真説日本古代史 本編 第三部 人皇の時代 1.欠史八代 神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化・崇神、これ らは、漢風な天皇名であり、弘文天皇の曾孫・淡海の真人・三船が、淳仁 天皇の命令によって、746年につけたものだということになっている。 従って、『日本書記』には、本来和風な天皇名だけで書かれている。 例えば、神武天皇は「神日本磐余彦天皇」であり、崇神天皇は「御間城 入彦五十瓊殖天皇」(みまきいりひこいにえすめらみこと)といったぐあ いである。 実は、この漢風天皇名自体が、ある種の暗号であるとさえ言われており、 『日本書紀』の謎を、ますます深めてくれるばかりである。 ただし、天皇という称号は天武天皇以降のことと考えている。 それ以前は「大王」あるいは、別の称号であったはずであろう。ただ、 混乱を避けるため『日本書紀』に記述通り、今後も天皇と記述していきた い。 神武から、崇神の間の八代の天皇は、実在しないというのが定説であり、 一般に欠史八代と呼ばれている。これは、この八代の天皇に関する説話・ 物語の記述がなく、皇室の系譜のみを記しているからであり、また、この 八代の天皇の和風名には、七世紀以降の天皇の和風名と共通しているもの が多く、実在性を疑われているのである。 しかし、鳥越憲三郎氏のように、神武から開化天皇までを、葛城王朝と して実在したという説もあるのだが、欠史として捨ててしまうのも、全部 を認めてしまうのも、ともに行き過ぎのように思う。 『魏志倭人伝』は、邪馬台国時代に、三十余国の存在を記述しているの で、それらの首長や大王として同時存在的に考えた方が、無理がないので はなかろうか。そこには、血縁関係がないものも当然あったことであろう。 実際、崇神天皇の代に近づくにつれ、系譜も詳しくなっており、開化天 皇に至っては、決して欠史などとは言えないだろう。 ちなみに、神社伝承学は、これら八代を血縁関係をもって実在したもの としているが、その系譜からみても、全部が実在したとは言えないし、そ の血縁関係もおおよそ考えられない。しかし、『記紀』ともに「ハツクニ シラススメラミコト」と記す、第十代・崇神の実在性は、断定できないま でも認められているし、異論はない。 『日本書紀』は、初代・神武も「ハツクニシラススメラミコト」と記し ているが、畿内政権の初代は崇神であろう。 では、神武は架空の天皇かというと、決してそうではないと思う。 崇神にしても神武にしても、天皇の称号は後代につけられたものであろ うから、大王と呼んだほうがより良いのだが、神武のモデルが、ホアカリ であることは、第一部で証明済みである。 実は、神武=ホアカリの正体にさらに迫るためには、崇神の正体を明ら かにする必要があるのだ。 『日本書紀』では、神武以下、天皇の都をすべて大和にしているが、こ れに異論をはさみ、神武・崇神の素性を明らかにしてみたい。 『記紀』をみれば、天皇家の基礎となった勢力が、九州地方よりやって きたことは否定できない。九州地方以外の地からやってきた勢力や、土着 の勢力であれば、『記紀』に、神武東征説話などを、取り入れる必要がな いからである。 実在した天皇と言われている、崇神の活躍時期は、三世紀〜四世紀初頭 にかけてと比定されているが、これは、『古事記』に記されている、 崇神の干支崩御年から、導き出されたものである。それによれば、崇神は、 戊寅一二月に亡くなっている。戊寅の年を318年と解釈すれば、崇神の 活躍時期は、三世紀〜四世紀初頭となる。しかし干支は、60年周期で同 じ干支になるので、戊寅の年を378年、あるいは258年にも比定でき ることになる。 ヒミコが亡くなり、「旧奴国」の侵入により、「倭」が再び戦国時代に 突入していったのが、私見では241年頃である。247年には「旧奴国」 の「臺与」を女王に立てることにより、「旧奴国」は、かつての「統一奴 国」に返り咲いている。 そして266年、「臺与」は「晋」に朝貢している。 仮に崇神の崩御年を258年とすれば、崇神朝の時代と、「邪馬台国」 の時代はぴったりと一致してくる。ただし、崇神朝が、そのまま「邪馬台 国」である、と言っているのではない。崇神が、「邪馬台国」のあった時 代に、活躍していた可能性も考えられるということだ。 そう仮定した場合、おもしろいことに気付きはしないだろうか。 『魏志倭人伝』に記された、「邪馬台国」の官の名は、「伊支馬」(い きま)であり、副官は二人いて、それぞれの名は、「弥馬升」(みましょ う)、「弥馬獲支」(みまかき)である。崇神は「御間城入彦」であり皇 后は、「御間城姫」である。「弥馬升」・「弥馬獲支」と「御間城」は、 そっくりであり、「御間城」は「みまじょう」とも読める。さらに、第十 一代・垂仁天皇の名は「活目入彦五十狭茅天皇」(いくめいりひこいさち のすめらみこと)であり、「伊支馬」と「活目」もそっくりだ。 やはり、崇神朝=「邪馬台国」なのか。これこそ、「邪馬台国」=大和 説を支持する学者らが、諸手を振って喜びそうな検証なのであるが、決し て、そうは思わない。『魏志倭人伝』を普通に読めば、間違いなく「邪馬 台国」は九州地方にしか存在しない. しかし、この三人は、間違いなく同一人物だ。一人だけならともかく、 三人とも名前がそっくりというのは、とても偶然では片づけられないから である。 2.邪馬台国と大和 結論を先に述べてしまうと、241年頃から本格化した「旧奴国」との 戦争を避け、連合国の首都「邪馬台国」を捨て脱出した勢力が、大和地方 に落ち延び、その地で自治権の確保をした。それが畿内政権である。 『日本書紀』には、「奈良」という表記はほとんどでてこないが、『風土 記』や『日本霊異記』には、「那良」や「諾楽」がたびたび、表記されて いる。発音はともに「なら」なので、古代よりこの地方は「ナラ」と発音 されていたことがわかる。 古代日本では、国のことを「ラ・マ・ヤ・ナ」と発音していたことを、 言語歴史学者の加治木義博氏として紹介済みだが、「ナラ」の「ラ」も、 当然、「国」の発音であることは、疑いないところであろう。そうであれ ば、「奈良」は「奈国」であることになる。すなわち、『魏志倭人伝』に て、「奴国」と当て字された国のことだ。 ヒミコの死後、「難升米」が暫定的に、大王として立ったものの、連合 各国の納得を得られず、各国は再び独立の動きをみせた。 そのうちに「旧奴国」が首都・「邪馬台国」へ侵入してきた。各国入り 乱れての戦争になることは、誰の目にも明らかだ。事態の収拾に苦慮した 「伊支馬」・「弥馬獲支」・「弥馬升」等は、自らの保身からか、「邪馬 台国」を捨て、戦争に反対する和平派を引き連れ、瀬戸内海を通過し、大 和に落ち延びたのだ。おそらく、この脱出コースは、『記紀』の神武東征 で、生駒山にたどり着くまでの記述と、ほぼ一致するものであろう。大和 にたどり着いた一行は、土着民とあるいは敵対、あるいは融合し、その地 に建国の基礎を築いたのである。 彼らは、かつての「統一奴国」分裂後、ミケヒコらを追放した、いわゆ る、「奴国」の邪馬台国連合推進派であろう。新天地を「奴国」としたの である。紛らわしいので「新奴国」とするが、大和(邪馬台)とは「首都」 の意味であったので、「新奴国」の首都、それが大和なのである。 従って、「奴国」の大和が正しい。 私見では、「弥馬獲支」は崇神であり、皇后は、「弥馬升」で「御間城 姫」、「伊支馬」(以下、イクメ)が垂仁である。 「弥馬升」と「弥馬獲支」は、逆かもしれないが、今後も「弥馬獲支」 (以下、ミマキ)を崇神とする。 官である、イクメをさしおいて副官のミマキが、なぜ先に天皇になった かは不明であるが、推察するに、ミマキは軍事顧問だったのだと思う。 新天地を制圧するには、武力が絶対必要だからである。 軍事顧問のいなくなった「邪馬台国」が「旧奴国」に落ちるのは、時間 の問題だった。その後数年して、連合国は崩壊し、「旧奴国」による新た な「統一奴国」が成立している。 ミマキは、崇神朝こそ「奴国」と自負していたので、九州の「統一奴国」 を相変わらず「旧奴国」と呼んだに違いない。それが、「旧奴のやつら」 「熊族」であり、「旧奴国」以前にその地に住み着いていた「阿蘇族」と 混同され「熊襲」と呼ばれたのであろう。 ミマキが「奴国」の国号に、こだわった理由はなぜか。それは、「倭」 の地で「奴国」だけが、「漢」に始まり、その時々の中国から、唯一、認 められていた国家だったからである。事実、『旧唐書倭国伝』・『新唐書 日本伝』・『宋史日本伝』には、この辺の事情が、明確に記されている。 「倭国は、古の倭奴国なり」・・『旧唐書倭国伝』 「日本は、古の倭奴なり」・・・『新唐書日本伝』 「日本国は本、倭奴国なり」・・・『宗史日本伝』 『新唐書日本伝』や『宗史日本伝』は、国号を「日本」と、変えたこと について記しているものだが、中国の認識は、「奴国」で一貫している。 「奴国」を名乗らければ、中国との正式な外交権は、得られなかったの である。 「邪馬台国」は「首都」であり、国家ではないので、邪馬台国連合も、 ある意味では「統一奴国」に違いなかろう。 現在の大和地方に、「新奴国」を建国し、大和朝廷の基礎を築いた崇神 ことミマキであるが、大和入り後は、『日本書紀』の崇神紀に記されてい ることに異論はない。しかし、その記述には、少なからず問題があるので、 追って検証していくことにしよう。 さて、その後の「邪馬台国」なのだが、「臺与」を女王に立て、「奴国」 は再び統一したのであるが、それまでには、重大な事件が起こっていた。 「魏」の軍事顧問・「張政」と魏軍を引き連れ、「邪馬台国」にやって きた「難升米」は、旧奴国王・ミケヒコの軍勢により、首都・「邪馬台国」 が、すでに壊滅状態であることを知った。しかも、連合各国入り乱れ、独 立を賭けて戦争している有様であり、敵は、旧奴国軍だけではなかったの である。しかも、「邪馬台国」の中枢を成していた、「奴国」の上層部・ ミマキらは、自国に引き帰り脱出の準備を始めていたのである。 3.『記紀』に記されていた「邪馬台国」の最後 ここからの出来事は、『記紀』に明確に記されている。まさか、そんな ことがあろうはずがない。まして、『記紀』には、「邪馬台国」の記述が いっさいないではないか。と反論する読者も多いことと思われる。しかし ながら、「難升米」が『記紀』で、どういう人物として登場するかが判れ ば、事実がどのようにすり替えられているかが、いっきに判明するのであ る。 今までのところ、「難升米」には、ふりがなを振っていなかったが、そ れには、ちゃんとした理由がある。 「難升米」は「ナシメ」・「ナンショウマイ」・「ナンショウメ」など と発音されているようであるが、『記紀に邪馬台国を読む』の著者である 永井寛氏は、その著書の中で、母音の共通性から「難升米」の正体を見抜 いている。それを次に紹介しよう。 「難升米」:NAN−SHO−ME 「長髄彦」:NAGA−SU−NE−HIKO(以下、ナガスネヒコ) 何と、「難升米」はナガスネヒコだというのである。 ナガスネヒコといえば、神武東征において「大和」で神皇に抵抗し、殺 された男である。『日本書紀』では、ナガスネヒコは、ニギハヤヒに斬ら れたと記述するが、ニギハヤヒの非存在性は、第一部で述べた通りである ので、『先代旧事本紀』の記述のほうが信憑性が深い。 それによれば、ナガスネヒコを斬ったのは、「可美真手命」(うましま じのみこと、以下、ウマシマジ)であるという。 ウマシマジは『魏志倭人伝』に記述されるところの、誰であろうか。 やはり、母音の共通性から、 ウマシマジ :(U)MA−SHI−MA−JI 「都市牛利」: TU−SHI−GO−RI となり、ウマシマジは、『魏志倭人伝』の、「都市牛利」であった。 これも、永井寛氏の説なのだが、「都市牛利」は、今までに紹介してき ていないが、『魏志倭人伝』によれば、「難升米」と、第一回目の「魏」 への使節として同行している。 ナガスネヒコ、ウマシマジは、『記紀』の神武紀に登場する。従って、 「邪馬台国」の末期の様子は、神武紀として『記紀』に記述されているこ とになる。神武が攻めた都は、近畿の大和ではなく、ナガスネヒコのいる 九州連合国の首都・「邪馬台国」であったのだ。 さらに永井寛氏は、その著書の中で、武智鉄二氏の『古代出雲帝国の謎』 を紹介し、 「歌舞伎への深い造詣をもとに、『魏志倭人伝』に登場する「難升米」 はナガスネヒコと読めると指摘している。」 という一文を載せ、とどめを刺している。 「邪馬台国」を最後まで守り抜こうとしたのは、「難升米」=ナガスネ ヒコであった。『記紀』にも大和の明け渡しに、最後まで抵抗したのは、 ナガスネヒコであったと書いてある。つまり、『記紀』に書かれている、 神武天皇とナガスネヒコとの対決を、登場人物を読み替えることにより、 それこそ、「邪馬台国」の最後の時が、記述されていたとわかるのである。 「難升米」=ナガスネヒコ、「都市牛利」=ウマシマジであれば、大和 を攻めた神武は、「邪馬台国」を攻めたミケヒコ=「卑弥弓呼」となる。 神武の本名は、「三毛野命」(みけぬのみこと)である。火のミケヒコは、 『記紀』で神武とされた人物であったのだ。 『記紀』に添って、「邪馬台国」の最後の時を追ってみよう。もっとも、 神武東征の前半部分は、崇神の大和入りの記述であろうから、ここで論ず ることではない。 「旧奴国」の軍隊を率いて、ミケヒコが「邪馬台国」に侵入してきた。 「邪馬台国」の軍もよく鍛えられた精鋭であったのだが、官が逃げ出して しまっては、統率力に欠けるものであった。しかも、ミケヒコはもともと の奴国領を取り戻そうと必死であった。 勝負はおのずから見えていたはずだ。邪馬台国軍は、どんどん蹴散らさ れていったのである。邪馬台国軍が、窮地に立たされていると知った連合 各国は、独立か援軍を出すかの選択を迫られていた。ある国は「旧奴国」 を歓迎し、またある国は「邪馬台国」の援護に回った。 このあたりのことは、「高倉下」・「八咫烏」・「兄磯城」・「弟磯城」 などのの説話として記されている。 しかし、その皆無なしく、「邪馬台国」は、旧奴国軍の前に壊滅状態で あった。 そんなときに、伊都国王・ナガスネヒコが「邪馬台国」にやってきたの である。 ナガスネヒコは、ミケヒコに使いを送り次のように言上した。 「昔、天神の御子が天の磐船に乗って天降られました。名をスサノオ尊 と言います。私は、スサノオ尊を神として仕えてきました。いったい天神 の子は二人おられるのですか。どうしてまた、天神の子と名乗って人の土 地を奪おうとするのですか。手前が思うにそれは偽物でしょう。」 ナガスネヒコは、「統一奴国」を成し遂げたスサノオただ一人が、天神 であると疑っていなかったのである。 ナガスネヒコは、幼少の頃から、伊都国王としての教育を受けていたの だろう。スサノオによる「統一奴国」の歴史、「統一奴国」分裂から連合 国となった歴史など、当然知っていたものと思われる。 もしかしたら、スサノオが出雲政庁をうち立てた頃の、九州地方のオオ クニヌシは、代々の伊都国王であり、倭国大乱がなければ、順当にナガス ネヒコがオオクニヌシの職につき、スサノオ亡き数代後の、奴国王となっ ていたかもしれない。 しかし、倭国大乱後の連合国成立により、ヒミコが女王として立った。 それにより、先代の伊都国王は「邪馬台国」の重臣に納まったのであろう か。「伊都国」は「統一奴国」分裂後の、連合推進派の一角を担っていた ことは間違いない。ヒミコを推薦したのも、伊都国王であったのかもしれ ない。 「魏」との外交を成功させ、「魏」から正式に「卒善中郎将」の位を授 かったナガスネヒコである。「邪馬台国」への忠誠心は、並々ならぬもの であったことと思う。 そんなナガスネヒコの元へ、ミケヒコから返書を持った使者が戻ってきた。 ミケヒコ曰わく、 「天神の子は多くいる。お前がスサノオ尊を神として仕えてきたのなら 必ずそのしるしのものがあるはずだ。それを示しなさい。」 ナガスネヒコは、「伊都国」に代々伝わるオオクニヌシ任命のしるしを 示した。『日本書紀』は、これを「天の羽羽矢」と「歩靫」であると記す が、私は、「十種の神宝」(とくさのかんだから)であると思う。 スサノオの孫であるミケヒコも、当然同じものを持っていた。ミケヒコ は、祖父・スサノオに対する、ナガスネヒコの気持ちを、粋に感じたこと であろう。住む土地は違っていても、もとは「統一奴国」という同郷の人 間なのだ。 ミケヒコは、私利私欲に目がくらんでいた先代たちを恥じた。そして、 争うことしか方法の見つけられなかった自分を責めたことだと思う。 そんな折りに、「魏」の軍事顧問である「張政」がミケヒコに面会を求 めてきたのである。横にいるのはウマシマジであった。「張政」が伝える ところによると 「ナガスネヒコは、ウマシマジが斬った。これで『邪馬台国』に貴殿に 逆らうだけの力のある者はいない。このあたりで、今まで通り女王を立て る条件で和睦してもらえないだろうか。」 争いを恥じていたミケヒコであった。ナガスネヒコの死には憤りを感じ たものの、条件に依存はなかった。ウマシマジは「物部」の部下たちを引 き連れミケヒコに帰順した。 この時の女王「臺与」は、ミケヒコの孫か曾孫であり、もちろんヒミコ の血縁でもある。『古事記』のいう「伊須気依媛」(いすけよりひめ、以 下、イスケヨリヒメ)ではないだろうか。 4.謎の人・「伊聲耆掖邪狗」 余談になるがイスケヨリヒメは、『古事記』で神武天皇の大和での后と 記されているが、『日本書紀』では、それを「五十鈴媛」(いすずひめ) としている。 「臺与」をイスケヨリヒメに比定した理由は、改めて記述したい。 ナガスネヒコと神武の対決は、奈良の大和で起こったものではない。 神武は、大和で即位したわけでもない。それが証拠に、神武を祀る橿原 神宮は、明治以降に建設された神社であり、神武の存在そのものが、『記 紀』の中でしか証明することができないではないか。 しかし、神武のモデルが、旧奴国王・ミケヒコであることが、「難升米」 =ナガスネヒコから判明することにより、神武の攻めたナガスネヒコのい る大和は、九州の「邪馬台国」であることがわかった。 しかも、神武=ミケヒコであるということは、ミケヒコ=ホアカリでも あるわけだ。 ホアカリは『先代旧事本紀』によれば、「物部氏」の祖であるニギハヤ ヒと同一人物であるが、これは、ウマシマジがミケヒコに帰順することに より 自らの祖と仰ぎ成立した伝承だと思う。 さて、『魏志倭人伝』には、今までに携わってきた人物以外に、もう一 人重要な人物が登場している。ほとんど問題にしていなかったが、「張政」 ら帯方郡まで送っていった「掖邪狗」である。 まず、これまでに触れてきた人物を整理してみよう。名前の左の称号は、 「魏」から与えられたものである。 「親魏倭王」 「卑弥呼」 「卒善中郎将」「難升米」(ナガスネヒコ) 「卒善校尉」 「都市牛利」(ウマシマジ) 「卑弥弓呼」(ミケヒコ) 「臺与」(イスケヨリヒメ) 『魏志倭人伝』には、これらの人物以外に「掖邪狗」が登場している。 正治四年(243)に、魏に朝貢のために訪れた「伊聲耆掖邪狗」である。 今日の学説では、「伊聲耆」と「掖邪狗」を二人の人物とするのが一般的 であるが、『魏志倭人伝』に記述から推察するに、これは一人であろう。 「難升米」と「都市牛利」の記述は、『大夫難升米次使都市牛利』と明確 に二人と記しながら、「伊聲耆掖邪狗」の記述は、『大夫伊聲耆掖邪狗等 八人』と記すように、どうみても「伊聲耆掖邪狗」という一人の人物であ る。 この人物もまた「卒善中郎将」に任命されており、「邪馬台国」の大夫 として、「魏」に赴いていることから、「難升米」に匹敵する人物であっ たと言えよう。 発音は、「いせきえきやく」が通説であるが、前述の永井寛氏は、「い ほきいやひこ」ではないかと述べている。 「いほき」と言えば、『魏志倭人伝』に、邪馬台国連合の一国として、 「巳百支国」が記載されているので、「伊聲耆掖邪狗」(以下、イホキイ ヤヒコ)が、この国の出身であろうことは理解できよう。 『親撰姓氏録』による「五百木」・「伊福」姓は、「五百木部君」ある いは、「伊福部連」と書いて、「尾張連」の同族であるという。つまり、 「物部氏」も「尾張氏」も、その前身は、「統一奴国」の構成員であった ことになり、「奴国」分裂後は、「邪馬台国」側に位置していたことにな る。 しかも、ウマシマジは次使として、イホキイヤヒコは大夫として、「魏」 に赴いたのであるから、「邪馬台国」における地位は、官であるミマキ= 崇神天皇よりも上であったと言えるのではないだろうか。 外務大臣や総理大臣が外交をすることがあっても、県知事が外交をする ことはないからである。 それでは、イホキイヤヒコが誰であったか、証明する手だてはあるのだ ろうか。問題は、「掖邪狗」の部分にあたる、イヤヒコという名前である。 新潟県西蒲原郡弥彦村に、越後の一宮である彌彦神社(やひこじんじゃ) という式内社がある。この神社の祭神が「伊夜比古大神」(いやひこおお かみ)であり、越後開拓の祖神だ。このままでは「伊夜比古大神」と「尾 張氏」とは結びつかないが、「伊夜比古大神」とは、アメノカグヤマの別 名であるというのだ。アメノグカヤマとは、国宝・『海部氏本紀』によれ ば、「尾張氏」の祖神・ホアカリの子である。 ホアカリはミケヒコでもあるので、アメノカグヤマとミケヒコの間に、 一見、血縁関係は無さそうに思えるが、この当時の婚姻形態を考えてみる と、自分すら気づかない親子関係も、相当存在していたものと思われる。 というのは、当時は夜這いに代表されるような、男が女のもとに通う、 妻問いで婚姻関係が成立し、生まれた子は母方によって育てられ、財産・ 地域地盤は母方のものを継承し、先祖は父方のものを継承していくという 一風変わった母性系社会であった。 現代の父性系社会で生活している私たちには、ちょっと考えにくいが、 鎌倉時代くらいまで、この婚姻関係は残っていたらしい。『日本書紀』に は、オオモノヌシの妻となった「倭迹迹日百襲姫命」(やまとととびもも そひめのみこと、以下、ヤマトトトビモモソヒメ)の言葉を次のように記 している。 「あなたはいつも昼はおいでにならぬので、そのお顔を見ることができ ません。どうかもうしばらく留まって下さい。朝になったらうるわしいお 姿を見られるでしょうから。」 これなどは、当時の婚姻関係を推察するのには、充分な記述であろう。 従って、ミケヒコとアメノカグヤマの親子関係は、肯定はできないまでも、 否定は難しいはずだ。成人したミケヒコが国境を越えて、「巳百支国」ま で妻問いをしたことは、充分考えられるのである。 もっとも、この当時に明確な国境などあろうはずもなく、『魏志倭人伝』 にも、「巳百支国」を含む二十一国は、遠方であったり、近くにあっても 敵国であると記しているので、「旧奴国」と「巳百支国」は、意外にも隣 接していた国だったのかも知れない。 「巳百支国」は、「邪馬台国」との距離から中立を保っていたのかも知 れない。 では、アメノカグヤマが「邪馬台国」の使者として、「魏」に遣わされ たのはなぜだろうか。 これはもはや想像でしかないが、アメノカグヤマの母であるアメノミチ ヒメが、宗像系のスサノオの娘・タグリヒメの系譜だと思われるからだ。 古代では、空と海が水平線で繋がっていることから、海の彼方から来る ものは、天から来るものと考えていた。アメノミチヒメの「天」は、「海」 であり、文字通り「海の道」である。 この名は、航海の女神を連想させるものである。宗像神も航海上の守り 神であり、共通点がある。もう一つ述べさせてもらえば、「巳百支国」に 草薙剣が伝承されていた可能性である。五百木姓と尾張姓は同族である。 現在、尾張の熱田神宮に草薙剣が、伝承されていることから、遡って考え れば、その前身とも言える「巳百支国」に、草薙剣が伝わっていたと考え ることに無理はなかろう。スサノオが手に入れた草薙剣は、母性社会の中 で、母方から娘へ、娘へと伝えられていたのではないだろうか。 後の世で、「三種の神器」の一つにあげられる草薙剣である、そのスサ ノオの分身とも言える剣が、「巳百支国」に伝承されていたとすれば、そ の意義は大きい。 アメノカヤマを選んだのは、倭王・ナガスネヒコであろう。スサノオの 御霊に託して、「魏」の軍団をつれてくるという、最後の賭けに挑んだの である。 確かに、「魏」の軍団はやってきた。ただし、あまりに遅すぎた二年後 である。 また、『魏志倭人伝』に記されている、ヒミコに仕えていた男弟も、ア メノカグヤマであるのではないか。 「邪馬台国」は、軍事顧問で官のミマキが脱出してしまい、防衛能力は 皆無に近かった。「邪馬台国」への旧奴国軍の侵入により、連合各国は、 自国防衛のため独立戦争の真っ最中である。「旧奴国」による統一しか、 戦争を終結 させる術はなかったのである。 『記紀』では、神武東征の際、「高倉下命」(たかくらじのみこと、以 下、タカクラジ)が、「ふつのみたまの剣」を献上している。タカクラジ は、他ならぬアメノカグヤマである。『先代旧事本紀』を始め、神社伝承 学でも証明されているので、間違いはあるまい。 神社伝承学における「ふつのみたま」とは、石上神宮に伝わる「剣の霊」 であり、スサノオがヤマタノオロチを斬った剣であるというが、実際には 「草薙剣」ではあるまいか。ミケヒコは、「草薙剣」を目の当たりにして、 それが、自身の祖父スサノオのものであったことを知った。当然、アメノ カグヤマに対して、その謂われを問うたことであろう。そしてアメノカグ ヤマもまた、ナガスネヒコ同様「十種の神宝」の所有者であったのである。 古来から、近畿地方の最奥の秘境として、信仰を集めていた玉置神社に は、『玉置文書』なる古文書が存在する。 それについて、古代文書研究 家の吾郷清彦氏が解説されている。(『さすら』平成六年十一月号) 玉置山に神社を創建したのは「玉置峯直」(たまきのみねのあたい)で あり、その出自の説明によれば、 「玉置峯直はニギハヤヒの孫で、天手栗彦命の後であり、尾張連の遠祖 である。玉置峯は手栗彦命の居ますところである。 天手栗彦命は、またの名を天香語山命と言い、またの名を高倉下命であ り、物部連の遠祖である。」 この伝承自体は、「物部氏」と「尾張氏」を同族と位置づけているので、 ニギハヤヒとホアカリは同一神ということになり、「物部氏」と「尾張氏」 が連合した大和時代以降のもの(理由は後述)と思われるが、アメノカグ ヤマに、「手栗彦」という別名があったという伝承は、アメノカグヤマが、 スサノオ娘・タグリヒメの系譜であったという私見に、真実味がでてくる。 「手栗彦」は、「テグリヒコ」あるいは「タグリヒコ」であろう。 この名から推測しても、同系譜であろうと思われる 。 さらに、『玉置文書』は「十種の神宝」についても記している。『先代 旧事本紀』によれば「十種の神宝」とは、 「沖都鏡」(おきつかがみ) 「辺都鏡」(へつかがみ) 「八握剣」(やつかのけん) 「生玉」(いくたま) 「死反玉」(まかるかえしのたま) 「足玉」(たるたま) 「道反玉」(ちがえしのたま) 「蛇比礼」(へびのひれ) 「蜂比礼」(はちのひれ) 「品物比礼」(くさぐさのもののひれ) とあり、続いて、 「ひふみよいむなやことと言って、ふるへ。ゆらゆらとふるへ。」 と唱えれば、死者も蘇るという。 これは、「物部氏」の秘宝として、現在も奈良の石神神宮に存在すると いうが、玉置山にも埋葬されているというのだ。玉置の由来は、「十種の 神宝」を安置したことによるものであるらしい。 「十種の神宝」は、「三種の神器」以前の皇位継承のしるしであるらし いが、このように、「十種の神宝」自体数多く存在したようであるので、 広い意味でのスサノオ族の証明みたいなものであろうか。つまり、スサノ オから認められた首長や、スサノオの親族に、同族の身分証明として授け られていたと考えられる。それが、代々伝承されていたのだ。 玉置神社の創建は、崇神の御代であるらしく、「十種の神宝」を玉置山 に埋葬したことが、その始まりであるならば、石神神宮に伝承される「十 種の神宝」以外は、その役目を終えたことになる。しかもそれが、崇神の 御代であるということは、大変重要な証言でもある。一つの「十種の神宝」 だけが、皇位継承のしるしとして、伝承されていくのである。 石神神宮は「物部氏」の神社であると同時に、天皇家の武器庫でもあっ たらい。そこに、「十種の神宝」が現存するというのなら、皇位継承のし るしとなった「十種の神宝」は、「物部氏」の所有していたものだったこ とになる。 結局、政権争いで勝ったのが、「物部氏」であったということだ。 話が脱線していったが、ミケヒコは、ウマシマジを筆頭にする「物部」 の軍やアメノカグヤマ等とともに、「奴国」を統一した勢いに乗じて、九 州地方を後にした。それは、さながら「統一奴国」を成し遂げたスサノオ を彷彿とさせるものであったに違いない。 5.崇神天皇と戦った神武天皇 『記紀』によれば神武は初代天皇、崇神は第10代天皇であるが、この 二人が同時代人であることは、今までのストーリーで、おわかりいただけ たことと思う。神武は旧奴国王・ミケヒコであり、崇皇は、「邪馬台国」 を脱出したミマキである。ミマキは、近畿地方に新たに「奴国」を建国し 大和(首都)を定めた。いわゆる、奈良の大和である。 とは言うものの、一方的に自治権を行使しただけであろうが。 ミケヒコは、九州地方で「旧奴国」の勢力により、再び、「統一奴国」 を成し遂げた後、ミマキのあとを追って、瀬戸内から大和に進軍した。つ まり、ミケヒコとミマキは、戦っているのである。これは、神武と崇神が 戦った、ということであるが、『記紀』のどこを読めば、それが書いてあ るのか、というお叱りを受けそうである。それを検証してみよう。 まず、『神武紀』である。 「九月五日、天皇は宇陀の高倉山の頂に登って、国の中を眺められた。 そのころ国見丘の上に、八十たけるがいた。女坂には女軍を置き、男坂に は男軍を置き、墨坂にはおこし炭をおいていた。女坂・男坂・墨坂の名は これから起きた。また兄磯城の軍は磐余邑にあふれていた。敵の拠点はみ な要害の地である。それで道は絶え塞がれて通るべきところがない。天皇 はこれを憎まれた。この夜、神に祈って寝られた。夢に天神が現れ教えて いわれた。『天の香具山の社の中の土を取って、平瓦八十枚をつくり、同 じくお神酒を入れる瓶をつくり、天神地祗をお祀りせよ。また身を清めて 行う呪詛をせよ。このようにすれば敵は自然に降伏するだろう』天皇は夢 の教えをつつしみ承り、これを行おうとした。その時弟猾がまた申し上げ るのに、『倭の国の磯城邑に、磯城の八十たけるがいます。また、葛城邑 に、赤銅の八十たけるがいます。この者たちは皆天皇にそむき、戦おうと しています。手前は天皇のために案じます。今、天の香具山赤土をとって 平瓦をつくり、天神地祗をお祀り下さい。それから敵を討たれたら討ちや すいでしょう。」 この後、椎根津彦と弟猾に命じて、天の香具山の土を取りに行かせてい る。さらに、兄磯城の軍を攻めようとするのであるが、まず使者を送って 兄磯城を呼んだのだが、兄磯城は答えなかった。そして、次にように続い ている。 「椎根津彦が計り事を立てて言うのに、『今はまず女軍を遣わして、忍 坂の道から行きましょう。敵はきっと精兵を出してくるでしょう。こちら は強兵を走らせて、直ちに墨坂を目指し、宇陀川の水をとって、敵軍が起 こした炭の火にそそぎ、驚いている間にその不意をつけば、きっと敗れる でしょう』と。」 これに対する内容が、次の『崇神紀』に記されているのである。 「九年春三月十五日、天皇の中に神人があらわれて教えていわれた。 『赤の楯を八枚、赤の矛を八本で、墨坂の神を祀りなさい。また、黒の楯 を八枚、黒の矛を八本で、大坂の神を祀りなさい』と。 四月十六日、夢の教えのままに墨坂神・大坂神をお祀りになった。」 そして、話は「武埴安彦」(たけはにやすひこ)の謀反へと続いていく。 「武埴安彦」の謀反を『崇神紀』は次のように記している。 「これは、武埴安彦が謀反を企てているしるしであろう。聞くところに よると、武埴安彦の妻吾田媛が、こっそりやってきて、倭の香具山の土を とって、頒巾のはしに包んで呪言をして、『これは倭の国のかわりの土』 といって帰ったという。これでことが分かった。速やかに備えをしなくて はきっと遅れをとるだろう。」と。そこで諸将を集めて議せられた。幾時 もせぬ中に、武埴安彦と妻の吾田媛が、軍を率いてやってきた。 これらの『崇神紀』と前の『神武紀』を読み比べてもらいたい。『崇神 紀』は守った側の記述として、『神武紀』は攻めた側の記述として、それ ぞれ立場を違えて、記述しているにすぎないことが、おわかりになるだろ うか。 ミケヒコは、ミマキが近畿地方に建国した「新奴国」の大和へ攻めこん だのだ。「武埴安彦」の妻・「吾田媛」(あたひめ)とは、神武天皇の日 向時代の妻、吾田邑の「吾平津媛」(あひらつひめ)に違いない。「新奴 国」のミマキが、勝手に「武埴安彦」の妻と思い込んだだけなのである。 『神武紀』の「忍坂」は『崇神紀』の「大坂」であり、「墨坂」はその まま「墨坂」である。 さらに、『神武紀』の「赤銅の八十たける」は、『崇神紀』の「赤の楯 を八枚、赤の矛を八本」であり、「磯城邑の八十たける」は、「黒の楯を 八枚、黒の矛を八本」に比定できる。「兄磯城」とは、もちろん磯城を都 にしたミマキ本人であろう。 問題は、『神武紀』の「椎根津彦」が『崇神紀』の「武埴安彦」でなけ れば、この説は成立しないのだが、「椎根津彦」は 「しいねつひこ」で あり、「武埴安彦」は「たけはにやすひこ」と読むので、別人にしか思え ない。「武埴安彦」の「武」の字は、美辞句なのではぶいてもかまわない だろう。 さて、「椎根津彦」は『古事記』では、「槁根津彦」(さおねつひこ) と記されている。しかし、ある『古事記』の現代訳本では、「はしねつひ こ」と訳されているではないか。この訳本を出版されている方は、東大国 文学科を卒業された文学博士でおられるので、現代訳に間違いがあるとは 思えない。 「はにやすひこ」 HANIYASUHIKO 「はしねつひこ」 HASINETUHIKO 母音からみた場合、これはどうみても同一人物である。単に聞き手の違 いから、別の字を当てられただけではないだろうか。『神武紀』9月5日 の「天の香具山の土・・云々」が「埴安」という地名の由来になったとい う『日本書紀』の記述も、見過ごせない。 ミケヒコは、最後まで「邪馬台国」を守ろうとして、死んでいったナガ スネヒコのこと思うと、自分の保身のみを考え、早々と「邪馬台国」を捨 てたミマキが、許せなかったのだろうか。 「奴国」を再び統一したミケヒコは、「新奴国」のミマキに対して、攻 撃を仕掛けた。おそらくこの戦いは、激しい攻防戦の結果、「旧奴国」の 勝利におわったはずである。そして、ある重大な取り決めをしたのである のだが。 前述した、“別の事件の内容も織り交ぜて編集した”という件は、この 神武と崇神の戦いのことである。つまり、神武東征神話は、「邪馬台国」 でのミケヒコとナガスネヒコの事件と、大和での、ミケヒコとミマキの事 件を、ひとつの事件のように編集しているのである。 さらに、同じ事件でありながら、『神武紀』と『崇神紀』に分けて記す ことにより、全然別の時代のように編集してある。この編集人が「藤原不 比等」であるならば、まさに歴史の天才である。「不比等」とは、この世 に比べる者がいない、の意味であろうが、本来は「史人」ではなかったか と思う。 さて、『日本書紀』による崇神の后は「御間城姫」である。これは、邪 馬台国時代のもう一人の官である「弥馬升」であろうことは、前述してい るが、次の妃は「尾張大海媛」(おわりおおあまひめ)である。 「尾張大海媛」は、『海部氏本紀』によれば、ホアカリの七世孫である 「建諸隅命」(たけもろすみのみこと)の妹だ。「建諸隅命」も、『日本 書紀』の崇神朝で活躍している。すなわち、「尾張氏」である。 重大な取り決めとは、まさにこのことに関係している。神社伝承学によ り、解明せられた大和朝廷の成り立ちを、思い起こして頂きたい。それに よれば、天皇は九州王家から、その皇后は出雲王家からだし、后方の親族 が政治を司るというものであった。この図式を当てはめてみると、天皇は ミマキの新奴国から、皇后はスサノオの系譜である、ミケヒコの「旧奴国」 からとなりはしないだろうか。つまり、ミマキを天皇とし、その政治を、 妃方である「尾張大海媛」と「建諸隅命」すなわち、「尾張氏」が司ると いうものである。 興味深いのは、『日本書紀』の崇神朝における、ヤマトトトビモモソヒ メの存在である。ヤマトトトビモモソヒメは、シャーマンのように記され、 ある学説では、彼女こそヒミコであるとまで言われているが、ヤマトトト ビモモソヒメの父は孝霊天皇、母は「倭国香媛」(やまとのくにかひめ) である。「倭国香媛」など、実名とは思えず信憑性に値しない。 ところが、孝元天皇と皇后「欝色謎命」(うつしこめのみこと)の間に、 「倭迹迹姫命」が記され、どうやら同一人物ではないかと思われるのだ。 「欝色謎命」は「穂積連」の祖である。「穂積連」は、「物部氏」からで ているので、「穂積連」の祖と言えば、「物部氏」なのである。従って、 ヤマトトトビモソソヒメは、「物部氏」と言える。もっとも、孝霊天皇・ 孝元天皇も実在の証明はできていないが。 結局、崇神朝の構成は、ミマキを天皇として、政は「尾張氏」が、祭は 「物部氏」が担当するというものだったのである。これが、「旧奴国」と 「新奴国」との間で交わされた取り決めであった。 なぜ、ミケヒコ自ら大王として立たなかったのだろうか。おそらく、こ の戦争の最中、ミケヒコは亡くなってしまったからだと思う。戦いに勝利 した「旧奴国」であるのだが。 6.「天日槍」 前章までに、『神武紀』と『崇神紀』に記されている共通の事柄から、 神武天皇と崇神天皇は、戦っていたことを証明してみせた。神武は、ミケ ヒコであり、崇神はミマキであった。 結局、この二人の戦いは、「新奴国」と「旧奴国」の戦いであり、日本 列島の覇者(と言っても、北陸を含む西日本に限られるが)であった、ス サノオが実現した「統一奴国」を受け継いだ者たちの、プライドを賭けた 戦いであったと言えると思う。 証明はしたものの、『記紀』のどこかにこれこそ戦いの証明だ、と断定 できるはっきりとした、つまり一読してわかる記述はないものだろうか。 残念ながら、『崇神紀』には前述したこと以上の大発見はなかったし、 あっても、せいぜい、これらも証明の手段にはなり得るかな、くらいの発 見でしかない。 先に進んで『垂仁紀』をみてみよう。ここでは、崇神の時代に、「大加 羅国」の人「都怒我阿羅斯等」(つぬがあらしと、以下、ツヌガアラシト) が「越」の「けひ」の浦に到着し、「角鹿」の地名の云われとなったとい う記述がある。 ツヌガアラシトに関しては、『日本書紀』が詳しく記しているので、こ こでは、ふれないが、このツヌガアラシトと、まったく同じと言っていい 記述が、別人にて『古事記』の『応神記』に記されている。 その人物は、「天日矛」(あめのひぼこ、以下アメノヒボコ、『日本書 紀』では「天日槍」)である。このことから、ツヌガアラシトとアメノヒ ボコは、紛れもなく同一人物であると言える。 『日本書紀』の『垂仁紀』でのアメノヒボコは、船に乗って「播磨国」 に到着している。「八種の神宝」を持参し、天皇に奉った。天皇は「播磨 国」の宍栗邑と、淡路島の出浅邑を与えたものの、アメノヒボコはこれを 拒否し、「近江国」の吾名邑にしばらく住み、「但馬国」を居としたとい うのである。この記述は、「近江国」から「但馬国」にかけてを、アメノ ヒボコが支配地域としたことに他ならないが、天皇の提案を無視しての、 この行動を、天皇が許したのだから、立場は天皇より上と考えざるをえな い。 アメノヒボコの記述は、『垂仁紀』・『応神記』であるのだが、ツヌガ アラシトが崇神の時代に訪れたとはっきり『日本書紀』に記述されている のだから、アメノヒボコが、崇神時代にやってきたことは疑いなかろう。 『垂仁紀』・『応神記』は具体的な時代を記述していない。 アメノヒボコは、『記紀』によれば、「新羅」の王子であるらしいが、 「新羅」からやってきたのであれば、わざわざ瀬戸内を抜け、「播磨国」 から上陸するであろうか。日本海側からの方がずっと利便であり、よほど 日本の地理に詳しくなければ、関門海峡を通過し、瀬戸内を通るという発 想は、生まれようはずがない。 瀬戸内を抜けて「播磨国」に上陸できる者の条件は、かなり限られてく る。それは、朝鮮半島に居たものではないはずだ。九州のどこか、あるい は、四国に限られると思う。今風に言えば日本人である。アメノヒボコは、 間違いなく日本人だ。いや日本生まれだ。 それではなぜ『記紀』は新羅人と記したのだろうか。これは、スサノオ が「新羅」から来たと記されたことと、大いに関係がある。『日本書記』 は、徹底的に親「百済」、反「新羅」の様相で記述されている。後の朝廷 にとって、都合の悪い歴史はすべて「新羅」、つまり、仮想敵国である。 スサノオは三貴神の一人であり、「尊」の称号を与えられながら、「新羅」 からの渡来人であるという『日本書紀』の記述は、スサノオの系譜を蔑視 したものである。 実際、スサノオは朝鮮半島・「伽耶」からの渡来人であり、今で言えば 難民であるのだが、スサノオの時代に「新羅」はまだ成立しておらず、こ じつけ以外の何ものでもない。 改 て後述するが、アメノヒボコの系譜に神功皇后がいる。『日本書記』 では、『神功紀』として皇后でありながら、他の天皇と同じ扱いをしてい る。これらのことから考えてみても、アメノヒボコは天皇家の祖とも言っ ても過言ではない。それにもかかわらずスサノオと同じような扱いをうけ ており、まさしくスサノオ系と言えるのではないだろうか。 アメノヒボコの神宝というものが、『記紀』に記述されている。『日本 書紀』から引用してみると、それは、「葉細の珠」・「足高の珠」・「鵜 鹿鹿の赤石の珠」・「出石の刀子」・「出石の槍」・「日の鏡」・「熊の 神籬」・「胆狭浅の太刀」である。 表現と数に違いがあるにせよ、「十種の神宝」そっくりだ。 アメノヒボコの記述は、何も『記紀』に限られたことではない。『播磨 国風土記』には、その地名の由来とともに、より詳しく記されている。 それによると、アメノヒボコは、八千もの軍隊を率いて、「播磨国」の 揖保川河口より上陸をこころみた。ところが、それを阻止する者がいた。 「葦原志許乎男」(あしはらにしこお、以下、アシハラノシコオ)である。 アシハラノシコオは、オオクニヌシ・オオナムチの別名のように言われ ているが、『播磨国風土記』は、この名に別の人格を与えている。つまり、 別人として区別している。 アシアハラノシコオの名は、もちろん人名などではなく、「葦原の優れ た人」の意味だ。アメノヒボコがやってきたのは、崇神天皇の御代である。 ずばり言って、アメノヒボコは「旧奴国」のミケヒコだ。このアシハラ ノシコオは、崇神天皇である。『播磨国風土記』は、『日本書紀』が曖昧 にした、アメノヒボコ=ミケヒコと崇神天皇=ミマキの戦いの歴史を記述 していたのである。 そして、アメノヒボコとスサノオを祖とするミケヒコとが、同一人物で あることがわかれば、新羅人とされた理由もおのずと判明するのである。 ミケヒコは、どうやら強行突破したらしく、次第に内陸へ進路を取って いる。ミマキは防戦一方であり、次々と国を奪われていく。もっともこの 頃のミマキの勢力は、せいぜい大和の三輪山山麓の小国(というより、勝 手に占領した自治区。この時代の国は、この程度のものと思われる)であ ろうから、ミケヒコの東征を知らされたミマキが、防衛のために西に向か い、「播磨国」でミケヒコの軍隊に遭遇したものの、圧力に押されて後退 していったというのが、真相ではないだろうか。 残念ながら、ミケヒコは「播磨国」での攻防戦の最中、亡くなってしま う。 『播磨国風土記』以外、アメノヒボコの足跡を詳しく記すものはない。 それは、「但馬国」で途絶えている。他にはわずかに、『記紀』のエピ ソー ドくらいである。 『播磨国風土記』によれば、アシハラノシコオとアメノヒボコは、葛篭 を蹴りあったという。ヒボコの葛篭は、すべて、「但馬の出石」に落ちた らしい。これぞまさに。アメノヒボコの魂が、この地に宿ったことを意味 し、「但馬の出石」で亡くなったのだと思うのだが。 『神武紀』では、神武本人を殺してしまっては、話が続いていかないた めか、神武の兄「五瀬命」が討たれたことになっている。 ミマキの「新奴国」を降伏させたのは、ミケヒコ亡き後の「尾張」と「物 部」の連合軍であろう。いずれにしても、ミマキは、「旧奴国」側の要求 を受け入れ、降伏するしか術はなかった。 降伏といっても、ミマキは大国・「奴国」の正式な大王の地位を手にし たのであるから、戦後処理としては、上々のできだ。 ミマキの外戚として、「尾張氏」・「物部氏」は「新奴国」の政祭権を 担当することになるのであるが、この天皇と外戚との力関係は、後々の時 代まで面々と続いていくのであるから、いかに重大な取り決めであったか が、判るというものだ。そして、このときから、「尾張氏」の祖神である ホアカリと、「物部氏」の祀るニギハヤヒとが、同殿に祀られることにな り、同一視されるようになったのだと思う。 「物部氏」はその本拠地を「河内国」に置き、「尾張氏」は葛城族と結 びつき、葛城山麓の高尾張邑を本拠地とした。 ただ、いつの時代も連合政権というものは、そう長続きするものではな いと思う。「尾張」と「物部」の力関係は、次第に、「物部」の独裁へと 移り変わっていくことになる。「十種の神宝」は、「物部氏」と「尾張氏」 の双方が、所有しているものであったのだが、皇位継承のしるしとしての 「十種の神宝」は、「物部氏」所有のものが継承された。これは、「物部 氏」が呪術集団であったことが起因していると思う。 このことは、「物部氏」が政祭の祭を司った理由でもあるのだが、占い や神懸かりなどの方法により、政治判断をすることによりに、「尾張氏」 より「物部氏」のほうが、発言する機会が圧倒的に多くなっていったのだ ろう。これにより、「尾張氏」の「十種の神宝」は、前述したように玉置 山に葬られることになる。対等であった「尾張」・「物部」の関係は、次 第に「物部氏」へと傾向していったのである。 葛城地方で、「尾張氏」と結びついた豪族は、後の「葛城氏」であろう。 国宝・『海部氏本紀』には、アメノムラクモの子として、「葛木出石姫命」 の名がみられ、アメノヒボコと「葛城氏」・「尾張氏」の強い結びつきを、 証明する証拠でもある。「出石」とは、「但馬国の出石」を連想させる。 この土地こそアメノヒボコの伝承地なのである。 7.現代の出雲神族・富氏の伝承 『記紀』神話中、もっとも迫力を持って記されている記述は、やはり、 出雲神話であろう。中でも、スサノオのヤマタノオロチ神話と、オオクニ ヌシの国譲り神話は、特筆すべき記述ではないだろうか。 ヤマタノオロチ神話は、越の高句麗族が出雲地方の稲田の収穫を、毎秋 奪いにきて、スサノオがその高句麗族を討ったことの比喩であったことを すでに証明している。 それでは国譲り神話は、実際にあったことだったのだろうか。答えは、 「YES」である。 『記紀』以外、出雲の国譲りについて具体的にふれている文献はない。 しかし、『出雲国風土記』は、次の一文を載せている。 「意宇郡母理の郷の条。天の下造らしし大穴持命、越の八口を平けたま ひて、環りまししとき、長江山に来まして詔りたまひしく、『我が造りま して、命らす国は、皇御孫命、平らけくに世知らせと依をしまつらむ。た だし、我が静まります国と、青垣山廻らしたまひて、玉珍置たまひて守ら む』と詔りたまひき。故、文理といふ。神亀三年字を母理と改む」 簡単に述べてしまうと、統治権は皇孫に譲渡するので、自分の静まる出 雲国だけは守りたい、とオオナムチが訴えているのである。この『意宇郡 母理の郷の条』を編纂した責任者は「出雲臣広嶋」であり、歴史が認める オオクニヌシの後裔であり、正六位上勲一二等の地位についている、国造 兼意宇郡大領である。祖先神が国譲りを承諾していることを、その後裔が 証明しているのだから、これほど確かなことはない。 しかし、神亀三年とは726年のことであり、『出雲国風土記』の編纂 は、当然のことながらそれより後であるため、国譲り当時の詳細は伝承さ れていない可能性もある。このオオナムチでさえ、スサノオと同時代のオ オナムチではないかもしれない。オオナムチが人名でなく、意宇国の王の 意味であることは、すでに述べてある。 国譲りの舞台は「出雲」である。『日本書紀』によれば、ここに登場す る人物(神)は、出雲側のオオクニヌシ・「事代主命」(ことしろぬしの みこと、以下、コトシロヌシ)、天孫側の「経津主神」(ふつぬし、以下、 フツヌシ)・武甕槌神(たけみかつちのかみ、以下、タケミカツチ)であ る。『古事記』では、出雲側の「建御名方命」(たけみなかたのみこと、 以下、タケミナカタ)が追加される。そして、天孫側の主張を受け入れ、 オオクニヌシが「出雲」を譲り渡すのであるが、出雲神であるはずの、コ トシロヌシが『出雲国風土記』に記載されている神社の、どこにも祀られ ていないのは、いったいどういうわけか。 実際、コトシロヌシを祀る神社は、『延喜式』の神名帳によれば、名神 大社である「鴨都味波八重事代主神社」(かもはつみやえことしろぬしじ んじゃ)であり、現在の葛城山麓、御所市にある「鴨都波神社」(かもつ はじんじゃ)なのである。 『出雲国風土記』が編纂された当時、コトシロヌシを祀る神社は、「出 雲」には存在しなかった。つまり、コトシロヌシは、「出雲」とは全然関 係ない神と言えはしないだろうか。ということは、出雲の国譲り自体、出 雲地方であったことではなく、本来、別の地方の出来事を、「出雲」とい う地名を借りて記されたもの、と考えられる。だいたい、国譲りの「出雲」 が出雲地方のことならば、オオナムチが、「我が出雲だけは守りたい」と 言った言葉の意味が、全然通じなくなってしまう。 さて、現代にも、生きている出雲神族の末裔に、富氏がいる。 富氏は、被征服者のい立場としての出雲族の伝承を口伝により、代々受 け継いできているという。この話を紹介しているのは、『謎の出雲帝国』 の著者・吉田大洋氏である。 なぜ、文字に残さず口伝の形にてその歴史を受け継いできたのかは、文 字に残せば、その記録は敵に奪われ、葬り去られるか、改竄させられる可 能性があるからだ。従って、富氏一族は口伝により、天孫族に弾圧された、 2000年の歴史を継承してきたのである。 それによれば、出雲神族の大祖先は、「クナトの神」であり、出雲神族 は自らを「竜蛇族」と名乗っている。「クナトの神」は「岐神」と書き、 『記紀』によれば「猿田彦大神」(さるたひこおおかみ、以下、サルタヒ コ)であるが、サルタヒコにしてしまったというのが、正解だろう。 「クナトの神」からオオクニヌシに至り、オオクニヌシの子神として、 コトシロヌシを始めとする七人の神名があがっているのだが、興味深いの は、その子神に中にホアカリの名がみえることである。さらに、神武東征 で討たれたナガスネヒコが、コトシロヌシの後裔として、あげられている ことだ。 ナガスネヒコはトミノナガスネヒコでもあり、ご推察通り、富氏は、ナ ガスネヒコの末裔にあたるらしい。 その内容は、すさまじいものである。出雲王朝の最盛期には、北九州か ら新潟に至る広範な地域を領有していた。大和や紀伊は、その分国である という。 しかし、そんな出雲王朝も、海の向こうからやってきた部族による、度 重なる侵略を受け次第に衰退していく。 その第一派が、スサノオによるものであった。第二派が、『記紀』に国 譲り神話として記された天孫族との戦い。第三派は、神武一族であり九州 より攻め入ってきた。最後が、「物部」を将としたアメノヒボコ族である。 アメノヒボコは、天孫族と組み、出雲神族に壊滅的な打撃を与えた。 神武一族とは、神武一人のことではなく、象徴名であり七人いたらしく 和解するとみせては、次々と出雲人を殺していくという、大変陰険で残酷 なやり方であったらしい。 これらの内容は、あくまでも出雲神族を主張する富氏自身の伝承であり、 歴史的事実として受け入れることは、証明することも含めて困難である。 また、出雲族の怨念の歴史ともいえる内容であるがため、多分に誇張や誤 伝承も含まれていると思われる。特に一部『記紀』準じている内容になっ ている点も見過ごすわけにはいかない。 しかし、口伝による伝承の正確さは、『逆・日本史』の著者・樋口清之 氏が、その中で、文字を持たないアイヌの人々の民俗歴史は、口伝による 伝承であり、その最後の伝承者である知里真ナミさんの、三時間もかかる 口誦は、何十回繰り返そうと何十年たとうと、記憶が狂わないし、一語一 句違わないと、言語学者の金田一京介氏も驚嘆されている事実を、紹介し ている。 富氏の口伝は、あながちでたらめとも言えないのではないだろうか。特 に、スサノオと「物部氏」が本来、出雲族でなく、侵略者であったことは、 私見ともよく一致しており、賛同できるものであるし、神武一族の攻め入 りは、ミマキのことと置き換えれば、納得がいくというものだ。 「物部」を将としたアメノヒボコ族のことも、ヒボコ=ミケヒコ亡き後 の、「物部氏」と「尾張氏」の連合軍であったとすれば、充分説明が付く。 連合軍の主導権は、政の「尾張氏」でなく祭の「物部氏」が持っていたの である。 天孫族による侵略や、神武などという表現は、『記紀』の影響によるも のであり、後世に付加されたものであろう。 スサノオの頃の「出雲」は、富氏の口伝通り、九州から新潟、大和に至 る「統一奴国」に属しており、「出雲」は「統一奴国」の、政庁所在地で あったろうから、それが、「出雲国」と伝承されたとしても無理はなく、 伊都国王・ナガスネヒコが、オオクニヌシの子・コトシロヌシの後裔であ ることも、むしろナガスネヒコが、伊都国王であったことの理由にこそな れ、否定することでもない思う。ただ、コトシロヌシとは実名でなく、職 業名と考えている。文字通り「神の言葉を代弁する人」である。 女性であれば巫女にあたる。ナガスネヒコもコトシロヌシだったという ことか。 『魏志倭人伝』に記されている、ヒミコの世話をしたり、ヒミコの言葉 を伝えたりする男一人とは、ナガスネヒコだったのかもしれない。 ホアカリがオオクニヌシの子として、表現されていることはどうであろ うか。今まで、述べる機会がなかったが、ホアカリ=ミケヒコは、ヒミコ とともに、父不詳ながらスサノオの娘・タグリヒメの子であると考えてい る。この時代が母性系社会であったこともあるので、親子関係も素直に、 理解できよう。アメノカヤマの母である、アメノミチヒメとミケヒコとは、 同母兄妹の関係になってしまうが、この時代であれば不思議ではなかろう。 あえて、その父を特定するならば、「住吉神」とされた人であろう。 タグリヒメは、宗像神であり航海神とされており、ミケヒコの後裔であ る「尾張氏」は海人の勇であったと記された数々の書を読むにつけ、ミケ ヒコの母は、タグリヒメであろうと確信するに至っている。 また、もう一つの航海神である「住吉神」を祀る「住吉大社」の宮司家 は、「津守氏」であるが、「津守氏」もまた、ホアカリの八世孫からでて いる。 8.出雲の国譲りの真相 出雲の国譲りは、先に述べたとおり、「出雲国」であったことではない。 国譲りに決断を下したコトシロヌシが、葛城山麓に祀られている以上、 それは、葛城山の争奪戦であったとしか考えられないのである。 今でこそ、大神神社のある三輪山の方が聖地として有名であるが、この 山が聖地となったのは、崇神天皇がオオモノヌシを祀った以降で、大和朝 廷が、日本を代表する政庁となった、四世紀後半からと考えている。それ 以前は、葛城山こそ聖地であり、出雲国の分国の大和とは、葛城山を聖地 とするその山麓一帯であったと思われるのだ。そのような母体があったか らこそ、葛城出身である、「葛城氏」・「蘇我氏」などが活躍できたのだ と思う。 そして、三輪山が聖地となる以前の聖地・葛城山を押さえていたのは、 出雲族であったのだ。もしかしたら葛城山麓に出雲国の政庁が遷都してい たのかもしれない。 国譲りの登場人物は、天孫側では、タケミカツチとフツヌシであった。 フツヌシとは、石神神宮の主祭神が「布都御魂大神」(ふつのみたまおお かみ)であり、この神を奉祭していたのが「物部氏」であるので、フツヌ シとは、「物部氏」の例えに相違ない。問題はタケミカツチである。 タケミカツチのことを『古事記』では、「建御雷」と記しており、美辞 句である「建」と「御」を除けば「雷」である。 葛城山麓に「葛木坐火雷神社」(かつらぎにますほのいかずちじんじゃ) があるが、ここの祭神が「火雷神」(ほのいかずちかみ)である。この神 社はなんと、「尾張氏」の祖神を祀る神社であるという。 そう言えば、籠神社の宮司・「海部氏」が、京都市の「賀茂別雷神社」 の祭神「賀茂別雷神」(かもわけいかずちのかみ)と、ホアカリとは異名 同体であると述べていた。ここの祭神は「別雷神」である。「雷神」は、 「尾張氏」の神のことであり、ホアカリである。 従って、タケミカツチとは、「尾張氏」の例えとして記されていること になる。 つまり、『記紀』に記されている国譲り神話は、「尾張氏」と「物部氏」 が、葛城山とその支配地域の自治権を要求したことであった。富氏の口伝 でいえば、「物部」を将としたアメノヒボコ族の事件こそ、国譲りのモデ ルとなった事件だったのである。 『記紀』によれば、国譲りを要求した者は、タケミカツチである。「物 部氏」の力を借りたものの、「尾張氏」こそこの事件の主役であったので ある。 ちなみに、『記紀』では、この国譲りの条件として、オオクニヌシが神 殿(出雲大社のことか?)を要求し建設されたように記述しているが、こ れは捏造である。「出雲」に神殿が建設されたのは、『古事記』によれば 垂仁天皇の時代であるからだ。 さらに、この国譲りのもう一人の主役であるオオクニヌシは、出雲大社 に祀られているオオクニヌシでもなければ、当然の事ながら、スサノオの 時代の意宇国王・オオナムチではない。時代から考えても、初代オオナム チから三〜四代数えたオオクニヌシ職の者であろう。 富氏の口伝を思い出して欲しい。「出雲国」は、まずスサノオによる侵 略を受けた。次に天孫族であり、これが国譲りのモデルとなったというが、 これこそ『記紀』の影響による表現で、あてにはできない。次が、神武一 族である。これはミマキのことであり、和解するとみせて、出雲人は次々 に殺されたのだから、ミマキはゲリラ戦を展開していったのである。 「邪馬台国」を脱出したミマキは、大和までの移動に船を使い、瀬戸内 を通過したものと考えられ、『記紀』の神武東征説話にも、出雲地方は何 ら記されていない。 最後が、「物部」とアメノヒボコの軍による侵攻だが、『出雲国風土記』 にアメノヒボコは登場しない。 そうであるからには、攻められた「出雲」とは、葛城山麓のことであっ たに違いない。攻めたのはミマキである。ミマキが大和の磯城に、建国す る以前から、葛城山を中心とした葛城の「出雲国」は最盛期だった。出雲 側にしてみれば、ミマキの国など取るに足らない存在だった。ところが、 ミマキ側にすれば、勝手に自治区を定めたのだから、葛城の存在は、驚異 だったはずだ。 そこで、使者を送り表面的には親睦を深めるそぶりをして、密かに要人 を殺害していくという、ゲリラ活動をするに至ったのである。このゲリラ 活動は、後の時代の、「蘇我氏」に対して「中大兄皇子」と「中臣鎌子」 の採った戦法である。もちろん、アカデミズムの賛同するはずもないが、 いずれかの機会で解説したい。 出雲族の受難はさらに続いた。後を追うように、「尾張」・「物部」の 連合軍に侵攻されるのである。ミケヒコは、ミマキとの「播磨」の戦いで、 亡くなっているが、ミマキ軍を蹴散らした「尾張」・「物部」連合軍は強 力で、「出雲」は葛城山明け渡しに応じてしまうのである。しかし、単に 武力に屈服したわけではなかったはずだ。「尾張氏」の祖であるアメノカ ヤマを、初代オオナムチの血を引く正当な跡継ぎと認めたからであろう。 コトシロヌシとは、『日本書紀』の『雄略紀』に登場する、「葛城の一 言主神」と同一神と思われるが、実は、葛城山麓で「鴨氏」が奉際してい た稲作の神なのである。「賀茂別雷神社」の祭神「別雷大神」がホアカリ の異名同体と言われる所以がまさにここにある。 「鴨氏」が奉際していた神は、もう一神いる。やはり葛城山麓の「高鴨 阿治須岐詫彦根命神社」(たかかもあじすきたかひこねじんじゃ)で祀ら れている「味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと、以下、アジスキ タカヒコネ)」である。 「別雷神」を祀る賀茂別雷神社は、俗に上賀茂神社と言われている。 上があるなら下もあるわけで、下鴨神社と言われる賀茂御祖神社の祭神 は、「賀茂建角身命」(かもたけつのみのみこと、以下、タケツノミ)な のであるが、小椋一葉氏の著書『消された覇王』によれば、アジスキタカ ヒコネの別名であるというのだ。 この神社の由来は、『山城国風土記逸文』に記されているが、それのよ れば、タケツノミの子「玉依姫」が、川上から流れてきた「丹塗矢」と聖 婚して、生まれた子が「別雷神」であるという。「丹塗矢」は「火雷神」 の変わり身だ。また、タケツノミは、『記紀』の神武東征で、大和に導い た「八咫烏」(やたからす)でもあるらしい。 しかも、神武天皇の母が「玉依姫」である。 これらのことを考え合わせると、「出雲国」の中でも葛城地方は、「鴨 氏」が治める国であったと思う。 国譲りにより、「鴨氏」が「尾張氏」と結んだ結果、「鴨氏」がホアカ リを祀るようになった。と言うことは、父方が「尾張氏」であり、母方が 「鴨氏」であることになり、葛城の「出雲国」の政治は、「鴨氏」が担う ことになったのだろう。 そして、葛城の「出雲国」は、「鴨氏」と結んだ「尾張氏」が本拠地と した。この地方は、「葛城氏」を輩出するが、「葛城氏」は単一氏族では なく、葛城出身の豪族の総称であると思う。細かく言えば、「尾張系葛城 氏」や「鴨系葛城氏」などであり、砕いて言えば葛城族である。 三輪山麓の磯城ではミマキを王としての「尾張」・「物部」の連合政権 が始まった。 そして、葛城を本拠地とした「尾張氏」は「鴨氏」と結ぶことによって、 「葛城氏」としても発展していくのである。 ここに、三輪山麓の大和王朝と、葛城山麓の葛城王朝の両朝並立の様相 となっていく。『記紀』には、葛城王朝など登場するはずもないが、『記 紀』に記された、欠史八代と言われている天皇のすべてではないにしても、 そのいずれかが葛城王朝であり、崇神朝と並立していたのではないか。 『記紀』における「葛城氏」が単一氏族とは読みづらい点から考えてみ ても、大和王朝に属することのない別系統の王朝と思われるのである。 ただし、この二王朝の距離からして、常に反目し続けていたとは、考え にくい。 両王朝の中心的地位に組みする「尾張氏」の存在は、尾張族を分裂させ るような、両朝の政治的駆け引きによる反目などあろうはずもなく、しば らくは、平和だったはずである。 ところが、政の「尾張氏」に変わって、祭の「物部氏」が政治すらも司 るようになって、様相が変わってくる。「尾張氏」は政治の中心から、追 放されるように三輪山麓の磯城の都を去っていくのである。 9.歴史年表 第三部の最後に、中国の史書に倭人が登場してからこれまでのことを、 私見を交えて簡単な年表にまとめてみた。大和朝廷成立までの古代史が、 よりつかみやすいと思う。年代はすべて西暦である。 57年 倭奴国、後漢へ朝貢する。『漢委奴國王』の金印を賜る。 106年頃 統一奴国成立。 107年 倭奴国王・「帥升」(スサノオ)、漢の都、落陽まで行って 皇帝の孝安帝に会見を申し入れた。 108年頃 スサノオの、出雲進出。ヤマタノオロ(毎秋、出雲を襲う 高句麗族)を討つ。 132年〜 長く高句麗族に悩まされ続けていた若き意宇国王・オオナム チ、スサノオに援軍を求め、高句麗族を完全に倒す。スサノ オの養子となり、出雲国のオオクニヌシとなる。この結果、 統一奴国は、北九州から新潟にかけての一大王国となる。 伽耶の昔(スク)族との通商開始。(日本海文化圏の成立) 166年頃 昔族倒れる。出雲国は貿易相手を失う。 167年 スサノオ死す。統一奴国は崩壊。統一奴国の傘下にあった各 国は、一斉に相乱れて独立戦争を始める。(倭国大乱)地理 的に有利であった出雲国は、いち早く独立する。 185年〜 伊都国王の提唱か、奴国の幼少ヒミコを女王に立てることに より、各国連合関係となる。しかし、同盟に反対の奴国の保 守派は、連合国より追放される。このとき、ヒミコの弟・ミ ケヒコ(卑弥弓呼)を引き連れる。 連合国は、首都(邪馬台国)を新天地に求める。奴国の保守 派は、南九州へ逃れ、句奴国(旧奴国)と呼ばれることにな る。 238年 老ヒミコ、「難升米」(ナガスネヒコ)・「都市牛利」(ウ マシマジ)等に命じて、魏に朝貢させる。魏の後ろ盾が必要 になったからである。ヒミコ、親魏倭王に任ぜられる。 239年 ヒミコ死す。 240年 魏の使節団来訪する。ナガスネヒコに贈り物を渡して帰国す る。 241年〜 旧奴国との戦闘が激しくなってきた。この頃、「弥馬獲支」 ミマキ)等、邪馬台国を脱出し、近畿に逃れ建国する。 243年 ナガスネヒコが「伊聲耆掖邪狗」(アメノカヤマ)等8人使 わして朝貢し、魏に援軍を求める。 245年 皇帝直々の命令で、魏の軍旗である黄色の旗が、帯方郡経由 でナガスネヒコに与えられた。 247年〜 魏の軍旗と詔書を軍事顧問に持たせ、倭国に派遣した。これ らは、ナガスネヒコに渡され、魏側作成による檄文をもって 諭した。 邪馬台国倒壊。ナガスネヒコ、ウマシマジに斬られる。ウマ シマジは、旧奴国王・ミケヒコに帰順。再び、統一奴国成る。 ミケヒコ、ウマシマジ(物部)・アメノカヤマ(尾張)と共 に、ミマキの奈良(新奴国)に向かい侵攻。 248年〜 ミケヒコ軍とミマキ軍、播磨国で激突。この戦闘でミケヒコ 死すものの、尾張・物部が勝利する。 ミマキを大王(崇神天皇)、尾張・物部が政祭を担い、大和 朝廷の基礎となる。 尾張氏、葛城の出雲国を占領、自治区とする。そして、鴨氏 と結ばれ葛城族と呼ばれる。 1999年7月 第3部 了 |