真説日本古代史 本編 第十七部


   
近江朝の崩壊




   
1.天智天皇の崩御


 
 「九月、天皇が病気になられた」

  
「十七日、天皇は病が重くなり、東宮を呼ばれ、寝所に召されて詔し、
 『私の病は重いので後事をお前に任せたい』云々といわれた。東宮は病と
 称して、何度も固辞して受けられず、『どうか大業は大后にお授け下さい。
 そして大友皇子に諸政を行わせてください。私は天皇のために出家して、
 仏道修行をしたいと思います』といわれた。天皇はこれを許された。」


  天皇は天智天皇、東宮は「大海人」であり、『天智紀』にみられる説話
 である。

  今まさに、「大海人」が立ち上がろうとしている瞬間である。

  譲位を固辞して受けないのは、次期天皇の常套手段であるが、今回は何
 やら雲行きが怪しい。
  固辞した「大海人」は天皇になることなく、大后「倭姫王」を推薦して
 いるではないか。

  「倭姫王」は「古人大兄皇子」の娘であるが、私見では「古人大兄」=
 「大海人」なので、「倭姫王」は「大海人」の娘となる。

  一般に言われているこのときの天智の思惑とは、「大海人」が譲位を受
 け入れたのなら、それは謀反の意志であるとして誅せられたということだ
 が、「大海人」の返答は天智の思惑から、大きくはずれていたようである。

  この辺りの記述は、『壬申紀』になるといっそう詳しくなり、


 
 「四年冬十月十七日、天皇は病臥されて重態であった。蘇我臣安麻呂を
 遣わして、東宮を呼び寄せられ、寝所に引き入れられた。安麻呂は元から
 東宮に好かれていた。ひそかに東宮を願いみて、『よく注意してお答えく
 ださい』といった。東宮は隠された謀があるかも知れないと疑って、用心
 された。天皇は東宮に皇位を譲りたいといわれた。そこで辞退して『私は
 不幸にして、元から多病で、とても国家を保つことはできません。願わく
 ば陛下は、皇后に天下を託して下さい。そして大友皇子を立てて、皇太子
 として下さい。私は今日にも出家して、陛下のために仏事を修行すること
 を望みます』といわれた。天皇はこれを許された。」


  となるのだが、『天智紀』が後事となっているのに対し、『壬申紀』で
 は皇位である。この二つを比較してみると、『壬申紀』のほうがより詳し
 い記述になっていることから、こちらが後に書かれたであろうことは推測
 がつく。    ・・
  従って、本来は後事だったに違いないと思われる。
           ・・・
  後事とは、文字通り後の事である。

  天智は譲位の意図をも示したのかもしれないが、後事は後事である。

  『壬申紀』で譲位としたことは、その裏に謀りがあるとしたかったから
 に他ならない。
  
  それに対する「大海人」の返答であるが、


  
「大業は大后にお授けください」

  「大友皇子に諸政を行わせてください」(『壬申紀』では皇太子)


  の二点であった。大業とは『壬申紀』によれば、天下を治めることと言
 い換えられているが、諸政より上の役目と言えば、その通り統治以外に考
 えにくい。すなわち、天皇に即位することである。
  このことから逆説的に考えれば、天智の言った後事とは、


 
 「天皇位は大后とは別の者に譲位し、諸政は大友皇子が行わない。」


  太政大臣である「大友」が政治を行わないとは、すわ降格人事かとなる
 のだが、ふつうに考えてみればそんなことになるはずがない。
  とすれば昇格でしかありえない。太政大臣の上であるば、それは天皇で
 しかない。

  それでは、政治は誰が行うことになるのか。言うまでもなく、「大海人」
 ということになろう。
  つまり天智の任せたかった後事とは、「大友皇子」を即位させるから、
 「大海人」に諸政を行って欲しいということだったのである。

  よく天智の言葉は、「大海人」の謀反の意志を試すものであった、など
 と言われているが、このように考えてみると、掛け値なしの本音だったこ
 とになる。しかもそれは、通説で言われているような「大海人」への譲位
 の打診ではなく、後見人となってくれ、という意味合いが強かったものと
 思われる。

  そして、天智はこれを許した。

  おいおい、許したのは出家して仏道修行することではないのか。そんな
 声が聞こえてきそうであるが、ここまでの話を天智崩御からさかのぼって
 みてみると、それだけではなかったのであることがわかってくる。


  
「二十三日、大友皇子は内裏の西殿の織物の仏像の前におられた。左大
 臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨瀬人臣・紀大人臣が侍っ
 ていた。大友皇子は手に香鑪をとり、まず立ち上がって、『六人は心を同
 じくして、天皇の詔をうけたまわります。もし違背することがあれば、必
 ず天罰を受けるでしょう』云々とお誓いになった。そこで左大臣蘇我赤兄
 らも手に香鑪を取り、順序に従って立ち上がり涙を流しつつ、『臣ら五人
 は殿下と共に、天皇の詔を承ります。もしそれに違うことがあれば、四天
 王がわれわれを打ち、天地の神々もまた罰を与えるでしょう。三十三天も
 このことをはっきりご承知おきください。子孫もまさに絶え、家門も必ず
 滅びるでしょう』云々と誓い合った。」

  「二十九日、五人の臣は大友皇子を奉じて、天皇の前に誓った。」


  以上は天智の臨終に際して、「大友」と五重臣の誓盟のくだりであるが、
 後世、「豊臣秀吉」が取り交わした病床での誓書に、驚くほどよく似てい
 る。

  「秀吉」は病気に伏すようになり、政務を執ることができなくなると、
 五大老の、「徳川家康」・「前田利家」・「毛利輝元」・「上杉景勝」・
 「宇喜多秀家」、そして五奉行の「前田玄以」・「浅野長政」・「増田長
 盛」・「石田三成」・「長束正家」に、秀頼が成人するまでの間、五大老
 と五奉行の合議に基づいて、政権を運営するよう求めたものであった。
  それに対して、五大老と五奉行は、互いに血判のある誓書を交わして、
 「五大老・五奉行体制」の堅持を確認し合った。
 にもかかわらず秀吉は、五大老や奉行衆に幾度となく、「秀頼」に忠誠を
 尽くす旨の誓書を差し出させている。

  天智と「秀吉」。立場こそ違うものの、時の天下人にはかわりない。そ
 のような立場の人間でも、わが子を思う親の気持ちには変わりはないのだ
 ろう、と納得してしまいそうだ。
  天智、「大友」、五重臣と、「秀吉」、「秀頼」、五大老・五奉行の関
 係などは、本当によく似ている。

  しかし細かくみてみると、「秀頼」と「大友」の立場が微妙に違ってい
 る。
  「秀吉」は五大老らに、次期天下人としての「秀頼」に忠誠を誓わせて
 いることわけであるから、五大老がそれをどう感じようとも、「秀吉」か
 らみた「秀頼」は、五大老より格上である。

  ところが、「大友」の場合は、


  
「六人は心を同じくして」


  とあるように、太政大臣である「大友」と五重臣は、同格の立場で天皇
 の詔を承っているのである。

  従って、このときの天智の詔とは、


 
 「『大友』を即位させるから、よろしく頼む。」


  というような、単に我が子かわいさからでた言葉ではなかったのであり、
 一般的に言われているような、


 
 「天智天皇であっても臨終の間際には云々・・」


  ということでも、決してなかったのである。

  「白村江の戦い」での大敗戦のすぐ後から、喧々囂々とする「百済」の
 亡命貴族・武将らと、不協和音と化す倭豪族を束ね、四面楚歌の中「近江
 大津京」を建国し得た天智であった。
  「大友」擁立を「大海人」に諫められた後のこと、かえって天智らしさ
 は失われなかったに違いない。

  「大友」擁立を頼んだのではない、しかし足並みが乱れることは許され
 ない、となるとやはり後継者問題でしかない。

  『天武紀』天武八年五月六日の条に、


  
「天皇は皇后および草壁皇子・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇
 子・芝基皇子に詔して、『自分は、今日、お前たちと共に朝廷で盟約し、
 千年の後まで、継承の争いを起こすことのないように図りたいと思うがど
 うか』といわれた。皇子たちは共に答えて、『ごもっともでございます』
 といった。草壁皇子尊がまず進み出て誓って、『天地の神々および天皇よ、
 はっきりとお聞き下さい。われら兄弟長幼合せて十余人は、それぞれ母を
 異にしておりますが、同母であろうとなかろうと、天皇のお言葉に従って、
 助け合って争いは致しますまい。もし今後この誓いに背いたならば、命は
 亡び子孫も絶えるでしょう。これを忘れずにあやまちを犯しますまい』
 と申された。五人の皇子は後をついで順次さきのように誓われた。」


  とある。

  天武天皇は、太政大臣はもちろん左大臣・右大臣もおかず、皇族のみで
 政治をおこなった。これを皇親政治という。従って皇子たちは大臣そのも
 のである。これら皇子たちをそっくり「近江朝」の五重臣に置き換えれば、
 大津宮内裏の西殿での誓いとそっくり同じになる。

  これが答えなのではないだろうか。

  しかし漠然と後継者問題であったといっても、誰を後継者として認めた
 のかまではわからない。

  「大友」摂政、これは疑いのないところだろう。

  天智は「大海人」を寝所に呼び出した時までは、「大友」擁立で決めて
 いたものと思われる。仮に『壬申紀』にあるように、「大海人」へ譲位が
 告げられ、これを辞退していたとしたら、天智の腹の内最後まで「大友」
 擁立であることになり、内裏の西殿の誓いには結びつかない。

  天智の決意を覆させたのは、「大海人」の


 
 「どうか大業は大后にお授け下さい」


  という言葉であろう。

  天智の「大友」擁立も、我が子かわいさという個人的な心情からではな
 い。確かに我が子擁立の思いは、あったことと思われる。しかしそれ以上
 に、「大友」以外に成人した男子がいなかったことが、理由にあげられる
 のではないだろうか。

  そんな背景の中での「大海人」の提案であった。

  天智は内心穏やかではなかったはずである。なぜなら、女帝と皇太子摂
 政、このとき「大友」が皇太子であったどうかはともかく、これこそ天智
 自身が歩んできた政治手法だったからである。

  『日本書紀』には書かれていないが、「大海人」はその意義までも説い
 たことであろう。

  それは、


  
「とりあえず、皇后である倭姫王を即位させ、大友皇子と十市皇女(と
 いちのひめみこ)との間の子、葛野王(かどののおおきみ)の成長を待っ
 て譲位するのがよろしい。」


  であったこと思われる。

  「十市皇女」は「大海人」の娘である。両プリンスの皇子と皇女との子
 が、次々代の天皇となるのである。しかも「倭姫王」は現皇后である。過
 去の女帝の経緯からみても、即位すること何の弊害があろうか。
  天智が「大友」擁立で足下を見られるのを嫌ったとしたら、この人事は
 文句のつけようのない、まさに正論としか言いようがない人事なのである。

  以上を要約すると、天皇の詔とは、つぎのような内容であったと思われ
 る。


 
 1.倭姫王の即位
  2.大友皇子の摂政
  3.葛野王の皇位継承実現


  これは、「大海人」が持ち出した原案と大した違いはないだろう。

  「近江朝」の成立は、「鎌足」の仲介により、「倭京」政庁を「近江朝」
 機構に統合したことが始まりである。


  
「そもそも政治の要は軍事である」


  という「大海人」の方針が、敗戦を経験のからよく思えなかった天智は、
 「大海人」を失脚させ、「大友」を太政大臣にしてしまうのだが、この期
 に及んで他に適任者もいないとなれば、「大海人」に協力を求めることで、
 敵にすることを避けるねらいがあったのだと思う。

  そのため「大海人」の提言を、無下に拒否できなかったのである。しか
 も、それ自体は正論であるとなれば、なおさらのことだ。
  ただし、天智にとって都合の悪いというわけではなかった。「葛野王」
 の即位が実現すれば、実質的に天智の血が嗣がれていくわけであるし、こ
 れによって、「大友」即位の可能性が失われたわけでもなかったからであ
 る。

  同時に、「大海人」にも皇位継承権が残ることにも、気がついたことだ
 ろう。
  そして、まんまと「大津宮」を脱出することができた「大海人」は、そ
 の時点から、天智政権の潜在的な敵となってしまったのである。


  
「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」(『壬申紀』)


  と誰かが言ったという。

  後になってみれば、「大海人」を「大津宮」で、半ば監禁状態にしてお
 いたのは何のためだったのか、考えれば考えるほど悔いが残ったに違いな
 い。

  このことが、詔に次の一節を追加させたのではないかと考えている。


  
「『大海人』への備えは怠らぬように」



   
2.大津宮脱出


  「大海人」の提言を、何から何まで許してしまった天智であったが、何
 も天智があまかったからではなかろう。
  「大海人」にとってみれば、長年「大津宮」から脱出を考え抜いていた
 末に、やっと舞い込んだ最初で最後のチャンスだったはずである。

  天智が「大海人」の提言を、すべて許してしまったのは、その話の組み
 立て方もさることながら、すべてが理路整然としていて正論であり、何よ
 りも気迫で勝っていたからに違いない。

  「遠山美都男」氏は、著書『壬申の乱』の中で、次のように言っておら
 れる。


 
 「だから、倭姫王の即位をいっただけでは、やはり大友擁立に逆意あり
 として、その場で大海人は生命を落としかねない。
  王位継承の可能性だけは巧みにのこしながら、武力行使・武装蜂起の意
 志をカモフラージュするために、つぎに大海人は出家して僧侶になること、
 事実上王位継承資格を放棄することを天智に願い出るわけである。そして、
 大海人は天智に否やをいわせる暇をあたえずに、大津宮の仏殿の南で剃髪
 してしまう。さらに大海人は、彼の地位に対してあたえられていたと思わ
 れる武器を返還することにより、挙兵のために必要な物質的基盤をみずか
 ら否定してみせ、天智につけ入る隙をまったくあたえないのである。
  このように、大海人の天智に対する返答は、天智の嫌疑をかわし『臥内』
 =『大殿』から無事生還するという保身をはかりながら、同時に自身の王
 位継承権への最低限のチャンスをも保留するという実に巧妙なものであっ
 た。要するに、その返答は、
   @大友擁立構想への協力要請の謝絶
   A倭姫王即位・大友執政(大友擁立構想の修正案)の提言
   B自身の出家志願・武器返還
  という三段がまえで、前段で天智に生じるであろう疑惑(大友擁立構想
 への叛意)を次段でがまるで飲み込むように解消していくというように巧
 妙な構成になっている。@ABはこの順番どおりに口にせねば意味がない
 のである。大海人が出家を願い出て、そのあとで倭姫王のことなどを述べ
 たとする諸説もあるが、それは明らかな誤りであり、この緊迫した場面を
 理解していないといわざるをえない。
  結局のところ、否やをいわせずに出家を果たし、Bを既成事実化してし
 まうことにより、そして、武器返還という形でそれを補強することによっ
 て、@Aから窺える大海人への嫌疑までもが雲散霧消してしまうことにな
 る。大海人の返答はまさに考えぬかれたものであった。
  これでは、天智の側でも手の出しようがなかったであろう。
  ──にわか僧形の大海人が衣を翻し、天智の視界から消えていった。」


  「大海人」にとって「近江朝」下の皇位継承権など、全然眼中になかっ
 たことであろうから、王位継承の可能性の関しては、全くの副産物であろ
 う。
  そもそも「近江朝」は、諸外国から見れば、単なる一地方都市にすぎず、
 仮に合併が成立していたにせよ、「倭国」の「倭京」こそが認識された国
 家であった。
  「大海人」は「倭京」に戻り、首都機能を回復しさえすれば、大王位は
 約束されたも同然であり、「近江朝」の存在は無視できたのである。

  『旧唐書・巻一九九上・東夷伝』に収められている、『倭国日本伝』
 同一本文中には、タイトル通り「倭国」と「日本国」の両条が書き分けて
 ある。
  このうち「日本国」の部分については、孝徳天皇の大化四年(648)
 に当たる年の遣使と、文武天皇の大宝三年(703)に当たる年の遣使の
 記事の間に、いきなり挿入されている。
 
  それによれば、


 
 「日本国は、倭国の別種である。その国は日の出るところに近いので、
 故に日本をもって名としている。あるいはいう、倭国がみずからその名の
 雅やかでないのをにくみ、改めて日本としたのである、と。あるいはいう、
 日本はもと小国だったが、倭国の地を併せたのだ、と。その国の人で入朝
 する者は、多くみずから矜大で、実をもって対えない。故に中国はこれを
 疑っている。またいうには『その国の境は、東西南北、おのおの数千里あ
 り、西界・南界はみな大海に至り、東界・北界は大山があって限りをなし、
 山外はすなわち毛人の国である』と。」


  となっており、「倭国」と「日本国」を併記しながらも、別の国として
 扱っている。
  以前にも書いたが、「日の出るところ」という感覚は、本来日本列島に
 住む人間にはないものである。それは、海を隔てて日本列島より西側の諸
 国において、一言で言えば、朝鮮半島から見た場合でないとわからない感
 覚であるはずだ。つまり「日本」国号のルーツは朝鮮半島に求められると
 思う。

  このときの唐入朝はいつの時代だろうか。

  『旧唐書』からだけではわからないのだが、『新唐書』と比較してみる
 と、『新唐書』には

  
                          ・
  「咸亨元年(670)、使を遣わし高麗を平らぐを賀す。後、稍々夏音
 を習いて、倭の名を悪み、更めて日本と号す。使者自ら言う。国、日出づ
 る所に近し。以に名と為すと。・・」


  と、独自の記事を掲載している。この後の文は『旧唐書』とほぼ同様な
 のだが、この前段には、天智天皇の時、蝦夷人をともなって入唐した記事
 があり、これが670年と同年ではないかと思われる。あるいは、「後」
 あるので、「日本国」への改名は、翌年の新体制となった時点(大友皇子
 が太政大臣となった天智十年(671))であるかもしれないが、いずれ
 にしても天智朝下でのことである。

  ちなみに『新唐書』では、巻二二〇『東夷伝・日本』となっており、そ
 の内容から「日本」・「倭国」と区別することなく、「日本」のこととし
 て記録されている。
  逆に言えば、『旧唐書』の繕うことない不体裁が、かえって事件の重大
 性をうかがわせるのであるが、重要なことは、このとき「唐」は「日本」
 を認めていないということである。
  「日本」からの使者は、「日本」と「倭国」は時間的に連続した同一国
 家であることを説明しているのだが、「日本」という国名の由来すら、ま
 ともに話せていない。

  「日本」とは、ずばり「近江朝廷」である。

  その中枢は、「白村江」の敵国、「百済」の貴族で占められている。使
 者が返答に窮するのはむしろ当然であろう。
  「唐」にしたところで、東海の孤島の友好国は「倭国」であり、「倭国」
 からの使者が、国号改名を伝えに来たのならいざ知らず、そうではなかっ
 たのであるから、言うなれば筋違いな話である。
  また、「筑紫都得府」に常駐している占領軍からも、情報はもたらされ
 ているはずであろうから、「日本」が「近江朝廷」であることを知ってい
 たうえでの、不信感だったのかもしれない。

  少々話が脱線した感もあるが、先ほども言ったように、「倭国」が主権
 表明さえすれば、「郭務宗」率いる二千人の軍隊による、「倭京」奪回作
 戦も可能だったと考えられる。

  さて、まんまと天智を出し抜いた「大海人」は、一路「吉野」に向かっ
 た。
  仏道修行を名目にして「大津京」を出たのである。「倭京」に向かえる
 はずがない。

  「蘇我赤兄臣」・「中臣金連」・「蘇我果安臣」らが、「宇治」まで見
 送りしたというが、監視役に決まっている。

  中国的に考えれば、この間に「大海人」は殺されてしまうのだが、それ
 がなかったのは、我が国は武士道を重んじるが故、卑怯なまねはできない
 のだろうか。あるいは、監視役の三人が互いに牽制しあっていたのだろう
 か。
  どちらかと問われれば、後者の方である。

  「蘇我氏」二人と「中臣氏」一人。この三人は「壬申の乱」後の処罰が、
 正反対といえるほど対照的である。

  「蘇我果安臣」は数万の兵を率いて「不破」を急襲する途中、同じ「近
 江方」である「山部王」を殺し、自軍を混乱させ自身は自殺。「中臣連金」
 は戦争犯罪人として死罪。「蘇我赤兄臣」本人とその子孫、「蘇我果安臣」
 の子孫は共に流罪である。

  他に重罪八人が死罪とされているのだが、このうちの一人として「中臣
 連金」が挙げられているのか別なのかは、どちらともとれるような記述で
 ある。
  ただ、死罪(『日本書紀』には、ただ斬ったとあるだけであるが)には
 違いないので、同等に重罪であることになる。

  「金」は右大臣、「赤兄」は左大臣であるので、「赤兄」のほうが重職
 であるのだが、「金」だけが死罪だったことは、普通に考えただけでは納
 得できない。しかも「金」以外の重罪人は、重罪人とされたにもかかわら
 ず、名前すら記載のない有様で、その存在自体が疑わしい。

  つまり、死罪は「金」一人だった可能性が高いのである。

  「金」が死罪で「赤兄」が流罪。「果安」も生きていれば、その子孫の
 処遇から流罪であろう。
  この差はいったい何だったのだろうか。

  『壬申紀』によれば、「大海人」に耳打ちする「蘇我臣安麻呂」が記さ
 れている。「安麻呂」は「大海人」に好かれていたとも証言している。
  ということは、「蘇我氏」は「大海人」と懇意だったことになる。

  実は、「赤兄」の流罪とは、「太宰府」への赴任だったと考えている。
 (土佐とも上総国とも言う説がある。)
 
  天智七年七月、「栗隈王」(くるくまおう)が「筑紫率」(つくしのか
 み)に任命されている。
  翌八年一月、今度は「蘇我赤兄臣」が「筑紫宰」(つくしのかみ)に就
 いている。
  天智十年、「栗隈王」は再び「筑紫率」となり、『壬申紀』に至ってい
 る。
  
  天智十年に「赤兄」は左大臣となっているので、この間に「栗隈王」が
 再就任したことになるのだが、「太宰府」とは「都督府」のことである。
  「唐」の占領政府である「都督府」は「倭京」と友好関係にあり、「近
 江方」とは敵対関係になるのだ。それが証拠に、『壬申紀』での「栗隈王」
 は、


  
「筑紫大宰栗隈王と、吉備国守当摩公広嶋の二人は、元から皇太弟につ
 いていた。」


  と、証言しているのだ。

  「近江朝」の重臣にまでなった「赤兄」が、「唐」の占領政府である、
 「筑紫都督府」の「筑紫宰」であったというのは、全然合点がいかない。
  そもそも、「近江朝」に「筑紫都督府」の人事権など、あろうはずがな
 い。それとも、「太宰府」と「筑紫都督府」は、別であるとでもいうのだ
 ろうか。
  従って、天智八年の「筑紫宰」就任の記録は、入れ込まれたものと考え
 てる。

  『日本書紀』は流罪の場合、その行き先を記しているが、「赤兄」の場
 合は、ただ流罪とだけしか記されていないことにも注目したい。

  『天智紀』・『壬申紀』に登場する「蘇我氏」は、「近江朝」の重臣で
 あるにもかかわらず、その一連の行動は、あたかも「大海人」が送り込ん
 だ、密偵のようである。
  その行動から推察すると、「宇治」まで見送ったという「赤兄」と「果
 安」は、「大海人」の警護だったと思われてならない。

  では、誰の手から守ろうとしたのだろうか。

  それは目前にいた刺客、「中臣連金」からである。五重臣の中で「金」
 だけが斬られた理由こそ、ここにあるのではないだろうか。

  見送られた先が「宇治」までとは、宇治川までということであろうが、
 宇治川までが「近江朝」の勢力圏ということになろう。

  「大津」から「宇治」までは、直線で十数キロであるので、徒歩でも四
 時間程度の旅であろう。しかし、この時間ずっと緊迫した空気が続いてい
 たものと想像する。
  「金」行動は自らの意志であると思う。それが天智の意志であると確信
 していたのであろう。ことの重大さに気づいた「蘇我氏」が、お供をかっ
 てでたのだろうが、「金」にしてみれば、断れば怪しまれるわけであるか
 ら断れるはずがない。差し違えてでも「大海人」を討てれば、自らか下し
 た使命を全うきたのだが、「赤兄」・「果安」の人間の縦が、静かに立ち
 はだかった。
  おそらく、一言の会話もなかったことであろう。

  宇治川がそこまで迫って来ている。もうこれを除いてチャンスはあり得
 ない。
  「金」が命を懸け、ことを成し遂げようとしたその瞬間、彼の眼に飛び
 込んできたものは、大勢の「蘇我氏」の私兵だった。
  「金」に最早なす術はなかった。

  と、まあ勝手に想像したのだが、宇治川を超えて「大海人」がひとまず
 向かった先が、「嶋宮」であるというが、これは明日香村島の庄の離宮と
 説明がなされている。
  「嶋宮」といって思い出されるのが、「嶋大臣」と呼ばれた「蘇我馬子」
 のことである。「嶋宮」とは旧「馬子」の邸宅跡であったのではないだろ
 うか。

  宇治川からの行程が、「大海人」の一人旅とは考えにくい。「嶋宮」に
 入ったとすれば、当然「蘇我氏」に護衛されてのことであろうと思う。

  その翌日、いよいよ「吉野」入りである。

  『日本書紀』には、次のように記されている。


  
「二十日、吉野へおつきになった。このとき多くの舎人を集めて『自分
 はこれから仏道に入り修行をする。自分といっしょに修道をしようと思う
 者は留まるがよい。朝廷に仕えて名を成そうと思う者は、引返して役所に
 戻るように』といわれた。しかし帰る者はなかった。さらに舎人を集めて、
 前の如く告げられると、舎人の半分は留まり半分は退出した。」
 

  内容的には、『壬申の乱』正当防衛論の一つにすぎないのだが、二度に
 わたる言葉は、強い決意のある者だけを篩いにかけた言葉である。

  仏道修行が真意でないことくらい、誰の目にもわかった。
 要は、


 
 「俺に就くか、天智に就くか。好きにするがいい。」


  と、問うているのであり、立場上(例えば朝廷から任命や、義理、縁故
 など)「大海人」に就いていた者達は、二度目の問いかけで去っていった
 というわけである。
  思いは一つでないと、ことの成熟はあり得ないし、去っていったからと
 いって咎めがあったわけではなかろう。

  この後「近江朝」では、先に紹介した内裏の西殿での、「大友」と五重
 臣の誓いとなるのだが、十一月二十四日、「大津宮」大蔵省の第三倉から
 の出火を、「吉野」方の仕業とみたのだろうか、二十九日、「大友」と五
 重臣は再び天智の前で誓盟を確認している。


 
 「吉野の叔父(私的に言えば伯父なのだが)は、どうでてくるのか。」


  「大友」は憂慮していたことだろう。

  そして十二月三日、天智は「近江宮」で崩御した。

  「朝廷」は伝令を介して、「吉野」方にことの次第を告げた。伝令は、
 これを期に頻繁に行われるようになったと思われる。

  「大海人」は、表向きは仏道の修行のため「近江」を離れたにすぎない
 のであるから、何らかの交流があったとしも不思議ではないし、「近江」・
 「吉野」の双方とも、お互いの動向が気になればなるほど、情報を必要と
 していたはずである。



   
3.挙兵決意

  
  『天智紀』巻末に、三つの童謡(わざうた)が記されている。


  「み吉野の、吉野の鮎、鮎こそは、島辺も吉き、え苦しゑ、水葱(なぎ)
 の下(もと)、芹の下、吾は苦しゑ。」
   (み吉野の鮎こそは、島の辺りにいるのもよかろうが、私はああ苦し
   い、水葱の下、芹の下にいて、ああ苦しい。)

  「臣の子の、八重の紐解く、一重だに、未(いまだ)解かねば、皇子の
 紐解く。」
   (臣下の私が、自分の紐を一重すらも解かないのに、御子は御自分の
   紐をすっかりお解きになっている。)

  「赤駒の、行き憚る、真葛原(まくずはら)、何の伝言(つてごと)、
 直にし吉けむ。」
   (赤駒が行きなやむ葛の原、そのようにまだるこい伝言などなされず
   に、直接におっしゃればいいのに。)


  以上がそうなのであるが、説明によれば、


  
「一は『吉野』に入った『大海人』の苦しみ。二は『吉野』方の戦争準
 備の成ったこと。三は『近江』方と『吉野』方の直接交渉をすすめるもの
 か。」


  となっている。

  「直木孝次郎」氏は、第一首と第三首の歌については、


  
「第一首は、大海人皇子を鮎にたとえ、島辺にいる鮎はよいが、水葱や
 芹の生えている濁った小川にすむ鮎は苦しいだろう、と吉野にいる皇子に
 同情した歌。第三首は、大海人皇子の再起を望む声を吉野に伝えたいが、
 真葛原などにさえぎられて伝えにくい、皇子は伝言など待たずに直接行動
 をとればよいのに、と決起を待望した歌であるといわれる。」


  としている。

  これらの童謡は、「吉野」方の正当防衛を肯定する材料と思われるので、
 おそらく後世の後付けであろう。
  しかし、実際に巷で流行っていたのだとしたら、世論は「大海人」に同
 情的だったと言えるが、はたして民間人は、このような皇室のお家騒動を
 知る由があったのだろうか。

  「吉野」の葛と言えば、食品のブランドとしても有名であるが、葛のつ
 るは堅い毛が生え、その長さは10メートルにもなる。そんな葛の群生し
 ている平原では、童謡の通り、行くも引くも困難極まることと思われる。
  お互いに情報を必要としていながらも、思うに任せない状態であったの
 ではないだろうか。

  そんな状況をよく表しているエピソードが、『壬申期』の巻頭付近にあ
 る、挙兵決意に結びついた次の伝聞情報である。


  
「この月、朴井連雄君は天皇に奏上して、『私が私用で一人美濃に行き
 ました。時に近江朝では、美濃・尾張両国の国司に仰せ言をして『天智天
 皇の山稜を造るために、あらかじめ人夫を指定しておけ』と命じておりま
 した。ところがそれぞれに武器をもたせてあります。私の思いますのに、
 山稜を造るのではありますまい。これは必ず変事があるでしょう。もし速
 やかに避けられないと、きっと危ないことがあるでしょう』といった。」


  「朴井連雄君」(えのいのむらじおきみ)が奏上した天皇とは、天武の
 ことである。即位していない「大海人」を天皇と記すとは、時間錯誤であ
 る。『日本書紀』編纂開始時に天皇であったので、このような表現になっ
 たのだろうが、実は「吉野宮」で密かに即位していたとも考えられる。

  いずれにしても、ここでは問題とすることなく先に進みたい。

  「吉野」方としても、諜報活動は怠らなかったものと思われる。しかし
 ながら、この「雄君」の報告が第一報であったとすれば、「近江」の動向
 を「美濃」で知ったことになり、諜報省(省と言えるかどうかはともかく)
 のもたらす情報は、間に合っていないことになる。
  と言うよりも、敵の通交を阻むものは、当然のことながら味方をも阻む
 ということだ。

  「吉野」地方は、古来より都を追われた人々の隠れ家的地域であったよ
 うに思う。「熊野」に至る一帯の山岳は、修験者達の道場として名高いが、
 彼らは密使として立つ場合があったという。
  南方は山々に囲まれ攻撃を受けにくいうえに、「紀伊」・「伊勢」との
 連絡はさほど困難ではない利点を持つ。しかし、北は奈良盆地がひかえ、
 現代では進行を妨げるものは見られないが、そこに馬の歩行を拒む葛の群
 生があったとしたら、それは完全な自然のバリケードである。
 
  「大海人」を始め、「義経」・「後醍醐天皇」など、「吉野」で機をう
 かがっていたことは有名であるが、なぜ「吉野」なのか。
  「奈良」と隣接している「吉野」は、現代的に考えれば理解できない部
 分もあった。しかし、「奈良」・「京都」からの進入は騎馬隊では不可能
 であった、と例の童謡が教えてくれている。


   
4.唐羅開戦


  668年、この年「白村江の戦い」で勝利した「唐羅」連合軍は、「高
 句麗」を滅ぼした。
  「中大兄皇子」が天智天皇として即位した年である。

  「白村江」の翌年から「唐」は、「筑紫都督府」を経由して「倭国」に
 対して、使者を派遣してきている。そして朝鮮半島統一後の「新羅」もま
 た、「倭国」に使者を遣わしてきている。もちろんこの「倭国」とは「近
 江朝」のことではない。「倭京」のある「奈良」のことである。

  両国の「倭国」に対する思惑は同じであった。

  朝鮮半島支配をねらう「唐」と、朝鮮半島の独立国家を目指す「新羅」。
 ともに、「倭国」を味方につけて、自国の立場を優位に導こうとするもの
 である。

  そしてこの二国の威をバックボーンにして、「倭京」の「近江朝」攻略
 計画が練られていった。
  また、旧「百済」勢の一掃は、「唐羅」の意志でもあっただろう。
  「倭京」は「唐」の占領政庁である「筑紫都督府」の、全面的な支持が
 得られ、都督「定恵」は、「唐」で身につけた知識を、惜しみなく提供し
 ていった。

  しかし「近江朝」は、「唐」からの援軍が「筑紫」に到着することを見
 透かしたように、「大友」を太政大臣とした新体制を発足し、「大海人」
 を軟禁してしまったのである。

  「倭京」の首都機能の復興には、「大海人」というトップが必要だった
 のであるが、これにより計画は頓挫してしまった。そればかりか、「近江
 朝」に対して、おいそれと手が出せなくなってしまったのである。

  「大海人」のもとには、密使による情報伝達が行われていたことと思う。
 しかし、人質にされてしまった「大海人」は、身辺は保証されながらも、
 自らの意志による身動きができなかったことであろう。
  何をしても、それが何でもないものだったとしても、言われなき嫌疑を
 かけられ、葬り去られてしまうだけだから、恐ろしく慎重になっていた。

  結局、向こうから訪れてくれるであろうわずかな機会を、ひたすら待ち
 続ける日々を過ごしていたのであり、それが実行できる機会が訪れたとき、
 出家するというシナリオだけは、できあがっていたのであろう。

  618年に建国した「唐」は、天智天皇即位の年までに、わずか50年
 しか経っていない。
  「新羅」の朝鮮半島平定に手を貸したものの、実は内政の充実に手一杯
 だったことだろうと思う。

  「白村江の戦い」に至るまでの駆け引きにより、「唐」は「新羅」と連
 合したのであるが、敵国になった「百済」もまた、「唐」に救援を求めて
 いた国であった。
  にもかかわらず「新羅」を選んだ理由は、「新羅」の「唐」に対する追
 従の姿勢である。「新羅」は法律や制度はおろか、唐服までもを採用した
 のである。

  半島支配を目論む「唐」が、これに喜ばないはずがない。「新羅」が勝
 ち残れば、「唐」主導の半島支配は、実現したのも同然だからである。
  このとき「唐」は、「突厥」を倒したばかりで、必ずしも国力が充実し
 ているわけではなかった。これも、連合に傾いた要因であろう。

  慌てたのは「百済」である。

  「百済」は、同じ立場に立たされることになった、「高句麗」と手を組
 み、一気に起死回生の賭に打ってでようとしたが、660年、「唐」の遠
 征軍と「新羅」に挟み撃ちに遭い、滅亡してしまったのである。

  「百済」さえいなくなれば、「高句麗」攻略の計算も立て易くなり、弱
 体化していた「百済」が、まず第一に狙われたのであった。

  663年、王朝再興を画策した「百済」残存勢力は、日本諸国をも巻き
 込み、「白村江の戦い」となっていったのだが、ここでも完敗した「百済」
 は、最後の領有地・「筑紫」をも失い敗走混迷していく。

  ここまでの半島情勢は、いまさら言うことでもなかったことだろうが、
 おさらいのつもりで読んでいただいた。

  そして668年、「唐羅」連合軍はついに「高句麗」を滅亡させ、朝鮮
 半島は「唐」・「新羅」が独占することになった。

  ところが、「唐」と「新羅」は急速に仲が悪くなっていく。

  と言うか、もともと朝鮮半島という、同じ目的で結びついていたにすぎ
 ない両国であったから、その目的が達成されれば仲も解消してくわけであ
 るのだが、最大の原因は、「唐」が「新羅」を属国扱いしたことだ。

  「新羅」国王でさえ、「唐」からみれば州知事だったのである。

  長年の戦乱の世を耐え抜き、「唐」の圧力に屈服しなかった「新羅」は、
 669年、「高句麗」で蜂起した反乱軍に同調して、「唐」を半島から追
 い出してしまったのである。

  この「唐羅」戦争は、676年(天武五年)に、「新羅」の独立国家と
 して朝鮮半島統一という結果で、幕を下ろすのだが、もしも、「白村江の
 戦い」後まもなく、朝鮮半島問題が解決してしまっていたら、「近江朝」
 の繁栄は訪れなかったに違いない。

  緊迫した半島情勢のため「倭」のことまで手が回らず、戦後処理を「筑
 紫都督府」敷設で片づけてしまった「唐羅」に、いみじくも「近江朝」は
 救われたのである。

  この緊迫した時期と、天智天皇即位・新体制発足の時期が、妙に重なっ
 ていることは興味深い。

  「倭京」と「新羅」は関係が密であったと思われる。しかし、「唐羅」
 の攻撃はないとみた「中大兄」は自らが即位。「大海人」を体のいい軟禁
 状態にし、「大友」太政大臣による新体制を発足させた、と考えている。

  天智のもの凄いところは、律令国家建設を推進させ、唐風の国造りを目
 ざしたところである。


 
 「夏四月二十五日、漏刻(水時計)を新しい台の上におき、はじめて鐘・
 鼓を打って時刻を知らせた。」


  これなども、唐風文化の模倣であろう。さらに漢詩・漢文がさかんに作
 られたということである。

  日本はこの後、一気に唐風文化が花開いていくが、天智が何でも唐風を
 好んだからではない。

  「壬申の乱」が終結してから三年後の674年、「唐」と「新羅」は全
 面戦争になった。
  「唐羅」戦争は二年間続いたが、676年、ついに「新羅」は朝鮮半島
 から「唐」を追い出すことに成功した。これを「統一新羅」とい 。

  しかし、どうしても朝鮮半島を手中にしておきたかった「唐」のとった
 政策は、天武政権にもじわじわと圧力をかけていった。

  それは当面、「日本」が「唐」の敵にならぬようにである。

  おそらく「唐」は、朝鮮半島攻略後は日本列島侵攻をも、考えていたの
 だろうと思う。

  この時代と言えば、天武政権下である。

  「唐」の軍事力の前では、天武政権と言えどもはなはだ無力であった。
 心ならずも「唐」に協力することでしか、生き残りの方法がなかったので
 ある。
  これらのことは、この時期「日本」が、大きく唐風の制度に傾いたこと
 からもわかる。すなわち、律令制度を本格的に導入することにより、
 天武政権が親「唐」政権であることを示したのである。

  このような動きは、「近江朝」にも当てはまるのではないだろうか。

  つまり、天智が「唐」風に傾倒していった背景には、天智が「唐」の文
 化を好んで取り入れたというわけではなく、そうして恭順の意をすこと
 により、国の生き残りを賭けたのだと思う。

  孝徳天皇の白雉二年の条に、


 
 「この年、新羅の貢調使知万沙(注1)食らは、唐の国の服を着て筑紫
 に着いた。朝廷では勝手に制服を変えたことを悪んで、責めて追い返され
 た。」


  とある。朝廷とあるが、このときの皇太子は「中大兄皇子」であった。
 孝徳天皇を差し置いて、自らの意志で遷都してしまうほど、絶対権力のあ
 る皇太子であった。朝廷とは「中大兄」に他ならないと思う。

  「新羅」、「天武朝」がそうであったと言うならば、「天智朝」とて例
 外ではなかったことだろう。
  「天智朝」もまた、「唐」に傾倒せざるを得なかったのである。

  しかしこのような天智の努力も、遣唐使に関しては裏目に出たようだ。
 すでに述べたとおり、670年、「近江朝」は「日本」の国号を引っ提げ
 て遣唐使を送るが、それは認められなかったわけである。

  話が横道に逸れてしまったが、「高句麗」攻略以降、日々険悪になって
 いく「唐羅」関係の中で、自分の足下に火がついている両国は、日本列島
 の火消しにまで、かまっていられなくなっていった。

  「大海人」の近江脱出と、その後の天智死去を知るや、さっさと軍隊と
 使者を引き上げてしまったのである。

 「倭京」は「唐」・「新羅」の両国と、友好関係にあったので、そのど
 ちらか一方に荷担するわけにはいかなかった。

  天智十年十一月十日の条に、「郭務宗」ら二千人の来訪記録があるが、
 これは671年のことではなく、「白村江」の直後の663年であったこ
 とは、すでに述べてあるので、詳しくはそちらに委ねるが、『壬申紀』の
 天武元年三月十八日に、


 
 「朝廷は内小位阿曇連稲敷を筑紫に遣わして、天皇のお崩れになったこ
 とを郭務宗らに告げさせた。郭務宗らはことごとく喪服を着て、三度挙哀
 をし、東に向かっておがんだ。」


  とあり、これに続く二十一日


  
「郭務宗らは再拝して、唐の皇帝の書函と信物とをたてまつった。」


  とある。

  朝廷とは「近江朝」のつもりなのだろうが、「遣唐使」を送ったくらい
 だから、そういうことも考えられるだろう。
  しかし、二十一日の条は、前文に続く内容だとしたら、あまりに用意が
 よすぎる。中三日しか開いておらず、これではまるで天智が死ぬことを予
 期して、備えていた書函であったことになる。

  もっともそんなことはあり得ない話なので、この二つの文の関係はない
 ものと考えなければならない。

  「郭務宗」から渡された皇帝の書函に応じた答えが、さらに続く五月十
 二日の条ではなかっただろうか。


  
「鎧・甲・弓矢を郭務宗らに賜わった。」


  この贈り物が、「近江京」から出されたものではなかったこともまた、
 述べてあるが、書函の内容とは、「筑紫都督府」経由で「倭京」に当てら
 れた、対「新羅」戦への応援要請だったと思われる。
  眼前の敵「近江朝」を前にして、応援に応じられるはずがない「倭京」
 としては、武具の供出で火の粉を避けたわけである。

  「天武朝」では「新羅」からの交流が多くなっているが、「天武朝」の
 親唐政策を嫌った「新羅」が、「天武朝」に遣うことでパワーバランスを
 とったものと考えている。国家間における三角関係である。

  しかし、「倭京」の台所事情は、いっそう苦しいものへとなっていった。
  ・・・・
  いっそうというのは、「大海人」は、出家と称して「大津京」を後にす
 るとき、自家の武器をことごとく公に納めてきた(『壬申紀』)のであっ
 た。

  もっとも、そうしなければ、「大津京」脱出は不可能であっただろう。

  それに加えて、頼りであった「倭京」勢力の武器を、「唐」へ供出した
 とある。

  こんな状態であったから、「大海人」側には、武器らしい武器がなかっ
 た。さらに味方になるであろう倭豪族は、「庚午年籍」により戦力が丸裸
 にされた上に、その中から武器を出し、当てにしていた「唐羅」の協力が
 得られないとなると、攻めるにも知力だけではどうしようもなかったので
 ある。

  もっとも、当てにしていたというのも、「白村江」の協力国としての倭
 京側の勝手な思いこみで、「唐」が出兵要請をしてきたとすれば、それ自
 体知らぬ話だったことになるが、「筑紫」に唐軍が駐留しているというだ
 けで、「近江京」にとっては、常に脅威に曝されていることになり、十分
 な牽制になっていたことであろう。


  「倭京」の旧豪族らによる、「近江攻略」への高まる期待感をよそに、
 「大海人」は何ら戦略が立てられないでいた。

   ・・
  「四年冬十月十七日、天皇は病臥されて重体であった。」


  『壬申紀』は、このように記す。

  天皇とは、天智天皇のことである。四年については、今さら記すすこと
 もないだろうが、葛城天智四年のことである。つまり『日本書紀』のいう
 天智天皇だ。


  このときの朝鮮半島情勢は、


  「冬十月六日、新羅は唐の戦艦七十余鑑を攻撃し、郎将の鉗耳大侯はじ
 め士卒百余人を捕虜とし、その他溺れ死んだものは数えきれなかった。」
 (『三国史記・新羅本紀第七』)


  となっている。

  十月七日、「新羅」の「沙食金万物」(食は二水に食)が訪朝し、調を
 たてまつり、十二月十七日、帰国の帰路についた。

  調とは律令制度下の税にようなものである。

  このときにはまだ、「近江」・「吉野」という明確な区別はないが、こ
 の時期に来訪したのであるから、先に述べた、「倭」・「唐」・「新羅」
 三国のパワーバランスからなる接近であったことは間違いない。

  「倭」の様子をうかがいに来たというところが、おそらく本音なのだろ
 う。しかし「唐羅」が「倭国」問題に関わっていられないように、「倭国」
 (「近江」・「吉野」双方ともを指す)もまた、朝鮮半島問題に関わって
 はいられなかったのである。



   
5.小子部連鋤鉤


  それでも、「大海人」には運があった。

  『壬申紀』をみると、「近江朝」は「美濃・尾張」から人夫を調達して
 いる。これも「庚午年籍」の影響が及んでいるからであろう。
  「近江朝」が指令できるのだとすれば、この国司は「近江朝」が任命し
 た者であろう。この者が赴任なのか土着なのかはわからないが、農民を駆
 りだせるくらいの力は、持っていたことになる。

  ところが、「大海人」が「不破」に到着する頃、


  
「尾張国司小子部連鋤鉤が、二万の兵を率いて帰属した。」


  とあり、この二万もの兵こそ、本来「近江朝」の調達した兵だったとい
 われている。そうであるならば、この当時朝廷が地方に与えていた影響力
 は、名前だけでほとんどなかったわけである。

  「大海人」の運とは、彼の「湯沐」が「美濃国安八磨郡」(岐阜県安八
 郡)にあったことである。
  「畿内・畿外」、「近江・遠江」という言葉が示すものは、大和朝廷の
 勢力範囲であった。関ヶ原以東、ましてや「尾張」は文字通り「終わり」
 の国であったのである。

  常に中国・朝鮮文化文明にさらされている畿内に比べ、劣る面はあった
 かもしれないが、海外出兵や天皇家のお家騒動など、中央の変事に染まり
 続けた畿内の豪族よりも、国力に関しては、ずっと充実していたものと推
 測する。

  「大海人」の側近中の側近、「村国連男依」(むらくにのむらじおより)
 は、「美濃国各牟(かがみ)郡村国郷」、「身毛君広」(むげのきみひろ)
 は、「美濃国武藝(げ)郡」の出身であり、「和珥部君手」(わにべのお
 みきみて)も、どうやら「美濃国」の人でなのである。

  『壬申紀』に突然登場する彼らは、「近江朝」あるいはそれ以前からの、
 側近ではないと思う。

  おそらく、「朴井連雄君」(えいのむらじおきみ)が、「美濃」へ私用
 で出向いた際、


  
「この月、朴井連雄君は天皇(大海人)に奏上して『私が私用で一人で
 美濃に行きました。時に近江朝では、美濃・尾張両国の国司に仰せ言をし
 て、『天智天皇の山稜を造るために、あらかじめ人夫を指定しておけ』と
 命じておりました。ところがそれぞれに武器を持たせてあります。私の思
 いますのに、山稜を造るのではありますまい。これは必ず変事があるでしょ
 う。もし速やかに避けられないと、きっと危ないことがあるでしょう』と
 いった。」


  これがその部分なのだが、変事を察知して、引き連れてきた者たちであ
 ると思う。

  そしてこの「雄君」の一言が引き金となって、『壬申の乱』は勃発して
 いく。

  『壬申の乱』の根源は、やはり天皇家のお家騒動である。こういったお
 家騒動は過去幾度にわたって起こってきたことであった。
  しかし、従来からある、宮廷内で起こったお家騒動とはスケールが違う。

  そういう意味で、『壬申の乱』は単なるお家騒動ではない。

  畿内・東海と西日本を東西に分けての、古代史上初の天下分け目の大戦
 争だったのである。

  この戦いでは、勝利した「大海人」側の戦況ばかりがクローズアップさ
 れているが、政治的にみて重要であったと思われるのは、「近江朝」の動
 きであると思う。

  「近江朝」、というより「大友」は、『壬申の乱』に乗じて何をしよう
 としたのか。

  「大友皇子」は「庚午年籍」に絶大の自信を持っていたのではないだろ
 うか。
  「大友」は「大海人」が東国に入っても、追っ手を差し向けなかった。
  「庚午年籍」のデータにより、駆り出された「尾張・美濃」の数万の兵
 が、「吉野」方に立ちはだかるはずであったからである。


  「大友」は他に、「吉備」・「筑紫」にも派兵を要請している。

  「吉備」は徴兵に成功したようだが、「筑紫」が徴兵に応じるはずがな
 い。事の正否はともかくとして、「畿外」へも派兵を促したということは、
 「畿内」、いわゆる「山城・大和・河内・和泉・摂津」の五国からの動員
 は、完了していたとみるべきだろう。
  『壬申紀』をみると、「畿内」における「近江」方の勢力は、「吉野」
 方の大隊を敗北させるほどの勢いがある。この点から考えてみても、「畿
 内」の動員が完了していたからこそ、さらなる動員を目的として「畿外」
 に、使者を派遣したのである。

  特に「美濃」への派兵要請は、「大海人」への挑発以外の何ものでもな
 い。
  湯沐令(ゆのうながし)であった「多臣品治」(おおのおみほんじ)が、
 率いていた兵が三千人であった。この兵力こそ、「美濃」の全勢力であっ
 たと思う。
  
  「庚午年籍」のデータから、「美濃」の実勢は大方把握していたはずで
 ある。

  兵力は多いことに越したことはないが、わずか三千兵を東国から徴兵す
 るような冒険は必要なかったと思われる。
  しかし、これが成功したことによって、「大海人」が食らった心理的な
 大打撃は、計り知れないものであったろうし、残された一握りの手勢では、
 もはや為す術がなかったであろう。

  これはあらためて述べるが、そうにもかかわらず、「大海人」が勝利し
 たことは、律令制という新しく導入された制度よりも、同族・同門という
 旧支配体制が勝ったということである。
  結局、この時代の大和朝廷の威光は、「畿外」に及んでいなかったので
 あり、そうであるから、「畿内」・「畿外」という区別があるのである。

  「大友」は、「庚午年籍」による膨大なデータを本に、兵力の動員とい
 うという機会に恵まれた最初の人物であった。

  おそらく内心は、自らの号令の下、どれだけの兵力が動員できるか、知
 りたくてうずうずしていたに違いない。
  そしてその結果には、驚愕を持って満足したことだろう。

  そして、「大友」の試みようとしたライブは、「尾張」という外国から、
 二万兵が徴兵できた時点で、完璧なリハーサルが終わり、本番を待つばか
 りであったのである。

  しかし、これほどのデータを活用してまで望んだ『壬申の乱』に、「大
 友」は敗北している。

  データから、心の動きを読むことはできないからだ。

  結果は結果である。

  しかし、結果はどうあれ「大海人」もまた、データの威力を見せつけら
 れた一人であったことだろう。
  「大海人」を勝利に導いた要因は、今後の自分自身を敗者とする要因に
 なるものであった。

  そして、この「大友」の失敗から得た経験が、「大海人」をさらなる律
 令制の必要と充実へと、傾かせていったのだと思う。

  「大友」は「庚午年籍」に基づき徴兵するという、壮大な実験を成功さ
 せた。
  しかし、それが実践となったとき、旧支配体制の前では、いとも簡単に
 吹き飛んでしまった。

  この新旧二つの制度の中で苦しみ、自らを死に追い込んでいった者がい
 る。


  『日本書紀』は短いながらも、次のようなエピソードを残している。


 
 「これより先、尾張国司小子部連鋤鉤は、山に隠れて自殺した。天皇は
 『鋤鉤は功のある者だったが、罪なくして死ぬこともないので、何か隠し
 た謀があったのだろうか』といわれた。」


  「国司」というのは、朝廷が屯倉の経営などの為に設けた「くにのみこ
 ともち」に「国司」の字が当てられたのに始まるという。

  「大化改新」後に本格的に拡充整備されたらしい。

  「国司」の権限は警察から人民の教化等行政から司法に及ぶというが、
 「大宝律令」以降はともかく、このころの「国司」とは、朝廷からの赴任
 ではなく、朝廷から任命されたか、雇われた地元の名士であって、いわゆ
 る「くにのみこともち」の域を出てないものと思われる。
  「小子部連」は、神武天皇の皇子「神八井耳命」後裔と称し、「尾張」
 の「丹羽氏」とは同族にあたる。
  当然、民衆からの信頼は厚く、指示系統は容易に確立できたのだろう。
 そうでなければ、朝廷の権限の遠く及ばない地域での、データ収集は不可
 能である。

  本来、新体制は旧体制に依存することによって、円滑に進んでいくもの
 であり、対立するものではないが、国家統一もできてないまま急進された
 律令制度下だったからこそ、起こった悲劇であったと言えるのだろう。

  「鋤鉤」は、新旧二つの制度に身を置かねばならなかった結果、自らの
 命を絶ったのである。



   
6.年表


  『真説日本古代史』はいよいよ最終章を迎えたが、「白村江の戦い」以
 降、これまでの整理のため、年表を紹介しておきたい。

  いうまでもなく、大いに私見を交えたものである。


 
662年一月 葛城皇子即位。

 663年八月 白村江の戦い大敗戦。

 663年某月 浜廊事件。大海人皇子、酒宴の最中、長槍で床を突く。

 663年十月 鎌足天智崩御。

 663年十一月 唐の郭務宗ら六百人、送司沙宅孫登ら千四百人、総計二
       千人が、船四十七隻に乗って比知島に到着する。某月、占領
       政府である筑紫都督府が設置される。

 664年三月 冠位二十六階を制定。

 665年某月 都の鼠が近江国に向かって移動した。(倭京の荒廃ぶりを
       匂わせようとしたのか?)

 667年三月 葛城天智、近江国建国。

 668年一月 葛城天智、近江宮を披露。(『日本書紀』の即位記録)

 668年二月 大海人皇子の娘、倭姫王を立てて皇后とした。

 669年十二月 高安城を造って、畿内の田税をそこに集めた。斑鳩寺か
       ら出火。(倭京と近江朝との対立か?)

 670年二月 庚午年籍を作る。

 670年四月 法隆寺から出火。(反庚午年籍から対立の激化か?)

 670年某月 近江朝、遣唐使を送る。日本を名乗る。

 671年一月 大友皇子、太政大臣になる。大海人皇子、軟禁状態になる。

 671年十月 大海人皇子、近江脱出成功。吉野にはいる。

 671年十一月 五重臣と大友皇子会談。

 671年十二月 葛城天智崩御。

 672年五月 大海人皇子、挙兵決意。近江軍と激突。(「壬申の乱」)

 672年七月 瀬田の決戦で近江軍敗北。大友皇子自決。


                     2004年8月 第17部 了