真説日本古代史 本編 第六部 謎の四世紀 1.『日本書紀』に記された『百済記』 神功皇后の新羅征伐はそれ自体が神話であると断言でき、それを史実と 捉えるには到底困難なことであろう。 しかし、四世紀後半に朝鮮半島に向けて、大規模な軍事行動が行われた らしいことは史実である。 それは、『日本書紀』が引用している『百済記』や、『三国史記』ある いは『高句麗好太王碑文』より推測できる。 私自信、普段参考にしている書籍に『日本の歴史』(井上光貞氏著:中 央公論社刊)があるが、その第一巻・『神話から歴史へ』は『百済記』の ことを次のように記している。 「そのうち特に重要なのは『百済記』で、百済で書かれた歴史の本であ るが、日本との関係が主題となっている。三品彰英氏の最近の研究による と、七世紀のはじめ、わが推古朝にあたる時代に書かれたという。百済は 大和朝廷と同じころに成立した国家だが、早くから中国と関係を持ち、文 化の発達は日本よりひとあし早かった。したがって、記録の術も日本に先 んじ、四世紀中葉の肖古王の時代から記録がはじまったと『三国史記』に 記されている。だから百済記の記事はかなりたしかな資料にもとづくもの であろう。」 ただし、史書としての『百済記』は今日に伝わっておらず、わずかに、 『日本書紀』がその存在を伝えているのみである。 また、『日本書紀』での『百済記』の扱いは、『日本書紀』自体の史書 としての体裁を整えるために『百済記』を利用しているので、その編集は 日本側に寄った言葉使いに改められていると思われる箇所がみられ、また 第五部で述べた通り、年数が120年くりあげられていることも忘れては ならない。しかし、この120年という年数は、ちょうど干支二運にあた るので、『日本書紀』に記載されている干支は、そのまま読むことができ る。 このことをふまえて『百済記』を読むと、この時代の日・済関係が明ら かになってくるのだが、『日本書紀』が伝える日・済関係には、若干問題 がある。 2.朝鮮半島情勢と「倭国」 この時代の朝鮮半島情勢は、歴史の一大転換期であったと言っても過言 ではない。 特に朝鮮半島に影響を与えた国と言えば、何と言っても中国である。中 国古代帝国は、「晋」帝国が滅び江南に「東晋」を建国し、北シナには五 胡と呼ばれる種族が割拠して、俗に言う五胡南北朝時代に突入していた。 中国の国力は当然弱まり、朝鮮経営まで手が回らなくなった結果、楽浪 郡を滅ぼした「高句麗」が一気呵成に領土を広げ、さらに朝鮮半島を南下 する勢いを見せ始めた。 これに呼応するかのように、扶余族の国家乗っ取りによって旧「馬韓」 区域に「百済」国家を形成し、その東にあった辰韓十二国も、「斯廬」に よって統一され「新羅」が成立した。 このあたりの諸事情は、既に述べてあるとおりであるが、だいたい四世 紀中頃までの様子である。 「百済」・「新羅」の新生二カ国は、北方の「高句麗」の南下に抵抗し ながらも、朝鮮半島南部の小国家・弁韓十二国に支配の手を伸ばしていた のである。弁韓十二国とは、「伽耶」諸国に他ならない。 そして、どうやら弁韓十二国のいずれかの国に、「倭国」の自治区が存 在していたらしいのである。 『魏志倭人伝』によれば、「狗邪韓国」の名で呼ばれているが、「対馬・ 壱岐」を経由して、盛んな交流があったことが認めらる。 『日本書紀』は、それらの国を「任那」と記しているように読めるが、 「任那」がある一国を指すのか、諸国全体を指すのかははっきりしない。 「任那」(みまな)の国名から察するに一国ではないだろうか。「ラ・ マ・ヤ・ナ」とは「国」の発音である。「任那」とは、ミマという国であ り、弁韓諸国の一国であろう。しかし、弁韓諸国すなわち、これまでに言 う「伽耶」諸国は通商国家であったはずなので、「任那」もそう考えたな らば周辺諸国との関係は相当に深かったであろう。 そもそも、日本列島の倭人とは、スサノオ以前より「伽耶」から渡来し た民族との混血であろうから、「伽耶」と「倭」は、同一文化圏に属して いるとも言え、スサノオ・オオナムチによる日本海文化圏の確立により、 国境の定かでないこの時代では、ほぼ同一国と見なして良いと言えるので はないだろうか。 そんな中にあって、畿内に一時存在していた崇神王朝とその後は、東征 してきた「旧奴国」勢力に駆逐され、畿内大和の崇神朝は崩壊し、替わり に「旧奴国」勢による河内王朝が興っている。従って、この時の「倭国」 の中心勢力とは「旧奴国」そのものである。 この結果「旧奴国」勢は、中央集権国家への歩みを見せるのだが、同時 に本拠地であった九州地方の統治が、手薄になってしまったのだろう。こ のことは、旧奴・伽耶連邦においても影響しているように思える。 『三国志』魏志東夷伝は、「伽耶」諸国について次のように記している。 「国は鉄を出す。韓、ワイ、倭、皆従て之を取る。諸市買うに皆鉄を用 う。又、以て二郡に供給す。」 これによれば、「伽耶」は鉄の産地であったのであるが、「高句麗」の 南下政策は度々あったものの、隣国からの大規模な侵略がなかったのは、 九州の「旧奴国」や日本海沿岸に成っていた国々と同盟・連合関係にあっ たからだろう。 「伽耶」諸国から取れた鉄は、主に楽浪郡・帯方郡に輸出されていたと 言われているが、通商国「伽耶」を心理的に防衛していたのは、九州・日 本海沿岸の軍事力と考えたい。 確かに新興勢力の「百済」・「新羅」は侮れないが、「倭国」は自体は 王朝の交代があったとは言え、南朝鮮半島諸国より建国の歴史は遙かに古 いのである。そこにはそれなりの文明差を、認めなければならないのでは ないか。 3.『百済記』からみた「日・済」関係 ところで、『日本書紀』に引用されている『百済記』に、何か余裕のよ うなものを感じるのは私だけだろうか。 『百済記』だけを取ってみれば、日・済関係は「倭国」が献上される立 場であるとは到底思えない。 例えば、『神功紀』にある『百済記』では、「沙至比跪」(さちひこ) の裏切りについて述べている。 「壬午の年、新羅が日本へ朝貢しなかった。日本は沙至比跪を遣わして 討たせた。新羅人は美女二人を飾って、港に迎え欺いた。沙至比跪はその 美女を受け入れ、反対に加羅国を討った。加羅国の国王己本旱岐(こほか んき)および、児百久至(このはくくち)・阿首至(あしゅち)・国沙利 (こくさり)・伊羅麻酒(いらます)・爾もん至(にもんちらは、その人 民をつれて百済に逃げた。百済はこれを厚遇した。加羅の国王の妹既殿至 (けでんち)が、大和の国にやってきて申し上げるのに、・・・。」 この記述によれば、「沙至比跪」は美女二人に簡単に誑かされてしまう 程度のいい加減な人物であり、そんな人物を「倭国」が国をあげての大使 とし て寄こしたことになる。 「沙至比跪」は「葛城襲津彦」なのだろうが、『日本書紀』本文中には 裏切ったとする記述はない。 しかし、『百済記』の信憑性はより確からしいとする立場にいるので、 その内容は完全に「倭国」を見下していると判断できる。 さらに「百済」が「倭国」へ献上する立場の国であったら、「加羅国」 からの亡命者を厚遇できるだろうか。この部分が「保護」であったのなら 問題はなかっただろう。しかし、厚遇である。これはいくらなんでもまず かろう。 例えば、政治背景は若干違うとはいえ、現代の日本で考えてみると、北 朝鮮からの亡命者の保護はできても、韓国の手前厚遇はできないはずであ る。 揚げ足を取るような記述となってしまっているが、これが『百済記』か らの引用であろうから、このように思うのであり、つまり外交相手国の記 述であるので、美辞麗句で飾ることなく、真相を淡々語っていると思うの である。 実際『百済記』にしたところで、「百済」の時間移動をリアルタイムで 記録したものであるはずがなく、ある程度年数を経過した後、過去の記録 を編集したものであろう。 従って、『百済記』が編纂された時代には、「倭国」と「百済」の力関 係が逆転してしまっていたのである。 これらのことを頭に入れて、『百済記』を含む『日本書紀』外交関係の 記述に、若干の修正を加えて当時の実状を考えてみたい。 4.明らかになった「百済」の実状 これまでのところ、畿内政権あるいは、畿内政権により軍事統一された 国を、原大和朝廷と記述してきたが、ここからしばらくの畿内政権の表記 は、“ヤマト政権”で統一したいと思う。 さて、応神天皇を立てた河内王朝であるが、『日本書紀』によれば両国 の国交の仲介をしたのは、現在の大邱(たいきゅう)付近「卓淳国」(と くしゅこく)であった。 366年、ヤマト政権は「斯摩宿禰」(しまのすくね)を「卓淳国」に 遣わしているが、いきなり遣わしたとは考えられない。「旧奴国」時代か ら外交関係にあったか、「尾張氏」に代表されるホアカリ系氏族と、日本 海を介した貿易関係や軍事援助関係にあったものと考えられる。 それ以前の崇神系王朝に、朝鮮との外交記事が全く無いのにもかかわら ず、応神朝に至って突然国交が開かれたように読めることは、崇神系王朝 は、貿易・外交に関しては遅れていたのだろう。 ところが、「斯摩宿禰」が遣わされる以前の甲子の年の七月中旬に、百 済人三人が「卓淳国」にやってきて、ヤマト政権との国交の仲介を依頼し ていたのである。このことからもヤマトと「卓淳国」との関係がうかがい 知れるのであるが、「卓淳国」は「伽耶」諸国のうちでも「新羅」に隣接 する北方に位置していることから、ヤマト政権はもともと「新羅」と結ぶ つもりでいたのではないだろうか。 実は、『三国史記』第十六代新羅王の訖解の在年中に、「倭国」から王 子の婚を求めてきた記録がある。 「訖解三年春三月、倭国が使者を派遣して王子の花嫁を求めてきたので、 阿 シ食の休利の娘を送った。」 「訖解三十五年春二月、倭国が使者を派遣して花嫁を求めてきたが、娘 はすでに嫁に行ったとして辞退した。」 「訖解三十六年、倭王が国書を送ってきて、国交を断絶した。」 もちろん、この「倭国」とは崇神王朝系ではなく、九州・日本海文化圏 の諸国連合であり、その代表は尾張系ホムダマワカ王か、その先代の王の ことになろう。 甲子の年とは、おそらく364年であろうから、「斯摩宿禰」が遣わさ れる二年前に百済王は、「卓淳国」に使者を送りヤマト政権と結ぶ用意が あることを、伝えていることになる。 『日本書紀』に記されている「卓淳国」王の口述を信じれば、 「以前から東方に貴い国のあることは聞いていた。けれどもまだ交通が 開けていないので、その道が分からない。海路は遠く波は険しい。大船に 乗れば何とか通うことができるだろう。途中で中継所があったとしても、 かなわぬことである。」 この時「卓淳国」にやってきた「百済」の使者は、「久氏」(くてい) 「弥州流」(みつる)・「莫古」(まくこ)の三人であり、百済王・「肖 古王」(実際には「近肖古王」である)からの直接の使者であるらしい。 この三人は、船を求めて一旦「百済」に帰国している。 この二年後に「卓淳国」に遣わされた「斯摩宿禰」は、従者「爾波移」 (にはや)と「卓淳国」の「過去」(わこ)の二人を「百済」に遣わして いるが、「斯摩宿禰」本人は「百済」には行っていないようである。と言 うことは、「斯摩宿禰」は「卓淳国」に留まり命令できる立場にいること になる。 しかも、『日本書紀』の内容からすると、卓淳国王・「末錦旱岐」(ま きむかんき)をさしおいて「過去」に命令しているわけであるから、ヤマ ト政権からの使者は、「伽耶」諸国の一国王より発言力を有していたこと になってしまう。 単なる一使者というよりも、軍事派遣を委託された一大隊と考えたほう がよさそうである。 つまり、通商国家であった「伽耶」諸国の諸軍事は、貿易相手国と思わ れる「旧奴国」や、日本海沿岸のホアカリ系氏族が担当していたと考える ことに、無理はないと思われる。 話は変わるが、『百済記』における「沙至比跪」であるヤマト政権の使 者・「葛城襲津彦」が、任務を放棄し一方的に「新羅」と結んでしまった ことも、「葛城襲津彦」を大将とした軍隊であったからこそできたことな のだろう。 話をはぐらかすようにしてしまって申し訳ないが、ヤマト政権自体は、 なぜ「新羅」ではなく「百済」と結んだか、について言及しておきたい。 前王朝の崇神朝(三輪王朝)が、畿内統一の協力を「百済」王朝の前身 の扶余の亡命貴族に求めたことがあった。応神朝にも崇神朝の重臣が少な からずいたであろうから、これも理由の一つには成り得よう。しかしそれ はそれ、前王朝のことである。もっと他に理由があるはずだ。 直接の原因は、「新羅」が花嫁の要求に応じなかったためであるように みえるが、実のところ、国号としての「百済」の発音は「くだら」である ものの、「百済」は漢字のもつ発音でも、意味でも「くだら」とは読めな い。これは、歴史言語学者の加治木義博氏が述べていることであるのだが。 では、どのようになら読めるかというと「ほぜ」あるいは「ほぜい」で あり、沖縄発音では「ふじ」になるという。 現代の韓国語発音では「ペクチェ」である。ちなみに「新羅」・「高句 麗」はそれぞれ、「シラ」・「コクリョ」と発音されるので、「百済」を 「くだら」と発音すると韓国音とはぜんぜん違っている。 『高句麗好太王碑』に記述されている「百済」の国号は「百残」である が、これも現代韓国語発音では「ペクチェ」と同音声である。「百済」が 「くだら」と発音されたのなら、「百残」も「くだら」と発音されなけれ ばならないはずであるが、「くだら」と読むのは現代の日本人だけである。 ちなみに古代日本語は濁音の発音はないので、「くたら」となる。 加治木氏によると、「くだら」とは「馬韓」のマレー語読みであるらし く、マレー語圏から来た大量の人々が、朝鮮半島や日本列島に住み着いた 結果、漢字文化の扶余族が、国号を「馬韓」から「百済」に改めても、漢 字を知らないマレー語圏人は、そのまま「くだら」と読みつづけていたた めというが、いくらなんでも、ここにきてのマレー語というのは、どうも という感じがしてならない。 私は「くだら」とは日本語による発音だと思う。と言うよりも、日本列 島の倭人が呼んでいた「百済」の国号だと思う。 なぜなら本来「百済」は「くたら」と発音され、濁らない発音であった のならば、これは、まさに「くなら」の音韻変化ではないのか。「くなら」 とはもちろん「旧奴国」に他ならない。 つまり邪馬台国連合崩壊後、畿内大和地方に建国した「新奴国」から見 た「旧奴国」の人々が海を渡り、朝鮮半島の「馬韓」地方に多く住み着い て以来、その地方も「くなら」と呼ばれるようになった。後の扶余族の王 権簒奪により、国号が「百済」に改められてからでも、漢字を知らない日 本列島人からみた場合のその国は、「くなら」という土地でしかなかった のである。 従って後からきた「百済」という漢字も、庶民には「くなら」と読まれ るようになったのだろう。 「旧奴国」は「奴国」からみた敵国蔑視の呼び方であるが、これも長い 年月のうちに国名として定着してしまったのだろう。 扶余族の王権乗っ取りにより建国された「百済」ではあったが、それは 支配者層が変わっただけであり、国民全体が国境を越えて大移動するわけ ではない。そこには当然「旧奴国」から渡った倭人も数多くいたことであ ろう。 つまり「百済」とこのころのヤマト政権は、政権担当者を除けば同じ穴 の狢なのである。 5.『宋書』に記された「倭の五王」と日朝軍事連邦 さて、この後「百済」とヤマト政権は親密度を深めていくのであるが、 『日本書紀』の記述は、「新羅」をまさに敵国とみなしている。 もちろん歪曲された歴史であり、記述として考えるべきだ ろう。 翌年の367年には、「百済」・「新羅」がそろってヤマトに朝貢して くるようすを『日本書紀』が記しているので、外交関係はまだ「倭国」優 位に展開していた。 この時代は「謎の四世紀」と言われている。それは266年に「臺与」 (『晋書倭国伝』に記載されている倭の女王)が「西晋」に使者を派遣し てから、413年に倭王「讃」(『晋書倭国伝』)が「東晋」に遣使する までの159年間、中国との国交の記録がないだけでなく、通説において 「邪馬台国」と大和朝廷を結ぶラインが、依然不明瞭だからである。 しかし、本書の中では「謎の四世紀」は存在しないのだが、そこは通説 にならい記述していこうと思う。 国内に目を向けても、『記紀』を越えるような文献は見あたらない。朝 鮮の『三国史記』に手がかりを求める場合もあるが、大同小異のようであ る。 従って、いきおい想像で述べてしまうことになる。とは言うものの、そ のスタンスはこれまでと変わらないつもりである。 「日・済」関係のいきさつは、『日本書紀』に添って紹介してきたが、 後の記録を併せて考えてみた場合、「百済」・「新羅」・「伽耶」と畿内 ヤマト政権は、ある種の連邦国家を形成していたのではないかと言う想像 に達してしまう。 その記録とは『宋書倭国伝』に記述された、倭王「武」の「表=手紙」 である。倭王「武」は、自らの支配する国名を記し、安東大将軍の称号を 要請している。 「使持節都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・ 安東大将軍・ 倭国王」 「宋」はこのうちの「百済」は認めなかったが、他の六カ国の支配権を 認めている。しかし、古代日本はこれほどすごかったのか、と感心するの は少しばかり早いのかもしれない。 それは、倭王「武」はこの表の記述においてさえも、自ら倭国王と称し ているのにすぎないのであって、決して他の七カ国の王とは言っていない ことからだ。 七カ国については七国諸軍事であって、自国を含めた七カ国の軍事を担 当するので、安東大将軍の称号が欲しいと言うにとどまっている。 つまり、これら朝鮮の国々とヤマト政権とは同一政治圏内であったと考 えるべきではないか。 当時の政治とはイコール軍事であるので、七国諸軍事ならば同一軍事・ 政治圏と言えようか。このころの同一政治圏は、まさに連邦国家と言える のではないだろうか。 また、倭王「武」の上表文については、水野祐氏が次にように言及され ている。 「倭王武の上表文は、漢文としては実に堂々たるものであって、五世紀 においてすでにこのような上表文が日本から宋朝に送られたということは、 実に驚嘆とするに足りる。だが、その内容はけっして輝かしい、喜ばしい ものではなく、むしろ一種の愁訴状ともいえるようなものである。 この上表がなされたのは、高句麗の南下によって百済が壊滅的打撃を受 けてから三年目の、四七八年のことである。この点をとくに重視すること を忘れてはいけない。以下にその内容を示すなら、『わが国では倭王武の 祖父弥の時代から武装して、さかんに四隣を征服して国力を伸張させてき た。国内においても、西は九州より、東は関東におよぶ広大な領域を平定 したうえ、新羅・百済・任那・加羅・秦韓・慕韓など、南朝の六国をも併 呑する一大勢力を築きあげてきたのである。亡き父済のとき以来水軍を整 備して、百済の救援には心をなやましてきた。それは高句麗が無道であっ て、南鮮諸国をことごとく侵略しようとして南下してくるためで、ゆえに 大軍をおこして兵備を整え、その無道を征伐しようとして努力してきたの である。しかし、歴戦久しきに及ぶいまもなを、強敵を滅ぼすことができ ないでいる。その際、宋の援助をえて、所期の目的を達成したいが、もし そうできるのなら、すみやかに高句麗の圧迫を拝して、南鮮の治安を維持 し、もって宋朝に対して忠誠をつくすであろう。』 上表文の冒頭を飾る征服のはなばなしさにもふさわしくない、哀願にも 似た愁訴状である。」 水野氏の述べるところは、まさにそのとおりであって、仮に倭王「武」 が七カ国統一に成功していた皇帝であったとしたならば、その皇帝に相応 しいとは、とても言えない内容であると思う。しかし、宋朝の援助を得よ うとするならば、このへりくだりかたもやむを得ないのかもしれない。 倭王「武」は、「百済」・「新羅」・「伽耶」・ヤマト政権間の日朝連 邦の諸軍事担当であったのだが、度重なる「高句麗」との戦争に敗れ、そ の地位も権威も潰えていたと考えられ、それがこの上表文の内容に表れて いると思う。 この日朝連邦は、どうやらヤマト政権が応神朝に取って代わった頃から のようである。というのも、この頃のヤマトの将軍に「木羅斤資」(もく らこんし)・「沙沙奴跪」(ささなこ)などという百済系の名がみられる ことや、先に述べた「卓淳国」とヤマトの関係からうかがいい知るもので ある。 またこれらの将軍には、直接天皇が命令を下しているばかりか、「沙至 比跪」討伐のように国を左右する重要な任務を帯びている。倭王が連邦の 諸軍事を担当しているからこそできる命令であって、単なる他国からの人 質将軍であるのなら、こんなわけにはいかないだろう。 この日朝連邦は、対「高句麗」のための軍事連邦であったのだろうか、 通常はそれぞれ独立国であると考えている。 6.応神天応は仁徳天皇である さて、倭王「武」についてのみ先に述べてしまったが、『晋書』・『宋 書』・『梁書』の倭国伝には、倭王「武」を最後に413年から478年 の間、五人の倭王が少なくとも九回遣使した事実が記載されている。 これら史書の記述を箇条書きにすると、次のようになる。 413年 倭王「讃」、「東晋」に遣使 421年 倭王「讃」、「宋」に遣使 425年 倭王「讃」、「宋」に遣使 430年 倭王「?」、「宋」に遣使 438年 倭王「弥(珍)」、「宋」に遣使 443年 倭王「済」、「宋」に遣使 451年 倭王「済」、「宋」に遣使 460年 倭国、「宋」に遣使 462年 倭王世子「興」、「宋」に遣使 477年 倭国、「宋」に遣使 478年 倭王「武」、「宋」に遣使 このうち、『梁書』は倭王「弥」と記し、『宋書』は「珍」と記してい るが、同一人物というのが通説となっている。 また倭王世子「興」は倭王の「世子興」なのか、倭王の世嗣ぎの「興」 なのかはっきりしないが、通説通り、倭王の世嗣ぎの「興」であるものと したい。 さらに、これらの史書に記述された「倭の五王」の系譜を簡単に記すと、 『宋書倭国伝』 『梁書倭国伝』 ┌讃 ┌讃 ┤ ┌興 ┤ ┌興 └珍 済┤ └弥─済┤ └武 └武 となり、『宋書倭国伝』は倭王「珍」と「済」の親子関係を記さないが、 『梁書倭国伝』では親子としている。 問題は、この「倭の五王」が『日本書紀』に記されているどの時代の何 という天皇であるかと言うことであるが、四世紀後半から五世紀において 活躍したであろう、応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略の七天皇 のうちの誰かがそれにあたると言われている。 また、この「倭の五王」は畿内王朝ではなく、並立していた九州王朝の 大王であると言う説もあるが、この説は採らない。私見では、東征した九 州の「旧奴国」が、畿内の崇神政権を吸収した結果できた、ヤマト政権と 考えているからであり、その本拠地は畿内の河内に移っていたのである。 まあ、それを九州王朝と言っても間違いではないと言えるのだが、これ を通説通り河内王朝と呼ぶことにしたい。 さらに驚くことに、応神と仁徳は同一人物ではないかと言う説もある。 これは、直木孝次郎氏の説が有名であるが、どういうところからそのよう に考えられるかと言えば、『古事記』応神記の次の記紀歌謡からである。 「品陀の 日の御子 大雀 大雀 佩かせる太刀 本つるぎ 末ふゆ 冬木如す からが下樹の さやさや」 史料を読むと 「また吉野の国主ども、大雀の命の佩かせる御刀を見て歌ひて曰く」 とあるが、これは応神記ながら大雀の命は太子として姿を現しているわ けだ。 歌自体の意味は国学者でもよく判らないようであるが、ここで問題にし たいのは、 「品陀の 日の御子 大雀 大雀」 の部分である。 言うまでもなく品陀天皇と言えば、もちろん応神のことであり、そして 「大雀」とは仁徳のことである。一つの歌謡の中に、二人の名前が連続し てでてくるこの問題は、歌謡における二人の関係なのである。 従来、この歌謡は 「品陀の日の御子である大雀よ」 と解釈されていた。つまり、 「応神天皇の子供の大雀よ」 となる。 実際、大雀命と言われる仁徳は応神の子供であるので、『記紀』の中で 見れば疑問は生じないのであるが、独立した歌謡と考えると、どうもそう いう意味には成り難いというのである。 「品陀の日の御子」は品陀天皇を表す言葉であって、それがイコール大 雀と解釈するのが正しいと言う。結局、応神と大雀である仁徳とは、同一 人物であると素直に考えてしまったらいいんじゃないかと言うことなのだ が、そういう観点で『記紀』の応神・仁徳の条をみていくと、その説話に 類似のものが多くみられる。以下にそれらを箇条書きにすると、 『仁徳記の吉備海部直黒日売の説話』と『応神紀の吉備臣の祖御友別の 妹、兄媛の説話』 『仁徳記の枯野、免寸河の大樹を切って作る』と『応神紀の枯野、伊豆 で作る』 『応神記 酒を醸すことを知る人、須須許理が渡来』と『姓氏録の大鷦 鷯天皇の御代、兄曽々保利・弟曽々保利二人が渡来す る』 これらの説話を読み比べてみれば、登場人物の名前こそ異なっているが、 その内容はまったくと言っていいほど同じになっている。 これら以外にも、『播磨国風土記』の応神天皇と『日本書紀』の仁徳紀 の中にみられる佐伯のアガノコの説話も同様である。 応神=仁徳説は、記紀歌謡から推察した大胆な説ではあるが、私はこの 説を支持する者の一人であり、結論としたい。 神功皇后の御子である応神は、実在性の疑わしい創造された存在なのだ ろう。応神は、後の継体天皇政権の歴史的正当性を説明するために作られ た存在と言える。つまり、仁徳王朝の後にくる継体王朝の権威を強めるた めに、仁徳の父という応神を創造せしめ、継体王朝の箔をつけたというと ころが案外真相ではないだろうか。 応神=仁徳とすれば、現存している応神陵・仁徳陵はいったいどうなっ てしまうのか。 この二陵は、日本最大の古墳であり、世界的に見てもその規模は最大と 言えるのだが、このうちのどちらかは、別の人の陵ということになってし まう。 『日本書紀』に目を転じてみると、仁徳陵の記載はあるものの応神陵に ついては記載していない。『古事記』にはそれぞれの記載がある。 これは通説に反して『日本書紀』より、『古事記』のほうが成立年がよ り新しい理由にもなるのだが、ある時期(それは六世紀後半と言われてい る)に天皇陵を決定して、現存する古墳に比定していったと言う作業をし ただけのことであり、本当に五世紀から伝わっていたかどうかは、まった くの疑問である。 それは天皇の系譜をまとめ上げていく過程、『帝紀』・『旧辞』の編纂 の過程に天皇陵も決定していったのであろう。 逆に言えば、応神の記載は『帝紀』・『旧辞』はなかった証明にもなる。 『日本書紀』編纂以前までは、応神はいなかったのであり、いない天皇 の陵などあろうはずもない。応神は創造できても天皇陵は作れないから、 『日本書紀』に応神陵の記載はない。 『古事記』に記載があるのは、世間が応神を認識した後、応神陵もおそ らくあれだろう、と比定された以降編纂された歴史書だからと考えている。 現存する応神天皇陵は、もちろん応神の陵ではない。では、あの応神陵 とはいったい誰の陵墓なのであろうか。それは、応神=仁徳である以上、 彼の養父である「気比の大神」と記述された尾張王・ホムダマワカ王の陵 に違いない。 7.『高句麗好太王碑文』と仁徳天皇・倭王「讃」 さてここからが『宋書倭国伝』に記載されている、「倭の五王」の比定 なのであるが、応神と仁徳は同一人物なので、『宋書倭国伝』の「讃」・ 「珍」・「済」・「興」・「武」の五王が、『記紀』の仁徳・履中・反正・ 允恭・安康・雄略の六天皇の誰に当たるのかを調べればいい。 まずは、倭王「讃」であるが、仁徳の名「大鷦鷯」の「鷦鷯」の音読音 「ささき」を「讃」で表したとか、応神天皇の名「誉田別」の「誉」の文 字を、「讃」と書いたとか言われているが、応神=仁徳である以上、倭王 「讃」がどちらの天皇であるかの論議は必要なくなる。 また倭王「讃」の遣使は413年と425年なので、『古事記』による 仁徳天皇の干支崩御年の丁卯を427年と見れば、倭王「讃」の時代と重 なっており、倭王「讃」は仁徳と見なせるであろう。 さて、倭王「讃」を仁徳とすれば『高句麗好太王碑文』に記された倭人 との関係はどうであろうか。 『高句麗好太王碑』とは、明治10年の終わりに北鮮の鴨緑江中流域の 北岸、輯安(しゅあん)県通溝城に残っており、高さ7メートルにもおよ ぶ巨石の四面に、千八百余文字による「広開土王」(392〜413)の 功業を細かく綴ってあるものである。「広開土王」は正式には「国崗上広 開土境平安好太王」(こくこうじょうこうかいどきょうへいあんこうたい おう)であり、通称「好太王」と呼ばれ「高句麗」一代英傑である。 彼と彼の嫡子・「長寿王」の時代に、慶尚道・全羅道・忠清南道を除く 半島の大部分は「高句麗」の領土に編入されている。 ではなぜこの碑文が四世紀の「倭国」の歴史追求の上で重要であるのか と言うと、碑文の内容の中心を占めている王の功業とは、朝鮮半島を進出 してきた倭人達に対する高句麗の交戦・勝利であるからだ。 これによって391年〜404年ころまでの、朝鮮半島における倭人達 の作戦行動の一端が明らかになる。倭人達とはむろん倭国軍であろう。 また年代から見た場合、「倭国」の最高責任者は、幼き仁徳か養父・ホム ダマワカ王であることになる。 この碑文のうち、「倭国」との渉外関係を述べたところの要点を箇条書 き記せば次のようになる。 「元年辛卯年(391年)、古くは高句麗に属していた百残と新羅が、 近頃倭に通じて朝貢しなくなった。それは倭がこの年に侵略してきて、百 残・■■・新羅を討ち、その臣民としてしまったからである。」 「六年丙申年(396年)、好太王が百残に遠征して、これを臣従せし めた。」 「九年乙亥年(399年)、新羅は、その国境に倭軍の兵が充満してい ることを訴え、高句麗に救いを求めてきた。」 「十年庚子年(400年)、好太王は歩騎五万の大軍で進撃し、中部朝 鮮の新羅の国境で倭軍と激突した。その結果倭軍は遺滅して、遠く南鮮の 任那・加羅の地に追撃され、からくも全滅を免れた。」 「十四年甲辰年(404年)、四年後に倭軍はこの打撃から立ち直って 勢力を盛り返し、ふたたび遠征軍を派遣して中部朝鮮に進出し、帯方付近 まで進軍した。そこでふたたび高句麗軍と決戦して、多数の死者をだして 敗退した。」 これらのことは、倭王「讃」の朝貢よりも古い時代の史実であり、26 6年を最後に中国に朝貢していないヤマト政権(この頃は、九州の「旧奴 国」のはずである)が、約150年ぶりの413年突然に朝貢したのは、 ヤマト政権自体が財政難により、危機的状況に陥っていたからではないか という、推理をしたくなる。 実は、このことを客観的に証明する記述が『記紀』に記されている。 それが、『仁徳記・紀』に記述されている説話、『竈の煙』であると思 う。 この『竈の煙』説話は、仁徳を象徴する美談としてご存じの方も多いと 思う。 それを『日本書紀』から引用してみると、 「四年春二月六日、群臣に詔して、『高殿に登って遙かにながめると、 人家の煙があたりに見られない。これは人民たちが貧しくて、炊ぐ人がい ないのだろう。昔、聖王の御世には、人民は君をの徳をたたえる声をあげ、 家々では平和を喜ぶ歌声があったという。いま自分が政について三年たっ が、ほめたたえる声も起こらず、炊煙はまばらになっている。これは五穀 実らず百姓が窮乏しているのである。都の中ですらこの様子だから、都の 外の遠い国ではどんなであろうか』といわれた。 これを言ったのは、もちろん仁徳である。天皇はこの後、三年間のすべ ての課税をやめ、人民の苦しみをやわらげたというが、この説話が真実で あるというのなら、聖帝と伝えられている仁徳天皇のこれ以前は、褒め称 えられることのない天皇であったことになる。 結局、仁徳が新王に即位したものの、前王の度重なる朝鮮出兵とその敗 戦で、国勢は最低だったと考えられ、三年間課税を免じた仁徳の判断は、 立派であろうが、そうせざるを得ないほど窮地に追い込まれていたのだろ う。 話が横道にそれてしまうが、そもそも仁徳こと「大鷦鷯尊」は、天皇に なるべき人物ではなかったことになっており、従って立太子もしていない。 本来の天皇候補、すなわち太子は、弟の「莵道稚郎子」(うじのわきい らつこ)であった。 末子相続からすればこのことに疑問はないのであるが、「莵道稚郎子」 は「大鷦鷯尊」にひたすら皇位を譲り、自殺してしまう。この説話を簡単 に信じるわけにはいかないが、ここで重要なことはこれ以降、相続順位が 子息から兄弟へと変わってしまったことである。これは、明らかに王朝の 交替を示唆するものと思われる。 話を元に戻そう。この三年間の免税の後、仁徳はどうしたのであろうか。 実は三年後もしばらく免税はつづき、『日本書紀』によれば仁徳の十年 に初めて課税が許されたとあるが、『高句麗好太王碑』の四年後に、再び 「倭国」が攻めてきたという記述に妙に符合してこないだろうか。 つまり、「高句麗」との戦争で大打撃を被ったヤマト政権は、その後、 仁徳になって国力を充実させた上で、「高句麗」攻略を再開したというこ とではないだろうか。 その結果も多数の死者を出しての敗退なので、それは無惨なものであっ たろう。 仁徳は、国土復活のためか土木事業に専念している。しかし、ここで考 えられるのは「高句麗」の報復ではないだろうか。413年の突然の中国 への朝貢は、国力の回復を待って中国「宋」からの援助を頼ってのことで あろう。さらに「高句麗」も同年に「宋」へ朝貢しているのである。 「高句麗」が先かヤマト政権が先かは不明であるが、ヤマト政権として は「高句麗」よりも早く、「高句麗」が先んじていればなおのこと、どう しても大国「宋」に国家として認識してもらう必要があったのである。 このことは、悲哀に満ちた倭王「武」の上表文からも推察できよう。上 表文に「しかるに高句麗無道にして」の一文が、はっきりと記載されてい る。 8.「倭の五王」ではなく「倭の六王」だった さて、もう一度「倭の五王」の系譜を掲載する。 『宋書倭国伝』 『梁書倭国伝』 ┌讃 ┌讃 ┤ ┌興 ┤ ┌興 └珍 済┤ └弥─済┤ └武 └武 倭王「讃」が仁徳であるとすると、倭王「珍」は誰に否定されるのであ ろう。「珍」は「讃」の弟である。 『日本書紀』によれば、仁徳の弟は自殺した「莵道稚郎子」であるが、 仁徳に皇位を譲りながら自殺しているので、即位はしていないし仁徳の即 位前に自殺している。これでは該当者が存在しないことになるのだが、ど のように考えればいいのだろうか。 そこで『日本書紀』からみた仁徳系天皇の系譜と比較してみることにし よう。 仁徳系天皇の系譜を簡単に記すと次のようになる。 『日本書紀』 ┌履中 仁徳┼反正 └允恭┬木梨軽皇子 ├安康 └雄略 説明は別章にするが、倭王「武」が雄略天皇に比定できることは、通説 であり異論はない。従って、世子「興」は安康天皇か「木梨軽皇子」(き なしのかるのみこ)のいずれかの人物になる。 その父である倭王「済」は、当然允恭天皇になる。 ただ、允恭の名は「雄朝津間稚子宿禰」(おあさづまわくごのすくね) であり、なぜ「済」の文字を当てたのかははっきりしない。また、天皇の 名に臣下の姓身を表す「宿禰」姓がつけられているのかもわからないまま である。 では倭王「珍」は履中か反正の、いずれかの天皇に比定できそうである が、先にも述べたとおり、この両天皇は仁徳の息子であり、弟ではないの である。 これを解くカギは、11回の外交記述の中にあるのではないだろうか。 するとこの記述の中に、倭王の名を記さないものが一つあることに気づか な いだろうか。 「430年 倭王『?』、『宋』に遣使」 これがその記述であるのだが、この倭王を「倭の五王」ではない独立し た倭王と考えると、うまく説明できそうなのである。 『宋書倭国伝』では、 「讃死して弟珍立つ」 と記すが、実際には倭王「讃」と倭王「珍」の間に、430年に朝貢し た名前の記載のない倭王が存在していて、その倭王が「讃」の息子であり 倭王「珍」はその弟であった。つまり「倭の五王」ではなく「倭の六王」 であったのではないか。ここに中国側の誤解があったと考える。 この説は、水野祐氏の説で有名であるが、その倭王こそ『梁書』の倭王 「弥」ではないかと述べている。しかし、倭王「珍」が「弥」の誤記らし いことは、『宋書』・『梁書』を比較検討すれば明らかなので、ここでは 欠名の倭王「?」のままとしておこう。 そうすると、中国側の記録の「倭の六王」に対して、『日本書紀』の仁 徳から雄略までの六天皇が数の上ではぴったり一致してくる。 修正『宋書』の系譜 『日本書紀』の系譜 ┌? ┌履中 讃┤ ┌興 仁徳┼反正 ┌安康または └珍 済┤ └允恭─┤ 木梨軽皇子 └武 └雄略 ここでこれまでにはっきりしていることを整理してみると、「讃」=仁 徳、「武」=雄略、「興」=安康または木梨軽皇子、「済」=允恭である。 また即位の順番から見た場合には、「?」=履中、「珍」=反正となる。 反正は「多遅比瑞歯別」が本名であり、このうちの「瑞」の文字を「珍」 に当てたのではないかと言われている。 9. 允恭天皇即位の謎 『宋書』では「珍」と「済」の血縁関係をいっさい記していない。『日 本書紀』では反正と允恭は兄弟であるのだが、実はこの『日本書紀』の系 譜には疑問を持っている。『宋書』の記述は血縁関係の記述漏れではなく、 血縁関係ではなかったから記述しなかったのではないかと思う。 なぜそう考えるのかと言えば、それが允恭の名である「雄朝津間稚子宿 禰」なのだ。天皇の名に「宿彌」はどう考えてもおかしいだろう。 これを成り上がりの天皇と考えているのだがいかがであろうか。 「雄朝津間稚子宿禰」は即位に際して、 「国家を任されることは重大なことである。自分は病気の身で、とても 堪えることはできない」 と即位を承知しないのである。これは仁徳の時と同じである。 仁徳は王朝交替により即位できた天皇であった。従って、臣下に請われよ うやくにして即位したと『日本書紀』は記している。 後の時代の継体も王朝交替と言われているが、やはり請われてやむを得 ず即位したとされているのである。允恭にしても同じではないのか。『日 本書紀』は記さないものの、あるいは「宿彌」姓の臣下が、クーデターに より反正を討って、天皇に昇り詰めたとは考えられないだろうか。 実は『日本書紀』は、反正の事績を何一つ記していないばかりか、扱い は欠史八代とほぼ等しい。これもまた怪しい材料である。 『宋書』の記述通り、「珍」=反正と「済」=允恭との間には血縁関係 などないのではないか。『梁書』が両者を親子としたのは、『宋書』を読 んでの推測からの記述であろうか。万世一系を主張する『日本書紀』は王 朝の交替など記述できるはずもない。 同一政権下であるから、王朝の交代とは言えないまでも、このとき、明 らかに王権の血縁関係が仁徳系ではなくなったのである。 現代で例えて言うなら、自民党内で別の派閥から総理大臣を選出したよ うなものであり、内閣の構成メンバーは交替しなかったということか。 一般に、応神あるいは仁徳から武烈天皇までを、応神系王朝とか仁徳系 王朝とかと言っているが、例えば仁徳系王朝は仁徳・履中・反正までであ り、允恭・安康・雄略と武烈までは、雄略系王朝と呼びたい。 允恭系王朝と呼んでもかまわないのであるが、雄略=「武」の事績の大 きさから、雄略系と言ったほうがしっくりきそうである。 ここで先に紹介した倭王「武」の上表文を思い出していただきたい。そ れは冒頭の部分の 「わが国では倭王武の祖父弥の時代から武装して、」 である。 「祖父弥」と記述したが、これは水野祐氏の訳したもので、原文は「祖 禰」であり「弥」ではなく「禰」である。「禰」は「宿禰」の「禰」であ り、允恭天皇を指すのではないかと疑いたくもなる。 さて、候補が安康・「木梨軽皇子」と二人いる世子「興」であるが、倭 王「興」は安康であろう。名は「穴穂皇子」(あなほのみこ)である。 「穂」は古音でヒョン・ヒンと発音するらしく、同音の「興」に当てた というのが通説である。 ただし『日本書紀』によれば、安康は即位後三年で死んでいるで、倭王 「興」の朝貢から倭王「武」の朝貢までの期間が約15年あるのは、少々 長すぎるかもしれないが、これは皇室内でのドタバタ劇が原因であるのか もしれない。 というのは本来、允恭の皇太子は「木梨軽皇子」であり、「穴穂皇子」 ではなかった。 ところが「軽皇子」が同母妹の「軽大娘皇女」(かるのおおいらつめの ひめみこ)を犯したので、群臣が心服しなくなり、「軽皇子」は「穴穂皇 子」を殺そうとした。しかし結局自殺してしまう。この結果、即位したの が安康である。 ところがである。なんと安康は「眉輪王」(まゆわのおおきみ)に殺さ れてしまうのだ。 話が少し込み入ってくるが、「眉輪王」とは、仁徳の皇子であった「大 草香皇子」(おおくさかのみこ)と「中蒂姫」(なかしひめ)との間の子 であるのだが、父である「大草香皇子」は安康により罪なくして殺されて しまう。 その後「中蒂姫」は安康の皇后となり、幼き「眉輪王」は安康に育てら れるのだが、ひょんなことからその全貌を知ってしまった。 そのうちに「眉輪王」は父の仇をと、安康の寝首をかいてしまうのであ る。 これでは倭王「武」が即位したとしても、朝貢もままならぬであろう。 こんなことから倭王「武」の即位は、年月を要したのかも知れない。 仮に、「興」が「木梨軽皇子」であっても次世代に影響は少ない。むし ろ、仁徳天皇以降兄弟相続であった皇位が、「興」に至って息子に戻った ことのほうが、問われなければならない。 修正『日本書紀』の系譜 ┌履中 仁徳┤ ┌安康または └反正 允恭┤ 木梨軽皇子 └雄略 10. もはや謎の四世紀はない 日本最古の漢詩集に『懐風藻』というものがある。これは751年に成 立したもので、撰者は不詳である。 残念ながら私は訳本すら見たことないが、関祐二氏の著書に興味深い箇 所が引用されている。 「神代より今にいたるまで、わが国に法によれば、子孫が相続して天位 を継ぐことになっている。もし兄弟が相続すれば、必ず乱が起こるであろ う。天の心を推測することはできないが、この事態をみれば誰が皇位につ くべきかは、自ずと知れているのではないか。それを、なんであれこれと まぜかえすのか。」(『天武天皇隠された正体』KKベストセラーズより) この一節は、「葛野王」(かどのおう)が天武王朝の後継者・「高市皇 子」(たけちのみこ)の死によって起こった、後継者問題を決定すべきの 緊急会議の場面であるらしいが、この一説で他の者が反対意見を言えなく なってしまうほど、至極当然の意見だったようである。天武王朝を皮肉っ た意見と言えなくもないが、この一説の「神代より今にいたるまで」の言 葉が重要なのである。兄弟が皇位を嗣げば乱が起こるというのである。 そうであれば、この時代より過去に何かしらの乱が起こっているはずな のである。天武天皇は天智天皇の弟とされているから、その皇位継承には 「壬申の乱」があった。 継体天皇亡き後皇位を嗣いだ、安閑・宣化両天皇は兄弟相続であった。 『日本書紀』は『百済本記』を引用し、 「日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった。」 としている。 他によく知られている兄弟相続には、仁徳・履中・反正と安康・雄略で あるが、この間の允恭の後、「眉輪王」による安康殺しが起こっている。 さらに仁徳・継体・天武の三天皇は、王朝交替と言われているではない か。この三天皇は何かしらの兄弟相続と言う点で共通している。安康天皇 の場合は突然殺されているので、世嗣の面で兄弟相続となるのはやむを得 ないかもしれないが、他の場合は王朝が交替しているのである。 允恭・安康間は子孫相続であるので、兄弟相続の仁徳王朝とは違ってい るのだ。前述通り、允恭天皇から仁徳系王朝の血縁ではなくなったと考え ることに無理はないと思う。判りやすく、王朝の交替でもかまわないかも 知れない。 そろそろ「倭の五王」の正体が見えてきたのではないだろうか。私見で は、五王ではなく六王であったのだが、順に記載していくと、仁徳=「讃」 履中=「?」、反正=「珍」であった。ここで王朝の交替があり、どうや ら臣下によるクーデターであるらしいが、允恭=「済」が立った。 次に、安康=「興」、最後が雄略=「武」である。倭王=「武」につい ては、別の機会に詳しく記したいと思う。 安康は、前王朝・仁徳の皇子「眉輪王」に殺されてしまうが、何とか弟 の雄略が王位を嗣いだのであろう。 さて、尾張王・ホムダマワカ王に婿入りしたホムツワケは、「旧奴国」 勢力を率いり、崇神系王朝を討った。ただしここまでの指導者は、ホムツ ワケではなくホムダマワカ王であった。 崇神系王朝を討った尾張・旧奴国連合勢力は、その勢力誇示のため、朝 鮮出兵を企てた。と言ってもその敵国は「高句麗」であり、「統一奴国」 以前からの宿敵であったことを思い出していただきたい。 また「百済」・「新羅」にとってみても、「高句麗」の弱体化は国家安 泰のためにも、必要不可欠であったろう。しかも、「高句麗」とも最前線 を担当してくれるのである。 「倭国」軍の侵攻は「新羅」からみれば、横暴以外の何ものでもないが、 それでも大した抵抗もできず、受け入れざるを得なかったのであろう。 『高句麗好太王碑文』は「倭国」を過大評価することにより、「好太王」 の威勢をより誇示したのだとも思うが、その碑文にあるように「百済」・ 「新羅」が、「倭国」の属国になっていた時期があることも史実だと思わ れる。 ところが、「百済」・「新羅」ともヤマトとの軍事連邦下の傘下になっ たものの、「新羅」は密かに「高句麗」とも結んだのである。このあたり の強かさが、朝鮮半島で最後まで残った国家になった原因の一つかも知れ ない。 こうしたヤマト政権の政策は、王朝が変わった安康天皇以降も受け継が れたようである。ただ度重なる「高句麗」攻略の失敗で、「百済」・「新 羅」からの信用も失墜し、「倭国」軍はみくびられたのではないだろうか。 従ってその後の政策は「高句麗」攻略から、南朝鮮の安定に変わってし まっていたのである。 これなどは「豊臣秀吉」の晩年、「明」攻略を目的として朝鮮出兵した ものの、明国征伐から朝鮮征伐に鞍替えしたようなものである。 そしてついに、「新羅」がその重い腰を上げたとき侵略した国は、「高 句麗」ではなく、「伽耶」だったのである。 倭王らが、「宋」に朝貢して封ぜられた官号は、 「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大 将軍・ 倭国王」 であった。 朝鮮半島の諸軍事を自ら担当しながらも、なぜか「百済」は認められな かった。通説では「百済」は「宋」に朝貢していたからだ、と言われてい るが、これが本当でありヤマト政権よりも先に朝貢していたならば、ヤマ ト諸軍事担当の件は、まったく当てにしていなかったことになろう。 「新羅」は「百済」より、文明・文化的にも、軍事的にも劣っていたの だと思う。従って、常に「百済」の侵略の魔の手を、恐れていたのではな いだろうか。「新羅」にとっての敵国は、「倭国」以前に「百済」であっ たのだ。それがいち早く「高句麗」と結んだ原因なのだろう。 そして「新羅」が密かに「高句麗」と結んだ対抗上、「百済」は「宋」 に朝貢し、ヤマト政権と結んだのではないかと考えている。 この複雑な朝鮮半島情勢をヤマト政権は、正しく判断していなかったと 思えてならない。 倭王「武」こと雄略天皇の時代を前後して、「倭国」優位の朝鮮外交に 陰りが見えてきたようである。 しかし、ヤマト政権はこの両国、あるいは「伽耶」まで含めた朝鮮半島 の政治情勢を無視するかのように、「高句麗」対策に全力を挙げていたの である。 それは、倭王「武」の上表文に見られる 「高句麗無道にして」 の一言で、すべてを言い表していると思う。 2000年4月 第6部 了 2008年1月 改訂 |