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真説日本古代史 本編 第十一部


   
二大勢力抗争の行方




   
1.大化改新


  皇極天皇四年(645)六月十二日、その日は朝から雨が降っていた。
 皇極天皇は飛鳥板蓋宮の大極殿にお出ましになった。皇子や高官は太礼服
 と冠で着飾り、王座の前に居流れた。
  「入鹿」が大極殿にやってきた。「鎌子」に命令された通り俳優(わざ
 ひと)は、滑稽なしぐさで「入鹿」を笑わせ、まんまと護身用の剣を預か
 ることに成功した。
  「入鹿」は中に入って座に着いた。「蘇我石川倉山田麻呂」は御座の前
 に進んで、三韓の上表文を読み上げた。
  「中大兄皇子」はこれを合図に、十二の通門を閉じるよう命令し、自ら
 長槍をを取って大極殿の脇に潜んだ。
  この間に、「佐伯連子麻呂」と「葛城稚犬養連網田」が「入鹿」に斬り
 つけ殺害する手筈だったが、彼らは恐怖のため吐いてしまった。
  「倉山田麻呂」はまもなく上表文を読み終えてしまうのに、「子麻呂」
 らがでてこないため、汗が流れ声は乱れ、手がわなわなと震えだした。
  異変に気づいた「入鹿」は、「倉山田麻呂」の不審な態度に思わず声を
 掛けた。


  
「おじ上、一体何故震えているのか。」


  「倉山田麻呂」は、震える声で、こう答えたという。


  「天皇のおそばに近いので、おそれ多くて汗が流れて。」


  「中大兄皇子」は、「入鹿」の威勢にひるんでしまった彼らを見て、
 「子麻呂」らとともに、


  「やあっ。」


  と掛け声もろとも躍り出し、「入鹿」に頭から肩口にかけて斬りつけた。

  驚いた「入鹿」は座を立とうとしたが、「子麻呂」が足を斬りつけたた
 め御座の下に転落し、頭をふって、


  「日嗣ぎの位においでになるのは天子である。私に一体何の罪があるの
 か。そのわけを言え。」


  と言った。

  天皇は大いに驚き、「中大兄皇子」に問いただした。


  「これは一体どうしたことか。」


  「中大兄皇子」は平伏して奏上し、


  「鞍作は王子たちをすべて滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍
 作をもって天子に代えられましょうか。」


  と言った。

  天皇は黙って立ち上がり殿舎の中に入られた。「佐伯連子麻呂」と「葛
 城稚犬養連網田」は「入鹿」にとどめを刺した。
  遺体にはむしろがかけられ、雨の中庭に放り出された。


  以上は、『日本書紀』に記された「乙巳の変」の現場の 様子である。

  しかし、ストーリーはこれだけで終わったわけではない。


  
「古人大兄皇子」は私邸に逃げ込み、人々に


  「韓人が鞍作を殺した。私も心痛む。」


  といい、寝所を閉ざしてでてこなかった。

  「中大兄皇子」は法興寺に入り、砦をつくり戦争に備えた。諸々の高官
 や皇子は「中大兄皇子」についた。
  「入鹿」の遺体は、人を遣わし「蘇我蝦夷」のもとに送られた。「漢直」
 らは族党を総集し武装して、「蝦夷」を助け戦闘準備が整ったが、「中大
 兄皇子」が「巨勢徳陀」を遣わして、天地の始まりから君臣の別があった
 ことを説かせると、


 
 「われらは君大郎の罪によって殺されるだろう。蝦夷も殺される。誰の
 ために空しく戦って殺されるのか。」


  と言い剣を捨て解散した。

  翌日、「蝦夷」はすべての天皇記・国記・珍宝を焼いた。「船史恵尺」
 はそのとき素早く火の中から国記を持ち出し、「中大兄皇子」に渡した。
  「入鹿」と「蝦夷」の遺体を墓に葬ることを許された。また泣いて死者
 に仕える者を認められた。


  こうして「蘇我」本宗家は滅亡し、十四日、皇極天皇は「軽皇子」(孝
 徳天皇)に譲位し、『皇極紀』は完結している。 

  皇極天皇の四年を大化元年と改め、難波に遷都。なんと仁徳天皇以来、
 約二百年ぶりに難波に都が置かれたことになる。
  大化二年元旦、賀正の礼が終わった後、改新の詔が発せられた。世に言
 う「大化改新」であるが、一般的には「乙巳の変」から改新の詔までの一
 連を、「大化改新」として知られているようである。

  『日本書紀』に掲載されている改新の詔の内容(四項)は、原文のまま
 ではなく、それは『日本書紀』編纂者らの意向により、原文を体裁良く装
 飾をしたのであろう、というのが通説である。
  しかしながら、改新の詔が原文のままであろうが無かろうが、そのこと
 が歴史ストーリーに影響を及ぼすわけでもないので、この時から「大化」
 という元号が用いられ、難波で新政府が発足したということでいいのでは
 ないかと思っている。

  問題は、これら一連のクーデターそのものにある。

  「乙巳の変」は、飛鳥板蓋宮の大極殿であったことになっている。なる
 ほどこれを裏付けるように、昭和34年奈良国立文化財研究所が、「飛鳥
 寺」の南数百メートルの立神神社付近を試掘してみると、一面の田圃の下
 から、ぞくぞくと建築遺構が発見され、かなりの規模の建物が存在したこ
 とが、推定された。
  この場所が板蓋宮伝承地の一つであったことから、板蓋宮跡に間違いな
 いとされていた。

  この当時に歴史の勉強された方々は、今でもそう信じておられる方もい
 らっしゃることであろう。

  ところがその後の調査の結果、この場所は天武天皇の飛鳥浄御原宮の跡
 だったらしいことがわかっている。

  さらに、大極殿を有する都城が我が国に登場するのは、孝徳天皇の難波
 宮が最初であって、それ以前の都城に存在した可能性は、低いとされてい
 るのである。

  この地に飛鳥板蓋宮などなかったのではないだろうか。つまり「乙巳の
 変」の現場は、飛鳥板蓋宮の大極殿ではなかったということだ。


 
注☆

  「大化の改新」舞台確認-板蓋宮の石敷き遺構【飛鳥京跡】

  「飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)の正殿とみられる大型建物跡が見つかった明日香村岡本の
 飛鳥京跡で、古代史最大のクーデター「大化の改新」(645年)の舞台となった飛鳥板蓋宮(い
 たぶきのみや)の一部とみられる石敷き遺構が18日までに見つかった。県立橿原考古学研究所は、
 『宮殿の重なり具合が分かりやすい形で見つかった。宮殿の変遷がうかがえるよい資料だ』として
 いる。(2006.3.19 奈良新聞)


  飛鳥板葺宮はなかったのではないか、という私見は、これにより成立しなくなりましたが、ここ
 最近の同地方の一連の発掘結果から、かえって飛鳥板葺宮は、天皇家の宮ではなかったのではない
 か、という疑念をより強く感じるようになりました。「蘇我馬子」の墓と言われいる石舞台古墳の
 ある明日香村島庄と、明日香村岡にある飛鳥板葺宮伝承地(飛鳥浄御原宮跡)とは、直線で1qも
 離れていないばかりか、伝承地は、「蘇我氏」の領地「甘樫丘」(現、飛鳥歴史公園)との間に、
 挟まれる地域なのです。
  理由はどうあれ天皇家は「蘇我氏」を討ってしまったわけですから、そのような政治的敵対関係
 (戦争関係)の両者が、互いに土地を隣接させて暮らしていたと考えること自体、常識的ではない
 と思います。
  「蘇我氏」が「甘樫丘」を領地としていたことが、史実であるとするならば、飛鳥板葺宮は「蘇
 我大臣家」の宮殿だったか、施設だったとしたほうが自然ではないでしょうか。
  従ってこの発掘結果は、私見による「乙巳の変」の推論を、大きく変えるものではありません。
  
  筆者による割り注。


  また「蘇我入鹿」は、「高句麗」・「新羅」・「百済」の三国の使者の
 入朝の期日が迫っていたことを利用して、三国の調をすすめる儀式を朝廷
 でおこなうと偽りおびきだされたらしいが、百済政権である皇極朝の本拠
 地は、多武峯にある岡本宮であったはずだ。

  舒明天皇のある時期に限れば、百済政権は勢いを回復し、「蘇我氏」の
 倭国政権に一矢を報いることもあったことであろう。それが百済宮への遷
 都であったと考えている。
  その結果、「蘇我入鹿」=「聖徳太子」は「斑鳩寺」(現存する法隆寺
 ではない)まで後退し、「飛鳥」を本拠地としながらも、「斑鳩寺」を宮
 とせざるを得なかったのではないか。

  しかし舒明天皇も亡くなり、その後を、舒明の皇后「宝皇女」(たから
 ひめみこ)が皇位を継承したということは、適切な人材がいなかったとも
 考えられないことはない。
  このような指導者不在の中で山を下り、倭国政権の本拠地・「飛鳥」で
 宮を構え続けることは、百済政権存続にとって危険極まりないことであろ
 う。
  皇極やその側近たちは、多武峯で時機到来を待つことを選択したほうが
 有利であった思われる。

  飛鳥板蓋宮は、多武峯の岡本宮の別名であったのではないだろうか。私
 見による岡本宮は、倭国政権との交戦中に一度陥落している。再建された
 岡本宮は急造だったのではないか。板蓋宮とは文字通り板葺きだったもの
 と思われる。

  結局、飛鳥板蓋宮は多武峯にあり、そこには大極殿など存在しなかった
 のだ。

  しかし「蘇我入鹿」暗殺劇は、今日まで異伝なく伝えられていることか
 ら、一般庶民ですら


 
 「ああ、645年のあの時に噂になった事件こそ、『乙巳の変』であっ
 たのか。」


  と納得させてしまう事件が、起こっていたことは間違いないのである。

  では本当の「乙巳の変」の現場とはどこだったのであろうか。

  明日香村には、「蘇我入鹿」の首を供養したと伝承されている「首塚」
 が、今もなお現存している。その位置というのが、「蝦夷・入鹿」の屋形
 があったとされる甘橿丘の脇なのである。

  『日本書紀』によれば、「入鹿」の遺体はそのまま「蝦夷」に引き渡さ
 れたことになっており、「首塚」との因果関係は不明のままであるものの、
 そこが墓ではない限り、何かを供養しなければならなかった場所であるこ
 とは、間違いないはずである。

  この場所こそ、「入鹿」暗殺の現場であったのではないか。飛鳥の聖者
 殺しの場所であったからこそ、供養が必要であったのではないだろうか。

  ここで「乙巳の変」に関係した人物を列挙してみたい。


 
 「中大兄皇子」
  「中臣鎌子」
  「蘇我倉山田麻呂」
  「海犬養連勝麻呂」
  「佐伯連子麻呂」
  「葛城稚犬養連網田」
  「古人大兄皇子」
  「皇極天皇」

  「蘇我入鹿」


  被害者はもちろん「蘇我入鹿」であり、直接の実行犯は「中大兄皇子」・
 「佐伯連子麻呂」・「葛城稚犬養連網田」の三名である。
  このとき「中臣鎌子」は護衛に回っていた。

  さて、この惨劇が大極殿ではなく、私見通り現在の首塚がある地点、す
 なわち屋外で実行されたものだとしたら、皇極もこの場所にいたというの
 は考えにくい。
  『日本書紀』ではこの惨劇を、皇極は事前に知らされていなかったよう
 に記すが、おそらく多武峯の岡本宮にて、事の一部始終の報告を受けたの
 だろう。
  事前承諾か事後承諾かは、ここでは問わないでおく。もっとも判る術も
 ないのだが。

  「古人大兄皇子」は「入鹿」の死を


  
「吾が心痛し」


  と嘆き悲しんだ唯一の人物である。あるいは「入鹿」に付き添っていた
 のかも知れない。

  ところで、「聖徳太子」は574年生まれである。「蘇我入鹿」=「聖
 徳太子」であるので、このとき「入鹿」は七十一歳であったことになる。
  また、「入鹿」の宮は「法隆寺」に遷っていたはずであり、いくら聖者
 であるとはいえ、このような老齢をおして「斑鳩」から「飛鳥」まで、行
 かなければならなかった理由とは何だったのか。

  しかもその結果が死であったのだから、まさに踏んだり蹴ったりではな
 いか。

  そこで実行犯以外で重要な役目を担った人物に、スポットを当ててみた
 い。

  「蘇我倉山田石川麻呂」その人である。

  「中大兄皇子」は「倉山田麻呂」の次女を妃にしているが、『日本書紀』
 によれば本当なら次女ではなく、長女を妃にするはずだったことになって
 いる。

  このあたりの事情を『日本書紀』は次のように記している。


  「中臣鎌子連が、『大事を謀るには助力者があるのがよろしい。蘇我倉
 山田麻呂の長女を召して妃とし、婿と舅の関係を結んで、後で事情を明か
 して共に事を計りましょう。成功の道にこれより近いものはありません。』
 と考えをのべた。中大兄はこれを聞いて大いに喜ばれ、詳しく説くところ
 に従われた。中臣鎌子連は倉山田麻呂のもとに自らおもむいて仲人の役を
 まとめ終った。ところがその長女は契りのできた夜、一族の者に盗まれた。
 ── 一族の者は身狭臣といった。──このため倉山田臣は憂え恐縮し、
 うなだれてなすべきことを知らなかった。次女が父の顔色を怪しんで尋ね、
 『何を憂えていらっしゃるのですか』といった。父はわけを話した。次女
 は、『ご心配なさらないで下さい。私を身代わりに進めて頂いても間に合
 うではありませんか』といった。父はたいへん喜んでその女を奉った。少
 女は真心をつくして皇子に仕え、少しもそれをいとわなかった。 」


  まさに美談としか言いようがないエピソードである。

  「倉山田麻呂」は孝徳天皇の時の右大臣であり、なるほど「乙巳の変」
 の功績により抜擢されたように考えてしまいがちだが、孝徳の時代は後述
 するように二朝合併=統一政権時代であると推察する。

  仮に「倉山田麻呂」が「乙巳の変」の功績から、右大臣に昇進したのだ
 としたら、多武峯にあった岡本宮・皇極朝での抜擢こそ、一本筋が通って
 いると考えられる。
  その「乙巳の変」の功労者である「倉山田麻呂」を、孝徳朝において謀
 反の疑いを掛け自殺に追い込んでいる。
  『日本書紀』の記述に従えば、「倉山田麻呂」に、いっさいの調査も無
 しに謀反の疑いを掛け、自殺に追い込んだ人物こそ「中大兄皇子」であっ
 たというが、これはどういうわけか。

  さらになお憎しみが治まらないかのように、


  
「物部二田造塩を呼んで、大臣の首を斬らせた。二田塩は太刀を抜いて
 その肉を刺し、叫び声をあげてこれを斬った。」


  というが、死者に対してあまりにも残忍な行為である。

  その後、「中大兄皇子」は「倉山田麻呂」の潔白を知り、深く後悔し嘆
 き悲しんだというが、どんな言葉で締めくくろうと、武力を持って殺害し
 た加害者であることに違いなく、被害者が孝徳朝の右大臣であり、しかも
 冤罪であったとすれば、皇太子と言えどもその責任を追及されなければな
 らないはずだ。

  しかし、『日本書紀』にそれらの記述は見られない。

  「倉山田麻呂」は「蘇我入鹿」亡き後、孝徳朝での要人中の要人であっ
 たと考えている。
  おそらく「入鹿」が「斑鳩宮」に宮を構えた後も飛鳥甘橿丘に残り、多
 武峯にあった岡本宮・百済政権と対峙しながらも、時には岡本宮に使者を
 遣わし、自身を犠牲にしてまでも、平和的解決の方法を模索していたこと
 であろう。

  もっとも、なぜそこまでしなければならなかったのかは、もう少し後で
 説明しようと思う。

  「第十部」において内通者の存在を示唆したが、「倉山田麻呂」こそ、
 その役割を担っていたのだと思う。ただし、内通者と言うには彼に対して
 あまりにも申し訳がない。
  相当な手腕を持った外交官と言うべきであろう。

  「中大兄皇子」は、そんな彼の立場をまんまと利用して、老齢であった
 「入鹿」を呼び出すことに成功したのだと思う。
  しかし、供を従えた「入鹿」は甘橿丘にさしかかるやいなや、密かに姿
 を隠していたヒットマンにより討たれたのである。

  『日本書紀』に云う雨中の暗殺劇であった。

  この結果、倭国政権は偉大な指導者を失い、壊滅の道を突き進んでいく
 ことは容易に想像できるし、「倉山田麻呂」は百済政権により、だまされ
 たことになろうが、最悪の結果となってしまったこの後、彼が行ったどん
 でん返しの秘策により、倭国政権は壊滅することなく健在であった。

  もちろん、『日本書紀』はそんなことを直接言及していないが、常にヒ
 ントを隠している。

  ただその前に、「倉山田麻呂」の人物像をさらに明らかにしておきたい。



   
2.蘇我石川倉山田麻呂


  『日本書紀』は「倉山田麻呂」の最後を、次のように記述している。


  
「天皇は兵を遣わして大臣の家を包囲させようとした。大臣は二人の子、
 法師と赤猪をつれて、茅淳の道から逃れて、大和の国の境に行った。大臣
 の長子の興志は、これより先大和にあって、山田寺を造っていた。突然父
 が逃げてくるということを聞いて、今来の大槻の木の下に迎えて先に立っ
 て寺に入った。興志は大臣に、『私が先に立って襲撃軍を防ぎましょう』
 といった。大臣は許さなかった。興志は心に小墾田宮を焼こうと思い、兵
 士を集めた。二十五日、大臣は興志に、『お前は命が惜しいか』といった。
 興志は「惜しくはありません」といった。大臣はそこで山田寺の衆僧及び
 興志と、数十人に語った。『人の臣たる者は、どうして君に逆らうことを
 くわだて、父に考を失すべきであろうか。およそこの寺は、もともと自分
 のために造ったものではない。天皇のためをお祈りして造ったものである。
 今自分は日向に讒言されて、無謀に殺されようとしている。せめてもの願
 いは、黄泉国に行っても、忠を忘れないことである。寺にやってきたのは、
 安らかに終わりのときを迎えようと思ったまでである』と。言い終って金
 堂の戸を開いて誓いを立てて、『私は世々の末まで決してわが君を恨みま
 せん』といい、誓い終わって自ら首をくくって死んだ。妻子ら死に殉ずる
 ものは八人であった。」


  実は、この「倉山田麻呂」の最後と「山背大兄王」の最後が、そっくり
 なのである。

  聖徳太子の皇子である「山背大兄王」は架空の人物であるとしたが、そ
 のモデルはおそらく「倉山田麻呂」であったと推察するに、充分な記述と
 なっている。

  『日本書紀』編纂者は、「倉山田麻呂」を「山背大兄王」として転生さ
 せ、「蘇我入鹿」に殺させることによって、「乙巳の変」の大義名分を造
 り、さらには「中大兄皇子」の非道をも、カムフラージュさせたのだとし
 たら、これは考えすぎであろうか。


  聖徳太子─────聖者・山背大兄王(太子の子)
    ‖(同一人物)
  蘇我入鹿─────聖者・倉山田麻呂(入鹿の叔父)


  この相関図から想像すれば、やはり「山背大兄王」は聖徳太子の子では
 ないことになり、


 
 「後の人、父の聖王と相い濫るといふは、非ず」


  という『上宮聖徳法王帝説』の一文に結びつく。

  もっとも、これ以上の証明はできようもなく、このような考え方もでき
 る程度であるにすぎないので、ここでは「倉山田麻呂」もまた聖者だった
 ということに留めておきたい。

  さて『日本書紀』によれば、孝徳即位年は皇極四年であり、これを改め
 大化元年(645)としたとある。

  ところが孝徳の即位年は、大化元年ではないとする文献が存在している。

  それが『新唐書・東夷伝・日本』である。その部分を抜粋すると次のよ
 うになる。


 
 「永徽初其王孝徳即位改元曰白雉・・・」


  永徽初とは永徽元年(唐の第三代高宗年号、650〜655)のことで
 あろうから、それは650年である。
  これを信じれば、この年に孝徳が即位し、元号を白雉と改めたというの
 だから、大化元年である645年からの五年間を、どう説明すればいいの
 だろうか。

  まず『新唐書』では孝徳という名乗りを記載しているので、この原資料
 は、746年以降のものであることは疑いがない。(漢風天皇名は、弘文
 天皇の曾孫・淡海の真人・三船が、淳仁天皇の命令によって、746年に
 つけたものだということになっている。)

  「唐」が採用した資料であるからには、それが正史であったことは間違
 いなく、八世紀には『日本書紀』以外に、このように記録された正史が存
 在したということだ。日本から遣唐使等により献上されたものであろう。

  さらに『日本書紀』には『孝徳紀』に限り登場する天皇の独特表現とし
 て、「現為明神御八嶋国天皇」がある。(『続日本紀』にはよく見られる
 表現ではある)
  このことは、第九部でも少し触れたが、このように表現されている天皇
 は『孝徳紀』以外に例がなく、例えば、他の本文中に見られる天皇の表現
 は、単に天皇である。

  この時代は、皇極朝・孝徳朝の二朝併立状態であったことは、以前にも
 述べておいたが、「現神明神御八嶋国天皇」は、そのどちらの天皇でもな
 い。

  仮に「現為神明神御八嶋国天皇」を皇極と比定すれば、大化元年から大 
 化五年までの『孝徳紀』は『孝徳紀』である必要はなく、『皇極紀』の延
 長としておき、白雉元年から『孝徳紀』として編集するはずだ。
  しかも、この天皇は臣下が伝える詔の中にしか登場せず、この天皇自ら
 発した言葉は見あたらないのである。

  早い話が姿を現さず、その実体はよく判らないのだ。

  なぜこのような特定できない天皇名を、記載しなけらばならなかったの
 だろうか。

  それは『日本書紀』編纂者にとって、特定されては甚だ都合が悪いから
 にすぎず、この時代に実際に君臨していた大王を、秘密にしておきたかっ
 たからであると推察する。

  またおもしろいことに、『孝徳紀』にて「現為明神御八嶋国天皇」の名
 が見られるのは、大化元年から、「倉山田麻呂」の亡くなった直後まで、
 つまり白雉と改号する寸前までなのである。

  これ以上の説明は必要ないと思うので結論を急ぐが、大化年に大王とし
 て立っていた人物とは、ずばり「倉山田麻呂」である。そしてもう一人、
 左大臣「阿倍内麻呂」(あべのうちまろ)も含まれるかも知れない。
  彼もまた、白雉と改号する前に亡くなっており、それが「倉山田麻呂」
 の死からわずか七日前のことなのである。

  「現為神明神御八嶋国天皇」とは「倉山田麻呂」のことか、「倉山田麻
 呂」と「阿部内麻呂」とを、合作して造作した人物ではないだろうか。

  孝徳天皇の即位が白雉元年とすれば、そう考えざるを得ないばかりか、
 「倉山田麻呂」もまた「入鹿」同様に、真の人物像を抹殺されてしまった
 のだと思う。

  大化元年からの五年間は孝徳の即位前であるので、『日本書紀』に記さ 
 れている事績は「倉山田麻呂」のものとなる。
  従って「倉山田麻呂」はその五年間に満たない間に、改新の詔をはじめ
 とする数々の制度改革をやってのけていることになる。


  「東国国司の発遣」
  「鐘と匱(ひつ)の設置」
  「男女の法」
  「厚葬と旧俗の廃止」
  「品部の廃止」
  「新冠位の制定」


  などであるが、一言で言えば『易経』にある


  
「上は損をしても下の利を益するように努め、制度を守り、財を傷つけ
 民を損なわないように」


  の実践であろう。これは『孝徳紀』に引用されている言葉でもあるが、
 まさに「聖徳太子」の意志を継いだ、制度改革と言えると思う。

  左右両大臣は、新冠位を制定しながらも古冠を用いたとあるが、このと
 きの両大臣は、冠位を受ける側ではなく授ける側であったから、新冠位な
 ど無用だったと考えることができる。

  そして、大化改新の詔とは、箇条書きにすると以下の通りである。


 
 「第一条、部民及び屯倉・田荘を廃止して公地・公民の制をはじめるこ
 と」
  「第二条、京および地方の行政組織と交通・軍事の制を整えること」
  「第三条、戸籍・計帳・班田収受の法を立てること」
  「第四条、古い税制をやめて田の調以下の新しい税制を行うこと」


  このような制を定めたのであるが、この文章自体は「浄御原令」や「大
 宝令」の条文を参考にして文章を飾り、形式を整えたのではないかという
 のが通説であり、確かにそうであろう。
  しかし、この改新の詔の内容をかなり割り引いて考えたとしても、従来
 の制度からすれば、大改革であったに違いないのである。

  この中央集権国家のさきがけのような大化改新により、各地の豪族・部
 民・昔の天皇の皇子等の私有地が廃止された。当然、百済政権側について
 いた豪族等も例外ではなかったはずである。これにより、百済政権は財源
 の目途を絶たれてしまったことであろう。

  多武峯で籠城を決め込んだ百済政権の常套手段は、要人を一人ずつ消し
 ていくというゲリラ戦であった。正攻法では勝ち目がないからである。
  ところが大化の大改革は、要人を暗殺するくらいでは政変が起こり得な
 かったのではないだろうか。

  従来の制度改革は、ある地位以上の者を対象にしていたように思う。そ
 の配下の者や一般人民・農民等は、間接的には影響があったかもしれない
 が、実生活に大きな変化はなかったと思う。
  ところが改新の詔、「公地・公民の制」・「班田の収受」は農民に自由 
 な耕作を実現する法である。
  改新政府は、このような下位層の支持を得られたのだと思う。

  過去には倭国を占拠し、政権与党の立場にあった百済政権も、多武峯の
 岡本宮で細々と生き長えるしかなかったことであろう。

  ところが彼らは命運つきるどころか、白雉元年と元号を改めた孝徳の新
 政権に参加しているのである。



   
3.難波長柄豊崎宮


  白雉四年、「中大兄皇子」は奏上して、


  
「倭の京に遷りたいと思います」


  と言い残し、皇極・間人皇后(はしひとのきさき)・大海人皇子等 を率
 いて、飛鳥河辺行宮に遷ってしまったという。

  つまり、飛鳥に遷る前までのある時期、孝徳政権下と同化していたと考
 えられる。

  「乙巳の変」から白雉元年に到る間に、両朝にどのような変化があった
 かは知る由もないのだが、何か約束事が成立していたのではないか。

  そこは外交上手だと想像する「倉山田麻呂」のことだ。おそらく両朝合
 併の約束を、成立させていたことだと思う。

  教科書が認める歴史的事実に、後醍醐南朝と鎌倉幕府の光厳北朝の南北
 朝時代がある。
  詳しい記述はさけるが、約六十年に渡った南北朝併立状態は、北朝第六
 代、後小松天皇即位の十年後に両朝合併により、後小松天皇は引き続き統
 一天皇となり、南朝後亀山天皇は譲国、太上天皇となることで終結した。

  これを「御合体」と呼んだ。

  このときの和睦の条件は、今後の皇位は南朝・北朝両朝による迭立とす
 ることである。(実際には守られることはなかったのだが。)

  時代背景こそ違うが、「倉山田麻呂」の提唱した条件も、同じようなも
 のであったろうと推測する。
  両朝が納得いく合理的な合併の条件を考えれば、これ以外は無いのでは
 ないのだろうか。
  ゲリラ戦でしか抵抗できないような、有名無実の多武峯の百済政権とし
 ては、異存があろうはずが無く、条約はスムースに締結されたことであろ
 う。

  そして、統一新政権の頂点として、孝徳即位の運びとなったのであり、
 その翌年、難波長柄豊崎宮に遷都し元号を白雉としたのである。

  「倉山田麻呂」が行ったどんでん返しの秘策とは、まさにこのことであ
 る。

  孝徳は倭国政権からでた天皇であると思う。皇后は舒明の娘で「間人皇
 女」であるので、百済政権から出されたことになる。過去の例に倣って、
 外戚が政治を司るものであるとしたら、実権は百済政権が握ったのではな
 いか。

  であるからこそ、「中大兄皇子」は孝徳の許可無しに、飛鳥河辺行宮に
 遷都できたのではないか。
  結局、統一王朝は約三年間で袂を分かち、再び二朝時代になるのである
 が、事の裏に朝鮮半島政策が問題になっていることは言うまでもない。

  さて、このようなストーリーを組み立てることができたのは、おおよそ
 『新唐書』が暴露した記述を基に、『孝徳紀』の矛盾を修正して推理した
 結果なのであるが、孝徳即位の説話だけ取ってみても、とても納得できる
 内容になっていない。


 
 「中大兄は退出して中臣鎌子に相談された。中臣鎌子連は意見をのべて、
 『古人大兄は殿下の兄上です。軽皇子(孝徳天皇)は殿下の叔父上です。
 古人大兄がおいでになる今、殿下が皇位を継がれたら、人の弟として兄に
 従うという道にそむくでしょう。しばらく叔父上を立てられて、人々の望
 みに叶うなら良いではありませんか』といった。中大兄は深くその意見を
 ほめられて、ひそかに天皇に奏上された。」


  殿下とは「中大兄皇子」のことである。つまり兄の「古人大兄皇子」の
 手前、「中大兄皇子」が即位するのは人の道に背くから、一旦叔父の「軽
 皇子」を天皇に立てようということであるのだが、なぜ「軽皇子」を即位
 させることが、人々の望みに叶うことなのであろうか。
  そうであるならば、「古人大兄皇子」が即位することこそ、人の弟とし
 て兄に従うという道ではないか。

  ところがそんな兄である「古人大兄皇子」は、即位を拒み出家して吉野
 山に入ってしまったから、それは無理であると『日本書紀』は云う。
  そのうえで、謀反の容疑を掛け殺してしまうのである。

  つまり「古人大兄皇子」は、「中大兄皇子」が即位しなかった理由と、
 「軽皇子」が即位した理由のためだけに存在させられていた、『日本書紀』
 の造作ではないかと思われる。

  『日本書紀』は「古人大兄皇子」のことを、


  
「−ある本によると古人太子といい、ある本では古人大兄という。吉野
 山に入ったので、ある時は吉野太子ともいった。」


  と記述している。

  そのように呼ばれた皇子であるらしい。そして彼は吉野で殺されている
 という。

  ところが、吉野に彼を祀る神社は一つもなく、伝説すら残っていないの
 はどういうわけだろうか。

  吉野伝説・伝承は、天武天皇のものばかりなのである。

  『孝徳紀』に限ったことではないが、装飾された記述など歴史とは言え
 ないだろう。そこには復元という作業が必要不可欠なのである。

  「入鹿」暗殺という悲劇を、「倉山田麻呂」の手腕により乗り切った倭
 国政権は、これ以上の惨劇をくり返さないためにも、多武峯・百済政権と
 平和的な解決の道を選んだのであろう。
  制度改革についても百済政権に使者を送り、意見を求めていたように考
 えられる。そのときの内容を奏上したようすが、例の問題の言葉となって
 いるものと思われる。


 
 「『昔在の天皇等の世には、天下を混し斉めて治めたまふ。今に及びて
 は分れ離れて業を失ふ。(國の業を謂ふ)天皇、我が皇、万民を牧ふべき
 運にあたりて、天も人もこたへてその政惟新なり。是の故に、慶び尊びて、
 頂に載きて、伏奏す。現為神明神御八嶋国天皇、臣に問ひて曰く、『其の
 群の臣、連、及び伴造、国造の所有る、昔在の天皇の日に置ける子代入部、
 皇子等の私に有てる御名入部、皇祖大兄の御名入部(彦人大兄を謂ふ)及
 び其の屯倉、猶古代の如くにして、岡むや不や』とのたまふ。臣、即ち恭
 みて詔する所を承りて、奉答而曰さく『天に雙つの日無し。国に二の王無
 し。是の故に、天下を兼ね并せて、万民を使ひたまふべきたころは、唯天
 皇ならくのみ。別に入部及び所封る民を以て、仕丁に簡び充てむこと、前
 の處分に従はむ。自餘以外は、私に駈役はむこと恐る。故、入部五百二十
 四口、屯倉百八十一所を獻る』とまうす』とのたまふ」


  この言葉は、倭国政権の打診した制度改革を、やんわりと否定している
 ものになっている。

  百済政権からすれば、私財に関わるこの制度改革など、とても納得でき
 る内容ではなかったはずである。再びゲリラ戦を展開していくかに見えた
 のだが、「倉山田麻呂」の提唱した「御合体」により、統一王朝が実現し
 孝徳即位となるのである。
  多武峯・百済政権の皇極天皇は、『日本書紀』がいう皇極上皇となる。
 すなわち「中大兄皇子」の言葉にみえる「我が皇」である。

  大化五年二月、七色一三階の新冠位制をさらに冠位一九階に改めている
 が、これなどは百済政権側の重臣らを、思い計ってのことであろうと推測
 する。

  同年三月十七日、阿部左大臣が薨去した。あるいは殺されたのかも知れ
 ない。なぜなら、その後十日を経ずして「倉山田麻呂」が、その後を追う
 ことになるからである。
  
  それは「倉山田麻呂」の弟・「日向」の讒言によるものである。

  通説では、平生かつ慎重である「中大兄皇子」が、軽々しく「日向」の
 言葉を信じ、「倉山田麻呂」を謀反人扱いにし、自殺に追い込んでいるこ
 とは、不思議であるとするが、「御合体」後、政治の中枢に与したであろ
 う「中大兄皇子」は、常に政敵であった「倉山田麻呂」の存在が邪魔だっ
 たからにほかならず、先に紹介したとおり結末の非道ぶりから、充分推測
 できるというものだ。

  「倉山田麻呂」さえいなくなれば、政治は「中大兄皇子」の思いのまま
 になる。そうなれば孝徳など傀儡と同じである。

  従って、この事件も「乙巳の変」同様、用意周到に準備されたうえ決行
 された事変だったものと推察する。

  ところで『孝徳紀』には、「中臣鎌子」が大錦の冠位を賜ったとある。
 さらには、紫冠をも授かっている。
  それ以外「鎌子」は姿を見せていないが、ここでは触れないが、紫冠と
 は大変重要な意味を持つ。

  「倉山田麻呂」の最後の描写は、聖人君子そのものである。まさに「聖
 徳太子」の後継者として相応しいと言えると思う。
  案外、「御合体」を提唱したときから、自身の結末を予期していたので
 はないだろうか。

  その翌年、元号を白雉と改めさらに翌年「難波長柄豊崎宮」に遷都し、
 孝徳天皇・皇極上皇・「中大兄皇太子」の統一新政府が発足する。形的に
 は、推古・「馬子」・「聖徳太子」時代と同じである。
  最高地位は天皇であるが、『日本書紀』は皇極上皇と記すことで、皇極
 が孝徳より上であることを読者に意識づけようとしている。

  「難波長柄豊崎宮」は、大化元年十二月に都を難波長柄豊崎に遷してか
 ら、足かけ6年に渡る大工事のすえ完成したものであるらしい。

  またその後も造営され、白雉三年九月に終了する。


  
「其の宮殿の状、殫く論ずべからず」


  と『日本書紀』は記しているので、改新政府の先駆者である「倉山田麻
 呂」の偉業のほどが伺い知れるというものだ。



   
4.皇極天皇と高向王


  結果的に一時ではあったものの、統一政権として動き出した百済・倭国
 両政権であった。
  これは、この合意後まもなく死に追いやられた「倉山田麻呂」の悲願で
 あったと思われる。

  『日本書紀』によれば、舒明・皇極(斉明)・天智天皇の宮は、異常な
 ほどよく燃えている。これなどは両政権による武力抗争の証である、と推
 察しているのだが、同時代である『孝徳紀』には火災の記録はない。
  それもそのはずで、この期間だけは「倉山田麻呂」が和平交渉に尽力を
 費やしていたからである。ここに「倉山田麻呂」の底知れぬ意欲を感じな
 いわけにはいかない。

  「倉山田麻呂」が、聖者・「聖徳太子」=「蘇我入鹿」の時代さえ、武
 力衝突していた両政権を、自らを犠牲にしてまでも平和的解決に終始した
 理由を、どこに見いだせばいいのだろうか。

  これらの解明の鍵を握る人物は皇極であると思われる。というよりむし
 ろ、皇極の人生の軌跡にある。

  通説による皇極は天智・天武の母であり、舒明天皇の皇后である。また、
 一度は孝徳に譲位するが、孝徳亡き後重祚(斉明天皇)している。
 
  舒明の皇后であったが故、時期天皇として即位するのであるが、それ以
 前に、「高向王」(たかむくのおおきみ)に嫁いでいたという。


  「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみ
 こと)は、初め用明天皇の孫高向王に嫁して、漢皇子を生まれた。」


  これは『斉明紀』の冒頭に記載されていることである。

  「高向王」は皇統と無関係であると言われているが、『紹運録』には、
 「高向皇子」と記録されているらしい。

  「皇子」とは天皇の子であるので、これを信じれば「高向王」は用明天
 皇の孫などではなく、用明の子であることになる。

  皇極の2度目の婚姻相手となったのが舒明であるが、舒明が天皇の子で
 あろう「高向王」との間に過去のある女性を、婚姻相手に選んだ理由はど
 こにあるのだろうか。

  『日本書紀』に従えば、皇極は敏達天皇の曾孫で、「押坂彦人大兄皇子」
 の孫であり「茅淳王」の娘である。また母は「吉備姫王」である。
  これでは皇族として、とても血が濃いとは言えないだろう。舒明が政治
 的利益から彼女を選んだとは、私には到底考えられない。
  それでも強いて考えるとしたら、敏達は「倭国」における初代百済政権
 であるので、「百済」の血を濃くすると言う理由にはなるかも知れない。
  しかし、これにしても他に該当者がいなかったわけではなかろう。

  「高向王」はその名から、「高向史玄理」(たかむこのふびとげんり)
 との関係を指摘する史家も多いが、「高向王」が用明の皇子であるとする
 ならば、「高向王」は蘇我系色の濃い皇子であることになる。
  なぜなら、用明の母は「蘇我稲目」の娘であるからだ。

  もっとも、用明は「聖徳太子」を登場させるために、造作された天皇で
 あると考えているのでだが。

  皇極については、『善光寺縁起』が次のような記録を残している。


  「『大日本国主皇極天皇』は『驕慢嫉妬意深』く崩御後、疑獄に墜ち、
 『閻魔法王召左右冥官』、『被検皇極所犯業因』とある。結果、「此女人
 罪深重者也』と論告され、『速可墜所当地獄』と判決されている。この判
 決に対して観世音菩薩も『自業自得、果道理難遁』と見放しているのであ
 る。(『新説日本古代史』文芸社、西野凡夫著1999年8月15日発行
 より)」


  「善光寺」とは、牛にひかれて〜で有名な、あの長野県長野市の「善光
 寺」である。
  つまり皇極は崩御後地獄に堕ち、閻魔法王が生前の所業を検分させたと
 ころ、その罪深きことから地獄墜ちも当然であり、観世音菩薩さえ自業自
 得と見放したといった具合であろうか。

  これに「高向王」が蘇我系であったとことを考え合わせると、皇極は、
  「高向王」と「漢皇子」を捨て、舒明天皇のもとに走ったのではないか
 と考えられるのである。
  そして、「高向王」と「漢皇子」について、その後一切語られていない
 ところをみると、殺されてしまった可能性もあるのだ。

  舒明は倭国政権の切り崩しを謀るため、「高向王」から皇極を引き離す
 策をこうじたものと思われる。
  皇極は百済政権色の濃い人物であるので、その辺りから説得されたのか
 も知れないが、その結果が皇后のポストであったとすれば、相当な甘い汁
 が用意されていたことは充分考えられる。
  ついでに言えば、「高向王」は倭国政権にとっての第一級の重要人物で
 あったことも推理できよう。

  ただそれでもなお、地獄に堕ちたことが自業自得であった理由にしては
 弱いように思う。
  このような伝説が残っているということは、その当時誰もが地獄堕ちも
 当然という事件が、起こっていたはずなのである。

  『日本書紀』の斉明元年五月の条には、


  
「空中にして龍に乗れる者有り。貌唐人に似たり。青き油の笠を着て、
 葛城嶺より、馳せて生駒山に隠れぬ。牛の時に及至りて、住吉の松嶺の上
 より、西に向ひて馳せ云ぬ。」


  とある。文字通り読んでしまえば、古代日本に出現したUFOと宇宙人
 のようであるが、『扶桑略記』は、この宇宙人の正体を記している。

  斉明元年の条


 
 「空中に竜に乗れる者あり。貌は唐人に似て、青油笠を着て、葛城嶺よ
 り、馳りて生駒山に隠る。牛時に至るに及び、住吉の松の上より西を向い
 て馳り去る。時の人言ふ。蘇我豊浦大臣の霊なり、と」

     ・・・・・・
  本当に未知との遭遇があったのかどうかは、証明する手だてもないが、
 出現したのは「蘇我豊浦大臣」の霊であったと噂されたという。
  「蘇我豊浦大臣」は「蘇我蝦夷」であることが通説だが、すでに「蘇我
 入鹿」であることは証明済みである。
  斉明(皇極)天皇には、「蘇我入鹿」の霊がまとわりついていたという
 ことであり、どうやらこの霊は怨霊であったらしい。

  『扶桑略記』の斉明七年夏には、


 
 「群臣卒尓多く死ぬ。時の人云ふ、豊浦大臣の霊魂のなす所なり」


  ともある。

  私は斉明七年の事件には別の可能性も考えているが、この時代の人々が、
 なんでもかんでも「入鹿」の怨霊と結びつけて、考えたくなってしまう心
 境にあったことは、疑いのないところである。

  『日本書紀』は皇極と「乙巳の変」との関わりを、やんわりと否定して
 いるが、実は大いに関わっていたのではないだろうか。
  と言うよりも、むしろ事変の首謀者であり、「中大兄皇子」と「中臣鎌
 子」を利用して、聖者殺しを実行したと考えたほうがすっきりする。
         ・・
  ちなみに私は、この「中大兄皇子」が皇極の実子であるとは思っていな
 いし、「乙巳の変」の時の「中大兄皇子」の年齢(19歳)は、策謀を巡
 らすには若すぎるように思えてならない。

  「中大兄皇子」は斉明(皇極)天皇の葬儀の後、次のような歌を詠んで
 いる。


  「君が目の 戀しきからに 泊てて居て 乙酉に かくや戀ひむも君
 が目を欲り」
  (ただあなたの目の恋しいばかりにここに舟泊まりしていて、これほど
 恋しさに耐えないのも、あなたの目を一目見たいばかりなのです)


  仮に首謀者であったにせよ、この歌からは明らかに男女の恋愛感情を感
 じさせる。まあ過去には無いとも言えないが、『日本書紀』の記述を信じ
 れば、異常な感情としか思えない。親子と考えること自体無理があろう。
  『日本書紀』は「中大兄皇子」でさえ真の人物像を、隠しているのであ
 ろう。

  『善光寺縁起』は皇極天皇が、『驕慢嫉妬意深』であったと伝えている。
 「驕慢」とは、


  
「おごりたかぶって相手をあなどり、勝手気ままにふるまう・こと。」


  であり、さらに嫉妬深いときている。夫であった舒明すら殺し頂点に上
 り詰めたのかも知れない、と勘ぐってしまいたくなる。

  「高向王」に「蘇我入鹿」を当てる史家も複数いる。

  ところが、この図式を確かであるとして私見を重ね合わせると、


 
 「高向王」=「蘇我入鹿」=「聖徳太子」


  となり、「高向王」が皇極の初婚の相手であることから、年齢が釣り合
 わないのである。
  もっとも『日本書紀』はあらゆる箇所で造作があり、年齢など当てにな
 るはずもないので、この説を『日本書紀』の記述から疑うことは、愚問で
 あろう。

  実は「倉山田麻呂」こそ「高向王」だったと考えているのだが、いかが
 なものであろうか。
  「倉山田麻呂」は「入鹿」の叔父であるという。ということは「馬子」
 の弟か妹の夫にあたる。「蘇我氏」の母方の系列がまったく不明であるこ
 ともあり断定はできないが、『家伝』のなかで「入鹿」は「太郎」とも呼
 ばれているので長男であろう。大家族であれば長男よりも若い叔父の可能
 性も、考えられるのではないだろうか。

  多武峯・百済政権との関係でさえ、かつて愛した妻が頂点に居り、そし
 てその後も愛していたとすれば、武力抗争を避けとにかく平和的な解決を
 目指した、「倉山田麻呂」の態度も納得できてしまうのである。

  皇極は、夫と我が子を犠牲にして舒明天皇のもとに走り、その後、飛鳥
 の聖者を暗殺し、かつての夫である「倉山田麻呂」まで自殺に追い込んだ
 ことになるのだから、地獄に堕ち無ければ救われないと民衆が噂したとし
 ても、当然のことではなかろうか。

  もちろん民衆のことであろうから、日々を貧困に苦しんでいる生活格差
 を思慮にいれ、妬み恨みを差し引いた上での皇室スキャンダルと考えなけ
 ればならないのであるが、観世音菩薩をして自業自得と言わしめた、地獄
 墜ちとして現在まで伝承されているのだから、これが仁慈を逸脱した悪行
 であったと考えることができよう。



   
5.皇太子倭京に遷す


 
 「この年、太子は奉上して、『倭の京に遷りたいと思います』といわれ
 た。」


  先に紹介した白雉四年の記録である。孝徳は許さなかったが、「中大兄
 皇子」は皆を引き連れ、飛鳥河辺行宮に遷ってしまったという。
  「倉山田麻呂」が命を懸けて実現せしめた統一政権であったが、このと
 きから再び袂を分かつことになる。

  統一政権実現のためにだけ担ぎ出された、実力無き孝徳を証明する記述
 でもあるのだが、「中大兄皇子」が事実皇太子であったとすれば、時期統
 一天皇であり、もっと言えば連邦の皇帝であるのだから、この行動は異常
 であると言えよう。

  しかし、このころの倭国は東アジア情勢に、完全に取り込まれていたと
 考えれば、異常な行動の裏に真実がみえてくる。

  大化三年(647)の条として、


  
「新羅が上臣大阿食(実際には『冫』に『食』と書きます)金春秋らを
 遣わして、博士小徳高向黒麻呂、小山中中臣連押熊を送り、孔雀一羽・鸚
 鵡一羽を献上した。春秋は人質として留まった。春秋は容色美しく快活に
 談笑した。」


  「金春秋」(こんしゅんじゅう)は654年に即位した新羅国王・「武
 烈王」である。もちろん人質の記事は『日本書紀』の捏造であろうが、彼
  来訪した理由はどこにあるのだろうか。

  「金春秋」は、648年に新羅使として「唐」を訪れているが、この年
 ヤマト政権も遣唐使を送っている。

  『旧唐書』倭国日本伝には、貞観二十二年(648)の記録として、


 
 「二十二年に至り、また新羅の使に託して表を奉じその起居を通じた。」


  とある。興味深いことに、遣唐使が新羅使に帯同しているのである。

  ところが、『日本書紀』はこのときの遣使について一切語っていないと
 ころから、このときの新羅使が「金春秋」であったものと思われる。 
  後に人質と記述しておいて、実際には新羅使として帯同していては、い
 くらなんでもまずかろう。従ってこのときの遣使記録は、『日本書紀』編
 纂時に意図的に削除されたのである。

  大化三年のヤマト政権と言えば統一政権前であるから、「倉山田麻呂」
 執政の蘇我系倭国政権である。遣使も彼らの主導のもと行われたものと推
 察する。

  さて「百済」と「新羅」が、互いに敵対視していたことはよく知られて
 いるが、同じように隣国同士である「唐」と「突厥」が、同じように犬猿
 の仲だったのであり、この二組の敵国どおしに「高句麗」が挟まれる形で、
 それぞれ抗争を続けていた。

  641年、「百済」の「美慈王」が即位するが、これを境に「百済」と
 「新羅」の関係は極度に悪化していったらしい。
  各国が牽制しあう最中、真っ先に動いたのは「百済」だった。「百済」
 は「高句麗」の南下政策に対抗する手段として、「唐」に「高句麗」遠征
 を願い出た。しかし、内政の充実に手一杯だった「唐」は、半島情勢の調
 停という方法しか採れなかったのである。

  もちろん「新羅」が手放しで見ていたわけでない。それどころか、極端
 な親唐政策を前面に打ち出すことにより、「唐」を味方につけたのである。
  すなわち礼制から年号・制服に至るまで、完全に唐風に一変させたので
 ある。また自ら人質を差し出すことさえ提言したのだという。

  これが「金春秋」の入唐の直後のことであるのだから、「金春秋」が来
 訪し、遣唐使を帯同し入唐した最大の理由は、「百済」・「高句麗」攻撃
 の援軍の要請としか考えられない。

  おそらく倭国政権は、多武峯・百済政権との和平交渉に必死であり、朝
 鮮半島問題に首を突っ込むどころの騒ぎではなかったのだろう。「金春秋」
 に対して明確な回答をすることができなかったのだと思う。それが、遣唐
 使に帯同した「金春秋」の記述になっているのではないか。
  少なくとも、倭国政権は「新羅」の敵国にはならないことを証明して、
 さらに「唐」への恭順を示そうとしたのであろう。

  しかしこのような曖昧な態度で、ことを先送りして事態の収拾ができる
 はずもない。
  白雉四年(653)の、遣唐使に対して「唐」はある命令書を与えた。


 
 「永徽初其王孝徳即位改元曰白雉・・・」


  上記は、孝徳天皇の即位が白雉元年だったことを裏付ける『新唐書・東
 夷伝・日本』の記述であったが、実はこの前後は次のように続いている。


  
「更附新羅使者上書、永徽初其王孝徳即位改元曰白雉、獻琥珀如斗、瑪
 瑙若五升器、時新羅為高麗百済所暴、高宗賜璽書、令出兵援新羅、未幾孝
 徳死」


  つまり「唐」の皇帝「高宗」は、「百済」・「高句麗」連合が「新羅」
 と激戦中であるから、「新羅」に向けて援軍を派遣せよ、という命令書を
 与えているのだ。

  『日本書紀』に記された遣使の記録は、白雉四年と白雉五年とにみられ
 るが、これをあえて白雉四年としたのは、五年の記録が『宋史』にみられ
 ないからである。

  『宋史』日本伝には、


 
 「白雉四年、律師道照、法を求めて中国に至り、三蔵の僧玄奘に従い経
 律論を受く。この土の唐の永徽四年に当たるなり。」


  とあり、次は「天豊財重日足姫天皇」と続いているのである。

  『日本書紀』は白雉五年の遣使の記録に続いて、「伊吉博徳」(いきの
 はかとこ)の書を引用している。


  
「──伊吉博徳が言うところによると、学問僧恵妙は唐で死に、知聡は
 海で死んだ。智国も海で死んだ。智宗は庚寅の年(持統四年)に新羅の船
 に乗って帰国した。覚勝は唐で死んだ。定恵は乙丑の年(天智四年)劉徳
 高らの船に乗って帰った。妙意・法勝、学生氷連老人・高黄金ら合わせて
 十二人、それに倭種の韓智興・趙元宝は今年、使人と共に帰国したと。」


  ところがこの内容は、白雉五年の遣使に何ら関係がない。かえって、白
 雉四年の遣使記録に続いてこそ、意味のある引用になっているのだ。
  ただし白雉五年の遣使も事実のようである。『旧唐書』の高宗本紀には
 次のように記されているという。


 
 「永徽五年(654)十二月癸丑、倭国、琥珀、瑪瑙を獻ず」


  従って、白雉五年に遣使した事実はあるものの、『日本書紀』に記され
 た記録の内容は、「新羅」を経由して入唐しているので、本来この記録は
 『旧唐書』貞観二十二年の遣使の記録だったものと思われる。

  さらに『新唐書』では、白雉元年に孝徳が即位したというのだから、孝
 徳に触れている記録は、白雉元年以前の伝聞によるものではあり得ない。
  従って白雉四年の遣使の際に、与えられたものであることに間違いない
 ものと思われる。

  そしてこの時代は統一政権となっている。統一政権下での遣使であるこ
 とから、遣唐使には多武峯・百済政権側、倭国政権側から不公平にならな
 いように、おのおの選ばれたものと推察する。

  この白雉四年の遣唐使について、『日本書紀』の記録は興味深いものが
 ある。
  遣唐使は第一船121名、第二船120名に分かれて出航したが、第二
 船は薩摩の曲と竹島の間で船が衝突し沈没し、五人を除いて全員死んだと
 いうのだ。

  また引用されている「伊吉博徳」の書に記された人数は、使人を含めた
 としても21人にしかならなず、第一船の100人はどこに行ってしまっ
 たのか。
  さらに『宋史』日本伝では、「道照」の名前以外みられないので、実際
 に入唐できたのは、かなり少数であったものと思われる。

  乗船人員が、おのおの約120名なので、百済系・蘇我系が二隻に分か
 れて出航したのであろう。そして、一隻は沈没しもう一隻は八割の人間が
 行方不明という事態である。
  何があったのかは知るよしもないが、学問僧「定恵」が入唐でき、彼が
 「中臣鎌子」の長子であるとされていることから、生き残り組は百済系と
 考えたくなってしまう。

  ところが、沈没組の5人のうち「門部金」(かどべのかね)は、後に位
 を進め禄を賜っている。竹で筏を作って生き延びたことが、その名目であ
 るらしいが、生き延びたことが褒賞の理由とは、大盤振る舞いもいいとこ
 である。
  この時代は白雉時代があるのだが、昇進したのは「後に」である。この
 褒賞は「後に」「中大兄皇子」により授けられたものと考えられるのだ。

  「門部金」らは、「中大兄皇子」より特命を帯びての乗船であったので
 はないか。船はいったい何に衝突したのであろうか。
  第二船の衝突した相手、それは第一船ではないのか。第二船は第一船に
 体当たりを食らわしたものと推察する。
  もちろんこの事件の裏には、両政権の朝鮮問題に対する思惑の違いが存
 在していることは間違いない。

  問題は「定恵」である。「定恵」は「唐」に留まっているので、彼は統
 一政権が差し出した人質であったと考えられる。
  彼の父「中臣鎌子」は、当然政権の中枢にいたはずなので、政権下での
 「鎌子」の立場を推理するときに、大変重要な問題になってくる。
  このことは別章に譲るとして先に進みたい。

  少し遡った大化五年(650)の条に、


  
「五月一日、小花下三輪君色夫・大山上掃部角麻呂らを新羅に遣わした。
 この年新羅王は沙喙部沙食金多遂を遣わして人質とした。従者は三十七人
 であった。──僧一人、侍郎二人、丞一人、達官郎一人、中客五人、才伎
 十人、通訳一人、雑仕十六人、計三十七人。」


  とある。

  「新羅」に遣わされた両名は、朝鮮問題に対する「倭国」の態度を、伝
 える趣旨だったものと推察するが、その後に来訪した「金多遂」(こんた
 すい)の目的は、もちろん人質などではない。

  おそらく倭国使人の態度や、携えていった書の内容が不透明であったの
 で、「金多遂」がその虚実を問いに来たのだろう。しかも三十七人という
 「大人質団」?を引き連れての威嚇である。

  ところでこのような玉虫色外交は、「日本」のお家芸なのであろうか。

  『旧唐書』には「日本」側の不穏な態度に、猜疑心をもっている記述が
 されている。これは以前にも掲載したし、今後も触れるであろう重要な一
 文である。


  
「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本となす。
 あるいはいう。倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。
 あるいはいう。日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する
 者、多く自ら矜大、実を以て答えず。故に中国焉れを疑う。」


  「金多遂」が訪れた時期とは、執政「倉山田麻呂」を自殺に追い込み、
 統一政権が発足する寸前の上を下への大騒ぎの頃である。

  この政局での「金多遂」は、本国と連絡を密にしながらも、成り行きを
 見守るしかなかったのではないか。
  いっそのこと新羅軍を上陸させれば一気に片が付いたであろう。しかし
 「百済」・「高句麗」相手に押され気味の状況下にあった「新羅」では、
 「倭国」への軍事的攻略は不可能であった

  「伊吉博徳」の書によれば、白雉四年の遣唐使節団にも使人が帯同して
 いるようであるし、『新唐書』もそう記している。この使人が「金多遂」
 であったものと思われる。
  「金多遂」の来訪からここまで三年を経過している。
  しかし三年を経過したところで、「金多遂」の望む政局は訪れなかった
 はずである。

  統一政権には、百済王子・「余豊璋」(よほうしょう)がいるのだ。彼
 は舒明天皇の三年春三月一日に来訪している。『日本書紀』の記述では人
 質であるが、それははありえないだろう。

  蛇足ながら、ある時期までの「中大兄皇子」こそ、「余豊璋」であった
 と考えている。

  ただ「余豊璋」が反対の意を表しているからといって、「金多遂」の要
 求をいつまでも先送りにしておくわけにはいかなかった。「金多遂」は百
 済系とか蘇我系とかではなく、あくまでも統一政権を相手にした支援要請
 なのであり、さらに「新羅」の背後には「唐」が控えている。

  最悪の事態は「唐」の参戦である。

  統一政権としては、「唐」に益々恭順を示そうとしたのだが、見かけは
 統一政権であったも、内部は既に分裂していたのである。
  『三国史記・百済本紀』は653年に「百済」と「倭国」が、国交を結
 んだとの記録してが、同年に遣唐使節団を送っているのだから、明らかな
 二重外交である。

  多武峯側の採った手段は、事故に見せかけ遣唐使もろとも葬ってしまい、
 遣使という事実だけを残して、未達成に終わりたかったのではないか。
  多武峯・百済と「百済」本国を守るためには、これしかなかったのであ
 ろうが、これとて単なる時間稼ぎにすぎなかった。

  遣唐使が学問僧ばかりなのは、政治色を払拭するためであると思う。た
 だ結局待っていたものは、「高宗」による「新羅」支援を強要であった。
  学問僧「定恵」と「覚勝」は人質として差し出され、「覚勝」は「唐」
 で死に、「定恵」は天智四年まで帰国することができなかった。
  
  「金多遂」は遣唐使とは別の新羅船に乗船していたのだろうと思う。敵
 国になるかもしれない中で、同船しているとは思えないし、身を守るため
 には当然そうするはずである。
 持統四年に「新羅」の船に乗って帰ってきたという「智宗」は、「金多遂」
 に伴われ「新羅」に入国し、人質として軟禁されていたのではないか。

  遣唐使のうち十二人は同年帰国を許されているが、帰国組は「唐」から
 の国書を携えていたはずである。

  その国書の内容は、朝鮮半島出兵の命令書であったと思われる。

  もはや検討段階ではなかった。命令書を無視すれば、「倭国」は「唐」
 の敵国になってしまうからである。
  このままでは「百済」攻略後の標的は「倭国」になろう。抗戦か支援か
 のどちらかを選ばなくてはならない。連日の会議が続いたことと思われる
 が、最終決定を下すのはもちろん孝徳天皇でなければならないはずだ。
  しかし、誰が決定を下したにせよ、その決定がどんな内容であったにせ
 よ、結果は同じものになっていた。

  すなわち統一政権の分裂である。

  「中大兄皇子」は統一政権を離脱し、一族を引き連れて倭京に遷ってし
 まったのである。

  白雉五年十月十日、孝徳天皇は難波宮正殿で崩御したと『日本書紀』は
 記している。
  統一政権の分裂が白雉四年の下期であろうから、天皇崩御までに約一年
 間あったことになる。

  ここで先の『新唐書』の記録を見てもらいたい。


  
「未幾孝徳死」


  問題にしたいのはこの部分である。

  『日本書紀』は孝徳の在位を十年としている。私見では白雉元年が即位
 年であるので在位五年であるが、『新唐書』は「唐」の高宗が出兵を命令
 したのち、幾何もなくして孝徳が崩御したとしているのである。

  幾何もなくと表現される期日に対して、一年間は長すぎるように思うの
 だ。
  孝徳はこの時、「中大兄皇子」等に殺されたのではないだろうか。

  『日本書紀』に記された白雉五年の遣唐使の記録も、事実ではあったが
 その内容は先に示した通り造作であり、孝徳在命中に大々的な「唐」外交
 があったことを記すことにより、孝徳暗殺の事実を抹消し、あくまでも自
 然死であったことを強調したのではないか。
  五年の遣使は、政権の分裂と「唐」への恭順を、倭国政権の意志として
 伝えることが目的であったと思う。


  
「五年春一月一日、夜、鼠が倭の都に向かって走った。紫冠を中臣鎌足
 連に授け、若干の増封をされた。」


  倭の都に走った鼠とは、百済政権に従った主要豪族のことであろうか。
 また「鎌子」から「鎌足」に、いつ改名したかは不明であるが、以前にも
 触れたが、紫以上に高貴な色を私は知らない。つまり紫冠とは最上級位で
 あるものと思われる。これがいったい何を意味するのかは、勘の良い皆様
 は、もうお気づきになられていることであろう。


                     2001年7月 第11部 了
                    2006年3月 改訂