真説日本古代史 本編 第四部 原大和朝廷の時代 1.原大和朝廷の中の崇神天皇 『日本書紀』によれば、崇神天皇は「御間城入彦五十瓊殖天皇」(みま きいりひこいにえのすめらみこと)と言い、開化天皇の第二子であるとい う。 開化天皇は、欠史八代の最後の天皇であるが、この欠史八代の系譜は、 『記紀』の間で違いがある以外にも、各天皇の名が、後の時代に造られた としか思えない尊称で著されており、とうてい信用できない。だから、欠 史8代なのであるが、その中でも、唯一本名らしいのは、第五代・孝昭天 皇の「観松彦香殖稲天皇」(みまつひこかえしねのすめらみこと)だけで ある。この天皇は「尾張氏」と結びついている。 ほかの天皇の実在性は、一時棚上げして考えることにしよう。 従って、崇神と開化との系譜的な結びつきなどあろうはずがなく、「ハ ツクニシラススメラミコト」と言われた崇神は、万世一系ではないにせよ、 大和朝廷の初代天皇である。しかし、後世にいう天皇ではなく、この時点 においては、族長クラスのトップ程度のくらいにすぎなかったし、国といっ ても、自治権が行使できる狭い範囲であった。 これは、「邪馬台国」時代でも、同じである。単に、自治区といったほ うが、ふさわしいのかもしれない。葛城王朝の孝昭にしても、同じことで あり、後述するが、この王朝は、九州から侵攻してきた応神天皇に、必然 的に吸収される。 ただ、畿内政権(以下、原大和朝廷)と葛城王朝とを比べた場合、崇神 によるゲリラ戦で衰えたとはいえ、まだまだ葛城王朝のほうが国力が充実 していたことであろう。周辺諸国への威勢は、圧倒的に葛城王朝に有利で あったと思われる。 また、崇神が、まさしく原大和朝廷の初代天皇であったという傍証は、 何度もご紹介している、言語学者の加治木義博氏が、次のように記してい る。 「『肥前国風土記』の『佐嘉の郡』の中に、『この郡の西に川があって 佐嘉川という』などと、いろいろ伝説が書かれているが、『またこの川上 に石神あり、名を世田姫という』という部分がある。 今では、原文はなくなっているが、奈良県の天理図書館に、鎌倉時代の はじめに書き写された『神名帳』という写本がある。いろいろ書き込みが してある中に、『肥前国風土記』のこの部分がある。これが実に貴重なこ とを教えてくれる。 その「頭注」の部分に『風土記にいわく、人皇二十代欽明天皇の二十五 年甲申冬十一月朔日甲子、肥前の国佐嘉の郡、与止姫の神、鎮り座すこと あり。一の名は豊姫、一の名は淀姫なり』と書いてある。これは、その場 所とその名で、世田姫と同じ神のことだから、昔は、現在残っている『肥 前国風土記』とは、かなり違った内容であったことがわかる。 このなんでもないような『消し忘れ』が『日本書紀』の命取りになる重 大なミスだった。それが重大なのは、欽明天皇が『第二十代』だと書いて ある点である。」 (『虚構大化改新と日本政権誕生』KKロン グセラーズ) 欽明天皇は、『日本書紀』によれば第二十九代天皇である。 もちろん、『古事記』でも同じであるが、これを、人皇二十代欽明天皇 と記す『肥前国風土記』を信用すれば、初代天皇は崇皇になる。 案外、当時の人々は『日本書紀』の嘘など承知していたのであろうし、 『日本書紀』を重要視していなかったのかもしれない。 現存する『風土記』でさえも、『日本書紀』に準じて書き換えられてい るらしい。 ちなみに、葛城王朝とか原大和朝廷とか述べている、「王朝」について であるが、自治権を行使できる領土を占有していた大王は、地方にいくら でも存在していたとことであろう。自治区は狭くとも、大王の位が、代々 継承されている国であるならば、それは「王朝」である。 「吉備国」には吉備王朝が、「出雲国」には出雲王朝が存在していたし、 他にも、日本列島に広く存在していたはずだ。大和朝廷以外、存在しない などとするほうが、むしろおかしいのである。 そこには、当然、協力関係や主従関係もあったであろう。 さて、崇神の原大和朝廷であるが、崇神は土着の勢力を屈服させて君臨 した成り上がりの天皇だ、と匂わせる記述が『記紀』にある。 それは、 「国内に疫病が多く、民の半数が死亡し、百姓が流離あるいは反逆し、 その勢いは徳を持って治めようとしても困難であった。」 というくだりである。 これこそ、崇神が地方から進入してきた人物であることの証明になろう。 現代に置き換えるとわかりやすいと思うが、「尾張氏」・「物部氏」・ 「天皇家」などと呼ばれた氏族は、自らが勝手に決めた所領地に対し、自 治権を行使したものの、彼らは単なる政治集団であり、今で言えば政党で あろう。 従って、第一党をどの政党がとろうが、一般の民衆の生活が変わるもの ではなく、せいぜい陰でぶつぶつ言うくらいではないか。 ところが、崇神がトップになったこのときは、百姓が流離あるいは反逆 したというのだから、よほどのことだ。右も左もわからない他国の大統領 が、日本の総理大臣になったに等しい事件であると言わざるを得ない。 その解決方法として、三輪山にオオモノヌシを祀ったのだが、恐怖政治 になりかねないものの、時代を考えてみれば武力による制圧のほうが、よ ほど早い解決方法と思われる。にもかかわらず、神祀りに頼っている。結 局、このときの大和朝廷など、名ばかりで大した力もなかったということ である。 2.三輪山のオオモノヌシは偽物である 第二部において、オオモノヌシは、スサノオのことであるとした。三輪 山にオオモノヌシが祀られたのは、このとき初めてなのであるから、「出 雲国」でオオクニヌシが、オオモノヌシを祀った御諸山は三輪山ではなく、 出雲の三室山であったことの、証明にもなっている。 いずれにしても、三輪山にオオモノヌシを祀ったというのであるから、 磯城地方もかつては「出雲国」の管轄地域であり、人民はスサノオを神と していたのだろうと思う。出雲のオオモノヌシは、スサノオのことであっ た。 崇神=ミマキにとっても、その先祖は、スサノオを北九州の「統一奴国」 時代から神と崇めてきたと考えられ、抵抗はなかったはずである。 さらには、念を入れて宮中に祀られていた、アマテラスと「倭大国魂」 (やまとおおくにたま、以下、ヤマトオオクニタマ)の二神を宮中より出 して祀っている。神社伝承学によるヤマトオオクニタマとは、「物部氏」 の祖神であるニギハヤヒのことであり、アマテラスとは、「天照国照彦火 明命」=ホアカリ(ニギハヤヒと同一神としているが)である。 ホアカリは旧奴国王ミケヒコでもあったのだが、ホアカリや「雷神」は、 本来、「尾張氏」が神と崇めていた、自然神・観念神であったと思う。 そこに、ミケヒコが、大王として迎えられることにより、ミケヒコの死 後、人間ミケヒコと神ホアカリが同一視されるようになった。 その結果、「尾張氏」の祖は人間ホアカリであると、後世に伝えられた のだと考えている。 「ミケヒコ大王は、まさに神ホアカリだ。神ホアカリの再来であった。」 とでも、口々に伝えられたのだろう。 戦前まで天皇は現人神と呼ばれていたので、納得いただけると思う。た だ、そうだとしても、ホアカリは「尾張氏」の、ニギハヤヒは「物部氏」 が祀る観念的な神であり、実際としての祖先は、アメノカヤマであり、ウ マシマジになるのではないか。 神社伝承学でいうホアカリ=ニギハヤヒのフルネームである、「天照国 照彦天火明櫛玉饒速日尊」も「尾張氏」と「物部氏」、あるいは他の豪族 らを吸収し成立した、連合政権により、お互いの祀る神を合わせて造られ た、一柱神であると考えている。 「物部氏」の本拠地は、現在の大阪府八尾市であるが、政治の中枢を担 うようになってからは、大和郡山市矢田に移っている。『延喜式』には、 矢田坐久志玉比古神社が記載されているが、「物部氏」の氏神を祀ってい る。神社伝承学通り、ホアカリ=ニギハヤヒであるのなら、「天照国照彦 天火明櫛玉饒速日尊」というりっぱなフルネームで祀られていてもよさそ うであるが、祭神は「櫛玉饒速日尊」である。政略的にホアカリ=ニギハ ヤヒという一柱神を立てたものの、「物部氏」自身は、ホアカリとニギハ ヤヒを同一視しておらず、明確に区別しているのである。このことは、籠 神社の祭神・「彦火明命」についても同様であり、「尾張氏」も、この両 神を区別している。 崇神朝において、宮中に祀られていたホアカリとニギハヤヒであるのだ が、ニギハヤヒは、ヤマトオオクニタマ、すなわち国家守護と位置づけら れ、アマテラス=ホアカリは、笠縫邑の小さな祠に祀られたのというので あるから、その待遇は大違いである。 このことは、多分に「物部氏」の意見が採り入れられているのであろう。 崇神朝での政治の主権は、「物部氏」に移っていたとしか考えられない記 述である。 さらに、三輪山のオオモノヌシも「物部氏」の神として、位置づけられ た感がある。 オオモノヌシという呼び方は、本来、その呼び方の通り、大物であり、 大人物の意味であったと思われ、まさに、スサノオに相応しい尊称である と思うのだが、「物部氏」はその呼び方を巧みに利用し、「大物部の主」 にすり替えてしまったのではないだろうか。 実際、『崇神紀』におけるオオモノヌシの記述は、どうも、そのような ニュアンスが感じられてならない。 その神が、崇神朝以降の天皇家の守護神となっていくのだから、「物部 氏」の威勢たるや、平安時代以降、藤原でなければ人間ではない、と言わ しめた「藤原氏」に匹敵する権力であったに違いない。 『記紀』の出雲神話を読めば、オオモノヌシは、「物部氏」と何ら関係 がない神であることは誰にでもわかることである。『日本書紀』では、オ オモノヌシを祀る祭主に「大田田根子」(おおたたねこ、以下、オオタタ ネコ)を任命している。オオタタネコの父は、オオモノヌシであると記述 するが、これは年代的におかしい。「古事記」では、オオモノヌシの5世 孫が「意富多多泥古」であり、その父は、タケミカツチである。タケミカ ツチ=「雷神」=ホアカリ=ミケヒコであるから、オオタタネコは、スサ ノオの系譜であることは間違いない。 オオモノヌシは、スサノオの尊称であったからこそ、オオタタネコが任 命されたのであろうが、神社伝承学によって証明された三輪山のオオモノ ヌシが、ニギハヤヒのことであるならば、そこに祭神のすり替えがあった ことは歴然としている。つまり、表面的には、スサノオを祀るふりをしな がら、その実、「物部氏」の神・ニギハヤヒとして祀ったのである。 現在、三輪山の大神神社では、オオモノヌシ・オオナムチ・スクナヒコ ナの序列で祀られているのだが、神社の神祀りには、必ず決まりことがあ り、全然関係のない神が祀られることはありえない。ありえないからこそ、 その神社に祀られている祭神を調査することにより、真の祭神を導き出す ことができるのであり、それが神社伝承学ではないか。 この大神神社に祀られている三神は、『記紀』の記述において、確かに すべて関連があるのだが、オオモノヌシが、ニギハヤヒであるとすれば、 話はちょっと変わってくる。ニギハヤヒとオオナムチ・スクナヒコナの間 には、何ら、接点を見いだせない。 オオモノヌシの正式名は、「大物主櫛(甕)玉命」であるという。神社 伝承学では、この「櫛(甕)玉」の部分が、ニギハヤヒのフルネームの一 部であることから、オオモノヌシ=ニギハヤヒという図式に、たどり着い ているのだが、それだけで断定してしまうことはできない証拠がここにあ る。 3.「櫛玉伊勢津彦命」の謎 伊勢地方の神に「櫛玉命」、別名、「伊勢津彦命」(いせつひこのみこ と、以下、イセツヒコ)がいる。伊勢土着の神であるというが、調べてみ ると、スサノオ系の匂いの感じる神である。 では、この「櫛玉彦命」はニギハヤヒかというと、「YES」と答える 学者・作家はいないだろう。単に、「櫛玉」という称号だけでは、同一神 と結論づけることはできないことは、理解していただけると思う。 ニギハヤヒのフルネームである、「天照国照彦天火明櫛玉壌速日尊」は、 「物部氏」が「尾張氏」だけにとどまらず、「三輪」・「鴨」などの豪族 等と連合する過程において、造りあげられた一柱神なのであり、それが、 三輪山のオオモノヌシであるというならば、それは、正しいと言えよう。 しかし、実際にオオモノヌシの名を借りて祀られたのは、ニギハヤヒた だ一神であったのだ。宮中に合祭されていたアマテラス=ホアカリは、大 和の笠縫邑に祀られたと『記紀』が証言しているからだ。 さて、ここでイセツヒコについて、少し記しておきたい。 イセツヒコを記す文献は、『伊勢国風土記逸文』である。それによると、 神武東征に随行してきた「天日別命」は、「紀伊国」の熊野までたどり着 いたとき、神武の命により、「伊勢」に進み入ったという。その邑にい た神がイセツヒコであった。イセツヒコは、「天日別命」の“国譲り”の 要請を断ったため、「天日別命」は、兵を挙げてイセツヒコを殺そうとし た。 それを畏れたイセツヒコは、結局降伏してしまう。そして、イセツヒコ はこの国から去る証拠を残していく。 それは、大風をおこし波を打ち上げ、昼のごとく光輝いて、陸も海も明 るくなったかと思うと、波に乗って東へ去ってしまった。「伊勢」という 地名は、イセツヒコの名が由来している。また、「神風の伊勢」は、この 説話が源になっているらしい。 さらに後日談があって、イセツヒコは、この後「信濃国」に住み移った という。 『伊勢国風土記逸文』の別の一説には、イセツヒコの亦の名を「櫛玉命」 亦の名を出雲の神の子、「出雲建子」であるとしている。出雲の神とは、 どうやらオオナムチのことであるらしい。 イセツヒコが、天孫族の「天日別命」に降伏し、「信濃」に住んだとい うこと。オオナムチの子であり、「出雲建子」の別名を持つこと。これら のことから推察するに、イセツヒコとは出雲の国譲り神話で『古事記』に しか登場しない、「建御名方命」(たけみなかたのみこと、以下、タケミ ナカタ)に違いない。 『日本書紀』で記述されている「出雲」とは、出雲地方か出雲最後の政 庁のあったであろう葛城山麓に限られた、狭義の「出雲国」であるのに対 して、『古事記』に記述されている「出雲」は、天孫族(崇神天皇以降) に支配されるまでの「出雲」、すなわち、スサノオが成し遂げた「統一奴 国」時代の「出雲国」であるように思う。 従って、「出雲」を狭義でしかとらえていない『日本書紀』に、タケミ ナカタが登場しないのは、むしろ当然なのかもしれない。あるいは、何か 理由があり無視したのかもしれないが。 『古事記』の作者は、「播磨」・「吉備」・「大和」・「筑紫」・「紀 伊」・「越」などの西日本を、「出雲」ととらえていたのだろうか。もし そうであれば、この「出雲」こそ、スサノオの「統一奴国」に他ならない。 4.渡来してきた協力者・扶余族 『日本書紀』によれば、宮中よりだされたヤマトオオクニタマ=ニギハ ヤヒと、アマテラス=ホアカリは、崇神の命により、それぞれ、「淳名代 入姫命」(ぬなきいりひめのみこと、以下ヌナキイリヒメ)と、「豊鍬入 姫命」(とよすきいりひめのみこと、以下、トヨスキイリヒメ)に託され たのだが、ヌナキイリヒメは、髪が抜け落ち体がやせ細り、祀ることがで きなかったという。ヌナキイリヒメは、「尾張大海媛」の娘である。 「物部氏」の神ニギハヤヒなど祀ることなどできるはずがなく、これは 当然であろう。 むしろ、祭司権を持つ「物部氏」の陰謀臭い気もするが、深読みしすぎ だろうか。しかも、オオモノヌシを祀るように崇神に要請したのは、物部 の一族と思われるヤマトトトヒモモソヒメである。ここに、「物部氏」と 崇神の体制が整ったように思われる。しかし、ヤマトトトホモモソヒメは、 人格化したオオモノヌシに、殺されるように亡くなっているところからみ て、朝廷内の「尾張氏」と「物部氏」の確執は、おだやかではなかったの だろう。 「尾張氏」にしてみれば、オオモノヌシをスサノオではなく、ニギハヤ ヒとしてしまった「物部氏」に我慢ならなかったということだろうか。 崇神は、この後、四道将軍を東海・北陸・西海・丹波に派遣してる。西 海は聞き慣れない地方だが、「吉備津彦」が派遣されているところからみ ると、吉備国であろう。もっとも、「吉備津彦」の名は出身地からみた名 前であろうから、自らの出身地を攻めることになり、記述自体の信憑性は 薄い。ただ、崇神天皇十一年夏四月二十八日の一文に、非常に興味深い記 述がなされている。それは、次の一文だ。 「四道将軍は、地方のに敵を平らげた様子を報告した。この年異族の人 たちが大勢やってきて、国内は安らかとなった。」 四道将軍による地方征伐は、前に記述したとおりであるが、国内が安ら かになった理由が、異族の人たちによるものであったというのである。 異族とは、同族でないことはもちろんのことであるが、同民族でない意 味である。これは、畿内を制圧するのに限界を感じた崇神が、海外に軍事 応援を求めたということではないだろうか。そして、その応援要請先は、 後の時代の関係からして、「百済」だと考えることができる。 『魏志』の記述によれば南朝鮮は、「馬韓」・「弁韓」・「辰韓」に分 かれており、後の時代では、それぞれ、「百済」・「伽耶」・「新羅」と なっていくが、もともとは、「辰国」として統一されており「馬韓」の王 が治めていたらしい。従って、「馬韓」が他の二国を圧倒して、力を持っ ていたことがわかる。事実、「馬韓」の土地は、朝鮮半島の西側に位置し、 山脈が東側に位置するので、西側は平野が広がり、まさに、農業に適した 土地であった。当然、人口も多かったわけである。 二世紀半ば頃から、倭国大乱となり、三世紀にヒミコが共立されたこと をきっかけに、「統一奴国」が分裂。「邪馬台国」を首都とした連合国と、 「旧奴国」に分かれてしまうのだが、後に、「旧奴国」と「邪馬台国」と の戦争を嫌った、「邪馬台国」の和平派が抜け出して、近畿にたどり着き、 大和朝廷の基礎を成しえた。原大和朝廷である。 この頃の中国は、「魏」・「呉」・「蜀」の、いわゆる三国時代であり (220〜280)、南朝鮮半島は、「馬韓」・「弁韓」・「辰韓」の三 国が国家としてまとまっていた。 なぜ南朝鮮で、一勢に国家が誕生したのであろうか。その理由を、関祐 二氏は著書・『謎の出雲・伽耶王朝』の中で次のように述べられている。 「一世紀初頭。漢王朝末期の戦乱は食料生産の停滞をもたらし、六千万 の人口は三千万近くに減ったとされている。そして、漢が一度滅び、光武 帝の後漢が成立する紀元三七年までの混乱は、さらに人口減を招き。つい に一千五百万前後までに急落したのである。 中国の凋落は、それまでの東方支配にに方法に変化をもたらした。 後漢の光武帝は、中国人による各地の直接支配を改め、先住民の首長に、 管理を委託したのだ。」 これによれば、中国の急激な国力低下により支配体制が薄れ、朝鮮半島 までに手が回らなくなった結果である、というのだが、おおむね賛同でき る。しかし、関祐二氏は、日本に「漢委奴國王」の金印が授けられた理由 も、同様に結びつけているが、島国である日本は、これに当てはまるもの ではないと思う。「統一奴国」の成立は、金印より後であるからだ。 このことは、すでに述べてきたことでもあるので、次に進むが、崇神が、 軍事応援を求めた「百済」とは、その前身の「馬韓」のことではない。 北方の騎馬民族の「扶余」の亡命貴族らである。 朝鮮半島の付け根の西北に位置する遼東郡があったが、この地は温暖で 農作物にも恵まれ、各国は領土野心を抱いていた。この地に接していたの は「後漢」・「高句麗」・「扶余」の三国であるが、当然のように、この 地をめぐり戦争状態が続いていた。この状態は、七世紀後半になって、よ うやく決着がつくことになるが、戦争の中心は、常に「中国」と「高句麗」 であった。「扶余」は戦力的に不十分であったのか、戦争を避け、南朝鮮 まで亡命していた民族が、少なからず存在していたのである。 これは、「旧奴国」と「邪馬台国」の戦争を避けるように脱出した、ミ マキ=崇神とまさに同じ境遇ではないか。 この両者が結びつくのに、これ以上の理由はいらないだろう。 「扶余」の亡命貴族からすれば、あわよくば、まるごと乗っ取りという 意識も、芽生えていたに違いない。 5.出雲王朝の屈服 四世紀になると、「馬韓」・「弁韓」・「辰韓」は、それぞれ、「百済」 「伽耶」・「新羅」となっていくが、「馬韓」だけは、「扶余」の亡命貴 族にその地を占領され、「馬韓」の王権は「扶余」に乗っ取られてしまっ た。そうして誕生した国家、それが「百済」なのである。 「扶余」の亡命貴族らに軍事応援を頼み、畿内を平定させた崇神であっ たが、畿内の国力を充実させた後は、ついに、大国「出雲」への侵攻を企 てている。 『日本書紀』には、「出雲」の神宝をめぐる「出雲振根」(いずもふる ね、以下、フルネ)と弟の「飯入根」(いいるね、以下、イイリネ)の争 いの説話として、記されている。 それによれば、「出雲」の神宝が見たいという朝廷に対し、「筑紫」へ 行って不在だったフルネの代わりに、イイリネが神宝を差し出した。 「筑紫」から帰ってきたフルネは、イイリネを責め、木刀と真剣を互い に交換しあって、だまされたイイリネは殺されたとあるが、これと同じ説 話が、『古事記』では、「日本武尊」と「出雲建」との説話に置き換えて 記されている。 説話自体は伝説であろうが、『伝説の神国出雲王朝の謎』の中で、水野 祐氏が、まことに的を得た記述をしている。次に孫引きするが、 「出雲の首長国ははじめ二つのブロックに分かれていた。意宇川を中心 とする東出雲と、斐伊川を中心とする西出雲である。それは意宇と杵築の 二つの地域集団に分かれていたのである。この二つの集団中、西出雲の杵 築国は鏡・剣文化圏であり、その首長は八千矛神を主神とする集団で、出 雲振根に代表される。 一方東出雲は、大穴持命を祖神と斎く玉文化圏である。その首長は飯入 根や甘美韓日狭に代表される。この両者間の抗争は第四世紀中続いていた が、その間に原大和国家の勢力が強大化し、その西進運動がまず吉備を征 服し、その余勢をかって、出雲の争乱に介入した。振根は大和の介入に反 抗し、飯入根は大和勢力と妥協した。ついに振根は飯入根を倒し、西出雲 が一度は東出雲を征服した。 しかし、甘美韓日狭とその子ウカツクヌが大和政権の協力をえて勢力を 挽回し、振根を倒して東出雲が西出雲を統合した。」 年代に関しては、私見と違いがあるが、内容はうなずけるものがある。 神社伝承学による八千矛神とは、スサノオのことであるから、代々、意宇 国王(オオナムチ)を祀ってきた東出雲と、後からやってきたスサノオを 祀る西出雲との争乱が長く続いていたらしい。おそらく、スサノオの死後 の倭国大乱と時期を同じくするものであろう。「出雲」自体は、スサノオ の死後、「統一奴国」から早い段階で独立していたのであるが、新参者の スサノオ派と土着のオオナムチ派による、「出雲国」を二分しての、争乱 が始まったのだろう。 スサノオ派のフルネが、原大和朝廷に屈するはずがなく、一度は「出雲 国」を統一したものの、結局は原大和朝廷に協力した東出雲が勝利したの である。 東出雲が原大和朝廷に協力するに当たっては、何か交換条件があったは ずである。崇神の畿内の勢力よりも、東出雲の勢力にほうが、どう考えて みても強大なので、交換条件なしでは考えられないからである。 私は、これこそ出雲大社の創建であるように思う。後の時代になっても 大和朝廷は「出雲」に対して、不自然としか言いようがない遠慮深い不審 な態度をみせているが、このことに原因であるのではないだろうか。 崇神は、東出雲を掌握することにより、九州を除く西日本は原大和朝廷 の支配するところとなった。と言っても、中央集権国家が成立したわけで はなく、各地方で勝手に自治権を行使していた豪族らに、命令できる立場 になったということである。その範囲は、「東出雲・東吉備・播磨・大和」 あたりであり、九州に極近い地方はまだ含まれていないであろし、「吉備・ 播磨」は、「尾張氏」による功績が大きいと思われる。 原大和朝廷は最大勢力の「物部氏」、衰退したとは言え古豪族の「尾張 氏」、そして「扶余」の亡命貴族、といった力によって成り立っており、 この時点においては、「天皇家」自体の力など、さしたるものはなかった はずである。 『崇神紀』の終わりに、任那国が「蘇那曷叱智」(そなかしち)を遣わ して朝貢してきた、との記述があるが、「任那国」の成立は四世紀以降で あることから、これこそ、「扶余」の亡命貴族のことを匂わせた記述であ ると思う。 6.放浪する尾張族 258年、崇神はその生涯を遂げる。「邪馬台国」から脱出して約10 年後のことである。 次に立ったのは、「邪馬台国」の官であった「伊支馬」(イキマ)であ る。 名を「活目入彦五十狭茅天皇」(いくめいりひこいさちのすめらみこと) という。イクメの時代になると、「蘇那曷叱智」は自ら希望して帰ってし まうが、どう考えても、人質待遇の「蘇那曷叱智」が帰ってしまったとい うことは、朝貢してきたということ自体、偽りの記述であるということだ。 『垂仁紀』には、アマテラスが「倭姫命」(やまとひめのみこと、以下、 ヤマトヒメ)をよりしろとして、「伊勢」に遷座したという記述があるが、 アマテラスとは、「尾張氏」の祖神・ホアカリである。 この記述は、「尾張氏」が大和朝廷から去っていく様子とみている。 ヤマトヒメの行幸の様子は、「度会氏」の神道五部書のひとつ『倭姫命 世記』がより詳しいが、「度会氏」とは、ホアカリの孫であるアメノムラ クモを祖とする一族であるから、「尾張氏」と同族であり、ヤマトヒメの 名からして、実在とは思えない。 その「度会氏」の記したという『倭姫命世記』とは、尾張一族が「大和」 を後にしてから、「伊勢」度会の地に落ち着くまでの行程を匂わしている ように思えてならない。 その行程は、神社伝承学からみた場合、より具体性をおびてくる。 まず、笠縫邑であるが、これは大神神社の摂社・檜原神社である。そこ をでたアマテラスは、丹波の籠神社に4年祀られ、滋賀県甲賀郡・三重県 上野市・岐阜県羽島市・静岡県引佐郡、などを経て笠縫邑より、20年の 後、「伊勢」にたどり着いている。 『日本書紀』は、「大和」から「伊勢」まで一直線に遷座したように記 すが、実際には、20年の歳月を費やしているのであり、逆に言えば落ち 延び先を探っての旅であったと言える。 そして、その各地で地方の豪族と結びつき同族を残している。それが、 「丹波」の「海部氏」であり「彦坐王」(ひこいますおう)であり、「伊 勢」の「度会氏」である。そして、岐阜から愛知県一宮市にかけて勢力を 張った氏族が、まさに「尾張氏」なのである。 「彦坐王」と「尾張氏」の関係は、一見すると何も見えてこない。しか し、『日本書紀』は、その関係を直接的ではないにしろ、間違いなく記し ている。 「彦坐王」の母は、「和珥氏」の祖である「姥津命」(ははつのみこと) の妹・「姥津媛」である。また、応神天皇に随行した「武振熊」(たけふ るくま)もまた、「和珥氏」の祖であるという。『古事記』では「難波根 子建振熊」と記すが、この人物は、国宝・『海部氏本紀』に記され、まぎ れもなく「尾張氏」なのである。 さて、「近江」と「尾張」の結びつきはどうであろうか。 これは、『古事記』における継体天皇の出自が近江であるということか ら、推測したものでしかないが、継体のもともとの妃は、「尾張連草香」 の娘「目子媛」である。「尾張」と「近江」の強い関係を推察するには、 十分の資料である。一般的には継体の父方が「近江」であり、母方は「越 前」であるらしいが、この地方にしても、新潟県西蒲原郡弥彦村の彌彦神 社に、この地方開拓の祖神として、アメノカグヤマが祀られているので、 「丹波」から新潟にかけての日本海沿岸は、尾張一族とその親族の勢力範 囲であったと考えられる。 ここでひとつことわっておかなければならないことがある。第一部にお いて、ホアカリは、クニトコタチ・「豊受大神」と異名同体であると説い た。 その大筋に間違いはないのだが、実は、「豊受大神」とは、ホアカリが 丹波地方に遷座する以前から、この地方に伝承されていた神であったらし い。 『丹後国風土記逸文』に記述される、羽衣伝説で有名な、「豊宇賀能売 命」(とようかのめのみこと)と呼ばれる天女こそ、「豊受大神」である らしい。この名は、稲荷大明神で知られている、「宇迦御魂神」(うかの みたまのかみ、以下、ウカノミタマ)を想像させるが、どうやら同じ神で ある。 『古事記』によれば、「大年神」とウカノミタマは、スサノオの子で同 母兄弟であるが、神社伝承学による「大年神」は、ニギハヤヒであるので、 同時にホアカリのことでもある。 月海黄樹氏は著書『竜宮神示』の中で、『但馬旧事紀』に記されている クニトコタチは、ホアカリと「豊受大神」の合体神であると述べている。 これについて、私は次のように考えている。ホアカリを祖神とする「尾 張氏」と、もともと丹波地方に住み着いていて、「豊受大神」を祀る豪族 らが、結びついた結果、クニトコタチという神道の最高神、宇宙の根元神 を生み出した。そして、ホアカリと「豊受大神」は、スサノオの子、つま り、分身でもあるので、以下のような図式ができあがる。 ホアカリ+「豊受大神」 ‖ クニトコタチ=スサノオ ‖ ホアカリ+「豊受大神」 スサノオとクニトコタチは、古神道では、同一神格と見なされている。 これは、伊勢神宮になぜ両宮があるのか、という説明にもなっているのだ が。 そもそも、伊勢内宮は『日本書紀』の成立により、女神・アマテラスを 祀る社とされてしまったのであるが、本来は、ホアカリを祀っているはず であった。外宮の祭神は「豊受大神」である。そして、この両宮が一体と なって、神道最高神・クニトコタチを祀る社として成っていたのである。 その前身は籠神社であることは言うまでもない。 度会神道(伊勢神道)は、幾度となくこの説を説いている。 では、なぜそれが「丹波」であったのか。 これには、明確な答えを用意できないが、明治・大正・昭和の激動期に 一大勢力として、政界や軍閥、ついには、皇族までを信者に巻き込んで発 展した「大本教」の発祥地が、この「丹波」であった。「大本教」は二度 に渡り、国家権力からの大弾圧を受けるが、この土地が他の土地と違い、 霊的磁場の異常に強い土地であったとしか、言いようがない。 とにかく、「尾張氏」はこの地方の豪族と結びつくことにより、勢力を いっそう拡大していったのだろう。その勢力は、「丹波」から新潟にかけ ての日本海沿岸一帯におよんだに違いない。 こうして、「尾張氏」を中心とした海人たちの一大勢力が出現するので あるが、どうもこの統一された勢力は、長く続かなかったようである。 アマテラスが、この地方に居た期間は、わずか四年である。統一勢力は、 四年後には分裂していると思われる。 7. 謎を解く鍵・浦島子 『丹後国風土記逸文』には、浦島太郎伝説のモデルと思われる、「浦島 子」の説話が記述されている。この「浦島子」とは、「彦坐王」であるら しいが、雄略天皇の時代、「浦島子」は竜宮の乙姫より玉手箱を譲られて いる。この雄略の時代というのは、『雄略紀』に「水江浦島子」の説話が 記述されているので、間違いなさそうに思われるが、『丹後国風土記逸文』 の「浦島子」説話をよく読めば、 「ここに記載されている内容と、土着の伝承とは、寸分違いがない。」 などとわざわざ記されているため、逆に偽証ではないかと疑いたくなっ てしまう。「浦島子」が「彦坐王」ならば、崇神から垂仁時代の人物以外 にない。 玉手箱の譲渡とは、神器の譲渡であると考えられ、竜宮の乙姫とは海人 の姫であろう。つまり、「彦坐王」は、海人らの統一勢力の王として認め られたことになるのだが、この説話には続きがある。 それは、「浦島太郎」と同じ結末だ。約束を破って玉手箱を開けたため に、一瞬にして消滅してしまったのである。この説話は、裏切りの事実を 説話化したもの以外の、何ものでもないと思う。「彦坐王」は、原大和朝 廷側に寝返ったのではないだろうか。 その証拠に、『垂仁紀』の後半では、「彦坐王」の後裔である「日葉酢 媛」(ひばすひめ)が皇后として立っている。 「丹波」はもともと、大和朝廷に協力的だったのだろう、と疑う読者も おられると思うが、「丹波」はこの先後世において、常に大和朝廷からの 征伐対象の土地であったのだ。「丹波」の鬼退治の話は有名である。 中央集権国家が成立する以前で、「丹波」が大和朝廷に近づいたのは、 この時だけであったと思う。 この結果、「尾張氏」は「丹波」を後にして、再び放浪の旅へと移って いった。 ただ、「彦坐王」の原大和朝廷への寝返りは、垂仁の大幅な譲歩があっ てのことだと思う。というのは、『日本書紀』に気になる一文が記されて いるからである。それは、 「先皇の崇神天皇は神祀をお祭りなさったが、詳しくその根元を探らな いで、枝葉に走っておられた。それで天皇は命が短かった。」 というものであるが、『日本書紀』によれば、崇皇は120歳で亡くなっ ているので、命が短いなんてとんでもないことである。しかし、ここで問 題にしたいのは、神は祀ったものの、その方法が違っていたと読めること である。 結局、よそ者であった崇神は歓迎されなかったということであり、その 結果が、民・百姓の反乱へとつながったわけであるが、最終的には、他国 の力を借りて武力制圧している。 それに対して、垂仁は、武力ではなく、徳によって平定していったよう に思える。例えば、皇后の葬祭時の殉死を禁止したり、武器を神社に奉納 したりしている。 さらには、「任那」からきた人質の「蘇那曷叱智」の希望を受け入れ帰 している。これは、軍事応援で渡ってきた、扶余の亡命貴族たちのことで あろうから、武器の奉納からみても、武力放棄ともとれる行動である。 垂仁は、かつて、九州連合国の首都・「邪馬台国」の官であった。 今で言えば東京都知事といったところか。 武力に頼ってばかりの解決は、おのずと限界があることを承知していた のだろう。確かに、建国初期段階では、武力が大きくものを言う。従って、 「邪馬台国」の軍事顧問であったと思われるミマカキが王となり、制圧し ていったのも正しい選択であったろう。 「旧奴国」との戦闘を避け、「邪馬台国」を脱出したことも、崇神を、 まず王位につけたのも、垂仁の考えであったように思う。 垂仁の時代に、「丹波」・「但馬」・「山城」が大和朝廷と同胞になっ ている。 東西に分かれて争いを繰り返し、崇神が扶余族の武力応援により制圧し た「出雲国」に対しては、出雲大神の祟りを畏れ慎重に接している。 これは、『古事記』に「誉津別命」の説話として記されているが、何もし ていなければ、祟りなど畏れる必要は全然ない。いらぬ血を流してしまっ たからこそ、祟りを畏れなければならなかったのである。 崇神は、武力による殺戮を繰り返し続けたのだろう。それも、ゲリラ戦 という卑劣な手を使ってである。 後の時代に、淡海の真人・三船が名付けた漢風の天皇名は、ある種の暗 号が隠されているのではないかと、第三部の冒頭に述べてあるが、崇神は、 一般に言われる神を祀った天皇ではなく、神に祟られた天皇の意が込めら れていると思う。 もっとも、祟ったのは殺された民の霊であり、残された者たちからの、 うらみつらみであろうが。これに対して、垂仁は、仁愛・寛仁を垂範した 天皇であったと、解釈している。 垂仁の干支崩御年は、『古事記』には記載されていない。しかし、『日 本書紀』による次の景行天皇の干支即位年は、「辛羊」(かのとひつじ) と記されているから、近いところで311年か371年が垂皇の崩御年と なる。 ちなみに『古事記』による崇神の干支崩御年は、「戊寅」(つちのえと ら)であるから258年と比定したが、『日本書紀』の垂仁の干支即位年 は「壬辰」(みずのえたつ)の272年であり、14年の差がある。 これからしても、『日本書紀』の垂仁の崩御年は、正しいとはとても言 えないが、四世紀初頭であることは、疑いのないところである。 さて、垂仁による善政により、西日本はそれなりのまとまりをみせ始め ていた。この頃から、各地方の自治区が統合され、「奈良」の大和を首都 とした国家を形成していったのである。もちろん、もう一つの王朝、葛城 王朝も、取り込まれていったのだろう。 崇神・垂仁の時代の特徴は、前方後円墳築造の始まりであると言われて いる。 前方後円墳で一番古式を伝えるものは、奈良県の箸墓古墳であるが、こ の築造時期が三世紀末から四世紀初頭とされており、まさに崇神・垂仁天 皇時代である。 なぜ、突然前方後円墳が築造されるようになったのかは、諸説あって定 かではないが、箸墓古墳の全長は約280mという規模であり、費やした 時間と人工を考えた場合、それを築造させるだけの強大な権力を備えた国 家が存在していたということである。つまり、前方後円墳の出現は、国家 が統一形成されていく過程、それも最終時期に近いと言えるのではないだ ろうか。 スサノオ時代の「統一奴国」との決定的な違いは、「統一奴国」がスサ ノオというカリスマ的な大王の下に、それぞれ文化の異なる民族が、半ば 屈服される形で統一国家を形成していたのに対して、垂皇の時代は、中央 と地方の分権を認めた平等関係であり、「邪馬台国」より、さらに一歩進 んだ連合国家であったことである。 従って、スサノオの死によって崩壊した「統一奴国」であったのだが、 「大和」を首都とした連合国家は、天皇の死による影響やバランスの崩れ はなかったのである。天皇と地方王との関係も、「俺とお前」の仲であっ たはずだ。 ただし、文化的水準は扶余族の落とし文化もあって、「大和」が地方を リードしていったに違いない。 仮に、スサノオの時代を、「織田信長」の時代とすれば、垂仁の時代を 「秀吉」時代の始まりと考えれば、理解しやすいと思う。 巨大前方後円墳は、近畿地方ほどでないにしろ、地方でもよく見られる が、「大和」で発生した前方後円墳が、地方へも流行していった結果であ ると思う。 一説には、大和朝廷から許された豪族のみが築造できたというが、あの 独特の形態が、地方豪族の興味の対象になっただけだと思う。 ただし、前方後円墳の築造は、技術的にも労力的にも困難を要し、おい それとできるものではない。前方後円墳の築造のできる地方は、大和並の 国力を有していたと考えなければならない。 そして、あの形態は、何かしらの意味があるはずであると思う。 8. 葛城王朝の終焉 さて、ここで欠史八代と言われる、綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝 霊・孝元・開化の八人の天皇について、あらためてふれておきたい。 この章の初めでは、この王朝は、孝昭一代であるように記したが、綏靖・ 安寧・懿徳はともかく、孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化は、崇神朝に先立 ち並立して、葛城を本拠地として勢力を張った大王であったと、考えてい る。 孝昭は、葛城の「出雲国」で「尾張氏」と結びつき大王になった人物で あろうが、後の四人はどうであろうか。 『日本書紀』によれば、孝安の后方は、尾張氏系の色が濃いが、孝霊・ 孝元・開化の后方の順に、物部氏系に傾倒していく。 このあたりにも、「尾張氏」が「物部氏」との政権抗争に敗れ、その地 位を剥奪されていく様子が見てとれる。 孝昭・孝安と葛城で二代続いた、「尾張氏」中心の政治も、「物部氏」 介入による呪術政治に押され、孝霊に至っては、その政権は徐々に「物部 氏」に移ったのである。 しかし、孝昭・孝安・孝霊・孝元の四人に「孝」の文字が与えられてい ることから、孝元までは、孝昭系の政権、すなわち「尾張氏」も政治の中 枢にいたものと思われる。開化では、もう完全に「物部氏」一色であるよ うに読める。 葛城王朝の政治中枢が、「尾張氏」から「物部氏」に移り変わっていっ たことは、統治権力も、葛城王朝から原大和朝廷へと移行していったと言 うことである。 そして、開化までの葛城王朝が、崇神の大和朝廷と並立しており、それ でもどちらかと言えば、まだ葛城王朝のほうが、原大和朝廷を一歩リード していたのに違いない。それは、吉備王朝・出雲王朝といった、より勢力 の大きい周辺諸国と結んでいたからであろう。 ところが、度重なり受けたゲリラ戦の痛手に加え、扶余の亡命貴族の軍 事応援により、原大和朝廷が他国を圧倒する力を持ってしまったのである。 これでは、葛城王朝と友好関係にあった周辺諸国も、原大和朝廷につか ざるを得ない。 葛城王朝の最大なる政策の失敗は、垂仁の御代、本家「出雲国」が、原 大和朝廷に下ってしまったことを、阻止できなかった点にある。 「出雲国」自体は、東出雲と西出雲に分かれて、内乱状態にあったのだ が、東出雲が、原大和朝廷の協力を得て、西出雲を制圧してしまったため、 「出雲国」が原大和朝廷に参加する形になってしまい、もともと「出雲国」 を母胎としていた葛城王朝は、完全に孤立無援になってしまった。 葛城王朝の選択は、戦争か軍門に下るかしか残っていないのだが、実権 が崇神朝に移ってしまっている状況では、戦争に及んだとしても、それは もはや謀反でしかなく、大義名分がたたない。葛城王朝も原大和朝廷に参 加する以外方法がなかったのである。葛城王朝の命運は、これにてついて しまった。 葛城王朝最後の天皇は、開化であるが、大和朝廷に国を開き、同化した から開化天皇なのだろう。 『垂仁紀』で、垂仁の皇后の兄・「狭穂彦王」(さほびこおう)が謀反 を企てるが、「狭穂彦王」は、開化天皇の息子であり、葛城王朝の復権を、 垂仁の暗殺に賭けたのだと思う。 葛城王朝は継承されなくなり、「葛城国」は、「狭穂彦王」の死により 衰退して行くが、後の応神天皇の時代には、一大勢力として復活してくる。 このわけは、応神の出自の秘密と大いに関係があるし、このことが、「尾 張氏」の先導であったことは、次章以降のストーリーで展開していくつも りである。 1999年10月 第4部 了 |