真説日本古代史 本編 第八部


   
歴史時代




   
1.新時代の到来


  謎の四世紀も完結し、五世紀後半下期から六世紀に移っていく。

  さて、ここで整理のためにも、私見による「誉津別命」以降の年表を記
 しておきたい。


 
366年  ヤマト政権(ホムダマワカ王)は、「斯摩宿禰」を大将にし
        た軍隊を「卓淳国」に送り、対「高句麗」のため「百済」と
       の軍事外交を依頼する。
 391年  「百済」と結んだヤマト政権は、「加羅」に軍隊を駐屯させ、
       しきりに「新羅」を牽制した。「新羅」は密かに「高句麗」
       に密使を送った。
 396年  「高句麗」軍(好太王)が「百済」に進入しため、ヤマト軍
       はこれに防戦、自ら最前線に赴いたが、あえなく敗退する。
       この結果、「百済」の一部は「高句麗」の占領となる。
 399年  ヤマト軍は、「新羅」経由で「高句麗」に挑もうとしたため、
       「新羅」は「高句麗」に援軍を要請する。
 400年  「高句麗」軍とヤマト軍は、「新羅」の国境付近で激突する
       が、ヤマト軍は遺滅。からくも「加羅」駐屯地まで脱出し、
       壊滅を免れた。
 404年  勢力を回復したヤマト政権は、再び軍隊を遠征させ、帯方付
       近まで進軍した。そこでふたたび「高句麗」軍と決戦して、
       大打撃を被った
       この後、ホムダマワカ王が亡くなり、「誉津別命」が即位す
       る。(仁徳天皇)
 413年  仁徳天皇、「東晋」に遣使。
 421年   仁徳天皇「宋」に遣使。
 425年  同じく仁徳天皇、「宋」に遣使。
 430年  履中天皇、「宋」に遣使。
 438年  反正天皇、「宋」に遣使。
 442年  クーデターが勃発。宿禰姓の「雄朝津間稚子」が即位(允恭
       天皇)。
 443年  允恭天皇、「宋」に遣使。
 451年  允恭天皇、「宋」に遣使。
 460年  倭国、「宋」に遣使
       木梨軽皇子失脚。
 462年  穴穂皇子、「宋」に遣使。穴穂皇子の即位(安康天皇)。
 465年〜 安康天皇、眉輪王により殺される。
       「市辺押磐皇子」、「大泊瀬幼武皇子」により殺される。
 466年〜 「大泊瀬幼武皇子」即位(雄略天皇)。東国遠征のため、
       「尾張国」と同盟する。
 477年  倭国(雄略天皇)、「宋」に遣使。
 478年  雄略天皇、「宋」に遣使。
 489年  雄略天皇、「近江・尾張」連合国を構成する一氏族「五百木
       氏」に討たれ、能褒野で死亡。飯豊皇女即位。
       「高句麗」、「百済」を攻める。


  そして、いよいよ継体天皇の出現となり、古代史は歴史時代へと突入し
 ていくことになる。
  さらに、ここで『記紀』における、雄略以降の干支崩御年からみた各天
 皇の活躍年代を知っておきたい。
  干支崩御年からみた年代誤差は、次のようである。


  
     『古事記』  『日本書紀』 誤差
       干支 西暦  干支 西暦
  推古天皇 戊子 628 戊子 628  0
  崇峻天皇 壬子 592 壬子 592  0
  用明天皇 丁未 587 丁未 587  0
  敏達天皇 甲辰 584 乙巳 585 −1
  安閑天皇 乙卯 535 乙卯 535  0
  継体天皇 丁未 527 辛亥 531 +4
  雄略天皇 己巳 489 乙未 479 −10

  注、宣化天皇、欽明天皇については、『古事記』に干支崩御年の記載が
 ない。


  『古事記』は、推古天皇までしか記載がないので、これ以降の『記紀』
 比較はできないが、これらからみた推古以降の天皇活躍年代は、『日本書
 紀』
の記載を確からしいとしても良いだろう。

  これまで、干支崩御年に関しては『古事記』を優先してきたので、雄略
 についても、『古事記』の崩御年を確からしいとして採用したい。

  ところで、これまでに言及してこなかったが、『梁書倭伝』『南斉書
 倭国伝』
には、


  
「武を進めて征東将軍と号させる。」


  との記述がある。

  この記述は、天監元年(502)のことであるので、雄略がこの年まで
 生存していたとも考えられる。

  正直言って、これには困ってしまった。



   
2.越前から来た天皇


  『日本書紀』を信じれば、武烈天皇の時代にあたり、倭王「武」が雄略
 と断言している私にとっては、かなりつらい史料である。

  しかしながら倭王「武」=雄略説は、文献のみならず考古学的出土品か
 らみても、揺るぎない史実であろうと思う。
 
  おそらくこの時は、「武」の遣使朝貢はなかったのだと思う。

  なぜなら、『梁書』には建元元年(479)のこととして、


  
「武を使持節督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事鎮東大将軍に除す」


  とあるのだが、これら502年と479年の記述に、共通して言えるこ
 とは、「倭国」が遣使朝貢したという記述がなく、それらは中国国家交替
 元年の記録であると言うことだ。

  建元元年については、『南斉書』がより具体的に記している。


 
 「建元元年、使持節都督倭新羅任那加羅秦韓六國諸軍事鎮東大将軍倭王
 武に、新しく鎮東大将軍の号を授けるものと為す」


  479年には「南斉」の「高帝」が、502年には「南梁」の「武帝」
 が立っており、これらのことから、皇帝即位に基づく特進により授けられ
 た、単なる称号にすぎなかったと考えられる。

  つまり、ヤマト政権の諸事情を知らない新中国王朝が、前王朝の記録に
 あった友好国の王を、特赦・恩赦のたぐいにより、役職だけ出世させて記
 述したものと思うし、倭王「武」亡き後の、称号のみの授与であったのだ
 ろう。

  そして敏達天皇の誤差1年は、その前後から考えてみた場合、誤差とみ
 なしても良いと思う。

  継体天皇については、これから検証していくのだが、その出生や没年は
 幾説もあり、まことに不思議な人物である。
  おそらく『日本書紀』編纂時の頃、すでに謎のベールに包まれていたの
 ではないだろうか。

  現代の天皇歴代表では26代にあたる継体は、その出自と生い立ちにつ
 いて『記紀』で大きな違いがある。要約すると次のようになる。


 
 『古事記』

  「品太天皇の五世孫、袁本杼を近淡海国より迎え招いて、天下を治める
 位に即けた。」

  『日本書紀』

  「男大迹天皇(またの名は彦太尊)は誉田天皇の五世孫、彦主人王の子
 であり、母は括目天皇の七世孫の振媛である。
  彦主人王は振媛が美人であることを聞き、近江国高島郡の別邸から越前
 三国の坂中井から召し入れて妃とし、男大迹を生んだ。男大迹の幼年に父
 王が亡くなったので、母振媛は実家の越前三国の高向に帰り、男大迹を養
 育した。」


  これらによると、「男大迹天皇」(オオドノスメラミコト)こと継体の
 出身地は、「近江」か「越前」のどちらかであるということになるのだが、
 『釈日本紀』引用の『上宮記』も、出生地を「近江」養育地を「越前三国」
 とするので、ここでは『日本書紀』説を採用したい。

  ただし、『上宮記』は推古朝時代の遺文と言われているので、『日本書
 紀』が『上宮記』を引用した可能性もあり断言はできない。
  しかし、「男大迹」が父系の「近江」、母系の「越前」の勢力に支えら
 れていた大王であったことは、ほぼ疑いの無いところである。
  
  これまで「近江・尾張」連合政権と記してきたが、正しくは「近越・尾
 張」連合政権と記さなければならないであろう。
  また、初めからの妃は「尾張連草香」の娘「目子媛」であるので、「近
 越・尾張」連合政権内での「尾張氏」の勢力を窺い知ることができよう。

  この『上宮記』には、『記紀』に記述されていない父系・母系の人名が
 記されており、その系譜は次のようである。(系譜は父系のみ)


 
 凡牟都和希王─若野毛二俣王┬太郎子─乎非王─汗斯王(彦牛人王)→
               ├践坂大中比弥王
               ├田宮中比弥
               └布遅波良己等布斯郎女

  →乎富等大公王(継体天皇)


  この系譜は、応神天皇=仁徳天皇は垂仁天皇の皇子ホムツワケであった
 ことを、暗にほのめかしているわけだが、これによると継体は、応神の五
 世孫ではなく、垂仁の六世孫ということになる。
  従って、父系・母系とも垂仁を祖としており、怪しげな応神天皇五世孫
 説よりも、その皇統はずっとしっかりしているわけだ。

  『日本書紀』編纂者が垂仁天皇六世孫よりも、応神天皇五世孫を採用し
 た理由は、継体こそ『日本書紀』の編纂が開始された頃の、天皇の直接の
 祖と考えられ、滅ぼされた垂仁よりも、新王朝である応神・仁徳のほうが、
 より相応しいと判断したからなのだろう。

  さて、『日本書紀』は継体即位の事情を、次のように記している。


 
 「十二月二十一日、大伴金村大連がみなに議って、『いま全く跡つぎが
 ない。天下の人々はどこに心をよせたらよいのだろう。古くから今に至る
 まで、天下の禍はこういうことから起きている。仲哀天皇の五世の孫の、
 倭彦王が丹波国桑田郡においでになる。試みに兵士を遣わし、みこしをお
 守りしてお迎えし、人主として奉ったらどうだろうか。』といった。大臣・
 大連らはみなこれに従い、計画のごとくお迎えすることになった。ところ
 が倭彦王は、遙かに迎えにやってきた兵士を望見して恐怖し、顔色を失わ 
 れた。そして山中に遁走して行方不明となった。
  元年春一月四日、大伴金村大連はまた議って、『男大迹王は性なさけ深
 く親孝行で、皇位を継がれるのにふさわしい方である。ねんごろにお勧め
 申して、皇統を栄えさせようではないか』といった。物部麁鹿火大連・許
 勢男人大臣らはみな、『ご子孫を調べ選んでみると、賢者はたしかに男大
 迹王だけらしい』といった。
  六日に臣・連らが、君命を受けた節の旗をもって御輿を備え、三国にお
 迎えに行った。」


  この後「男大迹王」は何度も辞退するものの、ついには請われて即位す
 るのである。その場所は、河内国交野葛葉の宮であるという。

 しかし、実際の即位事情は以下のようだったのではないだろうか。

  『継体紀』は『武烈紀』の次であるが、清寧・顕宗・仁賢・武烈はヤマ
 ト正規政権が認知した天皇とは考えていないので、前代は「飯豊皇女」だ。
  「飯豊皇女」は、雄略の突然の最後により、皇位に着かざるを得なかっ
 た、いわば繋ぎの天皇である。何とか体裁は保っていたものの、雄略の死
 はヤマト政権が崩壊していくには、充分すぎる事件であった。

  学者のあいだでは、雄略により、ヤマト政権の全国支配が完成した
 とするみかたが有力であるが、『稲荷山古墳鉄剣銘文』にもあるように、


  
「ワカタケル大王の寺が斯鬼宮にあったときに、私は天下をたすけ治め
 た。」


  のであって、銘文のどこをみてもワカタケル大王が、ヤマト政権の地方
 支配をのばしたとは読めない。

  つまり、この時代の地方豪族とヤマト政権の関係は、まずその地方豪族
 の首長である王を統率する、その地方の大王が存在しており、その大王の
 上に君臨したのが、ヤマト政権の大王(天皇)であったわけであるが、そ
 れは支配関係などではなく、多くの場合は、上下関係の曖昧な協力関係で
 あったと考えられる。
  簡単に述べれば、織田信長の死後幾年も経たないうちの、豊臣政権と同
 じようなものであったと思われる。

  そうであるから、「吉備国」はヤマト政権に協力こそしても、服従した
 ことなどなかったのであるし、だからこそ雄略の死後、王朝転覆を企てる
 のである。
  私見ながら、「五百木氏」が雄略を殺害したことも、同様であるはずだ。

  実際、この時の「吉備国」と「尾張国」は、立場的によく似ていたのだ
 ろうと思う。
  「吉備」は瀬戸内を征しており、「尾張」は伊勢湾を征していたのであ
 ろうし、「吉備」の「稚媛」、「尾張」の「宮簀媛」とも雄略の妃になっ
 ている。

  ただ、「稚媛」が大和につれてこられた人質であったのに対して、「宮
 簀媛」には通い婚であった。このことから、「尾張氏」はたいそう信用さ
 れていたか、まあ、ある面一目置かれていたのだろう。
  案外、ヤマトタケル説話にみられるように、「天叢雲剣」を奉祭する巫
 女であるはずの「宮簀媛」は、雄略に心底惚れてしまっていて、「宮簀媛」
 が「尾張氏」の嫡子であり一人娘であったとしたら、「尾張氏」自身、苦
 虫をつぶした思いで、ただ見守るしかなかったのかも知れない。

  「近越・尾張」連合政権にとしては、ヤマト政権の大王と「尾張氏」の
 娘との恋愛問題など、国家の存亡にかかわることでもなかろう。しかも、
 協力関係ながらヤマト政権は、「吉備国」を従えてきたのである。
  このところのヤマト政権の勢いをみるや、「尾張国」としてみれば、静
 観を決めこんだほうが得策であったはずだ。

  ところが、『日本書紀』雄略天皇三年夏四月の条に


 
 「阿閉臣国見が、栲幡皇女と湯人の廬城部連武彦を讒言して、『武彦は
 皇女をけがして妊娠させました』といった。武彦の父のキコユはこの流言
 を聞いて、禍が身に及ぶことを恐れた。武彦を廬城河に誘い出し、偽って
 水にもぐり、魚を捕らえる鵜飼いの真似ごとをしているときに、不意に打
 ち殺してしまった。」


  とある。

  この事件が引き金となり、「近越・尾張」連合政権は、ヤマト政権を良
 く思わなくなってしまったのではないか。

  『日本古代氏族辞典』によれば、「廬城部連」は「伊福部連」であり、
 「五百木部連」のことである。ずばり「五百木氏」だ。

  「武彦」は父のキコユに殺されたのであるが、雄略の悪癖が「武彦」を
 殺したのだとも言えよう。
  「栲幡皇女」は伊勢の斎宮であり、湯人とは皇子・皇女らの沐浴に仕え
 る職である。父が殺さずとも、裁きも無しに雄略が殺したであろうことは
 目に見えている。

  なぜなら、


  
「天皇は自分の心だけで先決されるところがあり、誤って人を殺される
 ことも多かった。天下の人々はこれを誹謗して『大変悪い天皇である』と
 いった。」


  『日本書紀』は雄略を、このように記述しているではないか。

  もちろんこのような雄略の性格を、「近越・尾張」連合政権が知らぬは
 ずがない。しかし、今までは所詮対岸の火事であったのである。
  雄略により、同族が死に至ったのである。もはや対岸の火事どころでは
 すまされない。

  雄略が、どんなに「大変悪い天皇」と噂されようが、その傍若無人ぶり
 をみせておられるのは、雄略自身が、ものすごいパワーの持ち主であり、
 ヤマト政権下の諸豪族の誰一人として、意見ができなかったからなのだろ
 う。

  そんな雄略も、「宮簀媛」のもとから丸腰のまま出かけ、「五百木氏」
 の罠に掛かり「近江」の伊吹山で殺されかける。何とか「能褒野」までた
 どりついたものの、ここが最後の地となってしまった。

  このあたりの事情は、『景行紀』のヤマトタケル説話として記されてお
 り、特別編「日本武尊」の真実で解説しているので重複をさけるが、伊吹
 山の神とは、まさに「五百木氏」を象徴しているのである。

  ヤマト政権は、地方を統治する王との曖昧な協力関係から成り立ってい
 た、部族連合とも言える原始国家であったことは前述している。

  だからこそ地方の王達が、「大和」の大王を中心にしてまとまっている
 ときは平穏であるが、大和大王家の勢力が失墜すると、さながら戦国時代
 の様相をみせてしまうのである。

  雄略の死は、まさにそれであったのだ。

  ヤマト政権は、事態収集のため「飯豊皇女」を立てた。しかし、有力豪
 族はヤマト政権から、徐々に離脱していった。
  ヤマト政権の最大勢力は「大伴氏」であった。ヤマト政権の崩壊は「大
 伴氏」の没落をも意味する。そこで「大伴氏」がとった行動が外圧による
 政権の建て直しであった。

  「近越・尾張」連合政権の大王として君臨していた、「男大迹王」を担
 ぎ出すことによって、「大伴氏」自氏の勢力の安泰を画策したのであろう
 と思われる。

  以上のように推理しているのだが、「男大迹王」にとってみれば、「越
 前・近江」を掌握し「尾張」の全面協力があれば、「近越・尾張」連合政
 権下での自身王権は安泰であり、何を今さらヤマト政権など、という気持
 ちが強かったのではないだろうか。

  『日本書紀』では継体が82歳で亡くなったとしているので、即位の歳
 は57歳となろう。

  ヤマト政権とは、畿内を核とした原始国家であったが、


  
「倭国は古の倭奴国なり」 『旧唐書』倭国日本伝

  「日本国は本の倭奴国なり」『宋史』日本伝


  と理解されていたように、「統一奴国」崩壊から「邪馬台国」連合政権
 時代を経て、ヤマト畿内政権時代に移行し王権が変わっても、好む好まな
 いにかかわらず『漢委奴国王』の「奴国」から連続した国であった。その
 表れが「奈良」であり、「奴国」という国名が意識下にあったのである。

  かつての「丹波・但馬・近江・越」は「奴国」や「邪馬台国」連合国の
 重臣の影響下にあった者達が勢力をふるっていたと思われる。
  ずばり、ホアカリ系諸豪族のことである。しかし、その代表とも言える
 「尾張氏」が新天地を尾張地方に求めてからは、近江は「息長氏」の勢力
 範囲になっている。と言うより、もともと琵琶湖を漁場にしていた海人族
 「息長氏」の勢力範囲だったところへ、「越」を跡にした「尾張氏」系ホ
 アカリ族が、支援を求めてやって来たのだと思う。

  「男大迹王」が「近江」出身であるならば、「息長氏」とは密接な関係
 であると推測でき、また「息長氏」自氏は、ホアカリ系「尾張氏」以外、
 「奴国」や「邪馬台国」との関わりなどなかったはずである。

  「男大迹王」にとってみれば、ヤマト国は三関の向こうにある単なる外
 国であり、伝統なんて知ったことではない。ましてや年齢を考えた場合、
 天皇位に就くということは、火中の栗を拾うようなものだ。しかもその外
 国は政治抗争の最中ではないか。

  承知できないのも、もっともな話である。

  結局は、しぶしぶ承知して即位することになるのだが、なんと即位した
 のは河内の樟葉の宮で大和ではない。さらには山城の綴喜、乙訓を経てい
 る。
  大和の磐余の玉穂の宮に遷宮したのは、即位して20年後のことであっ
 た。



   
3.二つの皇統


  仁徳朝で台頭していた「葛城氏」も、円大臣が雄略に殺され没している
 し、国政をほしいままにしたと記されている「平群氏」も、「大伴氏」と
 の政治抗争に敗れている。
  その結果、継体即位直前の、ヤマト政権下での最大勢力は「大伴氏」で
 あり、つづいて「物部氏」、「巨瀬氏」であったように読める。

  継体の擁立は、「大伴氏」が発案者となり「物部氏」が追認する形でお
 こなわれたものである。

  大和入りができなかった理由も、外様天皇に納得しかねる豪族連合が、
 大和で頑強に抵抗したからだと推察できる。

  継体は、「大伴氏」の勧めで仁賢天皇の皇女である「手白香皇女」を、
 機内政権の皇后としているが、これは前天皇家の皇統を絶やさぬためであ
 ろう。

  『日本書紀』によれば、仁賢(億計天皇)は「市辺押磐皇子」の子であ
 り、その前代の顕宗天皇(弘計天皇)は弟である。
  この両天皇は「飯豊皇女」亡き後、大和圏内に限って天皇として認めら
 れていたのではないかと思える。早い話が河内の継体朝と大和の仁賢・顕
 宗朝とは、ある時期、二朝並立状態であったのではないかということだ。

  軽々しく二朝と言えないならば、ヤマト政権と対抗する勢力と言いかえ
 ても良い。そしてこの二大勢力は、それぞれ違った皇統を支持しながら、
 政権を主張していたのではないかと思う。

  『顕宗紀』に、清寧天皇の二年冬十一月のこととして、「億計」・「弘
 計」の二王子発見のエピソードが記されているが、「弘計皇子」は次のよ
 うに歌っている。


  「石神振の神椙、本伐り末截ひ、市辺宮に天下治しし天万国万押磐尊の
 御裔僕らま。」


  これを書き下すと次のようになる。


  「石の上の、布留の神杉を、本を伐りまた末を押し払うように、四周を
 なびかせて、市辺宮で天下をお治めになった、押磐尊の御子であるぞ、私
 は。」


  この和歌は、履中天皇の皇子の「市辺押磐皇子」は、市辺の宮で即位し
 天下を治めた。その天皇の子が私、「弘計」である、と歌っているのであ
 る。

  『日本書紀』のどこを見渡しても、「市辺押磐皇子」が即位した事実は
 記載されておらず、ただこの歌のみが即位の事実を証明しているだけであ
 るのだが、この後、「億計」・「弘計」の二王子は、すぐに召還されてお
 り、この和歌に疑いを抱いていない。この和歌は真実の叫びと言うことだ
 ろうか。

  「市辺押磐皇子」が即位していたとすれば、反正天皇の次代允恭天皇と
 同時に二つの皇統ができていたことになる。

  允恭は「宿禰」姓の家臣が、クーデターに乗じて即位した、言わば成り
 上がりの天皇であった。突然、氏・姓を糾すことをしたり、それまで行っ
 ていなかった「盟神探湯」(くがたち)による裁判は、前皇統が断絶した
 傍証になろうかと思う。

  次に、雄略は皇位継承資格のある皇子をことごとく殺している。それを
 列挙すると、


  
「八釣白彦皇子」
  「坂合黒彦皇子」
  「眉輪王」
  「市辺押磐皇子」
  「御馬皇子」


  の五指に達する。

  このうち、「市辺押磐皇子」・「御馬皇子」は前王朝である履中の皇子
 であり、「眉輪王」は仁徳の皇子で「大草香皇子」の子である。
  「八釣白彦皇子」・「坂合黒彦皇子」については、雄略の同母兄弟であ
 るのだが、この両名は「眉輪王」に肩入れしていて「眉輪王」とともに殺
 されている。

  整理すれば、これら五名は仁徳朝直系の皇子であるか、「眉輪王」に心
 を寄せていた、雄略の兄弟であることになる。

  つまり、雄略が誅殺したこれら五人の皇位継承資格者とは、何らかにお
 いて仁徳と関係がある皇子達であり、「市辺押磐皇子」が仁徳、すなわち
 対立する政権(允恭天皇はクーデターの結果即位したのだから、敵対して
 いたのであろう。現代で言えば党内派閥か?)の天皇として即位していた
 ならば、雄略の殺した「市辺押磐皇子」とは、仁徳の血を嗣いだ天皇であっ
 たことになる。このように皇統が二つあったということは、後醍醐・光厳
 の南北両朝時代のように、ヤマト政権は分裂していた可能性があるという
 わけだ。

  このことをふまえて、『日本書紀』による仁徳から仁賢までの、天皇の
 陵墓と宮居の所在地を明らかにしてみたい。


   
     宮居     陵墓所在地
  仁徳天皇 難波高津宮  大阪府堺市大仙町
  履中天皇 磐余稚桜宮  大阪府堺市石津丘町
  反正天皇 丹比柴籬宮  大阪府堺市北三国丘町
  允恭天皇 遠飛鳥宮   大阪府藤井寺市国府
  安康天皇 石上穴穂宮  奈良県奈良市宝来町
  雄略天皇 泊瀬朝倉宮  大阪府羽曳野市島泉
  清寧天皇 磐余甕栗宮  大阪府羽曳野市西浦
  飯豊皇女 角刺宮    奈良県北葛城郡新庄町
  顕宗天皇 近飛鳥八釣宮 奈良県葛城郡香芝町
  仁賢天皇 石上広高宮  大阪府藤井寺市青山


  まず陵墓所在地からみた場合、仁徳・履中・反正の天皇陵は「和泉百舌
 鳥古墳群」内に存在している。
  宮居では、仁徳・反正のみが河内であり、他は大和に宮を構えている。
 この分類を頭に入れて『日本書紀』の各天皇紀を読むと、まことに興味深
 いストーリーが連想できる。

  『神功紀』に「忍熊王」が登場する。私見では崇神・垂仁系の正当な皇
 位継承者であるが、「武内宿禰」と「武振熊」の東征軍に討たれている。
  この「忍熊王」軍は、「住吉」から退いて「宇治」に陣取り、東征軍を
 迎え撃っている敗れ、死体が宇治河であがったという。従って「忍熊王」
 の本拠地は、「住吉」から「宇治」一帯ではなかったかと思われる。

  そこで「莵道稚郎子」に注目したい。『仁徳紀』に登場し皇位を譲って
 自殺するあの「莵道稚郎子」である。
  その名の「莵道」とは「宇治」の当て字ではないのか。実際『日本書紀』
 は「宇治」に「莵道」を当てている箇所があり、「莵道稚郎子」は莵道宮
 にいたと証言している。

  さらに『播磨国風土記』には


  
「宇治天皇之世」


  として宇治天皇の治めた時代があったとしているばかりか、『山城国風
 土記逸文』は「宇治」の由来を、「莵道稚郎子」が宮を構えた場所である
 からとしている。

  『履中紀』では履中の同母弟「住吉仲皇子」(すみのえのなかつみこ)
 が、太子と偽り履中の婚約者「黒媛」を犯し、謀反を企み殺されている。

  また仁徳の皇后で、「住吉仲皇子」の母である「磐之媛」(いわのひめ)
 が、仁徳から離れ「山城」の筒城宮で別居している。

  これらを相関系図にしてみると次のようになる。(×は紛争、▲は敗者
 であり、━は『日本書紀』に記された天皇系。尚、すべて和名とした。)


 
 ▲磐之媛──┬▲住吉仲皇子
 ┌▲莵道稚郎子│ │
 │  ×   │ ×
 │  ┣━━┓↓ │
 │ 誉津別 ┣去来穂別┯飯豊皇女
 │  │  ┃↓   └───┐
 │  │  ┗━━━▲瑞歯別 └─────▲市押辺 磐皇子┳億計
 │  ├─┐ ↓    │            │   ┗弘計
 └八田皇女│ ?    │            └────┐
      │ │    ×     ┌▲木梨軽皇子      ×
      │ │    │     ?  ×        │
      │ └ 雄朝津間稚子宿禰━┷━━穴穂・・▲穴穂━大泊瀬幼武
      │               ×    ×   ×
      └───────────▲大草香皇子 ─眉輪王・▲眉輪王


  もちろんこの相関系図には、私見も含まれているが、仮に「雄朝津間稚
 子宿禰」(允恭天皇)が実母が『日本書紀』の記述通り「磐之媛」であっ
 たにせよ、こうして系図にしてみると、仁徳朝に限ったの正式な皇統は、


 
 誉津別(仁徳)━去来穂別(履中)━市押辺磐皇子━億計(仁賢)


  であったことはすぐに判別できるし、崇神朝が健在ならば、


  
五十狭芽宿禰━莵道稚郎子(宇治)━不明 ┓
                   磐之媛┻住吉仲皇子


  という皇統も考えられなくはない。

  材料が出そろったところで、真の?ストーリーの組立てをしたい。

  まず、「莵道稚郎子」は宇治天皇として、正式に認められていたのだと
 思う。
  つまりホムタマワカ王や「誉津別」が、崇神系王朝を倒し新政権の天皇
 を自称しようとも、それはあくまでも自称であり、畿内在中の諸豪族の多
 くは承知しなかったのだと思う。
  これも、「大和」でなく「河内」に宮を築いた理由の一つであろう。

  大王(天皇)を名乗るには何かが足りないのだ。

  『継体紀』には「男大迹王」の即位のときを


 
 「大伴金村大連はひざまずいて、天子の璽符の鏡・剣をたてまつて拝礼
 した。」

  「天子の璽符を受けられて即位された。」


  としており、「天子の璽符の鏡・剣」がなければ、天皇にはなれないの
 である。

  このときの「天子の璽符」は、「莵道稚郎子」に伝えられていたのだと
 思う。『播磨国風土記』が記す通り「莵道稚郎子」が宇治天皇であったな
 らば、「天子の璽符」の所有者は「莵道稚郎子」であったことになる。

  「誉津別」こと仁徳が即位できたのは、宇治天皇から譲位があったか、
 武力による略奪があったからではないだろうか。
  どちらかと問われれば、譲位であったとしたい。すでに崇神系王朝は有
 名無実となっている。王権を譲位して名を捨て実を取ることを考えたのだ
 と思う。
  すなわち、王権を仁徳に譲位する条件として、「莵道稚郎子」の実妹、
 「八田皇女」を、仁徳の皇后にすることを申し出たのではないか。

  政治の実権は、皇后を輩出した豪族が握るを思い出して欲しい。

  仁徳の皇后は「磐之媛」であった。しかし彼女は、仁徳と別居し「山城」
 の筒城宮で亡くなっている。彼女が筒城宮に行った理由とは、仁徳が「八
 田皇女」を妃に迎えたことによる嫉妬心からだという。
  「磐之媛」は「葛城襲津彦」の娘である。「山城」に赴く時でさえ、故
 郷「葛城」を偲んでいるではないか。嫉妬に狂ったのなら実家である「葛
 城」になぜ帰らなかったのであろうか。


  
「つぎねふ 山城川を 宮上り 我が上れば 青丹よし 奈良を過ぎ
 小楯 大和を過ぎ 我が 見が欲し国は 葛城高宮我 家のあたり」

 
(山城川を遡ると、奈良を過ぎ、大和を過ぎ、私のみたいと思う国は、葛
 城の高宮の我が家のあたりです。)


  これは「磐之媛」が詠んだ歌であるという。「葛城」に帰りたければ帰
 ればいいのに、なぜかそれができなかったのである。
  間違いなく「磐之媛」は「山城」で、死ぬまで幽閉されていたのだと思
 う。
  その後「莵道稚郎子」は殺されたのだと思う。生かしておくと後々何か
 と面倒な事態が考えられよう。

  仁徳の死後、履中が磐余の稚桜宮に即位したことは、大和勢力との間で、
 何らかの交渉が成立したことを証明していると思う。
  「住吉仲皇子」は、履中天皇の即位前に謀反を起こしている。「住吉仲
 皇子」は履中の同母弟とされているが、これなどは、母「磐之媛」を思う
 復讐心から出た行動だと思う。「住吉仲皇子」の父は、仁徳ではないのだ
 ろう。


  「六年三月一五日 天皇は病気になられて、身体の不調から臭みが増し
 てきた。稚桜宮で崩御された。年七十。」


  これは履中の崩御のときであるが、この記事にはなにやら異常さを感じ
 てしまう。
  次代の反正天皇は、「河内」の丹比の柴籬宮で即位している。履中の御
 代に、「大和」と離別しなければならない何かがあったのだ。
  臣下である「雄朝津間稚子宿禰」が政権クーデターで即位した理由も、
 そこにあるのかも知れない。宮は遠飛鳥である。

  允恭は、「天子の璽符」の授受により即位していることが『日本書紀』
 に記されている。これは『継体紀』と共通する記事でもある。

  允恭は崇神系の血かも知れないが、仁徳系の正当な皇統ではない。
 允恭亡き後は安康が即位するが、「大草香皇子」か「市辺押磐皇子」こそ
 正当な皇位継承者であるはずだ。



   
4.継体天皇と朝鮮外交


  雄略天皇の二十年、「高句麗」が大軍をもって攻め、「百済」を滅ぼし
 ている。その後の二十一年春三月、雄略の威光により「百済」は復興した
 と言う。しかし、この記述は誇張と思われる。

  『日本書紀』が引用する『百済新撰』によれば、武烈天皇の四年に「百
 済」では「武寧王」が立っていると記すが、この「武寧王」は「筑紫」の
 島で生まれているとも記している。後の大王が異国の地で出生するという
 ことが、いかに異常であるかおわかりになろう。
  「百済」が健在であれば、起こり得ないことである。

  継体天皇の六年冬十二月、「任那」の「オコシタリ・アロシタリ・サダ・
 ムロ」の四県を「百済」に譲っている。
  だいたい雄略の御代に「加羅」は、単独中国に朝貢しているのだから、
 実際には「百済」の「任那」四県への侵攻の事実を、譲ると言う言葉です
 り替えたのだと思う。

  「任那」とは『日本書紀』独自の表記であるが、朝鮮的に記せば「伽耶」
 である。なぜ『日本書紀』だけが「任那」と記すのだろうか。
  「任那」は朝鮮語で「ニムナ」と発音し、「君主の国」という意味であ
 るという。我が国の君主と言えば天皇にほかならない。つまり「任那」と
 は、天皇家にとっての祖国なのである。(従って、本来の皇統はアマテラ
 スでなく、曽戸茂梨から来たスサノオであると、『日本書紀』自ら暴露し
 ていることになる。)

  先に「吉備氏」の祖であるという「御友別」を「任那」王族出身とした
 が、「任那」の意味がわかれば、『日本書紀』が「御友別」と表記したの
 もうなずける。

  実は、継体朝と「百済」の間には、何か密約があったのではないかと思
 われるふしがある。

  現在、東京国立博物館に寄託されている、「隅田八幡宮」(和歌山県橋
 本市隅田町)の人物画像鏡に四十八文字の銘文がある。
  前文を掲げてみると、


 
 「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣開中費直穢
 人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」


  となる。

  これを自己流に書き下すと、


 
 「503年八月某日に、開中費直(かわちのあたい)と穢人今州利(わ
 いびといますり)の二人が二百貫物銅を使い造った鏡を、意柴沙加宮(お
 しさかみや)にいる男弟王が大王の年に、斯麻が長寿を念じて贈った。」


  自己流と言ったのは、通説では癸未を443年、大王を仁賢か武烈ある
 いは允恭天皇に比定しているからであるが、「男弟王」は「男大迹王」で
 一致している。
  この説によると、某天皇の御代に忍坂宮にいる「男大迹王」と訳すこと
 になり、意味が通じないと思う。

  503年としたは、継体即位の年だと推察するからである。『日本書紀』
 継体在位年から計算した即位年は507年であるが、『古事記』の崩御干
 支から計算すれば503年となる。しかし、もとよりこんな計算は無意味
 であるのだが。
  つまり、「男大迹王」が天皇に即位した記念に、「斯麻」が贈ったもの
 とみる。ただ忍坂宮は奈良県桜井市忍坂に比定され河内ではないが、一度
 は「息長氏」と関係深い忍坂宮で即位し、すぐに「大和」をおわれ「河内」
 に遷都した事実を、『日本書紀』が記さなかったということは大いにあり
 得る。しかし、この論議も無意味であろう。

  問題にしたいのは、贈り主の「斯麻」である。『日本書紀』には「斯麻
 宿禰」が記されているので、それに類推する人物であると言われてきた。
  ところが、1971年、韓国の忠清南道公州の宋山里にある古墳から、
 「武寧王」の墓誌が発見され、諱が「斯麻」であったことが判明した。
  それを論拠に、韓国円光大学の蘇鎮轍氏は、この「斯麻」は「百済」二
 五代王、「武寧王」であるとする新解釈を発表している。『日本書紀』も
 「武寧王」を「嶋王」としている。(武烈天皇四年夏四月の条)

  そうすると継体に鏡を贈った人物は「武寧王」になる。開中費直は「河
 内直」であろう。「河内直」らは「武寧王」の命令で、鏡を鋳造したこと
 になるが、「河内直」は出身こそ「伽耶」(あるいは「百済」)であるも
 のの、その姓はヤマトの名乗りである。
  「武寧王」は「筑紫」の島で生まれている。このこと自体、「百済」が
 健在ならばあり得なかったことであろうが、「武寧王」は、「百済」復興
 までの間日本列島にいて、継体朝と同化していたのではないだろうか。

  本国を失っている「百済」が継体朝と結んでいたのは、それなりの理由
 がある。

  継体朝を正当と認め記述した『日本書紀』であっても、20年も大和入
 りができなかったとしたことは、依然旧ヤマト政権の勢力が上回っていた
 証拠であろう。
  「百済」は旧勢力を頼ったほうが得策ではなかったか。

  「百済」と継体朝の結びつきは、『日本書紀』引用の『百済新撰』によ
 ると辛丑(461年)以降であろうが、この記録が『雄略紀』に記されて
 いても、これは允恭天皇の御代に比定できる。

  允恭天皇の四十二年春一月四日の条を、次のように記している。


 
 「新羅の王は天皇が亡くなられたと聞いて、驚き悲しんで沢山の調の船
 に、多数の楽人をのせてたてまつった。この船が対馬に泊って、大いに悲
 しみに泣いた。筑紫についてまた大いに泣いた。難波津に泊まってみな麻
 の白服を着た。いろいろな楽器を備え、沢山の調を捧げ難波から京に至る
 まで、泣いたり舞ったりした。そして殯宮に参会した。」


  このような「新羅」の行動は、『允恭紀』を除けば『天武紀』だけであ
 る。

  「壬申の乱」が、「新羅」と「百済」の代理戦争であったのではないか
 という説がある。親新羅派の天武天皇と、親百済派の天智天皇のあとを嗣
 いだのが弘文天皇である。
  允恭朝も「新羅」と密接な関係であったことは、この記録から充分推察
 できるというものだ。

  時の政権である允恭朝が「新羅」と親密であったならば、「百済」は対
 抗上、別の勢力と結ばねばならない。候補としては、「吉備」か「近越・
 尾張」連合であろうが、「吉備」は「任那」と同国であるから、結局「男
 大迹王」を選ぶことになる。「男大迹王」が日本海側を勢力圏としていた
 こともプラス材料になったのだろう。

  その後、「百済」は「高句麗」の侵略を受け亡国となるが、「任那」四
 県を得て(侵攻して)復興する。(私見によれば509年)これらは「大
 伴氏」主導のもと行われたものらしい。

  「大伴氏」の強引な政策に反対した「物部氏」も、結局は政策に従わざ
 るをえず、途中から口出ししなくなっている。

  このような「百済」の強引な行動に、他の「任那」諸国が黙っているは
 ずがなく、「任那」の代表国であった「伴跛国」は、「サダ」の北部「コ
 モン」の地を奪回した。「伴跛国」は「新羅」へも侵入したうえ、「日本」
 との戦争に備えたという。
  「物部氏」は水軍500隻を率いて、「伴跛国」と戦争状態になるが、
 物部水軍は敗戦する。

  継体朝は「コモン」に加えて「タサ」までも、「百済」に賜ったという
 が、これは「百済」のさらなる侵攻のことであろう。

  さて、允恭朝以降ヤマト政権と結んでいた「新羅」であったが、政権が
 継体朝に移ってからも旧政権を支持しつづけたことだろう。
  
  即位後20年を経過しようが、継体天皇が「大和」入りできたというこ
 とは、「大和」に在った旧勢力を一掃したということである。
  継体朝に占領されたことにより、行き場を失った旧勢力の残党は、「新
 羅」の手引きにより、「筑紫」の「磐井」と同化したと考えている。

  『継体紀』二十一年夏六月三日の条


 
 「近江の毛野臣が、兵六万を率いて任那に行き、新羅に破れた南加羅・
 卓淳国を回復し、任那に合わせようとした。このとき筑紫国造磐井が、ひ
 そかに反逆を企てたが、ぐずぐずして年を経、事のむつかしいのを怖れて、
 隙を窺っていた。新羅がこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り、毛野臣
 の軍を妨害するように勧めた。」


  『日本書紀』に記される、磐井の乱の導入部である。「磐井」は「肥前・
 肥後・豊前・豊後」の勢力と、本拠地である「筑前・筑後」の勢力を集め
 ている。このことから「磐井」は、九州の過半数を勢力下に置いていたこ
 とになる。



   
5.磐井の乱


  『日本書紀』による理解は、「磐井」は大和朝廷に属する筑紫国造であ
 り、その国造が反乱をおこしたというものであるが、近年では、「磐井」
 は大和朝廷に服属していた国造などではなく独立した勢力であり、磐井の
 反乱などではではなく古代最大の内戦であった、という理解が一般的にな
 りつつある。

  この結末は、継体に命じられた「物部大連麁鹿火」(もののべのおおむ
 らじあらかひ)が「磐井」を追討し、二十二年十一月十一日、「筑紫」の
 三井郡で交戦し「磐井」は敗死した。この結果、反乱は完全に鎮圧した。
  翌十二月、「筑紫君葛子」(つくしのきみくずこ)は父「磐井」の罪に
 連座して誅されることを怖れ、糟屋の屯倉を献上して死罪を免れている。

  「磐井」が独立した勢力であったとする説に、反対する理由は何もない。
 ただもう少し押し進めて考えてみたい。

  まず、「磐井」は「新羅」から賄賂を受け取り、「毛野臣」の「任那」
 渡航を阻止したように記されている。つまり「毛野臣」の渡航が、磐井の
 乱のきっかけのようなのだが、二十三年春三月の条に、まったく同じよう
 に「毛野臣」の「任那」渡航を記している。実際には、二十一年の「毛野
 臣」の「任那」渡航はなかったのではないか。

  二十一年の渡航が事実であるとしたら、このとき「毛野臣」が率いてい
 た兵六万は、戦乱の最中何をやっていたのだろうか。
  「毛野臣」の兵は、「任那」復興を目的としていた。国力を上げた精鋭
 部隊のはずである。
  そんな「毛野臣」を差し置いて、「磐井の乱」を鎮圧したのは、後から
 やって来た「物部氏」であった。これらは「磐井」を朝敵にするために、
 合成された説話であったのではないかと思う。「毛野臣」の渡航という大
 義名分が、必要であったとしか思えない。

  この古代最大の内戦の理由は、「筑紫」は朝鮮渡航の拠点になっており、
 国造の「磐井」は、その度に激務を言い渡されてきた。そして継体の「任
 那」復興のための出兵の強要に、ついに我慢できなくなったため、などと
 言われているが、継体の「大和」入りからわずかに9ヶ月後に、この内戦
 は勃発しているところから、「大和」を追われた旧政権の残党と、「磐井」
 が結びついた結果ではないかと考えるのに充分であろう。
  もちろん賄賂を贈ったと『日本書紀』が記すように、「筑紫国」も「新
 羅」と同盟関係にあったのである。

  またその勢力範囲を考えた場合、仁徳の養父ホムダマワカ王が遂行した、
 朝鮮半島への軍事行動や、「倭の五王」ら将軍の渡航に一役買っていたと
 思われる。「新羅」と同盟しながらも、ヤマト政権とは独立国として協力
 関係であったことは間違いないであろう。

  「磐井」は近江の「毛野臣」をさえぎり、


  
「今でこそお前は朝廷の使者となっているが、昔は仲間として肩や肘を
 すり合わせ、同じ釜の飯を食った仲だ。使者になったからとて、にわかに
 お前に俺を従わせることはできるものか。」


  と言ったという。

  この言葉こそ、協力こそしていたが従っていない証拠になろうか。また
 この言葉は、戦争を仕掛けていった者の言葉とは思えない。
  さらに、「毛野臣」も独立国を営んでいたように、読めることは重要で
 ある。

  継体の擁立から「磐井の乱」までのストーリーは、即位から20年を経
 過後、ようやく旧大和勢力を駆逐して「大和」入りした継体朝が、その旧
 大和勢力の亡命先であった「筑紫国」まで、旧ヤマト勢力を追いつめて、
 一方的に攻めたものだと考えている。

  『記紀』によれば「磐井」は好戦的な人物のように読めるが、「磐井」
 自身は対抗上防戦しただけであると思う。

  旧ヤマト勢力にとってみれば、あるいは継体を擁立した「大伴氏」のよ
 うに、「磐井」を天皇として担ぎ出し、政権奪回をねらったとも考えられ
 る。

  もしこの内戦で「磐井」が勝利していれば、侵略者「男大迹王」を征伐
 した応神天皇の五世孫、磐井天皇の即位と記されていたかもしれない。

  「磐井」の勢力範囲は、「筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後」の六
 国以外に、本州にまで及んでいたようである。
  このことは継体自ら語っている箇所がある。


  
「天皇は将軍の印綬を大連に授けて、『長門より東の方は自分が治めよ
 う。筑紫より西はお前が統治し、賞罰も思いのままに行なえ。一々報告す
 ることはない。』といわれた。」


  この言葉を請け、「物部大連麁鹿火」は「磐井」勢の鎮圧に向かうので
 あるが、「長門より東の方は自分が治めよう」という継体の言葉の裏は、
 「磐井」の勢力が長門より東にまでも及んでいたということだ。長門より
 東とは、現在の広島県にかかるくらいだろうか。

  『筑後國風土記逸文』では「磐井」の墓域を次のように説明している。


 
 「高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は、南と北と各六十丈、東と西と各
 よそ丈なり。石人と石盾と各六十枚、交陣なり行を成して四面に周ぐれり。
 東北の角に当りて一つの別区あり。号けて衙頭と曰ふ。衙頭は政所なり。
 其の中に一の石人あり、縦容に地に立てり。号けて解部と曰ふ。前に一人
 あり、あかはだかにして地に付せり。号けて偸人と曰ふ。生けりしとき猪
 を偸みき。仍りて罪を決められむとす。側に石猪四頭あり、贓物と号く。
 贓物は盗みし物なり。彼の処に亦石馬三疋・石殿三間・石蔵二間あり。」


  これは石人石馬を立てる新羅風の墓であり、現在岩戸山古墳と呼ばれて
 いる。古墳の東北部分に「別区」と言われる一辺50メートルほどの方形
 区画が張り出していて、まさに『風土記逸文』の記述通りである。
  古墳自体の全長は132メートルで、後円部経70メートル・前方部幅
 95メートルの大きさで、これを巡って湟と外提があり、畿内の天皇陵と
 比べても遜色無い。
  また「別区」は、さながら裁判の様相を模造しており、独立した国と考
 えるのに充分な証拠となっている。

  このことから「磐井」は単なる筑紫王ではなく、数カ国にまたがって君
 臨していた連邦国王であったと思われる。
  このように考えれば、「近越・尾張」連合政権の大王、「男大迹王」と
 立場は同じである。

  最終的に政権抗争に勝利し、中央集権国家を成し遂げた政治集団こそ、
 ヤマト政権であるので、話はどうしてもヤマト政権よりになってしまう。
  しかし、継体即位直前では、関東より西だけに限れば、大きく分けて
 「筑肥豊・長門」連合政権、「近越・尾張」連合政権、そしてこの勢力
 に挟まれるように、ヤマト政権が存在していたと思う。
  また、「磐井」の言葉からわかるように、この三国以外にも独立国は、
 少なからず存在していたはずだ。

  「磐井」の家系は、「旧奴国」勢や「邪馬台国」連合などといった勢力
 が、九州から去ったあと、混乱する中小の豪族をまとめ上げていった、相
 当の実力者であったのだろう。

  ここで、継体が「物部大連」に言った言葉を、振り返ってみたい。

  「筑紫より西はお前が治めろ」という言葉は、「九州で物部王国を造れ」
 と言っていることにほかならない。

  継体は本気でそう言ったのだと思う。もちろん「大伴氏」の差し金であ
 ろうが、あわよくば「磐井」・「物部」の共倒れを画策したのではないか
 と思うが、裏読みしすぎだろうか。
  「磐井」討伐の将軍は「物部大連麁鹿火」であったが、これは「大伴大
 連金村」の推挙によるものである。
  またその「大伴金村」は欽明天皇の御代に、「任那」政策の責任をとら
 され失脚しているが、それを讒言したのは「物部氏」なのである。

  実際、継体朝は大伴政権である。そのなかにあって「物部氏」は、衰退
 があったにせよ崇神朝時代から、天皇家の外戚として栄えた豪族である。
 それに比べ歴史の浅い「大伴氏」は、「物部氏」の存在を、内心苦々しく
 思っていたに違いない。

  「物部大連麁鹿火」は「磐井」を鎮圧したが、その後「物部氏」が九州
 を統治した記録はどこにもない。
  どうやら「磐井」の後裔は、負けてなお健在だったようなのである。

  『筑後國風土記逸文』には、「磐井」は勝てそうにもないので逃げてし
 まい、捕らえられられなかったとある。また、岩戸山古墳のある福岡県八
 女市吉田の八女丘陵は、他にも十基の前方後円墳と数十基の円墳が知られ
 ているが、これら古墳の築造年代は六世紀末頃に至るので、乱後も筑紫族
 は衰退していなかったのである。

  「磐井の乱」とは結果的に国内統一戦争と位置づけられ、「筑肥豊・長
 門」は、継体朝に統合されていったのであろうが、「磐井の乱」の本来の
 目的は、先に述べたように旧ヤマト勢力の一掃にあったのだと思う。
  筑紫国王の「磐井」は、自己防衛のために応戦したのであり、決して反
 逆を企てたのではないだろう。

  そしてその裏には、単独政権をめざした「大伴氏」の政治野心が見え隠
 れするが、最終的に「大伴氏」は「物部氏」との政治抗争に敗れ、欽明朝
 のもと失脚していくのである。



   
6.継体王朝の落日


  二十三年春三月、加羅国王は新羅国王家の娘と婚姻したが、これは「新
 羅」の「任那」侵攻の布石であったように思える。

  また、この月に近江の「毛野臣」は、「任那」復興の使者として、「安
 羅」に赴任しているが、「毛野臣」がとった行動は「百済」・「新羅」と
 同じく「任那」侵攻である。

  「毛野臣」は2年もの間、「新羅」と対峙しながらも「任那」の「久斯
 牟羅」を占拠していたという。言うなれば、独立した自治区を造っていた
 のである。

  「毛野臣」とは「近江毛野臣」とも記載されている。「近江」といえば、
 継体天皇の故郷でもある土地である。従って、「毛野臣」は継体朝の親衛
 隊長あるいは、近衛隊長ともいえる立場であったと思う。
 
  そんな「毛野臣」が帰国しなかったのは、「磐井の乱」後の継体朝に、
 将来を託せなかったからだと思う。

  「毛野臣」の渡航は、527年のことと言われている。

  『継体紀』の巻末には、『百済本紀』を引用して


  「二十五年三月、進軍して安羅に至り、乞屯城を造った。この月高麗は
 その王、安を弑した。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子・
 皇子皆死んでしまった」


  と記している。ここでは内容の追求はしないが、政情が悪化していたこ
 とは理解できる。

  「磐井の乱」は、1年半続いている。国をあげての戦争であった。そこ
 で費やした戦力、国力など想像してもしきれない。

  継体朝とは、まさに大伴政権である。「百済」関係においての「任那」
 失策、あるいは「物部氏」排斥の失敗が「大伴氏」の立場を危うくし、継
 体朝を徐々に弱体化させていったのである。

  結局「毛野臣」は、「新羅」・「百済」軍との攻防により、「対馬」ま
 で余儀なく退却を迫られ、ついには亡くなってしまう。

  その翌年早春に、継体も病死するが、天皇として歴史に名を残しながら
 も、即位したその後半生は、ヤマト政権の再建を代名詞にした「大伴氏」
 に翻弄され、決して幸せなものではなかったと思われる。


                    2000年10月 第8部 了