真説日本古代史 本編 第十二部


   
白村江の戦い




   
1.年表


  朝鮮問題を巡って統一政権は分裂した。百済政権は再び多武峯に陣取り、
 より強固に築城した。これを後岡本宮と呼んだ。
  百済政権は「百済」支援政策を、明確に打ち出し実現を試みる傍ら、倭
 国政権の軍事行動にも備えた。
  しかし、本拠地である岡本宮(後岡本宮?)は火災に遭っている。これ
 は戦火であると言ってもいいだろう。

  さて継体天皇即位から、これまでの歴史の流れを整理するために、ここ
 で私見を交えた年表を作成してみようと思う。


 
502年  雄略天皇(このときすでに死亡)、征東証軍を授けられる。
 503年  大伴金村ら、男大迹王を迎え入れる。継体天皇即位。
       嶋君(「百済・武寧王」)、人物画像鏡を送る。
 523年頃 大和の磐余の玉穂宮に遷都する。
 524年頃 旧ヤマト勢力(旧仁賢政権)が筑紫国王「磐井」と手を組ん
       だので、継体朝はこれを阻止。軍事行動にでる。「磐井」は
       翌年斬られる。「磐井の乱」である。
 527年  継体天皇崩御。安閑天皇即位。勾の金橋宮に遷都する。
 528年頃 安閑天皇崩御。宣化天皇即位。九州博多のほとりを軍事強化
       し、聖明王系「百済」の侵攻に備える。
 531年  安閑天皇・「上殖葉皇太子」暗殺?される。欽明天皇即位。
 538年  欽明七年、仏教公伝。(『日本書紀』は欽明十三年としてい
       る)
 555年  「百済」の「余章」(威徳王)、弟の「恵」を来訪させる。
 562年  「新羅」が「任那」を滅ぼし占領する。
 571年? 欽明天皇崩御。全権を「蘇我馬子」に委ねるが、「百済」が
       政権を乗っ取り、敏達天皇による百済政権を誕生させ、二朝
       併立状態となる。この後「蘇我氏」と「物部氏」は同盟し、
       「蘇我馬子」は「守屋」の妹である「物部鎌姫大刀自連公」
       を妃とする。渡来系氏族との蘇我豪族連合の成立。
 584年  「蘇我馬子」石川の宅(宮か?)に仏殿を造る。
 585年  「蘇我馬子」塔を大野丘の北に建てる。敏達天皇崩御。蘇我
       豪族連合が政権を奪取。「蘇我馬子」が大臣(大王と同位)
       として最高権力者(天皇)となる。敏達天皇亡き後の百済政
       権は舒明天皇を立て、多武峯に築城し籠城する。
 587年  「物部守屋」が崇仏に反対するが、「馬子」らにより収拾さ
       れる。
 592年  「馬子」は「物部鎌姫」に譲位し、新倭国政権が成立する。
       (『日本書紀』は推古天皇と記し、別人に当てている)
 593年  「馬子」と「鎌姫」の子、「善徳」(聖徳太子であり「蘇我
       入鹿」のことである)が摂政となる。
 603年  冠位十二階の制定。
 605年  斑鳩宮に遷る。
 607年  遣隋使「小野妹子」を遣わす。
 608年  「小野妹子」が「裴世清」を伴い帰国する。
 626年  「蘇我馬子」没し、「入鹿」が大臣を嗣ぐ。
       二朝間の抗争が激しくなる。
 631年  百済王子・「余豊璋」来訪する。
 636年  岡本宮が倭国政権の攻撃を受け焼失する。    
 637年  倭国政権の攻撃の前に、多武峯・百済が敗北する。
 642年  多武峯・百済では、舒明天皇が崩御し皇極天皇即位する。
 645年  「蘇我入鹿=聖徳太子」、甘橿丘の脇にて暗殺される。「乙
       巳の変」。元号を大化とする。
 646年  倭国政権を引き継いだ「蘇我石川倉山田麻呂」が、改新の詔
       を発する。
 647年  私有の土地人民の収公を命ずる。七色十三階の冠位の制定。
       「金春秋」来訪する。
 648年  「金春秋」に帯同され遣唐使が遣わされる。
 649年  冠位十九階を定める。倭国と多武峯・百済による統一政権が
       模索される。「倉山田麻呂」謀反の疑いを掛けられ自殺する。
       新羅使・「金多遂」来訪する。
 650年  元号を白雉と改め、孝徳天皇を統一天皇とし統一政権が発足。
       難波長柄豊崎宮に遷る。
 653年  船二隻にて遣唐使241人を遣わす(「金多遂」帯同)が、
       第二船は沈没遭難する。朝鮮問題のこじれから統一政権は分
       裂。孝徳天皇は殺害?され、「中大兄皇子」らは大和飛鳥河
       辺行宮に遷る。
 654年  中臣鎌足に紫冠を授けられる。



   
2.阿倍比羅夫の遠征


  『斉明紀』に記載されている大事件は、何と言っても「白村江の戦い」
 での大敗北であるが、まずは「阿倍比羅夫」(あべのひらふ)の蝦夷討伐
 遠征に注目したいと思う。

  「阿部比羅夫」の東北遠征に関する記事は、斉明四年(658)を初め
 として、同五年、六年にもみえるが、四年と五年の記事について言えば、
 船軍180艘、攻略先も「秋田」と「能代」(五年では、「飽田」と「淳
 代」)であり、明らかに重出であろうというのが通説である。

  古くは「本居宣長」が、一回一年にすぎなかった遠征を、三年に引き延
 ばしたのだろうとしたが、私見では四年と五年の記録は通説通り重出とし、
 五年に「秋田」「能代」、六年に「粛慎国」(みしはせのくに)を攻略し
 たものとする。

  粛慎という種族は、実際のところよくわからないが、『日本書紀』が蝦
 夷と粛慎を区別して書いている以上、この両者は別の種族なのであろう。
  一般的に蝦夷は東北地方であり、粛慎は北海道の種族ではないかと言わ
 れているのだがそれで良いと思う。

  斉明元年(655)、「高句麗」・「百済」の連合軍の攻撃の前に分解
 寸前の「新羅」は、ついに「唐」へ救援を求めた。
  そして五年後の斉明六年(660)、「唐」は直接「百済」に遠征軍を
 送ってきた。

  「阿倍比羅夫」の遠征は、このように朝鮮半島が戦火にまみれている最
 中に、実行されたものなのである。

  具体的に言及すれば、斉明六年(660)の七月に「百済」は滅んでい
 るが、同年三月に「阿部比羅夫」は「粛慎国」を攻撃している。
  この三月というのは『三国史記・新羅本紀』によれば、唐の高宗が「蘇
 定方」らに「百済」討伐を命じた月であり、同月「金春秋」も討伐に参加
 していることに注目して欲しい。

  さらに、私見による蝦夷討伐は斉明五年(659)三月であり、同年四
 月には「百済」が「新羅」の国境を侵し、「新羅」の独山・桐岑の二城を
 攻め落としている。

  つまりこの二回の遠征は、朝鮮半島で「百済」・「新羅」の両国間争い
 に、リンクするかのように実行されたものなのであり、朝鮮半島問題と関
 わりがあることは否めないと思われる。

  しかしなぜか多くの歴史家は、これを問題としていないようだ。

  そしてこの遠征の首謀者が、誰であったのかをはっきりさせることによ
 り、遠征の真意が見えてくるはずである。
  遠征の首謀者は倭国政権か百済政権かの、どちらであったのかというこ
 とだ。

  緊迫した情勢の中で遠征が必要だった理由とは、蝦夷が中央政権に対し
 て不穏な動きをみせたか、蝦夷を味方に引き入れるためかのどちらかでし
 かない。

  「白村江の戦い」にて、百済政権が朝鮮半島に送り出した兵士が2万7
 千兵、別働隊1万余兵の併せて約3万7千兵である。
  百済政権側がこれだけの数を出兵できるということは、畿内の有力豪族
 のほとんどは、百済政権に付いていたと考えられる。

  と言うことは倭国政権側には、「阿部比羅夫」の遠征時の180隻の船
 を出航させるだけの、統率力があったとは考えにくい。

  従って蝦夷征伐の首謀者は、百済政権であったと思われる。

  では「百済」本国が滅亡の危機に直面しているこのときに、なぜ百済政
 権が遠征を強行しなければならなかったのか。
  百済政権としては一刻も早く、本国へ援軍を送りたかったのであろうか
 ら、蝦夷攻略の余裕などなかったものと思われる。

  早い話、蝦夷らがこのときの政権与党である多武峯・百済に、突然挑ん
 できたのではないか。

  攻略したのは日本海側であることも考えると、おそらく第三国が蝦夷ら
 を動かし、百済政権の朝鮮出兵に足止めを食らわせようとしたのではない
 か。

  その第三国とは、蘇我・倭国であったと考えている。

  蝦夷らは大した抵抗もみせずに降伏しているが、倭国政権にとっては最
 低でも、百済政権が朝鮮出兵に至るまでの時間稼ぎができればよく、斉明
 五年に蝦夷を六年には粛慎を動かし、百済政権の足を封じたものと思われ
 る。
  いわば、テロ行為である。



   
3.鎌足の策謀


  弱体化した倭国政権に、これだけのことができる知恵者が存在していた
 のだろうかと、疑問に思われるかもしれないが、それが「中臣鎌足」だっ
 たとしたらどうであろうか。

  紫冠を授けられた「中臣鎌足」とは、倭国政権の最上級位すなわち大王
 として立ち上がったものと推察する。
  孝徳天皇亡き(暗殺か?)後、倭国政権を担いだのは、何と「鎌足」で
 あったと考えている。また、彼の立場を現代で言えば、プレイングマネー
 ジャーか総理大臣と言えるのではないか。当時としては摂政と言えるのだ
 ろうか。

  このように結論づけたことには、ちゃんと理由がある。

  「鎌足」はこの後『日本書紀』から姿を消している。次に現れるのは、
 「白村江の戦い」の後で天智三年のことである。従って「白村江の戦い」
 の際にも、朝鮮半島には渡っていないことになっている。

  ところが、豊後国の「西寒田神社縁起」には、次のような記録がある。


 
 「二年癸亥。従大唐責百済国。依之欲従日本遣兵救百済。即勅藤原臣大
 織冠。因是下向九州地。陣豊前之国中津郡。為下知集軍兵。其後漂泊群国
 送数月」
  (663年、大唐が百済を攻めた。日本は百済を救うため兵を遣わそう
 した。大織冠である藤原臣はそのために九州へ下向し、豊前国中津郡に陣
 をとり、そこで指図し軍兵を集めた。その後群国に漂泊すること数ヶ月を
 過ごした。)


  『日本書紀』は「鎌足」のこの行動を完全に無視しているが、このよう
 な記録として残っている以上、何らかのアクションを起こしていたことは
 当然に考えられる。
  「乙巳の変」においては、「中大兄皇子」と共に最大の立て役者であっ
 た「鎌足」ではないか。「白村江の戦い」の前「中大兄皇子」に協力して
 軍兵を集めたと、なぜ『日本書紀』は書かなかったのだろうか。

  さらに、


  
「其後漂泊群国送数月」


 であるという。
  漂泊とは漂流のことであり、さすらい歩くことである。「百済」救援軍
 であるのなら、一刻も早く「百済」に渡らなければ意味がない。
  にもかかわらず、漂泊すること数ヶ月とはどうしたわけであろうか。

  推察するに、『日本書紀』は書かなかったのではなく、書けなかったの
 ではないか。

  天智二年(663、癸亥)二月、「百済」の将「佐平鬼室福信」(さへ
 いきしつふくしん)がやってきている。


 
 「この月、佐平福信が、唐の捕虜続守言らを届けてきた。」


  上記がこのときの記録であるが、「福信」の来訪はこのときが初めてで
 はない。百済王子・「余豊璋」を滅亡後の百済王として、迎えるべく要請
 したのも彼であるし、彼こそ「百済」滅亡後も孤軍奮闘して、「新羅」・
 「唐」の連合軍と激しく戦い、復興を目指した名将軍だったのである。

  さらに『日本書紀』は、


  
「福信は神武の権を起こして、一度滅んだ国さえも興した」


 と記録している。

  ところが、そんな「福信」であったが、この後の五月に謀反の心ありと
 疑われ、反逆者として翌月処刑されてしまっているのである。 

  それにもかかわらず、反逆者・「福信」の子である「鬼室集斯」(きし
 つしゅうし)は、「白村江の大戦」の敗戦後、亡命者として渡来し「福信」
 の功績により、小錦下の位を授けられている。

  これもおかしな話である。これでは反逆行為そのものが功績だったとい
 うことになってしまう。

  「福信」の反逆行為が功績に値するとすれば、位を授けた側である天智
 朝は、「百済」支援を好ましく思っていなかったことになり、「鎌足」も
 当然それに同意していたことになる。

  「鎌足」はなぜ漂泊しなければならなかったのか。もとより倭国政権の
 摂政である「鎌足」に、「百済」遠征の意志などあろうはずがない。

  そして斉明天皇が「百済」遠征軍を挙兵してから、第一軍が渡航するま
 でに約八ヶ月、さらにメインであろう2万7千兵が渡航するまでに、二年
 近くも費やしている。
  確かに斉明天皇が朝倉宮で亡くなり、事態は急変したであろうが、事態
 は一刻を争うはずだ。いくらなんでも、これは掛かりすぎではないだろう
 か。

  「鎌足」が軍兵を集め漂泊した理由とは、「百済」遠征の阻止であると
 考えている。従って、遠征軍はおいそれと渡航できなかったのである。
  朝倉宮の雷神もその一つであろう。
                   ・・・
  そして「福信」へは何らかの方法で、謀反を持ちかけたのではないか。
 もちろんそのためには、それ相応の条件を提示してのことに違いない。

  「福信」の反逆行為は、まさしく功績だったと考えられる。「鬼室集斯」
 への官位の授与は、その見返りであることは言うまでもない。
  またこのことにより、「百済」遠征を決行した「中大兄皇子」と、「白
 村江の戦い」後の「中大兄皇子」とは別人であったという副産物までつい
 てしまった。

  「鎌足」は「百済」支援政策を強行し、統一政権を離脱した多武峯・百
 済よりも、律令国家実現に動き始めていた蘇我・倭国に、「鎌足」自ら指
 導者となることにより「倭国」の未来を賭けたのだろう。
  もちろん「新羅」や「唐」と密かに結んでいたことは、当然考えなけれ
 ばならない。

   ちなみに、漂白後の「鎌足」は朝鮮半島に渡航している。いずれ改めて
 述べるつもりなので、ここでは詳しい記述は避けるが、これは決して推測
 などではない。事実、『日本書紀』にそう記されている。

   二人の「中大兄皇子」についても改めて記すが、「鎌足」に関して言
 えば、「乙巳の変」の彼とは別人ではないかと、疑いたくなってくるほど
 の変わり身の早さである。この身のこなしは「鎌足」の人物像を理解しな
 ければわかりにくいことであろうが、「鎌足」については特別編・「藤原
 鎌足」をご覧いただければ幸いである。

  「鎌足」の理想は、多武峯・「百済」が蝦夷らに関わっている間に朝鮮
 問題が決着し、「倭国」が他国にいっさい干渉されない、新生「倭国」と
 して自立することだったのかと思えてくる。

  まずは斉明五年(659)四月、「秋田」と「能代」の蝦夷らを動かし
 ている。そして同年十一月、「有馬皇子」の謀反を企てる。
  これらの策はことごとくうち破られていったのだが、その最大の目的は、
 多武峯・「百済」に援軍を送らせないための、時間稼ぎになりさえすれば、
 よかったのであるから、成否は二の次だったのだろう。

  同年七月三日には、蝦夷を引き連れ「唐」に遣使をしている。これが命
 がけの遣使であったようである。

  二隻で出航した船のうち一隻は、横からの逆風に流され、大使の小錦下
 「坂合部石布連」(さかいべのいわしきのむらじ)は、漂着した島人に殺
 されている。残された五人は(もともと何名で出航したかは不明)、島人
 の船を盗んで括州につき、州県の役人に洛陽まで送り届けられたらしい。

  この遣使は、「唐」に対する恭順の意志を表する目的であるが、「唐」
 側は二政府状態を理解してか知らずか、遣唐使を幽閉してしまった。


  
「わが国は来年必ず海東の政をするだろう(朝鮮と戦争すること)。お
 前達日本の客も、東に帰ることが許されない」


  というのがその理由である。

  この遣使は多武峯側の行動ではないかとも考えられるが、敵国に遣使す
 るという感覚は、私には到底理解できない。

  また、『斉明紀』に引用されている『伊吉連博徳の書』には、


  「この年(660)八月、百済がすでに平らげられた後、九月十二日に
 日本の客人を本国に放免した。十九日、長安を発った。十月十六日、洛陽
 に帰り、はじめて阿里麻ら五人に会うことが出来た。十一月一日、将軍蘇
 定方らのために捕らえられた百済王以下太子隆ら、諸王子十三人・大佐平
 沙宅千福・国弁成以下三十七人、合せて五十人ばかりの人を、朝にたてま
 つるため、にわかにひきつれて天子のところに赴いた。天子は恵みを垂れ
 て、楼上から目の前で俘虜たちを釈放された。十九日われわれの労をねぎ
 らわれ。二十四日洛陽を発ったとある。」


  従って遣使が、「倭国」側の意志による遣使であったことは、間違いな
 い。

  さらに660年3月には、粛慎を動かすという念のいれようである。

  余談だが「藤原氏」を祀る「大原神社大神宮」は、大神宮と名乗る割に
 は、あまりにもみずぼらしい小さな祠で、威勢が感じられない。
  この地が「鎌足」の生誕地という伝説まであるのだが、それを告げる立
 て札は、木で造られた粗末なものである。古代から現代に至るまで、希代
 の英雄のように伝えられながら、この人気のなさはいかがなものか。

  そしてこれら一連の矢継ぎ早の策略が、私見通り「鎌足」のものであっ
 たとすれば、 いささか策を講じすぎた結果とでも言えようか。



   
4.百済滅亡


  660年、「唐」・「新羅」の連合軍(以下「唐羅」軍)は、「百済」
 の首都扶余を攻め落とし、「百済」最後の王となった義慈王を捕らえ、
 中国をへ送った。唐軍の大将軍は「蘇定方」(そていほう)である。

  『日本書紀』に引用されている『日本世記』には、


  
「新羅の春秋智は、唐の大将軍蘇定方の力を借りて、百済を挟み撃ちし
 て滅ぼした。他の説では百済は自滅したのであると。王の大夫人が無道で、
 ほしいままに国権を私し、立派な人たちを罰し殺したので禍を招いた。気
 をつけねばならぬ、と。」


 とあり、『三国史記』新羅本紀・百済本紀にも、同様な記述が見られる。
  ただ、無道だったのは夫人ではなく、義慈王本人だったようであるが、
 『日本書紀』の原文では、


  
「或曰。百済自亡。由君大夫人妖女之無道。撃奪国柄。誅殺賢良」


  とあるので、「義慈王」が寵妃に溺れたのかもしれない。

  さて、『三国史記・百済本紀』による「百済」敗戦後の処理であるが、


  
「蘇定方は、王および太子の考、王子の泰・隆・演および大臣・将軍八
 十八人、百姓一万二千八百七人を唐の都に送った。
  百済国はもと五郡・三十七都・二百城・七十六万戸あった。このときに
 なって旧百済国をさいて、熊津・馬韓・東明・金漣・徳安の五都督府を設
 置し、それぞれ州・県を統括し、在地の首長を抜擢して、都督・刺史・県
 令とし、それぞれの府・州・県を治めさせた。また蘇定方は郎将の劉仁願
 に旧百済都城を守らせ、さらに、左衛郎将王文度を熊津都督とし、百済に
 残留した人たちを慰撫させた。
  蘇定方は捕虜たちを上高宗に接見させると。高宗は彼らを責めたのち宥
 した。その後王が病死したので金紫大夫、衛尉卿の称号を送り旧臣達に王
 の臨終に立ち会うことを許した。」


  とあり、結局「義慈王」とその忠臣は、死ぬまで「唐」に幽閉されてい
 たのである。

  そして、「唐」が旧百済国領に設置した五都督府の「都督府」が、後に
 重要な意味を帯びてくる。

  660年8月、「唐」の占領下になってしまった「百済」であったが、
 このまま終戦を迎えたわけでないことはよくご存じであろう。

  話は、「白村江の戦い」の序章へと進んでいく。

  「百済」の旧将・「鬼室福信」らが、残兵をかき集め挙兵するという暴
 挙にでたのである。

  そして「福信」が次にとった行動とは、多武峯・「百済」に居た百済王
 子・ 余豊璋」を迎えて、百済国王とすることであった。
                      ・・・
  「福信」は先々代の王、武王(「余璋」)のいとこであるという。

  特別編「藤原鎌足」の中で、「余豊璋」は「義慈王」の子ではなくて、
 「武王」の子であろうとしたが、こんなところにも理由がある。

  このことの「余豊璋」に関して、『日本書紀』は再三に渡り記録し、し
 かも時間の混同がみられる。

  以下にすべてをご紹介すると次のようである。


  
「斉明六年(660)冬十月、百済の佐平鬼室福信は佐平貴智(きち)
 らを遣わして、唐の俘虜百余人をたてまつった。・・・・また援軍を乞い、
 同時に王子余豊璋を頂きたいと言い、・・・・『百済国が天朝に遣わした
 王子豊璋を迎えて、国王としたいということであります』云々といった。」

  「──ある本に、天皇が豊璋を立てて王とし、寒上(豊璋の弟)をその
 助けとし、礼をもって送り出したとある。」

  「斉明七年(661)夏四月、百済の福信が使い遣わして表をたてまつ
 り、百済の王子糺解(くげ、豊璋)をお迎えしたいと乞うた。──釈道顕
 (ほうしどうけん)の日本世記には、百済の福信は書をたてまつって、そ
 の君糺解のことを東朝に願ったと。」

  「斉明七年(661)九月(天智紀)、皇太子は長津宮にあって、織冠
 を百済の王子豊璋にお授けになった。・・・・軍兵5千余を率いて、豊璋
 を本国に譲り送らせた。この豊璋が国に入ると、鬼室福信が迎えにきて、
 平伏して国の政をすべてお任せ申し上げた。」

  「天智元年(662)三月四日、百済王(余豊璋)に、布三百端を賜っ
 た。」

  「天智元年五月に、大将軍阿曇比邏夫連らが、軍船百七十艘をひきて、
 豊璋らを百済に送り、勅して豊璋に百済王位を継がせた。」


  では『三国史記』はどうであろうかというと、やはり混同がみられるの
 である。


  
「文武三年(663)五月、この月百済の旧将軍の福信と、僧侶の道深
 (どうちん)とが旧王子の扶餘豊を迎えて百済王とした。『新羅本紀』」

  「武王の従子の福信は、むかし軍隊を率いていた。そこで僧侶の道深と
 ともに周留城によって反乱をおこし、さきに倭国に人質となっていた旧王
 子扶餘豊を迎えて、彼を王とした。・・・・ときは龍朔元年(661)三
 月である。『百済本紀』」


  これらをどう整合的に解釈するのかについては、『日本書紀』が一つの
 ヒントを提示してくれている。それは『斉明紀』の巻末に記述されている
 次の一文である。


 
 「──日本世紀には、十一月に福信が捕らえた唐人の続守言らが筑紫に
 着いたと。またある本には、この年百済の佐平福信がたてまつった唐の俘
 百六人を、近江の墾田に居らしめたとある。昨年すでに福信は唐の俘虜を
 たてまつったことが見えている。いま書きとどめておくのでいずれかにき
 めよ。」


  つまり、『日本書紀』が重出を認めているのである。これらの時期が約
 一年であるので、「余豊璋」関連にも約一年、時期のずれがあってもおか
 しくはない。編集の段階で時期の異なった資料を、全部記録してしまった
 のだと思う。

  もっとも、このような編集の姿勢は『日本書紀』の随所にみられ、特に
 『斉明紀』・『天智紀』に特出している。

  『百済本紀』と併せてみると、『天智紀』に記録されている斉明七年九
 月と、天智元年の記録はどうやら『百済本紀』の記録と、同種のものであ
 ることがわかる。

  月までは断定できないが、「余豊璋」の「百済」入りは661年とする
 のが妥当であろう。
  そうすると「福信」が使いを遣わしたのが、「百済」滅亡の660年で
 この記録の初出である10月が、時期的にも無理がないところである。



   
5.白村江の戦い


  『日本書紀』によれば、斉明六年十二月二十四日、「百済」救援のため
 の武器を準備している。
  また「駿河国」に勅して船を造らせているが、造船後夜中に艫と舳とが
 入れ替わっていたという。人々は戦ったら敗れることを悟ったというが、
 それほど急造であったのだろう。

  七年春一月六日、西に向けて出航している。八日、「太田姫皇女」が女
 子を出産しているが、この皇女は「中大兄皇子」の子で「大海人皇子」の
 妃である。従って、この遠征に「大海人皇子」も同行していたと言われて
 いるが、確固たる証拠はない。

  その後朝倉宮に移り、七年秋七月二十四日、斉明天皇は朝倉宮で崩御し
 ている。

  そしてこの間に異変が起きている。


  
「五月九日、天皇は朝倉橘広庭宮にお移りになった。このとき朝倉社の
 木を切り払って、この宮を造られたので、雷神が怒って御殿をこわした。
 また宮殿内に鬼火が現れた。このため大舎人や近侍の人々に、病んで死ぬ
 者が多かった。」


  さらに葬儀にも怪事件が起こっている。


  
「八月一日、皇太子は天皇の喪をつとめ、帰って岩瀬宮につかれた。こ
 の宵、朝倉山の上に鬼があらわれ、大笠を着て喪の儀式を覗いていた。
  人々は皆怪しんだ。」


  『扶桑略記』によれば、「豊浦大臣」すなわち「入鹿」の怨霊の仕業と、
 噂されたことになっているが、朝倉宮を襲った神が「雷神」であったして
 いることは興味深い。まあ、普通に考えれば、雷が落ちたのであろうくら
 いなのだが。

  「雷神」と言えば、例えば「上加茂大社」の「別雷神」や、「葛木坐火
 雷神社」の「火雷神」を連想させるが、これらは「尾張氏」の姐神である。

  ところが「雷神」は、もう一人?存在している。『記紀』の国譲り神話
 で有名なタケミカヅチ(「武甕槌命」、『古事記』では「建御雷命」)で
 ある。

  タケミカヅチとは、「藤原氏」の氏社として名高い「春日大社」の主祭
 神なのである。(ただし『記紀』神話に登場するタケミカヅチとは、「尾
 張氏」の「雷神」のことであり、「尾張氏」のとった行動と考えている。)

  朝倉宮を壊した「雷神」とは、筑紫で漂泊中の「鎌足」の軍ではなかっ
 たか、という愉快な推理を巡らせたのだが、案外これが正解なのかも知れ
 ない。

  朝倉山の鬼も、「鎌足」が一部始終を見据えていた、比喩とも考えられ
 なくはない。

  この後の「鎌足」の行動は定かではないし、推理するにも材料となるも
 のが何もないのだが、案外「唐羅軍」に荷担し、後方支援を行っていたの
 かも知れない。

  さて、「中大兄皇子」の皇太子摂政時代となると、話は一気に「白村江
 の戦い」へとエスカレートしていく。
  また、この大激戦は戦勝国である「唐羅」軍や、敗戦国である「百済」・
 「倭国」(以下「倭済」軍)の文献にさえ、ほぼ同様の記述がみられるの
 で、疑う隙のない歴史的事実と言えよう。

  そこで、「倭国」参戦から「百済」滅亡までを、『日本書紀』と『三国
 史記』の記録を抜粋して、時代の流れを追ってみたい。
 
  今さら言うことでもないが、ここで言う「倭国」とは倭国連合軍ではな
 く、多武峯・百済の単独軍のことである。

  尚、末尾の『紀』は『日本書紀』、『済』は『三国史記・百済本紀』、
 『羅』は『三国史記・新羅本紀』からの引用を意味する。
  また必要ある暦年は、すべて西暦で統一し、重出と思われる記録は、あ
  えて掲載しないことにした。

  そしてそれは、『日本書紀』の次の一文から始まっていく。


  
「661年七月、この月に蘇将軍と突蕨(トルコ)の王子契必加力(け
 いひつかりき)らとが、水陸両道から進撃して、高麗の城下に迫った。皇
 太子は長津宮に移っておいでになられた。そこで海外の軍の指揮をとられ
 ることになった。」


  皇太子とは無論「中大兄皇子」のことである。

  以下は、年表形式でご紹介したい。


 
661年八月 前軍の将軍大花下阿曇比邏夫連・小花下河辺百枝臣ら、後
      軍の将軍大花下阿倍引田比邏夫臣・大山上物部連熊・大山守君
      大石らを遣わして、百済を救援させ、武器や食糧を送らせた。
      『紀』

 661年九月 皇太子は長津宮にあって、織冠を百済の王子の豊璋にお授
      けになった。また多臣蒋敷をその妻とされた。そして大山下狭
      井連檳榔・小山下秦造田来津を遣わし、軍兵五千余を率いて、
      豊璋を本国に譲り送らせた。この豊璋が国に入ると、鬼室福信
      が迎えにきて、平伏して国の政を、すべてお任せ申し上げた。
      『紀』(662年五月の条に同様の記録あり)

        この月(五月)、百済の旧将軍の福信と僧侶の道深とが、
      旧王子の扶餘豊を迎えて、百済王とした。彼らは留鎮郎将軍の
      劉仁願を熊津城に包囲した。唐の皇帝は劉仁軌に検校・帯方州
      刺史の官職名を与え、前の都督王文度の兵とわが国の兵とを統
      轄させて、百済の軍営に向かわせた。この軍は各地を転戦し、
      敵軍を陥れ、向かうところ敵対するものがいなかった。福信た
      ちは、劉仁願の包囲を解いて、退いて任存城を守った。このと
      きすでに福信は道深を殺し、その兵を統合していた。旧百済領
      内で反乱を起こしたり、逃亡したりしたものを招きよせて、そ
      の勢力ははなはだ強かった。『羅』

        武王の従子の福信は、むかし軍隊を率いていた。そこで僧
      侶の道深とともに周留城によって反乱をおこし、さきに倭国の
      人質となっていた旧王子扶餘豊を迎えて、彼を王とした。そこ
      で旧百済の西北地方は皆これに呼応し、軍隊を率いて劉仁願を
      旧都城に包囲した。そこで詔して、劉仁軌を検校・帯方州刺史
      に起用し、王文度の軍隊を率いて近道し、新羅軍も動員して劉
      仁願を救援させた。『済』

        ついで福信が道深を殺し、その軍隊を併合したが、扶餘豊
      はこれを制御することができなかった。ただ祭祀を司っている
      だけであった。『済』

 662年三月 この月、唐・新羅の軍が高麗を討った。高麗は救いを日本
      に求めてきた。それで日本は将兵を送って跿留城に構えた。こ
      のため唐軍はその南の堺を犯すことができず、新羅はその西の
      塁をおとすことができなくなった。『紀』

        この年百済を救うために、武器を整え、船を準備し兵糧を
      蓄えた。『紀』

 662年七月 劉仁願・劉仁軌らが福信の軍隊を、熊津の東で大破し、支
      羅城および尹城、大山・沙井など柵をおとしいれ、殺したり捕
      らえたりするものが、非常に多かった。『済』

 663年三月 前軍の将軍上毛野君稚子・間人連大蓋、中軍の将軍巨勢神
      前臣訳語・三輪君寝麻呂、後軍の将軍阿倍引田臣比邏夫・大宅
      臣鎌柄を遣わし、二万七千人を率いて新羅を討たせた。『紀』

 663年五月 犬上君が高麗に急行し、出兵のことを告げて還ってきた。
      そのとき糺解(豊璋)と石城で出会った。糺解は犬上君に鬼室
      福信の罪あることを語った。『紀』

 663年六月 前軍の将軍上毛野君稚子らが、新羅の沙鼻・岐奴江二つの
      城を取った。百済王豊璋は、福信に謀反の心あるのを疑って、
      掌をうがち革を通して縛った。しかし自分で決めかねて困り、
      諸臣に問うた。「福信の罪はすでに明らかだが、斬るべきかど
      うか」と。そのとき達率徳執得が、「この悪者を許してはなり
      ません」と言うと、福信は執得に唾をはきかけていった。「腐
      り犬の馬鹿者」と。王は兵士に命じて福信を斬り、曝首にする
      べく酢漬けにした。『紀』

        このとき福信は実権を握り、扶餘豊と互いに疑い嫌ってい
      た。福信は病気と称して穴蔵の部屋で寝ていたが、扶餘豊が病
      気見舞いにきたのをとらえて殺そうと思っていた。扶餘豊はこ
      の計略を知って、親衛隊を率いて不意に福信を襲って殺した。
      扶餘豊は使者を高麗と倭国に派遣し、援軍を求め、唐軍を防い
      だが、孫仁師は途中で迎え撃ってその軍を破り、劉仁願の軍隊
      と合流し、唐軍の士気が大いにあがった。『済』

 663年八月 新羅は、百済王が自分の良将を斬ったことを知り、直ちに
      攻め入ってまず、州柔を取ろうとした。ここで百済王は敵の計
      画を知って、諸将に告げて、「大日本国の救援将軍廬原君臣が、
      兵士一万余を率いて、今に海を越えてやってくる。どうか諸将
      軍たちはそのつもりでいて欲しい。私は自分で出かけて、白村
      江でお迎えしたよう」といった。『紀』

 663年八月 十七日に敵将が州柔に来て城を囲んだ。大唐の将軍は軍船
      百七十艘を率いて、白村江の陣をしいた。二十七日に日本の先
      着に水軍と、大唐の水軍が合戦した。日本軍は負けて退いた。
      大唐軍は陣を固めて守った。二十八日、日本の諸将と百済の王
      とは、そのときの戦況などをよく見極めないで、共に語って、
      「われらが先を争って攻めれば、敵はおのずから退くだろう」
      といった。さらに日本軍で隊伍の乱れた中軍の兵を率い、進ん
      で大唐軍の堅陣の軍を攻めた。すると大唐軍は左右から船をは
      さんで攻撃した。たちまちに日本軍は破れた。水中に落ちて溺
      死する者が多かった。船のへさきをめぐらすこともできなかっ
      た。朴市田来津は天を仰いで決死を誓い、歯をくいしばって怒
      り、敵数十人を殺したがついに戦死した。このとき百済王豊璋
      は、数人と船に乗り高麗へ逃げた。『紀』

        唐の高宗は右威衛将軍の孫仁師の派遣を命じ、孫仁師は兵
      四十万を率いて、徳物島に到着し、熊津府城におもむいた。文
      武王は、金庚信ら二十八人の将軍を率いてこれと合流し、豆陵
      尹城や周留城などの諸城を攻撃し、みな降伏させた。扶餘豊は
      単身脱走し、王子の忠勝・忠志らはその兵を率いて投降してき
      た。ただ一人遅受信だけが任存城によって、降伏しなかった。
      『羅』

        存仁師・劉仁願および新羅王金法敏は、陸軍を率いて進撃
      し劉仁軌および別将の杜爽・扶餘隆は水軍および兵糧船を率い
      て、津江から白江にゆき。陸軍と合流し、共同して周留城に迫っ
      た。唐・新羅連合軍が倭軍と白江口で遭遇し。四度戦ってみな
      勝ち倭軍の舟四百艘を焚いたが、その煙や炎は天をこがし、海
      水は丹くなった。王の扶餘豊は身をもって脱走し、ゆくえがわ
      からなかった。ある人は「高句麗に逃げたのだろう」といった。
      しかし、唐・新羅の連合軍は扶餘豊の宝剣をえた。王子の扶餘
      忠勝・忠志らは、その軍を率いて、倭軍とともに降服した。し
      かし、一人、遅受信だけは、任存城によってまだ降服しなかっ
      た。『済』

 663年九月 七日、百済の州柔城は唐に降伏した。このとき国人は語り
      合って「州柔城が落ちた。如何とも致しがたい。百済の名前は
      今日で終りだ。先祖の墓にも二度と行くことができぬ。ただ弖
      礼城に行って、日本の将軍たちに会い、今後の処置を相談しよ
      う」といった。かねて枕服岐城に在った妻子どもに教えて、い
      よいよ国を去ることを知らせた。十一日、牟弖を出発、十三日
      弖礼についた。二十四日、日本の水軍と佐平余自信・達率木素
      貴子・谷那晋首・億礼福留と、一般人民は弖礼城についた。翌
      日船を出してはじめて日本に向かった。『紀』

 663年十月 冬十月二十一日から任存城を攻撃した が、克つことがで
      きなかった。『羅』

        さきに、黒歯常之は逃散していた者をよびあつめたが、十
      日間で集まったものが、三万余人にも達した。蘇定方は軍隊を
      派遣し、これを攻めさせたが、黒歯常之は防戦してこれを破り、
      二百余城を奪回した。蘇定方は勝つことができなかった。黒歯
      常之は別部将の沙ロモ相如とともに峻嶮によって、福信に呼応し
      ていたが、このときになってみな降服した。劉仁軌はまごころ
      を黒歯常之らに示し、彼らに自らすすんで任存城を奪取させよ
      うとして、兵器や食糧を与えた。『済』

        黒歯常之ら二人は、ついにその城を取った。遅受信は妻子
      を彼らに委ね、高句麗に逃げたので、残党はことごとく平定さ
      れた。『済』


  「白村江の戦い」に関しては、ほとんど同国と言える「倭国」と「百済」
 なのだが、『日本書紀』と『百済本紀』の間で、「余豊璋」の扱いが大き
 く違い、『日本書紀』が国政をすべて任されたと記すのに対して、『百済
 本紀』は祭祀を司るだけとしている。

  また一旦は「唐羅軍」によって滅ぼされ、「唐」の占領下にあった「百
 済」であり、しかも百済王「余豊璋」は多武峯・百済から出されたわけで
 あるから、この時点からは多武峯・百済こそ「百済」宗国に取って代わっ
 たわけである。

  従って、「倭国」による「百済」救援と言うのではなく、「百済」によ
 る旧地奪回と言うべきであろう。

  「余豊璋」に関しては、『日本書紀』が「高句麗」に逃げたと断定して
 いるのに対して、『百済本紀』は逃げたのだろうとして、言及を避けてい
 る。結局その足取りは不明のままである。

  さて、「倭国」・「百済」の敗戦軍は、朝鮮半島を発った後、おそらく
 九州博多付近より上陸したものと思われる。
  従ってその地域は両国兵士らによって、満ち満ちていたことであろう。
 考えようによっては、占拠されたと言っても良いかも知れない。

  また、「中大兄皇子」は近江に遷都するのであるが、この間一度も政治
 の中心地であるはずの大和へ入っていない。

  さらに天智三年(664)、


 
 「この年、対馬・壱岐・筑紫国などに防人と烽をおいた。また「筑紫」
 に大堤を築いて水を貯えた。これを水城と名づけた。」


  とある。水城は昭和50年に発掘調査されているが、幅50メートル・
 深さ9メートルの堀が確認されている。
  防人とは東国から送られた「筑紫」防備のための兵士であるが、記録に
 あるのはこれが初めてだろうと思われる。

  一般的には、帰国後の半島からの攻撃警戒のための、「築城」のように
 言われているし、確かにその通りであろうが、一方で「中大兄皇子」が近
 江遷都までわずかの間、「筑紫」を拠点にして建国の動きを見せていたの
 ではないだろうか。
  また、そう考えないと敗戦から近江遷都までの四年間、どこで何をやっ
 ていたかわからなくなってしまうし、「筑紫」はさらに重要な意味を持っ
 ている。



   
6.二人の中大兄皇子


  「中大兄皇子」はその名のほうが有名なのであるが、彼は「葛城皇子」
 というれっきとした呼称を持っている。

  舒明天皇二年の条に、


  「二年春一月一二日、宝皇女を立てて皇后とした。皇后は二男一女を生
 まれた。第一は葛城皇子、第二は間人皇女、第三は大海人皇子である。」


  とあるのだが、「葛城皇子」の名で登場するのはこの一回限りであり、
 以降は「中大兄皇子」一本である。

  他に「大兄」を名乗る人物は、


  
「山背大兄皇子」
  「古人大兄皇子」
  「彦人大兄皇子」


  らがいるが、いずれ後述するが、「大兄」とは皇太子の意味であると思
 う。従って「大兄」は敬称であると考えてよく、その名の部分はおのおの
 「山背」・「古人」・「彦人」ということになろう。
  「中大兄皇子」の場合もこの図式で行くと、「中」の部分が名であるこ
 とになるのだが、これを名というのは私にとっては抵抗があるし、第一全
 然意味が通らない。それでもあえて意味を探すとすれば、真ん中の皇太子
 という意味になるのだろうか。

  彼には本来「葛城皇子」という立派な名前があるのである。「葛城大兄
 皇子」で良いではないか。
  それにもかかわらず『日本書紀』は、「中大兄皇子」と記しているので
 ある。そこに作為を感じないわけにはいかない。

  早い話が、「中大兄皇子」=「葛城皇子」という図式が、完全ではない
 と言うことであり、編纂者側にすれば「葛城皇子」が「中大兄皇子」では
 困ることがあったのだろう。

  「中」という文字は、□を真ん中から二つに分けている。うがった見方
 をすれば「中大兄皇子」とは、二人の皇太子の意味とも考えられる。

  そのとおり、「中大兄皇子」は二人いたのである。

  二人の中大兄皇子の証明の証拠になるものと言えば、『日本書紀』に記
 された次の件であろうか。

  天智天皇四年春二月のこととして、


  
「この月、百済国の官位の階級を検討した。佐平福信の功績によって、
 鬼室集斯に小錦下の位を授けた。」


  とある。さきにご紹介しおいた「鬼室福信」の反逆行為の見返りとして、
 息子「鬼室集斯」に対してされた官位の授与である。
  「福信」は「百済」裏切ったのであり、その彼の息子に対して官位を授
 けたのであるから、反逆行為はその時の大和朝廷にとって、功績だったこ
 とになる。

  中大兄皇子は「百済」救援軍の指揮者なのであるから、裏切り者の「福
 信」の子に冠位を授けるとは考えられない。
  にもかかわらず、『日本書紀』が冠位を授けたと記録していることは、
 それを功績と考える中大兄皇子が別にいたことになる。

  ところで、「百済」遠征記事に「中大兄皇子」の名は登場しない。この
 間いったい彼はどこで何をやっていたのだろうか。

  一説には、「筑紫」にいて全軍を指揮していたように言われている。

  しかしそうであるならば、結果的に敗戦だったにせよ連合国の総大将と
 して、記るされていてしかるべきであろう。
  にもかかわらず何の記述もないということは、「百済」遠征を決行した
 「中大兄皇子」とは、「余豊璋」自身だった可能性がある。

  「白村江の戦い」での敗戦の後、「余豊璋」は「高句麗」に逃亡したよ
 うに伝えられているが、実際にところよくわからない。案外、「百済」の
 諸将と一緒に「筑紫」まで、逃れてきていたのかも知れない。

  「筑紫」は、まさに多武峯・「百済」の支配地域であった。

  『真説日本古代史』第十部において、次の『欽明紀』十七年春一月の条
 を紹介している。


  「百済王子の恵が帰国を願い出た。よって多くの武器・良馬のほかいろ
 いろの物を賜り、多くの人々がそれを感歎した。阿部臣・佐伯連・播磨直
 を遣わして、筑紫国の軍船を率い、護衛して国に送りとどけさせた。別に
 筑紫火君を遣わし、勇士一千を率いて、弥弖に送らせ、航路の要害の地を
 守らせた。」


  これを、


  
「『筑紫」は『百済』の手中とも読める記述でもある。」


  と解説したが、事実その通りだったと考えている。

  天智天皇六年十一月九日の条に、


 
 「百済の鎮将劉仁願は熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聡らを遣わして
 大山下境部連石積らを筑紫都督府に送ってきた。」


  とあるが、問題としたいのはこの「筑紫都督府」である。

  「都督府」とは、戦勝国である「唐」が占領国統治のために布いた政府
 の名称である。

  「唐」が「百済」の旧領地に、「熊津・馬韓・東明・金漣・徳安の五都
 督府」を置いて占領政府としたことは、『百済本紀』にはっきり書かれて
 いる。

  敗戦国である「倭国」にも「都督府」が置かれたのである。それが「筑
 紫都督府」であった。

  『三国史記』を読めば、「唐羅軍」に敗れた「百済」が、厳しく戦争犯
 罪を問われ処分されたのに対して、同じく敗戦国である「倭国」が戦争犯
 罪をどうして免れることができようか。

  当然占領政策が布かれたと考えることに、疑問を挟む余地などない。

  多武峯・「百済」の「大和」での拠点は確かに多武峯であったのだが、
 「筑紫」は「倭国」における「百済」の飛び地だったのである。
  「筑紫」が「百済」のものであったからこそ、この地に「都督府」が置
 かれたのである。

  逆に「大和」は蘇我・倭国政権の支配する土地である。「鎌足」の動き
 からもわかるように、倭国政権は「唐羅軍」には協力的であった。と言う
 よりもむしろ同盟国だったのではないだろうか。
  「白村江の戦い」で倭済連合軍が敗れたため、倭国政権は結果的に戦勝
 国となった。

  戦勝国である倭国政権に「都督府」が置かれるはずがない。

  また「百済」が滅び「百済」の植民地であった「筑紫」に、「都督府」
 が置かれたことにより、「倭国」の百済政権もまた消滅したのである。

  「白村江の戦い」の後、「唐」の「郭務宗」(かくむそう。実際の「宗」
 の文字は「小」に「宗」と書きます)らが来訪しているが、これがおそら
 く「筑紫都督府」の開府のためと思われる。

  『天智紀』には「郭務宗」来訪の記録が、大ざっぱに次のように四つが
 みられる。


  
「天智三年夏五月十七日、百済にあった鎮将劉仁願は、朝散大夫郭務宗
 らを遣わして、表凾と献物ををたてまつった。」

  「天智四年九月二十三日、唐が朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣わ
 してきた。──等というのは右戎衛郎将上柱国百済禰軍・朝散大夫柱国郭
 務宗をいう。全部で二百五十四人。七月二十八日に対馬着。九月二十日、
 筑紫に着き、二十二日に表凾をたてまつった。」

  「天智八年十二月、大唐が郭務宗ら二千人を遣わしてきた。」

  「天智十年十一月十日、対馬国司が使いを太宰府に遣わして、『今月の
 二月に、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓島勝裟婆・布師首磐の四人が唐から
 やってきて『唐の使人郭務宗ら六百人、送使沙宅孫登ら千四百人、総計二
 千人が、船四十七隻に乗って比知島に着きました。語り合って、今吾らの
 人も船も多い。すぐ向うに行ったら、恐らく向うの防人は驚いて射かけて
 くるだろう。まず道久らを遣わして、前もって来朝の意を明らかにさせる
 ことにしました』と申しております。』と報告した。」


  ただ敗戦軍は九月二十四日に朝鮮半島を発ったのだから、初めての「郭
 務宗」来訪が天智三年夏五月十七日というのは、ちょっと間が空きすぎて
 いるように思われるが、「白村江の戦い」の後も、旧「百済」の将軍「黒
 歯常之」(こくしじょうし)が、兵三万人をかき集めて抵抗していたこと
 もあり、朝鮮半島における戦後処理の後、「筑紫」の諸問題に取りかかっ
 たとすれば、時間的な矛盾は何もない。

  従って、天智三年夏五月十七日を、「筑紫都督府」設置のための来訪で
 あったとしよう。

  その後は、天智八年十二月か、天智十年十一月の記録がその後に続いて
 いくのであろうが、この二つの記録は重出であるのではないかといわれて
 いる。

  確かに総計二千人は同数であり、記録だけをとってみれば重出とも考え
 られる。

  しかし、「筑紫」が「唐」の占領下である以上、交流は記録以上に頻繁
 であったと考ることに無理はないし、むしろそのように考えたほうが無難
 であろう。

  単に人数だけみて重出と考えるのはどうかと思う。

  「筑紫都督府」とは、「倭・済」の敗戦軍が上陸後しばらくおいた後、
 「筑紫」に上陸した占領軍が開府したものである。

  「筑紫」に逃れてきた旧「百済」の諸将ら及びその兵力は、「百済」が
 滅んだとは言え、度重なる激戦を戦い抜いてきた精鋭であった。
  従って、占領軍上陸前の「筑紫」は「百済」そのものであるし、その彼
 らを統括する「都督」となると、並大抵の者では不可能なように思われる。

  例えば、旧「百済」の「熊津都督府」は、元百済王子の「隆」が任命さ
 れている。

  「筑紫都督府」も同様であると考えて、良いのではないだろうか。

  とすれば、「余豊璋」が相応しく思えてくるのだが、彼は『日本書紀』・
 『三国史記』とも「高句麗」に逃れたとしており、文献上から行方を推測
 することはできないことは、先述したとおりである。
  仮に日本列島にたどり着いていたとしても、戦争犯罪人である「余豊璋」
 が「都督」に任命されることはないはずだ。
  その前に「唐羅」軍により捕らえられ、殺されてしまうことだろう。

  他に該当者を探すとなると、「唐」に捕虜となっている学問僧「定恵」
 か、皇極二年二月二十二日に来訪した「翹岐」(ぎょうぎ)あたりが、次
 の候補者となりそうである。

  ただ「定恵」は665年に帰国後(その年の十二月二十三日に死没した
 ことになっている)、「都督」に任命され帰国したならば、時期が少し遅
 すぎるように思う。
 
  そこで「翹岐」ではなかったかと推測されるのだが、「翹岐」とは私見
 による「鎌足」である。
        ・・
  「都督」にはまず「鎌足」が擁立されたと考えたい。

  こう考えることにより、一度は大王となった「鎌足」が、「中つ臣」と
 名乗っていた所以も、おぼろげながらわかるような気がする。
       ・・
  ところで、まずと前置きしたのにはもちろん訳がある。

  後に詳しく述べるが、二代目の「都督」には「定恵」が選任されている
 と考えているからだ。

  実は『多武峰略記』・『多武峰縁起』は、「定恵」の帰国を「鎌足」の
 亡くなった後としており、『日本書紀』と矛盾する記述をみせている。

  「定恵」が「唐」へ派遣されたのは、653年の遣唐使に帯同してであ
 るが、これはどうやら史実らしい。
  というのは、『旧唐書』高宗本紀永徽五年(654)の条に、倭国使の
 受け入れが記録されているからである。

  また『日本書紀』が引用する『伊吉博徳の書』に記されている、


 
 「『定恵』は乙丑の年(665)劉徳高らの船に乗って帰った。」


  も、天智四年九月二十三日の


  
「唐が朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣わしてきた。」


  と対応しており、「定恵」665年帰国も史実と考えて良いだろう。

  『日本書紀』が記録する「鎌足」の薨去は669年であるから、一般的
 には『多武峯略記』の記録は無視されているようであるが、次の一文によ
 り信頼に値する文献であると思えてならない。


  
「更待後賢之正決可詳旧記之違文者」


  すなわち、これら旧記の違文を詳しく解明し、後世に更なる正しい結論
 が下されるのを待つ、という慎重な態度で臨んでいるのである。

  「鎌足」は「定恵」の帰国を待たずに、亡くなっていたのかもしれない。

  と言うよりもむしろ、「鎌足」薨去こそ「定恵」帰国の直接の原因では
 ないか、と推理したくなる。

  「定恵」は「唐」へ差し出した人質であったであろうとしたが、「貞慧
 伝」には次のような記録があるという。


  「而忽承天勅、荷節命駕、又詔廊武宗劉徳高等、旦夕撫養、奉送倭朝、
 仍逕海旧京(『新説日本古代史』文芸社、西野凡夫著1999年8月15
 日発行より)」)


  ちなみに西野氏の著書は、このあと氏の見解として


  
「蕃国の一学問僧の帰国に唐帝が天勅を発し、廊武宗と劉徳高に詔し、
 『倭朝に送り奉る』とは異常な記述である。」


  と続いているが、私はこれを人質とされていた「定恵」の帰国時の模様
 と見ているので、これが単なる人質の解放にすぎなかったとすれば、あま
 りにも大げさな記述であろう。

  まさに氏の言うとおり、異常な記述なのである。

  逆に言えば、「定恵」の帰国は人質の解放以上の意味があった、と考え
 るべきではないか。

  「都督」であった「鎌足」が薨去し、新たな「都督」には「定恵」が任
 命されて、「筑紫都督府」に赴いたと考えられるのである。

  従って、『日本書紀』のいう天智八年「鎌足」薨去は史実ではなかった
 のであり、「鎌足」薨去後の665年に「定恵」帰国したものであるとし
 たい。

  「鎌足」の薨年が『多武峰略記』と『日本書紀』との間で異なっている
 のは、天智天皇の即位年に問題があるからだと思う。

  『日本書紀』は天智七年(668)のことであるという。

  しかし天皇の元年は、その天皇の即位年とするはずである。天智だけが
 例外なのはなぜなのだろうか。

  それは『日本書紀』が二人の皇子であったにもかかわらず、「中大兄皇
 子」という一人の皇子として、記述していた理由を考えてみれば明らかに
 なってくるだろう。

  「中大兄皇子」のモデルが二人いたとすれば、天智もまた二人いたと考
 えられるということだ。あるいは、それ以上なのかも知れない。

  すなわち天智は、天智元年(またはその前年)に即位した天皇と、天智
 七年(あるいは六年)に即位した天皇という二人の天智が存在したのでは
 ないか。

  『日本書紀』は、二つの天智元年をはっきりと認めている箇所がある。

  天智の病状の悪化を『天智紀』では、


  
「十七日、天皇は病が重くなり・・・」


  としている。これは天智十年冬十月のこととして、記録しているのにも
 かわらず、『天武紀』では


  
「四年冬十月十七日、天皇は病臥されて重態であった。」


  としているではないか。

  仮に天智元年即位を「余豊璋」とすれば、天智七年即位は「葛城皇子」
 となるのだが、ただ現段階では、そのどちらとも断定できないし、全然別
 の誰かなのかも知れない。

  さらに、『扶桑略記』には、天智の命日を十二月三日としたうえで、二
 人の天智を裏づける記録がなされている。


  「一に云ふ。(天皇)馬に駕し、山階郷に幸す。更に御門は環らること
 無し。」


  とあり、


  
「永く山林に交はり、崩ずる所を知らず。只、履沓の落つる処を以て其
 山稜と為す。諸皇の往を以て、因果を知ら不。恒に殺害 事る」


  という割り注がある。『水鏡』にも同様の記録があるというが、「新井
 白石」の『天智朝』は、『扶桑略記』とほぼ同文を記録し、


  「或は曰く、帝の終りは詳しかにすべからざる也」


  と結んでいる。山階とは山科のことである。

  これに対して『日本書紀』は、


  
「十二月三日、天皇は近江宮で崩御された」


  としており、その最後は全然違っている。

  一方では山科で暗殺されたように記録しながら、もう一方では近江宮で
 崩御したという。

  この時代は『日本書紀』成立から50年ほど前でしかなく、でたらめは
 記録しづらかろう。また「新井白石」の詮索するなという言葉をも併せて
 合理的に解釈すれば、二人の天智(というよりも天智のモデルとなった二
 人の人物)説こそ正論ではないだろうか。

  『日本書紀』には、もうひとつそれを推察させる記録を残している。


 
 「──日本世紀に言う。『内大臣は五十歳で自宅でなくなった。遺骸を
 山科の山の南に移して殯した。天はどうして心なくも、しばらくこの老人
 を遺さなかったのか。哀しいかな。碑文には春秋五十六にして薨ずとある』
 と。」


  『藤氏家伝』は、「鎌足」の生誕年を推古二十二年(613)としてい
 る。

  『日本書紀』のとおり、「鎌足」は天智八年(669)に死亡したとす
 れば、碑文の


  
「春秋五十六にして薨ず」


  となるのだが、引用の『日本世紀』では50歳だという。

  しかし、これはどちらが正しいとは言い当てられない。天智八年をどう
 みるかによって、年齢が変わってしまうからである。

  天智八年が『日本書紀』のいう年紀ならば56歳となるが、天智七年か
 六年を元年とすれば、天智八年は天智二年・三年に当たり、計算では約6
 年もの差が生じる。

  これがこのまま年齢差の表現になったものと考えられ、天智即位年が二
 説あったことをうかがわせている。

  もちろん、「鎌足」の死は一点でしかあり得ないのだが、西暦の概念が
 ないこの時代では、採用した史料も当然天皇年によるものだから、このよ
 うなことも往々にして生じてくる。

  さて、天智八年五月五日の条に、


  
「天皇は山科野に薬狩りをされた。大皇弟・藤原内大臣及び群臣らこと
 ごとくお供をした。」


  とあるが、この薬狩りが『扶桑略記』などにある、天智天皇殺害記録と
 対応する記録であると考えている。

  はたしてこの天智八年は、どちらなのであろうか。

  『日本書紀』・『扶桑略記』とも天智の命日を十二月三日としている。
 このほかにも中世の史書は天智命日を、十二月三日としており異伝は無い
 ようである。
  ただし命日が同じであっても、年代はともかく内容までもが違っている
 ということは、同一の史料に基づいているとは言えない。
  採用した史料が、全然異なっているか、どちらかが意図的に捏造したも
 のと思われる。

  先にも述べたように「新井白石」は、


  「或は曰く、帝の終りは詳しかにすべからざる也」


  と述べているが、我々は常に真実を知る権利を持っている。しかし現代
 に至っては、最早推測の域をでることは、不可能であることは否めない。

  そうかと言って追求を止めてしまえば、真実を知るチャンスは永遠に訪
 れることは無いと言えるであろう。


                      2001年10月 第12部 了