』には100%賛同しているが、その説を取り巻
 く諸説までをも賛同しているわけではない。
  ただし、「関」氏の切り口は常に斬新で、巷で「関」氏の説を説く歴史
 ファンがいたとしたら、周りからは「かなりできる人」、と思われること
 間違いないだろう。

  彼の著書の内容から展開している『天武天皇 隠された正体』(KKベ
 ストセラーズ)がある。説を支持するかどうかは別にして、大変興味深い
 内容であることには違いない。

  さて、日本上古代史において悪名高き「蘇我氏三代」であるが、『日本
 書紀』は彼らの悪行をどう書いているのだろうか。
  
  箇条書きにしてみると、

 

  「蘇我馬子」
  「東漢駒」(やまとのあやのこま)を使って崇峻天皇を殺害させた。

  「蘇我蝦夷」
  自らを大王に擬し、邸宅を宮門(みかど)と呼ばせた。
  独断で「入鹿」に紫冠を授け大臣とした。大陵・小陵を造った。

  「蘇我入鹿」  
  山背大兄王ら上宮王家の者たちを自殺に追いやった。
  甘樫丘に邸宅を築き宮門と呼ばせた。


  と、このようになる。

  しかしながら、この記述を文字通り信じるわけにはいかない理由がある。
  
  『日本書紀』は「蘇我氏」滅亡の予告を記述しており、そこに「蘇我氏」 
 を悪人に仕立てたい思いを、読むことができるからである。

  『皇極紀』には、


 
 「また国中一八十にあまる部曲を召使って、双墓を生前に、今来に造っ
 た。一つを大陵といい、蝦夷の墓。一つを小陵といい。入鹿の墓とした。
 死後を他人の勝手に任せず、おまけに太子の養育料として定められた部民
 を、すべて墓の工事に使った。このため上宮大娘姫王は、憤慨され嘆いて
 いわれた。『蘇我臣は国政をほしいままにして、無礼の行いが多い。天に
 二日無く地に二王は無い。何の理由で皇子の封民を思うままに使えたもの
 か」と。こうしたことから恨みを買って、二人は後に滅ぼされる。」


  とあって、後の「乙巳の変」を予告している。

  この予告に悪意を感じ、これは史書にあるまじき記述と断じてもいいだ
 ろう。

  記述が史実であれば、編纂者の感情を理解できないこともないが、この
 記述は「蘇我氏」滅亡の原因となった「恨み」に直結してないことが、さ
 らに問題なのである。

  「皇子の封民」とある「皇子」とは、言わずもがな聖徳太子であるが、
 「蘇我氏」を糾弾した「上宮大娘姫王」(かみつみやのいらつめのみこ)
 は、山背大兄王の妻であり、聖徳太子の娘である。
 
  一般には聖徳太子の娘であることから、山背大兄王とは異母妹の関係に
 なるが、聖徳太子の伝記『上宮聖徳法王帝説』では、聖王の児と記されて
 いる山背大兄王も、『日本書紀』は親子関係を一切語っていない。

  しかも当の『上宮聖徳法王帝説』ですら、


  
「後の人、父の聖王と相ひ濫るといふは、非ず」


  と記し、親子ではないと噂されているが、よくないことだと、なぜか肯
 定的ではない。

  山背大兄王が上宮王家と呼ばれるわけは、若年期の聖徳太子が上宮に住
 んでいたことに因むらしいが、聖徳太子生存中の記述で“上宮”と称され
 ている事実はない。

  聖徳太子が上宮と称されている初めての箇所は、由来を除けば(『推古
 紀』四月十日に、宮殿の南の上宮に住んだので上宮と讃えられた、との記
 述がある)太子の葬儀の時であり、『推古紀』では高麗の僧慧慈の言葉と
 して記されている、


  
「日本国に聖人がおられた。上宮豊聡耳皇子と申し上げる」


  である。
  
  これ以降、山背大兄王一族に“上宮王家”という名称がついて回るのだ
 が、この突然降って湧いた“上宮”の記述がなければ、山背大兄王と聖徳
 太子を結びつけるキーワードは無いのである。
  逆に言えば、上宮に山背大兄王は結びつかないことになり、ここが否定
 されると、上宮王家は聖徳太子とは関係なくなり、「入鹿」による太子一
 族滅亡事件は成立しなくなってしまう。

  『日本書紀』を読んで、山背大兄王=聖徳太子の児と見当されていたな
 らば、それは『日本書紀』の罠に陥っていると言え、それが『日本書紀』
 のねらいと考えている。

  山背大兄王と聖徳太子との親子関係は、以上のように大いに疑っている
 が、個人的には『皇極紀』の大綾・小綾のエピソードにおける最大の疑問
 は、聖徳太子の娘である「上宮大娘姫王」は、聖徳太子のことを“皇子”
 と呼んでいる点にある。

  「大娘姫王」は、『上宮記』・『帝説』では「舂米女王」(つきしねひ
 めみこ)といい、母を「膳部菩岐々美郎女」(かわしわでのほききみのい
 らつめ)というらしいが、聖徳太子の娘であれば、なぜ父と呼ばないのだ
 ろうか。
  実際のところ、皇子・皇女が父である天皇のことを、我が父と呼ぶ例は、
 まったくと言っていいほどないのだが、皇子のことを兄上、叔父上と呼ぶ
 ことは普通にある。

  『舒明紀』には聖徳太子の児である(らしい)「泊瀬仲王」(はつせの
 なかのみこ)は、


 
 「だれでも知っているように、われら父子はみな蘇我から出ている。」


  と、父子と呼んでいることから、「大娘姫王」のよそよそしい言葉に、
 ずいぶん温度差を感じてしまう。

  聖徳太子には、外に二人の妻があり、「蘇我刀自古郎女」(そがのとじ
 このいらつめ)、「尾治位奈部橘王」(おわりのいなべのたちばなのおお
 きみ)というが、『日本書紀』は正妃として「菟道貝鮹皇女」(うじのか
 いだこのひめみこ)一人をあげ、他の三人をあげていない。

  逆に、『上宮記』・『帝説』では「菟道貝鮹皇女」をあげてない。   

  いずれも正しく、いずれも正しくないかもしれない。

  しかし、『聖徳太子=蘇我入鹿』の立場からすれば、「入鹿」親子が大
 綾・小綾を造ろうが、国政をほしいままにしようが、さらには太子の部民
 を私的に使おうが、「蘇我氏」が滅ぼされる原因にはなり得ない。
  太子の権利はそのまま「入鹿」の権利であり、天皇家だったことになる
 「蘇我氏」に対して、「大娘姫王」が嘆く理由はどこにもない。

  つまりこれは、ねつ造されたエピソードだったことになる。

  聖徳太子は仏教界の布教にさんざん利用されてきた。その利用価値から
 みても、上宮王家が滅ぼされたとはいえ、一人くらいは聖徳太子や山背大
 兄王の子孫を名乗る者が現れても良さそうなものであるが、それすらない
 ということは、聖徳太子を含む上宮王家のすべてが、ねつ造だったという
 ことにならないだろうか。

  大悪人とされた「蘇我氏」の名を継ぐものは、現在にも伝わっているの
 である。

  はっきり言ってしまえば、文献だけの人でしかない。



  
3.用明天皇


  『日本書紀』は、本編三十巻と系図一巻とからなる歴史書である。

  これは、『続日本紀』の養老四年五月癸酉条に次のようにあり、


  「これより先に一品の舎人親王は、勅をうけて『日本紀』を監修す。こ
 こに至って完成し、紀三十巻、系図一巻を奏上す。」



  この記録により、『日本紀』は全三十巻(系図は伝わっていない)から
 なることが判明し、現存する『日本書紀』もまた全三十巻からなることか
 ら、これを別物とする考えはみられない。

  『真説日本古代史』本編では、最初の執筆は『欽明紀』からであり、そ
 もそも『壬申紀』までの十巻本が、天武天皇の発案であった、と解いてい
 る。
  当然『壬申紀』がメインテーマであり、天智王権を天武が倒さなければ
 ならなかった正当性を、記してあるものだったはずだから、現存の『日本
 書紀』とは違っていたであろうことは推察できよう。

  「大化の改新」へと続くクーデター「乙巳の変」は、天智王権の正当性
 へと繋がる内容であるから、『日本書紀』のこの部分は改ざんされている
 であろうし、「乙巳の変」に結びつくすべての記録は、天智王権に都合の
 良いものばかりだろう。

  そういった前提を別にしても、『欽明紀』から『壬申紀』までの十巻の
 編纂には気になるところがある。
  編纂者の立場からみると、一天皇に対し一巻という編纂が妥当と考える
 のだが、なぜか用明天皇と崇峻天皇は合纂になっていることだ。

  これらはすべて『真説日本古代史』本編で述べてあることだが、『推古
 紀』冒頭に、


  「(即位前の推古天皇が)三十四歳のとき、敏達天皇が崩御された。三
 十九歳、崇峻天皇の五年十一月、天皇は大臣馬子宿禰のために弑せられ、
 皇位は空いた。」


  とあって、推古天皇三十九歳のときが崇峻天皇の五年であることがわか
 る。ということは単純に推古天皇三十四歳のときは、崇峻の元年である。
  崇峻の前の用明天皇は在位二年であるから、敏達が崩御したときの推古
 の歳は、三十二歳か三十三歳でなければつじつまが合わない。
  つまり『推古紀』の記述を信じれば、崇峻元年が敏達の崩御年になり、
 用明天皇の在位二年は吹き飛んでしまうのだ。

  つまり『用明紀』は、ねつ造である。

  上記以外にも『用明紀』には、「須加手姫皇女」について


 
 「──この皇女は、この天皇の御時から、推古天皇の御代まで、皇大神
 宮にお仕えし、後年、母の里、葛城に退いて亡くなられた、と推古天皇紀
 に見える。」


  とあるのだが、こんな文章が書けるということは、すでに『推古紀』が
 存在しているという前提であり、『用明紀』が加筆であることの証拠とい
 えるのではないだろうか。
  無くても書けるだろう、という方がいるのかも知れないが、それでは無
 いのに書いたのか、という問題になろう。

  事実『推古紀』には、


  
「推古天皇紀に見える。」


  に該当する箇所はなく、『用明紀』の疑いが増すばかりか、逆に『推古
 紀』が改ざんされていることをも、証明しているのだ。

  推古天皇の崩御干支を『記紀』ともに戊子(628)としているところ
 から、歴史年次を推古天皇に定める考え方が主流である。従って、推古朝
 以降の年次は一応の信憑性があると思っている。

  もし用明在位がなければ、欽明以降十巻は一天皇一巻になり矛盾はなく
 なる。『用明紀』が『崇峻紀』の前段に書き加えられた可能性は高いが、
 それよりも『用明紀』・『崇峻紀』が、本来あった別の一巻に変えて充て
 られたのではないか、もしくは一巻丸々なかったのではないか、とも考え
 ている。
  もちろん今となっては検証のしようもないが、少なくとも『用明紀』は
 ありえない。

  ありえない『用明紀』には何が書かれているのだろう。

  要約すると次の二点である。


 
 1.用明天皇は穴穂部間人皇女を皇后とし、この皇女は厩戸皇子を生ま
 れた。

  2.仏教の要否をめぐり、蘇我氏と中臣氏・物部氏との対立が始まった。


  1の「厩戸皇子」は言わずと知れた、聖徳太子のことである。2の対立
 は、物部vs蘇我の宗教戦争へと繋がっていくのだが、「物部氏」の私設史
 書とも言われている『先代旧事本紀』は、この両者の争いを記していない。
 
  例えば、八尾市教育委員会発表の渋川廃寺址は、


  
「渋川廃寺址

  渋川天神社はすさのおみこと、菅原道真を祀る古社である。神社の南西
 の地は白鳳時代に渋川寺であったところで、昭和十年頃、国鉄の竜華操車
 場を開設工事のとき、多数の単弁八葉や忍冬唐草紋の瓦及び塔心礎が出土
 した。
  また一説には、この附近は、物部守屋の別業の地でそこに渋川寺があっ
 たともいわれている。
  仏教崇拝抗争や古代の仏教を再検討すべき課題を提起している寺址であ
 る。

  昭和六十二年三月 八尾市教育委員会」



  として、「物部氏」の仏教容認の可能性を唱えている。

  続く『崇峻紀』には、いよいよ宗教戦争が勃発して、「蘇我馬子」・厩
 戸皇子勢が、「物部守屋大連」を滅ぼしたこと、崇峻天皇が「蘇我馬子」
 の手勢により暗殺されたことが主に書かれている。
  すなわち『用明紀』こそ、「蘇我氏」滅亡のシナリオの始まりとなって
 いることがわかる。

  そうわかってくると、ありえないとした『用明紀』も続く『崇峻紀』も、
 本来の十巻本からかけ離れた内容であることは、容易に想像がつく。

  「蘇我馬子」の手勢による崇峻天皇暗殺の行は、


  
「天皇を弑したてまつった。」


  の一言で済ましてしまっているが、これとて考えてみれば、はなはだイ
 ンスタントであり、『崇峻紀』のほとんどを占めている「蘇我vs物部戦争」
 は大々的ドラマチックに記していることに比べ、天皇の暗殺はあまりにも
 みずぼらしい記載ではなかろうか。

  しかも殺されなければならない理由が、


  
「いつの日かこの猪の頸を斬るように、自分がにくいと思うところの人
 を斬りたいものだ」


  と言ったことだという。天皇が斬りたい相手こそ「蘇我馬子」であった
 ということだが、この記事から暗殺されるまで、わずかに二・三行のこと
 である。

  それ以上に理解しがたいことは、叔父である崇峻を「蘇我馬子」に殺さ
 れた聖徳太子が、その当の殺人犯「蘇我馬子」の娘、「刀自古郎女」を正
 妃に迎えたということである。これはもう出鱈目である。

  架空である聖徳太子。その父・用明天皇もまた架空でしかないだろう。

  「蘇我vs物部戦争」が無かったとは言わない。それを史実でないとする
 ことは、大阪府八尾市界隈に残る史跡・伝説の説明ができない。
  しかし、『日本書紀』は戦争を伝える一方で、「物部氏」と「蘇我氏」
 は親族であったことも述べている。「物部守屋」の妹を「蘇我馬子」が妻
 に迎えたのである。そして「入鹿」の弟を「物部大臣」と呼んだというの
 だ。
  これらのことから、「蘇我vs物部戦争」は親族間のもめ事であり、国を
 揺るがすことではなかったのである。
  『日本書紀』は「物部守屋」を本宗家としているが、『先代旧事本紀』
 を見ると三男でしかない。長男は「物部大市御狩連公」(もののべのおお
 い ちのみかりのむらじきみ)であり、「物部尾輿」の子である。仏教容認
 で「物部氏」は「蘇我氏」に負かされたのだろうが、それは「物部氏」の
 滅亡などという大げさなことではなかったのだ。

  『用明紀』・『崇峻紀』にある大きな二つのテーマ、「聖徳太子の誕生」
 と「蘇我vs物部戦争」は、ねつ造と改ざんで充ち満ちている。『日本書紀』
 巻第二十一すべてがそうだったかも知れない。そんな中にある崇峻暗殺も
 また、史実として捉えることは困難な話なのではないか。



  
4.崇峻天皇


  十巻本の中にあって一天皇一巻になっていない用明と崇峻だが、この巻
 第二十一も他の巻同様、一人の天皇の事績を記してあったはずである。
  ねつ造だと言っても、ゼロから創造することは大変な労力を要すので、
 巻第二十一の随所に、その痕跡が残っているものである。歴史学の諸先輩
 方は、アプローチや結論に違いがあるものの、そういった痕跡を読み取る
 ことによって、『日本書紀』の嘘を見抜いてきたのである。

  『用明紀』・『崇峻紀』は、その元本にあった『天皇紀』を二人の事績
 に分けたものという考えが、当然起こりうる。そうであれば用明天皇は病
 死してない。もちろん、聖徳太子は生まれていないし、「蘇我vs物部戦争」
 はなかったし、崇峻天皇は暗殺されていない。

  その崇峻に注目してみると、『日本書紀』は后の名を記していない。し
 かしながら、『先代旧事本紀』に目をやると、后は「物部守屋」の妹「布
 都姫」であるとちゃんと書いてある。
 
  ところがこれが問題なのである。

  『日本書紀』によれば、「物部守屋」の妹は「蘇我馬子」の妻なのだ。
 
  『日本書紀』ばかりではない。「蘇我氏」と同じ「武内宿禰」を祖にす
 る「紀氏」の家伝『紀氏家牒』も、「蘇我馬子」の妻は「物部守屋」の妹
 「太媛」であるという。当然、「布都姫」=「太媛」であろうし、「物部
 氏」の出であることから、これは“ふつひめ”と発音するのだろう。

  『崇峻紀』・『用明紀』はねつ造だ。

  このことが明らかである以上、先入観なしに考えることはできないのだ
 が、「馬子」と崇峻の妻が「守屋」の妹“ふつひめ”という共通の女性で
 あったということは、「馬子」と崇峻は同一人物だったことになる。これ
 は簡単な三段論法だ。

  具体的に『天孫本紀』には、


 
 「十四世孫・物部大市御狩連公。尾輿大連の子である。この連公は、譯
 語田宮で天下を治められた敏達天皇の御世に、大連となって、石上神宮を
 お祀りした。
 弟の贄古大連の娘の宮古郎女を妻として、二人の子をお生みになった。
 弟に、物部守屋大連公。または弓削大連という。この連公は、池辺双槻宮
 で天下を治められた用明天皇の御世に、大連となって、石上神宮をお祀り
 した。
 弟に、物部今木金弓若子連公。今木連らの祖である。
 妹に、物部連公布都姫夫人。字は御井夫人、または石上夫人という。倉梯
 宮で天下を治められた崇峻天皇の御世に夫人となった。また、朝政に参与
 して、神宮をお祀りした。
  弟に、物部石上贄古連公。この連公は、異母妹の御井夫人を妻として、
 四人の子をお生みになった。」

 

  「十五世孫・物部鎌束連公。贄古大連の子である。
 弟に、物部長兄若子連公。
 弟に、物部大吉若子連公。
 妹に、物部鎌姫大刀自連公。この連公は、推古天皇の御世に、参政となっ
 て、石上神宮をお祀りした。宗我嶋大臣の妻となって、豊浦大臣をお生み
 になった。豊浦大臣の名を、入鹿連公という。」


  と記され、竪系図にすると次のようになる。


  
 崇峻天皇
    │
   布都媛 
    ├───────物部鎌姫大刀自連公
   物部石上贄古連公  ├─────────豊浦大臣(蘇我入鹿)
            宗我嶋大臣(蘇我馬子)




  『日本書紀』は「馬子」の妻に関しての記述が二カ所あり、


  「用明天皇二年秋七月…『蘇我大臣の妻は、物部守屋大連の妹である。
 大臣は、むやみに妻の計を用いて、大連を殺した』といった。」
 
  「皇極天皇二年冬十月六日…蘇我大臣蝦夷は病によって参しなかった。
 私に紫冠を子の入鹿に授け、大臣の位に擬した。またその弟を呼んで、物
 部大臣といった。大臣の祖母は物部弓削大連の妹。だから母の財によって、
 威を世にはった。」



  であるが、名こそ無いが(馬子=崇峻を類推できることは書けないだろ
 う)「物部守屋」の妹は「蘇我馬子」の妻であると一貫して主張している
 ところから、一般的には『先代旧事本紀』が錯乱しているのだろう、と言
 われている。
  
  だが、『先代旧事本紀』の編纂姿勢は、『日本書紀』に倣いながら独自
 の記述を、真実の主張を織り交ぜていく手法ではなかったか。
  そう考えると、この部分は何かしらの暗号になっている可能性を否定で
 きない。

  『先代旧事本紀』は、その序文で推古二十八年十二月に、「蘇我馬子」
 と聖徳太子によって書かれたとされている。


  「先代旧事本紀の序
 大臣蘇我馬子宿禰等が勅を奉りて、修撰まつる。
 夫、先代旧事本紀は聖徳太子の且て、撰所なり。」


  これがその冒頭部分であるが、この史書は「水戸光圀」によって偽書と
 されて以来今日に至っているが、最近では序文だけが偽物であって、本文
 は本物と見直されている。
  それにしても「蘇我馬子」と聖徳太子という、『日本書紀』が断定した
 「物部氏」の政敵を序文に使った『先代旧事本紀』は、両者を政敵どころ
 か同胞であった訴えていることになる。

  実際には平安時代以降の作であり、その序文から偽書とされ、また『日
 本書紀』の模倣でしかない『先代旧事本紀』なのだが、『先代旧事本紀』
 をフィルターにして『日本書紀』を見ると、『日本書紀』が黙している真
 実がはっきり読めてくる。

  『日本書紀』が正真正銘真実のみを記しているのならば、膨大な時間を
 費やしてまで、すぐに偽書だとわかる史書を書く意味がないからだ。

  そこでまず第一に言えることは、崇峻天皇は「蘇我馬子」真実を隠すた
 め、「馬子」のダミーとしてねつ造されたいうことだろう。
  崇峻の諱は「泊瀬部天皇」であるが、『古事記』では「長谷部若雀天皇」
 である。これなどは、武烈天皇の「小泊瀬稚鷦鷯天皇」(『日本書紀』)
 や「小長谷若雀命」(『古事記』)と違いはない。武烈は架空の天皇と言
 われているが、ほとんど同じ諱であるにもかかわらず、崇峻架空論はなぜ
 問題にされないのだろう、と思っている。
 
  用明も崇峻も架空の天皇であり、その時代は「蘇我馬子」元首であった
 とすることに無理はないと思う。

  さらには前述した竪系図に「蘇我蝦夷」の名が見あたらないこと、「布
 都姫」・「鎌姫」の問題も解決の糸口を探らなければならない。



  
5.蘇我蝦夷


  「蘇我蝦夷」は、推古十八年冬十月九日に突然現れる。

  それは、都に到着した「新羅」「任那」の使人を迎え入れる、宮廷儀式
 のときである。


  「九日、客人たちは帝に礼拝した。このとき秦造河勝・士部連菟に、新
 羅の導者を命ぜられた。間人連塩蓋・阿閉臣大籠に任那の導者を命ぜられ
 た。共に南門から入って御所の庭に立った。大伴咋連・蘇我豊浦蝦夷臣・
 坂本糠手臣・阿倍鳥子臣らは、席から立って中庭に伏した。」
  


  これがそうなのだが、まさに聖人と讃えられている「馬子」や、天下の
 大悪人とされている「入鹿」に比べて「蝦夷」は影が薄く、「山背大兄王」
 を廃して「田村皇子」(舒明天皇)を天皇に推したこと、「境部摩理勢」
 を討ったことくらいしか事績らしいものは見られない。

  「蘇我氏」三代について語られるときに、不思議に思うことは、「馬子」
 の墓は石舞台古墳であろうと、大きく取り上げられる機会が多いものの、
 「蝦夷」・「入鹿」の墓についての論議を聞いたことがない。

  『日本書紀』は自ら勝手に大綾・小綾と名付けた、というエピソードを
 残しているにもかかわらずである。
  御所市にある水泥北古墳と水泥南古墳という双円墳がそうではないか、
 とは江戸時代から言われているが、調査結果では両古墳の直径が約25m、
 高さが5mであったらしい。しかしその大きさは、聖徳太子の部民を大勢
 駆り出して築造したという割には、あまりにもお粗末で、とても大綾とは
 呼べないだろう。
  しかも、「馬子」の墓は方墳であることがわかっているので、その子・
 孫の墓が円墳なのも解せない。
  また調査結果から築造年代が6世紀後半であることがわかり、年代的に
 も無理がある。

  「蘇我入鹿」は本編で聖徳太子である、と結論づけているので、その墓
 は大阪府南河内郡太子町にある叡福寺の聖徳太子綾であると言えよう。
  しかし「蘇我蝦夷」の墓については、水泥古墳伝承を除けば全然それら
 しい話は聞かない。

  『先代旧事本紀』は


  
「豊浦大臣の名を、入鹿連公という。」


  と断定しているが、『日本書紀』では「豊浦大臣」=「蘇我蝦夷」であ
 る。ところが、そのように記している箇所はない。
  ではなぜ「蝦夷」なのかというと、まず「蘇我蝦夷」として登場し、次
 に「大臣蘇我蝦夷」または「蘇我蝦夷大臣」、そして「大臣」、後に「豊
 浦大臣」として記されている。大臣は同時に二人いないため、大臣と言え
 ば「蘇我蝦夷」しか該当しないということなのが一般的な見解なのだが、
 これなどは、神代で「大日靈女貴尊」が天照大神と呼び名が変わっていく
 描写や、近くは「山背大兄王」を「上宮家」と結びつける手法に、そっく
 りである。

  つまり、本来「大日靈女貴尊」は天照大神ではなかったし、「山背大兄
 王」は聖徳太子の子ではなかったように、「蘇我蝦夷」は「豊浦大臣」で
 はなく、『先代旧事本紀』の主張通り、「蘇我入鹿」=「豊浦大臣」なの
 ではないだろうか。

  「馬子」・「入鹿」ももちろんそうなのだが、その中でも「蝦夷」は、
 蔑称中の蔑称といえると思う。いくらなんでも実在の人物に「蝦夷」と名
 付けるのには、普通の神経ではかなりの抵抗がともなうものと思う。
  
  ただし「入鹿」の父である「蝦夷」は否定するが、「蘇我蝦夷」という人
 物は実在したと言っておきたい。

  「蝦夷」は「毛人」と書いたのだろう。実際、『上宮聖徳法王帝説』で
 は「蘇我豊浦毛人」と記している。

  『推古紀』十六年夏四月の条に、


  
「大唐の国では妹子臣を名づけて、蘇因高とよんだ。」


  とあるが、「妹子臣」とは「蘇我馬子」の側近中の側近と言われた、遣
 隋使「小野妹子」のことである。

  京都市左京区上高野の西明寺山町、早良親王(さわらしんのう)を祀る
 崇道神社、この神社の裏山にあった古い墓が1613年に発掘され、石室
 中から金銅製の墓誌が発見されているが、これから「小野妹子」の子「小
 野毛人」の墓であることがわかった。

  墓誌の表面には


  
「飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上」


  とあり、裏面には


  
「小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」


  と記されていた。実際に墓誌が埋葬されたのは、墓誌の内容から推測し
 て「毛人」の子「毛野」の代であるらしい。

  歴史言語学者の「加治木義博」氏は「小野妹子」を“おののいもこ”
 と読んできたのは間違いであるという。「加治木」氏は


  
「小野は[蘇=ソ][野=助詞の『ノ』]で[ソノ]と発音するのが正
 しい。小をソと発音するのは鹿児島語では普通である。この助詞の「ノ」
 は、日本語の方言では、「ガ」と同じものである。戦前までは「ヶ」と書
 いて「ガ」と発音し、それは「……の」という助詞と同じものだと学校で
 教えていた。だから「お玉ヶ池」だとか「うばヶ餅」と書いて「オタマが
 イケ」「ウバがモチ」と発音していたが、「意味の前のは「お玉ノ池=お
 玉という人に関係のある池」「うばノ餅=なにか老婆の言伝えに関係のあ
 る餅」ということである。」(『虚構の大化の改新と日本政権誕生』KK
 ロングセラーズ)


  と述べられており、例えば


  
「雨が降る天気」

  「雨の降る天気」



  の混同は標準語でも見られ、意味を取り違えることのない方言差である
 ということだ。
  助詞の「野」を除いた「小野妹子」が「蘇因高」ならば、「小野毛人」
 は「蘇emishi」と書かれよう。emishiにどのような当て字が入るかわから
 ないが、日本語では「小野毛人」=「蘇我蝦夷」と言い換えることができ
 る。
  ちなみに「小野氏」は「春日氏」と同族であり、『雄略紀』の「春日小
 野臣大樹」の後裔というのが、アカデミズムの見解だ。 

  「蘇我馬子」の子に「蘇我善徳」がいるが、『日本書紀』年代的には、
 「蝦夷」と兄弟になる。私見による「善徳」は聖徳太子であり、「入鹿」
 と同一人物なので、「毛人」=「蝦夷」とすれば、「入鹿」・「毛人」の
 二人はほぼ同年になるのだが、
  
  「門脇禎二」氏によれば、


 
 「推古十八年(610)当時の毛人の年齢は、『扶桑略紀』の所伝を信
 ずるならば二十五歳、父の馬子は六十歳であったという。」
 (『蘇我蝦夷・入鹿』吉川弘文館 ) 



  であるという。
 
  これから計算できる「毛人」の没年齢は、没年が丁牛(677)十二月
 であることは墓誌からわかっているので、単純計算で92歳となる。
  幼児幼少期を無病で過ごすことができれば、生活環境は現代人よりも優
 れていると考えているので、自然死の場合、現代人並みに長生きであった
 であろう、とこれを持論としているのだが、92歳はどうか思う。

  確かに、上古代でもこのような例はあったであろうし、身分が高ければ
 高いほど、その可能性は高いと考えられる。

  さらに「門脇禎二」氏は、


 
「推古天皇四年(596)における蝦夷の年齢は11歳となることから、
 善徳が蝦夷の兄と推定されている。」



  と述べており、「善徳」=「入鹿」であると考えられることから、「乙
 巳の変」当時「入鹿」は60歳+αとなる。(聖徳太子が574年生まれ
 であるとすれば。「蘇我入鹿」=聖徳太子であるので、このとき「入鹿」
 は71歳であったことになる。)

  皇極天皇の崩御年は、『日本書紀』は661年と記しているが、崩御年
 齢を記していない。しかし現存する他書では68歳崩御で一貫している。
  そうすると「乙巳の変」当時の皇極の年齢は52歳となり、60歳+α
 の「入鹿」と釣り合わない年齢ではなくなる。
  また、「毛人」の父「小野妹子」は、「馬子」と同世代人であるから、
 各々の子である「毛人」・(『先代旧事本紀』によれば)「入鹿」が同世
 代人であることは、むしろ当然といえよう。

  ということは、「毛人」92歳没年も可能性がないことはなく、「小野
 毛人」は「蘇我蝦夷」の単にモデルにとどまらず、本人のまま「入鹿」の
 父に充てられた可能性は充分にある。

  しかし、「馬子」「入鹿」親子の間に、「蝦夷」を挿んだ理由はどこに
 あるのだろう。
  『日本書紀』をみても「蝦夷」と「入鹿」は同時代に生きており、「乙
 巳の変」で殺された「入鹿」を追うように「蝦夷」は殺されているから、
 一見では「入鹿」滅亡のストーリーに、あえて「蝦夷」を混ぜる必要性を
 感じない。

  それにもかかわらず「蝦夷」一代を追記されているということは、そも
 そもこの考えが間違っていたのであって、事実は推理と真逆であった可能
 性を考えなければならない。
  つまり「蝦夷」の時代に「入鹿」は生きておらず、「乙巳の変」の以前、
 とうの昔に「入鹿」は死んでいたというだ。



  
6.境部摩理勢


  正しくは「蘇我境部臣摩理勢」(そがのさかいべのまりせ)である。

  「蘇我稲目」の子で「蘇我馬子」の弟にあたるという。


  「八年春二月、新羅と任那が戦った。天皇は任那を助けようと思われた。
  この年、境部臣に大将軍を命ぜられ、穂積臣を副将軍とされた。」



  これは『推古紀』であり、このときが「境部摩理勢」の初見である。
 「任那」はすでに滅んでいるので、明らかに史料の重複であると思われる。
  これだけではなく『推古紀』には、すでに「新羅」に属しているはずの
 「任那」を「新羅」が攻めた、と記録されている箇所がある。
  何をいまさら「任那」を攻める必要があるのだろう、ということだが、
 この件は過去に何度も問題にしてきているので、ここでは深追いしない。

  そういうことなので、「境部摩理勢」大将軍任命のこの記事を、鵜呑み
 にはできないが、推古二十年二月二十日の条に、


 
 「皇太夫人堅塩媛を桧隈大綾に改めて葬った。この日軽の街中で誄を奏
 上した。第一番目に阿倍内臣鳥が、天皇のお言葉をよみたてまつり霊に物
 をお供えした、それは祭器・喪服の類が一万五千種もあった。二番目に諸
 皇子が序列に従って行われ、三番目に中臣宮地連鳥摩呂が蘇我馬子のこと
 ばを誄した。四番目に馬子大臣が、多数の支族らを率い、境部臣摩理勢に
 氏姓のもとについて誄をのべさせた。」


  とあるように、「摩理勢」は「馬子」に次ぐ地位であったようにみえる。

  その「摩理勢」は、「山背大兄王」を次期天皇に推し、「田村皇子」を
 推す「蘇我蝦夷」と対立することになった。
  「泊瀬王」の宮に隠れていた「摩理勢」だったが、にわかに「泊瀬王」
 が亡くなり、よりどころを失った「摩理勢」は、「蝦夷」の軍勢に殺され
 てしまう。

  崇峻天皇は架空とし認めてはいないが、「蘇我馬子」の手勢による崇峻
 天皇暗殺は、「泊瀬王」の死と「摩理勢」の事件をモデルにしたものでは
 ないかと思う。
  崇峻天皇は「泊瀬部天皇」であり、「泊瀬王」とよく似ている。

  「泊瀬王」は突然亡くなっており、


 
 「『摩理勢』臣は依るべきところがなく、泣きつつまた家に帰り、とじ
 こもること十日あまりすると、泊瀬王はにわかに発病して亡くなられた。」


  と、暗殺ではないかという声も聞こえるほどだ。

  崇峻天皇架空説も含めて暗殺されていないという最大の理由は、天皇殺
 害の首謀者も犯人もわかっているのに、誰も処分されていないという点に
 ある。

  首謀者は「蘇我馬子」、犯人は「東漢直駒」と『日本書紀』は記してい
 る。しかしただそれだけである。恐れ多くも天皇殺しである。なぜ処分さ
 れなかったのだろうか?それとも処分できなかったのだろうか?

  処分されなかった、できなかったとすれば、「馬子」は天皇以上の存在
 だったということになる。
  『日本書紀』は天皇家側の史書であるから、天皇が殺されたのならば、
 首謀者を滅亡させたと記していてもよさそうなのだ。

  しかしそのどちらもできてない『崇峻紀』。それは、ねつ造であったと
 断定するしかない。

  ただし後世、史書の読者が「ああ、あれか」と、知識を納得させる程度
 の真実性を持たせないといけない。
  そこで事件のモデルになる事実が必要になってくるのだが、それが「境
 部摩理勢」事件の裏に隠された、「泊瀬王」の死であったということだ。



  
7.押坂彦人大兄皇子


  「押坂彦人大兄皇子」は舒明天皇の父であり、敏達天皇の子である。母
 は「息長真手王」の娘「広姫」であるというから、「蘇我氏」の血統でな
 い皇子である。

  その名に「大兄」から連想できる一番の名とは、「中大兄皇子」ではな
 いだろうか。ただし「中大兄皇子」から「大兄皇子」を取ると「中」しか
 残らないので、これは名前ではないだろう。
  「中大兄皇子」には「葛城皇子」という別名もあったというが、ここで
 問題にしたいのは「大兄」という敬称である。

  一般的には6〜7世紀の大王家に見られ、王位継承の可能性が高い皇子
 であるらしい。「大兄」という制度は、文献でも発見されない限り証明で
 きないが、普通に考えれば「大兄」=「太郎」、つまり長男であるくらい
 は、何となくわかりそうだ。
  王位継承権を有す長男といえば、次期天皇に最も近い皇子であることに
 間違いなさそうだし、それは皇太子と言い換えても良いのではないか、と
 思う(事実『用明紀』では「太子彦人皇子」と記す箇所がある)のだが、
 『日本書紀』で「彦人大兄皇子」の活動を知ることはほとんど無い。

  孝徳二年三月二十日の条には、私が二朝並立状態であったことを証明す
 るために、よく引用する記録がある。それは次の箇所である。


 
 「『昔在の天皇等の世には、天下を混し斉めて治めたまふ。今に及びて
 は分れ離れて業を失ふ。(國の業を謂ふ)天皇、我が皇、万民を牧ふべき
 運にあたりて、天も人もこたへてその政惟新なり。是の故に、慶び尊びて、
 頂に載きて、伏奏す。現為神明神御八嶋国天皇、臣に問ひて曰く、『其の
 群の臣、連、及び伴造、国造の所有る、昔在の天皇の日に置ける子代入部、
 皇子等の私に有てる御名入部、皇祖大兄の御名入部(彦人大兄を謂ふ)及
 び其の屯倉、猶古代の如くにして、岡むや不や』とのたまふ。臣、即ち恭
 みて詔する所を承りて、奉答而曰さく『天に雙つの日無し。国に二の王無
 し。是の故に、天下を兼ね并せて、万民を使ひたまふべきたころは、唯天
 皇ならくのみ。別に入部及び所封る民を以て、仕丁に簡び充てむこと、前
 の處分に従はむ。自餘以外は、私に駈役はむこと恐る。故、入部五百二十
 四口、屯倉百八十一所を獻る』とまうす』とのたまふ」   
   


  この記録は、「中大兄皇子」と“我が皇”との会話であり、“我が皇”
 とは別にいる“現為神明神御八嶋国天皇”の存在が問題なのである。
  “現為神明神御八嶋国天皇”を孝徳天皇とすれば、“我が皇”とは誰の
 ことかということになるが、このことは本編に譲るとして、この記録には
 「皇祖大兄」を、「彦人大兄を謂ふ」と限定した注釈を付けている。

  御名入部とは、一説に


  
「皇族の功業を後世に伝えるために置かれた部民」


  であるというから、それ相当に惜しまれた人物であったには違いないの
 だろう。察するにその部民は「押坂部」のことだと思う。
  『清寧紀』・『継体紀』には世嗣ぎのない清寧天皇のために、白壁部舎
 人・白壁部膳夫・白壁部靱負をおいたことが記されているが、同列に値す
 ると思われる。それだけに何ら記録がないというのは実におかしな話だ。
  正確に言えば、誕生を記す『敏達紀』の一箇所と、「太子彦人皇子」・
 「彦人皇子」と記す『用明紀』の二箇所だけだ。

  「彦人大兄皇子」と推古天皇即位の説話を合わせて考えると、興味深い
 ことに気がつく。
  推古天皇は敏達天皇の皇后であったから、皇位を嗣がれるよう群臣が請
 うた、ということになっているが、これを事実とすれば、次期第一皇位継
 承者と思われる、つまり皇太子「彦人大兄皇子」は、すでに亡くなってい
 たことになると思う。

  『日本書紀』自ら「皇祖大兄」と記している「彦人大兄皇子」が亡くなっ
 たのだ。その記録を載せてない『日本書紀』の編纂姿勢を疑いたくなると
 いうものだが、そうではなく、本来あって消されてしまったと考えてみた
 くなる。

  「彦人大兄皇子」は、敏達四年春一月九日に初めてその名が記されてか
 ら、推古天皇前期までの間を一応の生年間とすると、そこは『用明紀』・
 『崇峻紀』の巻二十一が該当巻であるが、この巻はねつ造であるから、ね
 つ造前の巻二十一には、「彦人大兄」の名があったのかも知れない。

  巻二十一の主なテーマは、


  
1.厩戸皇子の誕生
  2.蘇我・物部崇仏廃仏戦争
  3.蘇我馬子の手勢による崇峻天皇の暗殺


  であった。

  この三つともなかったと言えるわけだが、史書の読者を納得させられる
 だけの、モデルとなる相応の事件はあったはずなのだ。

  このうち、蘇我vs物部崇仏廃仏戦争の元の逸話は何であったのか。

  『先代旧事本紀』が沈黙しているように、実際には一族挙げての戦争は
 なかったのであり、『日本書紀』のその箇所を読んでも、寺院建立伝説に
 しか読めないのであるが、はたしてそれはどのような事件がモデルになっ
 ているのだろうか、を推測してみたい。

  『用明紀』には非常に気になる記録が残されている。二年夏四月二日の
 条に、


  
「…このとき押坂部史毛屎があわててやってきて、こっそり(物部)大
 連に告げて、『今、群臣たちは、あなたをおとし入れようとしています。
 今にもあなたの退路を絶ってしまうでしょう』といった。大連はこれを聞
 き、別業のある河内の阿都にしりぞいて人を集めた。中臣勝海連は自分の
 家に兵を集め、大連を助けようとした。ついに太子彦人皇子の像と竹田皇
 子の像を作ったまじないをかけ呪った。少し足ってから事の成り難いこと
 を知り、帰って彦人皇子の水派宮の方へついた。舎人迹見檮は、勝海連が
 彦人皇子の所から退出するのを伺って、刀を抜き殺した。」



  とあるが、「物部守屋」に荷担した「中臣勝海連」(なかとみのかつみ
 のむらじ)が呪い殺そうとした相手こそ、「彦人大兄皇子」と「竹田皇子」
 だというのだ。ここには「守屋」の敵である「蘇我馬子」の名前はない。
  「勝海連」が「守屋」を助けようとすれば、「馬子」を真っ先に呪うべ
 きだろう。 ・・          ・・・
  しかも、「押坂彦人大兄皇子」に、「押坂部史毛屎」(おしさかべふひ
 とけくそ、と読むが、酷い名前である)の進言により呪いを掛けるという
 矛盾すら記している。
  この後、宗教戦争へと続いていくのであるが、結局「馬子」には関係が
 ないことだったのではないか。

  「馬子」のいない宗教戦争などあったものではない。そこで崇仏廃仏を
 抜きにして、このあたりの状況を推察してみると、一つのストーリーがで
 きあがってくる。

  まず群臣たちが、「物部守屋」をおとし入れようとした理由なのだが、
 この用明二年四月には、用明天皇が疱瘡で崩御した。
  しかし、用明天皇は存在していないのだから、これは同じく疱瘡(疱瘡
 で死ぬ者が国に満ちた、というからそうであろう)で崩御した敏達天皇の
 ことである。

  敏達天皇の崩御後、自ら天皇になろうとした「穴穂部皇子」、それを推
 す「物部守屋」と、皇太子「彦人大兄皇子」・「竹田皇子」が対立したと
 いうことになる。
  「穴穂部皇子」のやり方は手が込んでいて、敏達崩御後「御食炊屋姫」
 (敏達天皇の后で推古天皇)を自分の物にしようとするが、敏達天皇の寵
 臣「三輪君逆」(みわのきみさかう)の反撃に遭い失敗し、「物部守屋」
 を抱き込んで「三輪君逆」を殺してしまった。どうやらこのことで、「守
 屋」は全群臣を敵にしてしまったようなのである。

  ただ、これも『日本書紀』を背景にしているので、結果は同じでも「守
 屋」の姿勢は間違ってないかも知れない。
  というのは、欽明天皇と敏達天皇は断絶があると見ているからである。
 敏達朝と舒明朝は、「倭国」に置いたまさに「百済」大使館だったとみて
 いい。
  この「百済」大使館と「倭国」政権は、ある時は協調し、ある時は抗争
 を繰り広げていた。
  欽明朝の皇太子は後の敏達天皇ではない。天皇となろうとした「穴穂部
 皇子」だった可能性も捨てきれない。

  「彦人大兄皇子」・「竹田皇子」は群臣たちと「守屋」を謀りにかける
 が、「中臣勝海連」が邪魔をした。
  しかし勝機を見いだせない「中臣勝海連」は、皇太子「彦人大兄皇子」
 につき「彦人大兄」の宮へ行くも、その帰路待ち伏せしていた「舎人迹見
 檮」(とねりとみのいちい)の刃に倒れてしまった。 
 
  窮地に陥った「守屋」は「穴穂部皇子」を裏切り殺そうとするが、計画
 が漏洩してしまい失敗、しかし「蘇我馬子」により「穴穂部皇子」は討た
 れた、とこのようである。

  ところで『日本書紀』によれば、蘇我vs物部の恩賞は、ただ一人「迹見
 首赤檮」(とみのおびといちい「舎人迹見檮」と同一人物だろう)に田一
 万代(約100ha)が賜れた。
  「物部守屋」を彼が射殺したからだろうが、「蘇我馬子」側に立った皇
 子や群臣の中に彼の名前はない。
  また恩賞は彼以外に賜られていない。戦争だったとしたら、この戦後処
 理は功労のあった者等から、不平不満が噴出すること間違いなしなのだが、
 そのような記述は一切ない。
  別におかしいことではない、宗教戦争はなかったのだから。

  すると彼の功績とは「中臣勝海連」を討ったこと以外にない。恩賞は、
 「彦人大兄皇子」によって賜れたものであると推測できる。「彦人大兄」
 は、「勝海連」によほど腹を立てていたのだろう。
  自分を呪った相手が戦況が不利と見るや、自分に寝返ったのであるから
 それは許し難いことだった。

  ところで、もう一人名前の記載がない人物がいる。

  「彦人大兄皇子」その人である。

  同士の「竹田皇子」は名を連ねているのだ。

  『日本書紀』の言うとおり蘇我物部戦争だったにせよ、私見による「穴
 穂部皇子」vs「彦人大兄皇子」だったにせよ、「彦人大兄皇子」は呪詛対
 象の張本人であったわけであるから、名前を連ねてないことは全然解せな
 い話だ。
 
  前振りが長くなってしまったが、「彦人大兄皇子」は皇太子であったと
 言えよう。
  これは『日本書紀』が、うっかり「太子彦人皇子」と記していることで
 も理解できるはずだ。

  しかし『日本書紀』は、この時代の皇太子を「厩戸皇子」=聖徳太子だ、
 と言っている。

  『用明紀』〜『推古紀』に登場する「厩戸皇子」が皇太子とする以上、
 皇太子「彦人大兄皇子」は隠しておかなければならない。一国に皇太子は
 二人といないからである。

  蘇我vs物部戦争で「彦人大兄皇子」の名がないのは、そのためではない
 だろうか。記されていないのではなく、記すことができなかったのだ。

  ただし、「厩戸皇子」は『日本書紀』のねつ造であるというのが私見で
 ある。
  「彦人大兄皇子」は名前こそ連ねてはいないが、そこに間違いなく参戦
 していたに違いない。「厩戸皇子」などいなかったのだから、そこにいた
 皇太子は「彦人大兄皇子」しかいない。

  この戦争は、明らかの加筆ねつ造である。

  「迹見首赤檮」の恩賞が、それを物語っている。

  『日本書紀』が「彦人大兄皇子」を抹殺した理由は、こればかりではな
 いだろう。

  「彦人大兄皇子」は敏達天皇の皇子であり舒明天皇の父とされている。
 しかも「皇祖大兄」だ。本編では、「彦人大兄皇子」は処分された可能性
 があるとも指摘しておいたが、とんでもないからくりが隠されているよう
 にしか思えない。



  
8.大々王


  『元興寺縁起帳』に記されている大々王とは、『先代旧事本紀』に名を
 残す「物部守屋」の妹「物部鎌姫大刀自連公」のことである。
  『先代旧事本紀』では、この「鎌姫」が「蘇我馬子」の妃となり、「入
 鹿」を生んだことになっている。
  私見では、「鎌姫大々王」が「蘇我馬子」と政治を司った、本当の「推
 古天皇」と考えている。

  『日本書紀』の推古天皇は、その名を「御食炊屋姫」というが、幼名は
 「額田部皇女」といったらしい。しかし「御食炊屋姫」は、「鎌姫大々王」
 を上塗りするために創られた女帝の名であり、「額田部皇女」こそ実名だ
 と考えている。

  欽明朝衰退の後、「倭国」に進出してきた「百済」が、大和に設置した
 政治的出先機関が敏達朝・舒明朝であり、各々の宮は「百済の大井宮」・
 「百済宮」であった。


  
「自分は重病である。後のことをお前にゆだねる。お前は新羅を討って、
 任那を封じ建てよ。またかつてのごとく両者相和する仲となるならば、死
 んでも思い残すことはない」



  この言葉は、欽明天皇が臨終に際して皇太子に述べたものと『日本書紀』
 はいうが、次期敏達朝とは断絶しており、皇太子ではなく「蘇我馬子」に
 告げた言葉であった、というのが私見である。

  
  
「新羅を討って…」


  と言うが、これが本当に「新羅」であったとは思えない。欽明の殯の際
 に、「新羅」は国を挙げて哀悼の意を表している。討つべきは「百済」で
 はなかったか。
 
  そして、欽明が全権を委ねた者とは「蘇我馬子」であったと思われる。

  「馬子」は百済王族「昆支王」の血筋であり、混乱期の「百済」を逃れ
 「倭国」に身を潜めていた「武寧王」の甥に当たるのだと推察する。
  「武寧王」は、「嶋王」の別名があり、「木満致」とは異母兄弟と思わ
 れる。「満致」の子に「蘇我稲目」。「稲目」の子が「武寧王」と同じ、
 「嶋大臣」の名を持つ「蘇我馬子」である。
  「武寧王」は継体朝と同盟し、そのまま「倭国」に参政したのである。

  以上を下記のように二朝並立時代と解釈している。


  
「百済領事」 敏達───舒明─────皇極(斉明)─天智─弘文

  「倭国政権」 蘇我馬子─物部鎌姫大刀自連公─孝徳─────天武
                (厩戸皇子摂政)


  この大々王「物部鎌姫大刀自連公」時代を、『日本書紀』は推古天皇と
 して在位期間に充てたのである。

  舒明天皇の母は、敏達天皇の子「糠手姫皇女」(ぬかてひめみこ)であ
 るのだが、私の持っている『日本書紀』は「糠手」に“あらて”と仮名が
 振ってある。“あら”とはなかなか読めないと思うのだが、どうであろう
 か。
  さて、『聖徳太子伝古今目録抄』では舒明天皇の母は、推古天皇である
 と記しているので、「糠手姫皇女」=「額田部皇女」であったと本編中で
 述べているのだが、推古天皇は「糠手姫皇女」でも「額田部皇女」でもな
 いので、これは推古天皇=「額田部皇女」とする『日本書紀』成立後の加
 筆となる。
  そこに厩戸皇子摂政時代を挿入したところで、「百済領事」系ではない
 「物部鎌姫大刀自連公」を、推古天皇時代として『日本書紀』が採用する
 理由はないので、本来、敏達・舒明の間に「彦人大兄」の即位があったに
 もかかわらず、その事績は消されたのではないか。

  『推古紀』は、敏達天皇の皇后だったから「額田部皇女」が皇位を嗣い
 だと理由付けているが、『敏達紀』には「彦人大兄皇子」と名は記されて
 いるのだから、順当に行けば「彦人大兄」が皇位を嗣ぐことになるはずで
 ある。
  しかし「彦人大兄」については逸文さえもなく、推理にもならない。

  ただ、ここで言えるのは、その内容は改ざんであったにせよ『推古紀』
 の採用があったからこそ、「蘇我氏」の抹殺は避けられたのであって、仮
 に『彦人大兄紀』であったとしたら、「蘇我氏」は汚名返上できたとして
 も、敗者として正史に名は残っていないだろう。

  「馬子」・「鎌姫」・「厩戸」の時代(『日本書紀』でいう『推古紀』)
 は、文化文明的にも外交的にも、非常に隆盛した時代だったのだと思う。
  やむなく採用したであろう『推古紀』(本当は「鎌姫」)。その中で記
 されている「蘇我氏」実態は、その数倍すばらしいことだったに違いない。



  9.小野妹子
   

  『日本書紀』によれば、推古十五年(607)に遣隋使として派遣され、
 翌年「裴世清」を伴って帰国したとされているが、帰国の際「百済」にて
 なんと「煬帝」の返書を盗難に遭ってしまったという。「妹子」は流刑に
 処されるところを、天皇の恩赦により罪に問われなかった。このときは通
 訳に「鞍作福利」が同行している。
  返書盗難は『日本書紀』の嘘である。返書(国書)は、使者である「裴
 世清」が持つものであり、「妹子」が持っていたとはあり得ない。
  しかし盗難にあった者が「裴世清」であり、それを「妹子」がかばった
 ということならあるだろう。ただし「裴世清」は御門の前で、盗まれたは
 ずの返書を読んでいる。

  『隋書倭国伝』にはあの有名な、


  
「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
 (日を出ずる処の天子、書を日を没する処の天子に致す。恙なきや云々) 



  という一文があり、『隋書』には持参者の記載はないが、「小野妹子」
 以外とは考えにくい。

  同年九月、返書と「裴世清」の帰国に伴って再び派遣された。

  「小野妹子」は大使、「吉士雄成」を小使とし、通訳は「鞍作福利」が
 通訳として随行した。
  さらに随行した学生学問僧らは8人いたが、その中に「高向漢人玄理」
 の名がある。

  遣隋使当時の「小野妹子」の冠位は“大礼”であったが、後に最高位の
 “大徳”に昇進している。

  さて、「小野妹子」は「蘇因高」とも書いた。これは「隋」の役人が、
 「妹子」の名乗った発音を聞いて充て字をしたものだ。このことから「蘇
 我蝦夷」が「妹子」の子「小野毛人」と同音であり、「小野毛人」は「蘇
 我蝦夷」のモデルになったことは前述してあるが、はっきり言って、『隋
 書倭国伝』の「小野」(蘇)は「蘇我」そのものだ。そうすると、“エミ
 シ”の父である「小野妹子」と「蘇我馬子」は同一人物だったのではない
 か、と問いたくなる。

  「小野妹子」を「蘇我」と入れ替えると、「蘇我妹子」となり「蘇我馬
 子」とそっくりになる。


  
so(ga)imoko

  so(ga)umako


  『隋書倭国伝』の「蘇因高」は、


 
 so inko


  であり、これが実際の発音であるから、「蘇因高」をその中心に置けば、


  
imoko←inko→umako


  と、完全に音韻変化や方言転訛のうちに収まってしまう。
  ・・・・・・・・・   
  歴史上の重要な人物で、同じ時代に、同じ場所で、同じ名乗りであった
 者が、別人であるはずがない。それは、そのどちらかが本物で、どちらか
 がクローンであるかであり、編纂側がそれを意図的に区別して記載したの
 である。
  もしくは充て字が違うため同一人物と判断がつかず、別の人物として記
 載してしまったとも考えられるが、その記録が行為を伴っていれば、意図
 的な区別でしかない。

  ところがそのことは理解できているつもりでも、「小野妹子」=「蘇我
 馬子」の理解は、相当な抵抗により阻まれてしまう。

  「妹子」が「隋」に派遣されたことは史実なのだろうか。それはとりも
 なおさず、「馬子」が「隋」に行ったということになってしまう。 

  『隋書倭国伝』を見てみると、


  「大業三年、その王多利思比孤、四を使を遣わして朝貢す。」


  と、意外にも使者の名を記してない。ちなみに『隋書倭国伝』には、


  
「小徳阿輩台」
  「大礼哥多比(比は田に比と書きます)」


  と倭国人二人が記載されており、岩波文庫の『魏志倭人伝』には、各々


  
「大河内直糠手・難波吉士雄成か」
  「額田部連比羅夫か」

  
  と注記されているが、「小徳阿輩台」は大礼の「雄成」ではないから、
 「大河内直糠手」になる。そうすると、「阿輩台」=「河内」、「哥多比」
 =「額田部」(どうやら“ぬ”は発音されてないようである)となるのだ
 ろうか。

  人名当てをしているわけではないので、これはこれで良いと思うが、こ
 の二人は「裴世清」一行を迎え入れる「倭国」での接待係である。『日本
 書紀』は冠位を記していないが、『隋書』はしっかり記している。

  『隋書倭国伝』では


  
「内官有十二等」


  と記し、冠位十二階の制度をよく承知していたのである。

  それなのに、遣隋使の主役である「大礼蘇因高」の名を、『隋書倭国伝』
 はなぜ記してないのだろう。

  619年、「隋」が滅び「唐」が立ったので、その後は遣唐使と言うが、
 当時の遣唐使船が、平城遷都1300年記念事業に際して復元されている。
 これは船底が平底の箱形構造に帆を張った船であり、早い話が大型のタラ
 イ舟に帆を張ったようなものだ。
  一般に我々が想像する船舶は竜骨船であり、船底が湾曲して船首・船尾
 が海面から突き出している船である。
  そんな遣唐使船は、順風で海が穏やかなときは安定しているが、横風や
 波浪、荒波の影響を受けると簡単に難破してしまった。遣唐大使に任命さ
 れながら、病と称し行かない者が何人もいたし、あの「菅原道真」さえ、
 遣唐大使に任命されたときは、遣唐使の停止を建議し実行されたのだから
 渡航は命がけであった。
  通常は四隻での渡航であり、かろうじて一隻でも到着すれば良いほうで、
 渡航した人数の半数も帰国できなかったという。

  もっとも「道真」は


  
「国家の大事のために申しているのであって、自分の身の安全のために
 申しているのではありません。私の誠心を披露して処置を求めます。以上
 謹んで申し上げます。」 



  と書状を提出している。

  話が横道にそれたが、このような命がけの渡航を大使として二度までも
 成功させた「蘇因高」であった(三世孫の小野石根は遭難、子孫とも言わ
 れている小野篁は二度就航したが二度とも難破。二度の渡航成功者は、知
 る限り吉備真備だけである)というが、遣隋使の話は二度の渡航成功を、
 『隋書』名前の記載のないことも手伝って、にわかには信じさせない。

  ただ帰国時には「裴世清」を伴っているから、隋船だったであろうし、
 二度目の出国時も隋船だったであろう。

  その帰国の際には、


  「ただ通訳の福利だけは帰らなかった。」



  と記す『推古紀』から推察すれば、帰国を嫌がったのか遭難したのかは
 判らないが、倭船だったのだろうと思う。

  断っておくが、当時「倭国」の航海技術は、それなりに高度であった。
 ただし、船が大型化されるまでという条件付きだ。
  この時代より以前の「倭人」は丸木船を横に並べた双胴船で、帆と櫨を
 使って航海した。全長が10mほどの双胴船は、その構造上壊れることが
 なく、風や横波にも強いのである。



  
10.アメタリシヒコ


  さて、再び話が横道にそれたが、『隋書倭国伝』は「倭国王」

 
         1     *(文字コードにないため類字です)  
  「阿海多利思北(比)孤、阿輩雉彌」(1→北か比か、どちらにもとれ
 る微妙な文字)


  と王の妻

  
 *
  「雉彌」


  を記している。

  音を充てれば、「倭国王」


  
「あめたりしひこ、あわきみ(おおきみ)」


  と王の妻


  
「きみ」


  なのだろうが、この記録は開皇二十年、すなわち推古八年(600)の
 ことであり、このアメタリシヒコが同年、遣使したと記録されているのだ
 が、『日本書紀』には記載がない。

  もっとも『日本書紀』は、推古八年春二月の条に


  
「新羅と任那が戦った。天皇は任那を助けようと思われた。」


  などと、562年に「新羅」によって滅亡させられた「任那」のことを
 記していて、これ自体あり得ない話であり、これを信用しろと言われても
 到底無理がある。
  この時代「任那」はなく「新羅」領であり、両国が戦ったというならば
 「任那」が仕掛けたということである。しかしながら『三国史記』は「任
 那」(加耶)を562年を最期に記しておらず、かえって『日本書紀』の
 562年「任那」滅亡を裏付ける結果となっている。

  『隋書』にあって『日本書紀』にない第一回目の遣隋使だが、その両書
 ともに嘘を書く理由がないから、その双方が本当だとすれば、この第一回
 目は国家プロジェクトではなかった、という理解しかできない。

  そのアメタリシヒコだが、該当する時代は『日本書紀』通り「御食炊屋
 姫」であっても、私見通り大々王「鎌姫」であっても女帝であり、男性大
 王ではない。
  しかし、アメタリシヒコは男性名称である。ましてやキミという王の妻
 を記しているくらいだから、間違いなく男性大王であったのである。

  一般的な見解は、アメタリシヒコを聖徳太子か「蘇我馬子」としている
 が、『隋書』は「利歌彌多弗利」という皇太子を記しているので、これを
 聖徳太子とすれば、アメタリシヒコの該当者は「蘇我馬子」ということに 
 なるが、実は聖徳太子が天皇に即位してたこもしれない。

  ただ、「阿海多利思北孤、阿輩雉彌」にしても「利歌彌多弗利」にして
 も、中華思想による「蔑字」ではない。
  そこでこれは「倭国」からの国書にあった名乗りだったのではないか、
 と推測できるのだが、「利歌彌多弗利」が普通名詞だとしたら、これは
 「和歌彌多弗利」の誤植だったと思われる。
  そうであれば、これは“わかみたほり”と発音でき、「若御裔」(わか
 んとおり)のことだとわかる。つまり皇族を示すものである。

  このように考えてみると、『隋書』には王と王の妻と太子がいると言っ
 ているだけであったことがわかってくる。

  大王「蘇我馬子」の妻は、「物部守屋」の妹「物部鎌姫大刀自連公」で
 あり、太子は「厩戸皇子」すなわち聖徳太子であったとすれば、


  
「推古天皇の御世に、参政となって、石上神宮をお祀りした。」


  と証言する『先代旧事本紀』の「鎌姫」は、『隋書』とも、大々王と記
 す『元興寺縁起帳』とも、推古天皇と記す『日本書紀』とも一応の矛盾を
 見ず繋げることができる。
  それは、「阿海多利思比孤阿輩雉彌」=大王「蘇我馬子」、「雉彌」=
 大々王「物部鎌姫大刀自連公」である。
  「和歌彌多弗利」=太子は、豊浦大臣=「蘇我入鹿」=聖徳太子とした
 いが、敏達即位から推古薨去までの56年間に太子と思われる人物が、


  
「彦人大兄皇子」
  「竹田皇子」
  「穴穂部皇子」
  「橘豊日皇子」(後の用明天皇、太子時代以前の幼名がない)
  「泊瀬部皇子」(後の崇峻天皇、用明天皇と同様太子時代以前の幼名が
 ない)
  「厩戸皇子」
  「田村皇子」(太子の定めはないが、後の舒明天皇である)
  「山背大兄皇子」


  と、八名もいる。このうち用明・崇峻はねつ造、舒明は別政権の大王な
 ので除外すると五名になるが、「厩戸皇子」はすでに名が挙がっており、
 「山背大兄皇子」は、一応「厩戸皇子」の子になっているから、除外する
 と三名である。

  「穴穂部皇子」は「馬子」の敵に回ったというから、これも除外できる。

  そうすると「彦人大兄皇子」と「竹田皇子」の二名が残るのだが、「竹
 田皇子」は死亡記事こそ無いものの、亡くなっていたことは、『推古紀』
 巻末に推古天皇を「竹田皇子」の稜に合葬した、という記録からもわかる。

  ここでも唯一「彦人大兄皇子」が残る。

  この人物の秘密は到底知るよしもないが、記録が破棄されているとすれ
 ば、ねつ造よりも質が悪い。


  
「中臣勝海連は自分の家に兵を集め、大連を助けようとした。ついに太
 子彦人皇子の像と竹田皇子の像を作ったまじないをかけ呪った。」



  『用明紀』二年の条にある、「中臣勝海連」のこの行動が常に気になっ
 ている。なぜ「彦人大兄皇子」と「竹田皇子」を呪ったのだろう。前述し
 たとおり、「物部守屋」の敵は「蘇我馬子」ではなく、「彦人大兄皇子」
 と「竹田皇子」だったわけであるが、そう推測する以外一切わからない。

  同世代の「穴穂部皇子」は、


 
 「ひそかに天下の王たらんことを企てて」


  と『用明紀』にあるが、「蘇我馬子」らに滅ぼされるまでの一連の行動
 が記されている。
  ただ言えることは、「竹田皇子」は「蘇我」の血と言えるのだが、「彦
 人大兄皇子」もまた「蘇我氏」に近い間柄にあった、ということではない
 か。

  もちろん『記紀』からは「蘇我」系の皇子とは読めない。
 
  しかし、そう考えなければ、この二人に対する『日本書紀』の扱い方は
 異常である。



  
11.厩戸皇子


  「厩戸皇子」とは、一般的には聖徳太子という名で認識されている。

  別名として『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命」、『日本書紀』では
 厩戸皇子のほかに「豊耳聡聖徳」、「豊聡耳法大王」、「法主王」、『万
 葉集』では「上宮聖徳皇子」などさまざまあるが、この名称の中に名前ら
 しきものは含まれてない。また聖徳太子でもない。

  聖徳太子という名称は、『日本三代実録』・『大鏡』・『東大寺要録』・
 『水鏡』に見え、いずれも平安時代に成立した史書である。『日本書紀』
 の成立からは百数十年経った後のことだ。

  「厩戸皇子」の「厩戸」とは、


  
「母は穴穂部間人皇女である。皇后は御出産予定日に、禁中を巡察して
 おいでになったが、馬司の所においでになったとき、厩の戸にあたられた
 拍子に、難なく出産された。…父の天皇が可愛がられて、宮殿の南の上宮
 に住まわされた。」『推古紀』



  ところからいうのだが、「上宮厩戸豊聡耳太子」を一応のフルネームと
 している。

  「佐治芳彦」氏は、前述の著書『聖徳太子の陰謀』の中で、次のように
 述べている。


  「だが、ちょっと奇妙ではあるまいか。すなわち、太子死後100年も
 経っていないのに、あれほど高く評価されていた人物の実名が「かき消さ
 れ」てしまったというのは……。
  どう見ても私には納得できない。第一、不自然である。
  ちなみに『書紀』の推古紀は、実質的には「聖徳太子紀」である。そし
 て、推古天皇はじめ多くの登場人物は実名がはっきり出ているのだ。
  私の歴史感覚からすれば、有名人ないし重要人物であればあるほど、そ
 の名が後世に残る、つまり記憶されるはずである。存在したかどうかもわ
 からない古代天皇でさえその名は一応残っているくらいなのだから。
  にもかかわらず、実名がないということは、まさに謎もいいところだ。
 大胆にいえば、そうした人物は存在しなかったと見てよいのではあるまい
 か。
  せいぜい存在したとしても、その実名など忘れられる程度の平凡な人物
 だったと盛るのが常識だろう。
  そのような人物を、もろもろの必要から、聖徳太子などとまつりあげて
 はみたものの、結局、その実名の点でボロを出したわけである。もっとも
 らしい名前をつけようにも、適当なアイデアがでてこなかったというわけ
 だ。
  また、モデルにした平凡な皇子の実名をそのまま使用(踏襲)すれば、
 あんな人物が聖徳太子などというのは、チャンチャラおかしいという世評
 が出ることは必然である。
  それならば、いっそ実名など出さないほうがマシである。それが聖徳太
 子の実名がない理由だったのではあるまいか。」


  聖徳太子は「蘇我入鹿」であるから、『日本書紀』で世紀の大悪人に仕
 立てられた「入鹿」では実名が知られないほうがマシであろう。

  「厩戸皇子」の活躍したとされる時代は、そのまま「蘇我馬子」の時代
 でもある。冠位十二階も十七条の憲法も、実際に制定されたのだとすれば、
 それは「厩戸皇子」事績ではなく「蘇我馬子」の事績であったはずだ。
  いくら摂政であったとはいえ、大王を差し置いての政治はできるはずが
 ない。大王が推古女帝であっても、それは同じことが言えよう。

  「佐治芳彦」氏は、次のようにも述べている。


  
「聖徳太子という一石を推古時代に置くことによって、蘇我氏悪玉論が
 成立する。つまり、太子の政治的理想を妨げた蘇我馬子、さらに専横を極
 めたその孫の入鹿、ここにおいて乙巳の変(入鹿暗殺)は正当化されるこ
 とになる。さらに壬申の乱は 、乙巳の変後の改革をサボった近江朝に対す
 る天智の皇太弟天武の批判的行動である。……という正当化の論理になり、
 天武系皇統の正当化が完了する(つまり、すべては天武にはじまる)。
  ここで、はじめて聖徳太子の存在が、いかに偉大な政治的効果をもたら
 したかということがわかるというものだ。」


  聖徳太子像に関して言えば、まさにこれに尽きると思う。

  またはっきり言ってしまえば、「厩戸」も「馬子」もともに“うまこ”
 と発音でき、「厩戸皇子」は「馬子皇子」と書き換えることができる。

  聖徳太子否定論を説く学者の多くは、「厩戸皇子」は「蘇我馬子」のダ
 ミーであるという。つまり「蘇我馬子」こそ聖徳太子のモデルであった、
 ということだが、大王「蘇我馬子」の皇子だから「厩戸皇子」とも考えら
 れるのではないだろうか。

  「厩戸皇子」が実在し、崇峻天皇が実在していたとしたら、崇峻天皇を
 殺した「馬子」を、野放しにしておいたのはなぜか。

  「厩戸皇子」は皇室の人である。

  どんな理由があるにせよ、「馬子」は「倭国」の頂点に君臨する天皇を
 暗殺したのである。
  政敵である「物部守屋」を「厩戸皇子」は殺している。天皇殺しの「馬
 子」は、政敵どころか朝敵ではないか。
  「厩戸皇子」の児とされる「山背大兄王」を殺した「入鹿」は、それを
 理由に滅亡へと追い込まれていった。それ以上の天皇殺しである「馬子」
 に、非難の声さえあがらなかったのはなぜだろうか。

  幕府儒官林家の始であった「林羅山」は、

 
 
 「太子は天皇殺しの馬子と『同士の人』であると非難し、聖徳太子は叛
 臣馬子と同罪であるとした。」(『聖徳太子の陰謀』佐志芳彦氏著)


  くらいなのである。

  このことを合理的に解釈するには、崇峻天皇の実在・非実在にかかわら
 ず、「馬子」こそ最高権力者であり、「厩戸皇子」は架空か実在したとし
 ても、「物部守屋」討伐後の太子は別人にすり替わったったとするしかな
 い。

  ただし、この宗教戦争のエピソードは、単なる四天王寺創建伝承にほか
 ならない。

  つまり神話である。

  用明天皇の皇子として生まれ「穴穂部間人皇女」を母とするが、その出
 生エピソード自体も完全に神話である。
  しかも用明天皇はねつ造された天皇であるとすれば、少年時代の「厩戸
 皇子」(宗教戦争時14歳であるという)もまた、言わずもがなまったく
 のねつ造である。



  
12.菟道磯津貝皇女


  敏達天皇と「息長真手王」の娘、「広姫」との間に生まれた第三子に、
 「菟道磯津貝皇女」(うじのしつかいのひめみこ)がいる。

  「押坂彦人大兄皇子」は皇女の兄に当たる。

  『日本書紀』は、


  
「四年春一月九日、息長真手王の女広姫を立てて皇后とした。一男二女
 を生んだ。」


  と記している。

  同年冬十一月、皇后「広姫」が亡くなり、敏達天皇は「豊御食炊屋姫尊」
 を立てて次の皇后としたのだが、その第一子が「菟道貝鮹皇女」(うじか
 いだこのひめみこ)である。そして『日本書紀』はまたの名を「菟道磯津
 貝皇女」と記していて、彼女を聖徳太子妃であるというではないか。

  同じ名を持つ皇女が二人いることになるのだが、記録の取り違えなどで
 こういうこともあろうと良心的に考えたとしても、次の一文には大いに疑
 問がある。


 
 「七年春三月五日、菟道皇女を伊勢神宮に侍らせた。しかし池辺皇子に
 犯されるということがあり、露わになったので任を解かれた。」


  まず「池辺皇子」とは『元興寺縁起』などによれば、用明天皇であると
 いうが、相手の「菟道皇女」は「広姫」の娘なのだろうか、それとも聖徳
 太子妃なのだろうか。これではどちらかわからないし、意図的にわからな
 くしたのかも知れない。
  仮に編纂者側の善意によって曖昧にされたと解釈しよう。すると任を解
 かれた「菟道皇女」は聖徳太子妃と推測できる。ではそれが悪意だとした
 ら。

  それでもやはり聖徳太子妃だ。

  この皇族譜を『日本書紀』から見当付けることは、おおよそ不可能であ
 るので、『古事記』にはどう記してあるのだろうか。

  私の『古事記』に対する考えは、『日本書紀』成立後の平安時代初期に
 編纂された書である。従って、その説話の多くは『日本書紀』から採用さ
 れたと考えているが、天皇や皇子達の族譜は『古事記』のほうが詳細であ
 り、『日本書紀』にはない記述もあることから、ここに『古事記』の存在
 意義があると考えている。

  さて『古事記』によると、推古天皇の第一子は


  
「静貝王、亦の名は貝鮹王。」


  であり、


  
「息長眞手王の女、比呂比賣命を娶して、生みませる御子、忍坂の日子
 人の太子、亦の名は麻呂古王、次に坂騰王、次に宇遅王。」



  と区別しており、同一名とはなっていない。

  このように『古事記』と『日本書紀』を対比すると、任を解かれた「菟
 道皇女」とは「広姫」の娘であることがわかってしまう。

  つまり聖徳太子妃ではなかったわけだ。

  しかし『日本書紀』は、聖徳太子妃としたがっているところから、太子
 を讃える記述とは裏腹に、密かにおとしいれようとしているのだ、と考え
 たくなってしまう。
  厩戸皇子=聖徳太子自体はねつ造であることから、そのその裏の顔であ
 る人物をおとしいれているのである。

  『日本書紀』は、「豊御食炊屋姫尊」(推古天皇)が生んだという二男
 五女を、次のようにあげている。


  
菟道貝鮹皇女−またの名は菟道磯津貝皇女
  竹田皇子
  小墾田皇女
  (『古事記』ではここに葛城王をあげている)
  鵜守皇女(類字表記『古事記』では宇毛理王)−またの名は軽守皇女
  尾張皇子
  田眼皇女
  桜井弓張皇女


  実のところ、これらの皇子・皇女は整理して考えることができる。

  まず「菟道貝鮹皇女」であるが、言うまでもなく、先述の「菟道磯津貝
 皇女」と同一視できる。
  「小墾田皇女」は、「小墾田」に宮を構えた推古天皇本人と思われ、同
 時に「額田部皇女」=「糠手姫皇女」であり、「糠手姫」は別名を「田村
 皇女」ともいうから、類する「田眼皇女」も同一だろう。

  「桜井弓張皇女」は「太姫皇女」の別名、「桜井皇女」とそっくりだ。

  「尾張皇子」の「owari」は、「尾張氏」の「owari」とは別だと思う。
 そもそも「owari」とは、『真説日本古代史』本文ですでに説明している
 が、中国の「憂婆畏」と同じ意味で、元来はインド語で「ウパイ」と呼ば
 れた、女性仏教徒を指す名詞が転訛したものである。
  それが後に女王国仏教集団を指す名詞に変わったのであって、その代表
 的な氏族が「尾張氏」であり、名乗りもそのまま「尾張」であった。

  「尾張氏」は「連」姓であるが、「物部連」に代表される「連」姓であ
 るが、これは官職や職業を表しているという。
  女王仏教国であることを知らないと「尾張氏」の名乗りの意味がさっぱ
 りわからなくなってしまう。

  推古天皇自身も仏教に邁進した女王であった。推古天皇の宮は「小墾田
 宮」であり、この「小墾」も「owari」である。

  「尾張皇子」の娘に「橘大郎女」がいるが、彼女は聖徳太子に嫁いでい
 る。「橘」は「tachibana」であるが「立花」とも「立華」とも書き、こ
 のように書けば「tachika」とも読める。
  「蘇我馬子」の娘に「刀自古郎女」がいるが、彼女もまた太子に嫁いで
 いる。「刀自古」は「tojiko」であり「立花」と発音に共通性がある。
  すると「尾張皇子」は「蘇我馬子」のダミーであるか、太子=「入鹿」
 を表しているのではないかと思われる。

  「鵜守皇女」の「umori」も「尾張」と同様「憂婆畏」の転訛だと思わ
 れるので、「尾墾田皇女」と同意になる。

  唯一残ったのは「竹田皇子」である。

  この皇子だけは、推古天皇(実は「額田部皇女」=「糠手姫皇女」)が
 臨終の際、


  
「この頃五穀が実らず、百姓は大いに飢えている。私のために陵を建て
 て、厚く葬ってはならぬ。ただ竹田皇子の陵に葬ればよろしい。」


  と言い残されているところから、実在を否定するものではないが、「糠
 手姫皇女」の子であったか、「御食炊屋姫尊」が実在していて、彼女の子
 であったかは判断できない。

  『敏達紀』以降は、ここに記した以上に重複や類似がみられ、『記紀』
 を対比して見ることにより、かなりの部分で整理できるのではないかと思
 うが、機会をあらためて調べてみたい。


  
 
 13.息長足日広額天皇


  息長足日広額天皇とは、舒明天皇のことである。

  敏達天皇と舒明天皇との間には、用明・崇峻・推古の三天皇が挟まれて
 いるが、私はこれら三天皇の実在を認めていないので、敏達と舒明はある
 意味連続した最高権力者であったことになる。

  舒明天皇は、敏達の皇子「押坂彦人大兄皇子」と「糠手姫皇女」との間
 の子であるので、その男系譜は、


  
敏達天皇─押坂彦人大兄皇子─舒明天皇


  となるのだが、「彦人大兄皇子」はある真実を隠匿するために、ここに
 挿入されたと見ているため、敏達の息子でもなければ舒明の父でもないと
 思う。

  残念ながら本編連載中はここまで追求することはなく、『記紀』の記述
 とおり、舒明の父を「彦人大兄皇子」のままとしている。

  そこであらためて舒明の父は誰か、ということなのだが。

  当然、敏達天皇である。

  敏達と舒明は連続した天皇であったと考えている。というのも、『敏達
 紀』に記されている皇族譜に疑問を感じてるからなのだが。
  敏達と「菟名子夫人」(伊勢大鹿首小熊の女)の次女が「糠手姫皇女」
 なのだが、またの名を「田村皇女」という。

  そして彼女の子が舒明天皇だ。

  『真説日本古代史』の読者はご存じのことだが、「糠手姫皇女」は敏達
 天皇の皇后「額田部皇女」と同一人物である。『日本書紀』によれば、そ
 れは推古天皇のことだが、同時代に天皇だったのは大々王こと、「物部鎌
 姫大刀自連公」であったことも重ねて記しておく。
  舒明は「田村皇子」といい、それは彼女の名から継承されたものである
 というが、舒明が敏達と「額田部皇女」との子であっても、何ら矛盾はな
 い。
  つまり敏達は額田部「田村皇女」を皇后に迎え、舒明「田村皇子」をも
 うけたということである。

  敏達天皇は「百済の大井」に宮を構え、舒明天皇の宮は「百済宮」であ
 る。
  一般的な見解では、この「百済」とは「百済」からの渡来人が多く住ん
 でいたから名付けられたというのだが、私の常識ではとても考えられない
 ことである。
  生粋の「倭国」大王が、同盟国とは言え自身の宮に「百済」などと名付
 けるものではない。それは現在の皇居を「米国宮」というのと同じことに
 なるのだ。
  
  この時代は二朝並立の時代だった。この二つの朝廷はある時は手を組み、
 ある時は敵対し戦争状態だった。大化の改新に繋がっていく「乙巳の変」
 や、「大海人皇子」vs「大友皇子」、いわゆる「壬申の乱」は、この時の
 延長線上にある。
  もちろん『日本書紀』は、一系化して記している。
 
  倭王「武」である雄略天皇の薨去後、「倭国」の社会情勢は非常に不安
 定であった。「近江」・「尾張」連合から継体天皇が即位した理由もここ
 に起因する。

  『日本書紀』には「任那四県の割譲」とか「任那滅亡」という、「倭国」
 の関与した朝鮮半島問題だけを記しているが、実は同時期に北九州は「任
 那」問題に乗じた「百済」の侵略を受け、占領されていた(【真説日本古
 代史】第九部参照)。

  王子「恵」の来訪で完了した「百済」の北九州侵攻は、「倭国」旧来の
 豪族勢力以外(旧「百済」渡来系豪族を含む)に、新「百済」系の勢力を
 誕生させた。
  その新「百済」勢力が「大和」で敏達朝を興し、「倭国」勢が「蘇我馬
 子」大王の時衰退したものの、舒明朝で最高に達している。
  「乙巳の変」の後は、「蘇我石川倉山田麻呂」の外交努力もあって、孝
 徳朝では二朝合体の運びとなるが、「中大兄皇子」の叛旗により再び二朝
 分裂の状態となった。

  先にも記したように、実際には敏達と舒明は連続する皇統だったのであ
 り、簡単に系図にすると、


 
 ─敏達────────舒明──皇極(斉明)┬・・・・天智 近江京
                       │(合体)
  ─────蘇我馬子──入鹿────────┴孝徳     倭京
             物部鎌姫大刀自連公


  となる。

  ちなみに、皇極・斉明は重祚したのではなく、近江朝へと続く新「百済」
 勢力の大王として、ずっと君臨していたのである。

  舒明天皇の諱は「息長足日広額天皇」である。

  この「息長」とは広義の意味で「息長氏」のことと考えている。

  ただしその背景は単に「息長氏」の意味だけにとどまらない。

  ところで「物部氏」・「蘇我氏」・「大伴氏」といった豪族が名をとど
 ろかす以前は、「息長氏」・「尾張氏」・「和珥氏」が天皇家を構成して
 きた。

  「尾張氏」が海人族であったことはよく知られているが、「息長氏」も
 また海人族だったと思う。それは「息長」という名乗りが物語っている。
  「和珥氏」は「誉田真若王」の頃に、「尾張氏」と同族化していると思
 われ、古代における畿内の二つの大きな勢力は、「息長氏」と「尾張氏」
 であったことだろう。

  さてそんな「息長氏」・「尾張氏」の婚姻関係によって成り立っていた
 継体朝だったが、「近江」から「大和」へ遷都後は、「尾張氏」の「大和」
 再進出はなく、安閑天皇、続く宣化天皇を支えたのは、台頭してきた「百
 済・武寧王系」で、「尾張氏」と同じく仏教勢力の「蘇我氏」であった。
  私見で言う「蘇我氏」の前身は、「百済」の名門氏族「百済木氏」であ
 る。そういう意味では「蘇我氏」は旧「百済」と言えるかも知れない。

  私見では「大和」よりも、「越」・「近江」・「尾張」という航海術に
 長けた海人族集団のほうが、文明文化先進国であったのであり、特に「尾
 張氏」は、「大和」とは政治的に関係ない「関ヶ原」から東に一大勢力を
 築いていたこともあり、「大和」にまったくと言っていいほど興味を示さ
 なかった。
  
  このことは、別編を設けてあらめて記したいと思っている。
  
  「息長氏」は政治経済基盤が「大和」に近い「近江」であったため、逆
 に継体朝とともに「大和」へ進出し、後に新「百済」系と結びついたとい
 うことか。
  というより、「息長氏」(の意味は)は複雑に入り組んでおり、「百済」
 の渡来系氏族との関係を語る上で大変重要であると思う。

  「息長氏」と「尾張氏」自体は、かつての同胞であって敵対勢力ではな
 いのだが、両族に関係した新旧「百済」勢力は、朝鮮半島にあった「百済」
 宗国の勢力争いを、そのまま「倭国」に持ち込み対峙することになった可
 能性が高い。



  
14.蘇我入鹿


  「蘇我氏三代」と言えば、「馬子」・「蝦夷」・「入鹿」のことを指す
 が、「蝦夷」はねつ造と考えているので、正式には「馬子」・「入鹿」親
 子の「蘇我氏二代」である。

  皇極元年春一月十五日の条に


 
 「皇后は天皇に即位された。蘇我臣蝦夷をそれまでどおり大臣とされた。
 大臣の子入鹿─またの名鞍作─が自ら国政を執り、勢いは父よりも強かっ
 た。このため盗賊も恐れをなし、道の落とし物さえ拾わなかったほどであ
 る。」


  と、「蘇我入鹿」の傲慢なふるまい(を表現したつもりなのだろうか)
 を記しているのだが、なんと書かれようとも、自ら国政を執ったというの
 だから、大王でなければ摂政だったことになる。
  また、『日本書紀』の記述を信じれば、盗賊も恐れをなすほどであると
 いうことから、大変治安が良かったわけである。これが「入鹿」の政治に
 よるものであるならば、「入鹿」は優れた政治家であったと言わざるを得
 ない。

  『日本書紀』が記す「蘇我入鹿」の悪行の数々とは、「蘇我蝦夷」の手
 によって行われたことばかりであり、「入鹿」による唯一のものは、「山
 背大兄王」殺しである。

  ところが『日本書紀』により、「厩戸皇子」の子のように書かれている
 「山背大兄王」の血筋を、そのとおりとすれば、まさに「蘇我氏」そのも
 のである。
  「入鹿」は同族である「山背大兄王」を廃して、「蘇我」の血筋ではな
 い舒明天皇の皇子「古人大兄」を天皇に推したとあるのだから、それはす
 ばらしい政治バランス感覚であるといえるのではないか。

  『日本書紀』を詳しく読めば、「入鹿」は「山背大兄」を殺してはいな
 い。討つつもりで生駒山を囲んだのだが、それ以上追い込むこともなく、
 結局あきらめて帰っている。

  「山背大兄」は自ら一族道ずれにして自害を選んだのであり、またこの
 事件で「入鹿」を強烈に非難しているのは、なんと「蝦夷」だけであり、
 他の皇子や諸侯等の声は一切聞こえてこない。

  そもそも「山背大兄」は、「蝦夷」に面と向かい自ら天皇になりたい、
 田村皇子は天皇に相応しくない、と駄々をこねるほどの政治音痴ぶりであ
 る。


  「─蘇我臣入鹿は、上宮の王達の威名が天下に上ることを忌んで、臣下
 の分を超え勝手に自分を君主になぞらえることを図った。」


  『日本書紀』はこのように記しているが、「山背大兄」からは「上宮の
 王達の威名」など微塵も感じられない。「入鹿」が「山背大兄」を急襲す
 る理由などないのである。

  私は別に「山背大兄」を責めるつもりはないが「入鹿」を正当化すると
 結果的にそうなってしまう。
  『日本書紀』がどれほど「入鹿」を極悪非道であったと訴えても、そう
 は書かれていないし(意外と書けないものなのか)、正義の大儀を振りか
 ざしても、「入鹿」をだまし討ちした「中大兄皇子」と「中臣鎌足」のほ
 うが、よほど悪く卑怯である。
 
  「蘇我入鹿」は「蘇我馬子」の子であり、「厩戸皇子」(馬子の皇子)
 すなわち聖徳太子である。
  聖徳太子はもちろん皇太子だったのだが、この時代にはもうひとり、い
 つしか姿の消えた「押坂彦人大兄皇子」という皇太子がいたことになって
 いる。

  整合的に理解するならば、「彦人大兄皇子」のまたの名が「厩戸皇子」
 であったとすればよい。
 
  そうすると、「彦人大兄皇子」もまた「蘇我入鹿」の分身になる。

  歴史ロマンとすれば興味深々である。

  「蘇我馬子」と「厩戸皇子」との間には、親子の年齢差があるはずであ
 る。
  私見では、「馬子」と「入鹿」は親子であるので、『日本書紀』は「蝦
 夷」一代を追加して年代を繰り下げてあると考えている。従って聖徳太子
 が「入鹿」であることに年齢的な矛盾はなくなる。

  「彦人大兄皇子」はまさに「厩戸皇子」と同世代人だから、年齢に関し
 てはクリアーしている。
  また「中臣勝海連」が呪い殺そうとしたわけも、「入鹿」と同体ならば
 説明がつく。

  『孝徳紀』の例の「皇祖大兄」は、「現為明神御八嶋国天皇」にとって
 の皇祖である。
  私見による「現為明神御八嶋国天皇」は、第一候補として孝徳政権前の
 「蘇我石川倉山田麻呂」に比定しているから、「皇祖大兄」が「入鹿」で
 あれば問題がない。
  仮に孝徳天皇であっても、私見による孝徳朝は皇極天皇と並立した別の
 朝廷であり、それは「入鹿」の跡を継いだ朝廷であるから、問題にはなら
 ない。
 
  蘇我物部の宗教戦争に名前を連ねていないのも、「厩戸皇子」と同一人
 物であれば解決できる。

  とまあ良いことずくめなのだが、ただ一点、もしそうだとすれば『日本
 書紀』は「蘇我入鹿」と同体であったことを除けば、「彦人大兄皇子」を
 聖徳太子と記すことに障害はなかったはずなのに、なぜ「厩戸皇子」とい
 う「蘇我」血縁のダミーを立てなければならなかったのか、が大きな疑問
 になってくる。



  
15.敏達天皇


  今更言うのもどうかと思うが、私の場合『日本書紀』を読む際には、個
 人的なローカルルールを定めている。

  『古事記』の序文にあるように、『日本書紀』もまた『帝皇の日継』と
 『先代の旧辞』を選録して編纂した書であると考えている。
  『旧辞』は一系化の皇統とその正当化を無理矢理に造作したため、かな
 りの部分に手が加えられている。
  しかし『日継』には、『旧辞』に手を入れた結果生じた世代間のずれや、
 兄弟姉妹による一人二役や三役、あるいはその逆などはあっても、血統を
 大きく造作してはいない、というルールだ。

  こうして編纂された書は、当然のことながら不完全で矛盾だらけな書物
 となる。

  しかし不完全だからこそ、各々古代史家が古代史を解明するトリガーと
 なっているのだと思う。

  さて、「中臣勝海連」が呪詛した者は「彦人大兄皇子」だけではなく、
 推古天皇の皇子「竹田皇子」もそうであった。
  しかしながら、この両者を同列に記すことは『日本書紀』自らが返って
 自書を否定することになってしまうだろう。
  と言うのも『日本書紀』での「竹田皇子」は、「蘇我馬子」の血縁であ
 るが、「彦人大兄皇子」は舒明天皇の父であり、「蘇我氏」とは血縁関係
 がない。

  しかも舒明は天智天皇の父なのである。

  「蘇我氏」に否定的な『日本書紀』が、実質的な皇祖と位置づける天智
 天皇の父(天智天皇の和諡は、天命開別天皇、あめみことひらすわけのす
 めらみこと、と云う)と、「蘇我氏」の血縁「竹田皇子」とは、『日本書
 紀』にとって次元が違うことだ。 

  私見では、舒明の父は敏達天皇である。母は「糠手姫皇女」だが「額田
 部皇女」とは同一人物である。
  すると系図上、敏達と「彦人大兄皇子」とは同体となるのだが、新「百
 済」系の敏達が、「馬子」に協力するはずがない。

  ところで、『崇峻紀』次の一行にご注目頂きたい。


  
「四年夏四月十三日、敏達天皇を磯長陵に葬った。これはその母の皇后
 の葬られた陵である。」



  この四年とは崇峻天皇の四年のことであるから、『日本書紀』に従えば
 敏達の死後7年間もの間、埋葬されていなかったことになる。
  敏達は天然痘で亡くなっており、それは当時大流行した伝染病であると
 同時に、かかれば必ず死に至る死の病であった。

  その亡骸を7年間も放っておけるだろうか。

  用明天皇も天然痘でなくなっており、その埋葬は殯宮に記述もない、死
 から三ヶ月後のことである。
  私見では用明・崇峻の在位は、そのまま「蘇我馬子」大王の在位に置き
 換わるから、造作の天皇である用明の埋葬のほうがよほど真実味がある。

  この7年間とは、用明と崇峻の在位を合わせた年数である。

  これは敏達と推古の間に、用明・崇峻という造作をした結果、数合わせ
 で生じたミスである。

  用明はさらに『推古紀』で


  
「九月、用明天皇を河内磯長陵に改め葬った。」


  と敏達と同じ稜に埋葬し直されている。

  もとより用明の存在には否定的なのだが。

  思うに、用明は聖徳太子の父として造作されただけでなく、敏達と崇峻・
 推古天皇を血縁で繋ぐためのダミーとしての役割も持たされていたのだろ
 う。

  よく古代は兄弟相続であったとする説を見聞きするが、兄弟があっても
 親子相続の場合のほうが圧倒的に多い。
  敏達・用明・崇峻・推古の四天皇は、すべて欽明天皇の皇子・皇女であ
 り、兄弟姉妹である。このことは大いに疑ってみる必要があるし、私は、
 欽明天皇と『日本書紀』が定めるそれ以降の四天皇間に、断絶があった皇
 統を一系にまとめるための造作であろう、と思っている。
  
  敏達の母である「石姫」は宣化天皇の皇女であるから、母方は「尾張」
 系の血である。

  父は欽明天皇であるから皇統は直系である。

  ただ『日本書紀』は、欽明天皇の即位年齢も崩御年齢も“若干”とだけ
 しており、在位三十二年間の歳が若干とは、どうにも解せない。

  若干とは“数は不明ながら少しばかり”のことであるから、即位年齢だ
 けを考えてみれば、10歳に満たないと推測していいのではないか。
  ところが、「石姫」の父、宣化天皇は73歳崩御(『日本書紀』)なの
 で、常識的に考えれば「石姫」は、50歳に近いかそれ以上の老齢になっ
 てしまう。

  このような婚姻は絶対に成り立たない。

  『日本書紀』は敏達の皇后を「尾張」系の「石姫」として、鉾先をかわ
 したつもりだろうが、系譜上の断絶はいかんともしがたい。

  これは、敏達朝が舒明朝に続いていく新「百済」王朝であったことの、
 証明理由の一つにもなっている。

  用明天皇の埋葬説話には真実味があると書いたが、用明は敏達のダミー
 であるからこそ、同じ稜に埋葬されなければならなかった。
  用明はいなかったのだから、他の稜に埋葬できるはずがないからだ。

  ただしそれだけでは敏達を語るには不十分である。

  私は「糠手姫」を皇后にした敏達と、皇子「彦人大兄皇子」の二人の生
 年を一系化させ、一人の天皇に仕立てたのではないか、それが敏達天皇で
 あったのではないかと考えている。

  残念ながら、確固たる証拠があるわけではない。

  舒明の父が「彦人大兄皇子」で、敏達と「彦人大兄皇子」が重なり合っ
 てくるという、今までの推理や論証の積み重ねが、このように言わせてい
 るだけだ。

  逆に言うと、「彦人大兄皇子」は『日本書紀』という歴史物語上、皇統
 を一系にするために上手く使われた皇子であるとは言えると思う。

  舒明天皇の父を「彦人大兄皇子」としていることは、物語を矛盾なく繋
 ぐためには必要不可欠であった、と解するものである。



  
16.蘇我入鹿 その二


  ところで「彦人大兄皇子」は、敏達と「息長真手王」の娘「広姫」との
 間の皇子であると言うが、「息長真手王」は継体朝の人である。この娘と
 敏達の婚姻は、欽明と「石姫」の年齢差に等しいと言え、この場合も系譜
 上、断絶を認めなければならない。

  おもしろいことに、「彦人大兄皇子」にはまたの名があり、それは


  
「押坂彦人大兄皇子──またの名は麻呂古皇子──という。」


  と『敏達紀』にある。

  この「麻呂古皇子」は『欽明紀』にある


  
「蘇我大臣稲目宿禰の女を堅塩媛という。七男六女を生んだ。第一を大
 兄皇子…中略…第四を豊御炊食姫尊という。第五を椀子皇子(まろこのみ
 こ)という。」


  の「椀子皇子」(『古事記』では「麻呂古王」)と同一人物ではないの
 か。
  系譜上では「馬子」の甥であり、推古天皇とは姉弟だ。

  「中臣勝海連」が呪詛した相手とは、推古天皇の弟と子だったことにな
 る。

  さらに「麻呂古」の“まろ”とは朝鮮語では「馬」を意味している。

  なるほど、それでは「蘇我馬子」のことだったのか。

  そうかもしれない。しかし、「麻呂古皇子」=「馬子皇子」と書き換え
 れば、それは「厩戸皇子」のことになる。

  『孝徳紀』にある例の


  
「皇祖大兄の御名入部(彦人大兄を謂ふ)」


   の行は、明らかに戦後処理的な内容である。

  「孝徳朝」は「中大兄皇子」率いる新「百済」勢力(これを多武峯百済
 と呼ぶ)と、「蘇我入鹿」亡き後の「倭国」との合体朝廷であって、皇極
 政権が孝徳政権の傘下に収まり、政権運営されていたと考えている。
  
  前王朝で滅んだのは「蘇我本宗家」だ。すると「彦人大兄皇子」は、や
 はり「蘇我氏」の眷属でないとつじつまが合わない。

  それが「厩戸皇子」であったとすれば、一切の問題は解決してしまう。

  「蘇我氏」の眷属でありながら、天皇家のプリンスであった「厩戸皇子」
 の立場は、私が導き出した「彦人大兄皇子」の立場と非常によく似ている。

  それもそのはずで、まさに二人は表裏一体であった、と考えられるから
 である。

  「彦人大兄皇子」は「厩戸皇子」であった。それは同時に、聖徳太子そ
 の人であったことを意味する。

  さらに興味深いことがもう一点ある。

  『古事記』では「麻呂古王」は三人いる。

  一人は『敏達記』に「彦人大兄皇子」の亦の名としての「麻呂子王」。
 
  一人は『欽明記』に「豊御食炊屋姫」の弟として「麻呂子王」。彼ら
 はともに「彦人大兄皇子」のことであった。

  そしてもう一人は、やはり『欽明記』に


 
 「春日之日爪臣之女、糠子郎女を娶して生ませる御子、春日山田郎女。
 次に麻呂古王。次に宗賀之倉王。」

  
  と記されている「麻呂古王」である。

  「麻呂古王」に関しては、『古事記』も少し驚いた様子が窺え、


  
「次に豊御気食炊比売命。次に亦麻呂古王。」


  と重複して名を記す「麻呂古王」に怪訝な態度を示している。

  同時に記されている「春日山田郎女」は、どうやら『日本書紀』でいう
 山田皇后のことであるらしい。すなわち安閑天皇の皇后である。

  『日本書紀』ではどうなっているのかと言うと、


  「前からの妃の皇后の妹を、稚綾姫皇女といった。この人は石上皇子を
 生んだ。次が皇后の妹で日影皇女という。──ここに皇后の妹というのは、
 明らかにいえば宣化天皇の女である。しかし后妃でありながら、母の妃の
 姓と皇女の名を見ない。どんな書から出ているかということがわからない。
 後世の考える人に待とう。──この人が倉皇子を生まれた。」



  と大変混乱している。

  しかし一見冷静に見える『古事記』ながらも、実は『日本書紀』以上の
 到底あり得ない系譜を記していることに気づかれただろうか。

  山田皇后は欽明天皇の即位前紀で、


 
 「宣化天皇が崩御された。皇子であった欽明天皇は、群臣に、『自分は
 年若く知識も浅くて、政事に通じない。山田皇后は政務に明るく慣れてお
 られるから、皇后に政務の決済をお願いするように』といわれた。」


  とあり、山田皇后はこれを辞退したため、欽明即位の運びとなったので
 ある。欽明即位と同時に、山田皇后は皇太后と称されている。

  『日本書紀』に従えば、安閑天皇の即位は欽明即位から8年前である。
 このとき欽明は生まれていたと思うが0歳か1歳だ。

  山田皇后は安閑天皇が亡くなって十数年してから、皇后になったとでも
 言うのだろうか。

  そもそも山田皇后は仁賢天皇の皇女であり、『仁賢記』には、


  
「丸邇日爪臣の女、糠若子郎女を娶して、生みませる御子、春日山田郎
 女。」

  とある。

  「丸邇氏」は「和邇氏」であり、「春日氏」とは同族だ。

  これは誰の目にも重複であり、完全に錯誤している。『古事記』をさら
 に読めば、『敏達記』にもよく似た記事があることに気づく。


  「また春日之中若子之女、老女子郎女を娶して、生ませる御子、難波王。
 次に桑田王。次に春日王。」


  「難波」は「大阪」であり、「押坂」・「忍坂」とも書く。「桑田」は
 「倉」と同音に近い。(『日本書紀』では桑田皇女である。)

  断定はできないが、該当する『欽明記』・『敏達記』の両記録は、原資
 料は同じであったものと思われる。
  さらには『仁賢記』も含めて系譜の重複であることは一目瞭然で、「糠
 子郎女」の皇子「麻呂古王」もまた「彦人大兄皇子」である。

  ただ一つ大きな疑問が残る。

  『欽明記』が「宗賀之倉王」を記していることだ。
 
  「宗賀」は「蘇我」である。

  『日本書紀』は単に「倉皇子」としているが、「蘇我之倉」と言えば、
 当然「蘇我氏」の傍系「蘇我倉氏」や同氏の祖を連想させる。
  「蘇我(石川)倉山田麻呂」が、まさに「蘇我倉氏」である。

  しかし文献から読み取った系図によれば、「蘇我倉氏」は「馬子」の後
 から分かれていて、もちろん皇族ではない。

  ここでの追求はしないが、「葛城氏」のように「蘇我氏」もまた単一氏
 族ではなかったのかもしれない。

  「蘇我入鹿」は佳字ではない。「厩戸皇子」もけっして佳字とは思えな
 いが、両雄がこうして「押坂彦人大兄皇子」で重なり合えば、「入鹿」・
 「厩戸」の二人は、歴史ではなく物語であったことがわかってくる。

  この三者は亡くなった世代が三者三様である。

  このうちの一つが真実なのか、全部が造作なのかはまだわからない。た
 だ言えることは、先にも少し触れたが、「乙巳の変」で「入鹿」は死んだ
 のではない可能性があることだ。

  と言うより「乙巳の変」は本当に史実だったのだろうか、という疑問で
 ある。
  さらには「小野妹子」と「蘇我馬子」。崇峻天皇と「蘇我馬子」など、
 問題を次編(『蘇我氏の真実』仮題)に先送りにしたい。
  これは『特別編』枠ではなく、『捨てざりがたい説』になることをお断
 りしておく。

  最後に、『推古紀』二十年春一月七日の条に、


 
 「酒を用意して群卿に宴を賜わった。この日蘇我馬子は盃をたてまつっ
 て、
  八隅知我大君隠坐天八十蔭出立御空見万代如此千代如此畏仕奉拝仕宴杯
 奉(八隅知し、我が大君の隠り坐す、天の八十蔭、出で立たす、御空を見
 れば、万ず代に、如く此もがも、千代にも、如く此もがも、畏しこみて、
 仕かえ奉つらむ、拝ろがみて、仕かへまつらむ、宴た杯き奉つる。)
  と寿きのことばを申し上げられた。」


  と歌があり、これを現代語訳すると、


  
「天下をお治めになる我が大君の、お入りになる広大な御陵。出で立た
 れる御殿を見ると、まことに立派で、千代万代までこのようであって欲し
 い。そうすれば畏こみ、拝みながらお仕えします。(私は今朝廷の儀礼用
 の)酒宴の座の杯を献上します。」


  となる。無論、この歌に対して返歌があるのだが、それは、


 
 「天皇が答えて歌われた。
  真蘇我蘇我子等馬日向駒太刀呉真鋤宣哉蘇我子等大君使。(真蘇我よ、
 蘇我の子等は、馬ならば日向の駒、太刀ならば、呉の真さ鋤、宣べし哉
 も、蘇我の子等を、大君の、使かはすらしき。)」


  これも訳すと、


  
「真に蘇我の人、蘇我の子等は、馬ならば有名な日向の馬。太刀なら
 ばあの有名な異国の真太刀である。もっともなことである。そんな立派
 な蘇我の子等を、大君が使われるのは。」


  となるが、「馬子」の詠んだ歌は明らかに天皇への挽歌である。つま
 りこれは、ある天皇の葬儀である。ところが、対する天皇の返歌はある
 亡くなった「蘇我」の人への歌である。

  また「馬子」が詠う「大君」と、天皇が詠う「大君」とは、人物が同
 じでなければならないのに、天皇の返歌は別の「大君」を示唆している
 ことがわかるだろう。
  整合的に考えれば、亡くなった天皇とは「蘇我氏」のトップの誰かで
 あったことになる。

  「蘇我」の人であれば、該当者は「蘇我馬子」か聖徳太子しかいない。

  しかし、この歌は「馬子」によるものであるとすれば、亡くなったの
 は、聖徳太子である。

  しかしながら、当時の誰もが知る「乙巳の変」は、間違いなくあった
 はずである。

  ところが、そこで殺されたのは「蘇我入鹿」=聖徳太子ではなかった
 ということだ。

  現存する「入鹿の首塚」。飛鳥寺に入り西100m奥、そこに五輪塔
 が立っている。

  史跡は史実を物語っているが、人物と年代の特定は文献による比定が
 必要だ。
  『日本書紀』が「乙巳の変」で殺害された者を「蘇我入鹿」と特定し
 ているから、「入鹿の首塚」なのであろう。

  ただし実は「蘇我氏」ながら、まったくの別人であった可能性も大い
 にあるのだとして、この編を締めくくりたい。

                      2012年 10月 了