真説日本古代史 本編 第九部


   
原始国家から専制国家へ




   
1.継体天皇崩御の謎


  継体天皇の二十五年、天皇は磐余の玉穂宮で崩御されたと『日本書紀』
 は記している。

  これまでも天皇の崩御年については、『記紀』間で矛盾が生じていたの
 だが、継体の場合はさらなる異説がある。これに『安閑紀』を加え、『上
 宮聖徳法王帝説』等の欽明天皇治世年数からみた即位年を併せると、次の
 ようになる。


 
 (a)『継体記』 「継体天皇は年四十三歳であった。丁未年四月九日
 に亡くなった。(丁未は527年)御陵は三嶋の藍之御陵である。」

  (b)『継体紀』 「二十五年辛亥年(531)春二月丁未、天皇は磐
 余の玉穂宮で崩御された。時に八十二歳であった。」

  (c)『継体紀』引用の『百済本記』 「ある本によると、天皇は二十
 八年に崩御としている。それをここに二十五年崩御としたのは、百済本記
 によって記事を書いたのである。その文に言うのに『辛亥年三月、進軍し
 て安羅に至り、乞屯城を造った。この月高麗はその王、安を弑した。また
 聞くところによると、日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった』
 と。これによって言うと辛亥年は二十五年に当たる。後世、調べ考える人
 が明らかにするだろう。」

  (d)『安閑紀』 二十五年春二月七日、継体天皇は大兄をたてて天皇
 とし、その日に崩御された。
   元年(甲寅年、534年)春一月、都を倭の国の勾の金橋に遷した。
 よってこれを宮の名とした。

  (e)『上宮聖徳法王帝説』 欽明天皇は天の下を治めること四十一年。


  これらのことから、継体の崩御年は『古事記』による527年、ある本
 の534年、『百済本記』の531年の三説あったことになる。
  『日本書紀』は『百済本記』説を採用しながら、『安閑紀』での即位年
 は『百済本記』から、元年は“ある本”の説をそのまま記載するという、
 滅茶苦茶なことをやってのけている。まあ、謎解きのおもしろさは、そん
 なところにあるのだが。

  さて、問題は『上宮聖徳法王帝説』である。

  『日本書紀』は欽明の即位を、己未年(539年)とし、571年(辛
 卯年)に亡くなったとしている。
  欽明の崩御年が571年であることは、諸本が一致していることなので、
 『上宮聖徳法王帝説』の治世四十一年(法王帝説は即位年を第一年とする
 ので実年数は40年間)を逆算すると、欽明即位は531年になる。

  531年とは継体の没年であり、これによると安閑・宣化の二天皇の在
 位の余地がなくなってしまい、継体没後、欽明が即位したことになってし
 まう。

  それでは『上宮聖徳法王帝説』は間違いかと言うと、そうではないらし
 い。

  以下に明治38年発表の、平子鐸嶺氏の説を紹介する。


 
 「百済の聖明王が仏像と経論を大和朝廷に送ってきた年を、日本書紀は
 欽明天皇の第一三年(552)としていることは有名(仏教公伝)だが、
 この五五二年説をとっているのは日本書紀だけで、奈良時代の末以前にで
 きた本はどれも戊午年(538)説である。たとえば、法王帝説には欽明
 天皇の御世の戊午年(538)とし、のちに述べる『元興寺縁起』その他
 では欽明第七年戊午年といっている。これは、五三八年(戊午)説の正し
 い証拠だが、もし日本書紀のように欽明天皇の即位年が五三九年だったら、
 それより一年前が『欽明天皇の御世』といわれるはずがないではないか。
 これに反して法王帝説のいうように、欽明の即位年が五三一年ならば、仏
 教伝来はたしかに『欽明天皇の御世』のことになるし、また五三八年は、
 まさしく『欽明第七年』となるからである。」


  平子氏の説により、『上宮聖徳法王帝説』は正しいものと認識され、今
 日に至っているが、この証明により、安閑朝と欽明朝の二朝が並立した状
 態であったのではないか、という有力な説もある。

  この説を簡単に説明すると、『日本書紀』は安閑が、継体没後、一年間
 の空位の時を経て即位し、翌年70歳で没したと伝えているが、実はこの
 一年間の空位という異常事態は、継体没後、欽明が即位したのだが、これ
 に反対する豪族グループが一年後に、継体の諸子中最年長の安閑を即位さ
 せたことであり、二朝並立、王権分立時代に突入し、安閑没後、宣化がたっ
 たものの、治世四年の後宣化が没し、王権は欽明に一元化されたというも
 のである。

  しかし、『安閑紀』には東は関東から西は九州に至るまで、諸国に屯倉
 が増設され、『日本書紀』にはなんと四十一もの屯倉の名が列挙されてい
 る。また屯倉設置に関する説話が、いくつか伝えられている。

  この屯倉設置の記録を、直ちに信用するわけにはいかないが、武光誠氏
 は、『別冊歴史読本』の中で次のように述べている。


 
 「しかし、最近、安閑朝から宣化朝にかけて大和朝廷がめざましく発展
 していることが明らかになっている。そして、二朝並立の混乱のなかでそ
 のような発展があったとみない方がより妥当であるから、継体天皇から欽
 明天皇までの皇位の継承は平和な形で行われたとするみかたが有力になっ
 ている。」(別冊歴史読本「歴史の謎シリーズ6」継体天皇より)


  安閑と欽明では、その血筋から言えば「手白香皇后」を母にする、欽明
 のほうがより相応しいことになる。
  反二朝並立派はこの点を重視し、継体崩御後の天皇は本来、欽明が即位
 するはずだったが、幼年であり時期早々であったので、尾張「目子媛」を
 母に持つ安閑・宣化とつづいて即位し、成年になるのを待って欽明が即位
 したと言うのである。

  なるほど『日本書紀』は、そのように記述しているし、個人的には二朝
 並立説はうなずけないものがある。ただし、欽明即位の背景には、裏があ
 るものと思われる。

  継体崩御後は、安閑・宣化と尾張系の天皇が即位したが、なんらかの理
 由により本来の皇統である、「市辺押磐皇子」(私見で言う「押磐天皇」)
 系に戻ってしまったのだと思う。

  自ら譲位を匂わした「弘計」(顕宗天皇)は、「大伴金村連」に次期政
 権を委ねた。このことが、継体擁立と結びついているのだが、皇統を維持
 するために、皇后は押磐天皇の皇女からという条件であったはずだ。
  このことは、第8部で推理したことである。そして、これを証明するよ
 うに、継体の皇后「手白香皇女」、安閑の皇后「春日山田皇女」、宣化の
 皇后「橘仲皇女」の三妃はすべて押磐天皇の皇子、仁賢天皇の皇女なので
 ある。

  ところが、欽明に至っては立場が逆転している。欽明は押磐天皇系であ
 り、皇后の「石姫」は宣化の皇女であるから、「近越・尾張」系である。

  本来なら宣化崩御後は、宣化の皇子「上殖葉皇子」(かみつうえはのみ
 こ)が嗣ぐものであったと思われる。
  しかし、理由こそ後述するが、宣化の皇子による世嗣ぎができなくなっ
 てしまった。そこで押磐天皇系の欽明天皇を即位させ、宣化の皇女を皇后
 とし、皇統の維持を目論んだのだ思う。

  これは、継体擁立の時とまったく逆の立場である。

  なぜこのような推理が成り立つのか。

  それは、『上宮聖徳法王帝説』からみた、531年欽明即位説が、かな
 り信憑性が高いということ、『安閑紀』・『宣化紀』に具体的な事績が記
 述されているということ、そして、『継体紀』に引用されている『百済本
 紀』のおなじみの一文からである。


  「辛亥年三月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月高麗はそ
 の王、安を弑した。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子・
 皇子皆死んでしまった」


  この一文は、『継体紀』に記述されてはいるものの、継体のこととは思っ
 ていない。これは宣化のことではないだろうか。皇太子とは、「上殖葉皇
 子」のことであろう。
  辛亥年(531)に、宣化と皇太子が亡くなってしまったため、押磐天
 皇系の皇子が欽明として即位したのである。

  仮に、この記述が継体のものであるとしたら、天皇と同じくして死んだ
 はずの皇太子が、安閑として即位し、さらに死んだはずの皇子までもが、
 宣化として即位したということになる。

  蛇足ながら、『日本書紀』の編纂者は、明らかに矛盾する説話を引用挿
 入しておきながら、いとも簡単にストーリーを進行していくが、このよう
 な姿勢は、はなはだ理解に苦しむのだが、言うなればそこがおもしろい。
  このほかにも、一読して嘘だと判明する記述に何度も出くわすことが多
 いが、中にはわざと記述しているとしか思えないものもある。

  一国の歴史書が、編纂直後から矛盾だらけとは考えられないので、編纂
 後書き改められたとしか思えない。
  つまり、矛盾を生じさせることよりも、書き改めることのほうが重要で
 あったことになる。

  欽明は、継体の次代の天皇として正当な血筋にあたるはずなのに、なぜ
 か立太子していない。この時は若年であったがために、という理由もいい
 だろう。しかし、宣化の御代になっても立太子していないのはなぜだろう
 か。

  思うにこのときすでに、「上殖葉皇子」が立太子していたからである。

  宣化には、「上殖葉皇子」という皇子(皇太子)がいたにもかかわらず、
 欽明が即位したわけは、『日本書紀』にいう、世継ぎが絶えたからという
 ことになろう。


  
「日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった」


  からである。「皆死んだ」とは穏やかではないので、あるいは記録にで
 きない、暗殺めいたものだったのかもしれない。

  結局、継体崩御後、母系からみれば安閑・宣化と「尾張」の「目子媛」
 の血を受けた天皇が即位し、531年、宣化、「上殖葉皇太子」が、とも
 に亡くなることによって世継ぎが絶え、「手白香皇后」の血を受けた欽明
 が即位したということだ。

  特筆すべきことは、前述したように安閑・宣化・欽明の三代は、継体の
 息子であるということ、安閑・宣化の正妃は仁賢の娘、欽明の正妃は宣化
 の娘であるということだ。
  仁賢は押磐天皇の皇子である。また継体の正妃「手白香皇后」も仁賢の
 皇女であった。
  つまり、継体・安閑・宣化・欽明の四代は、本来の皇統と雄略の後、 継
 体を擁した新たなる皇統とを、何とか一本化しようという努力が見てとれ
 るのである。

  確かに、旧ヤマト勢力になってしまった仁賢の側近らは、「大伴氏」の
 政策に追従できず、「大和」を20年もの長きにわたり占領し、あるいは
 「磐井の乱」の片棒を担ぐことにもなったが、肝心の天皇家(大王家)ど
 おしは、皇統の維持につとめていたようである。このような中での二朝並
 立状態は考えにくいのではないか。

  欽明の即位年が、『上宮聖徳法王帝説』により531年と明らかである
 以上、安閑・宣化の両天皇はそれ以前に即位したと考えるべきであろう。



   
2.日本書紀撰修の謎


 
 「ある本によると、第一を茨城皇子という。第二を泥部穴穂部皇女とい
 う。第三を泥部穴穂部皇子という。またの名は住迹皇子。第四を葛城皇子
 という。第五を泊瀬部皇子という。またある本には、第一を葛城皇子とい
 う。第二を住迹皇子という。第三を泥部穴穂部皇女という。第四を泥部穴
 穂部皇子という。またの名は天香子。第五を泊瀬部皇子という。帝王本紀
 に、沢山古い名があり、撰集する人も、しばしば遷り変わることがあった。
 後人が習い読む時、意をもって削り改めた。伝え写すことが多くて、つい
 に入り乱れることも多かった。前後の順序を失い、兄弟も入り乱れている。
 いま、古今を考え調べて、真実の姿に戻した。容易にわかりにくいものに
 ついては仮に一方を選び、別のものを註記した。他のところもこれと同じ
 である。」


  上記一文は、『欽明紀』二年春三月の条の後に記述されている割り注で
 ある。

  『帝王本紀』について触れているので、まことに興味深いと言えるが、
 『欽明紀』は、『日本書紀』全三十巻中の巻第十九に当たる。

  なぜこの一文を取り上げたのかというと、この文の後半であたる


  
「帝王本紀に、沢山古い名があり・・」


  以降の内容に問題ありと思ったからである。

  確かにこの内容が示すような記述は、『神代紀』から『継体紀』に至る
 まで、幾度となくあった。
  ところが、「前後の順序を失い・・」という記述は、ここ『欽明紀』が
 初めてと云わんばかりである。
  従って、ここまで『日本書紀』を読んできた読者には、なにをいまさら
 という気分を感じることであろう。

  本来このような記載は、巻頭にあってしかるべきではないだろうか。そ
 れが、半ばもとうにすぎた巻第十九にある意味は、いったいどこにあるの
 だろうか。

  巻頭にあってしかるべき割り注が、巻第十九にある。これの意味すると
 ころは、巻第十九『欽明紀』こそ、本来の巻頭であったということにほか
 ならない。

  そして、天武十年三月十七日にある


  
「天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田
 王・桑田王・三野王・大錦下上毛野三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連
 稲城・難波連大形・大山上中臣平群臣子首に詔して、帝紀および上古の諸
 事を記し校定させられた。大嶋・小首が自ら筆をとって記した。」


  この記述が、『日本書紀』撰修事業の開始であるのだとしたら、天武天
 皇 の御代に編纂が終了していたであろう部分は、『欽明紀』から『天武
 紀』までであり、『持統紀』は当然のこととして含まれない。
  なぜなら、天武朝にあっての『持統紀』は、未来の話になってしまうか
 らである。

  さらに、天武の死亡や『帝紀及び上古の諸事』(通説では『日本書紀』
 のこと)撰修事業の開始を記述する、巻第二十九『天武紀』下巻も同じ理
 由で含まれないことになる。

  『天武紀』は、「壬申の乱」の勝利までを記述する巻第二十八の上巻と、
 天武即位からの巻第二十九の下巻とに分けて記述されているが、上巻に相
 当する一巻が完成していたので、次代に下巻として付け加えられたものと
 推測する。

  従って、『日本書紀』(実際このときの書物の名称はわからないが)は
 『欽明紀』を巻第一とし、『天武紀』上巻を巻第十とする、全十巻(以下
 十巻本)を天武が撰修せしめたものであろうと思われる。

  ただし、現在に伝わる『十巻本』が当時のままであるとは考えられない。
 天武の命であれば、自身にとって不利な記述はしないものであるが、おか
 しな箇所も少なからず存在するのである。というより、矛盾だらけなので
 ある。
  先に、書き改められた可能性と述べたことは、このことである。

  『天武紀』上巻が巻末であるならば、『十巻本』の撰修目的はおのずと
 はっきりしてくる。

  それは、「壬申の乱」による王朝転覆の正当化である。

  『欽明紀』から『天智紀』までの『十巻本』のうち九巻は、「壬申の乱」
 のプロローグにすぎないと言ってしまえば過言になろうが、実は、そうと
 も言えないのである。

  また『欽明紀』が、『十巻本』の巻第一でなければならなかった理由も、
 判明してくるように思う。

  そのためには、今までとは違ったアプローチをこころみる必要がある。
 その方法とは、『天武紀』から『欽明紀』までの逆読みである。逆読みと
 言っても、その系譜を逆からたどるだけのことであるのだが。
  このことにより、先代とのつながりがわかりやすくなると思う。

  そして天武と言えども、なぜか万世一系にこだわらなければならなかっ
 たようである。
  これなどは、「唐」に対する虚栄心ではないかと推測している。

  孝徳朝は、明らかに畿内二朝状態であったのだが、『十巻本』は同時に
 存在した大王(天皇)を直系に記述している。
  『十巻本』は、孝徳朝時代は二朝併立であったとの事実を、はっきりと
 語っているにもかかわらずである。

  それは、大化二年三月二十日、「中大兄皇子」が天皇に使いを遣わし、
 奏上したときの記述にある。
  少し長くなるが、『日本書紀』からその部分を引用してみると、次のよ
 うになる。
  

  
「『昔在の天皇等の世には、天下を混し斉めて治めたまふ。今に及びて
 は分れ離れて業を失ふ。(國の業を謂ふ)天皇、我が皇、万民を牧ふべき
 運にあたりて、天も人もこたへてその政惟新なり。是の故に、慶び尊びて、
 頂に載きて、伏奏す。現為神明神御八嶋国天皇、臣に問ひて曰く、『其の
 群の臣、連、及び伴造、国造の所有る、昔在の天皇の日に置ける子代入部、
 皇子等の私に有てる御名入部、皇祖大兄の御名入部(彦人大兄を謂ふ)及
 び其の屯倉、猶古代の如くにして、岡むや不や』とのたまふ。臣、即ち恭
 みて詔する所を承りて、奉答而曰さく『天に雙つの日無し。国に二の王無
 し。是の故に、天下を兼ね并せて、万民を使ひたまふべきたころは、唯天
 皇ならくのみ。別に入部及び所封る民を以て、仕丁に簡び充てむこと、前
 の處分に従はむ。自餘以外は、私に駈役はむこと恐る。故、入部五百二十
 四口、屯倉百八十一所を獻る』とまうす』とのたまふ」


  さらに、これを現代語訳にすると、


 
 「『昔の天皇たちの御代には、天下は混然と一つに纏まり治められまし
 たが、当今は分かれ離れすぎて、国の仕事が行い難くなっています。天皇
 も、我が皇も、万民を統べられるに当たり、天も人も相応じ、その政が新
 たになってきています。つつしんでお慶び申し上げます。現為神明神御八
 嶋国天皇が、私にお問いになりました。『群臣・連・及び伴造・国造の所
 有する昔の天皇の時代に置かれた子代入部、皇子たち有のの名入りの私民、
 皇祖大兄(彦人大兄をいう)の名入りの部とその屯倉などを、昔のままに
 しておくべきかどうか』というお尋ねを謹んで承り、『天に二日となく国
 に二王なしといいます。天下を一つにまとめ、万民をお使いになるのはた
 だ天皇のみであります。ことに入部と食封の民を国の仕丁にあてることは、
 先の通りに従ってよいでしょう。これ以外は私用に召し使われることを恐
 れます。故に入部は五百二十四口、屯倉は百八十一所を献上するのが良い
 と思います』と申し上げた』と言われた。」


  とにかく納得できるまでよく読んでほしい。

  この奏上は『孝徳紀』にあるので、「中大兄皇子」から孝徳天皇に対し
 てされたものと考えられるが、天下は一つにまとまっていないというのだ。

  さらに、このやりとりの中に登場する人物は、「中大兄皇子」の他に以
 下の三つの人名称である。


  
「天皇」
  「我が皇」
  「現為神明神御八嶋国天皇」


  この三つの名称が同一人物、すなわち孝徳を表現しているのであれば、
 問題にする必要もないのであるが、すべて孝徳であるという先入観を持っ
 て読んだとしても、どうしても孝徳一人のこととは理解できないのである。

  「天皇」と「我が皇」とは明らかに違う人物だ。「天皇」を孝徳天皇で
 あるとしたら、「中大兄皇子」をして「我が皇」とは、いったい誰のこと
 になるのか。

  「中大兄皇子」のときの天皇といえば、孝徳か皇極天皇(重祚して斉明
 天皇)になる。孝徳でなければ、該当者は皇極しかいないように思われる。

  『日本書紀』は、皇極が重祚して斉明天皇になったように記しているが、
 これらのことから実際には重祚したわけではなく、連続して天皇であった
 のであり、同時期に孝徳を即位させる政治勢力が、存在していたのに違い
 ない。

  明らかに二朝併立状態と言えるのではないか。

  ところで「現為神明神御八嶋国天皇」とは、どちらの天皇を指すのであ
 ろうか。
  この人物が「天皇」か「我が皇」かのどちらかと問われれば、どちらで
 もないというのが私の結論である。
  と言うのは、この奏上自体は孝徳に遣わされたものと説明されているが、
 実際には「天皇」と「我が皇」を前にした「中大兄皇子」が、かつて「現
 為神明神御八嶋国天皇」と交わした会話を、両天皇に伝えたという内容に
 なっているように思うからである。

  従って、「中大兄皇子」と同時代に、「現為神明神御八嶋国天皇」も存
 在していたのであるが、「天皇」や「我が皇」時代とは時間差があったこ
 とになると思う。

  「現為神明神御八嶋国天皇」については、今のところ謎の人物としか言
 いようがないが、天皇と呼称されていたのだから、時の最高権力者に間違
 いないと思われる。追って明らかになってくることであろう。

  次に、天智天皇と天武の関係だが、『日本書紀』によれば天武こと「大
 海人皇子」は皇太弟されており、文字通り天智の弟であるらしいが、不思
 議なことに天武のほうが兄であったという説がある。

  天智の崩御年は671年である。このときの年齢は『日本書紀』に記さ
 れていないものの、舒明崩御のときの天智の年齢が16歳であったことは
 記されている。そしてその30年後に亡くなっているから、享年は46歳
 になろうか。

  一方天武は、『日本書紀』からは何もわからないが、室町時代に編纂さ
 れた『本朝皇胤紹運録』によれば、65歳で亡くなっている。これは68
 6年に当たる。

  舒明の崩御年は641年であるので、舒明の崩御年に天武が何歳であっ
 たかを逆算して求めると、


  
「天武崩御65歳−(天武崩御年686−舒明崩御年641)= 20」


  となり、天智16歳のとき天武は20歳となってしまう。

  皇太弟とされている天武が、実は年長者だったかもしれない。天武のほ
 うが年長であれば、天智よりも先に即位する権利があったはずと思われる。
  しかし、実際には「中大兄皇子」が38代天智天皇として即位したので
 あり、これでは皇位継承順位は無視されたことになるではないか。

  これより過去においても、生存中の兄を差し置いて弟が即位した記録は
 ない。
  天智だけが例外であったと言えばそれまでであるが、ここでは、皇位継
 承順位を無視できる秘密があったと考えたい。

  「中大兄皇子」は皇極朝の皇太子であった。しかし、「大海人皇子」は
 皇太弟などではなく、併立して存在していた、孝徳朝の皇位継承者であっ
 たのではないだろうか。王朝が異なれば、年長・年少のことなど関係ない。
  もちろん、この両者は実の兄弟ではないことになる。

  さて、皇極の先代の天皇といえば舒明であり、以下、推古、崇峻、用明、
 敏達、欽明の順に古くなっていく。

  では、もう一つの皇統であるかもしれない孝徳であるが、孝徳の即位は、
 「乙巳の変」(大化改新)と密接な関係で記述されている。
  「乙巳の変」により、皇極は退位し「軽皇子」(孝徳天皇)に譲位した
 というが、孝徳は皇極と併立していたのだから、その先代は皇極にはつな
 がるはずがない。

  つまり孝徳の即位は、皇極の譲位によるものではない。孝徳即位の直接
 の理由が「乙巳の変」であるならば、殺された「蘇我入鹿」大臣こそ、孝
 徳の先代ということにならないだろうか。

  悪名高き「蘇我氏」三代、「馬子・蝦夷・入鹿」は、もう一方の皇統で
 あった可能性が高い。臣下のぶんざいで、天皇以上のなり振る舞いと記さ
 れた悪行の数々も、事実天皇であれば何の問題もないことになるではない
 か。

  そして、この二朝併立の秘密は『推古紀』辺りに隠されているような気
 がする。

  六世紀末、最初の女帝とされる推古天皇が即位し、そのもとで「厩戸皇
 子」(うまやどのみこ)と「蘇我馬子」による共同執政が行われたとされ
 ている。

  『隋書倭国伝』には次のような記録がある。


  
「開皇二十年、倭王あり、姓は阿海、字は多利思比弧」


  開皇二十年とは、推古天皇の八年(600年)である。「阿海多利思比
 弧」は、「あめたりしひこ」と読み「天足彦」であろう。もちろん男性天
 皇の敬称である。

  これによれば推古時代の倭王は、男性であったことになる。誤記や嘘の
 記述とは考えられない。なぜなら、「隋」からみて単なる外国でしかない
 「倭国」について、嘘の記録を残すことにメリットをみいだせないからだ。

  『隋書』の記録は真実に間違いなく、推古朝とは違う男性天皇の立つ王
 朝があったのであろうか。

  そうすると推古の先代、崇峻天皇が「蘇我馬子」に謀られ殺されたとす
 る『日本書紀』の記述が気になるところである。

  さらに『日本書紀』は、『欽明紀』から仏教伝来に起因した「物部氏」
 と「蘇我氏」の不仲を記し、『崇峻紀』の宗教戦争で締めくくっているが、
 これさえも無関係とは言えないかもしれない。

  しかし、今ここにある最大級の謎を解決しなければ、結論は見えてこな
 い。その謎とは、飛鳥の聖者・「聖徳太子」である。



   
3.聖徳太子とは誰か


  宣化のとき、「蘇我稲目宿根」が大臣に任命されている。これ以降「蘇
 我氏」は隆盛を極め、「馬子」・「蝦夷」・「入鹿」の三代が最盛期 であっ
 たという。

  そして、「蘇我馬子宿根」が大臣のとき、推古朝での摂政が「聖徳太子」
 である。用明天皇と「穴穂部間人皇子」(あなほべのはしひとのひめみこ)
 の第一子であり、「厩戸皇子」が本名であるらしいが、またの名を「豊耳
 聡聖徳」(とよとみみしょうとく)、あるいは「豊聡耳法大王」(とよと
 みみののりのおおきみ)、「法主王」(のりのうしのおおきみ)ともいう
 らしい。
 
  「聖徳太子」の名を知らない人は、いないと言えるだろう。「冠位十二
 階の制定」・「憲法十七条」など、誰もが知っている「太子」であるが、
 その人物像は、聖者であったことくらいしか伝わっていない。まさに、謎
 の人物なのである。

  この謎の人、「聖徳太子」であるが、「太子」の存在を抹殺してしまう
 記述が、『日本書紀』になされているからもっと驚いてしまう。

  それは巻第二十二の『推古紀』冒頭の部分である。


  「豊御食炊屋姫天皇は欽明天皇の第二女で、用明天皇の同母妹である。
 幼少の時は額田部皇女と申し上げた。容色端正で立居ふるまいにもあやま
 ちがなかった。十八歳のとき、敏達天皇の皇后となられた。三十四歳のと
 き、敏達天皇が崩御された。三十九歳、崇峻天皇の五年十一月、天皇は大
 臣馬子宿根のため弑され、皇位は空いた。群臣は敏達天皇の皇后である額
 田部皇女に皇位をつがれるように請うたが、皇位は辞退された。百官が上
 表文をたてまつってなおもおすすめしたので、三度めにいたって、ついに
 従われた。そこで皇位の印の鏡・剣などをたてまつって、冬十二月八日、
 皇后は豊浦宮において即位された。」


  とあるのだが、敏達の治世は14年間であり、「額田部皇女」を皇后に
 迎えたのは敏達五年である。このとき「額田部皇女」は18歳だというか
 ら、敏達崩御のときは、27歳か28歳であろう。

  これすら問題なのだが、さらなる問題は「額田部皇女」が39歳のとき
 である。このときは崇峻天皇の五年であるという。
  「額田部皇女」の年齢から逆算すると、敏達崩御から崇峻崩御 までもま
 た五年間である。そうすると、敏達・崇峻間に即位した、用明の在位二年
 (あるいは三年)の余地がなくなってしまうのである。

  「額田部皇女」は39歳で推古として即位し、75歳で崩御したとされ
 ている。崩御は推古三十六年三月七日とあるので、計算の間違いはなく、
 『推古紀』を通して年代の間違いはないと推察できよう。

  ということは、用明は名ばかりで在位がないことになる。在位のない天
 皇の『天皇紀』など捏造以外のなにものでもない。実際には用明などいな
 かったのではないか。
  これを裏付けるような記述が、『崇峻紀』にみられる。崇峻天皇の四年
 に敏達を葬ったというのである。敏達の葬を用明の御代に行わず、2代後
 の崇峻の御代に行ったという記述は、どう考えても異常であろう。

  問題はこれだけではない。『用明紀』には、「須加手姫皇子」(すかて
 ひめみこ)を「伊勢神宮」の斎宮として仕えさせたと記している。そして、
 それに続く割り注に


  
「この皇女は、この天皇の御時から、推古天皇の御代まで、皇大神宮に
 お仕えし、後年母の里、葛城に退いて亡くなられた、と推古天皇紀に見え
 る。」


 とあるが、この割り注に対応する記事が『推古紀』に見えないのである。

  さらに用明を葬ったのは、2代後の推古の御代であり、ここでも崇峻が
 跳ばされている。その崇峻といえば、いくら暗殺されたとはいえ、その日
 のうちに葬られたというのも異常ではないか。貴人の葬は殯の儀を営み、
 三年の後葬られることが、『隋書倭国伝』に記されているのだ。

  異常な記述の裏には、必ずからくりが隠されていると思う。逆に言えば
 からくりがあるからこそ、異常な記述になってしまうのだろう。

  つまり、『用明紀』・『崇峻紀』・『推古紀』は、もともとの『十巻本』
 を大幅に改竄したか、記事を捏造したものと言えるのではないか。
  全体のつじつまを合わせをした後に再編集した結果の一部が、世代を越
 えて敏達や用明を葬った記事なのであろし、『推古紀』にみえない「須加
 手姫皇子」なのであろう。それらは容易に改竄したとわかるほど、矛盾に
 満ちている。

  そして『十巻本』のうち、他の天皇紀が独立しているにもかかわらず、
 『用明紀』・『崇峻紀』がだけが合編である理由もおおよそ推察がつく。

  これらのことは『十巻本』の編纂後、天武の死後行われたものに違いな
 い。
  なぜなら天武有利に記述、編纂されたはずの『十巻本』に、天武の意志
 により捏造・改竄が行われることなどあり得ないからである。

  『用明紀』・『崇峻紀』・『推古紀』は、ある共通するテーマを記述し
 ている。

  それは、飛鳥の聖者・「聖徳太子」である。

  『用明紀』では、用明天皇と「穴穂部間人皇女」の皇子であるという、
 皇室の中でもエリート中のエリートという位置づけがされ、『崇峻紀』で
 は、生まれながら聖者であったというイメージが描かれ、『推古紀』にお
 いては、『聖徳太子紀』といっても差し支えないような、太子摂生の様子
 と聖者としての死が語られている。

  ところが用明が実在でないのなら、「太子」は存在しないことになって
 しまうのだ。
  これにより「太子」とは、『日本書紀』により創造された人物像なので
 はないか、と思われてならないのである。

  断っておくが、「太子」の実在を疑っているわけではない。後代の文献
 にも認められるように、聖徳とか法大王と称された人物は、実在していた
 と考えられる。

  つまり、720年当時の天皇家にとって、伝承されている「厩戸皇子」
 が、本来の人物のままでは大変不都合な存在であったため、別の人物像を
 創造して、「太子」としたのではないかと思われるのである。

  私見では、『隋書倭国伝』に記述されている、倭王「阿海多利思比弧」
 は「太子」である。しかし、「太子」は実際には天皇だったとする説には
 疑問を抱いている。

  『日本書紀』はその時代を推古の治世としている。歴史書である以上、
 読まれることが大前提であろう。編纂終了時から、わずか百年ほど前にす
 ぎない時代の天皇が、女性だったか男性だったかくらい知らない読者がい
 るのだろうか。いくらなんでも男性天皇を女帝とは書けるとは思わない。
  従って、推古ではなかったかもしれないが、確かに女帝の時代だったの
 である。

  「聖徳太子」は天皇ではありえない。ただし皇太子摂政であることは間
 違いなく、さらに大王だったのである。

  おいおいちょっと待て、大王=天皇ではないかとお叱りを受けそうであ
 るが、結論に到るにはまだ早い。

  さて、『用明紀』・『崇峻紀』・『推古紀』は、さらにもう一つのテー
 マを掲げている。

  それは、極悪非道の限りを尽くしたという「蘇我氏」三代の専横時代で
 あり、『崇峻紀』に記されているように、崇峻を暗殺した「蘇我馬子」か
 ら始まり、「蘇我氏」三代の極悪非道ぶりが発揮されるのである。

  だいたい、『崇峻紀』が事実だとしたら、「蘇我馬子」は「太子」の叔
 父さんである崇峻を殺し、「太子」はその殺人犯といっしょに政務を司っ
 たことになり、さらに「太子」は、叔父さん殺しを父に持つ娘「刀自古郎
 女」(とじこのいらつめ)を妃にしているとされている。

  いくら聖者でも絶対あり得ないことであろう。

  奈良時代にはいると仏教文化が最高潮に達するが、その仏教は「蘇我稲
 目」にもたらされ、「蘇我馬子」によって花開いたものである。
  『日本書紀』の記述通り「蘇我氏」が大悪人であったならば、彼らが導
 いた仏教が、国内を揺るがすほどセンセーショナルであるはずがない。
  ましてや天皇さえも帰依しているのである。

  「蘇我氏」もまた創造された人物像なのであろう。

  では、飛鳥の聖者・聖徳太子と大悪人「蘇我氏」いう人物像が、作られ
 た理由はどこにあるのだろうか。

  それは天武天皇の発案による『帝紀及び上古の諸事』撰修事業を利用し
 て、その内容を『日本書紀』成立当時(720年)の天皇家に、都合良く
 編纂し直す目的のためとしか考えられない。

  このあたりの事情は、以下のように推理している。


  
「壬申の乱のより近江朝を倒し即位した、蘇我系であろう天武天皇は、
 まさに征服王朝であった。そして、壬申の乱を正当化するための大義名分
 を、「蘇我入鹿」暗殺という乙巳の変(大化改新)に求め、『十巻本』を
 編纂せしめた。
  ところが、天智朝(あるいは皇極朝)もまた、乙巳の変による征服王朝
 だったのである。
  天武の死後、皇位を継いだ天智の妹・持統天皇や、さらにそれを嗣いだ
 元正天皇は、乙巳の変の大義名分を、『蘇我氏』三代と聖者・聖徳太子に
 求めた。
  すなわち崇峻天皇を殺し、聖徳太子を死に追いやり、その子「山背大兄
 王」(やましろのおおえのみこ)以下、上宮家を皆殺しにしたのは『蘇我
 氏』であった、という記録をでっちあげ、『十巻本』を利用改竄し『日本
 紀』(『日本書紀』)を成立させたのである。もちろんこの裏で『藤原不
 比等』が暗躍していたことは、いうまでもない。」

  とまあ、こんな具合になる。

  そして『推古紀』は、『十巻本』では、『厩戸皇太子紀』であった可能
 性は高い。聖徳太子摂政を、推古天皇の御代にすり替えられたのである。

  そろそろ謎解きにかかることにしよう。

  まず第一は 、『日本書紀』で聖徳太子とされた人物についてである。

  実は、恐ろしくもまことに説得力のある説が存在する。

  関祐二氏は著書『聖徳太子は蘇我入鹿である』という、ショッキングな
 タイトルの中で、『先代旧事本紀』・『元興寺縁起帳』・『日本書紀』を
 組み合わせ、ある系譜を導きだしたことにより、次のように結論づけてい
 る。


 
 『元興寺縁起帳』

     ?
     ├──────聡耳皇子(大王・元興寺をつくる)
    大々王(物部氏の出身)


    巷奇有明子(蘇我馬子)
     ├──────善徳<長子>(元興寺を建てる)
     ?


  『日本書紀』

    蘇我馬子
     ├──────善徳(元興寺の初代管長)
    物部守屋の妹


  『先代旧事本紀』

   宗我嶋大臣(蘇我馬子)
     ├──────豊浦大臣、名を入鹿
   物部鎌姫大刀自連公


  これらの系譜を組み合わせると、「蘇我馬子」と「物部守屋」の妹であ
 る「物部鎌姫大刀自連公」との間の子こそ「聖徳太子」であり、「蘇我入
 鹿」とは異名胴体の関係になり、彼の本名は「善徳」ということになる。

  この説は数ある諸説の中で空恐ろしいほどの説得力を持ち、文献史の私
 的解析のアプローチ方法が同じであるため同様の結論になる。ただし、た
 だ一点を除いてはという条件付きではあるが。

  聖徳太子は「蘇我氏」の血縁者として記述されている。それも蘇我系皇
 族と言っていいほど「蘇我氏」の血が濃い。
  飛鳥の聖者・「聖徳太子」として記されながら、大悪人「蘇我氏」の血
 が濃いなど、所詮創造された人物像であるので、もっと聖者らしい血縁に
 してもよかったように思うが、逆に言えば、この記述は真実であると考え
 てよかろう。従って、「太子」は「蘇我厩戸皇子」とも言えるわけだ。

  つぎに「蘇我氏」三代についてである。

  『隋書倭国伝』は、


  
「内官に十二等あり、一を大徳といい、次は小徳、次は大仁、次は小仁、
 次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大
 信、次は小信、員に定数なし。」


  と記しているが、これは序列こそ若干違ってはいるものの、「太子」の
 施工した『冠位十二階』(大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、
 小信、大義、小義、大智、小智)に間違いない。

  推古十二年一月一日、この十二階の冠位を諸臣に賜ったというが、官僚
 の最高の地位である「蘇我馬子」には、冠位に関する記述が一切ない。
  冠位は何で、冠の色は何だったのだろうか。あるいは、冠位を授ける側
 にあったのではないか。


  皇極二年冬十月六日には、


  
「蘇我大臣蝦夷は病のために登朝しなかった。ひそかに紫冠を子の入鹿
 に授けて大臣の位になぞらえた。」

      ・・
  とある。紫冠とは文字通り紫色の冠のことだと思われる。紫は古代もっ
 とも高貴な色とされていたように思う。
  大臣が紫冠ならば、天皇は何色の冠になるのか。紫以上に高貴な色は、
 想像がつかない。紫こそ天皇に相応しい色と言えるのではないだろうか。

  実は「蘇我蝦夷」は天皇にも相当する位だったのではないか。

  ここで先の『先代旧事本紀』の系図を見てもらいたい。

  『先代旧事本紀』では、「馬子」の子を「入鹿」としており、『日本書
 紀』に記された「蝦夷」を無視している。
  だいたい「蝦夷」という蔑視した名前自体虚名であることくらい、誰に
 でもわかるというものだ。

  この系図から「蝦夷」・「馬子」二世代は、「馬子」一世代であるとす
 る。もちろん『日本書紀』の事績は真実ではないと推察している。

  関祐二氏は、『元興寺縁起帳』・『日本書紀』・『先代旧事本紀』から
 おのおの系譜を導き出しているが、なぜか、聖徳太子は用明の皇子であっ
 たという『日本書紀』の系譜を無視している。


  
『日本書紀』

    用明天皇
     ├──────厩戸皇子
    穴穂部間人皇女


  これに先の三つの系譜を合わせると、「穴穂部間人皇女」=「物部鎌姫
 大刀自連公」=「物部守屋」の妹であり、用明=「蘇我馬子」にも比定で
 きるのだ。従って系譜上では、「入鹿」の父「蝦夷」は、用明=「蘇我馬
 子」と同一人物になる。

  関祐二氏は、この系譜は真実ではないとして無視したのであろうが、そ
 れでは『日本書紀』の術中にはまったことになりはしないか。

  『十巻本』は『用明紀』・『崇峻紀』を除いて、おのおの独立した天皇
 紀になっている。
  あくまでも想像でしかないが、そもそもの編集姿勢は天皇一人に対して
 天皇紀一巻であったと思う。ではなぜ『用明紀』・『崇峻紀』は合編なの
 であろうか。

  本来この両天皇紀に相当する部分は、『蘇我馬子天皇紀』一巻であった
 に違いない。

  大胆な推理をさせていただけば(全編に渡って大胆なので、今さら言う
 ことでもないのだが)、実際に天皇であった「蘇我馬子」を、用明として
 天皇家の系譜に取り込み、崇峻として殺したのである。それも、「馬子」
 本人に誅殺させるという捏造をやってのけたのである。
 そのために『推古紀』の冒頭で、用明の治世を無視してしまう大きなミス
 を犯してしまったのである。

  「蘇我馬子」という名もまた蔑視した名である。本名は「厩戸宗我嶋」
 とでもいったのだろう。「太子」が「厩戸宗我嶋」大王の皇子であるから
 こそ、「厩戸皇子」なのだと思う。「馬子」も「厩戸」も「うまこ」と読
 むことができるではないか。(もしかしたらこの二人に親子関係はなく、
 「馬子」は「入鹿」の養父なのかも知れない。)

  また『日本書紀』には密かに「蘇我馬子」を讃えている記述もある。


  
「夏五月二十日、馬子大臣が亡くなった。桃原墓に葬った。大臣は蘇我
 稲目の子で、性格は武略備わり、政務にもすぐれ、仏法をうやまって、飛
 鳥川の辺りに家居した。その庭の中に小さな池を掘り、池の中に小さな嶋
 を築いた。それで時の人は嶋大臣といった。」


  これは推古天皇三十四年にある記事であるが、この称賛はまさに天皇に
 匹敵するものである。       ・・・・・
  「蘇我」の字を当てたのは執筆者のウルトラCである。「蘇我」は「我
 蘇り」と読めるではないか。

  聖徳太子は大王であり、「蘇我入鹿」=「蘇我善徳」と同一人物であっ
 た。『先代旧事本紀』は「入鹿」を豊浦大臣(『日本書紀』ではその弟)
 と記している。彼の名は「豊浦宗我善徳」大臣であり、「豊浦太子」と呼
 ばれていたのではないか。まさに豊浦宮に居たのだと思う。

  「馬子」・「蝦夷」・「入鹿」の蘇我氏三代の名は造作であったのだろ
 う。彼らは『日本書紀』に記された人物像とは全然違っていたのである。
  最後が推古天皇についてである。



   
4.幻の推古天皇


  推古は用明の同母妹であるとされているが、用命が非実在ならば推古も
 また非実在となってしまうのではないか。

  推古の和風名は「豊御炊食屋姫尊」(とよみけかしきやひめのみこと)
 であるが、はたして即位していたのであろうか。

  「豊御炊食屋姫尊」は幼名を「額田部皇女」といったが、「豊御炊食屋
 姫尊」と「額田部皇女」は別人だろうと思われる。
  なぜなら『推古紀』以外で、「額田部皇女」と記されたことは一度もな
 いばかりか、『聖徳太子伝古今目録抄』には、


  
「田村皇子、舒明天皇之太子御名也。推古天皇之御子也」


  とあるからだ。『日本書紀』は舒明の母を推古としていない。

  舒明の母は、敏達の女「糠手姫皇女」(ぬかてのひめみこ)なのである。

  これらのことから、「額田部皇女」は舒明の母「糠手姫皇女」と同一人
 物と考えられ、「豊御炊食屋姫尊」は別人であったことになる。

  では、「豊御炊食屋姫尊」とはいったい誰なのであろうか。

  残念ながら、彼女もまた創造された人物であり、『日本書紀』により天
 皇の地位を与えられたのだと思われる。
  そればかりか、『推古紀』に登場する主要人物は、意外な人物がモデル
 になっている。

  実は「豊御炊食屋姫」と同じ名乗りを持つ人物がいる。『日本書紀』神
 代に登場するナガスネヒコの妹でニギハヤヒの妃であった「三炊食媛」で
 ある。
          ・・・・・
  「蘇我馬子」は、ウマシマジから造った名前ではないかと思われる。崇
 峻は「馬子」の殺されたことになっているが、『先代旧事本紀』によれば、
 ナガスネヒコはウマシマジに斬られているのだ。

  また用命の和名は「橘豊日」であるが、これとて「饒速日」からの造名
 ではないかと疑いたくなる。

  これらの理由を問われても答えに窮してしまうが、おそらくウマシマジ
 のナガスネヒコ殺しは家臣による大王殺しとして、巷でも有名な悪業伝説
 であったのだろう。

  『日本書紀』の編纂者による、「馬子」と聞けば大王殺しを連想させる
 効果があることを知っての造作であろはないか。

  『日本書紀』のナガスネヒコはニギハヤヒに斬られているが、内容が同
 じではまずいので、意図的に変えたのではないだろうか。

  ついでに「蘇我入鹿」の名のモデルは、『三国史記』の『高句麗本紀』
 に登場する「泉蓋蘇文」である。彼のことは『日本書紀』にも大臣「伊梨
 柯須弥」(いりかすみ)としてはっきり記されている。

  それは、『皇極紀』元年2月6日の次の記述である。


  
「高麗の使人が難波津に泊った。二十一日、諸大夫たちを難波の郡に遣
 わして、高麗国の奉った金銀などと、他の献上物を点検させた。使者は貢
 献のことを終ってから、『去年の六月、弟王子が亡くなり、秋九月、大臣
 伊梨柯須弥が、大王を殺して、併せて伊梨渠世斯(いりこせし)ら百八十
 余人を殺しました。弟王子の子を王とし、自分の同族の都須流金流(つす
 るこんる)を大臣としました』といった。」


  「泉蓋蘇文」の名は「蘇我入鹿」に、そしてその事績は「蘇我氏」三代
 の事績にそっくりである。というよりも同じであると言っても差し支えな
 い。これはもはや疑いようもなく、「馬子」・「蝦夷」・「入鹿」三代の
 人物像は、「泉蓋蘇文」から創造された人物像にほかならない。

  「蘇我蝦夷」は主に『舒明紀』に登場するが、『舒明紀』にはいわゆる
 東国の蝦夷が背いたとしており、「蘇我蝦夷」と東国の蝦夷を、わざと混
 同させるような記述になっている。

  例えば、蝦夷に討たれた「大仁上毛野君形名」の妻の言葉を、


  
「いまいましいことだ。蝦夷のために殺されてしまうとは」


  と記している。

  『日本書紀』のねらいはまさにここにあると思う。「蝦夷」を混同させ
 ることにより、記すことのできなかった舒明朝と「蘇我氏」の対立関係を
 暗示させているのだ。
  なぜ記せなかったのか。それはこのときの戦争で、舒明朝は本拠地であ
 る岡本宮を失うほどの痛手を受けたからである。

  「推古天皇」が非実在でも、この時代は確かに女帝の時代であった。

  先に掲載した、『元興寺縁起帳』における系譜を見てもらいたい。

  「大々王」の存在にお気づきになられるかと思う。そして「大々王」と
 は、「物部守屋」の妹、「物部鎌姫大刀自連公」に比定できる。
  彼女こそこの時代の女帝なのであり、大王より上の「大々王」すなわち
 天皇だったのである。

  「聖徳太子」は皇太子であり大王であったという矛盾も、このとき存在
 した「大々王」により無理なく説明できてしまう。

  『隋書倭国伝』に記述されている、倭王「阿海多利思比弧」はやはり聖
 徳太子であったのだろう。

  『日本書紀』が推古天皇を創造した理由は、「物部鎌姫大刀自連公」天
 皇下の蘇我王朝を抹殺するため以外に考えられない。
  そして聖徳太子=「蘇我入鹿」であるならば、推古=皇極であるとも言
 える。

  つまり推古は、実在したであろう「額田部皇女」に重ねてはいるものの、
 皇極や「物部鎌姫大刀自連公」をモチーフにして造られた、実体のない女
 帝であったのである。

  推古一代の追加により、「馬子」・「入鹿」の親子関係にも世代間が生
 じてしまった。その結果、「馬子」の子「蝦夷」を創造して、世代間を埋
 めたのであろう。なぜなら「入鹿」は三世代後の「乙巳の変」で殺されな
 ければならないからである。


  『舒明紀』の九年に


  
「この年、蝦夷がそむいて入朝しなかった。大仁上毛野君形名を召して、
 将軍として討たせた。しかし、かえって蝦夷のためにうたれ、逃げて砦に
 はいった。ついに敵のために囲まれた。」


  とあり、ここでも「蘇我蝦夷」のこととも、蝦夷のことともつかないよ
 うな曖昧な記述をして、実像をごまかしながら蔑んでいるではないか。

  「蘇我氏」は実像を抹殺されたうえ、天皇家にとって史上希に見る大悪
 人にされてしまった。
  その背景には、当時の朝鮮半島問題が複雑に絡み合っていたであろうこ
 とは、容易に推察できる。

  よく「百済」・「新羅」との二国間問題に、端を発しているのではない
 かと言われているが、そこにはさらなる事情が渦巻いていたと思われる。



   
5.親「百済」か親「新羅」か?


  ヤマト政権は、どちらかといえば「百済」よりの朝鮮外交であったこと
 は認められている。

  なかでも継体朝は、「百済」の斯麻王(二十五代王、武寧王)から送ら
 れた人物画像鏡(「隅田八幡宮」和歌山県橋本市隅田町)の銘文からも判
 るように、かなりの親「百済」派だったことは間違いない。

  だからこそ、その対抗勢力となった「磐井」が「新羅」と結んだと考え
 られる。
  もっとも、継体朝の外交は「百済」有利に運んだのであることは想像に
 難くない。「任那」四県の無条件割譲などからも推察できよう。

  ところが、継体の皇子である欽明の崩御時には、「新羅」が弔使として
 「未叱子失消」(みししししょう)らを遣わし、殯に哀悼を表している。

  この「新羅」の態度はただごとではない。欽明は親「新羅」派だったと
 しか言いようがない。
  継体朝と欽明朝との間に、朝鮮外交方針を一転するような何かが起こっ
 たと考えられる。

  当然「任那」が問題の中心であると考えられる。(事実は「任那」問題
 だけではなく、「百済」自体の国情に問題があったと考えている)

  私見によれば、「百済」は「任那」四県を占領し、継体朝にそれを認め
 させている。このことは「大伴氏」主導のもと行われたらしく、後に「大
 伴氏」は政治責任をとらされ失墜の原因となっている。

  しかし「大伴氏」は自ら失敗を認めたように、「任那」復興の軍を朝鮮
 半島に送っっている。

  『宣化紀』二年の条には、


  
「新羅が任那を侵したので大伴金村に誌し、その子の磐と狭手彦を遣わ
 し、任那を助けた。この時に磐は筑紫に留り、その国の政治をとり三韓に
 備えた。狭手彦はかの地に行って任那を鎮めまた百済を救った。」


  とあり、宣化の命ではあるが渡航した将軍は、すべて大伴一族であり、
 「大伴氏」の私軍だった可能性が高い。

  実は、さらなる「任那」侵攻を施したのは、「新羅」ではなく「百済」
 であったのではないかと考えているのだが。

  『推古紀』三十一年に、「田中臣」の興味深い発言が記されている。


  
「百済はたびたび豹変する国である。道路の区画さえも偽りがある。お
 およその言うところ皆信じられない。百済に任那をつけたりすべきでない」


  このように「百済」はたびたび裏切る国であるらしい。仮に条約が締結
 されていても、守らないとでも言いたそうである。

  継体朝から欽明朝にかけての時期も、「百済」の裏切りがあり「任那」
 四県以上に侵攻したのかも知れない。


 
 「二十五年三月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月高麗は
 その王、安を弑した。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子・
 皇子皆死んでしまった」


  何度も掲載しているが、『継体紀』二十五年にある『百済本紀』からの
 引用である。
  進軍して「安羅」に至ったのは、はたして倭軍であったのだろうか。く
 りかえすが、これは『百済本紀』からの引用なのである。主語が省略され
 ているのは、自国のことだからである。日本の国名が記載されている以上、
 主語は「百済」である。
 
  皆死んだとは、宣化天皇とその皇子のことであったことは前述している
 が、一度に全員亡くなってしまうということは、暗殺か自殺かを想定させ
 る。また自殺する理由も考えられない。いずれにしても自然死ではなかっ
 たはずだ。

   さらに推古天皇九年秋九月八日の条に、


 
 「新羅の間諜の迦摩多が対馬に来た。それを捕らえて朝廷に送った。」


  とあり、「新羅」の間諜が倭地にやってきていたことは充分考えられる
 ことである。「新羅」だけでなく「百済」・「高句麗」にしたところで同
 様であろう。

  宣化一族皆殺しの裏には、間諜の暗躍があったのではないか。そうであ
 れば、それが「新羅」かもしれないことは『日本書紀』のに記述の方向性
 から想像できるが、『百済本紀』を引用することで、暗に「百済」の関わ
 りをさけているようにも思える。

  逆に言えば、「百済」こそ真犯人であったのではないだろうか。

  『欽明紀』七年秋七月、百済王が任那王に対して語った記述がある。


 
 「昔、わが祖先速古王・貴首王と、当時の任那諸国の国王らとが、はじ
 めて和親を結んで兄弟の仲となった。それゆえ自分はお前を子どもとも弟
 とも考え、お前も我を父とも兄とも思い、共に天皇に仕えて強敵を防ぎ、
 国家を守って今日に至った。・・・以下略・・・」


  国家間の優劣はともかくこのように、「百済」・「任那」・「倭国」は
 各国が認識していなくとも連邦国家の様相であった。おそらく「新羅」と
 の関係も同様であったのだろう。
  しかし、「百済」と「新羅」が対「高句麗」時以外、お互い敵同士であ
 るのに対して、「倭国」と「任那」は「百済」と「新羅」とのどちらも国
 交があったのだと思う。

  「百済」は「高句麗」に旧地をおわれて以来、復興の道を模索していた
 と思われる。その結果が「任那」四県への侵攻であったのだろう。

  但し「百済」の勢いは、「任那」四県にとどまらなかったと思われる。

  宣化天皇の夏五月一日の条に、「筑紫」の官家を整備した記述がある。


  
「食は天下の本である。黄金が万貫あっても、飢えをいやすことはでき
 ない。真珠が千箱あっても、どうしてこごえるのを救えようか。筑紫の国
 は、遠近の国々が朝貢してくる所であり、往来の関門とする所である。こ
 のため海外の国は、潮の流れや天候を観測して貢をたてまつる。応神天皇
 のころから今に至るまで、籾種を収めて蓄えてきた。凶年に備え賓客をも
 てなし、国を安ずるのに、これに過ぐるものはない。そこで自分も阿蘇君
 を遣わして、河内国茨田郡の屯倉の籾を運ばせる。蘇我大臣稲目宿根は尾
 張連を遣わして、尾張国の屯倉の籾を運ばせよ。物部大連麁鹿火は新家連
 を遣わして、新家屯倉の籾を運ばせよ。阿部臣は伊吹臣を遣わして、伊賀
 国の屯倉の籾を運ばせよ。屯倉を那津の口に建てよ。また、かの筑紫・肥
 国・豊国の三つの屯倉は、それぞれはなれへだたり、もしそれを必要とす
 る場合には、急に備えることが難しい。諸郡に命じて分け移し、那津の口
 に集め建て、非常に備えて民の命を守るべきである。早く郡県下令して、
 私の心を知らしめよ。」


  「那津の口」とは博多大津のことである。大至急、筑紫に籾種を蓄えさ
 せようとした命であるが、内容は非常事態宣言であり、戦争に対する備え
 としか考えられない。

  欽明朝の記述は、まさに朝鮮三国と倭国との『四国史』の様相である。

  その記述は当然「倭国」優位に記されているが、「任那」の土地を巡っ
 て利権をたくらむ「倭国」・「百済」・「新羅」の三国と、それに屈しな
 い「任那」、さらには、国家の枠組みに屈しない自治区との、巴戦とも言
 える攻防戦を、繰り広げていたのではないかと想像する。

  先に「任那」を占領した「百済」であったが、宣化の御代、勢いに乗じ
 て「筑紫」侵攻さえしかねなかったのだ思う。それは継体朝で交わした約
 束を反故にすることでもあったが、そうでもしなければならない国家情勢
 があったのだ。

  国王も「武寧王」から「聖明王」に変わっていた。実は「百済」自体が
 分裂していたのだと想像する。(このことが「倭国」に多いに影響してい
 るのではないか。)

  宣化は「筑紫」を整備して「百済」に備えたが、「百済」がとった手段
 は密使・間諜によるゲリラ戦であろうし、このとき


 
 「日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった」


  のである。早い話が殺されたのだ。

  年若き欽明天皇を立て、「新羅」と結ぶことで政権存亡の危機を脱した
 が、欽明崩御の隙をついて「百済」は政権の乗っ取りに成功した。
  『日本書記』には記載されていないが(記述できるはずもないが)、こ
 のときの戦いで、「筑紫」は「百済」に押さえられてしまったと考えてい
 る。さらに推測させていただくならば、「筑紫」に設立した「百済」の拠
 点が「太宰府」であったのだと思う。ただし、その拠点は現太宰府政庁跡
 の場所とは違い、博多の那の津であったらしいのだが、「倭国」の朝鮮半
 島政策の拠点が、「任那日本府」であったとするならば、「百済」の倭地
 における拠点が「百済太宰府」であったと考えられる。

  案外、実際には「筑紫」にあった「任那日本府」跡を、そっくりそのま
 ま「百済太宰府」としたのかも知れない。

  その後方支援があってこそ、敏達は「百済」の大井に宮を構えるとがで
 きたのであり、舒明は「百済川」のほとりを宮地とし「百済宮」を建て、
 「百済大寺」を建てることができたのである。

  そして舒明の崩御にいたっては、宮の北に殯宮を設置しという。

  なんとこのことを「百済」の大殯というのだ。

  これが「百済」でなくていったい何だというのだろう。あるいは、渡来
 した百済人が多く住む、現代で言う「リトルトウキョウ」のようなものと
 反論される方がいらっしゃるだろうが、ヤマト政権の天皇が何を好きこの
 んで、そのような中に他国名の宮を立てなければならないのか。

  現代の明仁天皇が例えばアメリカ市に皇居を定め、皇居をアメリカ宮と
 名付けることなど絶対にあり得ないように、大和の天皇が「百済」を名乗
 ることなど到底考えられない。

  従って、このとき間違いなく「百済」政権が存在したのである。

  この「倭国」の地に存在した「百済」政権(敏達・舒明朝)と、「倭国」
 の在地勢力と結びついた政権が、皇極(推古)朝であり斉明朝であると考
 えている。
  「中大兄皇子」が「百済」本国の存亡をかけて、無謀とも言われる「白
 村江の戦い」に挑んだ理由もここにある。

  そしてこの王朝の敵対勢力が「蘇我氏」であり、「蘇我氏」は単なる一
 豪族ではなく、もう一つの大王家であった。

  天皇という名詞が定着したのは、天武朝以降と言われている。それ以前
 は、大王と呼ばれていた。天武朝以降に成立した『日本書紀』は当然のよ
 うに天皇しているが、他文献との比較で大王と称されていたことが判明す
 る。

  検証ができることではないがのだが、本来「大臣」(おおおみ)・「大
 王」(おおきみ)は、同じ発音であり、同じ意味で使われていたのではな
 いのか。
  それらに格の違いなど無く、大王家が天下を取った以降、大臣家はその
 下風に置かれるようになったのだと思う。

  「蘇我稲目」の正式名は、「蘇我大臣稲目宿禰」と言うが、だいたい、
 『日本書紀』は「大臣」も「宿禰」も朝廷から任命された姓としている。
 従って、これが重複するはずがなかろう。
  「蘇我稲目」の「宿禰」姓は、「大臣」を「大王」よりも下に置こうと
 する思惑が見え隠れする。

  ついでに言えば、大連もかつては大王と同じ意味だったのだと思う。し
 かし、大臣よりも早い時期に大王に服したのだろう。

  この章の最後に、「蘇我氏」が時の最高権力者だった、確固たる証拠を
 あげておこう。
  「乙巳の変」の後の『皇極紀』四年六月十三日に、


  
「蘇我臣蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼却し
 た。」


  とあるが、何故天皇記を焼却する必要があったのかを考えて欲しい。

  しかもそれは『推古紀』二十八年十二月一日の条によれば、聖徳太子と
 「蘇我馬子」が、記録したものなのである。

  天皇記とは天皇家の歴史書である。それを焼却しなければならないとき
 とは、国が滅びて天皇家と天皇家の歴史が汚されるときであり、天皇自身
 が自分の記録を処理する場合に限られるのである。


                    2000年12月 第9部 了
                     2002年2月 改訂