真説日本古代史 本編 第十三部


   
日本国誕生




   
1.筑紫都督府


  『日本書紀』白雉五年(654)春一月一日の条として、次のような記
 録がある。


  
「夜、鼠が倭の都に向って走った。紫冠を中臣鎌足連に授け、若干の増
 封をされた。」


  そしてこの記録は、「中大兄皇子」が難波宮を離れて行ったという、以
 下の記述に続くものである。


  
「この年、太子は奏上して『倭の都に遷りたいと思います』といわれた。
 しかし天皇は許さなかった。皇太子は皇極上皇・間人皇后・大海人皇子ら
 らを率いて、倭の飛鳥河辺行宮におはいりになった。公卿大夫・百官の人
 々など、みな従って遷った。これによって、天皇恨んで位を去ろうと思わ
 れ、宮を山崎に造らせられた。・・・以下略。」


  鼠が倭の都に向って走ったとは、主な豪族らは難波を離れて、「中大兄
 皇子」に付き従ったくらいに考えている。           ・・
  しかし、この「中大兄皇子」の強行の後、孝徳天皇は退位を考え紫冠を
 「鎌足」に授けることになったわけである。
  あるいは先に述べたとおり、「中大兄皇子」等に殺されたのかも知れな
 い。
               ・・               ・・
  何度も解説しているが、私は紫色以上に高貴な色を知らない。仮に紫冠
 が臣下の最上位であったとしたら、天皇に相応しい色とは何か教えて欲し
 い。
     ・・
  従って紫冠の授与とは、天皇位の譲位にほかならないと思う。

  『日本書紀』によれば、孝徳の退位は白雉五年十月十日の崩御の日であ
 るが、実際には翌年一月一日、譲位により「鎌足」が即位したものと思わ
 れる。

  「鎌足」が天皇に?と、怪訝な顔をされた方もいらっしゃることであろ
 うから、とりあえず、大王位と言い換えても構わない。

  まだ万世一系思想など無かったであろうこの時代では、天皇という称号
 は存在していないであろう。結局、大王=天皇である。

  統一倭国政権と決別した多武峯・「百済」は、再び皇極天皇を立て(重
 祚して斉明天皇)「百済」本国救済のため遠征の準備に取りかかる。

  重祚したと言っても、『日本書紀』は孝徳時代に皇極上皇を認めている
 のだから、統一政権であったにもかかわらず、天皇(大王)は二人存在し
 ていたわけである。

  そして「鎌足・倭国」と「斉明・百済」は、朝鮮外交問題のこじれから
 完全にお互いを敵国視し、大いに対立的要素を深めていく。
 
  この後「鎌足・倭国」は「唐羅軍」と協力関係となり、「斉明・百済」
 の朝鮮遠征を阻むため圧力を掛けていくのだが、このあたりの「鎌足」の
 政策は、前章までに詳しく述べてあるので省略する。

  その後の多武峯・百済は、『日本書紀』によると拠点を多武峯から、九
 州は現在の福岡に遷したようである。それが朝倉宮であると『日本書紀』
 は伝えている。というよりも、大和攻略のための出先機関を、撤去したと
 言った方がいいのかも知れない。

  そして斉明天皇は朝倉宮で崩御する。

  その跡を継いだのが「中大兄皇子」であったのだが、斉明崩御を前後し
 て、天智天皇が(天智天皇としてではない)即位したものと思われる。
  『日本書紀』の云う天智元年の始まりである。

  いくらなんでも、皇太子摂政時代で天智云々はないだろうと思うが。

  拠点を九州に遷したといっても、「筑紫」はある時から「百済」の占領
 地であった。以前にも述べたことがあるが、『欽明紀』にはそれを匂わせ
 る記述が多くされているし、その「筑紫・百済」の「大和」進出こそ、百
 済系である敏達朝の起こりであった。

  『日本書紀』がうっかり記述ミスを犯したとしか思えないが、「筑紫都
 督府」
の存在は、「筑紫」が「唐」の占領政府であったことを、裏付ける
 結果となっている。

  「筑紫」が敗戦国である「百済」の占領地であったからこそ、「唐」は
 「筑紫」に督府府を設置したのである。

  朝鮮半島を追われた「百済」の諸将は、「百済」最後の領地である「筑
 紫」で、「百済」再建を目論んだのかも知れない。

  「壱岐・対馬・筑紫」などに築かれた烽(すすみ)や、「筑紫」の「水
 城」(みずき)や「大野城」(おおのき)・「基肄城」(きいのき)は、
 彼らが築いたものと考えられる。

  そうであれば、「唐羅」防衛に備えてのものであろう。

  昭和50年に発掘調査された「水城」は、幅60メートル、深さ9メー
 トルもの堀が確認され、「大野城」の土塁の総延長は、15キロメートル
 にも及んでいたという。
  また「大野城」と「基肄城」は、朝鮮式山城の手法を取っていることか
 ら、築城者は「百済」と大いに関係がある。

  これら三つの城(砦?)は、西からの攻撃から太宰府を守るように築城
 されており、「唐羅」軍に備えた築城であったことは容易に推察できる。
  こここそ「百済」最後の拠点であろう。

  そもそも太宰府とは、「百済」が九州支配のために置いた出張政府、つ
 まり「唐」でいう「都督府」である。「百済」滅亡後に「筑紫都督府」と
 して「唐」による支配を受け、後に「日本」側が行政組織として、そっく
 り利用したものと考えている。

  「菅原道真」は太宰府ついて、


  
「都府の機はわずかに瓦に色を看る」


  と歌っている。「都府」とは「都督府」のことであろう。

  これらの指揮を執った人物とは、「中大兄皇子」であろうか。そうであ
 るとするならば、この一連の軍事行動は、「白村江の戦い」の後も朝鮮半
 島で、旧百済将軍「黒歯常之」が最後の、しかし大掛かりな抵抗をしてい
 たために、それに呼応するようにしてできた行動であったに違いない。

  ところが、その「黒歯常之」なのであるが、最初のうちは頑強な抵抗を
 示していたものの、その後はいとも簡単に降服してしまう。
  『三国史記・百済本紀』によれば「黒歯常之」の活躍を、時には二百余
 城を奪回し、「唐」の「蘇定方」すら勝つことができなかったと記してい
 る。

  勝ち戦であるにもかかわらず降服したとは、常識では考えられない。そ
 こには当然密約があったと考えられる。なぜなら、この後「黒歯常之」は、
 唐軍の武将となり、降服していなかった「百済」の任存城を陥落させ、つ
 いに「百済」再興の命脈を断ったからである。

  「黒歯常之」が降服してしまったことにより、「中大兄皇子」らは直接
 「唐羅」軍の攻撃を受ける恐れがでてきてしまった。
  旧「百済」の取るべき道は「唐羅」軍との激突か、倭地への後退しかな
 かった。

  激突は滅亡を意味し、後退は「倭国」・「唐羅」間で挟撃されることを
 意味する。

  いずれにしても戦争は免れない。旧「百済」の諸将は少数精鋭と言えば
 聞こえが良いが、文字通り精鋭と言えども少数なのである。

  進退窮まるとは、まさにこのことであろうか。

  しかし、「中大兄皇子」はある手を打っていた。
  ・・
  天智は「大海人皇子」に自分の娘を四人も嫁がせている。

  「大田皇女」(おおたのひめみこ)、「莵野皇女」(うののひめみこ、
 持統天皇)、「大江皇女」(おおえのひめみこ)、「新田部皇女」(にい
 たべのひめみこ)である。

  ここでは「中大兄皇子」の正体を明らかにしてないが、この四人のうち
 の何人かは彼の娘であるに違いない。

  そして斉明七年春一月八日、「大田皇女」は「百済」救済のため九州へ
 向かう航路の途中、女子を生んでいる。逆算すれば約一年前に、「大海人
 皇子」に嫁いでいることになり、「中大兄皇子」は「大和」を後にするに
 あたり、「大海人皇子」に自分の娘を嫁がせていたことになるが、臨月の
 「大田皇女」が遠征に伴っていたとは信じがたいし、「大海人皇子」が同
 行していないのはなぜだろうか。

  まあこの件は後に譲るとして、常識的に考えれば政略結婚であることは
 一目瞭然である。

  「中大兄皇子」は「大海人皇子」に何を託したのだろうか。

  旧百済領を決着させた後「唐」は、いずれ「筑紫」にも侵入してくるに
 違いない。事実、その後「筑紫都督府」を置き占領政府を布いている。

  「中大兄皇子」に残された術は、「大海人皇子」を頼ることだった。

  天智三年春二月九日のことである。


 
 「皇太子は弟大海人皇子に詔して、冠位の階名をを増加し変更すること
 と、氏上・民部・家部などを設けることを告げられた。」


  「筑紫」に居る「中大兄皇子」が「百済」からの亡命貴族や将軍のため
 に、「大海人皇子」に対して、それなりの身分と待遇の要請をしたのであ
 る。

  『日本書紀』によれば、「大海人皇子」はいとも簡単にこの要請を認め、
 新たに冠位を六階増やし、冠位二十六階を制定したことになっている。

  これにより、彼らの行く末に道が開けたように見られるが、「中大兄皇
 子」らは、なぜか「倭京」ではなく「近江」であった。

  「倭京」を「飛鳥」とすれば、なぜそこへ向かわなかったのだろうか。


  
「夏五月十七日、百済にあった鎮将劉仁願は、朝散大夫郭務宗らを遣わ
 して、上凾と献物をたてまつった。」

  「冬十月一日、郭務宗らを送り出す勅をお出しになった。この日鎌足は
 沙門智祥を遣わして、品物を郭務宗に送られた。四日、郭務宗らに饗応さ
 れた。」

  「十二月十二日、郭務宗らは帰途についた。」


  「郭務宗」らがやって来た理由は、敗戦国「百済」と協力国「倭国」に
 対する戦後処理のためでしかない。
  「鎌足」の「都督」任命は、この時のものであろうと思う。

  「郭務宗」は約七ヶ月間に渡り滞在しているが、この間「鎌足」と面会
 しているようではあるが、「唐」の使者が訪れるという重要な件にもかか
 わらず、皇太子も「大海人皇子」も名を連ねてない。
  しかも今回は単なる使者ではないことくらい、誰の目にも明らかであろ
 う。

  従って、「郭務宗」は「鎌足」を「倭国」の大王と認め、戦勝国に準じ
 た交渉を行ったのであり、倭国に独立した「百済」の名は消滅した。

  結局、「中大兄皇子」らは「筑紫都督府」が布かれることにより、「筑
 紫」に居ることが危険になったことになったのだろうか、いずれにしても
 「近江」に都が開かれたのである。

  「近江京」の始まりである。



   
2.大海人皇子


  「大海人皇子」は、天智天皇が即位するのと同時に立太子(皇太弟)し
 たように記されているが、天武天皇として即位する以前の「大海人皇子」
 については、大した事績を記していない。

  その数少ない事績を掲げてみると、次のようである。


  『孝徳、白雉四年の条』
  「この年、皇太子は奏上して『倭の京に遷りたいと思います』といわれ
 た。しかし天皇は許されなかった。皇太子は皇極上皇・間人皇后・大海人
 皇子らを率いて、倭の飛鳥の河辺行宮におはいりになった。」

  『孝徳、白雉五年冬十月一日の条』
  「皇太子は天皇が病気になったと聞かれて、皇極上皇・間人皇后・大海
 人皇子・公卿らを率いて、難波宮に赴かれた。」

  『天智三年春二月九日』
  「皇太子は弟大海人皇子に詔して、冠位の階名を増加し変更することと、
 氏上・民部・家部などを設けることを告げられた。」

  『天智七年五月五日』
  「天皇は蒲生野に狩りに行かれた。ときに皇太弟・諸王・内臣および群
 臣みなことごとくお供をした。」

  『天智八年五月五日』
  「天皇は山科野に薬狩りをされた。大皇弟・藤原内大臣及び群臣らこと
 ごとくお供をした。」

  『天智八年十月十五日』
  「天皇は東宮太皇弟を藤原内大臣の家に遣わし、大織の冠と大臣の位を
 授けられた。」

  『天智十年一月六日』
  「東宮太皇弟が詔して、──ある本には、大友皇子が宣命すとある。」

  『天智十年十月十七日』
  「天皇は病が重くなり、東宮を呼ばれ、寝所に召されて詔し、『私の病
 は重いので後事をお前に任せたい」云々といわれた。東宮は病と称して、
 何度も固持して受けられず、・・<以下略>・・」


  天智天皇の皇太弟でありながら、上記内容からは政治的な活動をうかが
 い知ることはできないばかりか、


  「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」


  とまで言わしめた「大海人皇子」であるにもかかわらず、前半生は何も
 書かれていないといって良いほどである。

  「尾張氏」の実像から、真の古代史を探究していくというテーマであり
 ながら、久しく「尾張氏」は登場して来なかったが、ここに来て重要な役
 目担ってきたようである。

  なるほど『日本書紀』のなかでも、「大海人皇子」は「大海皇子」と表
 現されている箇所がみられ、これにはうなずかざるをえない。

  また、「尾張氏」と天武天皇との関係は、次の『日本書紀』壬申の乱前
 紀の記録からも推察することができる。


  
「不破の郡家に至る頃に、尾張国司小子部連鋤鉤(ちいさこべのむらじ
 さひち)が、二万の兵を率いて帰属した。」


  『続日本紀』は、さらに重要な証言をしているが、ここではあえて触れ
 ないでおこう。

  従って「大海人皇子」→「大海氏(尾張氏)」の関係は、大和氏の説を
 歓迎し、「尾張氏」と天武天皇には、深い関連があったとして話を進めて
 いきたい。

  ここでは「大海人皇子」が、「大海人」であった理由にこだわってみた
 い。

  「尾張氏」との関係だけからみれば、「海人族の大王」とも考えられる
 が、東国から来た大王が「壬申の乱」で勝利し、天皇になったとしたら、
 天武天皇即位前紀で「大海人皇子」を登場させる必要は全然ない。継体天
 皇のように、大和朝廷から乞われて軍事行動をおこし、即位したとすれば
 よいのである。
  
  「大海人」とは、やはり「大海の人」だろうか。もっと言えば、「大海
 からの人」ではないだろうか。

  そう考えた場合、「大海人皇子」は渡来人であった可能性もある。

  天武天皇帰化人説は、小林恵子氏の説がよく知られているようである。

  詳しく説明することは避けるが、簡単に述べると天武天皇は「漢皇子」
 であり、その父「高向王」とともに中国からやって来た、帰化人であると
 している。
  そして天武は中国から彗星の如くやって来て、すぐに天皇になったとい
 う。

  林青梧氏は、「大海人皇子」は「金多遂」であったとしている。(「日
 本書紀」の暗号 講談社刊)

  氏は白雉になって突然現れた「大海人皇子」は、大化五年以前には「倭
 国」にいなかったとし、それ以後やって来て政治的に重要な人物は、「金
 多遂」であり、「中臣鎌足」が「金多遂」を「大海人皇子」に変身させた
 と断言している。

  両氏の説はともに魅力的な説ではあるのだが、どちらの説を採ったとし
 ても、「大海人皇子」を「皇子」としなければならなかった理由を、説明
 することはできない。

  なぜなら「皇子」というからには、天皇の子でなければならない。だか
 ら越前からやって来た継体天皇には、「皇子」時代は当然存在しない。
  たとえ応神天皇の五世孫であったとしても、天皇の子ではないからであ
 る。

  『日本書紀』はこういう細かな点は、よく統一されている。

  例えば、「市辺押磐皇子」の子である顕宗天皇と仁賢天皇は、摂津の国
 で発見されるまで、おのおの「億計王」・「弘計王」とされており、清寧
 天皇の夏四月七日の条として、


  
「夏四月七日、億計王を皇太子とし、弘計王を皇子とされた。」


  と、わざわざ記しているくらいである。

  ただし例外もある。「宝皇女」と「田村皇子」、それに聖徳太子の皇子
 たちである。このうち「聖徳太子」は私見によれば天皇なので、その子ら
 は皇子と呼ばれることに違和感はない。

  「大海人皇子」は舒明天皇の実子とされているので、『日本書紀』に従
 えば確かに「皇子」ではある。
  ところが第9章で述べたように、天武崩御年(686)が65歳とすれ
 ば、舒明崩御(舒明十三年、641)のときの天武は20歳だったことに
 なることから、当然天武は舒明が即位する前に生まれている。

  するとはなはだ都合が悪いことが生じてしまうのだ。

  『日本書紀』は舒明の崩御歳を記していないが、『扶桑略記』によれば
 49歳であり、他の文献もおおよそ統一されている。
  そうすると、舒明十三年(641)に亡くなった舒明は、おそらく推古
 元年(593)か一年前に生まれたことになる。そして「大海人皇子」が
 生まれた時の年が28歳くらいになろうか。

  まあこれは、現実的な年齢と言えるかも知れない。

  ところが、舒明の父は「押坂彦人大兄皇子」(おしさかのひこひとおお
 えのみこ)であり、この者は「宝皇女」(後の皇極)の祖父なのである。
  つまり舒明は、自分の父の孫・異母兄弟の子を后にしたことになる。

  こういった近親婚はあり得ない話ではないので一応理解はできるが、で
 は」「宝皇女」が「大海人皇子」を生んだ年齢は、いくつの時になるのだ
 ろうか。

  系図にすると次のようになる。


   
            吉備姫王┐
     広姫┐              ├─宝皇女─┐
       │        ┌芽淳王┘      │
      ├押坂彦人大兄皇子┤          │┌葛城皇子
      │        │          ├┼間人皇女
  敏達天皇┤        ├────舒明天皇─┘└大海人皇子
      ├───糠手姫皇女┘
 菟名子夫人┘


  ものすごい近親婚の連続である。

  仮に舒明が生まれた歳を、「押坂彦人大兄皇子」が16歳のときとして、
 「芽淳王」が一年早く生まれていたとしてみよう。また、これ以上年齢を
 下げて考えることは、現実的でないと思う。
  「吉備姫王」が婚姻後まもなく懐妊したとしても、舒明が28歳の時の
 「宝皇女」は12歳か13歳にしかならない。

 舒明二年の条に、


  
「二年春一月十二日、宝皇女(後の皇極)を立てて皇后とした。皇后は
 二男一女を生まれた。第一は葛城皇子、第二は間人皇女、第三は大海人皇
 子である。」


  とあるが、これを信じれば「宝皇女」が「葛城皇子」を生んだ年齢は、
 早く見積もったとしても16歳であり、一応現実的な年齢にはなっている。

  しかし「大海人皇子」が「葛城皇子」よりも年長であるとすれば、この
 ように考えることによって、『日本書紀』は、実に苦しい言い訳をしてい
 ることがわかる。

  実際には、天武天皇薨去73歳としている文献もあるので、年代を繰り
 上げることもできるが、『日本書紀』に薨去歳の記載がないことが、疑念
 を抱かせてしまうのである。

  実は皇極にも、崩御歳を記載する文献が舒明と同じほど存在する。それ
 らによれば、皇極は68歳で薨去したことでほぼ一致している。

  『日本書紀』によれば、皇極は斉明七年(661)に薨去しているが、
 崩御歳からみた皇極の生年は、おおよそ推古元年(593)になり、舒明
 とほぼ同じに生まれたことになってしまう。

  同い年の子と孫という話も考えられないこともないが、実際のところ、
 彼らは異母兄妹だったのではないか。

  結局どの方向から検証したとしても、『日本書紀』の記述通りには考え
 にくい。

  『日本書紀』が隠そうとしている事実は、『日本書紀』にとって都合の
 悪いことでしかないし、「大海人皇子」もその一つなのであろう。
  実のところ、「大海人皇子」の名は、『日本紀』の修史時期に作られら
 た名乗りなのではないかと考えている。

  舒明と皇極が同世代人であったとしたら、二人の年代差が一気に約20
 年間縮まってしまう。そうすると、「厩戸皇子」と「蘇我入鹿」が同世代
 人であったことが分かってしまう。

  もちろん私たちは、「厩戸皇子」(聖徳太子)=「蘇我入鹿」であるこ
 とを、すでに知っているから驚かれないかも知れないが、これらのことに
 より「高向王」と「蘇我石川倉山田麻呂」、あるいは「高向王」の子「漢
 皇子」と「大海人皇子」・「中大兄皇子」等は同世代人となり、「乙巳の
 変」に関連づけたくなってくる。

  ところで天皇を父に持たない「宝皇女」と「田村皇子」が、「皇子」と
 されているのはなぜだろうか。

  話は本論から脇へそれることになるが、この件も含めてどうしても「押
 坂彦人大兄皇子」について、言及しておかねばならない。

  次の一文は何度も紹介しているが、『孝徳紀』にある例の二朝時代を裏
 付けることとなった会話である。 


 
 「『昔在の天皇等の世には、天下を混し斉めて治めたまふ。今に及びて
 は分れ離れて業を失ふ。(國の業を謂ふ)天皇、我が皇、万民を牧ふべき
 運にあたりて、天も人もこたへてその政惟新なり。是の故に、慶び尊びて、
 頂に載きて、伏奏す。現為神明神御八嶋国天皇、臣に問ひて曰く、『其の
 群の臣、連、及び伴造、国造の所有る、昔在の天皇の日に置ける子代入部、
 皇子等の私に有てる御名入部、皇祖大兄の御名入部(彦大兄を謂ふ)及
 び其の屯倉、猶古代の如くにして、岡むや不や』とのたまふ。臣、即ち恭
 みて詔する所を承りて、奉答而曰さく『天に雙つの日無し。国に二の王無
 し。是の故に、天下を兼ね并せて、万民を使ひたまふべきたころは、唯天
 皇ならくのみ。別に入部及び所封る民を以て、仕丁に簡び充てむこと、前
 の處分に従はむ。自餘以外は、私に駈役はむこと恐る。故、入部五百二十
 四口、屯倉百八十一所を獻る』とまうす』とのたまふ」



   
3.押坂彦人大兄皇子


  「押坂彦人大兄皇子」を「皇祖大兄」と呼んでいるのである。実は彼も
 天皇に即位していたのではないか。そうでなければ「宝皇女」と「田村皇
 子」が「皇子」とされるはずがない。

  『日本書紀』は「彦人大兄」天皇を、抹殺しているものと思われる。

  「彦人大兄皇子」は、れっきとした「多武峯・百済」系だと思うので、
 舒明・皇極を記載しながら、「彦人大兄」天皇を記載しなかった理由がわ
 からない。

  ただ、この会話の内容は二朝の存在を認めていることと、同じくらい興
 味深い箇所がある。


  
「其の群の臣、連、及び伴造、国造の所有る、昔在の天皇の日に置ける
 子代入部、皇子等の私に有てる御名入部、皇祖大兄の御名入部(彦人大兄
 を謂ふ)及び其の屯倉、猶古代の如くにして、岡むや不や」


  これに対しての回答が次である。


  
「故、入部五百二十四口、屯倉百八十一所を獻る」


  献上するという「入部五百二十四口、屯倉百八十一所」は皇祖大兄、す
 なわち「彦人大兄皇子」のものである。他の所は良いけれども「彦人大兄
 皇子」のものは献上しなさいと、言っているのである。
 
  そしてこの会話の直前、大化二年三月二日の条の一節には、


  
「官司の直営田と吉備嶋皇祖母(皇極天皇の母)の各地の貸稲を廃止し、
 その田地は群臣と伴造の班田としよう。」


  とある。この二人は皇極の父母であるが、この内容は明らかに処分であ
 る。領地を没収されるほどの不祥事があったのだと考えたくなってしまう。

  以前に推古天皇は実体のない天皇であり、そのモデルは蘇我・倭国系の
 女帝「物部鎌姫大刀自連公」であったことと、実在した「額田部皇女」に
 重ねていること、そして「額田部皇女」は舒明天皇の母「糠手姫皇女」で
 あったことを述べている。
  確かにこの時代は女帝の時代であったものの、彼女は倭国系の女帝であ
 り、しかも『日本書紀』が何とかして「蘇我氏」との関係を断ち切ろうと
 苦慮している「物部氏」出身の女帝なのである。

  時代からいって、舒明の父「彦人大兄」天皇は、「物部鎌姫大刀自連公」
 と併立していたことになろうが、『日本書紀』は「彦人大兄皇子」の后で
 ある「糠手姫皇女」を、推古天皇として造作しなければならなかった。
 倭国系女帝の時代だったからである。

  従って、このときの本当の百済系の天皇「彦人大兄」は、天皇として名
 を残すことができなかったばかりか、私見による舒明・皇極の父でありな
 がら、残されている記録は処分したことだけしかない。

  これはよほどのことがあったのであろう。しかし、内容が天皇の不祥事
 だろうと思われるだけに、残念ながら推測できる材料すらない。

  『日本書紀』はインモラルであった天皇の事績を、過表現ではないかと
 思われるほど記録している。
  であるならば、「彦人大兄」天皇の不祥事とは、国家間を越えた不祥事
 だったのではないか。

  そこをあえて推測するとすれば、『旧唐書倭国日本伝』にある次の一文
 が興味深い。


  
「貞観五年、使を遣わして方物を献ず。太宗その道の遠きを矜れみ、所
 司に勅して歳ごとに貢せしむるなし。また新州の勅使高表仁を遣わし、節
 を持して往いてこれを撫せしむ。表仁、綏遠の才なく、王子と令を争い、
 朝命を宣べずして環る。」


  貞観五年とは、舒明三年(631)のことである。倭国の遣使に対して
 「唐」の高宗は、


  
「遠方なのだから毎年来なくても良い」


  と言っている。そして「高表仁」を「倭国」へ送っているが、その「表
 仁」が「倭国」の王子と令を争ったらしい。

  『新唐書日本伝』では、王子はなく王である。

  年代こそ舒明三年であるが、こんなことは何ら問題がなかろう。

  この「表仁」と令を争ったという王こそ、「彦人大兄」天皇だった可能
 性が考えられる。
  もちろん、『日本書紀』にはこの記録はおろか類推できる記録さえ記さ
 れていない。

  あくまでも蛇足であるし、一つの検証材料にしかならないだろうから、
 こういったことも考えられる程度にとどめておきたい。



   
4.天武天皇


  さて、「大海人皇子」の出自を明らかにするために、話が随分横道にそ
 れてしまったが、「大海人皇子」が天智天皇の兄であると推察できる以上、
 「高向王」の子「漢皇子」と同一人物であるものとできよう。

  しかし、「高向王」は「高向皇子」であっても天皇ではない。「大海人
 皇子」は「皇子」であるので、天皇の子でなければならない。

  舒明も皇極も天皇だから、その子「大海人皇子」が「皇子」であること
 は当然であるなんて、野暮なことはこの期に及んで言いたくない。

  前述の西野凡夫氏は、「高向王」が意外な人物であったことを発見して
 いる。
  氏は「高向王」=「高向玄理」であるとして、


  
「『和州旧跡幽考』巻十六のの武市郡法輪寺の条に『推古朝の時、賀留
 大臣玄理が則天の薬師如来を盗み出して日本へ持ち帰ったが、舒明の時、
 再び入唐して面皮を剥がれ、額に灯台を置かれ、世の人は灯台鬼と言った』
 という奇妙な伝承が採録されている。
  『帝王編年記』斉明6年の条にも『今年、遣唐使高向玄理為灯臺鬼、詩
 云』として、これも又奇妙な詩が採録されている。
  更に、『東寺王代記』には、『或記云、推古天皇御代迦留大臣遣唐使ニ
 渡リケルカ。灯台鬼ニナサル』と記述されている。『賀留』、『迦留』、
 『軽』であり、軽皇子こと後の孝徳天皇である。その軽皇子が賀留大臣玄
 理と記録されていたのである。賀留大臣玄理から高向漢人玄理と孝徳天皇
 を同一人物と見なす考え方のあったことが推定される。」(『新説日本古
 代史』文芸社)


  というように述べている。

  『日本書紀』によれば、「高向史玄理」は孝徳朝で国博士と呼ばれ、天
 皇のブレーンとなった人物であるが、この名から想像される人物といえば、
 やはり「高向王」である。
  「高向王」=「高向史玄理」であるとすれば、「倉山田麻呂」は「高向
 史玄理」であったことになるが、確かに「乙巳の変」以後の「倉山田麻呂」
 は、まさしく国博士と言えるかも知れない。

  実際、「高向王」=「高向史玄理」は、よく言われていることであり、
 これに氏の説と私見を当てはめてみると、孝徳天皇=「蘇我石川倉山田麻
 呂」であることになる。

  『孝徳紀』に限り存在する「現為神明神御八嶋国天皇」は、孝徳天皇の
 ことではない。私見によるそれは「倉山田麻呂」のことではあるが、本来
 『孝徳紀』に記述される天皇は、孝徳であってしかるべきである。
  従ってこの考え方が根底にある限り、普通の理解による「現為神明神御
 八嶋国天皇」は、孝徳のことになってしまう。

  あるいは、「倉山田麻呂」は事実、孝徳だったのかもしれない。

  以上のことから、「高向王」が「高向史玄理」であったとすれば、「高
 向王」=孝徳天皇なる説も辻褄が合わないこともないのだが。

  「高向史玄理」は遣唐使として航行中に亡くなったことになっており、
 「倉山田麻呂」の最後とはかなり違う。しかし、「高向王」=「高向史玄
 理」を通じて、「倉山田麻呂」と孝徳天皇が重なり合ってくるとすれば、
 「倉山田麻呂」自殺は孝徳自殺のことだったことになるし、この事変も、
 「白雉」年号発令以降のことになる。

  想像である。想像に過ぎないのだが、『日本書紀』だけからみても、こ
 れだけのことを想像させてしまうのだ。

  その理由を一言でいえば、『日本書紀』に記されている天武天皇の前半
 生が、先に示したとおり皆無に等しいからであろう。

  その天武天皇について言えば、やはり「吉野」である。そして教科書級
 の歴史事実としては、『日本紀』の編纂事業の開始であろうか。

  ただし、天武の詔による、


  
「帝紀および上古の諸事を記し校定させられた。」


  ものとは、『欽明紀』から『天武紀、上巻』までのものであったと推察
 し、これを『十巻本』と呼んでいる。
  もっとも、この『十巻本』とて、『日本書紀』あるいは『日本紀』(以
 下、『日本書紀』に統一)として再編される際に、どれだけ潤色されたか
 わかったものじゃない。

  しかし、『日本書紀』が成立当時のままである、と信じておられる方は
 いないであろうから、まあ、このことはよいとしておくが、あえて言えば
 天武天皇の薨去記録を、天皇の生前中に記すことなどあり得ないはずので、
 『下巻』は持統天皇以降の時代に、編纂されたものであることは間違いと
 言えよう。

  さて、次の記述を一読していただきたい。


  「『天皇の仰せのままに従いましょう。どうして無理をして私に譲られ
 ることがありましょうか。私は出家して吉野に入ります。仏道の修行につ
 とめ、天皇の幸せをお祈りします』といわれお断りになった。言い終わっ
 て腰の太刀を解いて地に投げ出された。また舎人らに命じて、みな太刀を
 ぬがされた。そして法興寺の仏殿と塔の間においでにり、みずからひげ
 や髪を剃って袈裟を召された。」


  上記は「吉野」行きの様子である。では「大海人皇子」が吉野に旅立っ
 たときの様子であろうか。

   実は『孝徳紀』天皇即位前紀に記された、「古人大兄皇子」が「軽皇
 子」(孝徳)に天皇位を譲り、吉野に出家する様子なのである。

  この記述を見て、「古人大兄皇子」を連想した方は、よほど『日本書紀』
 に精通されている方である。
  内容はまったく同じであると言っても過言では無い。

  さらに『日本書紀』は、


  「──ある本によると古人太子といい、ある本では古人大兄という。吉
 野山には入ったので、ある時は吉野太子ともいった。」


  としている。

  また、「吉野皇子」という表現さえある。

  太子とは皇太子に他ならない。なんと「古人大兄皇子」は皇太子であっ
 たことになる。
  さらに、「古人大兄」とも「古人太子」とも呼ばれていたというならば、
 大兄とは皇太子の意味になる。にもかかわらず、あえて大兄としていると
 いうことは、皇太子と明言することをはばかったということである。

  「古人大兄皇子」は舒明天皇と「蘇我馬子」の娘「法提郎媛」(ほての
 いらつめ)の子であるというが、『日本書紀』における彼の記述は、次の
 四箇所しかみられない。


 
 舒明二年正月
  「蘇我馬子の女法提郎媛は古人皇子を生んだ。」

  皇極二年十月
  「蘇我臣入鹿は独断で上宮の王たちを廃して、古人大兄を天皇にしよう
 と企てた。」

  皇極四年六月
  「古人大兄は私宅に走り入って人々に『韓人が鞍作臣 を殺した。われも
 心痛む』といい、寝所に入ってとざして出ようとしなかった。」

  大化元年九月
  「古人皇子は蘇我田口臣川堀・<他、人名略>と共に謀反を企てた。」

  「中大兄は菟田朴室古と高麗宮知に、兵若干を率いて古人大兄皇子らを
 討たせた。」


  たったこれだけである。「古人大兄皇子」は「蘇我氏」の血に生まれ、
 「乙巳の変」では「入鹿」に組し、結局のところ、謀反の疑いをかけられ
 殺されてしまった。皇子と言えども、「入鹿」の関係者はすべて死ぬとい
 う、説明のために登場させられているようなもので、それ以外何も残して
 いない。

  事績がないという点では、天武天皇とよく似ていると言えるが、「吉野
 太子」とまで言われた、「古人大兄皇子」であるにもかかわらず、吉野に
 残っている伝説は天武天皇のものばかりであり、「古人大兄」を祀る神社
 さえないのはどういうわけなのであろうか。
  
  つまり、「古人大兄皇子」は文献上にのみ存在する人物であり、実在が
 疑わしいのである。
  私は、天武天皇と「古人大兄皇子」は、同一人物だと捉えている。とい
 うよりも、「乙巳の変」の後の「古人大兄皇子」の行動こそ、天武天皇の
 真実の行動であったと考えている。

  『十巻本』編纂の最大の目的は、「大海人皇子」の挙兵から近江京陥落
 までを、正当化することであったはずである。
  従って、『十巻本』の巻十(『日本書紀』巻二十八に相当する)は、後
 に修正されていたとしても、明らかに天武天皇に都合良く書かれている。

  「大海人皇子」の吉野行きの様子は、『天智紀』の巻末と、『天武紀』
 の巻頭にそれぞれ記されているが、あの有名な『天武紀』のみにみられる


  
「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」


  と言う台詞などは、その一つの例であろう。


  これら吉野行きから挙兵までの「大海人皇子」の行動は、あまりにもス
 ムースで物語的であり、読む者をわくわくさせずにはいられない。

  一言で言えば、かっこよすぎるのである。

  その結果、「大友皇子」は殺される運命にあったのだが、彼が殺されな
 ければならなかった理由を、『日本書紀』から見いだすことはできない。
  どんな理由にせよ「大海人皇子」が皇位継承を辞退したからこそ、「大
 友皇子」が皇位継承権を有したのである。

  『日本書紀』に従えば、「大友皇子」は皇位に着いていないが(平安時
 代のいくつかの史料には、大友皇子の即位を記している)、次期天皇であ
 ることは間違いなく、それを討って即位した天武天皇こそ、天下の大悪人
 と言われてもしかたがない。

  天武は「壬申の乱」による勝利を正当化するために、「吉野」行きの物
 語をでっちあげたのだと思う。

  『日本書紀』の成立は、681年の編纂開始よりずっと遅れた720年
 である。時は元正天皇の御代になっていたので、スタッフらの顔ぶれも、
 それ相応に変わっていたに違いない。
  編纂の目的も、本来の目的であった「壬申の乱」の正当化から、現行の
 王権に都合のよく書かれた修史事業にと移り変わっていた、と考えること
 に無理はなかろう。

  それだけの年月が、すでに経過しているのである。

  そこで、新たに加わったスタッフは、天武天皇の意思を曲げることなく
 『十巻本』を書き換えていったのではないだろうか。

  「古人大兄皇子」には、そんな意味が込められていると思う。

  「中大兄皇子」と「古人大兄皇子」の名称を比較した場合、その文字か
 ら「古人大兄」が兄であろうことは容易に想像がつく。
  「中大兄」は二番目か、真ん中の皇子の意味になろうし、二人の「中大
 兄皇子」を匂わせて十分な名称である。そして、両者とも「大兄」であり、
 つまり皇太子であったことも示唆している。

  突然だが、「日下」と書けば一般的に「くさか」と発音するのだが、普
 通に読めば決して「くさか」と読むことはできない。実は、これは日本人
 の好きな言葉遊びであったことは、ご存知であろうか。

  枕詞である


  
「日の下のクサカ(草が香る)」


  から、「日下」と書けば「くさか」と発音するようになった、と言われ
 ているのが通説であるが、これでは少々説明不足であろう。

  「草」という一文字は、草かんむりの下に「日」と「十」と書くので、
 「日下(下は十の転用)」と書けば、「くさか」と発音する言葉遊びなの
 である。他には「南足」と書いて、「きたまくら」と読ませる例もある。

  「古人」にも、同様な遊びが隠されてはいないだろうか。

  「古」は「吉」よりも一画少ない。従って「古人」とは、まだ吉野に行
 く前の人の意があるとも考えられるし、「古人」から「吉野の人」は、容
 易に想像がつく。

  「古人大兄」を天武だと推察理由は、こんなところにもある。

  先にも記したが、「古人大兄皇子」は、『日本書紀』によって創られた
 文献上の皇子でしかない。

  「古人大兄皇子」は謀反がもとで、殺されたことになっているが、存在
 していない人物が生きていてもらっては当然困る結果になろう。何と言っ
 ても、天武の吉野入りは、天智十年(671)であると既に記載済であっ
 たろうから。

  それよりも「中大兄皇子」の手勢によって、殺されたとしたことのほう
 が、かえって興味深い。
  「古人大兄」が天武であることは、容易に推察できるような記述になっ
 ているところから、天武のことをよく思わないライターによる加
 筆であろう。「壬申の乱」への復讐心も、手伝っていたのかもしれない、
 などと想像してしまう。

  従って、「吉野」に「古人大兄」の伝説がないことはむしろ当然であり、
 伝説のないことが、かえって自説を裏付ける結果になっている。

  「大海人皇子」・「古人大兄皇子」が実は同一人物であり、もしかする
 と「漢皇子」も「大海人皇子」の別名なのかも知れないとすれば、「大海
 人皇子」と「中大兄皇子」は紛れもなく異母兄弟であり、年長順に、「古
 人大兄(大海人)」・「間人皇女」(はしひとのひめみこ)「葛城皇子」
 となり、充てられた名前の意味が理解できてしまうだろう。
  つまり、「大海人皇子」は皇太弟ではない。

  蛇足ながら、ここで天皇の年齢について触れておきたいと思う。

  ご存じであると思うが、『日本書紀』には『欽明紀』以降『推古紀』を
 除いて、薨去歳の記載がない。
  『日本書紀』の成立が720年であり、欽明の薨去年が『日本書紀』か
 ら計算した通り571年ならば、その間わずか150年に満たないことに
 なる。
  しかも、『日本紀』の編纂開始が通説通り681年であったならば、さ
 らに短くなり90年である。
  たかがそれだけの期間の天皇の薨去歳が、不明であったと考えること自
 体無理があるし、ましてや編纂開始の張本人の天武の薨去歳が、不明であっ
 たとは絶対に考えられない。

  ただ『欽明紀』には薨去歳について、


  
「時に年若干」


  とだけは言及しているので、この枠組みからはずしても良いかも知れな
 い。

  さて中世の史書から、薨去年だけをとりだして一覧表にしたものが下表
 である。


┌───────┬──┬──┬──┬──┬──┬──┬──┬──┬──┬──┬──┐
│史書名    │欽明│敏達│用明│崇峻│推古│舒明│皇極│孝徳│天智│天武│持統│
├───────┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
│日本書紀   │−−│−−│−−│−−│−−│−−│−−│−−│−−│−−│−−│
├───────┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
│扶桑略記   │−−│24│−−│72│73│49│−−│−−│−−│−−│−−│
│       │  │  │  │  │85│  │  │  │  │  │   │
├───────┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
│水鏡     │63│24│63│72│73│−−│68│−−│52│−−│−−│
├───────┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
│愚管抄    │63│37│−−│72│73│−−│68│−−│−−│−−│−−│
│       │  │28│  │  │  │  │  │  │  │  │  │
├───────┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
│一代要記   │63│−−│−−│−−│73│49│68│−−│53│65│58│
├───────┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
│皇代記    │63│48│−−│72│73│48│−−│−−│−−│−−│−−│
│       │  │  │  │  │75│  │  │  │  │  │  │
├───────┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
│仁寿鏡    │63│61│48│72│73│49│−−│−−│58│73│−−│
│       │  │48│  │  │  │  │  │  │  │  │   │
├───────┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
│興福寺略年代記│87│83│69│72│73│49│68│−−│49│65│−−│
│       │63│  │  │  │75│57│  │  │58│  │   │
├───────┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
│神皇正統記  │81│61│41│72│76│49│68│59│58│65│58│
├───────┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
│皇年代略記  │63│48│−−│73│73│49│68│−−│58│−−│58│
├───────┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
│如是院年代記 │63│48│−−│72│70│49│68│59│58│73│58│
├───────┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
│紹運録    │63│48│−−│73│73│49│68│−−│58│65│58│
├───────┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
│倭漢合符   │−−│−−│−−│−−│73│49│66│59│58│72│−−│
└───────┴──┴──┴──┴──┴──┴──┴──┴──┴──┴──┴──┘
  (上下に数字があるセルは異説有りです。)


  こうしてみると、各史書の間での薨去歳については、意外なほど揃って
 いることがわかる。
  実は、確固たる史料や通説がまかり通っていたにもかかわらず、『日本
 書紀』がそれらを無視したのではないか、という推理も成り立ってしまう。

  もちろん気になる点がないことはない。例えば、用明天皇の薨去歳を記
 している史書は四史あるが、いずれも異なっている。
  しかし、用明の在位は元より否定しているので、これら四史については
 切り捨て考えることにしたいし、同じように薨去歳がまちまちである敏達
  天皇についても、初代百済系天皇、即ち渡来した天皇であったがために、
 詳しい史料など無かったものと考えたい。

  そうすると、崇峻から天智天皇までの薨去年は、二説の存在もあるが、
 『一代要記』・『水鏡』の、おのおの天智53歳・52歳を除けば、ほぼ
 完全と言っていいほど揃ってくる。

  ところが、それに続く天武天皇は『一代要記』・『紹運録』の65歳、
 『如是院年代記』・『倭漢合符』が73歳・72歳と、大きく二つの異説
 が存在している。
  次の持統天皇には、異説が全然ないにもかかわらずなのである。

  『日本書紀』からみた天智天皇の薨去歳は、舒明十三年(641)の


  「この時、東宮の開別皇子(ひらかすわけのみこ)十六歳で誅をよまれ
 た。」


  を正しいとすれば、おおよそ46歳なる。

  この歳こそ、天智と天武の兄弟関係は、実は弟・兄であったとの傍証で
 あるのだが、他史が揃って58歳としているのだから、簡単には肯くこと
 は出来ない。
  天武年長説の元になった『紹運録』でさえ、天智58歳薨去としている
 くらいである。
  「古人大兄皇子」のことに気づかなければ、『日本書紀』を他史と比較
 検証しない限り、天智・天武の関係は弟・兄とはならない。

  『欽明紀』以降、推古を除き薨去歳の記載のない『日本書紀』が、16
 歳と記録していることは、この記録が正しいものとして、評価して良いだ
 ろう。

  しかし、気に入らないのは「中大兄皇子」とか「葛城皇子」ではなく、
 このときに限り「開別皇子」としていることだ。

  天智天皇は「天命開別天皇」(あめみことひらかすわけのいすめらみこ
 と)であるから、「開別皇子」とは天智のことなのだろうが、何の先入観
 なしに読めば、「開別皇子」=「葛城皇子」とはまず読めない。

  天智は二人いたと考えているので、「開別皇子」の名こそ、葛城天智と
 もう一人の天智を一人に結びつける、トリックであると考えている。

  誅をよんだという16歳の「開別皇子」は、「葛城皇子」であろう。

  そしてこの時の「大海人皇子」は、4歳年上の20歳であることにも異
 存はない。
  ただしあくまでも、「開別皇子」16歳の時との比較でありさえすれば
 よく、天智崩御歳は「開別皇子」のものとは限らない。

  従って、天智十年に崩御したのは、天智であるに決まっているだが、そ
 れは「葛城皇子」ではないのかも知れない。
  ・・        ・・
  ある天智の生誕から、別の天智の薨去までを、天智の生存年とみなした
 ということである。

  また、『日本書紀』から計算すれば46歳崩御であるが、他史が揃って
 記録している58歳崩御としていることも、このように考えることにより、
 説明ができるようになる。

  ただこのことは、次章にて説明したいと思う。

  ところで、天武の即位前紀には、


  
「生来すぐれた素質をもたれた立派なお方であった。成人してからは雄
 々しく、武徳にすぐれていた。天文・遁甲に能し。」

             ・・
  とあり、「淡海三船」が天武と名づけた理由も、この辺りにあるのだろ
 うと思うのだが、『天武紀』に記されている具体的な天武像は、欠しい前
 半生からはとても想像ができないくらい、武芸と知識に秀でていたらしい。

  そう、想像ができないほどなのである。

  通説による天文とは「諸葛孔明」にみられる天文術であり、遁甲が初見
 するのは『後漢書』の方術伝で、中国に起こった忍術のようなものと言え
 よう。言わば、陰陽道の一種である。
  天武天皇四年春一月一日の記録に、「陰陽寮」(おんようのつかさ)が、
 同月五日に「占星台」(せんせいだい)が初見する。

  推古十年十月に百済の僧「観勒」(かんろく)が天文・地理と遁甲・方
 術の書を持って来訪しているが、天文・遁甲などの「術」は、道教的要素
 の強いものだけに、道士が渡来していないであろうこの時代に、「能し」
 と言えるまでにどのように習得したのであろうか。

  確かに、「吉野」は「役行者」が「吉野金峯山寺」を開創した、修験道
 の場である。それが天智の白鳳年中(白鳳は逸年号)だというのだから、
 「吉野」で習得したとする考えもできるであろうが、中世の史書には辛酉
 白鳳(661)・壬申白鳳(672)・癸酉白鳳(673)が記録されて
 いることから、白鳳元年は天武元年ではなかったかと推理でき、「役行者」
 の吉野入りは「壬申の乱」以降となる。従って、天武には当てはまらない
 ことになる。

  それに、修験道や陰陽道は「壬申の乱」を境に、急速に広まっていった
 のである。

  また、「壬申の乱」では自軍には、「前漢」の高祖・「劉邦」の戦い方
 に倣い、近江軍と判別し難いことを案じて、衣服に赤いきれをつけさせた
 という。

  このときの模様は、「柿本人麻呂」が『万葉集』に残している。


 
 「鼓の音は雷の声と聞くまで、吹き響せる小角の音も敵見たる、虎か、
 吼ゆると、諸人のおびゆるまでに捧げたる幡の靡きは、冬ごもり、春さり
 来れば野ごとに着きてある火の風の共、靡くがごとく」


  はためく赤い旗が野焼きのように、大地を埋め尽くす様子を歌ったもの
 であろうが、『日本書紀』には馬を求める記述もあるので、騎馬を使った
 としたらそれは、やはり中国式の兵法を思い起こさずにはいられない。

  おそらく、このような兵法による戦いは、「壬申の乱」の吉野方による
 ものが初めてであろう。

  少々おかしな言い方かもしれないが、天武から古代・中世に近代戦が持
 ち込まれたわけである。

  天武の幼少は「大海人皇子」であったが、「漢皇子」かも知れない、と
 は前述どおりである。

  以上を、整合的に考えると「漢」から「大海を渡って来た人」こそ、天
 武だったということになる。
  小林恵子氏は、天武を帰化人であり、中国から来日していきなり天皇に
 なったという。

  しかし、これはかなり無謀な考え方だと思われる。

  天武は「前漢」の「劉邦」の末裔であり、渡来人であったのだろうとも
 勘ぐりたくなるが、第一、天武がどれほど優れていた人物であったにして
 も、パッとでの渡来人であれば、軍事的・経済的基盤も持たないなか、わ
 ずかな期間で大王となり地方豪族を束ね、近江京を転覆させることなど、
 できるはずがなかろう。

  しかし、天武の実際像には、或る者の姿が投影されているように、思え
 てならない。年齢さえ考慮に入れなければ、まさに相応しい人物が登場し
 ている。

  その或る者とは。

  さて、「大海人皇子」についての事項を整理すると、次のようになる。


  @「大海からの人」という名乗りを持つ。
  A「皇子」つまり天皇の子である。
  B「高向王」の子「漢皇子」かもしれない。
  C「高向王」=孝徳天皇であれば、孝徳天皇の子であ る。
  D舒明の子ではない。
  E天智より年長である。
  F斉明が母である。
  G「古人大兄皇子」でもある。


  「漢皇子」の消息は一切不明であるが、孝徳の子には「有間皇子」がい
 る。しかしこの「皇子」も謀反の疑いから、「中大兄皇子」に絞首に
 させられている。
  『日本書紀』は他に、C孝徳天皇の「皇子」を語っていないので、これ
 により該当者はいなくなってしまう。

  ところが、孝徳の「皇子」は意外なところから登場する。

  『多武峰縁起』には、


 
 「定彗(定恵)和尚者、中臣連一男、実天萬豊日天皇皇子也」


  と記録されている。天萬豊日天皇とは孝徳のことである。従って


  
「定恵和尚は、鎌足の長男ではあるものの、実は孝徳天皇の皇子なので
 ある。」


  といっていることになる。

  これには驚きだ。学問僧「定恵」は、孝徳の皇子だったと言うのである。

  「定恵」は遣唐使でありながら、その実「唐」への人質とされた。しか
 し私見による「定恵」はその後、唐帝の天勅によって「筑紫都督」に任命
 されている。つまり帰国を命じられたのだ。それも、たいそうな護衛付き
 である。

  「鎌足」には、二男があった。長男が「定恵」、次男が「不比等」であ
 る。二人は同腹で、母を「与志古娘」(よしこのいらつめ)といったのだ
 が、彼女は「軽皇子」の寵妃であったらしい。しかも、懐妊中のまま「鎌
 足」に与えられたという。

  現代では理解しにくいのだが、古代の価値観では絶大なる信頼関係の証
 であるらしい。

  『日本書紀』には、皇極三年一月一日の条として次のように記されてい
 る。


  
「中臣鎌足は以前から軽皇子と親しかった。それでその宮に参上して侍
 宿をしようとした。軽皇子は鎌子連の資性が高潔で、容姿に犯しがたい気
 品のあることを知って、もと寵妃の阿倍氏の女に命じて、別殿をはらい清
 めさせ、寝具を新たにして懇切に給仕させ鄭重におもてなしになった。中
 臣鎌子連は知遇に感激して舎人に語り『このような恩沢を賜ることは思い
 もかけぬことである。皇子が天下の王とおなりになることを、誰もはばむ
 者はないだろう』といった。」


  天武に投影されている或る者とは、もちろんこの「定恵」のことだ。

  天武と「定恵」には、重要な点で共通しているのである。

  「定恵」は帰国した665年の十二月二十三日に、亡くなったと考えら
 れているが(『貞彗伝』)、『東寺王代記』には


  
「十五年定恵和尚入滅」


  とされている。この十五年は天武十五年のことである。天武の薨去もま
 た十五年である。

  また天武は次期皇位を辞退し、出家して仏道修行を選ぶことになるが、
 その際、頭髪をおろし沙門の姿となったという。

  「定恵」は、もちろん僧侶である。

  確かに天武の取った行動は、天智を納得させるためのわかりやすい行動
 であったとは思う。

 しかし、


 
 「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」(『天武紀』)


  とさえ言われた天武の「吉野」行きである。天智は何も言わず許してい
 るようであるが、もしこれが事実なら、誰の目にも近江京転覆の画策であ
 るように映ったことであろう。
  そうであるならば、かえって宮廷内に居て計画を練ったほうが、安全な
 のではないだろうか。

  従ってこの記述は、もともと「定恵」が僧侶であったため、沙門になっ
 たという天武の記述が、必要であったのだろうと考えている。
  「古人大兄皇子」が吉野に退いた時代には、まだ修験道の場ではなかっ
 たと思われ、修行僧と吉野は結びつかないのである。

  そして天武の名乗りは「天淳中原瀛真人」(あまのなぬはらおきのまひ
 と)であるが、『多武峰縁起』には「定恵」のこととして、次の一節があ
 るという。


  
「和尚其性聡明絶倫故小字曰真人」


  「定恵」の幼少もまた「真人」といったのである。

  さらに「真人」には、もう一つの意味がある。

  天武十三年に制定された八色(やくさ)の姓の第一位であり、最高の爵
 位で天皇の子孫に与えられたものである。
  通説では、天武自身の名を最高位として与えられたと言われているが、
 逆にいえば天武が、「真人」という貴族の最高の位を持っていたことにな
 る。
  「天淳中原瀛真人」が天武の本名であれば、臣下と同じ名乗りを持つこ
 とが天武自身、許すことができるであろうか。

  『万葉集』をして「神」と称されたり、「高照らす日の皇子」と歌われ
 た天武であったではないか。
  天武の死後ならともかく、天武と同世代に生きてる者が、同じ名乗りで
 あったとは到底考えることができない。

  これらのように『日本書紀』に記されている天武像は、「定恵」そのも
 のか、ことごとく「定恵」に結び付けて考えることができてしまう。

  持統・元明天皇時代に暗躍したと言われている人物こそ、「藤原不比等」
 であったのだが、同様に天智時代のそれは、「藤原鎌足」であった。

  「定恵」もまた、そうであったのではないだろうか。

  私たちの知っている天武は、本当に天武だったのだろうか。

  『日本書紀』(『天武紀』を除く)は天武に対して、小細工をしすぎた
 のではないだろうか。
  幼年期・青年期が、同一人物ではない可能性、複数人だったとも考えら
 れるのである。

  それほど即位前の姿が闇に包まれたままであるのだ。

  しかしこれらは、何も天武天皇に限ったことではなく、天智にしたころ
 でそうであった。

  天智・天武と、それに続く女帝の時代、不確かなことが多いなか、「定
 恵」が私見通りであったとしたら、確実にこの時代は、「藤原」三代の時
 代であったということである。

  そしてその集大成が、「大藤原京」なのである。


                     2002年4月 第13部 了