真説日本古代史 本編 第十四部


   
日本国誕生(2)




   
1.近江京


  「白村江の戦い」に臨むにあたって、「中大兄皇子」は「大海人皇子」
 に自らの娘を嫁がせている。それも四人もである。
  常識的には考えにくいのであるが、時代が時代なのであり得ることかも
 知れない。

  「中大兄皇子」とは「葛城皇子」のことであるが、「余豊璋」のことで
 もあった。従って、これらの娘の父親が同一人物であるとは、限定できな
 くなる。
  私見による「大海人皇子」とは、「古人大兄皇子」である。「中大兄皇
 子」(以下、「中大兄」と略す)は「蘇我石川倉山田麻呂」の女、「遠智
 娘」(おちのいらつめ)を妃とし、その子、「大田皇女」と「莵野皇女」
 (持統天皇)を天武天皇に嫁がせている。彼女らが先にあげた四人のうち
 の二人である。

  「葛城皇子」の「葛城」県とは、本来「蘇我氏」の本貫である。そして
 「中大兄」の祖母が「嶋皇祖母命」とくれば、母方が蘇我系ある「大田皇
 女」と「莵野皇女」は、「葛城中大兄」の娘と推察できる。

  そうすると「大江皇女」と「新田部皇女」が「豊璋中大兄」の娘という
 ことになろうか。

  「葛城皇子」は「中大兄」の一面を持っていながら、実体がつかみにく
 い人物である。確かに「中大兄」が一筋縄でいかないから、そうなってし
 まうのかも知れないが、本当に舒明天皇の実子であるのかすら、疑わしく
 思えてくる。実は皇極天皇の連れ子であり、父親は葛城系の誰かではない
 か、と想像をたくましくしてしまう。

  話を少し「白村江の敗戦」後にもどそう。

  敗戦後の筑紫には、「倭国」の諸将だけでなく「百済」の諸将・精鋭達
 であふれかえっていた。
  「黒歯常之」が朝鮮半島でねばっている間に、「百済」最後の地、「筑
 紫」で建て直しを図り、連戦連勝を続ける「黒歯常之」と呼応して、旧地
 の奪回を目論んでいたのではないか。
  ところがその「黒歯常之」が、いとも簡単に「唐羅」に寝返ってしまっ
 た。

  ここに「百済」の命運はつきた。

  もはや、諸将等の帰る「百済」は存在しないのである。「筑紫」が「唐」
 の占領下に置かれるのも、時間の問題となってきた。

  「筑紫」に居残った「葛城中大兄」では、諸将を統率する手腕を持ち得
 ていなかった。倭国人だけならまだしも、異国百済人は本国(とは言うも
 のの、王を倭地から送ったのだから、こちらが宗国である)を失い、玉砕
 もやむなしの覚悟であったはずだ。

  「豊璋中大兄」はどうなったのだろうか。

  『三国史記・百済本紀』のいう、行方不明は本当だと思う。と言うより
 も、朝鮮の記録では行方不明と言ったほう良いのだろうか。
  脱出して「高句麗」に逃れたとあるが、彼の宝剣は「唐羅」軍が得たと
 しているので、いずれにしても王である身分を隠しての逃亡である。味方
 ならともかく、敵国人では彼を発見できないものと思われる。

  倭国に落ち逃れ、天智天皇として即位したという説もある。彼のことを
 これまでは「豊璋中大兄」と称していた。多武峯百済政権下での皇太子と
 位置付けたので、天皇即位もあり得るが、敗戦国百済の王を、「唐羅」の
 協力国である「倭国」が、それを許すだろうか。

  常識的には許されることはなかろう。

  ましてや、「唐」は「筑紫」に都督府を置いたのである。いくら新たに
 近江京を開いたにしても、こうした状況下で戦争犯罪人が無事で、しかも
 天皇として即位できたとは到底考えられない。

  話は後になるが、近江京を開いたのは「葛城中大兄」であろう。

  さて、「百済」が敗れこのような事態になるであろうことは、渡航する
 以前から察しがついていたのではないだろうか。


  『日本書紀』は、「白村江の戦い」前紀として次のように記している。


 
 「この年、百済のために新羅を討とうと思われ、駿河国に勅して船を造
 らせた。造り終わって続麻郊(伊勢国多気郡麻績)にひいてきたとき、そ
 の船は夜中に故もなく、艫と舳とがとが入れ替わっていた。人々は戦った
 ら敗れることをさとった。科野国から言ってきた。『蠅の大群が、西に向
 かって巨坂を飛び越えていきました。大きさは十人で取り囲んだ程で、高
 さは大空に達していました』と。これは救援軍が破れるというしるしだろ
 うとさとった。」


  このような有様でなのだから、「中大兄皇子」も救援が成功する可能性
 の低いことはわかっていたはずだ。
  また斉明天皇の居た「筑紫」朝倉宮は、鬼火が出たり壊れたりしたとい
 うし、その後まもなく斉明は亡くなっているが、これを「鎌足」による策
 謀と見ていることは、前章までに述べている。

  「豊璋中大兄」は立場上担ぎ出されたにすぎず、本人自身、全然乗り気
 ではなかったはずだ。
  敗戦後、王子の「忠勝」・「忠志」らは、その軍隊を率いて、倭軍とと
 もに降服したのだが、「余豊璋」は身分を隠し脱出したという『百済本紀』
 からも、推察できると思う。

  二人の娘を「古人大兄皇子」=「大海人皇子」に嫁がせたのは、帰還後
 の百済人のことだけでなく、わが身亡き後の娘の行く末を案じたのではな
 いか。「豊璋中大兄」は倭地には帰還できないことを悟り、行く末を「大
 海人皇子」(以下、「大海人」と略す)に託したのだろうか。

  百済政権が政権を執ってこられたのも、本国が後ろに控えてるからこそ
 であり、そうであるからこそ倭国政権が大々的に、「乙巳の変」後の報復
 行動を、起こせなかったのだと思う。

  「豊璋中大兄」にしてみれば、滅ぼされた「百済」に残された皇族が、
 どんな屈辱を受けるのかなどということは、全然関係ないことだった。

  従って、「大海人」に娘を嫁がせたことは、家族の行く末に対する保険
 だった。幸いなことに「大海人」は、出家して吉野に宮を構え、政治の第
 一線から退いていた。そうかと言って、立場的には「倭国」の皇太子には
 違いなかった。「豊璋中大兄」から見れば、怪我の功名とでも言えそうな、
 願ってもない良いポジションにいたのである。
   ・・            ・・
  「鎌足」は「筑紫」に赴いていたはずなので、倭京は「大海人」が握っ
 ていたことと思う。「大海人」は「豊璋中大兄」の申し出を、表面上は快
 く受け入れたものと思う。何たって出家しているのだから。
  ところが、この状況を指をくわえて見ているだけの、「葛城中大兄」で
 はなかった。
  本来、「蘇我」の系譜を引きながらも、「百済」の庇護に甘んじていた
 「葛城中大兄」であったのだが、このまま二人が手を握ってしまえば、二
 度と「葛城」の出る幕はないであろう。「葛城」は「豊璋」を朝鮮半島に
 送り出しながら、自分の娘二人を「豊璋」同様、「大海人」に嫁がせたの
 ではないか。

  こうすることにより、「葛城」の倭京での立場が約束されることになる
 ではないか。

  そして、向かえたのがこの度の敗戦であった。

  「葛城中大兄」だけでは、敗戦後の諸将達を扱いきれず、「大海人」に
 諸将達の身分保障を願い出た。
  もちろん、輿入れさせた娘のことを計算してのことである。

  『日本書紀』によれば、「大海人」による冠位の増設は、天智三年春二
 月九日であり、検討は天智四年春二月のことであるという。
  また、天智十年春一月にも、東宮太皇弟(大海人皇子)が冠位と法度の
 ことを施行した記録が見られるし、天智四年と同十年には、「鬼室集斯」
 に小錦下の位を授けたとあるが、これは、二つの天智元年からくる重出で
 あるものと思われる。

  「葛城中大兄」は「古人大兄皇子」の娘、「倭姫王」を皇后としている
 が、『日本書紀』の記述だけを信じれば、「古人」は「中大兄」に謀反の
 疑いから殺されているのである。
  政略とはいえ父の敵である「中大兄」のもとへ、平然と嫁げる神経が理
 解できない。私に言わせれば、「中大兄」と「古人」の関係が捏造である
 ということだ。

  事実は、『日本書紀』により「古人大兄皇子」の別名を与えられた「大
 海人」が、近江朝に娘を皇后として送り込んだのである。

  『籐氏家伝』は天智摂政七年のこととして、あるエピソードを記録して
 いる。これを「浜楼事件」と呼んでいるが、特別編『藤原鎌足』で言及し
 た、酒宴での天武の長槍事件である。

  この事件が事実、天智七年に起こったものとすれば、私見では「鎌足」
 は亡くなっているので、「鎌足」は立ち会っていなかったのかもしれない
 し、この七年は天智天皇の即位年であるので、実は天智元年に起こった事
 件であったのかもしれない。あるいは、「鎌足」の生年中の事件を七年の
 こととしたのかもしれない。
  事件から時間経過を推察すれば、冠位の増設を告げた天智三年よりも前
 であり、白村江の敗戦よりも後の年ことである。

  というのも、天智三年あるいは四年の冠位後の記録には、


  
「天智三年の条、この月淡海国から言ってきた。『坂田郡の人、小竹田
 史身が飼っている猪の水槽の中に、にわかに稲がみのりました。身がそれ
 を穫り入れると、その後、日に日に富がふえました。栗太郡の人、磐城村
 主殷の新婦の部屋の敷居の端に、一晩のうちに稲が生え穂がついて、翌日
 にはもう熟れて穂が垂れました。次の日の夜、さらに一つの穂が新婦の庭
 に出て、二箇の鍵が天から落ちてきました。女は拾って殷に渡し、殷はそ
 れから金持ちになったということです』と。」


  とあり、これが比喩するところは不明ではあるものの、近江(淡海)に
 何らかの変革があったか、これから変わっていくことを匂わせているよう
 に思う。

  さらに天智四年の条には


  
「また百済の民、男女四百人あまりを、近江国の神崎郡に住ませた。」

  「この月、神崎郡の百済人に田を給せられた。」


  と続いている。

  天智五年の条には、


  「この冬、都の鼠が近江国に向かって移動した。百済の男女二千余人を
 東国に住まわせた。百済の人々に対して、僧俗を選ばず三年間、国費によ
 る食を賜った。倭漢沙門智由が指南車を献上した。」


  とある。そしていよいよ天智六年には、近江遷都となるのである。


  
「三月十九日、都を近江に移した。このとき天下の人民は遷都を喜ばず、
 諷諫するものが多かった。童謡も多く、夜昼となく出火するところが多かっ
 た。」


  つまり、「近江国」への百済人の移入は「白村江の敗戦」の翌年、天智
 三年に始まり、天智六年の近江遷都を以て完了しているのである。

  浜楼事件となった会談では、敗戦後の百済人の近江移入がメインテーマ
 だったと思われる。
  早い話が、「近江国」に百済人国家を作ることを、「倭国」側に認めさ
 せようというのが、狙いであったのではないだろうか。

  その会談は「浜楼事件」の結果から推測するに、決裂する寸前だったは
 ずである。ただ「鎌足」の仲介によって、やむを得ず承知せざるを得なかっ
 たのだと思う。
  しかしながら、百済人国家実現を強行した「中大兄」に待っていたもの
 は、人民の離反と暴動であったのように、『日本書紀』の記録から推察で
 きる。

  ここでいう「中大兄」とは、「百済」の諸将からの圧力に屈した「葛城
 中大兄」であり、しぶしぶ承知したのは「大海人皇子」である。

  天智六年三月十九日、『日本書紀』は近江遷都を記している。

  「鎌足」が「大海人」を納得させることができたのは、「葛城大兄」に
 「古人大兄」=「大海人」の娘「倭姫王」を、后とする約束を承諾させた
 からであろう。

  政治は后方が担うことを、憶えておられるだろうか。「近江朝」の政治
 は「大海人」側が担ったのである。

  このことから、近江朝=百済人国家といえども、「倭国」の政治指導に
 よる合弁国家にならざるを得なかったのだと思う。
  旧百済系の諸将等と共に、「蘇我」や「巨勢」といった「倭国」の旧豪
 族等が、近江朝の重臣になっているのも、同じ理由からであると思う。

  近江遷都というくらいだから、首都は近江京に違いないのだが、実際に
 は遷都などではなく、新国家の建設であった。
  だいたい「京」とは、首都のことであるにもかかわらず、『日本書紀』
 は「倭京」を併記している。一つの国に二つの首都が存在するはずがなく、
 ここに至ってまた、二朝併立状態になるのだが、多武峯時代とは違って、
 それが合議によって成り立っていたものと想像する。

  『日本書紀』は、故意か校正ミスなのか、このような重大な記述を度々
 披露してくれるが、このことが真の歴史を解明する、鍵になってしまおう
 とは、編纂者側も努々思わなかったことであろう。

  こんなことであるから「近江朝」といっても、「倭国」からしてみれば、
 単なる一地方都市に過ぎずなかったのだが、あることをきっかけに、戦争
 状態に突入してしまう。

  もちろん、宣戦布告したわけではないし、このことが『日本書紀』に記
 載されているはずがない。しかし、そう考えたくなってしまう記録なら、
 しっかり記されている。

  それが次の一文である。


  「この冬、高安城を造って、畿内の田税をそこに集めた。このとき斑鳩
 寺に出火があった。」


  この冬とは、天智八年の十二月のことである。



   
2.高安城


  高安城(たかやすき)とは大宝元年(701)に廃城となった、古代朝
 鮮式の山城であったらしいのだが、以来1300年、その位置や規模もわ
 からない「幻の城」であった。
  ところが昭和53年4月、高安山の東方、生駒郡平群町の山中で、市民
 グループ「高安城を探る会」が倉庫跡と思われる礎石群を発見し、その当
 時大きな話題となった。

  しかしながら、橿原考古学研究所の発掘調査の結果、この礎石建物は廃
 城後の奈良時代初期(730頃)のものであることが判明し、高安城は再
 び幻となりつつあったのだが、その後、高安城の城壁とみられる石垣の一
 部が、大阪・奈良府県境の高安山(488メートル)の七か所で発見され、
 これこそ、天智天皇の高安城と判断されている。

  調査の結果、城域は南北2.1キロメートル東西1.2キロメートルに
 復元できるという。

  一辺が二1〜3メートルの方形の大きな花崗岩を二段積みした石垣は、
 尾根先端を造成したと見られる平たん地を巡っており、その後、さらに約
 300メートル間隔で五か所にわたり石垣を確認。いずれも同じ標高上に
 あり、五段分が残っている所もあった。
  それらは大阪平野側がら攻めにくいよう、西側の城壁は稜線上でなく斜
 面に築かれていたという。

  さらに、山頂の東約1キロメートルの奈良県平群町久安寺でも、幅15
 メートル、高さ8メートルの土塁状の土手に、石垣を加えた施設を長さ2
 0メートルにわたり確認。水門らしい地形も残り、ここが城壁の東辺とみ
 られる。

  ここに上がれば、現在でも大阪湾が一望でき、瀬戸内海を攻めてくる敵
 国の船団を、監視するには充分であるに違いない。

  通説による高安城は、「白村江の戦い」で敗戦した「百済」・「日本」
 連合軍であったが、帰還後の「日本」は国土防衛のため、「対馬」、「筑
 後」、「讃岐」など西日本の少なくとも六か所に山城を築造し、高安城は
 首都直近の拠点だったとされている。

  西側斜面の六か所は方形に張り出した尾根の先端を平たんに整地し、そ
 れをめぐるように石垣が築かれていた。そこには他の古代城(横積みとい
 われる石の積み方で、同時代の古墳の石室と共通するうえ、大きさなども
 古代の山城・鬼ノ城(岡山県総社市)と類似する。)と同様、高い櫓を建
 てていたのだろうか。

  城壁が南北2.1キロメートルに渡って山の西側斜面に連なり、所々に
 櫓が突き出すとい壮大な城と推測されているが、これが事実とすれば、山
 全体が巨大な要塞のように見えたはずで、まさに天智天皇が近江朝の威信
 をかけて築造したものに、相応しいといえるのかも知れない。

  しかし、しかしである。

  『日本書紀』が記述する高安城の様相は、兵糧を運び込んでいたとしか
 思えない。
  そして、高安城の位置から推測すると、とても「近江朝」防衛のための
 築城とは思えないのである。

  天智七年(668)、「高句麗」は「唐」の攻撃の前に滅亡している。

  実は、この戦いは「泉蓋蘇文」のクーデターに端を発しており、『三国
 史記』によれば642年のことであるから、単純計算で26年間も続いて
 いたことになる。
  そして、同時期に「新羅・百済」戦争が勃発して、「唐」も「新羅」に
 協力して参戦する。これにより「百済」は滅び、「百済」復興の軍を多武
 峯・百済が朝鮮半島に送り、「百済」にしてみれば「白村江」の大敗戦と
 なるのだが、朝鮮半島では止まることなく、その後も戦争が続いていたの
 である。

  「唐」は「百済」の旧領地に、熊津・馬韓・東明・金漣・徳安の五都徳
 府を設置して戦後処理に努めたが、「白村江の戦い」後の熊津都徳には、
 百済王子・「扶餘隆」を任命している。そうすることによって、旧百済分
 子の反乱を抑止したわけなのだが、逆説的に言えば、目下の敵「高句麗」
 攻略を最優先させるためには、亡国となった「百済」に構っていられるほ
 どの余裕はなかったのであろう。

  朝鮮半島でさえそうなのであるから、日本列島についてはなおさらのこ
 とに違いないのである。

  このような状況下で、しかもその位置からして、首都防衛には適さない
 とすれば、高安城築造の目的は他にあったと考えなくてはならない。

  高安城は、大宝元年(701)に廃城になっているが、これは文武天皇
 の五年にあたる。廃城になったとは役目を終えたということだ。
  この年には「粟田真人」を遣唐使として、任命しているくらいだから、
 この時「唐」とは友好関係であったと考えられる。
  なるほど、対「唐」を目的とした築城であったならば、このときには目
 的を失った城と言えたであろう。

  しかし、「唐」が築城の原因ではないのである。廃城の原因も「唐」で
 あるとは考えにくい。

  『日本書紀』によれば、天智天皇の八年、初めて高安城に田税を蓄えて
 いる。そして翌九年には、穀と塩を蓄えているが、田税・穀と塩のどちら
 も同類のものであると推察する。
  ただ、『天智紀』には重出も多いため、この記録もその一つであるかも
 しれないのだが、興味深いことには、穀が蓄えられた後にはそれに呼応す
 るかのように、必ず法隆寺(斑鳩寺)より出火しているのである。

  そして、その一連の事件は、次の事柄に端を成しているように思えてな
 らない。


  
「十二月、大蔵に出火があった」


  これが事故なのか事件なのかは想像でしかないのだが、『日本書紀』に
 従い順に箇条書きにしてみると、


  「大蔵より出火」
  「高安城に田税を集める」
  「斑鳩寺より出火」
  「高安城に穀と塩を蓄える」
  「法隆寺より出火」


  となり、「法隆寺」が「蘇我」色の強い「聖徳太子」(強いなんて比で
 はない。「蘇我入鹿」その人なのであるから)の寺であることを考えると、
 高安城の築城主による「蘇我」系への、攻撃であったと考えられないだろ
 うか。
  築城主とはもちろん、天智の近江朝であり、「蘇我」系とは『日本書紀』
 が「倭京」と記す側である。

  すなわち高安城とは、倭京勢力への対抗を目的としたもの、と考えられ
 るのではないか。田税や穀と塩は兵糧以外の何物でもなく、高安城こそ近
 江朝にとって、対倭京の最前線基地だったのである。

  さらに翌年の天智十年、この年は天智崩御の年であるのだが、近江宮の
 大蔵省の第三倉から出火している

  毎年のように、大蔵から火の手が上がるとは異常な事態である。

  これがその事件に関係するとすれば、倭京が仕掛けたゲリラ戦であった
 のではないかと想像してしまう。高安城の築城開始こそ、近江朝の倭京に
 対する宣戦布告であり、そのあからさまな敵意に対する倭京の報復行動こ
 そ、近江京の財源である大蔵への攻撃なのではないだろうか。

  高安城については以上のように結論づけたが、実際に高安城が倭京軍と
 の戦いの拠点だった、としか考えずにはいられない記録が『日本書紀』に
 なされている。
  それは、まさに「壬申の乱」での次の記録である。


  
「この日、坂本臣財(さかもとのおみたから)は平石野にやどったが、
 近江軍が高安城にいると聞いて山に登った。近江軍は財がくると知って、
 税倉をことごとく焼いて、皆散り逃げた。それで財らは城の中で夜をあか
 した。明方西の方を望見すると、大津・丹比二つの道から軍勢がたくさん
 やってくる旗が見えた。だれかが、『近江の将壱伎史韓国の軍である』と
 いった。財は高安城から下って、衛我河を渡り、韓国と河の西で戦った。
 財らは兵が少なく防ぐことができなかった。」


  このように、文献上からの高安城は、倭京攻略の拠点だったと推察でき
 るのだが、その城壁は南北2.1キロメートルに渡り、山の西側斜面に連
 なっているのである。つまり大阪平野側からの攻撃を想定し得る、構造と
 思われるのだ。

  とはいうものの、他の三方は山稜なので、自然の要害と言えないことも
 なく、平野に面した西側を堅牢に築くのは当然かもしれない。それでも、
 後方からの攻撃を、考慮に入れていなかったのだとすれば、あくまでも大
 阪湾からの上陸を想定した築城であったのだろうか。

  あえて、もうひとつ言わせていただければ、『天武紀』に記されている
 高安城は、あまりにももろく、2.1キロメートルにも及ぶ城壁があると
 は思えない。事実、「財」がいとも簡単に攻略しており、大船団で押し寄
 せてくる「唐」に対抗するためとは、とうてい考えられない。

  さらに昭和53年4月、高安山の東方、生駒郡平群町の山中での、市民
 グループによる最初の発見で、話題となった倉庫跡と思われる礎石群は、
 その後、橿原考古学研究所の発掘調査の結果、廃城後の奈良時代初期(7
 30年頃)のものであることが判明している。

  この調査結果から、築城直後の高安城には未だ城壁などなく、その後、
 徐々に増築された可能性も考えられなくはないのである。

  最早こうなると、こじつけだと言われそうであるが、このように考える
 のにも、おぼろげながら根拠があってのことだ。

  「近江京」を防衛するには、その位置からして適当な城ではないにして
 も、その目的が平城京であっただとしたら、どうであろうか。
  地図を広げて頂ければ、納得できると思うのだが、大阪湾と高安城と平
 城京の位置関係は一直線である。 
  これならば城壁の規模しても、大阪平野側からの攻撃を想定した城壁の
 位置にしても、目的と合致してくるのではないだろうか。

  本来、近江京の手により、倭京攻略を目的として築城された高安城は、
 急場しのぎのお粗末な城であったのだが、近江京陥落後も、その位置関係
 から取り壊されることなく、倭京側によって管理され、瀬戸内からの侵入
 者に対する「平城京」の守りとして、整備されていったのではないだろう
 か。
  まさに瀬戸際の守りであったのであろう。

  とまあ、いろいろ考えられるのだが、結論としての高安城は、以後の歴
 史背景は抜きにして、単に倭京攻略の拠点であったとして、先に進めたい
 と思う。



   
3.天智天皇


  天智天皇こそ、その即位以前は名乗りの多い人物である。

  『日本書紀』をみても、「葛城皇子」・「開別皇子」・「中大兄皇子」
 とあり、名乗りだけではとても同一人物とは思えない。

  「葛城皇子」と「開別皇子」は、同一人物と考えて良いだろうし、「中
 大兄皇子」については、あるときは「葛城皇子」のことであり、あるとき
 は「余豊璋」のことであった。

  「白村江の戦い」の後の「余豊璋」の行方は、「高句麗」に逃れたとい
 う『日本書紀』の証言以外わからないが、逃れて助かり、再び歴史の舞台
 に登場するようであれば、死罪も免れないはずだ。

  従って、「白村江」以後の「余豊璋」は、行方が知れないままであるが、
 もはや国家外交とは無関係の位置にあることになる。少なくとも「唐」だ
 けにはわからぬよう、ひっそりと姿を隠していたに違いない。

  そうすると、この後の「中大兄」は、「葛城皇子」に限定して考えるこ
 とができそうだ。
  「筑紫」を追われながらも、旧「百済」の諸将を率いて「近江」に京を
 開き、即位した人物とは「葛城皇子」だった。天智七年(668)一月の
 ことである。

  通説による天智元年からここまでは、『日本書紀』の記録とは大きく異
 なり、その記述とは裏腹にうがった見解を、余儀なくさせられたのである
 が、めでたしめでたしである、なんてとんでもない。

  天皇の即位年を元年と定めなくて、何故七年なのだろうか。

  これは、斉明死後から天智即位までの、皇太子摂政時代を年代に組み入
 れているためであるとするが、皇太子摂政元年を天皇元年とするのは、お
 かしいのではないだろうか。

  皇太子ではないが、天皇不在時の摂政時代は、ほかに神功皇后があげら
 れる。しかし皇后の元年は摂政元年とする、と『日本書紀』は証言してい
 るのであるから、これではつじつまが合わない。

  これにより、皇太子摂政元年をあくまでも天智元年とするならば、その
 年に天智の即位があった、としたほうがより自然のように思われる。

  天智元年というからには、天智が即位していなければならないと思う。

  もちろん『日本書紀』は、同時に存在した二人の天皇(大王)を認める
 はずがないので、そこには、巧妙なトリックが存在しているのであろう。
  つまり、天智元年に即位していたであろう、もうひとりの天皇は、抹殺
 されてしまったのである。

  このもうひとりの天皇を、どのように呼ぼうか、はたと考えてしまった
 が、『日本書紀』がこの時代を天智元年としている以上、天智としか呼び
 ようがない。

  このとき即位した天智とは、「中臣鎌足」であると考えている。

  『孝徳紀』に述べられている、次の一文をその傍証にあげたい。


  「五年春一月一日、夜、鼠が倭の都に向かって走った。紫冠を中臣鎌足
 連に授け、若干の増封をされた。」


  授けなどと賜ったように記述されてはいるものの、この紫冠こそ即位の
 証であると思われる。
  何度も述べているが、紫以上に高貴な色を私は知らない。

  第十一部巻末で、既に同様の記述をしているが、勘の良い皆さんは、そ
 のときにこのような流れを、予想していたのではないだろうか。

  ただ問題は少なからずある。

  この『孝徳紀』の五年とは、白雉五年(654)のことなのであるが、
 仮にこの年を天智元年とすると、斉明即位(655)以降、在位七年間が、
 吹き飛んでしまうのである。

  乱暴な言い方をすえば、吹き飛んでもらって一向に構わないし、そのほ
 うがどんなにかありがたい。実際、このあたりの記録となると重出が多く、
 何がどの時代に起こっていたのか、どちらの記録を信用するかは、読み手
 の推量に一任されてしまう。

  しかし、それでは『魏志倭人伝』を、学者のご都合宜しく解釈して、真
 実に蓋をしてしまうことと何ら変わりない。
  否、それ以上に悪いことに決まっている。

  この矛盾点を乗り切るポイントは、いくつかある。もっとも、これらは
 整合よく考えていけば、矛盾でも何でもないのであるが。

  『日本書紀』編纂時には、すでにいくつかの史書が存在しており、それ
 ぞれの天皇紀の年紀が、異なっていたのもかかわらず、それを年紀順に編
 集してしまった結果、重出・矛盾が発生してしまったのだと思う。

  これらは考証無し転載したこともあっただろうが、多くは意図的に行わ
 れたことだったと推察する。
  早い話が、真実を闇に葬るためのつじつま合わせにすぎない。

  従って、他の年紀に比較してより重出の多い、『斉明紀』・『天智紀』
 には、たぶんに史実の捏造があったに違いないのである。
                       ・・
  残念ながら、『日本書紀』と同時代を記述した正史は、『古事記』以外
 に伝わっていないが、『日本書紀』自体も他の『天皇記・国記』を認めて
 いるし、神代の記述には歴史書として、ある『一書』なるものを引用して
 いる。
              ・・
  さらに『日本書紀』以外の正史の存在は、なんと中国の史書に証拠を残
 している。

  『宋史』日本伝には、日本から『職員令』・『王年代紀』おのおの一巻
 を献上された記録があり、その『年代記』を引用した記事を残している。

  それによれば、


  
「その年代記の記す所にいう、初めの主は天御中主と号す。次は天村雲
 尊といい、その後は皆尊を以て号となす。次は天八重雲尊、次は天弥聞尊、
 次は天忍勝尊・・・・以下略」


  と、初代のアメノミナカヌシは『古事記』にも、最初の神として登場す
 るが、以後の神は耳慣れない名ばかりである。あえて言えば、「天村雲尊」
 は「尾張氏」の祖神に名を連ねるアメノムラクモであろうが、天皇の祖と
 して記されているのは、身震いするほど興味深い。

  また、『日本書紀』が初代とするクニトコタチは十三代であり、十九代
 のアマテラスは、なんと十八代スサノオの下に位置している。
  これもまた、聞き流すわけにはいかない記録であろう。

  それにしても献上品であるからには、正史または、それに準ずるもので
 あるはずだ。ちなみにこのとき入宋したのは、東大寺の僧「「然」(ちょ
 うねん)である。
  『記紀』の記録と異なる正史の存在は、他にもそのような史書の存在を
 感じさせるのに、充分な証拠になると思う。

  『斉明紀』・『天智紀』を通じて記録されている、主だった重出は次の
 通りである。


  
「斉明四年 沙門智踰が指南車を造った。」
  「天智五年 倭漢沙門智由が指南車を献した。」

  「斉明五年七月 小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣わして唐
 国に使せしめる。」
  「天智四年 小錦守君大石等を大唐に遣わした、云々と。──等という
 のは、小山坂合部連石積・大乙吉岐弥・吉士針間を言う。思うに唐の使人
 を送ったものであろう。」

  「斉明六年五月 皇太子が初めて漏刻をつくり、人民に時を知らせるよ
 うにされた。」
  「天智十年四月 漏刻を新しい台の上におき、初めて鐘・鼓を打って時
 刻を知らせた。」

  
「斉明六年十月 百済の佐平鬼室福信は、佐平貴智らを遣わして、唐の
 俘虜百余人をたてまつった。」
  「斉明七年十一月 日本世記には、十一月に福信が捕らえた唐人の続守
 言らが筑紫に着いたと。またある本には、この年、百済の佐平福信がたて
 まつった唐の俘百六人を近江国の墾田に居らしめたとある。昨年すでに福
 信は唐の俘虜をたてまつったことが見えている。いま書きとどめておくの
 で何れかにきめよ。」


  「
斉明七年六月 伊勢王が薨じた。」
  「天智七年七月 伊勢王とその弟王とが日をついで薨去した。」


  「天智三年二月 皇太子は弟大海人皇子に詔して、冠位の階名を増加し
 変更することと・・・」
  「天智十年一月 東宮太皇弟が詔して、──ある本には大友皇子が宣命
 すとある。──冠位・法度のことを施行された。」

  「天智四年二月 佐平福信の功績によって、鬼室集斯に、小錦下の位を
 授けた。」
  「天智十年一月 鬼室集斯に小錦下を授け、・・・」


  注意深く検討すれば、もっとあるのかもしれないが、一読して気がつく
 だけでも上記のごとくである。ただし、斉明六年・七年の「鬼室福信」の
 記録は、『日本書紀』自ら重出を認めている意味で、ここに掲げておいた。

  さて、斉明紀年と天智紀年に混乱があることは、すぐに認められるであ
 ろう。
  例えば、斉明四年と天智五年、斉明五年と天智四年、斉明七年と天智七
 年がそれである。

  一般に斉明元年は655年と言われているが、この年を天智元年とする
 史書もまた存在したということである。四年と五年の違いは、元年を前天
 皇年の末年とみるか、翌年とみるかで変わってくるものであり、誤差内と
 考えて差し支えないと考えている。
  もちろん斉明七年と天智七年は、完全に同一年である。

  また、天智三年と天智十年、天智四年と天智十年については、およそ七
 年の差があるが、これらは、天智元年が二つあるいは、それ以上存在した
 から起こったことであり、実は同じ年であった可能性が高い。
  斉明六年と天智十年こそ、うまく説明ができないが、敢えて言えば、と
 もにおよそ末年代であるということになろうか。

  そして、『日本書紀』のいう斉明在位が七年間であり、天智の即位が天
 智七年のことであるという。

  これらすべて七年だ。

  実はこの七年こそ、つじつま合わせであり、複雑に絡み合ったからくり
 ではないだろうか。

  この問題を解く鍵は、孝徳朝とそれ以前の王朝の在り方にある。

  孝徳朝以前の蘇我系・倭国と多武峯・百済との二朝時代は、既にご理解
 して頂いているものと思うが、「乙巳の変」を境にして両朝は、とりあえ
 ず一つになった。それが孝徳朝であったのだが、「中大兄皇子」の造反に
 より、両朝は袂を分かち、再び二朝間による政争が始められることになっ
 た。

  問題はここからである。

  「中臣鎌足」は、失意の孝徳から皇位を受け継ぎ即位し、「倭国」の天
 皇となる。
  かたや多武峯・百済は合併王朝時には、孝徳に位を譲っていた皇極(斉
 明天皇)が返り咲く。とは言うものの重祚したわけではなく、孝徳時代も
 多武峯・百済の王は皇極なのだから、皇極・孝徳・斉明の時代を通じて、
 連続して女帝だったわけである。

  この「中臣鎌足」の即位が、『日本書紀』とは違うもう一つの天智元年
 である。
  そして『日本書紀』の天智元年には、「葛城皇子」が即位しているはず
 である。この天智元年は斉明七年の斉明薨去の年である。

  『日本書紀』を編纂するにあたって、大別すると次の二種類の史料の存
 在があったものと考えられる。


  
@「中臣鎌足」の即位を天智元年とする史書。
  A「葛城皇子」の即位(斉明天皇の薨去年)を天智元年とする史書。


  素直に考えれば、@が倭国政権よりの史料であり、Aが百済政権よりの
 史料となるのであろう。


  当然「倭国」の史料は、斉明の在位は認めていないし、「百済」の史料
 からすれば「中臣鎌足」(以下、鎌足天智)は単に「大臣」である。
  ただし私見による「王」・「臣」・「連」姓は、そもそも同格であり、
 例えば、「王」姓の頂点が「大王」、「臣」姓の頂点が「大臣」であった
 と考えている。そして、最終的に「大王」支配の世となり、「臣」・「連」
 は臣下に成り下がったのである。
  従って「鎌足」をあたかも臣下のように記している『日本書紀』であっ
 ても、それが勝ち残り組である、天皇中心の史観であるからとすれば、あ
 ながち嘘とは言えず、むしろ「大臣」という地位を残しているだけ、親切
 と言えるのかもしれない。これは「蘇我氏」についても同様だ。

  孝徳・斉明・天智と連続した天皇紀となっているが、天智の即位は天智
 元年としたほうがより相応しいと思う。皇太子摂政時代をも天智年代に含
 めることは、編纂上の苦し紛れとしか言いようがない。

  そして、この天智は「中大兄皇子」では断じてない。

  なぜなら、『日本書紀』の天智元年に、「中大兄」は天皇に即位してな
 いからだ。
      ・・
  従って、紫冠を授けられたという「中臣鎌足」こそ、このとき即位した
 鎌足天智であったのである。

  「鎌足」は、「唐」より「筑紫都督府」の都督に、任命されているもの
 と推察するが、「鎌足」が選ばれた理由とは、ここでは、協力国「倭国」
 の天皇でありながらどちらにも荷担せず、常に中立的立場であったからだ
 としておきたい。



   
4.鎌足天智


  さて、即位後の鎌足天智は、すでに述べてきたように、「百済」遠征阻
 止に向かって足跡を残している。

  「白村江の戦い」で大敗北を喫した「百済」は 最後の拠点である太宰
 府まで落ち延び、急ごしらえの防備ながら雌雄を決する覚悟であったが、
 頼みの「黒歯常之」が降伏してしまっては、どうすることもできなくなっ
 た。

  「葛城中大兄」は、暴徒化寸前の旧百済の諸将達に土地を、与えなけれ
 ばならなかった。
  近江に建国したのは、「倭京」に協力関係を求めながら、いざとなれば
 琵琶湖を渡り、一気に日本海に逃れることのできる位置にあったからであ
 ろう。まあ、これは一般的に言われていることでもある。

  ただ「葛城中大兄」の誤算は、「大海人」が「葛城」の申し出に対して、
 猛然と反発してきたことである。
  「大海人」にしてみれば、近江に建国されては近隣に爆弾を抱えること
 になり、おいそれと安眠することもできないわけである。

  ここに「浜楼事件」となるわけだが、「鎌足」の仲裁で何とか事なきを
 得た。

  ここで、ひとつ疑問に思ってほしい。

  臣下の立場である「鎌足」が、どのような知恵をもって、この偉大な両
 皇子を、遺恨を残さず仲裁したというのであろうか。
  お互い引き下がったわけである。彼らは「鎌足」の言うことならばしか
 たあるまい、と思ったのだろう。方や長槍を床に突き立て、方や兵で取り
 囲む。このような一触即発の興奮状態で、一臣下の言うことを聞く余裕が
 あるのだろうか。

  歴史が認めた偉大なる彼らなら、なるほどそんな切り替えも可能かもし
 れないだろう。
  しかし、「鎌足」が天皇「鎌足天智」であったからこそ、命令に従わざ
 るを得なかった、と考えたほうが、ずっとスムーズではないだろうか。


  
「どんな事情があろうと、百済が亡き今、この地で生きていく以外にな
 いのだ。お前達が相争っていれば、唐羅に足下をすくわれ百済の二の舞に
 なる。この地に居る以上、百済倭国(ふじわら)として、進むほかに何が
 あるというのだ。」


  と言ったかどうかはわからないが。

  「蘇我氏」三代(私見では「馬子・入鹿」の二代)についてもそうなの
 であるが、『日本書紀』は要所要所で「藤原氏」が、大王であったことを
 ばらしながらも、それを肯定することは一文たりともしていない。

  もちろん、『日本書紀』成立時の天皇家の万世一系の血筋と、天皇支配
 の正当性を公然にする歴史書であるのでそれも当然であり、「蘇我氏」抹
 殺の意図は解るのだが、その当時、天皇を傀儡にした最高権力者であった
 「藤原不比等」の血統まで、歪曲させる必要があったのだろうか。

  それも、編纂責任者本人がである。
                 ・・
  ちなみに通説では、女帝に時代に暗躍した「藤原不比等」ということに
 なっているが、よくよく調べてみると、どうやら暗躍などではなさそうな
 のである。

  『東大寺献物帳』には、聖武天皇の遺品にあったという「黒作懸佩刀一
 口」なるものの由緒が記されている。
  原文は漢文なのであるが、「上山春平氏」の読み下し文を拝借すれば、
 次のようになる。


  
「黒作懸佩太刀(くろつくりかけはきのたち)
  右(この場合は上記)、日並皇子、常に佩持せられ、太政大臣に賜う。
 大行天皇、即位の時、すなわち献ず。大行天皇、崩ずるの時、また大臣に
 賜う。大臣薨ずるの日、さらに太上天皇に献ず。」


  つまり、この太刀は元は草壁皇子から「不比等」に賜られたもので、文
 武天皇が即位する時にこれを天皇に献じ、文武が崩じた時にふたたび「不
 比等」に返され、「不比等」の薨去の日に、「不比等」はこれを聖武天皇
 に献じた、というのである。
  つまり、女帝が立つ時には常に「不比等」の手中にあったことになる。

  太刀はいつの時代になっても、権力の象徴である。


 
 「この太刀を朕と思うて・・云々」


  などといった台詞を耳にしたこともおありだろう。しかもこの太刀は、
 即位時から崩御に至るまで手にしていたものなのである。「賜る」「献ず」
 という文字に目がいってしまうので、疑問に思われないかもしれないが、
 「不比等」のことを知らない者が、この説話を読めば、皇位継承者へ引き
 継がれていったようにしか読めないものと思う。

  詳しくは別の機会にゆずるが、この「黒作懸佩太刀」は、やはり最高権
 力者の印であったのだろうと推測している。

  この時代の最高権力者と言えば、天皇以外にあり得ないのだが、これを
 結論とするのは、少々性急すぎるかもしれないので、とりあえずこの段階
 では、「不比等」は時の最高権力者であった、という政府見解のような玉
 虫色の解答で許して頂きたい。

  さて、話を元に戻そう。

  「鎌足天智」という考え方は、理解しづらいかも知れないが、『日本書
 紀』のいう天智年間に倭国王だったのは、「鎌足」であったと言い換えれ
 ば、解っていただけるだろうか。

  私見による「鎌足」は「都督」である。この官位は「唐」により任命さ
 れたものであるのだが、この「都督」というのは軍政の官位であり、過去
 にも任命された者が複数いる。

  倭の五王を、憶えておられることと思う。

  中でも倭王「武」は、自ら


  
「倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、
 倭国王」


  と名乗っているが、実のところ、これは一部省略して翻字しておいた。
 これを何ら省略せず原文のまま記せば、

   
   ・・
  「使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大将軍倭国王」


  である。

  「使持節」とは、“周辺を守る”という含みがあるらしい。また、よく
 取りだたされるのは「安東大将軍」のほうだけだ。意外にも「都督」のほ
 うは問題にされていないようである。
  「安東大将軍」については、「宋」より東の土地は我に任せて頂きたい、
 と解釈できよう。
  このうち装飾語を省けば、都督=倭国王となる。

  結局、「唐」側は「百済」を除いた上で、この称号を追認しているが、
 ここで重要なことは、倭王「武」自らこれを名乗り、許可を求めたという
 ことである。

  『三国史記・百済本紀』によれば、白村江の敗戦の後、「唐」の高宗は
 旧百済王子「扶餘隆」を「熊津都督帯方郡王」に任命し、「百済」の旧領
 を統治させた。すなわち、熊津都督=帯方郡王であり、自ら「都督」の称
 号を欲した、倭王「武」の名乗りから推理してみても、都督=王と考えて
 良いのではないか。

  言うなれば、周辺諸国に王として認識させるためには、「都督」という
 お墨付きが必要だったわけである。
  自称国王よりも、「唐」の地方官(と言っても地方君主なのだが)のほ
 うが、ずっとありがたかったことになろう。

  時代が下がり「鎌足」の頃になっても、このような中国を中心とした国
 家観、つまり中国至上の国家観に大した違いはなかったのではないか。

  そうでなければ、さらに後に「遣唐使」など行われるはずがない。

  そんなわけであるから、「鎌足」が「筑紫国」の「都督」に任命された
 のであれば、筑紫国王になったことであり、同時に「鎌足」は私見による
 倭王でもあることから、西日本を代表する大王と言っても差し支えないだ
 ろう。
 
  ただ、「藤原氏」は総じて民衆の気持ちを、引きつけられなかったよう
 である。

  その最たる人物は、なんと言っても「藤原不比等」であろう。

  女帝を傀儡にし暗躍したという、イメージが強いのかも知れないが、そ
 の嫌われぶりは、『竹取物語』において実に顕著である。

  この物語をご存じのない方は、まずいないと思うのだが、「かぐや姫」
 と言えば、誰しもその内容が思い浮かぶことであろう。

  簡単にあらすじを述べさせてもらえば、


  
「竹取の翁に竹の中から拾われたかぐや姫は、都中の男たちから羨望の
 的となるような、絶世の美女に成長する。昼も夜もなく覗き垣間見に来る
 男たちがいるという、超アイドルとでも言えようか。
  その男たちの中には、政治運営に携わる五人の貴人・豪族までもが含ま
 れていたという。そして、その五人の求婚がすさまじく、しかし、彼らに
 無理難題を押しつけ何とか断るかぐや姫。ついには帝にさえも求まられて
 しまった。
  そうこうしているうちに、月から迎えがやってきた。帝の軍勢はこれを
 迎え撃つのだが、矢が届くこともなく全然かなわない。結局、月からの迎
 えは、かぐや姫をつれて帰ってしまった。」


  という話であるが、この五人の貴人・豪族は、実在した人物をそっくり
 そのまま登場させているのである。

  その登場人物とは、


  「石作皇子」(いしつくりのみこ)
  「車持皇子」(くらもちのみこ)
  「右大臣阿部御主人」(あべのみぬし)
  「大納言大伴御行」(おおとものみゆき)
  「中納言石上麿呂」(いそのかみのまろ)


  の五人であるが、後半の三人は『持統紀』十年十月二十二日の条に、そ
 の名前が見える。


  
「正広参位右大臣丹比真人(たじひのまひと)に、仮に舎人百二十人を
 私用することを許された。正広肆大納言阿倍朝臣御主人(あべのあそんみ
 ぬし)・大伴宿禰御行には、それぞれ八十人を。直広壱石上朝臣麿呂・直
 広貳藤原朝臣不比等には、それぞれ五十人を許された。」


  ここで登場する人物も五人なので、もしかしたら後の二人は、それぞれ
 「石作皇子」・「車持皇子」のモデルと思われる方も居られるだろうが、
 実はそのとおりである。

  「藤原不比等」の母は、『興福寺縁起』によれば「鏡王女」であるが、
 当時の風評として「車持君与志古娘」(よしこのいらつめ)を事実としてい
 たらしい。

  つまり「車持皇子」とは「不比等」を揶揄した人名と考えられる。

  かたや「石作氏」と「丹比氏」はホアカリを祖とする同族で、その意味
 では「尾張氏」とも縁が深い。他の四人が実在であるのなら、「石作皇子」
 のみが架空とも考えにくいから、これも「石作皇子」=「丹比真人」とし
 ていいだろう。

  かぐや姫は彼らに無理難題を言うのだが、「車持皇子」に関しては書き
 出しが、


  
「車持皇子は心たばかりある人で・・・・」(『たばかる』相手に誘い
 かけて自分の思うようにさせる。また、だまし欺く。ごまかす)


  と始まっており、実に卑劣でずるがしこい人物像となっている。

  『竹取物語』は「藤原氏」の絶頂期の成立であるので、暗号であったに
 せよ、批判は命がけであるはずだ。
  それでもなお発表したということは、嫌われぶりは尋常ではないと思え
 てならない。

  さらに興味深いことは、隠語の人物は共に「皇子」とされていることで
 ある。

  「皇子」とは天皇の子である。

  隠語を使って本名を避けたのは、風刺による理由もあるだろうが、この
 二人が実際に天皇の皇子であったからではないだろうか。
  「皇子」であることが、公然の秘密になっている二人の真実を、隠語を
 使うことによって、それこそ公然と表現したのではないだろうか。

  そうだとすれば「丹比真人」は、同じ名を持つ天武天皇の子と考えてよ
 さそうだ。

  「不比等」が「皇子」だとすれば、父「鎌足」は当然天皇であったこと
 になり、また『尊卑分脉』の不比等伝には、


  
「公避くる所の事有り」(出生の公開に憚られるところがある)


  とあり、これが実は天智落胤説の根拠とされている。

  天智元年に即位した天智こそ、「鎌足」であったとする私見からすれば、
 「不比等」はもちろん「皇子」であり、天智落胤説との間に何の矛盾も見
 られない。

  細かいこと言えば、『籐氏家伝』による「鎌足」の生誕年は、推古二十
 二年だという。
  また『紹運録』による天智生誕年が、推古二十二年なのである。こんな
 符合は大した問題ではないかも知れないが、符合が見られる史書があると
 いうことが重要である。
  ちなみに『紹運録』は、天智・天武兄弟逆転説が、証拠とする史書であ
 る。

  現在の天智綾は山科にある。これは『扶桑略記』・『万葉集』・『延喜
 式』などの記録とも、山科という点で一致するのだが(山科には他にも御
 陵候補地がいくつか存在している)、『日本書紀』によれば「鎌足」も、
 山科に葬られたという。

  いずれにせよ、いかに民衆の支持を得られなかったとしても、これらの
 証言から垣間見る「藤原氏」の姿は、天皇を傀儡とする最高権力者である
 かもしれないが、忠実な家臣というイメージよりもむしろ、大王そのもの
 ように見受けられ、特に「鎌足」は名実とも最高権力者だった、と思えて
 ならないのである。



   
5.豊璋と翹岐


  「白村江の戦い」の後、行方不明になってしまった「余豊璋」であるが、
 『日本書紀』・『三国史記・百済本記』によれば、「高句麗」に逃れたこ
 とになっている。
  さらに『百済本記』では、「唐」が「豊璋」の王剣を手に入れたするの
 で、王の身分を隠しての逃走であったように見受ける。

  日本に渡航し、天智として即位したような説もあるが、それはどうだろ
 うか。
  「唐」の「劉仁願」や「郭務宗」らが、何度と来訪している最中、戦争
 犯罪人である「豊璋」が天皇に即位できるであろうか。
  確かに、「豊璋」は「中大兄皇子」の一面も持っている。だからといっ
 て、天智だというのは、大いに疑問である。

  来訪時の「豊璋」は百済王子であったのだが、もう一人島流しに合い、
 来訪した百済王子がいた。それが「翹岐」であり、私見による後の「鎌足」
 である。

  ところが、「豊璋」と「翹岐」は同一人物であると言う説がある。

  『日本書紀』の中で、「豊璋」は別名で呼ばれている部分が二箇所あり、


  
斉明七年四月の条
  「百済の福信が使いを遣わして表をたてまつり、百済王子糺解をお迎え
 したいと乞うた。」

  天智二年五月の条
  「犬上の君が高麗に急行し、出兵のことを告げて還ってきた。そのとき
 糺解と石城で出会った。糺解は犬上の君に、鬼室福信に罪あることを語っ
 た。」


  の二箇所なのだが、斉明七年の百済王子とは「豊璋」なので、百済王子
 「糺解」とは「豊璋」のことになる。

  問題は、この名前の発音である。

  「糺解」とは“くげ”と発音させるが、どうも“きうけ”と発音するの
 が正解らしい。そして「翹岐」はどうかと言うと、“ぎょうき”と発音し
 ているものの、これが“きゅうかい”であるという。
  この両者は朝鮮語からすれば、同じ発音なのだそうだ。
  また。小林恵子氏は、「翹岐」は“けうき”発音するものとしており、
 “きうけ”=“けうき”であると述べられている。

  つまり、『日本書紀』の記述から「豊璋」=「糺解」であり、発音から
 見れば「糺解」=「翹岐」なのだから、「豊璋」=「翹岐」であるという
 のである。

  これに私見を併せるどうであろうか。

  「豊璋」=「鎌足」となり、鎌足天智の皇太子時代が「中大兄皇子」、
 すなわち「豊璋」であっても何ら問題が無くなってしまう。
  さらには、「乙巳の変」は「鎌足」の一人舞台だったことになり、後の
 藤原四代が「梅原猛」氏の言うところの、「蘇我氏」の亡霊に悩まされ続
 けたことも、妙に納得がいってしまう。何たって「入鹿」殺しの張本人を
 祖とするのだから。

  そして、「白村江の敗戦」の後、「倭地」に逃げ帰った「鎌足」は、九
 州防備に力を入れる一方、「近江京」を建国するに到るが、「山科」で暗
 殺される。天智と「鎌足」の最期の地が「山科」であることも、この両者
 が同一人物なら当然のことになる。

  まことに興味深く、わくわくさせる説のできあがりである。

  実際、「豊璋」=「鎌足」を唱える歴史家は、少なくないように思う。

  この二人を同一人物とする最大の決め手は、「豊璋」と「鎌足」だけに
 授けられた「織冠」(大織冠?)にあるのだろう。

  ところで『日本書紀』の場合、二つ以上の別名や称号を充てられている
 人物は、「豊璋」=「糺解」以外にも複数人いる。

  例えば、「葛城皇子」を「中大兄皇子」や「開別皇子」、「大海人皇子」
 を「大皇弟」や「東宮太皇弟」、「古人大兄皇子」を「吉野太子」や「吉
 野皇子」、そして「山背大兄王」を「上宮の王」とするなどだが、私見に
 よる彼らは、事実関係をつまびらかにしたくないという、『日本書紀』の
 意図が(それは馬鹿正直過ぎるほどに)明らかに見て取れる。

  そうすると「豊璋」=「糺解」も例外ではないのではないか。

  もちろん、「豊璋」と「翹岐」は完全な別人と考えているが、読み手に
 は「糺解」を仲介することにより、同一人物かもしれないと意図的に錯覚
 させる記述となっているように思う。

  もっともこれは、同音でも異字が選択できる漢文ならではのマジックで
 あり、そのように錯覚してもらいからそうしているのであり、もっと言う
 ならば、別人であっては大変に都合が悪いと言うことだ。

  『日本書紀』に登場する「余豊璋」は、『三国史記・百済本紀』でいう
 「扶餘豊」であり、王子に「扶餘隆」の名が見られるので、「豊」の部分
 が名前に当たるのだろうか。ここに「璋」はどこにも見あたらないばかり
 か、「扶餘璋」とは「百済」第三十代王「武王」のことである。

  おまけに「翹岐」が渡来することになったそもそもの原因である、「百
 済」のクーデターについて『百済本紀』は一切語っていない。もちろん、
 「糺解」の名など出てこない。

  その部分さえ除けば、つじつまは合っているので、嘘をついているとは
 言わないまでも、どちらかが言葉足らずなのである。
  やはり『日本書紀』なのか、と思われる方も多いだろうが、これに関し
 ての記述は『日本書記』に軍配を上げたい。
  『日本書紀』にとってみれば、百済史は他国史であるばかりか、編纂時
 には亡国になっている百済史を嘘で固めても、何ら利益が感じられないか
 らである。

  先にも述べているが、私は「豊璋」は「武王」の嫡子であると考えてい
 る。『日本書紀』を正しいとする立場から、「豊璋」の名は、父「武王」
 に由来しているのだと思う。

  さて「糺解」であるのだが、この人物が「豊璋」とは同じ人物とは、断
 じて思えない理由は次の一文からである。


 
 「夏五月一日、犬上君が高麗に急行し、出兵のことを告げて還ってきた。
 そのとき糺解と石城で出会った。糺解は犬上君に鬼室福信の罪のあること
 を語った。
  六月、前軍の将軍上毛野稚子らが、新羅の沙鼻・岐奴江二つの城を取っ
 た。百済王豊璋は、福信に謀反の心あるのを疑って、掌をうがち革を通し
 て縛った。しかし、自分で決めかねて困り・・・」


  なぜ、これほど短い文章のなかで「豊璋」・「糺解」とを使い分ける必
 要があるのだろうか。

  「糺解」の名の初見は、斉明七年の


  「夏四月、百済の福信が使いを遣わして表をたてまつり、百済の王子糺
 解をお迎えしたいと乞うた。──釈道顕の日本世記には、百済の福信は書
 をたてまつって、その君糺解のことを東朝に願ったと。」


  なのであるが、「糺解」=「豊璋」であるならば、この記録より前の斉
 明六年冬十月に、「福信」は「豊璋」を百済国王として迎えたいと、使い
 を遣わしており、天皇はこれを許可している。
  つまり、許しを得た半年後に、再び「豊璋」返還を願い出たことになる。
  まあ、これは重出であるとしてもいいだろう。

  それに続いて、『日本書紀』は


 
 「──王子豊璋及び妻子と叔父忠勝らを送った。その発った時のことは
 七年の条にある。」


  としながら、斉明七年の条にその記録はなく、これに続く記録に当たる
 物は、『天智紀』に斉明七年のこととして、


 
 「九月、皇太子は長津宮にあって、織冠を百済王子豊璋にお授けになっ
 た。また大臣蒋敷(おおのおみこもしき)の妹をその妻とされた。そして
 大山下狭井連檳榔(さいのむらじあじまさ)・小山下秦造田来津(はたの
 みやつこたくつ)を遣わし、軍兵五千余を率いて、豊璋を本国に護り送ら
 せた。この豊璋が国に入ると、鬼室福信が迎えにきて、平伏して国の政を
 すべてお任せ申し上げた。」


  とあるので、夏四月の「糺解」の記録を、全く無視するかのようにみえ
 る。

  さらに「豊璋」送還の記録はこれだけにとどまらず、天智元年五月の条
 には、


 
 「大将軍大錦中阿曇比邏夫連が、軍船百七十艘をひきいて、豊璋らを百
 済に送り、勅して豊璋に百済王位を継がせた。また金策を福信に与えて、
 その背をなでてねぎらい、爵位や禄物を賜った。そのとき豊璋・福信らは
 平伏して仰せを承り、人々は感動して涙を流した。」


  とあり、送還は一回だけであるにもかかわらず、その記録は日付を変え
 三回にわたっている。
  「豊璋」が百済王として送還されたことは、史実であるにもかかわらず、
 こうまでも送った送ったと度重なり記録されていると、かえって何か疑い
 たくなってくるものだ。

  この記録の裏には、表沙汰にされたくない、何か秘密が隠されているの
 ではないか。
  それが、「豊璋」と「糺解」とは、実際には別人だったのではないか、
 ということである。

  先に紹介した、天智二年五月・六月の条について、私は次のように説明
 する。


  
「犬上君は、高麗からの帰還途中、先回りして石城で待ちかまえていた
 糺解と出会った。糺解は犬上君に福信が謀反を企てていることを、そっと
 告げた。事の重大さに驚いた犬上君は、それを上毛野君稚子らに伝え、そ
 の後、豊璋に伝わることとなった。困惑した百済王豊璋は各将軍と協議の
 末、福信を処刑した。」


  もしも、「犬上君」と出会った「糺解」と「福信」を処刑した「豊璋」
 が、同一人物であったのだのだとしたら、ほとんど同一文中にもかかわら
 ず、名称を使い分けている意図がわからない。

  つまり、『日本書紀』の伝える通りだと、「豊璋」が石城で「犬上君」
 と出会ったとき、「福信」に謀反の心があることを伝え、そのことを聞い
 た「豊璋」は軍議の結果「福信」を処刑した、ということになり、文も内
 容もつじつまが合わなくなってしまう。


  
『斉明紀』

  「王子豊璋を頂きたい」
  「王子豊璋を迎えて国王としたい」
  「豊璋を建てて王とし送り出した」
  「百済の王子糺解をお迎えしたい」
  「糺解のことを東朝(みかど)に願った」

  『天智紀』

  「豊璋を本国に護り送らせた」
  「豊璋を百済に送り百済王位を継がせた」


  時間順に箇条書きにしてみたが、一見錯乱したような内容になっている
 ものの、すべては「豊璋」=「糺解」に、持っていくための手法であった
 のではないか。
  発音上から「糺解」とは「翹岐」のことであったに違いないが、そのこ
 とから「豊璋」=「翹岐」とみる説は、まさに『日本書紀』の思うつぼな
 のである。

  「糺解」と「豊璋」は、れっきとした別人であると考えている。

  従って「福信」は、まず書をたてまつって「豊璋」の帰国を依頼し、次
 に「糺解」を望んだのである。共に百済王子であったわけであるから、そ
 の依頼は当然であろう。
  「糺解」とは「翹岐」のことであり、私見による「鎌足」である。

  「豊璋」は百済王として海を渡り、「鎌足」はおそらく、来訪した「福
 信」と接触し、何らかの交渉をもったものと思われる。その交渉の成否は
 わからないが、その後、海を渡ることになったと考えている。

  そのときの様子が、先に紹介した『西寒田神社縁起』に記されているの
 であろう。
  ただし、これに記されているような「百済」救援ではなく、「唐羅」に
 協力するためである。

  「福信」が処刑された後の「百済」は、直ちに「新羅」攻め込まれてい
 る。従って、「神武」とまで言われた「鬼室福信」さえどうにかしてしま
 えば、「百済」再建の目途が立たなくなるわけである。
  「糺解」は「犬上君」に、「福信」が罪があることを語ったわけである
 から、渡航後の「鎌足」は「百済」の内部分裂を図るため、偽りの情報を
 流したのである。

  そもそも、「鬼室福信」こそ「百済」復興の第一人者であるから、謀反
 の心など抱くはずがないのかも知れない。
  しかし、「福信」の子「鬼室集斯」が、「福信」の功績から小錦下の位
 に昇進していることから、その功績とは寝返りだったかも知れないとは、
 すでに述べている。
  あるいは、「鎌足」の謀略の犠牲となった、「福信」への報いだったと
 も考えられる。

  実はこの「鎌足」の策は、『日本書紀』における「乙巳の変」までに、
 「蘇我氏」を分裂せしめた策略に似ている。

  「入鹿」殺害に到る経過も「蘇我石川麻呂」を抱き込み、自ら手をくだ
 さずとも「蘇我氏」を内部分裂させ、一気に崩壊に持っていくという手法
 であった。

  新しい権力が古い権力を追い落としていくために、最も効果のある手法
 は、古い権力の内部分裂を図ることである。

  「白村江の戦い」前夜の「百済」の場合も、「鎌足」は「犬上君」とい
 うリモコンを使い「豊璋」をうまくそそのかし、内部分裂を図り「福信」
 を殺させるということをやってのけたのではないか。

  その後「鎌足」は筑紫都督・倭国王として、統一「百済倭国」実現に向
 けて、「飛鳥朝」・「近江朝」に跨り手腕を発揮するのだが、「鎌足」の
 死後、再び決裂した両朝は「壬申の乱」へと突入していく。

  そして、「鎌足」の実績を最大限に利用して「百済倭国」=「藤原」王
 を名乗ったのは、「不比等」であったことは言うまでもない。


                     2003年2月 第14部 了