真説日本古代史 エピソードの五


   
神・素戔嗚尊



 
  「八雲立つ 出雲八重垣妻籠に 八重垣作る その八重垣を」


  上記の和歌は、我が国最古の和歌といわれ、この歌から「八雲」は「出
 雲」を象徴する名詞とされているが、この歌は「素戔嗚尊」(スサノオ尊)
 によって詠まれた歌、とのことである。
  そこでスサノオ尊のことを、和歌の神様と表現する場合もある。

  『記紀』神話の中で、一番バイタリティーがあり魅力に溢れているキャ
 ラクターと言えば、スサノオ尊をおいて他にない。
  これは誰しも異存のないことであろう。

  『記紀』においては、「天照大神」(アマテラス大神)が善、スサノオ
 尊が悪という図式で描かれているが、その悪であるスサノオ尊のほうが、
 魅力的に映ってしまうのは、そこにこそ真実が隠されているからではない
 だろうか、と考えている。このような考えを持ったのは、『真説日本古代
 史』を執筆する以前からである。このことが前提にあり、熱田神宮の祭祀
 に疑問を持った結果が、『真説日本古代史』に繋がっている。

  多くの神話学者・歴史学者が、『記紀』神話に潜む暗号解読を試み、例
 えばアマテラス大神を「邪馬台国」の「卑弥呼」に比定したり、スサノオ
 尊の「八岐大蛇」退治を、たたら吹きによる鉄の精錬に比定したりと、な
 んとか合理的に解釈し説明している。
  その手法はすばらしく、たとえ私見とは異なった説であっても、それら
 先人達の成果の結晶が、今日の神代史解釈の基本路線となっているように
 思う。

  さてスサノオ尊の事績であるが、古代史ファンの読者の方々に、いまさ
 ら紹介するのも少々気が引けるが、『日本書紀』の本文からこれをご紹介
 させて頂きたい。それはおおよそ次のようになる。


 
 「伊弉諾尊(イザナギ尊)・伊弉冉尊(イザナミ尊)は、共に大八州国
 や山川草木を生んだ後、大日靈女貴(おおひるめむち)を生んだ。次に月
 の神を生んだ。次に蛭子を生んだ。次にスサノオ尊を生んだ。
  スサノオ尊は、勇ましく荒々しくて残忍なことも平気であった。常に泣
 きわめき、人々を若死させた。また青山を枯山にさせた。父母の二神は、
 そんな無道を行うスサノオ尊を、根の国に追いやった。


  『私はご命令に従って、根の国に参ります。その前に高天原に行って、
 姉にお目にかかり、お別れをしてきたいと思います。』


  このように言うスサノオ尊をイザナギ尊が許可し、スサノオ尊は高天原
 に昇っていった。アマテラス大神は、スサノオ尊が荒く良からぬことを聞
 いており、勇猛な振る舞いときびしい言葉で、スサノオ尊を激しく詰問し
 た。
  スサノオ尊は自らの潔白を証明するためアマテラス大神と誓約をし、ア
 マテラス大神は、スサノオ尊の十握の剣を三つに折り、三柱の女神を生ま
 れた。スサノオ尊はアマテラス大神の八坂瓊の曲玉から五柱の男神を生ん
 だ。
  この後のスサノオ尊は、とても言い様のないほどの仕業で、神田を破壊
 したり、田の中を荒らし回った。アマテラス大神が機殿に居るとき、馬の
 皮を剥いで投げ入れた。大変驚いたアマテラス大神は、機織の梭で身体を
 傷つけ、怒ったアマテラス大神は天の岩屋の磐戸を閉じて隠ってしまった。
  八十万の神々は協議して、天の岩屋の前で宴会を催し、天鈿女命(アメ
 ノウズメ命)の裸踊り同然の神楽に誘われて、アマテラス大神が磐戸を少
 し開けたところを、手を取って引き出された。
  スサノオ尊は、罪をきせられ罰を負わされた。そして罪をあがなわれた
 後、高天原を追放された。
  出雲の簸の川のほとりに降りたスサノオ尊は、八岐大蛇の生け贄になる
 寸前の奇稲田姫(クシイナダ姫)を策を用いて大蛇の魔の手から助けた。
  八岐大蛇の尾を割いてみると、そこに草薙剣があった。スサノオ尊は、
 これを天つ神に献上すると、出雲の須賀の地でクシイナダ姫と結ばれ、大
 己貴命(オオナムチ命)を生まれた。
  そしてスサノオ尊は根の国行った。」



  このようにスサノオ尊の悪のイメージは、アマテラス大神に対した仕業
 によったものだが、こうしてみると『日本書紀』本文の記述は、意外と短
 いことに気づかされる。

  確かに簡単に記したが、決して大きく省略はしていない。

  他にも、「新羅」に降臨したこと、御子「五十猛命」(イタケル命)ら
 が「筑紫」から始め大八州に樹の種を蒔いたこと、などよく知られている
 事柄は、実は本文中ではなく『一書』であったことに驚かされる。

  私は、これまでに神社伝承学などから検証し、スサノオ尊を古代に生き
 た一人の人間として記してきた。
  私見と神社伝承学から導き出された説とは、完全な一致をみないのだが、
 これを逆に強みと思っている。というのは、神社の由緒・縁起から導き出
 されるストーリー、いわゆる神社伝承学では、良くも悪くも神社の成立起
 源が(これが由緒・縁起)誰の目にも明確であり、異なるストーリーにな
 らはない。
  これが正真正銘絶対無二なら、この歴史ストーリーは史実そのものであ
 り、他説の入り込む余地は全然ないのだが、神社伝承のなかには、例えば
 『先代旧事本紀大成経』など偽書(個人的は偽書に当たる部分もある、と
 解釈している)から、由緒・縁起を作ったケースもあり、単に神社伝承だ
 けでなく、それにプラスα・マイナスβをしないと史実から離れたものに
 なってしまう。

  私見によるスサノオ尊は、『後漢書』にある


 
 「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見」


  の倭国王「帥升」(すいしょう)のことである。

  安帝永初元年とは107年のことなのだが、それより50年前の建武中
 元二年にも、「倭奴国」が朝貢している。
  「倭奴国」から「倭国」への変化は、九州の地方国家であった「奴国」
 が、当時の「倭」と呼ばれる土地にあった国々を統一した、と解釈してい
 る。もちろん「奴国」も「倭」にあった。
  「奴国」は「倭」の盟主国で、その国名が現代まで都の名として残って
 いる。「奴国」をなんと発音するか、と問われれば、“ナラ”である。
  「国」は“ラ・マ・ヤ・ナ”のいずれかと発音する。韓語で“ナラ”は、
 そのまま「国」のことである。

  ちなみに『魏志倭人伝』の「邪馬台(国)」は首都の意味で、こちらは
 ずばり「大和」として伝わっている。

  スサノオ尊の統一倭国を経た後、『魏志倭人伝』にある倭国大乱となる
 のだが、これは、スサノオ尊の死が原因であると考えている。

  つまりスサノオ尊は、まさに建国の始祖であったのだ。

  ただし、人間・スサノオ尊が崇め奉られ、神・スサノオ尊となったのか、
 すでに神・スサノオ尊(またはスサノオと同格神)が伝説としてあり、そ
 こに、神の再来として人間・スサノオ尊が同一視されるようになったのか
 は、不明である。

  スサノオ尊は、『日本書紀』では「素戔嗚尊」、『古事記』では「須佐
 之男命」、『出雲国風土記』では「須佐能袁命」と表記する。

  何でもないような漢字の表記だが、一字一字意味を調べると『日本書紀』
 のスサノオ尊に対する態度がわかってくる。

  「素」「戔」「嗚」と三つに別けてみると、


  
「素」もともとの性質
  「戔」いやらしい
  「嗚」泣き叫ぶ



  となり、まさに悪意が潜んでいる。

  『古事記』・『出雲国風土記』では、


  
「須」やつかひげ
  「佐」たすける
  「能」成し遂げる力



  となり、各地に民間信仰として伝わる、厄よけ祈願である「蘇民将来」
 説話と重なってくる。
  「蘇民将来」説話とは、『釈日本紀』で引用された『備後国風土記』逸
 文に見られるが、それには


  
「旅の途中で宿を乞うた武塔神を、裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい
 兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、巨旦の妻
 となっていた蘇民の娘には茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く
 巨旦一族を滅ぼした。武塔神は速須佐雄能神(ハヤスサノオ神)と名乗り、
 以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えた。」


  とされ、この説話がもととなって、いわゆる「茅の輪潜り」や「蘇民祭」
 が各地神社の年中行事として盛んに行われているのである。

  祇園信仰で有名な京都、八坂神社の「牛頭天王」もまた、スサノオ尊の
 ことされている。
  祇園精舎の守護神、牛頭天王は、仏教の神であったが、日本における神
 仏習合でスサノオ尊に比定された。牛頭天王もスサノオ尊も行疫神であっ
 たからである。仏教では薬師如来である。
  行疫神とは疫病を流行らせる神であり、「蘇民将来」説話とは、一見矛
 盾しているように思われるが、武搭神の行為は、蘇民の娘を助けたとはい
 え、巨旦一族を滅ぼしたのだから、行疫神そのものである。
  祇園信仰とは、行疫神を鎮めることで、疫病から逃れようとしたもので
 ある。

  このような伝承からみても、スサノオ尊の本質は『古事記』・『出雲国
 風土記』が記している「須佐之男命」・「須佐能袁命」こそ、的確に表現
 していることがわかる。

  さて、これまでに『真説日本古代史』では、人間・スサノオ尊の事績を
 解いてきた。
  例えば、この表題中でもすでにあげたように、建国の始祖であったり、
 『魏志倭人伝』にある倭国大乱の記述との関わり、邪馬台国との関わりな
 ど、文献から推察される姿は、実際に地上界で起きたことであり、それが
 神話として伝えられてきたのだ、という前提で解説してきた。

  逆説的に言えば、神話で語られているスサノオ尊像から、当てはまる人
 物像を文献的に探し出した結果が歴史だったと言えるのだろう。

  しかしその作業は決して間違ってはいない。

  そうした諸先輩の努力が、例えばアマテラス大神を「邪馬台国」の「卑
 弥呼」と比定してきたのだし、それは先にも述べたように、日本神話の基
 本路線であり、今や通説となっていると言って良いだろう。

  スサノオ尊について言えば、すでに述べたこともあるが、朝鮮半島から
 「筑紫」に上陸後、「筑紫」・「出雲」を統一した建国の祖であったし、
 スサノオ尊死後は、息子のイタケル命がさらに「紀伊国」まで治めていた
 ようである。

  ところが、こうした事績から神と崇められるほどのスサノオ尊と、『記
 紀』が記す高天原の神・スサノオ尊の行動とが、あまりにもかけ離れすぎ
 ているのではないか。『記紀』にみるスサノオ尊は、まさに劣悪な神であ
 る。
  『古代日本正史』の著者・原田常治氏は、その中で『記紀』以前の神社
 を


 
 「私のところで捜し出せたのは一六三一社だった。…中略…
  この一六三一の神社をしらみつぶしに整理してみたら、大体、どこかよ
 そからもってきてまつったという分社が大半だった。…中略…
  それを分類してみると、出雲系の素佐之男の一族をまつったのが八割
 くらいで、…以降略」



  と、そのほとんどがスサノオ尊を祀る神社であった、と述べている。

  このように国民に愛され親しまれてきた神が、劣悪な神であったとはあ
 り得ない話である。それとも『記紀』がいうように、禊ぎ祓いの後、人間
 界に降臨して改心したのだろうか。

  それもあり得ない。

  人間・スサノオ尊と、神・スサノオ尊との関係がイコールであったか、
 再来であったかは不明であるが、そのいずれの場合であっても、人間・神
 ともに素晴らしくなければ、大半の神社がスサノオ尊ということにはなり
 得ないはずだ。

  これはどういうことであるのか。

  すなわち『記紀』が嘘をついているのである。

  ただし、『古事記』神話が『日本書紀』をみて書かれていることは瞭然
 であることから、嘘の根源は『日本書紀』であると言える。

  実はスサノオ尊を救世主として、『記紀』とはまったく異なったイメー
 ジを展開みせた者がいた。
  大弾圧を受けた戦前最大の民衆宗教・大本教の指導者「出口王仁三郎」
 である。

  「佐治芳彦氏」の紹介する「王仁三郎」のスサノオ観は、


  
「彼はまず、その誕生について、つまりイザナギが『鼻』を洗ったとき
 に生まれたという伝承から、三貴子のうち『ハナ』、つまり最初(先頭)
 に生まれたのがスサノオであったという。この王仁三郎解釈(説)のもつ
 潜在的破壊力は、まさにスサノオ的な物凄いものであるはずだ。
  つまりアマテラスとスサノオとの姉弟関係は当然逆転する。ということ
 は、日本神話の神統譜が大きく狂うだけでなく、その神統譜に依拠してい
 る皇祖アマテラスから万世一系、連綿と続くと称される皇統のカリスマ性
 が一挙に崩壊してしまうことを意味する。つまりアマテラスからニニギ、
 神武……と継承された天津日嗣(皇位)の正当性が否定されることになり、
 出雲王朝(スサノオからオオクニヌシ、コトシロヌシと続く)が正当なの
 だという主張になる。」(『王仁三郎の巨大予言』徳間書店)



  であって、現実的なスサノオ尊の姿、すなわち全国の大半の神社にスサ
 ノオ尊は祀られているという現実、に一致した解釈となっている。

  『記紀』にある三貴子とは、アマテラス大神・ツキヨミ尊・スサノオ尊
 であるのだが、それぞれ、日神・月神・海神のイメージを持たされている。
  しかし、実際に物語の主人公として登場するのは、アマテラス大神とス
 サノオ尊であり、ツキヨミ尊はほとんど登場しない。
  また、日・月という天体に対して、海という身近な自然とでは、対比さ
 せている対象が大きくかけ離れているのではないかと思う。

  その名称にしても、同じことが言えるのではないか。

  アマテラス・ツキヨミに対して、スサノオはより現実的な名前のように
 思える。

  そう考えると『記紀』神話とは、本来あった日・月神話にオオヒルメ・
 スサノオ神話を無理矢理習合させたのではないか、と思われるのである。

  もちろんアマテラス大神=オオヒルメではない。

  もう一つ大きな問題がある。

  『記紀』では、日神・月神をそれぞれ女性神・男性神のように説いてい
 る。日神=アマテラス大神=オオヒルメという体裁を保とうとしているの
 で、そのようになるのだが、実はこれ、陰陽の道理にかなっていない。

  『日本書紀』神話は、陰陽をしっかり意識して書かれている。

  例えば、次のようである。


 
 「国の柱をめぐって二人の顔が行きあった。そのとき、女神が先に唱え
 ていわれるのに、『ああうれしい、立派な若者に出会えた』と。男神は喜
 ばないでいわれるのに、『自分は男子である。順序は男からいうべきであ
 る。どうして女がさきにいうべきであろうか。不詳なことになった。だか
 ら改めて回り直そう」と。そこで二柱の神はもう一度出会い直された。」



  この二柱の神とは、イザナギ尊・イザナミ尊のことであるが、こういっ
 た男子が先といった陰陽の道理は随所に記されている。

  人間も、陽である男子と陰である女子に分けけられ、精神は陽、肉体は
 陰である。
  もちろん天は陽、地は陰。太陽は陽、月は陰である。

  女神イザナミ尊が死して「根の国」に行き、身体が腐ってしまい、これ
 を見たイザナギ尊と泉津平坂(よもつひらさか)で争い、


  「愛するわが夫よ。あなたがそのようなことをおっしゃるなら、私はあ
 なたが治める国の民を一日に千人ずつ絞め殺そう。」



  と言ったイザナミ尊は、まさに陰であるし、これに


  「愛するわが妻が、そのようにいうなら、私は一日に千五百人ずつ生ま
 せよう。」



  と言ったイザナギ尊は陽である。

  これほど明確に、陰陽を区別して記してある『日本書紀』神話の日神が、
 女性神であることは絶対あり得ない。

  国生み神話の不詳なこととは、本編では説明がないが、他の一書によれ
 ば蛭児(不具な子)を生んだことである。
  本文ではこの後、日神と月神を生み、続いて蛭児を生んだとしており、
 はじめを不詳のこととして矛盾を避けているが、複数ある一書と照らし合
 わせて解釈すれば、


  
「蛭児→大八州国→日→月」


  と生んだことは明白である。

  結局『日本書紀』本編は、何かの史書を採用したのではなく、複数の史
 書を寄せ集めて、一つの文章を構成させていることがわかる。

  『古事記』神話が、『日本書紀』の各一書からの抜粋で、本編を構成し
 ていることから、実は『日本書紀』より新しいことがわかるのだが、興味
 深いのは『先代旧事本紀』である。

  これによると蛭児は、


  
「はじめ伊奘諾尊・伊弉冉尊が柱を回られた時に、女神が先に喜びの声
 をあげられました。それが陰陽の道理にかなっていませんでした。そのた
 め、初めと終わりに、この御子(蛭児)が生まれました。」


  と二度生まれたことになっている。

  これは、『日本書紀』神話の本編、不詳のことを、蛭児を生んだことと
 して解釈した結果だと思う。他の一書と比較検討すれば、当然そうなるの
 だが、『先代旧事本紀』の編纂者らも『日本書紀』を読んでいたのであっ
 て、編纂年代は『古事記』と同じ頃と考えられる。

  さて、話が少し横道にそれたが、イザナギ尊・イザナミ尊以前の神は別
 にして、この二柱の神が生んだ神々は、先に挙げた


  
「蛭児→大八州国→日→月」


  だけである。この日神は陰陽の陽であることから、『日本書紀』の本編
 にある


  
「そして伊弉諾尊・伊弉冉尊が共に相談していわれる。『私はもう大八
 州国や山川草木を生んだ。どうして天下の主者を生まないでよかろうか』
 と。そこで一緒に日の神を生み申し上げた。《大日靈女貴という─一書に
 天照大神という─》この御子は華やかに光りうるわしくて、国中に照りわ
 たった。」



  のうち、《 》は明らかに造作なのではないか。つまり元々の文章に書
 き加えられたものだと思う。

  そして、本文・一書を通じて、アマテラス大神・オオヒルメムチ・日神
 は独立して記されている。例えばアマテラス大神と記している「一書」で
 はアマテラス大神で、日神と記している「一書」では日神で一貫している
 ところから、『日本書紀』本編から《 》の部分を除いてしまうと、アマ
 テラス大神とオオヒルメムチ、そして日神の三者(一応、異名同体ではあ
 るが)を結びつける要素はなくなってしまうのである。
  
  スサノオ尊は「素戔嗚尊」であり、別の表記・表音で記述されることは
 全然ないし、イザナギ尊・イザナミ尊も同様である。
  高天原神話に登場する神々は、表記の違いこそあれ(例えば、月読尊と
 月弓尊、田心姫と田霧姫など)表音には大差ない。

  従って一神にもかかわらず、アマテラス大神・オオヒルメムチ・日神と
 いう三様の表現は、ともすると異常である。
  そして、アマテラス大神と日神は同意に取れるが、オオヒルメムチは、
 立場的に前者とは全然違った意味を持つ名称である。それは神に仕える大
 巫女を意味しており、数多いた巫女の中でも頭領であるものと思われる。
  実際『日本書紀』のアマテラス大神=オオヒルメムチ=日神は、新嘗祭
 を行ったり、機織りをしたりと、崇め奉られている神とは大きく異なり、
 奉仕している巫女そのものである。
  思うに、このオオヒルメムチこそ、アマテラス大神の元々の姿であり、
 世界中どこにでもみられるような日神・月神神話(昼と夜が分けられたと
 いう)と混同して(故意であったとは否定できないが)伝承されたという
 ことになろう。
  また、ある一書に記されている「大日靈女」が本来の名称ではなかった
 か、と思われる。「貴」は美字句であり、除いて考えた方が自然である。

  天孫降臨神話になるとアマテラス大神は希薄になってしまい、かわって
 「高皇産霊尊」(タカミムスビ尊)が権力の中心になるのだが、これもま
 たおかしな話である。しかし、アマテラス大神がオオヒルメの仮託であっ
 たことわかれば、別におかしくはない話であり、当然に三貴神神話であっ
 ても中心人物は『記紀』のいうアマテラス大神ではあり得ない。その中心
 とはアマテラス大神、すなわち大巫女であったオオヒルメが奉祭していた
 神である。
  ちなみに「靈女」は「巫女」であるから、「日靈女」と書いて“ひみこ”
 と読める。これが「邪馬台国」の「卑弥呼」と同一視されていることは、
 文献比較の点からすると無理のないことである。

  戦前の大宗教団体であった大本(大本教)は、大正から昭和にかけて、
 二度にわたり空前の大弾圧に遭ったのだが、その「出口王仁三郎」は、
 スサノオ尊長子説をとなえる者であった。

  先にも述べたことであるが、それは『古事記』に記されている


  「イザナギの神が左の目を洗われたときにお成りになった神のみ名は天
 照御大神、次ぎに右の目を洗われたときにお成りになった神のみ名は月読
 の命、次ぎにみ鼻をを洗われたときにお成りになった神のみ名は建速すさ
 の男の命と申します。」


  から、鼻=はな、すなわち最初のこと、から生まれたスサノオ尊こそ長
 子であるという説である。
  実はこれを裏付ける文献が存在している。『宋史』日本伝がそれである。
  
  それによれば、


 
 「その年代記に記す所にいう、初めの主は天御中主と号す。次は天村雲
 尊といい、その後は皆尊以て号となす。次は天八重雲尊、次は天弥聞尊、
 次は天忍勝尊、次は贍波尊、次ぎは万魂尊、次は利々魂尊、次は国狭槌尊、
 次は角壟魂尊、次は汲津丹尊、次は面垂見尊、次は国常立尊、次は天鑑尊、
 次は天万尊、次は沫名杵尊、次は伊弉諾尊、次は素戔嗚尊、次は天照大神
 尊、次は正哉吾勝速日天押忍穂耳、次は天彦尊、次は炎尊、次は彦瀲尊、
 およそ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。」


  と、イザナギ尊とアマテラス大神の間にスサノオ尊が記されている。こ
 のことから、スサノオ尊のほうがアマテラス大神(オオヒルメ)よりも先
 であることがわかるのだ。しかも国王であったのである。
  この年代記とは、「宋」の雍熙元年(984)に東大寺の僧、「「然」
 (ちょうねん)が入宋した際持参した、『日本王年代記』のことであり、
 『日本書紀』成立以後も、このような年代記が在った自体驚くべきことで
 あるが、それ以上に内容が異なっていることに驚きを隠せない。また「「
 然」の入宋のことは『成算法師記』にもみえる。『扶桑略記』にもあるら
 しいが確認していない。
 
  この『日本王年代記』にしてみても、「武内宿禰」を307歳とか記し
 ているので、信憑性は『記紀』と同程度であるが、「「然」は国司ではな
 かったとはいえ、持参した書が『日本書紀』ではなかったということは、
 当時の『日本書紀』は正式な日本国書ではなく、単に天皇家の私書だった
 可能性が高い。

  そう考えると、皇祖とされるアマテラス大神は、天皇家にとって都合が
 良いように皇祖と改められた、とするのが一番良いのではないだろうか。

  『日本書紀』の成立は養老4年(720)であるのだが、現存する最古
 の写本は、歴史民族博物館所蔵の岩崎本(巻22・24)であり、これが
 西暦900年前後と見られている。
  これ以降の写本は、年代を大きく隔たることなく複数現存していること
 から、岩崎本が最初に近い写本ではないかと考えている。
  『釈日本紀』には、養老5年(721)の講筵を記録しているが、武田
 祐吉氏(『上代国文学の研究』博文館)が否定していることから、『日本
 書紀』の広まりは、早くとも最古の写本の西暦900年前後の頃からでは
 ないだろうか。

  『釈日本紀』によれば、初回の講筵を含む次の七回講筵を記している。


  
養老5年(721)
  弘仁三年(or4年〈813〉か?)
  承和6年(or10年〈843〉か?)6月
  元慶2年(878)2月25日
  延喜4年(904)8月21日
  承平6年(936)12月8日
  康保2年(965)8月13日



  初回の721年から965年までの244年間に、わずか7回しか数え
 られていない。恐ろしくゆっくりしたペースである。『日本書紀』が国書
 として知れ渡るには、さらなる時間が必要だったと思われる。
  この間には『日本王年代記』もような書も、当然存在していたことであ
 ろうし、その内容が外国の史料に記されているとなれば、内容に説得力を
 感じるというものだ。

  スサノオ尊とアマテラス大神に関する矛盾は、これに限ったことではな
 い。

  おもしろいのは、「正哉吾勝速日天忍穂耳尊」(まさかあかつかちはや
 ひあめのおしほみみのみこと、オシホミミ尊)である。
  オシホミミ尊は、天孫、「天津彦彦火瓊瓊杵尊」(あまつひこひこほの
 ににぎのみこと、ニニギ尊)の父神である。その母はアマテラス大神であ
 るが、父はスサノオ尊である。しかし、『日本書紀』はオシホミミ尊を、
 アマテラス大神の御子としか記していない。
  ところが、オシホミミ尊の后である「栲幡千千姫」(たくはたちぢひめ)
 は、タカミムスビ尊の娘であるので、父タカミムスビ尊は皇祖である記し
 ている。

  この道理でいけば、スサノオ尊もまた皇祖ではないか。

  日本国の天皇は初代神武天皇以来、男性君主を基本としている。女性天
 皇も数代存在したが、それは世嗣ぎが幼い等の理由からの、中継ぎ女帝で
 しかない。
  両親を天皇に持つ天皇では、有名なところでは天智・天武の例があるが、
 例えば天智天皇は舒明天皇の皇太子であり、母は皇極天皇と『日本書紀』
 は記している。皇極女帝の皇太子ではないのだ。

  『日本書紀』の論理でいえば、オシホミミ尊はスサノオ尊の御子であり、
 母はアマテラス大神と言わなければいけない。

  スサノオ尊は間違いなく皇祖である。血の原理から言えば、スサノオ尊
 こそ正式で直系な皇祖である。

  『日本書紀』が皇祖をアマテラス大神と言い張るのならば、それは同時
 にスサノオ尊を皇祖と言っていることと同然なのであり、暗に認める結果
 になっているのだが、系図を改竄してしてまでもスサノオ尊を外そうとす
 る意図は、いったいどこになるのであろうか。

  その理由の一つには、『日本書紀』の成立事情に関係していることは確
 かである。

  つまり、『日本書紀』記された最後の天皇、持統の正当性を訴えるため
 に陰の権力者であった「藤原不比等」が、アマテラス大神を格上げしたと
 いうものである。(『真説日本古代史・エピソード3、持統天皇』)
  このことは大いに起因しているであろうし、『日本書紀』は天皇家の私
 書からスタートしているのだから、何でも都合良く書けるであろうが、そ
 れにとどまらず、スサノオ尊の出自に問題があるのではないだろうか。

  それはとりもなおさず、天皇家の出自の問題にもなってくるから、デリ
 ケートな問題である。

  『日本書紀』を細部に読めば、おおよそ善の「百済」、悪の「新羅」に
 寄った内容で書かれていることがわかる。
  これは、善のアマテラス大神、悪のスサノオ尊という図式に重なってく
 る。

  日本国(倭国)が親「百済」であったことは、よく知られていることだ
 が、持統女帝の父、中大兄皇子(天智天皇)は、白村江の敗戦後の「百済」
 を近江朝で、一気に受け容れたことであろう。それは『日本書紀』も認め
 ていて、


 
 「船を出して日本へ向かった。」


  と記している。

  白村江の戦いは、先だって「唐・新羅」連合軍と「百済」との戦いがあ
 り、敗戦した「百済」を再建するために「倭」が参戦し、結局は大敗戦し
 たわけであるが、近江朝にとって「新羅」は憎んでも足りない国であった
 はずだ。
  それでなくても、『三国史記』は「新羅」の仇敵を「倭」と記してる箇
 所が多い。

  白村江の敗戦を記す『日本書紀』側から見れば、「新羅」を悪とするの
 はむしろ当然であり、天智天皇が亡国「百済」の王子「余豊璋」であった
 とする説もあるくらいである。

  『一書』によれば、スサノオ尊が降臨した土地は「新羅」であったとい
 う。

  スサノオ尊は、


  
「私はこの土地に居たくないのだ。」


  と言って、船を出して日本に向かったという。

  私は、人間スサノオ自身は「伽耶」(後に新羅に吸収される)の人だっ
 たと考えている。それもどこか小国の王族であった、と考えることは容易
 である。

  『高句麗』の南下侵攻で、「倭国」に移住してきた一族、簡単に言えば
 ボートピープルだったと思う。そういった一族の首長だったからこそ、中
 国に朝貢しお墨付きをもらう、という案があったのだと思う。
  生まれてこの方島国の民族では、思いも寄らないことであったはずだ。

  スサノオが生きた時代には、まだ「新羅」という国家はない。金印「漢
 委奴国王」の時代では、それは当時の「辰韓」とおおよそ同じである。

  「伽耶」は「弁韓」の相当する。「弁韓」は「弁辰」ともいい、「辰韓」
 とは習俗がよく似ていたらしい。その違いは宗教感だけであったという。
  今日では総称して、新羅系伽耶人とか新羅系加羅人などと言う。


  
「祖佐之男命、朝鮮新羅国王の四男・太加王」


  このように記すのは、『古史古伝』の一つ『富士宮下文書』である。

  『宮下文書』は、「徐福」とその子孫が記述したものといわれており、
 「太加王」の父である新羅国王(これを「新羅記氏」という)は、「徐福」
 の血を嗣いでいることから、スサノオ尊も「徐福」の子孫ということにな
 る。
  「徐福」と言えば、文献や伝承の中の人物(つまり伝説)と言われてき
 たが、1982年に江蘇省徐阜村(徐福村)の存在が確認され、その後の
 追跡調査により、実在した人物であったことが確実視されるようになった。

  紀元前220、中国から東海を目指してやってきた「徐福」の船団は、
 「紀伊和歌山」に上陸、さらに東方の蓬莱山(不二山・富士山)に向かっ
 たわけだが、この「徐福」の足取りは、「紀伊国」に種を蒔いたという、
 スサノオ一族の足取りとよく似ているように思える。

  偽書だから『古史古伝』と言われているのであるが、私自身、スサノオ
 尊の姿を「徐福」や、その子孫に仮託させたい気持ちは大いにある。

  渡来人として有名な「秦氏」もまた、スサノオ尊を祀る一族であった。
 「秦氏」を名乗る氏族は、単一氏族ではないともいい、その全部がスサノ
 オ尊を祀っているわけではないが、例えば「辛島氏」(豊前の秦氏)は、
 「五十猛命」(イタケル命、スサノオ尊の子)を祖とする一族である。

  「秦氏」と言えば、「秦」の始皇帝の末裔であるという説もあり、その
 意味ではスサノオ尊との繋がりがある。

  京都の松尾大社は、主祭神を「大山咋神」(オオヤマクイ神)といい、
 「秦氏」が氏神と仰いだ神社であった。この神社の縁起に丹塗矢との聖婚
 伝説があり、これは上賀茂神社とほとんど同じ内容である。
  上賀茂神社(賀茂別雷神社)の祭神は「賀茂別雷大神」であるが、籠神
 社の秘伝から、「天火明命」(アマノホアカリ命)と同体であることがわ
 かっている。
  丹塗矢はその父神にあたり、神社伝承学ではホアカリ命(別名:天照国
 照彦天火明櫛玉饒速日尊、ニギハヤヒ尊、ただし筆者はこれを認めていな
 い)の父神は、スサノオ尊であることは常識である。
  オオヤマクイ神は、スサノオ尊の子「大歳神」(オオトシ神)の子であ
 るが、神社伝承学ではニギハヤヒ尊とは異名同体の関係にある。
  またオオトシ神もニギハヤヒ尊の別名である。

  その「秦氏」に関係が深いのではないか、と言われている神社に新羅神
 社がある。同名の神社は全国に点在しているようだが、祭神は新羅大明神
 である。新羅大明神と言えば、新羅牛頭天王であるスサノオ尊のことであ
 ると思われるが、よくよく調べてみると、スサノオ尊だったりイタケル命
 だったりする、いずれにしてもスサノオ一族である。

  このように、スサノオ尊と「新羅」とは深い縁で結ばれているのだが、
 新羅系伽耶人であったスサノオ尊が背負っていた神、つまり人間スサノオ
 に仮託された、神スサノオとは、新羅神あるいはさらに向こうの大陸づた
 いに伝わってきたオリエントの神だったのではないだろうか。
  先に紹介した大本教の「出口王仁三郎」は、自らの姿をスサノオ尊にな
 ぞらえて、シルクロードを旅する予定であった(1942年(大正13年)
 2月、第一次大本弾圧事件による責付出獄中に日本を脱出して、モンゴル
 地方へ行き盧占魁(ろせんかい)という馬賊の頭領とともに活動するが、
 同年6月パインタラにて張作霖の策謀により落命寸前の危機となる(パイン
 タラの法難)も、王仁三郎とともに活動した植芝盛平をはじめ日本人6人は
 無事難を逃れ、翌月帰国する。
  提供:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』出口王仁三郎)。

  このように考えなければ、現代においても民間信仰で厚遇されているス
 サノオ尊と、『日本書紀』が記すスサノオ尊のギャップが埋まらない。
  
  はっきり言ってしまうと、スサノオ尊はアマテラス大神以前の、太陽神
 だったのである。

  ところで、スサノオ尊が祇園信仰の牛頭天王と結びついたわけは、スサ
 ノオ尊の降臨先が「新羅」の「曽尸茂利」(そしもり)だったからである。
  「曽尸茂利」とは韓語で「牛頭」を意味し、スサノオ尊は「牛頭山」に
 降臨したというのだ。
  この牛の頭をたどっていくと、古代オリエントの農耕神「バール神」に
 行き当たる。「バール神」はフェニキア人の信仰していた神であるが、ユ
 ダヤ教では異教の神、キリスト教で言うところのサタンに相当する。
  「バール神」は、女性神として捉えられているようであるが、同時に男
 女両性をも自分の性にすることが出来たとされ、崇拝者らは明確な性を決
 めなかったらしい。「出口王仁三郎」は自らを変性女子といったらしいが、
 このことも興味深い。つまり姿は男性だが精神は女性であるという(スサ
 ノオ尊を祀る神社の一つである大宮氷川神社は男体宮、女体宮として氷川
 女体神社が対峙しており、男女一対の神社であったことと共通する)。
  またアジアではしばしば太陽神とみなされている。サタンであり太陽神、
 まさに、スサノオ尊の持つ本質そのものである。

  「バール神」と日本の関わりなど、直接にはないように考えがちだが、
 

 
 「1969(昭和44)年6月12日読売新聞に、天竜川中流域の静岡県
 水窪町で、紀元前600年頃と推定される、文字が刻まれた石(水窪石)が
 発見されたと報じられた。解読の結果「バルーツ(女神)ガシヤン(男神)に
 奉る」と書かれていることがわかった。
  バルーツとは、フェニキア民族の根拠地・シリア地方の自然神バールの
 女性形同一神である。フェニキアという名は民族の守護神・フェニックス
 (不死鳥)に由来するのだが、ガシアンは鳥=主神という意味である。
  歴史エッセイ集『今昔玉手箱』松岡繁ルーム 



  と、意外なところで発見されているのだ。
 
  さらに「バール神」は国が変われば名前も変わる。エジプトでは「オリ
 シス」である。
  「オリシス」は冥界の神でもあることから、黄泉の国のスサノオ尊とま
 さに同じである。

  『神々の指紋』の著者、グラハム・ハンコック氏は、その著書中で、


 
 「確かに二つの伝説のあいだには大きな違いがある。だが、不思議な
 ことにエジプトのオリシスと南アメリカの神、スヌパ・ピラコチャの間
 には以下のように共通する点がある。

  ●両者とも文明をもたらした
  ●両者とも陰謀を企てられた
  ●両者とも倒された
  ●両者とも容器あるいは船のようなものに入れられた
  ●両者とも水のあるところに流された
  ●両者とも川を漂流した
  ●両者とも最終的に海にたどり着いた」



  と述べている。二つの伝説とは、記述にあるオリシスとピラコチャのこ
 とである。

  また、中央アメリカと遠く離れたアンデスの両方で


  
「あご髭のある男…、蛇…、十字架…」


  というはっきりと目立つ三つのシンボルがあるとも述べている。

  実は、これらすべての点でスサノオ尊と共通項がある。十字架には疑問
 を感じる方もおられようが、なんのことはない吉野ヶ里遺跡で発掘された
 有柄銅剣は、まさに十字架である。十握剣もそうだった可能性はある。
  出土物としての銅剣は剣身だけが多く、その全体像は把握できないが、
 少なからず十字架形状であったことは充分考えられる。

  このように神名こそ違うものの、世界各地に共通の伝承を残している神
 の本質、それは何を隠そうオリオンである。
  それは、ギリシア神話の神、オリオンではなく、冬の代表的な星座のオ
 リオン座のことである。オリオン座と呼ぶのは、星座がギリシア神話に由
 来してるからで、例えば古代エジプトでは先に示したオリシス、古代ノル
 ウェーではオルワンディル、日本でもかつては鼓星、くびれ星と呼んでい
 地方もある。
  
  冬季に南の夜空を見上げれば、誰でも簡単に探すことができるオリオン
 座。それはオリオンズベルトと呼ばれている三つ星が、あまりにも印象深
 いからであって、一度見れば忘れることができないからである。

  よく話題にのぼる一説には、オリオン座の三つ星は住吉大社の住吉三神
 である、「底筒男命」(そこつつのおのみこと)、「中筒男命」(なかつ
 つのおのみこと)、「表筒男命」(うわつつのおのみこと)のことではな
 いか、というものである。
  これは「大和岩雄氏」が説いたものであるが、「筒男」の「つつ」とい
 う発音は、「星」のことであるという。『万葉集』の宮中貴族が宵の明星、
 金星のことを「夕星」と書き、「ゆうづづ」と読んだことを理由にしてい
 る。
  しかし、宵の明星は「ゆうづづ」であるが、明けの明星は「明星」と書
 いて「あかほし」である。「つつ」と発音するのは「夕星」以外に例がな
 く、「つつ」=「星」とは言えないだろう。
  確かに「つつ」=「星」説は、説得力の点で弱いかも知れないが、住吉
 大社は「津守氏」の奉斉する神社であった。「津守氏」は「尾張氏」と同
 じく、その大本はホアカリ命を祖とする氏族である。
  神社伝承学では、ホアカリの命の父はスサノオ尊であることから、三つ
 星と住吉三神は無関係とは言えないかも知れない。

  オリオン座の三つ星は、冬季の航海には大変重要な星である。三つ星は
 真東から昇り真西に沈む。そこで海洋民が航海においてもっとも重要視し
 ていたのである。

  ただ、これには疑問符も付く。

  三つ星が航海において重要であったことは理解でき、それが神スサノオ
 尊に持たされた神性であったことは違いないだろう。実際『記紀』には海
 洋神として記されている。しかし、「倭国」が始めて記録された一世紀当
 時の航行技術では、冬季のしかも夜間の航行はおおよそ考えられない。
  「邪馬台国」へ「魏」の使節団が訪れたときは、朝鮮半島の西岸に沿っ
 て航行し、「対馬」・「壱岐」を経由して「末盧国」に到達しているが、
 東シナ海を横断する航路が最短であり、後の遣隋使・遣唐使の時代には、
 その海路を採っている。これには朝鮮諸国との関係悪化も考えられようが、
 当然難破の危険は増大するものの、それを可能にする技術を得ていたとい
 うことの裏返しである。

  『古代日本の航海術』(小学館)の著者である「茂在寅男氏」は、古代
 人は航海技術が稚拙であったこともあり、見える目標に向かってしか出航
 しないものだという。
  「魏」の使節団は、東シナ海横断が技術的にできなかったので、わざわ
 ざ朝鮮半島沿岸を航行したのだと考えられる。朝鮮半島からは見える目標
 である「対馬」、「壱岐」そして「末盧国」と渡航したのであろう。
  そんなことから夜間の航行は考えられないのである。その上冬季となれ
 ば難破は即死である。

  スサノオ尊の神性は、海洋神としてだけではなかったことを思い出して
 もらいたい。『日本書紀』の一書には、御子「イタケル命」らが全国に種
 子を蒔いたとあった。

  農耕と星座とは切っても切れない関係にある。かつて農耕は陰暦を用い
 ていた。簡単に言えば月の満ち欠けに基づく暦である。
  古代には陰暦という概念はないかも知れないが、月の周期は重要な情報
 であった。そして星座で季節を知ったのである

  冬の星座の代表であるオリオン座であるが、何も冬だけに見える星座で
 はない。

  毎年7月20日頃、日の出の約一時間くらい前、ベルト位置にある三つ
 星が、一日に一つづつ垂直に昇ってくるのが見える。どういうことである
 のかというと、例えば、20日に「ミンタカ」が一つ見え、21日に「ミ
 ンタカ」と「アルニタク」。22日に「アルニラム」と三つ星が全部そろ
 うのだ。
  この現象を「三太郎星」といったらしい。また土用の頃であることから、
 三つ星を「土用の三つ星」・「土用三郎」・「土用三番」ともいったらし
 い。この日、水田の水を抜いて、強固な稲を育てるのだという。
  また、この日の天候によってその年の耕作の吉凶を占う俗習があった。

  もちろん、土用というのは五行説という古代中国で生まれた思想が関係
 しており、古代「倭国」にはなかった思想であり、「三太郎星」もひとつ
 の例にすぎない。
  ほかにも三つ星は、冬場の麦捲きの時期の目安にもされたとも言われて
 いる。

  探求すれば他にも伝承があるかも知れないが、三つ星がことさら重要視
 された理由は、まさに誰にでも見つけやすい星だったからに違いない。
  彼ら農耕者らは、三つ星をスサノオ尊と重ねたイメージなど全然なかっ
 たのかも知れない。しかし世界各地に残存している同種の伝承が、そのま
 まスサノオ尊の姿に重なってくることや、「蘇民将来」や「牛頭天王」が、
 スサノオ尊と習合されて語られていることなどから、スサノオ尊は、民衆
 に大変愛され、親しまれてきた神であったと容易に判る。
  スサノオ尊の持つ神性とは、それに気づく気づかないにかかわらず、例
 えば、良いことには良いことが、悪いことには悪いことが帰す、というよ
 うな、人間の深層心理にある信仰心の表れであると思う。
  神としてのスサノオ尊やオリシス、オリオン。彼らが、神話上大変魅力
 的なキャラクターに映るのは、人間の基本的な気持ちを表現しているから
 であろう。

  ただし国家成立の過程では、信仰の対象が皇帝であれば強固な国家とな
 りうるが、民間に根付いた信仰は危険分子に変わる。
  『記紀』は、民間信仰最大の神・スサノオ尊を、アマテラス大神の弟に
 位置づけ従えている。このことは、アマテラス大神を祖とする天皇こそ、
 神の神であると言っているのである

  住吉三神が三つ星思想に基づいていることは、「つつ」の解釈に疑問が
 あっても、「大和岩雄氏」の説は確からしいと思う。住吉大社の「津守氏」
 と同祖である「尾張氏」との関係は、無視できないからである。

  漁労従事者は、かつてオリオン座を冬の星座とは考えていなかったとい
 う。
  日の出前より漁労を始める彼らは、「三太郎星」を当然知っていた。彼
 らにとって、この日はブリの捕れ始めの日であり、これ以前ではブリの魚
 群があっても絶対捕れなかったという。

  住吉三神は神功皇后の三韓征伐で従軍した神であり、航海の神である。
 これに性格の似た神には、宗像三女神がいる。『記紀』が認めるスサノオ
 尊の娘達である。
  三女神は宗像大社の神であり、宗像大社は、宗像市にある辺津宮から玄
 界灘を隔てた大島に中津宮、さらに沖の沖ノ島に神津宮との三社から成っ
 ている。
  これが直線上に並ぶことから、三つ星との関連も考えられなくはないが、
 朝鮮半島から出航して、沖ノ島・大島を寄港地と見た場合、沖ノ島と朝鮮
 半島との最短距離は、おおよそ150キロメートルあり、宗像市にある宗
 像大社と沖ノ島との距離、おおよそ60キロメートルに比べると倍以上で
 ある。従って、朝鮮半島から出航した船は、一度「対馬」の北岸の港に寄
 港したものと思われる。

  するとどうであろうか。「対馬(北端)」・沖津宮・辺津宮、あるいは
 中津宮の位置関係は、見事に三つ星と同じになる。

  是非、九州地方の地図を用いて確認してもらいたい。


                         2010年12月 了