真説日本古代史 本編 第十五部 壬申の乱へ 1.只御クツノ落チシヲ 『日本書紀』は天智八年冬十月の条として、次のように記している。 「十五日、天皇は東宮太皇弟を藤原内大臣の家に遣わし、大織の冠と大 臣の位を授けられた。姓を賜わって藤原氏とされた。これ以後、通称藤原 内大臣といった。十六日、藤原内大臣は死んだ。」 藤原内大臣とは、無論「藤原鎌足」のことであるのだが、「藤原」の姓 がこのとき天皇から賜られたとすれば、それははなはだ疑わしい。 十五日に「藤原」姓を賜って十六日に亡くなったのだから、「鎌足」が 「藤原」と名乗れた時期は、わずか一日のことである。これでは、まるで 死ぬタイミングがわかっていて、送られたようなものである。 もっとも、ここで深く言及するつもりはないし、いずれ記す機会もある だろうが、おそらく「鎌足」の死後、殯のうちにそのような処遇にされ、 生前のこととのように記されたのだと思う。(あるいは「藤原」の初代は 「不比等」であったのではないか。) 第一、『日本書紀』ですら時間の混同があり、それを裏づけている。 天智八年の条には、 「夏五月五日、天皇は山科野に薬狩りをされた、太皇弟・藤原内大臣及 び群臣らことごとくお供をした。」 とあり、これは「鎌足」の死より、半年近くも前のことでありながら、 「藤原」と記している。 さらに大織冠は、「百済」式の大王位の証だったのではないかとも考え られる。 織冠を手にした人物は、文献上わずかに二人である。一人は「鎌足」で あり、他の一人は「余豊璋」である。 その「余豊璋」は百済王の称号と同時に、織冠を手にしている。 そして「鎌足」以降、大織冠を授けられた人物は、誰一人として存在し ない。臣下としての最高冠位であったとすれば、その後授与された人物が いても何ら不思議ではない。 それが「百済」滅亡とほぼ同時期であるので、大織冠は百済王の証と考 えたくなる。 そうすると「鎌足」は、「倭国」、「筑紫都督府」の二国間の王であっ たばかりでなく、最後の百済王でもあったことになる。 とは言うものの、断言できる史料があるわけではない。しかしここはひ とつ私見に沿って、「鎌足」は皇帝だったとして話を先に進めるが、先述 の天智八年の条は、『扶桑略記』の次の記録に対応するのではないか。 「一に云ふ。天皇馬に駕し、山階郷に幸す。更に環らることなし。永く 山林に交わり、崩ずる所を知らず。只履沓の落つる処を以て其山稜と為す」 この記録からだけでは、「山科」に行ったことは認められないが、『水 鏡』では、 「十二月三日ぞ、御門は御馬に奉りて、山科へ御座て、林の中に入りて うせ給う。いずくに御座と云事知らず。只御くつの落ちしを陵に籠め奉し 也」 「新井白石」の『天智朝』では、 「昔人相ひ云ふ、帝山科に幸し、其中に跨り入りぬ、ゆく所を知らず」 としており、「山科」行きがはっきりしている。 そして恐ろしいことに、天皇はここで行方不明になっており、現存する 天智天皇陵は、 「只履沓の落つる処」 に定めたことになる。 ところが、現在の天智天皇比定陵には問題がいくつかあり、名古屋女子 大学教授の丸山竜平氏が、大変興味深いことを述べられている。 (ア)被葬者は不明である。 (イ)(上八角下方墳とも言われている形状から、)天皇陵の可能性は 極めて大きい。 (ウ)被葬者は天皇もしくはそれに匹敵する人物である。 (エ)その所在地からみて、藤原氏に深く関わる人物。(『日本書紀』 によれば「鎌足」も「山科」に葬られている。) (オ)その築造地点から、藤原宮もしくはその造営と深く関わる人物で ある。 (カ)築造年代は7世紀の第3四半期を中心にその前後を含めた時期。 (キ)古墳は順調に仕上がっていて、壬申の乱での混乱は想像できず、 『日本書紀』の記載内容とそぐわない。(古墳の築造は壬申の乱 の勃発により完成しなかったのではないか。『続日本紀』文武三 年十月条に斉明陵との同時造営開始の記録あり。) 但し、( )内文は筆者の追記である。 これらのことを総合して考えると、天智天皇比定陵には天智天皇が埋葬 されているとは断定できなくなる。 『日本書紀』による天智とは、「葛城皇子」のことであるのだが、私見 によれば「藤原鎌足」もまた同じ時期、天皇であった考えている。 この時代が天智の時代であったならば、「鎌足」もまた「天智」である。 私見で言うところの「鎌足天智」である。 ずばり言って現天智天皇比定陵は、「鎌足」の陵墓ではないかと思う。 この陵墓を鎌足陵と比定するのは、私見も含めて「丸山氏」の説かれた 「(エ)その所在地からみて、藤原氏に深く関わる人物。」 を重要視するからである。 「丸山氏」は、この点を次のように説明している。 「すでに周知のように藤原宮の西京極(下ッ道)は北上して平城京の朱 雀大路となり、また平城京の西大路は平安京の東大路とほぼ同一線上にあ る。この点を敷衍すれば藤原宮の中心軸の延長線上北端にこの現天智天皇 陵が位置することになる。ひるがえって、藤原宮の中心軸の南延長線上に は、天武・持統天皇陵や中尾山古墳(推定文武天皇陵)が位置することに なるが、いわばこれに対して北への延長線上にこの天智天皇陵がくるとな れば、その被葬者像をどのように考えればよいのであろうか。<中略> それにしても、現天智天皇陵が基点となって藤原宮の主軸が決定をみた とまではいい難いとすれば、逆をもって両者の関係を推察しなければなる まい。さもなくば、天智天皇が藤原京・宮の構想を抱き、その宮都の条坊 の地割作業を進めていたとの推察に立たねばならないことになろう。」 つまり、「藤原京」は現天智天皇陵を基点として設計されていることに なり、そうであれば、その関係から藤原京こそ天智構想による、最終的遷 都先であり、天智の死後天皇の意志を汲み、藤原京が建設されたか、藤原 京の後、中心軸上に天皇陵を造ったかのどちらかであることになろうが、 そのどちらでもないことは説明の必要がないだろう。 天智をして「藤原」の名称は想像できない。 ただし、この天智が「鎌足天智」であった場合を除けば、である。 そして天皇陵のあるここ「山科」は、藤原氏一門が館・屋敷を構えてい た重要な拠点であったことを、付け加えておかなければならない。 ところで、多武峯の「談山神社」の奧に、「御破裂山」と呼ばれる山が ある。ここは古くから「鎌足」の墓と言われている。 平安時代から、 「藤原鎌足の墓は、初めは摂津の安威にあったが、後に大和の多武峯に 改葬された。」 という説があったようで、「御破裂山」は、まさにこれにあたることに なる。 余談になるが、なぜ「御破裂山」と呼ばれているかというと、「国家の 一大事のときにこの山が鳴動したからであり、それは「鎌足」の怒りであ ると言われている。平安時代から江戸時代にかけて、三十数回も鳴動した らしい。 さらに、昭和9年に発掘調査された、茨木市大字安威および高槻市奈佐 原にまたがる「阿武山古墳」からは、昭和62年になって、当時のX線写 真がコンピューター解析されたことにより、「太織冠」らしきものの存在 が確認されていることから、今日ではこれぞ「鎌足」の墓と断定している。 ちなみに当時の出土品は、ほとんど埋め戻されている。詳しくは、特別 編『攝津阿武山古墳調査報告書』をご覧戴きたい。 ただし、これを疑問視する意見が少なからずあることも、付け加えてお かなければならないだろう。 初めは摂津の安威に在ったという「鎌足」の墓は、その場所から「阿武 山古墳」の間違いであると考えられなくはない。 話は脱線するが、茨木市西安威には「太織冠神社」もあり、『大織冠鎌 足公古廟』の石柱が立てられた古墳が、そこの頂上にある。 この石柱の銘が文政七年なので、「鎌足」の墓「安威」伝説は、古来よ り真実味をもって語られていたのだろう。もっとも今となっては、この古 墳の石柱銘も苦り切っているであろうが。 「御破裂山」への改葬は、遺体の移動をともなわなかったことになる。 ただ一つ問題がある。私見では、現天智天皇比定陵もまた「鎌足天智」 の陵墓であるが、このことはどのように考えればいいのだろうか。 おそらく『扶桑略記』にもあるように、ここには誰も埋葬されていない のであろう。 これを裏付けるかのように『万葉集』には、次のような歌が掲載されて いる。 「石川夫人の歌一首 ささなみの 大山守は誰がためか 山に漂結ふ 君もあらなくに」 一般にこの歌は、天皇はもうすでに亡くなっているのに、御料地の番人 は、誰のために山に縄を張っているのでしょうか、というように解釈され ているようである。 しかし、大山守とは朝廷の所有する山を守る役人のことであり、言うな れば墓守のことである。墓守が守る山とは山稜でしかあり得ない。天皇の 墓であるからこそ、その墓を守っているのである。 従って、天皇の山稜を守るために縄囲いをしているのであって、従来の 解釈では到底納得できるものではない。 この歌は、天皇の埋葬されていない陵墓なのに、いったい誰のため何の ための墓守なのか、と詠んだ歌としか考えられない。 つまり、この歌は天皇が埋葬されていない事実を、正直に詠んだ歌なの であって、『扶桑略記』を裏づけている。 では、陵墓ではないとしたらその場所の意味は何であろうか。 「只履沓の落つる処」 であるとすれば、そこはなにがしかの理由により、健康な「鎌足」の最 後の場所であったと考えられる。 現天智天皇比定陵は「鎌足」が事故を起こした場所であり、生前を偲ぶ 最後の場所だった。そこに「鎌足」を神として祀り、禁足地としたのでは ないだろうか。ある意味、神社と同類であろう。 2.阿武山古墳の被葬者 「只履沓の落つる処」 この一節は、多くの歴史家が論議を交わすところとなっている。 すなわち、天智の死は暗殺によるものだったのではないか、ということ である。 諸説はさておき、ここで言う天智とは「鎌足天智」のことであるから、 はたして「鎌足」は暗殺されたのだろうか、ということになろうか。 「阿武山古墳の被葬者」を「鎌足」と断定した上で話を進めるが(特別 編、『摂津阿武山古墳調査報告書』抄録、を参照して頂きたい)、この被 葬者は、X線写真の鑑定によると、背骨の第11胸椎が上下に押しつぶさ れて変形しており、この付近左胸部の肋骨が三本折れているという。興味 深いことに、そのうちの一部は癒着しかかっているらしかった。 鑑定当時の東海大学医学部、今井教授の言葉を借りれば、 「信じられないくらいに保存がよい」 とびっくりされたうえに、 「わかりやすくいえば、オートバイ事故や高いところから落ちた労災事 故を想定して下さい。激しくしりもちをつきますと、その衝撃で背骨が上 下から押され、いちばん弱い骨がつぶれるんです。粉砕骨折ともいいます が、こうした事故で背骨を折、胸も圧迫されて助骨が折れたんでしょう。 あっそうそう、この左肩ね。腕の関節も付け根で折れてますね。相当な大 事故ですね。しかも即死じゃないようだ。 ・・・<中略>・・・ この助骨を見てごらんなさい。曲がっているでしょう。これは折れたと ころが治りかけてくっつきはじめたことを示しているんです。われわれは 生活反応という言い方をします。事故からしばらくは生きていたんでしょ うね。 ・・・<中略>・・・ 第11胸椎があれだけ折れると、裏の脊髄がやられます。すると場所か らいって、下半身はまったく麻痺します。感覚はもちろんないですね。尾 籠な話ですけれど、大小便はたれながしの状態です。起きあがることは不 可能です。左腕もブラブラの状態だったでしょうね。これでは・・・・。 しかし、この人は骨ががっしりしていてスポーツマンのような体ですね。 ちょっと待ってください。 ・・・<中略>・・・ ええ、整形外科の分野ではスポーツ肘とかテニス・エルボーとかいって います。スポーツで強い衝撃を何度も習慣的に与えると、肘の関節が変形 します。骨に突起ができて、それを肉が内側から刺激して激痛が起こるも のです。野球や弓道、最近ではテニスが好きな人に多いですね。この遺体 の左肘の関節にも同じ症状が出ています」 であるという。 この今井教授の言葉から推理できることは、どうやら「鎌足天智」は、 乗馬中に落下したのではないかということだ。 しかし、当時の陸路の移動手段が馬であったことを考えると、何でもな いところでの落馬は考えにくい。それも大怪我である。そうすると、獲物 を狙い走行中の馬上で弓を構えていたのか、ということになる。 暗殺のせんはどうであろうか。 これが暗殺であったのならば、トドメを刺さなければ意味がない。「鎌 足」は事故後しばらく生きていたというのだから、暗殺ではないだろう。 そして、この事故はいつ起きたのかと問われれば、『日本書紀』にいう 天智八年夏五月五日のことではないか。 「夏五月五日、天皇は山科野に薬狩りをされた。大皇弟・藤原内大臣及 び群臣らことごとくお供をした。」 先に『日本書紀』のこの記述は、これぞ天智暗殺の日ではないか、と問 題にしてきたが、こうして色々わかってくると、「鎌足天智」が自身の所 領である「山科」(私邸があったと言われている。奈良の「興福寺」は、 婦人の「鏡女王」が「鎌足」の病気平癒のため、私邸に建てた「山科寺」 を、子「不比等」が遷したものである。)で、「大海人」等と共に狩りを した記録だったことになり、当時「鎌足」は「中臣鎌足」であったにもか かわらず、「藤原内大臣」とされたことは、史実を曲げ後に加筆された記 録だったからである。 実は、そのように思うのも、この記録のちょうど一年前に、 「五月五日、天皇は蒲生野に狩りに行かれた。ときに大皇弟・諸王・内 臣および群臣みなことごとくお供をした。」 とあるからなのだが。 これには「鎌足」の名は見られない。内臣がそうだろうと思われるだろ うが、それは先の「山科」の記録を読んでいるからである。 一年後の「山科」の記録を読まなければ、「内臣」=「鎌足」であるこ とは判別できない。 『日本書紀』のこのような手法は、読者の目を事実から反らせ、間違っ た先入観を植え付けさせ、真の歴史を闇に葬ってしまいたいときの常套手 段であるとも言える。 蘇我入鹿・蝦夷・馬子・倉山田麻呂、聖徳太子、山背大兄、古人大兄、 中大兄、大海人そして「鎌足」まで、「乙巳の変」から「壬申の乱」にか けての主要人物は、みな一様にそうではないのか。 それでいて、あながちでたらめではないから大変始末が悪い。 『日本書紀』は「鎌足」を、天智の忠臣中の忠臣であるように、記述し ている。もしこれが事実なら、「蒲生」行きに「鎌足」が同行していない はずがなく、記録に名を残さないはずがない。一年後の「山科」行きは、 「藤原内大臣」と堂々と記述しているにもかかわらず、このときはなぜそ うできなかったのか。それは、人物がすり替わっているからではないか。 従って、このとき記述された天皇とは、『日本書紀』がそうしたがって いる「葛城天智」ではない。そして、内臣も「鎌足」ではない。 天皇は「鎌足天智」であり、内臣とは歴史に名を残していない人物であ り、どこの誰かわからないし、架空であるかもしれない。 『日本書紀』は、「白村江の戦い」で「鎌足」の渡航を書けなかったの だから、「鎌足」が天智の忠臣で参謀格であるはずがないのである。 『日本書紀』によれば、「鎌足」は十月十六日に亡くなっているから、 事故から約五ヶ月間は、生存していたことになり、この点は「阿武山古墳」 の被葬者の調査結果とよく一致していると思う。 そして、この「鎌足天智」の死こそ、「壬申の乱」の引き金になった要 因の一つ、と考えている。 3.百済倭国(ふじわら)皇帝鎌足 「白村江の戦い」で敗戦した「百済」(この場合は朝鮮半島の「百済」 ではく、倭の「筑紫」を占拠して多武峯に出先機関を置いていた「多武峯 百済」のこと。白村江の海戦時には朝鮮「百済」は滅亡しており、宗国は 倭の「百済」である。)は、やっとの思いで自国「筑紫」(太宰府か)に 逃れ砦を築いて防衛戦に備えたのだが、「唐」は「筑紫」に進軍、なすす べなく後退した「百済」に替わり「筑紫」を占領、首都を無血制圧し、そ のまま「筑紫都督府」を布いた。 「唐」は協力国であった倭国王「鎌足」を都督に任命し、筑紫政府を一 任させた。このことにより「筑紫」は倭にありながら、「倭国」にも「百 済」にも属さない、「唐」の管理下に置かれた独立自治区になったのであ る。 その後「太宰府」が独特の発展を見せたのも、このときに起因するもの と考えている。 ところで、先に何度も紹介していることだが、「太宰府」とは「都督府」 の日本名であると思う。 ちなみに「太宰」は正しくは「大宰」である。なぜか地元では「太宰」 と書いている。この理由はわからないが、「宰」は「宰相」のことであり 総理大臣の意味である。「唐」の天子に代わって政治を担当するのだから、 総理大臣なのであろう。 『日本書紀』に従えば、このとき倭に天皇はいない。「葛城皇子」摂政 であり、言うなれば彼もまた総理大臣である。そこで「大」を付けて「葛 城総理」と区別したのだろうか。「大総理鎌足」の出現である。 さらに興味深いことには、史跡「大宰府政庁跡」に「紫宸殿」(ししん でん)という地名が残っている。「紫宸殿」というのは京都御所にある正 殿のことである。 さらに「大宰府政庁跡」には「朱雀大路」まである。これは、皇居に通 じる大通りなのだから、これらが「筑紫都督府」時代からの名称であると すれば、やはり「鎌足」は大王であり(まあそれを天皇と言い換えても良 いのかも知れないが)、近江朝の「葛城天智」や倭京の「大海人皇子」で さえ、「鎌足」には頭が上がらなかったとすれば、それ以上の立場であり、 「筑紫」・「近江」・「倭国」連邦国家の皇帝そのものと言えるだろうか。 さて、「筑紫都督府」の占領政府により、完全に息の根を断たれた「百 済」であったが、歴戦の精鋭達の間では、「唐」と一戦交わると豪語する 者も、かなりの数あったことであろう。しかし、そんな強者どもも知将な くしては統率ができず、ただの烏合の衆と化していた。 それをまとめ上げたのが、「余豊璋」影に隠れ戦犯から免れた、もう一 人の中大兄皇子「葛城皇子」であると思う。 「筑紫」での立て直しが夢と散った諸将に必要なのは、新しい「百済」 であった。 天智六年の条に 「三月十九日、都を近江に移した。このとき天下の人民は遷都を喜ばず、 諷諌する者が多かった。童謡も多く、夜昼となく出火するところが多かっ た。」 とある。そのあとの八月に、 「皇太子が倭の京におでましになった。」 とあるから、これは遷都ではない。京とは首都である。一国に二つの京 はあり得ないだろう。 従って近江遷都とは、近江ローカル政権の樹立であった。 『日本書紀』の内容からして、この政権は武力にものを言わせての、侵 略政権だったのだろう。言い換えれば占領である。 そしてその五ヶ月後、「葛城皇子」は「倭京」に出向いている。 このときの経緯はわからないが、この倭京行きこそ『籐氏家伝』にみえ る「浜楼事件」前夜であると思う。 もちろん、昨日の敵は今日の友ならず、今日になっても敵である。そん な中へ「葛城皇子」一人がのこのこ出向くはずがない。 それ相応の兵力を伴ってのことである、と考えなくてはならない。 林青梧氏は著書『日本書紀の暗号』で、『浜楼事件の真相』と題して、 次のように考察されているが、これが傑作なのでそのまま掲載することに した。 そのままと言っても、林氏は「天智」と「大海人」を百済王子・「余豊 璋」と新羅人人質・「金多遂」だと解釈しているので、この人名に関して は私見に合わせて、「葛城」と「大海人」に改めさせて頂いた。 「鎌足の苦心の最もたるものは、浜楼における葛城と大海人の対決調停 であった。 倭京の巨瀬氏や大伴氏など、白村江出兵に反対した土豪たちに支持され た大海人は、浜楼の最後の談判で、いざとなったら、剣にかけても、葛城 と雌雄を決する覚悟を固めていた。それを事前に察知した葛城は、会談で 大海人を追いつめて怒らせ、殺害するつもりであったのだ。そのために葛 城は、浜楼を警護する百済兵を全員、武装させ、命令一下、大海人を襲撃 させる手はずをととのえさせていた。その報はたちまち、百済兵の隊長か ら鎌足の届いた。百済兵たちにも、鎌足の地位の重さは、すでに理解され ていたのだった。そこで鎌足は、百済軍装を提供させ、自己の手兵に着せ て、浜楼警護の兵ととりかえた。 いよいよ会談が始まると、葛城は大海人につぎつぎ、無理難題を浴びせ、 怒らせて、すぐにも大海人処分にとりかかろうとした。 大海人は、倭国諸豪族の依託をうけて会談の席に臨んだ以上、ただ葛城 の言うなりに、何でも条件をのむことはできなかった。いわんや無理難題 をやである。 会談の議題は、合弁政府百官の、双方への割りふりである。官職には封 土が付随する。官位の配分が均衡を欠くと、倭国の国土での、百済人の所 有地の方が多くなってしまう。それについては、在京の豪族領主よりも、 民力を収奪される人民の反発を、大きく招くことになる。譲れない一線で あった。にらみ返す大海人を、葛城は憎々しげににらみ返し、 『殺れ、この者を!』 と護衛隊長に命じた。が、隊長の命令に、兵士は一人も動かなかった。 『何ごとか、これは。王の命令に従えないのか』 その声を待たず、大海人はすっくと立ち、 『覚悟せよ!倭国は、日本などという国を、認めるわけにはゆかぬ』 言い放って、槍の穂先の鞘を払った。その一瞬だった。 『とりおさえよ』 鎌足の命令で、兵士たちがいっせいに動き、大海人を包囲して、槍の穂 先を揃えた。 『うぬっ!中臣!』 大海人が鎌足をののしった。が、鎌足は強い視線で大海人を、押さえつ けるようににらみすえ、 『よくよく考えなされ。この国は誰のものでもない。あなた方お二人で、 力を合わせて、まつりごとをしていかねばならぬものぞ。ひかえなされ』 『うぬっ!』 大海人が、いきなり槍を床に突き立てた。 『その方、やめよ。争いはやめよう』 葛城が大海人に呼びかけた。兵士たちもうなずき、さらに大海人を囲む 槍の穂先の輪をせばめた。 『わかった。中臣の調停を入れる。それならばよいのだ』 鎌足を引き合いに出せばすむ、と大海人はいうのであった。大海人は、 床に突き立てた槍から手を放し、 『中臣にあとをまかせる。倭京の方は、私が鎮める』 大海人の立ち去ったあとには、突き立てられた長槍の柄がゆれていた。 これが、浜楼事件の真相と言うべきであろうか。 葛城は、己の命令に背いて鎌足の手兵に百済軍装を貸した兵士を、せん さくすることをしなかった。 『兵士たちも、ここまできて、さらに戦いは望みますまい。兵士に離反 されては、あなたの無事もあり得ませんぞ』 鎌足は、故国に遠く家族や縁者をのこして、倭国に侵入し、そこに同化 しなければならぬ百済兵の、真情を説いて、葛城を黙らせたのであった。 『日本書紀の暗号』より 林青梧著 講談社」 話に誇張はつきものであるにせよ、「日本」の記述についてはともかく として、案外的を射ているのではないかと思うが、いかがであろうか。 「近江京」と「倭京」。このような二朝状態はここに始まったことでな い。 過去にも幾度となくあったことである。 例えば、敏達天皇の百済の大井や舒明天皇の百済宮は、畿内に「百済」 が存在した証拠である。 そして私見ながら「多武峯百済」と「蘇我系倭国」の争乱の頂点こそ、 「大化改新」へと続いていく「乙巳の変」であった。 あるときには敵対し、あるときには手を結ぶこともあった「百済」(こ の場合は畿内にあった飛び地「百済」のこと)と「倭国」であったが、此 度の「近江京」は、前例とは決定的に違うことがある。 それは、いままでの「百済」は、政略結婚等により「倭国」との混血が あったにせよ、「百済」そのものであったのに対し、「近江京」はその多 くは「百済」からの亡命貴族・将軍で構成されているものの、父こそ「百 済」系であるが畿内で生まれ畿内で育った倭人、「葛城」が率いる国であ ることだ。 「葛城」は自ら「倭京」へ行幸するくらいであるから、畿内での共存を 望んだのであろう。いつ「唐羅」が攻めてくるかも知れないのである。浜 楼での会談は、「葛城」からの申し出に違いない。 これに対し「大海人」は攻撃的であった。はなから「近江京」を認める つもりなどもうとうなかったことと思う。 「大海人」と「葛城」は兄弟(『日本書紀』によれば弟兄)であるにも かかわらず、幼くして母と離別した「大海人」は、その愛情を知らない。 はたしてそのことも関係していると思って良いのだろうか、「大海人」 は「葛城」憎しの念から殺害を謀っていたとも考えられる。 『籐氏家伝』に記載のある「浜楼事件」を信じるとすれば、槍を向けた のは「大海人」のほうである。林氏は「浜楼事件」を天智天皇と「大海人 皇子」の立場からとらえられているので、無理難題を浴びせる天智に、怒 りをあらわにした「大海人」が槍を抜く、という図式になっているが、公 式ではないにしろ、このような場で酒宴が行われたということは、招待が あったか、会談の申し入れがあったとしか考えられない。 招待であったとすれば、「葛城」が身の危険を察知して当然であろうか ら、「葛城」が「大海人」を怒らせるような言動は採らないであろう。 『日本書紀』にある天智の最後の時の、「大海人」の吉野行き申し出ま での事の成り行きを考えれば、うなずけるものと思う。 従ってこの会談は、先に記したように「葛城」からの申し出であり、敵 地に乗り込む「葛城」である以上、非武装でこそないにしろ、強い警戒心 を抱かせるような武装はしてないはずだ。 但し、「大海人」の猛反発により会談が物別れに終わりそうになったの は、全章でも述べたとおり、「葛城」の誤算だったと思う。何のために二 人の愛娘(『日本書紀』にでは四人だが、私見による他の二人は「余豊璋」 の娘)を、「大海人」に輿入れさせたのか。 結果論ではあるが、すべてはこの日を想定してのことではなかったのだ ろうか。 しかし、これら両雄による一触即発の事態は、「鎌足」の取りなしによ り回避された。 もちろん、二人を押さえ込むことができたのは、単に「鎌足」が天下の 忠臣「中ッ臣」であったからだ、との説明ではものたりない。すでに述べ たことではあるが、二人よりも立場が上だったからである。 そしてそれだけではなく、二人を納得させることのできる、ある提案を したのではないだろうか。 「葛城」は天皇に即位後、「古人大兄皇子」の娘である「倭姫王」(や まとひめのおおきみ)を立てて皇后としている。「古人大兄」とは、私見 による「大海人」と同一人物であるから、「倭姫王」は無論「大海人」の 娘となる。しかも「倭姫王」の名は固有名詞とは思えない。実名ではない だろう。 実名を掲げれば「古人大兄」=「大海人」がばれてしまうので、「やま とひめ」などという普通名詞にしたとしか思えない。この名前は『日本書 紀』の様々な箇所でで登場しているし、「倭姫王」に子がいないのも傍証 の一つになろう。 ・・・ つまり「鎌足」が下した提案とは、両朝の合併だったのではないか。 古代の慣例にならい、「葛城」が両朝の天皇として即位するかわりに、 その政治は皇后方である「大海人」側が、執り行うというわけである。 一見、公平に思えるこの提案であったが、「大海人」側から見れば、例 えば政権は掌握するものの、首相の座を明け渡すことと同じであり、この 合併には何らメリットが見られないことになる。「倭京」だけでみれば、 「大海人」は政権与党の首相であるからだ。 従って「倭京」はそのままにしておいて、「近江朝」の政治にのみ「大 海人」側が介入するというという条件だったのではないか。 「近江朝」の左大臣「蘇我赤兄臣」(そがのあかえのおみ)は「大海人」 側の一人であろう。左大臣は重臣中ナンバーワンである。 ところがこれでは「葛城」が、納得できるはずがない。 そこで「鎌足」が「葛城」に発した一言を、次のように想像している。 「よく考えてなされよ。御主は大海人よりお若いではないか。順番で逝 けば大海人が先に亡くなるであろう。御主はそれから倭京をいただいても 遅すぎることはあるまい。」 頭を下げ近江建国を頼みに来た「葛城」であった。理不尽ではあるが、 この一言により納得せざるを得なかった。 両朝は、「鎌足」の仲介により合併に応じることになった。 これより、天智が天皇(とは言っても現代の総理大臣に相当)、「近江 京」を首都とし、「大海人」側が政治を司る形で、正式に「近江朝」が発 足することになった。あとは宣命を待つばかりである。 国際外交の場は「近江朝」に移行したのだが、「倭京」は豪族の連合支 配による独立国のままであったと思う。 そして「鎌足」は自身の意志ににかかわらず、「近江京」・「倭京」を またにかけた大王位相当を手にすることになった。 ここに「百済倭国」=「藤原」帝国の基礎ができたと考えている。 この後、しばらく国内には平和な時期が続いたことであろう。 書紀紀年による天智八年五月五日、「鎌足」は「山科野」で事故に遭う。 薬狩りに行っての落馬と思われる。 なんとか一命はとりとめたものの、瀕死の重傷であり、同年十月十六日、 帰らぬ人となっている。 あえて書紀紀年としたが、この天智八年は通説の669年とは考えてい ない。 『日本書紀』にはしばしば見られることだが、特に『斉明紀』・『天智 紀』は重出・混同が多く見られ、紀年を鵜呑みにすることはできない。 まあ、紀年をそのまま信じていられる方は、そんなに多くはないと思う が。 ここで整理のためにも、この辺りの年代をはっきりさせておかなければ ならないだろう。 以前述べてきたことと、重複するかも知れないが、「定恵」の送還が、 「鎌足」の死と直接関係があると考えている。つまり「都督」不在になっ たので、新都督として「定恵」を送還してきたとのではないか、というこ とだ。 従って私見による「鎌足」の死は、「定恵」の帰国年を超えることはな い。 「定恵」は『孝徳紀』に引用された「伊吉博徳」(いきちのはかとこ) が言うには、 「定恵は乙丑の年に劉徳高らの船にのって帰った。」 ということになっている。 この乙丑の年とは665年のことになろうが、書紀紀年でいう天智四年 である。 確かに、『天智紀四年』には「劉徳高」(りゅうとくこう)がやってき た次のような記録を載せている。 「九月二十三日、唐が朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣わしてきた。 ──等というのは右戎衛郎将上柱国百済禰軍・朝散大夫柱国郭務宗(りっ しんべんに宗)をいう。全部で二百四十五人。七月二十八日に対馬着。九 月二十日、筑紫につき、二十二日に表凾をたてまつった。」 これはこれでいいのだが、この時「定恵」が帰国したのだとなると、少 なからずやっかいなことになる。『日本書紀』のいう「鎌足」の死は、天 智八年であるからだ。書紀紀年を優先させれば、私見を捨てざるを得ない のだが、重出の多い書紀紀年は、にわかには信じがたい。 そこで天智四年の別の条項に目をやると、 「この月、百済国の官位の階級を検討した。佐平福信の功績によって、 鬼室集斯に、小錦下の位を授けた。」 とある。 これが、天智十年一月の条にも、記録されているのである。 「この月、佐平余自信、沙宅紹明に大錦下を授けられた。鬼室集斯に小 錦下を授け・・・」 この「鬼室集斯」の記録だけを見れば、天智十年もまた665年のこと であるようにみえる。 そうすると天智四年・天智十年ともに665年であることになってしま い、常識的に考えればこんなことがあろうはずがないのだが。 この結果から考えられることは、天智四年とは中大兄皇子称制四年であ り、天智十年とは鎌足天智十年であるということだ。そして、この四年・ 十年は、どちらも665年のことになる。 『日本書紀』に従えば、「鎌足」の死は天智八年であった。 しかし、この天智八年は鎌足天智八年を、『日本書紀』のいう天智八年 として編集されたのであると考えられる。 従って、実際の「鎌足」の死は、鎌足天智八年、663年の白村江の戦 いの後のことになろうか。 そして、その後の665年「定恵」が送還されてきた、ということにし ておきたい。 ところで「鎌足」の没年は、『天智紀』に引用された『日本世紀』によ ると、50歳である。また異説として五十六歳であるとも載せている。 「鎌足」の生誕年は『籐氏家伝』によれば、推古二十二年(614)で あるので、614年から鎌足天智八年の663年までを数えると五十歳に なる。 また、天智八年の669年までを数えると56歳になるので、どちらの 説も間違ってはいないのだが、私見による「鎌足」の薨去は663年なの で、50歳を正解としたい。 ただし、「鎌足」が大王位に就いた年代は、白雉五年(654)春一月 一日の 「・・・紫冠を中臣鎌足連に授け・・・」 のときと考えているので、663年は鎌足天智九年となってしまう。 これについては、史実と各々史書との年紀の差であると思われるが、残 念ながら、うまく説明できる材料を持ち合わせていない。ここにお詫び申 し上げたい。 『日本書紀』によれば、「白村江の戦い」の翌年に冠位を二十六階に増 設し同年「郭務宗」等が来訪したことになっているが、冠位の増設はとも かくとして、占領軍が来訪したのが翌年であったとは、あまりにも遅すぎ るように思う。 『天智紀』を読み進めていくと、天智十年十一月十日に、「郭務宗」等 二千人が来訪した記録がある。 これは『天智紀』の中の、数ある重出の中の一つなのだが、 「十一月十日、対馬国司が使いを太宰府に遣わして、『今月の二日に、 沙門道久・筑紫君薩野馬・韓島勝裟婆・布師首磐の四人が唐からやってき て、『唐の使人郭務宗ら六百人、送使沙宅孫登ら千四百人、総計二千人が、 船四十七隻に乗って比知島に着きました。語り合って、今吾らの人も船も 多い。すぐ向うに行ったら、恐らく向うの防人は驚いて射かけてくるだろ う。まず道久らを遣わして、前もって来朝の意を明らかにさせることにい たしました』と申しております』と報告した。」 とあり、他の「郭務宗」の来訪記録と比較した場合、この記録が初来訪 であるらしいことに注目したい。 年代を無視してしまい、八月二十三日に白村江の大敗戦の後、「唐」が 十一月十日に直ちにやってきた、と考えたほうが無理がないように思える し、そう考えている。 「浜楼」の一件で、「近江京」と「倭京」の共存を成功させた「鎌足」 であったが、その後まもなく「山科」の事故がもとで亡くなってしまう。 そうなると途端にバランスを失い、両朝は待っていたかのように、小競 り合いを始めるようになった。 「近江京」側は「高安城」を建造し「倭京」に備えたのだろう。 「鎌足」の死の直後の十二月、『日本書紀』には次のように記されてい る。 「十二月、大蔵に出火があった。 この冬、高安城を造って、畿内の田税をそこに集めた。このとき斑鳩寺 に出火があった。」 明らかに抗争の勃発である。 しかし、大掛かりな抗争に発展しなかったのは、「唐」と「倭京」が結 んでいた某国の影響によるものであろう。 「唐」は準戦勝国である「倭国」、すなわち「倭京」と友好関係にあっ たはずである。敗戦国「百済」の残党で構成された「近江京」など、「倭 国」の一州にすぎず、あるいは認識すらしていなかったのではないか。 「夏五月十二日、鎧・甲・弓矢を郭務宗らに賜わった。この日郭務宗ら に賜わったものは、合わせてふとぎぬ千六百七十三匹・布二千八百五十二 端・綿六百六十六斤であった。」 これは『天武紀』元年の記録である。 「郭務宗」は『天智紀』にも、幾度となく軍を率いて来訪し帰国してい るように記す。ところが、このような具体的な贈物への言及は一切ないと ころから、「近江京」との外交関係は希薄であったことであろう。 某国については、第十六部に検証を譲りたい。 4.大友皇子 両朝の抗争もそうであるが、「鎌足」が死して特筆すべき事は、大友皇 子が太政大臣に任命されていることである。 上代の立法・行政・司法、すべての政治を総轄し、八省百官を統括する 機関に太政官(明治維新まで存続しているので、上代とは言いにくい面も ある)があるが、その中でも命令系統の最高位は、太政官四部官と呼ばれ る組織である。 このうち上位三位までを三大臣と呼び、これは太政大臣を筆頭に、左大 臣・右大臣とつづく。 内大臣はその下位に位置することになるが、これは大宝令以降のことで、 それ以前は左右大臣より上位であった。ちなみに大宝令以前で内大臣に就 いたのは「鎌足」だけである。 太政大臣の任命は、「大友皇子」が初めてであるので、三大臣制は天智 朝からの発足と言っていいだろう。 このときの左大臣は「大和」から「蘇我赤兄臣」、右大臣は「近江」か ら「中臣金連」であると思われ、その上に「鎌足」が内大臣としていたと すれば(実際の「鎌足」はさらに上に君臨していたのであるが)、政治バ ランスに優劣はなかったと言えるであろう。 ところが「鎌足」の死後、「大友皇子」を特権待遇とも言える太政大臣 に就けたのだから、バランスは勢い近江側に偏ってしまう。 「葛城皇子」が天智天皇に即位したと同時に、「大海人皇子」は皇太子 になっている。 通説では、「大友皇子」の太政大臣任命は、次期皇位を窺わせ、皇太子 に準ずる扱いをしたのではないか、と言うことのようだ。 『懐風藻』では、 「年はじめて弱冠、太政大臣を拝され、」 「年二十三、立ちて皇太子となる。」 と「大友皇子」が皇太子であったことを記述している。 「大友皇子」の二十三歳は、天智九年(670)であるから、このとき 皇太子になったという『懐風藻』の記述は、『日本書紀』にはないものの、 皇太子になったする記述は興味深い。 さらに『懐風藻』が記す「大友皇子」像は、「劉徳高」の言葉を借りれ ば、 「此の皇子、風骨世間の人に似ず、実に此の国の分に非ず。」 「皇子博学多通にして、文武の材幹有り。」 と絶賛している。 もちろん、これを全面的に信じるものでもないが、「大友皇子」が並は ずれた人物であったろうことは、案外本当なのかも知れない。 というのも、天智天皇が「大友皇子」を太政大臣に任命したのは、単に 我が子可愛さからだけであるとは思えないからである。 これについては、これを証明する文献もなければ、逸聞・残欠すらない のだが、間接的に知り得ることはできそうだ。 『懐風藻』は「大友皇子」に関しては、すこぶる厚く語っており、「大 友」の曽孫「淡海真人三船」が編者ではないかと、言われているくらいで ある。 「大君は神にしませば赤駒の匍匐(はらば)ふ田井を都となしつ」 「大君は神にしませば水鳥の多集(すだ)く水沼を都となしつ 」 ところで、上記二首は、『万葉集』にある天武天皇を歌った歌で、巻十 九の4260番「大伴御行」とこれに続く作者不詳の巻十九の4261番 である。これには、「壬申の年の乱の平定まりし以後の歌二首」との詞書 きがある。 「大君は神にします」は「柿本人麻呂」が持統天皇に詠んだ、 「大君は神にしませば天雲の雷(いかづち)の上に廬(いほ)りせるかも」 などもあるが、天武が初見である。 戦前までの天皇は、現人神(あらひとかみ)とも言われたが、どうやら 天武天皇がそのルーツであるらしい。 ある人が言った。「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と。 この一文は、「大海人」の吉野入り前の『天武紀』にある台詞で、同じ 様子を記述した『天智紀』にはみられない。 それはともかく、この台詞を現代風に言えば、武者震いするほどかっこ いい、ということになろうか。これことは以前にも述べたことがある。 『日本書紀』が天武自身の発案であり、『天武紀』は自身の記録である から、相当入れ込んでいるのであろう、と思っていた。 そもそも虎は、日本列島に生息していない。にもかかわらず、『日本書 紀』に載っているのは、中国文化の影響によるものでしかない。 ・・ 龍や麒麟、鳳凰が空想の動物であるのに対し、虎は実在する最強の動物 として畏怖の対象とされてきた。 畏怖とは、本来恐怖の感情であったものが、敬いにすり替わったもので、 言うなれば手に負えないから忌避されてきたのである。 従って、天武を虎に例えるあたり、善意を感じ得ない。 どうして龍や麒麟に例えなかったのだろうか。 確かに虎に翼があれば最強という考え方自体、中国思想らしいのだが、 何か悪意としか思えないのである。 「大海人」は「葛城」の娘、四人(私見による四人のうち二人は、百済 王子「余豊璋」の娘)を妃にしているが、これなどは、政略結婚以外の何 物でもない。 つまり、理由はどうあれ「大海人」は、「葛城」の意向を受け入れたこ とになるのではないか。 この後、「浜楼事件」があり、両者の間はこじれたにしても、正妃「菟 野皇女」(うののひめみこ)は、天武亡き後、天皇に即位しているくらい であるから、婚姻関係は解消されなかった。と言うことは、意志変更はな かったはずなのである。 「大海人」は天智に謀有りと疑って、皇位を辞退したのであるが、『天 武紀』冒頭にみられる、「蘇我臣安麻呂」(そがのおみやすまろ)の 「よく注意してお答えください」 の一言がなければ、『日本書紀』から疑わしい事柄を見出すことはでき ない。 またこの一言は『天武紀』にのみあって、『天智紀』には記載されてい ない。『天武紀』は修史事業開始時に天皇であった天武にとって、都合良 く書かれていないはずがない。とすれば、『天智紀』に無いこの一言は、 捏造の可能性が高い。 従って、天智が「大友皇子」に皇位を嗣がせたかったなどという気持ち は、親心を別にすれば、案外少なかったのかも知れない。 さらに言えば、「大海人」は『日本書紀』に従えば皇太弟であるので、 天智があえて譲位を言い出さなくとも、次期天皇候補に違いないではない か。それも「近江朝」と「倭京」の統一天皇と成り得るわけである。 だいたい「倭京」の「大海人」からみれば、「近江朝」など「百済」の 緊急避難的な都であろう。それが証拠に、天武即位後の首都は、やはり、 「飛鳥」である。つまりそのままなのである。 これらのことから想像できる「大海人」は、手に負えない非常識人だっ たのではないか。けっして褒められる言い方ではないが、ある種、狂人的 であったと思われる。 実際「浜楼事件」で、長槍を床に突き立てる暴挙からも、それは言える と思う。 こんな男が、次期天皇候補であるとしたら、「近江朝」の未来を考えた 場合、天智としても気が気では無いだろう。 「大友皇子」を太政大臣に就けたのは、天智の才覚だったのであり、そ れ相応の好人物であったのだろう。 このようなことから、『懐風藻』の記述は信頼に足るものと考えるので あり、『日本書紀』を初めとする他の文献が、「大海人」のことを褒めれ ば褒めるほど、その実像から遠くなっているのではないか。 逆に言えば、『日本書紀』が何も語ろうとしない天武の敵「大友皇子」 こそ、本当の人格者であったような気がしてならない。 天武が神と言われた理由とは、神と言わなければならなかったからでは ないだろうか。 5.額田女王 さて、第15部も終わりに近づいたが、天智と天武を語る場合に、避け て通れない女流歌人がいる。 言わずと知れた「額田姫王」(ぬかたのひめみこ)であり、『万葉集』 では「額田王」(ぬかたのおおきみ)とされている。 彼女は、当代屈指の女流歌人と言われ、『万葉集』に長歌三首と短歌九 首を載せており、いずれも秀歌の定評を得ている。 彼女の履歴は『天武紀』の 「天皇は初め鏡王の女、額田姫王を召して十市皇女を生まれた。」 と、『万葉集』の 「額田王近江天皇を思ひて作れる歌一首 君待つとわが恋ひをれば吾が屋戸のすだれ動かし秋風吹く」 から、初め天武の妃であり、後に天智の妃になったことがわかる。 ちなみに『万葉集』からは、「額田王」の姉に「鏡王女」がいて、彼女 もまた天智妃であったことがわかる。 ところが、『天智紀』には「額田王」に関する記載は一切ない。これは いったいどういうことか。 日本の歌謡は、神に捧げるとか死者を追悼するなどといった場合に、必 要に応じて作られることが本来であったが、近江朝の頃からは、個人の文 学的な興味によって、歌が作られるようになった。 長歌・短歌といった形式が成立していったのも、このころを境にしてい る。 「額田姫女」の活躍も、このような時代だったからこそである。 彼女が「大海人」ととりかわした相聞の歌は、よく知られている。 「あかねさす紫野行き標野行き野守りはみずや君が袖ふる」 と「額田姫女」が歌って、「大海人」をとがめたのにたいし、「大海人」 は、 「紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも」 と返した歌である。 このころの彼女は天智の妃であるので、この二人の関係から、三角関係 が「壬申の乱」の遠因になったとする説を、大まじめに説かれていた先生 もあったが、単なるお家騒動などではなく、国を二つに分けて戦争だった のであるから、その原因が三角関係であったならば、誰が追随などするも のだろうか。あろうはずがない。 二人の関係が秘め事であったならば、このような歌謡が伝わっているは ずがなく、とすれば宴会などでの戯れ言であった、と考えるほうが無理が ないのではないか。 また「額田姫女」はこのような歌を歌っても、とがめられない特殊な立 場であったのではないか。 おそらく、彼女は現代で言う芸能人であったのだと思う。 従って、「大海人」や天智の妃であったとするよりも、むしろ芸能人と して関係(それは肉体関係も含めて)を持っていった、と考えたほうが自 然であろう。 権力者が、当代きっての美女や有名人などに近づくのは、現代でも聞こ えてくる話である。 そんな関係であったからこそ、『天智紀』は彼女のことを何も語ってい ないのであり、『天武紀』にあるのは、子を授かったからにすぎない。 妃として宮廷に召されたのではないとか、采女であったとか、理屈をつ けて考え始めると、深みにはまってかえってわからなくなってしまう。 誰しもが女流歌人であることは認めているのだから、ここは芸能人でい いと思うが、いかがなものであろうか。 2003年10月 第15部 了 |