真説日本古代史 本編 第十六部


   
近江の朝廷




   
1.二朝分裂


  
「大原大王(おおはらのおおきみ)が、崩御されたらしい。」


  このうわさは、「近江京」・「倭京」を通じて、まことしやかに流れ始
 めた。
  「大原大王」とは、むろん「藤原鎌足」のことであり、「山科」の事故
 から、半年が過ぎようとしていた頃であった。

  彼は、「大原」(奈良県明日香村小原)を「倭京」の本拠地としていた
 ので、こう呼ばれていたものと推測する。
  飛鳥の中心、「飛鳥坐神社」(あすかにいますじんじゃ)の脇を抜けて
 いくと、「鎌足」の生誕伝承地「大原神社大神宮」がある。
  「鎌足」は百済王家出身なので、ここが生誕地であるはずがないのだが、
 『万葉集』に


  
天皇賜藤原夫人御歌一首
  「わが里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後」  
                     巻2−103 天武天皇 

  藤原夫人奉和歌一首
  「わが丘のおかみに言ひて降らしめし雪のくだけしそこに散りけむ」
                     巻2−104 藤原夫人


  とあるように、「大原」に藤原夫人の住居があったことが窺い知れる。

  藤原夫人とは「鎌足」の娘であり、天武の妃である。このことからも、
 「鎌足」と「大原」の里との深い繋がりを、知ることができよう。

  「鎌足」の墓であろう「阿武山古墳」には、「太織冠」や「玉枕」とい
 う並々ならぬ副葬品はあったが、ただそれだけである。しかも盛り土もな
 い百済式の墓であった。「鎌足」が百済王家出身だからといえば聞こえが
 良いが、『日本書紀』流に言えば「内大臣」なのであるから、誰から見て
 もそれとわかる墓でないほうがおかしいはずだ。

  現代に至るまで発見すらされず、『籐氏家伝』の編者でさえも、阿武山
 を阿威山と混乱しているくらいであるから、その存在を知っている人物は
 極めて少数だったのではないか。

  確かに「鎌足」は、質素な葬儀を望んでいたようであるが、質素と言う
 よりはむしろ秘密裏と言ったほうが良いように思える。

  「鎌足」の死を世間に公表することは、はばかられたのであろう。百済
 式の墓の採用もそのためだったのだと思う。

  「鎌足」が死ぬとどうなるのか。

  答えは明快である。

  「鎌足」の取りなしにより実現した「倭京」・「近江京」の合併、一朝
 体制に亀裂が生じ、ついには崩壊してしまうだろう。
  最終的にはそれが「壬申の乱」という形で表現されてしまった。

  ただしそれは、「大海人」と「中大兄皇子」(以下、「中大兄」と略す)
 との対立だけから、というわけではないと思う。

  「大海人皇子」が、「鎌足」の死を知ることがなかったはずがないし、
 「浜楼事件」で諍いがあった「大海人」と「中大兄」ではあったが、合併
 後の両者は、互いに協力しあって「近江朝」実現に向けて盛り上げていっ
 たのだと思う。

  「鎌足」の娘、「氷上娘」(ひかみのいらつめ)を夫人とし、先のよう
 な無邪気な歌のやりとりをみると、悪く言えば平和呆けをしているのであ
 り、すぐさま対立勢力になるとは考えにくい。

  対立勢力となったのは「大海人」ではなく、「鎌足」によって押さえら
 れてきた、「大伴氏」に代表される「倭京」の古豪族ではなかったか。

  「壬申の乱」で天武方は、「大和」平定に向けて必死の戦闘を強いられ
 ている。逆に言えば、このときの「大和」は、「近江朝」の支配が及んで
 いことになる。
  「大海人」の横やりがあったとすれば、「近江朝」の一朝支配は不可能
 であろう。

  「鎌足」の死を隠さなければならなかった理由とは、「倭京」の古豪族
 の反乱を恐れてのことであったのである。

  ところで、私見による歴史認識によれば、天智朝下で起こったり、遂行
 された主な事柄は、「鎌足」の死に起因するものと考えている。
  そして天智八年の「鎌足」の死を、白村江の敗戦の翌年の664年頃の
 ことと考えているので、近江遷都は「鎌足」死して数年後のこととなる。
 
  それらをふまえた上で、「壬申の乱」前夜とも言える、天智天皇崩御ま
 での両朝の行方を考えてみたい。

  「大海人」は「倭京」を代表する皇子ではあっただろうが、「吉野太子」
 (大海人=古人大兄皇子)と言われていたことからもわかるように、彼の
 本拠地は、「倭京」ではなく「吉野」に移っていた。
  従って「倭京」は実質、「大伴氏」などの豪族連合統治の都だったと思
 われる。
  要所要所で、「大海人」を御輿に担ぎ出すことにより、大義名分を立て
 ていたのだろうと思う。

  「白村江の戦い」の後、準戦勝国であった「倭国」は、勢いに乗じて、
 「大海人」が即位してしまえば良かったのだが、「鎌足」の策謀により、
 「近江朝」との合併が成立した。
  これをやむなく了承した「大海人」に代わって、「中大兄」が統一「百
 済倭国」の大王として即位することなる。

  しかしその政治は「倭京」側が司るというものである。

  結局、近江側は「庚午年籍」(これについては後述する)により、でき
 そこないだが、中央集権体制の原型を、「倭京」にも押しつけていったの
 だが、豪族連合で成り立っていた「倭京」は、これがおもしろいはずがな
 い。
 
  何が不愉快かと言えば、「近江朝」の統治下で、新参者の旧百済官僚の
 政庁が置かれ、自治権を剥奪されたことにある。
  しかし、王なき発起は単なる反乱軍でしかなく、ここは我慢するしかな
 かったものの、


 
 「都を近江に移した。このとき天下の人民は遷都を喜ばず、風諌するも
 のが多かった。童謡も多く、夜昼となく出火するところが多かった。」


  とあることから、この合併遷都に賛同するものは、多くはなかった。

  こんな状況下の中、「鎌足」が落馬事故に遭う。


  
「夏5月5日、天皇は山科野に薬狩りをされた。」


  『日本書紀』には、これ以上の記録はないが、このとき事故に遭ったこ
 とは検証済みである。
   
  「鎌足」は、毎年五月五日を薬狩りの行事としていたのであろう。

  蛇足ながら、おそらくこれが端午の節句の起原ではなかろうかと思われ
 る。
  端午の節句の歴史は古く、その起源は奈良時代に遡る。

  祭りそのもののルーツは、農家での女の子の祭りだったのだが、中国の
 端午の行事と融合し、宮廷行事となったものらしい。
 
  端午というのは、月の初めの午(うま)の日であり、その午(ご)と五
 (ご)の発声が同じであることから、いつしか五日を、それも五月五日を
 いうようになった。
  そのころの五月五日は、病気や災厄をさけるための行事が行われる重要
 な祭日であったらしい。宮廷では、この日に、菖蒲を飾り、皇族や臣下の
 人々に蓬などの薬草をくばったりした。
  また、病気や災をもたらす悪鬼を退治する意味で、騎射などの練武の催
 しがされたという。

  そのひとつが、五月五日の薬狩りだったのである。

  このパフォーマンスは、単に厄よけの行事のひとつとしてとしてだけで
 はなく、「中大兄」と「大海人」の協調を世間に知らしめることにより、
 要らぬ不協和衆を押さえ込む狙いもあったのかもしれない。

  昨年は「蒲生野」、そして遷都二年後(『日本書紀』では天智七年)の
 今年は「山科野」であった。(実際には「鎌足」在命中、薬狩りは一回で
 あった。蒲生野=山科野の記録であり、それは遷都前と考えている。)

  ところがその最中、「鎌足」は走行中の馬上より落下し、瀕死の重傷を
 負ってしまった。

  その五ヶ月後、「鎌足」はついに帰らぬ人となってしまう。

  「鎌足」の死は、トップシークレットにされた。

  「百済倭国」皇帝「大原大王」は、殯りの後、秘密裏に、しかし恐ろし
 いほど丁寧に葬られた。これは「鎌足」生前からの遺言であり、国内を二
 分する無用な争いを避けるための配慮であった。

  なぜなら「鎌足」の死は、「鎌足」の取りなしによって、事なきを得て
 いた「倭京」在住の古豪が、「近江京」打倒を決断するのに、十分な理由
 だからである。

  しかしながら貴人の死は、そう隠しとおせるものではない。

  「鎌足」重体説は、すぐに知られることになったであろう。

  天智七年五月五日、


  
「天皇は蒲生野に狩りに行かれた。」


  とあるが、この直後の秋七月の条に


  
「高麗が越の路から使いを遣わして、調をたてまつったが、浪風が高く
 帰ることができなかった。栗隈王(くるくまおう)を筑紫率に任じられた。
 時に近江国で武術を講じた。また多くの牧場を設けて馬を放牧した。また
 越の国から燃える土と燃える水をたてまつった。また水辺の御殿の下にい
 ろいろな魚が、水の見えなくなる程集まった。
  また蝦夷に饗応された。また舎人らに命じてさまざまな場所で宴をさせ
 られた。人々は、『天皇は位を去られるのだろうか』といった。」


  武術指導や馬の確保、石炭石油の備蓄、また魚の異常行動などは、戦争
 突入を予感させるもの以外の何ものでもない。

  これは、天智七年の記録であるのだが、その後に続く展開が何もない。
 従って、実際には天智八年の「山科野」の直後の事であった、と考えるほ
 うが話のつじつまが合ってくる。

  つまり、「山科野」の薬狩りで事故にあった「鎌足」の、万が一の場合
 に事態に備えた、「近江朝」側の対策であったと考えられる。
  逆に言えば「近江朝」とは、そうしなければならないほど、まだまだ不
 安定であったということだ。


 
 「人々は、『天皇は位を去られるのだろうか』といった。」


  この部分の本文は、


 
 「時人曰。天皇天命将及乎」


  であるが、「天命将及」とは、中国では王朝交代を意味するらしい。

  またおもしろい説に、「中村幸雄」氏の「天命」を「天皇の位につけと
 いう天帝の命令」の意味に読み、通説の「天皇のみいのち、おわりなむと
 するか」は誤読であるといったものもある。

  この場合の天皇とは、通説通りに読めば「鎌足」のことになろうか。

  「中村幸雄」氏の説に従えば、天智のこととなるであろう。

  蝦夷に饗応したり、いたるところで宴を催したりしている。これら一連
 の行動は地場固めであるが、悪く言えば根回しである。
  このような「近江京」の突然の不穏な行動が、「倭京」の古豪族に伝わ
 らぬはずがない。
  この裏には何かあると読んで当然だと思う。

  そして、その古豪族とは、ずばり言って「大伴氏」だ。

  おそらく、「鎌足」落馬のニュースは、このときすでに伝わっていたこ
 とであろう。しかし、その容態までは不明であった。

  ところが近江側の不穏な行動や、人々による王朝交代の噂が、「鎌足」
 危篤を確信させるに至ったのではないかと思う。

  「大伴氏」は、雄略朝をピークとして繁栄した有力氏族であり、最盛期
 には「大連」であった。欽明朝のとき「大伴金村」が失脚しているが、そ
 の後でも、最大勢力「蘇我氏」に次ぐ有力氏族であった。

  孝徳朝では右大臣をも輩出している。
  
  しかし、なぜか斉明・天智朝では重用視されていない。それどころか、
 名前さえみることができず、この時期全くの不明である。

  おそらく「大伴氏」は、最大勢力時の「蘇我本宗家」に従属していたの
 だろうと思う。

  『用明紀』をみると、


 
 「馬子大臣は、土師八島連を大伴毘羅夫連(おおとものひらぶのむらじ)
 のところに使わし、つぶさに大連の言葉を述べさせた。これによって毘羅
 夫連は手に弓箭・皮楯をとって、槻曲の大臣の家に行って、昼夜を分たず
 大臣を守った。」


  「大伴氏」が昼夜守った大臣とは「蘇我馬子」であり、この大連は「物
 部守屋」である。

  このようすからみても、「蘇我本宗家」と密接な関係だったことは間違
 いない。
  「近江京」のルーツは、「葛城皇子」の母、皇極天皇の「多武峰百済」
 である。かつての「蘇我本宗家」は敵国の大王家だったこともあり、この
 ときの「大伴氏」の血が、「乙巳の変」からの直系であるならば、重用し
 にくいだろう。
  特に「大伴氏」は、大王に従いその警護を任務とする、軍事氏族のよう
 に言われているので、なおさらである。

  「蘇我氏」・「巨勢氏」・「紀氏」といった、古くからの中央豪族が、
 「近江朝」の重臣として名を連ねている中、「大伴氏」は登用されずじま
 いだったのである。

  「大伴氏」にとってみれば、「近江京」がいかに寄せ集めの急増国家で
 あったとしても、これではおもしろいはずがない。

  本宗家ではないにしろ、「蘇我氏」は選出されているのである。

  おそらくこの選任は、「近江京」側に警戒心を与えないようにという、
 「鎌足」の案であったと思う。天下の大王「鎌足」の案であればこそ、し
 ぶしぶながらも納得したのである。

  しかし、その「鎌足」も亡き人になった今、「近江京」の必死の隠蔽工
 作のかいもなく、その噂はいずれ「倭京」にまで知られることになるだろ
 う。

  「近江京」は遷都と天智の即位を急がねばならなかった。

  政治の中心が「近江京」に移ってしまい、安定政権を樹立してしまえば、
 「大伴氏」といえども、「近江京」を圧倒できるものではない。

  「大伴氏」単独というのには、少々無理があるかも知れないが、ここで
 は「大伴氏」を中心に成す、「倭京」在京豪族という意味で、それをまと
 めて「大伴氏」とさせていただく。
 
  従って、いくら新王朝転覆を考えていたとしても、それは実現には至ら
 ないのであるが、密かに「新羅」通じていたとすれば、どうであろうか。

  前章までに言及した某国とは「新羅」のことである。

  そしてその結果、抑圧されていた「大伴氏」が、反撃を企て始めたので
 ある。

  「関祐二」氏は、「白村江の戦い」の後、「唐」の使節団が「筑紫」に
 入ったことを『日本書紀』は明記しておきながら、彼らが「大和」まで来
 たという事実がどこにもみあたらないと述べている。

  この「大和」とは「近江朝」成立前の「倭京」のことであるが、「中大
 兄皇子」は敗戦後、大和入りできなかったので、「筑紫」で停戦調停をし
 たのだと結んでいる。当時「筑紫」は、「百済」の占領地域だったので、
 「中大兄」が「筑紫」に居たのはむしろ当然であり、敵陣「倭国」になど、
 行く道理もない。

  ただし『日本書紀』が、「大和」入りしていない事実を、暗示している
 ことは重要な意味を持つ。
  つまり「唐」にとって「筑紫」以外の日本列島は、軍事的にも政治的に
 も、無関心でいられたことに他ならない。
  「筑紫」の占拠で戦後処理が終わったのだから、「大和」と「筑紫」は
 完全に別国であったのであり、戦勝国である「唐」が、このような態度を
 とれるケースは、このときの「大和」は戦争不参加であったか、戦勝国で
 あったかのどちらかである。無論、私は戦勝国の立場をとっている。

  従って「筑紫」には「唐」の占領政府である「都督府」が置かれ、「唐」
 による政治支配となったのだが、さらに、「天智朝」成立後であっても、
 「唐」は「筑紫都督府」以上に入国した記録がない。
  「唐」にとっての問題は、支配地「筑紫」の「都督府」による政治安定
 だったと考えられ、「大和」すなわち「倭京」が倒された場合を除いて、
 他の列島国内の処遇に「唐」は、関心を示さなかったものと思われる。
  暗黙の協力と言えるのかも知れない。

  私見では、都督「鎌足」死亡の知らせを聞いた「唐」は、「定恵」を新
 都督として、送り込んできている。

  そういう前提で『天智紀』をみると、「近江朝」の「唐」に関する外交
 記録が一切ないことがわかる。
  記録らしいものといえば、天智天皇崩御の際、「郭務宗」らによる再拝
 であるが、これは『天武紀』に記された記録であり、実はこれも「筑紫」
 で行われたものであった。

  『天武紀』(下巻)をみれば、外交関係の記録は「新羅」一辺倒である
 ことがわかる。

  このことからか俗に「壬申の乱」は、「百済」と「新羅」の代理戦争で
 あるとさえ言われているが、「吉野」が「新羅」、「近江」が「百済」な
 どでは断じてない。
  「壬申の乱」は「大和」を舞台にして戦った、歴とした(変な言い方で
 はあるが)内戦であり、そこに朝鮮半島問題は介入していないと考えてい
 る。

  さて、「新羅」が「倭京」と通じていたと考えられる一説が、『天武紀』
 上巻にある。


 
 「冬十一月二十四日、新羅の客人金押実(こんおうじつ)らを、筑紫で
 饗応され、それぞれに物を賜った。
  十二月四日武勲を立てた人々を選んで、冠位を加増され、小山位以上の
 位をそれぞれに応じて与えられた。
  十五日、船一隻を新羅の客に賜わった。二十六日、金押実らは帰途につ
 いた。」


  上記がそれであるが、終戦後「大海人」が「大和」に着いたのが、九月
 十二日、岡本宮に移ったのが十五日である。
  同年中に飛鳥浄御原宮を築造し移り住んでるが、戦後処理や恩賞授与、
 で超多忙であろう最中、「筑紫」まで出向き「金押実」らを饗応し、船一
 隻まで与えているとは尋常ではない。

  「金押実」が「新羅」から来たならば、その手段は船であるから、普通
 に考えれば船は必要ないはずである。であるならば、この船は恩賞として
 授けられたものなのではないか。
                        ・・
  さらに興味深いことは、「金押実」らをわざわざ客人と記していること
 である。また『日本書紀』は外国からの使人に対しては、来たことと帰っ
 たこととが、おおよそ一対になって記されている。

  はたして「金押実」は、いつなんの目的でやって来たのだろうか。

  このように詰めて考えていくと、「倭京」への協力としか考えられない
 のである。

  ここから「壬申の乱」へは、加速度をつけて一気に傾いていくが、まだ
 一つ足りないキーがある。
  それは「大海人皇子」の取り込みである。

  「大海人」は天智の娘二人(『日本書紀』では四人)を妃にしている。
 それを受け入れてたと言うことは、不満はあったにしろ、天智朝に協力的
 であった証拠ではないだろうか。

  彼が天智朝で政治的にどのようなポジションにあったかを、『日本書紀』
 は語っていないが、ただ皇太弟であったとしている。
  天智の弟だから皇太弟なのだろうが、実質上の皇太子だったということ
 か。
  しかし、この皇太弟には少々疑問を持っている。

  以下は、『懐風藻』の一説である。


  「皇太子は、淡海帝の長子なり。魁岸奇偉、風範弘深、眼中精耀、顧眄
 “火韋”Y。唐使劉徳高、見て異しびて曰はく、『此の皇子、風骨世間の
 人に似ず、実に此の国の分にあらず』といふ。かつて夜夢みつ、天中洞啓
 し、朱衣の老翁、日を捧げて至り、かかげて皇子に授く。たちまちに人有
 り、腋底より出で来、すなわち奪ひもち去にきと。覚めて驚き異しび、つ
 ぶさに藤原内大臣に語らす。歎きて曰はく『恐るらくは聖朝万歳の後に、
 巨猾の間釁有らむ。しかすがに臣平生曰ひけらく、豈にかかる事有らめや
 といへり。臣聞く、天道親無し、ただ善をのみ是れを輔くと。願はくは大
 王勤めて徳を修めたまへ。災異憂ふるに足らず。臣に息女有り。願はくは
 後庭にいれて、箕帚の妾に充てたまへ』といふ。遂に姻戚を結びて、うる
 はしみす。はじめて弱冠、太政大臣に拝され、百揆をすべて試みる。皇子
 博学多通、文武の才幹有り。始めて万機をしらしめすに、群下畏服し、粛
 然にあらずといふことなし。年二十三、立ちて皇太子と為る。広く学士沙
 宅紹明・塔本春初・吉太尚・許率母・木素貴子等をおきて、賓客と為す。
 太子天性明悟、もとより博古をこのます。筆を下せば章と成り、言に出せ
 ば論と為る。時に議する者その洪学を歎かふ。未だ幾ばくもあらぬに文藻
 日に新し。壬申の乱に會ひて、天命を遂げず。時に年二 十五。」

  これを現代語訳にすると、


  
「皇太子は、淡海帝の長子である。容貌がすぐれて大きく立派で、風采
 は広大で深遠であり、瞳の中は鮮やかに輝き、振り返って見る眼は輝かし
 く光った。唐使の劉徳高が、皇子を見て感嘆して、『この皇子の人相は、
 並みの人ではない。実にこの国の分際の人ではない』と言った。皇子がか
 つて夜に夢見たことには、天の門ががらりと開いて、朱色の衣を着た老翁
 が太陽を捧げやって来て、掲げて皇子に授けた。急に人が脇の小門のあた
 りから出てきて、すぐに太陽を奪い、持ち去ってしまった、と。藤原内大
 臣に、皇子はこの夢のことを詳しく語った。藤原内大臣歎息して言った。
 『おそらく天皇崩御の後に、恐ろしく悪賢い者が隙間をねらうのでしょう。
 しかし、私は常日頃、このような事が有っていいものかと言っていました。
 臣が聞くには、天の道は人に対して公平であって、ただ善を行う者だけを
 助けるといいます。願わくは、大王、徳を修めるよう勤めてください。そ
 うすれば、災異は恐れるに足りません。臣に娘がいます。どうか後宮に入
 れて、妻にしてくださるようお願いいたします。』そして姻戚関係を結ん
 で、皇子を親愛した。やっと二十才になったばかりで太政大臣となり、多
 くの事を統括し成果を試みた。皇子は博学で多くの事に精通し、文芸も武
 芸も才能が有った。あらゆる政治を自ら行い始めるようになって、群臣下
 僚は畏れ従い、かしこまらない者はなかった。二十三才の時皇太子となっ
 た。広く人材を求め、学者沙宅紹明・塔本春初・吉太尚・許率母・木素貴
 子等を招いて、賓客とした。太子は、生まれつき明晰で、元来広く古学に
 通じることを好んだ。筆をとれば文章ができ、一言話せば立派な議論となっ
 た。時に議論する者は、皇子の博学に感嘆した。さほど月日が経過しない
 のに、詩文の才能は日々新しくなって磨かれていった。壬申の乱に遭遇し
 て、天寿を全うできなかった。時に二十五才。」


  となるのだが、これらは「大友皇子」を紹介している一説である。

  説話はできすぎであるし、「鎌足」の娘と「大友」が結婚すると、徳を
 修めることになるのだと読めておもしろいが、「大友皇子」が23歳で皇
 太子になったという記録には、大いに興味を惹かれる。

  もちろんこれだけで、「大海人」が皇太弟ではなかったとは言えないだ
 ろうが、さらに『懐風藻』は次のような一説も記載している。


 
 「神代よりいまに至るまで、わが国の法によれば、子孫が相続して天位
 を継ぐことになっている。もし兄弟が相続すれば、必ず混乱が起きるであ
 ろう。この事態をみれば、誰が皇位につくべきかは自ずと知れているでは
 ないか。それをなぜあれこれと混ぜ返すのだ。」


  これは以前にも紹介したことがあったと思うが、「大友皇子」の子の、
 「葛野王」(かどのおう)により、「軽皇子」(かるのみこ)の立太子を
 決定づけた一言である。

  つまり、天智の後継者は「大友皇子」であったが「大海人」が、無理矢
 理皇位に着いたため、混乱が起きたことを暗示しており、子孫相続が神代
 からのルールであると言うわけである。

  神代からのルールと言えば、天皇の正妃の親族が天皇を補佐し、政治の
 実権を握るというものでもあった。
  天智の正妃は「倭姫王」であり、彼女は「大海人」=「古人大兄皇子」
 の娘であった。これによれば、政治の実権は「大海人」が握るが、彼は天
 皇にはなれないのである。

  「大友皇子」が二十三歳で皇太子になったとすれば、それ以前の天智朝
 では、皇太子は決まっていなかったものと思われる。
  あるいは、天智天皇の在命中には、皇太子の取り決めなどなかったので
 はないか。

  このことは『日本書紀』自ら証言している。

  次は『天武紀』一節である。


  
「天皇は東宮に皇位を譲りたいといわれた。そこで辞退して、『私は不
 幸にして、元から多病で、とても国家を保つことはできません。願わくば
 陛下は、皇后に天下を託して下さい。そして大友皇子を立てて、皇太子と
 して下さい。私は今日にも出家して、陛下のために仏事を修行することを
 望みます』といわれた。」


  天智は「大海人」に譲位しようとするが、「大海人」が謀りことありと
 察し、辞退する有名な場面である。
「大海人」がこれを受ければ、謀叛の心ありとして逮捕・処刑されたと
 いうが、「大海人」が事実皇太弟であったならば、受けることはむしろ当
 然で、そこに陰謀が入り込む余地はない。にもかかわらず天智が、謀叛の
 罪を着せようとするならば、それは奇策でも何でもなく、天智は単にルー
 ル無用の横暴天皇であったことになる。

  天智が「大海人」を試そうというのなら、また「大海人」が天智の意図
 に気づいたというのなら、「大海人」には、皇位継承権がなかったことが
 大前提である。皇位継承権のない「大海人」に譲位を受ける意思を尋ね、
 譲位にうなずいたときこそ謀叛の心ありとなるのであって、皇太弟であっ
 た場合の譲位は当たり前のことと考えてよいではないのか。  

  従って、「大海人」は皇太弟ではなかったのであり、「大海人」の発言
 が真実ならば、「大友皇子」も皇太子ではなかったことになろう。

  「鎌足」死亡の噂を聞きつけた、「大伴氏」が自氏復権をかけて、真っ
 先にしたことこそ、「大津京」に居た「大海人」との密通であろう。

  「大海人」は「吉野宮」に隠遁していた時代があったとはいえ、「近江
 朝」成立後は、「倭京」の代表として送り込まれた、総理大臣的人物にな
 るはずである。
  近江政権の樹立に難色を示しながらも、天智の娘をあてがわれたり、遷
 都後の待遇面を考えると、いつしか、その心「倭京」にあらず、だったの
 ではないか。
  古豪族の顔色を見ながらの政治よりも、中央集権国家体制の整わんとす
 る新朝のほうが、命令系統が一本化していて居心地が良いに決まっている。
  しかも、「大海人」は「浜楼事件」でもわかるように、横暴で熱しやす
 く、大いにワンマンだった、、、いやいや想像でしかないが。

  ただ、天武天皇が神だ神だと言われれば言われるほど、その実態は恐怖
 政治だったのではないかと思えてしまう。

  少々脱線するが、『日本書紀』の天皇の漢風諡号は、「淡海三船」の作
 と言われている。彼は「大友皇子」の曾孫でに当たるが、その彼が名づけ
 た天武という諡号が好意的であるとは到底思えない。

  そこでである。「則天武后」をご存じだろうか。中国史上唯一の女帝な
 のだが。
 
  中国で女帝と呼ばれる人は数多いが、本当に即位してしまったのは「則
 天武后」のみである。「唐」の太宗の後宮に入り、太宗の死後に尼になっ
 たが、次の高宗の寵愛を得、後宮の権力争いの都合で後宮に返り咲く。
  その後は、謀略と殺戮を繰り返し、ついには息子を廃して自ら皇帝とな
 り、国号を「周」とする。
  政権を握るための陰謀や殺戮、また密告を奨励する恐怖政治、「武韋の
 禍」と呼ばれ、完全な悪女帝である。
  もちろん、皇帝として即位したわけであるから、政治面で見るべきもの
 があったのだが、イメージは「西太后」同様、悪女として名高い。
                   
  男女の違いはあるのだが、私は、天武に「則天武后」のイメージを重ね
 てしまう。         ・・
  まさに天武の二文字は、「則天武后」から採ったのではないかと思えて
 しまう。

  まあ、そんなことはないだろうと思うが。



   
2.庚午年籍


  天智十年一月五日のこと、「大友皇子」が太政大臣に任命されているが、
 これは671年の天智十年ではなく、もう一つの天智十年(664)であ
 ると考えている。すなわち『日本書紀』でいう天智三年のことである。


  
「三年春二月九日、皇太子は弟大海人皇子に詔して、冠位の階名のを増
 加し変更することと、氏上・民部・家部などを設けることを告げられた。」


  従ってこの記録と、次の天智十年一月六日の記録は同じときものであろ
 う。

  大臣の任命があったということは、遷都、そして天智の即位の儀が行わ
 れた後のことである。
  『日本書紀』は遷都を天智六年のことと記録しているが、それ以前にも
 「近江」への移動を暗示する記録があるので、正式な発令が天智六年のこ
 とであったのであり、政治運営は既に行われていたものと考える。


  
「六日、東宮太皇弟が詔して、──ある本には、大友皇子が宣命すとあ
  る。──冠位・法度のことを施行された。」


  六日の記録では、「大海人」と「大友」に錯乱がみられるが、このとき
 の「大友皇子」が太政大臣ならば、錯乱の対象になった「大海人」も、太
 政大臣と同等かそれ以上の地位でなければならない。

  同時に太政大臣クラスは二人と要らない。

  順番で行くと、「大海人」が失脚して、或いは失脚させられて、「大友」
 が次期太政大臣に任命されたようにみえる。
  これを事実とすれば、天智は「大友」をかなり露骨に、政権の後継者の
 座に据えたことになる。「大友」の母は伊賀出身の采女であり、身分は高
 くない。「大海人」と比較した場合、血筋の上からは比べものにならない
 差がある。

  通説ではこの処遇を、愛児「大友」可愛さからの任命であり、天皇の地
 位に執着を持った天智が、「大海人」の系統に天皇が移ってしまうことを
 嫌ったためだ、などと言っているようだ。

  天皇の系統を「大海人」に譲りたくはない、という気持ちがあったこと
 は間違いないであろう。しかし、それは単なる愛児可愛さからとは思えな
 い。

  「葛城皇子」が「百済」の亡命貴族を丸抱えして、「近江」にたどり着
 いた時の心境はいかがなものであったのだろうか。いつ「唐」に追撃され
 るかも知れない敗軍だというのに、百済兵士等は行く先々で、まるで侵略
 軍のように振る舞い、どんなにか「葛城」を手こずらせたことだろう。
  それをなだめ、冠位・報奨を与え、まとめ上げるために「葛城」は心身
 ともズタズタになっていたことだと思う。

  そして「浜楼」での政権交渉。「鎌足」の心を動かしたのは、「葛城」
 の命をかけた迫力だったのではないだろうか。

  もちろん「葛城」にも、そうしなければならない理由があったことだと
 思う。母「斉明天皇」が九州で亡くなり、「余豊璋」を朝鮮半島に送った
 後の「葛城」は、倭地で生まれ、朝鮮半島に一度も渡ったことがないまま
 に、全「百済」の実権を握らされたのであるから、その重圧は計り知れぬ
 ものであったことであろう。しかも気づけば、敗軍の総大将になっていた
 という、おまけまで付いてしまった。

  もはや戻る場所はない。「近江」は命がけの建国であった。

  政治は「大海人」が担う約束だったとはいえ、それは「鎌足」存命中の
 こと。「鎌足」の存在によって保たれてきた政界バランスは、「鎌足」の
 死後、一気に崩れていった。

  天武十三年の詔に、


 
 「そもそも政治の要は軍事である。」


  とある。おそらく皇太弟時代以前からの「大海人」の抱負なのであろう。

  敗戦後を目の当たりに見てきた「葛城」にとって、そんな「大海人」の
 言葉は、暴言以外の何ものでもない。また「浜楼事件」での「大海人」が
 とった態度も、「葛城」の心証をいたって悪くしていた。

  天皇に即位後、旧「百済」諸々の実権を握った「葛城」は、「鎌足」な
 き今、「大海人」に政治を任す気などなれなかったのだと思う。

  そして、「大友皇子」を太政大臣に据えた。

  「大海人」に主権を渡すとみせて、遷都後「近江朝」を開けてみれば、
 天智・「大友皇子」体制だったのである。

  こうなってくると、天智に協力的だった「大海人」も穏やかであろうは
 ずがない。

  天智の掟破りにより、合併はあきらかに失敗である。

  元来、武力解決を好む性格だったであろう彼は、「近江朝」と決別して、
 打倒天智の狼煙を上げることも可能であった。

  ところが、それができなかったのである。

  「大和」の古豪族にしたところで、「近江京」との合併には何らメリッ
 トを見出せなくなったばかりか、主権が「近江京」に移ってしまい、与え
 られる側になってしまうことに、納得いくはずがない。

  「鎌足」が亡くなり、「大海人」が排斥されたとなると、決別・決戦の
 声も聞こえようというものだ。

  しかし、「倭京」の思いは通じなかった。こうなると、合併準備のため
 「近江」にいる(いたであろう)「大海人」は人質同然だからである。
  おそらく厳しい監視の目にさらされることになったことだろう。何か行
 動起こせば、すぐ罪に問われ処分されることは目に見えている。
  それを押して、「倭京」に帰るとなると、まってましたとばかりに、謀
 叛の罪を着せられるだろう。

  「大海人」の吉野入りは即日出家して行われているが、天智がこれを許
 したから実現したのであり、自由に出国できなかった様子がみてとれる。 
  もちろん監視下なのであるから、外出さえしなければ、外部への連絡や
 面会はできたことであろうが、普通に考えれば、何もできないのと同じで
 ある。

  そこへきてさらに、「倭京」の古豪族を刺激する事態がおとずれた。

  それが天智九年二月の庚午年籍の作成である。


  
「庚午年籍の実物はのこっていない。しかし『大宝令』にはこれを永久
 に保存することが定められているし、奈良時代には庚午年籍を根拠として、
 氏姓を改めることを願いでて許されているものがたびたびあり、これが実
 際に作られたことは確かである。
  西は九州から東は常陸・上野、すなわち当時の朝廷の勢力下にあった日
 本全体の地域にわたって制作されたことも、奈良・平安時代の記録によっ
 て判明する。さらにその数量は、九州諸国のものだけでも770巻、上野
 国だけで90巻以上あったこともわかっている。この九州770,上野9
 0という数は、8、9世紀の九州と上野国に存在した郷の数にちかい。天
 智九年の戸籍の制は、日本国内のすみずみにまでかなり行きわたっていた
 と考えてよいのである。」(「日本の歴史2」古代国家の成立 より「直
 木孝次郎」著


  『日本書紀』には、次のように記されている。


  
「二月、戸籍を造り、盗人と浮浪者とを取り締まった。」


  この庚午(670)年間が完成年とすれば、この制度が地方に行き渡る
 までには、それ相応の年月を必要としたであろうことからみても、何年も
 前から取りかかっていたことに違いない。ということは、少なくとも近隣
 諸国については、初期の段階にある程度まとめられていたのだと思う。

  庚午年籍の目的とは、戸籍を作成し人口と石高を正確に知ることにあっ
 た。こうすれば、徴収税額が把握でき国家予算が計上できる。

  確かに国税は一本化したほうが、徴収する側にとってもされる側にとっ
 ても都合がよいに決まっているが、それはあくまでも、統一化された国家
 においてのみ有効であって、内戦時にはかえって仇となる。

  合併が不成立に終わった今、合併を前提に作成された戸籍は、「倭京」
 の勢力を「近江京」に知らせただけの代物になってしまったわけだ。
  それまでにも、遷都に向けて着々と準備が進められてきたため、首都機
 能の多くは、「大津」に集約されていたであろう。
  これらのことが順次遂行される中、「倭京」の勢力は丸裸にされ、首都
 機能を失った「倭京」は、完全に「近江朝」の勢力圏に収まってしまった
 のである。

  対等のはずであったこの度の合併も、結果的には「近江京」による吸収
 合併であり、これにより国家としての「倭」は自然消滅、単なる地方都市
 で始まった「近江京」は新たな国家を宣言した。政権が完全に入れ替わっ
 たのである。

  さて、「鎌足」の死後、これ以降、この二月の前後に興味深い記録が三
 つある。


 
「十二月、大蔵に出火が あった。
  この冬、高安城を造って、畿内の田税をそこに集めた。このとき斑鳩寺
 に出火があった。」

  「二月、戸籍を造り、盗人と浮浪者とを取り締まった。同月、天皇は日
 野にお越しになり、宮を造営すべき地をご覧になった。また高安城を造っ
 て穀と塩とを蓄えた。また長門に一城、筑紫に二城を築いた。」

  「夏四月三十日、暁に法隆寺に出火があった。一舎も残らず焼けた。大
 雨が降り雷鳴が轟いた。」



   
3.民衆の不満と倭豪族


  これによると「高安城」はまるで穀倉のようであるが、単なる穀倉であ
 るとすれば、まったくもって不自然である。というのは、この地は奈良県
 に隣接しており、「近江」よりもむしろ「大和」へのほうが近い位置にあ
 るからだ。
  「近江」より遠く離れた大阪府八尾市の高安の地に、城と呼ばれる穀倉
 を造ること事態、利便性が全然みられない。いったい何をもって、この地
 が選ばれたのだろうか。

  また、「斑鳩寺」とは「法隆寺」のことである。従って、違った史書か
 らの引用による重出の可能性も拭えないが、「高安城」に兵糧が集められ
 ると、「法隆寺」から出火している偶然も、できすぎているような気がす
 る。

  ここで、「法隆寺」の再建・非再建論を問うつもりはないが、今日では
 現在の「法隆寺」の食堂付近より、焼土焼瓦が出土するにいたり、天智朝
 の火災により一舎残らず焼け、現在後に再建立したものであろうというこ
 とになっている。しかし、再建立された時代については確証がない。

  実は、これら一連の事件については、第14部で詳しく述べてあるので、
 お忘れの方は再読して頂きたいのだが、「高安城」は対「倭京」の最前線
 基地だったのである。

  すると、「法隆寺」とは。

  ご推察の通り、「倭」豪族の軍事拠点であり、やはり前線基地である。

  「倭京」は「近江京」の勢力圏内に取り込まれるに連れ、軍事的要素が
 著しく欠如してしまったことだろう。中央集権体制の進む最中、勢力圏内
 とは管理統制下に置かれることに他ならない。「倭」豪族らは「倭京」を
 後にし、新たなる防衛網を築く必要があった。

  その一つの拠点が「法隆寺」であると思う。

  その中心的豪族は、先に述べたとおり「大伴氏」であると考えている。

  『日本書紀』から推察できる「大伴氏」の採った主な行動とは、次の通
 りである。

  「大伴氏」の中心的人物である「大伴連馬来田」(おおとものむらじま
 ぐた)は、自ら「吉野宮」の備えとなり、弟の「吹負」(ふけい)を、密
 使として「近江京」に送り込み「近江朝」内部に近づかせた。

  「大伴朴本連大国」(おおとものえのもとむらじおおくに)は、近隣諸
 国の猟師や山賊の首領を味方につけるべく、説得して回った。

  「大伴連友国」(おおとものむらじともくに)は「倭京」に残り、他の
 豪族等と結集して、反「近江朝」勢力を確立していった。

  こうして収集された情報は、「馬来田」のもとに集結し、「法隆寺」−
 「倭京」−「吉野宮」という、一直線の軍事警戒拠点ができあがった。

  そして、それに対抗するために「法隆寺」に対峙して建造された城こそ、
 「高安城」だったのである。

  そもそも「大伴氏」ら「倭」豪族が、「近江朝」に反発した理由とは、
 「倭京」が豪族連合による合議制で成り立っていたのに対して、「近江京」
 は、天皇を中心とした、専制的な中央集権国家を目指したことであった。

  『記紀』は天皇を万世一系と主張するが、それが事実でないことくらい
 今や常識である。大化の改新以前は、その時代・時代の有力豪族らに推挙
 された天皇家の血筋と称する人物が、即位していたのに過ぎないのであっ
 て、結局、豪族の力関係で天皇が決定されていたのである。

  従って天智が通説に言われるように、「大友皇子」を即位させるため、
 皇位継承は中国にならって、「長子相続制」の採用を強行していたとすれ
 ば、豪族らの反発は必至であったし、実際そうだったと思う。
  「近江朝」の成立は「倭京」にとってみれば、対岸の火事であった。つ
 まり他国の出来事にすぎなかったのであるが、新法の強制力が「倭京」に
 まで及び、それを排除できないとなると、豪族らには不満が広がり、それ
 が反近江朝という大きなエネルギーになっていった。

  中でも豪族らにとって大きな打撃となったのは、中央集権政治からなる
 租税の負担増である。

  租税には労働力・兵力といった無形のものと、ずばり穀類といった有形
 のものがあった。被支配者層の民衆は、それらをその土地の支配者層であ
 る豪族に上納する見返りに、安全が保証されていた。
  しかし、ひとたび他の地域から、さらに技術力・武力などの力を備えた
 豪族が進出してくると、従来の支配者層であった豪族は吸収され、民衆も
 それに従った。このようにして、力のある豪族はますます力をつけ、地域
 社会としてのクニに君臨するようになった。
  徴収された租税は、そのクニために使用され還元されるので、それなり
 にバランスがとれていた。
  天皇といえども、そのような豪族に養われていたのである。

  それが天皇を中心にした中央集権政治に取って代わると、彼ら豪族は、
 政府の高級官僚として新たな支配階級となるのだが、その代償として、公
 地・公民の制により私有の土地と兵力を失い、庚午年籍がさらに拍車をか
 け、それを決定的にした。

  こうなると租税は、土地に対して頭割りに徴収されるようになる。

  旧来、労働力と土地が豊富で出来高の高いクニは、余剰が多く裕福で、
 租税も比較的低い傾向にあった。それが、新たな労働力を生み、さらに富
 んだクニになっていったのだが、貧富の差に関係なく一律に課税されると
 なると、租税の負担は重くなっていく。しかも、クニではなく政府へ徴収
 されるわけだ。

  官僚となった豪族も、政府から給金として支給されるようになり、仮に
 それが同額だったにせよ、待遇面では豪族でありながら、被支配者層にな
 るわけである。

  中央豪族でさえこの有様なのであるから、地方豪族に至ってはいっそう
 待遇が悪い。高級官僚の地位にはつけず、単なる地方役人の立場を与えら
 れ、中央から下ってくる国司に仕えることになってしまった。

  このような状況から、不満が広がらないわけがない。

  しかし、新たなる国家組織の早期成立は、当時の国際情勢の中で必要不
 可欠なものであった。その情勢が、豪族らの不満をかき消していったので
 ある。

  668年、朝鮮半島では「高句麗」が滅んで、「新羅」に統一された。
 そしてその翌年、「唐」・「新羅」の間で半島独立戦争が勃発した。
  この戦乱の過程で「白村江の戦い」があったわけである。

  「白村江の戦い」の後、「唐」は「百済」の旧領地であった「筑紫」に
 「都督府」を置き、北九州を占拠したのであったが、これに端を成して、
 「葛城皇子」が「近江京」建設に動き出した。一般的には国防上の理由か
 らの建設だそうだ。

  ところが「唐」の「筑紫」支配に危惧を抱いたのは、「近江京」だけで
 はなかった。
  なんと準戦勝国であった「倭国」、すなわち「倭京」もまた、これに警
 戒を示したのである。

  「唐」が「筑紫」に駐屯するようになれば、「倭」本国侵入は目前のこ
 とになろう。こうなっては、国を二つに割って争ってるどころではない。
 国力を二分している内に、「唐」につけ込まれてしまう可能性は高い。
  幸いにも「唐」のやり方は、蛮夷をもって蛮夷を制すであり、属国「倭」
 によって「筑紫」を治めさせたため、それ以上の東進は免れることができ
 たが、逃げる「百済」を追って、「唐」が瀬戸内を東進してきた場合、は
 たして「倭京」と言えども無傷でいられただろうか。
  大国「唐」相手に、豪族単位で対処できることは皆無である。

  そこへ、「鎌足」煽動の合併話が舞い込んだ。「倭京」側は、難色を示
 しながらも、生き残りをかけて合併を容認したのである。

  「新羅」は半島の統一に「唐」の威を借りたのだが、「唐」は半島支配
 の拠点にとして、かつての「高句麗」の領土だった「帯郡」から「遼東
 郡」にかけてを占拠した。これで「唐」による半島運営の足がかりはでき
 た。
  その後「新羅」と「唐」は戦争状態になり、676年、「新羅」は百済
 人と高句麗人の協力を得て「唐」を撃破し半島を完全統一するが、「唐」
 の政策の失敗は、「新羅」を自国の属国として扱ったことである。

  偶然にも、朝鮮半島はこのような状態だったからこそ、「唐」・「新羅」
 の日本列島本州への進行は避けられたのかもしれない。
  しかし、そうなる前だからこそ、畿内統一は急務だったのである。

  「鎌足」亡き後の畿内統一は、蓋を開けてみれば50:50の対等合併
 でなく、100:0という吸収合併の有様であった。

  旧豪族らの不満は日を追うごとに噴出していき、それは近畿外豪族にま
 でも波及していったことであろう。ただ畿内とは違い、まだ傍観できる余
 裕を残していた。

  豪族の不満は、そのまま民衆の不満でもあった。豪族に課せられた租税・
 労働の義務は、ダイレクトに民衆に響いたからである。
  租税徴収の増大は、新都建設のためにかり出されていった、男手の後に
 残された者達にとって、大変過酷なものとなった。

  しかも、民衆の支持を得られない制度は、たとえそれが「近江朝」立案
 の法でなくても、「近江朝」のせいにさせられたという、おまけもついて
 いたことと思う。
  つまり、悪いことはみな「近江朝」のせいにしておけば、民衆直属の豪
 族らにとって、これほど都合が良いことは他になかったのである。

  こんなことも手伝って、「近江朝」の政策は、民衆に多大なる反感を植
 え付け、「壬申の乱」の地盤となっていったに違いない。

  ただ、この内乱で非常に興味深いのは、民衆が自ら蜂起して反乱を起こ
 したわけではないということである。
  通常このような内乱の後は、王権が崩壊し民衆の政府が成り立っていく
 はずなのだが、「近江朝」崩壊後は、天武天皇という「近江朝」以上に、
 律令制を強化させた政府の登場となる。これは武力による恐怖政治ではな
 かったか、と推察するのだが、いくら武力を持ってしても、クーデターに
 より天皇制が崩壊してしまっていれば、天武天皇が即位することなく共和
 制政治に移行していったであろう。

  ところが「壬申の乱」後は、そうなっていない。

  従って、内乱の根本的原因は「近江朝」の布いた制度にあるのではなく、
 「近江朝」の存在そのものにあったものと思われる。
  もちろん、豪族の不満・民衆の不満は、その要因となったことは事実で
 あろう。

  ところで「新羅」の半島独立戦争は、原因がナショナリズムによるとこ
 ろが大きい。
  というのも、「新羅」は漢民族国家であり、当地の村落が共同体となり、
 建国していった共立王権であった。これに対して、「高句麗」・「百済」
 は遅れて朝鮮半島に移入してきた北方の扶余民族に支配された、言うなれ
 ば乗っ取り王権であった。
  従って漢民族からすれば、「高句麗」・「百済」は、朝鮮半島への侵略
 集団であり、駆逐されて当然という思いがあった。

  旧来からの「倭」在地豪族・民衆もまた、同様な思いがあったのではな
 いだろうか。
  一言で言えば、「近江朝」は侵略王朝であるということだ。

  白村江の大敗戦の直後こそ、「筑紫」が「唐」の軍事支配地域になるな
 ど、軍事的緊張の高まりから、国家統一の機運となったのだが、その後、
 なおも続く朝鮮戦争により、「唐羅」に「倭」地に侵入の意思がないばか
 りか、連合していた両国が戦争状態になると、一転して「近江京」の存在
 そのものが、疎んじられるようになったのではないか。

  ちなみに『日本書紀』に従えば近江遷都は、天智六年(667)であり、
 「中大兄皇子」の即位は、その翌年の天智七年(668)である。(『日
 本書紀』は天智六年三月即位という、異説も記している。)
  そしてこの668年に、「唐」は「高句麗」を滅ぼしている。

  そもそも、初めから「近江京」遷都を喜んでいる人民は、いなかったの
 であり、近江遷都自体に国防上の理由がなくなると、「近江京」は全然意
 味をなさなくなってしまう。
  その上に庚午年籍や近江令といった制度を布いて、「倭京」が「近江朝」
 に管理下に置かれることになったわけである。「倭京」在地豪族や民衆の
 不満は一気に蔓延していったものと推察する。

  突然に、今まで見たこともない「近江朝」の役人が、数多押し寄せてき
 て、「倭京」政庁を押さえ、自治権を侵害していくのである。その役人と
 は、新政府が定めた新冠位を名乗る、旧「百済」の亡命貴族であり、「倭
 京」が何たるかをを知りもしないで、「近江朝」の権威を振りかざし、公
 然と振る舞ったとしたら、それを目の当たりに見た人民の不満は、いくら
 ばかりのものだったのであろうか。

  民衆あっての豪族である。いくら勢力の強い豪族であるといっても、そ
 れは民衆あってのこと。民衆が兵馬を出し、租税を納めるのである。
  民衆の心が離れてしまえば、豪族など一介の親類集団と何ら変わりがな
 い。

  それ以前の内乱は、例えば「乙巳の変」をあげてみると、『日本書紀』
 によれば「蘇我氏」対「天皇家」(百済分家か?)というように、貴族・
 豪族間の争いでしかなく、敗北した豪族についてた民衆は、それに勝利し
 た豪族がそのまま受け継ぐといった図式であり、単にトップが入れ替わっ
 たのに過ぎなかった。
  従って、前支配者より悪い政策を布かなければ、何ら問題など起きない
 はずだった。

  「大化の改新」により、民衆は土地の私的使用権を得た。「改新の詔」
 は豪族に厳しく、民衆、すなわち農民に手厚い法制度であった。

  ところが『日本書紀』は、そんな改新の法制度により優遇された民衆で
 すら、「近江」遷都を喜ばず、昼夜なく出火したというのだから、「近江
 朝」の布いた制度は改悪であり、いたるところで反「近江朝」の勢力が結
 集していたのだろう。

  しかし所詮は、局地的なゲリラ戦にすぎなかった。

  かつて、「多武峯」に石垣を組み、籠城そしてゲリラ戦を決め込んだ、
 旧百済政権と大した違いはなかった。そんなゲリラ戦でしか対抗できない
 「倭京」側は、軍事物資・兵馬とも圧倒的に不足していたに違いない。
  しかし「大伴氏」は、一族を挙げて諜報活動による情報戦を企み、確実
 にその成果をあげていった。おそらく「大津京」で「近江朝」の監視下に
 ある「大海人」と、密に連絡を取っていたものと思われる。

  「大海人」と「大伴氏」の関係を、『日本書紀』は何も語っていない。

  しかし、『天武壬申紀』に


  
「この日、大伴連吹負は、ひそかに留守司の坂上直熊毛と謀って、一人
 二人の漢直らに語り、『おれは偽って高市皇子と名のり、数十騎を率いて、
 飛鳥寺の北の路から出て、軍営に現れるから、お前たちはそのとき寝返り
 をうて」といった。


  とあることから、「大海人」の皇子、「高市皇子」の名をかたっても、
 とがめられない親密な関係であったと推察する。



   
4.大伴氏の奇計


  かたや「法隆寺」を前線基地にしての軍事行動は、日増しに他の小豪族
 の力が結集したことも手伝って、「近江朝」の兵糧基地「高安城」に対峙
 した。

  「倭京」を制圧した「近江朝」側の兵糧は、「高安城」から供給されて
 いたものと思われる。つまり「倭京」側による古京回復の一番の早道は、
 「高安城」を陥落させることであった。

  しかし、「法隆寺」は二度に渡る「近江」側の攻撃の末、逆に落とされ
 ている。

  こうなってくると、「大伴氏」の諜報活動だけが頼りだった。

  「大海人」が「大津京」を脱出して、吉野宮の次に向かった先は、彼の
 湯沐邑(ゆのむら)である「美濃国安八磨評」(あはちのまこおり、現在
 の岐阜県安八郡)であったことになっている。
  湯沐邑とは、王族の私有地であり、国家によって指定された一定の戸か
 ら徴収される租税を自己の収益とできる邑であり、貴族の食封と似たシス
 テムである。
  一口に「安八磨評」といっても、現在の安八郡のみならず、その北に広
 がる池田郡も含む、広大な領域であったらしい。
  「大海人」が「安八磨評」をどのように手に入れたかは、全然わからな
 いが、「安八磨評」を構成している郷には、次のようなものがあり、その
 理由を推測できる範囲ではある。


 
 「額田」・「壬生」・「小 島」・「伊福」・「池田」・「春日」
                            (以上、池田郡)

  「那珂」・「大田」・「物部」・「安八」・「服織」・「長友」・「春
  部」
                            (以上、安八郡)


  この中には「額田」、「大田」といった名の郷があり、これが「額田王」
 や「大田皇女」といった妻の名と共通することは、偶然とは言えないだろ
 う。 

  挙兵した「大海人」が、「吉野」から「安八磨評」に向けて、スムース
 に脱出できたのは、「大伴氏」の活動の確固たる成果であろう。

  いずれ後述するが、「黄書造大伴」(きふみのみやつこおおとも)らが、
 駅鈴(駅馬使用のための公用の鈴)を求め失敗したため、すなわち馬を得
 ることができなかったため、「大海人」は、やむを得ず徒歩で東国に出発
 したが、思いかけず「県犬養連大伴」(あがたいぬかいのむらじおおとも)
 に出会い乗馬を得た。
             ・・・・・
  「県犬養連大伴」とは、思いかけず出会ったと記されているが、偶然な
 どではなく、「黄書造大伴」からの伝令により、駆けつけたとしか思えな
 い。

  「甘羅村」では、猟師の首領であった「大伴朴本連大国」が、猟師を連
 れて一行に加わった。

  このことは先に述べている。

  「壬申の乱」は、例えば「近江朝」の五人の臣が、「大友皇子」を奉じ
 て、天皇の前に誓ったことから始まり、その経過から戦況まで1600年
 の「関ヶ原の戦い」にそっくりであると思う。

  もしも、「関ヶ原の戦い」がフィクションであるならば、「壬申の乱」
 をモデルにし、戦国時代をモチーフにして作られた、ストーリーであると
 いっても過言ではないだろう。
  「天智」・「大海人」・「大友」は、「秀吉」・「家康」・「秀頼」と、
 それぞれオーバーラップさせることができよう。

  さしずめ「大伴朴本連大国」は、「織田信長」の「本能寺の変」の後、
 命からがら伊賀越えをしなければならなかった時の、「家康」を先導した
 「服部半蔵」に、その姿とコースまでも重ねることができる。

  「半蔵」は伊賀忍者の首領であった。

  あるいは、「大国」もそうであったかもしれないなどと想像してしまう。
  
  「伊賀」は「大友皇子」の母の郷である。言うなれば、敵地である。

  夜の闇夜に紛れて敵地を通過しなければならなかった、「大海人」一行
 にとって、狩猟を生業としていたであろう「大国」は、伊賀の山越えの先
 導者として、これ以上の適任者はいなかったはずである。

  『日本書紀』には、


  
「夜半に隠郡(名張郡)につき、隠の駅家を焼いた。村の中に呼びかけ
 て、『天皇が東国においでになる。それゆえ人夫として従う者はみんな集
 まれ』といった。しかし誰一人出てこなかった。」


  とある。

  駅家(うまや)を焼かれたのは、なにも「名張」だけではない。「伊賀」
 の駅家もまた焼かれているのである。「伊賀」と接する「名張」は、通過
 しなければならない敵地であり、広い意味での「伊賀」であったに違いな
 い。

                    2004年3月 第16部 了