真説日本古代史 エピソードの四


   
任那日本府について



  少なくとも私の中高生時代には、古代朝鮮半島の南部地域に「新羅」・
 「百済」と並んで、「任那」(みまな)と称される国が存在していた、と
 教わったように思う。
  しかし、最近では「聖徳太子」とともに、「任那」も非存在であった、
 と言われるようになっている。

  私としては、多くの説があって当然であると思うし、それが真っ向から
 反発する説であっても、それに対する異説を唱えるつもりはないが、ここ
 で私見を述べることが、異説になってしまうので、大きなことを言える道
 理ではない。

  私の中高生時代と言えば、1970年代後半に当たるのだが、その頃の
 教科書は朝鮮四国、「高句麗」・「新羅」・「百済」・「任那」を記載し、
 それぞれ「こうくり」・「しらぎ」・「くだら」・「みまな」と発音して
 いた。日本の習慣的な「しらぎ」・「くだら」に対する「高句麗」の発音
 は「こま」である。
  また数年前に某大学で最近の日本古代史を学んでいたが、そのときの発
 音は、「こうくり」・「しんら」・「ひゃくさい」であった。

  朝鮮半島が、これら三国で構成されていた時代を『三国時代』と呼び、
 そこには「任那」を含まない。

  ところで、「任那」の何が問題なのかを少し説明すると、そもそも「任
 那」という国は、大和王権の朝鮮半島支配の基盤となっていた国で、言う
 なれば植民地支配的な国、という考え方がかつてはあった。
  これは、『日本書紀』の記述をそのまま理解したものであり、これが、
 もっぱら通説的な理解であった。

  『日本書紀』には「任那日本府」という機関、あるいは政庁が記され、
 そこが「任那」を支配し、そればかりか「新羅」・「百済」をも支配して
 いたらしいことが記されている。

  それ以前の朝鮮半島では、「馬韓五十余国」・「辰韓十二国」・「弁韓
 十二国」というように、国家レベル以下の小国の集合により形成されてい
 て、「馬韓」は「百済」が、「辰韓」は「新羅」が統一して国家となって
 いった。
  しかし、「弁韓」は統一が進まず、「加羅」とか「安羅」とかという小
 国が多数存在したままであった。そのうちの一国が「任那」であった、と
 言われていた。

  ただし大和王権の朝鮮半島支配の根拠は、『日本書紀』が勝手に言い出
 したものではない。

  すでに「倭の五王」らはご存じであろうが、例えば倭王「武」に与えら
 れた称号

  
  『使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・母韓・六国諸軍事・安東
 将軍・倭国王』


  が、その根底にある。これは『宋書倭国伝』に記されている称号であり、
 『宋』の順帝はこれを認めている。

  さらには、『高句麗好太王碑文』がある。

  ここには、


  『倭以辛卯年来渡海破百残□□新羅以為臣民』
 
 
  という箇所があり、□□の部分は擦れて読めないものの、「倭」が海を
 渡ってやってきて、「百済」と「新羅」を植民地にしたと解釈できる。
  これには、ねつ造や改ざん説もあるが、それは解釈を曲げているように
 思える。

  このような傍証があって、大和王権の朝鮮半島支配説が正論とされてき
 た。この説は、戦前の日韓併合を正当化する基盤となっており、「朝鮮総
 督府」(リンク先『釜山でお昼を』)
=「任那日本府」のように考えられ
 ていたように思う。

  これらについての批判は、朝鮮民主主義人民共和国の歴史学者「金錫享」
 (キムソクヒョン)氏の『古代朝日関係史』によって提唱された。
  この書籍の出版は1969〜70年だったと思うので、「任那」を教科
 書で学んでいた時期の、数年前にすぎなかったことには、今更ながら驚い
 てしまった。

  しかし「任那」自体は、『高句麗好太王碑文』の


 
 「任那加羅」


  であるとか、『宋書倭国伝』の


 
 「任那」


  の記述から、まったくの虚構ではないと言え、「任那」が非存在だった
 のではなく、中国史に記載のない「任那日本府」が、非存在だったという
 ことになろうか。

  そこで、「任那日本府」を考える前に、「任那」を考えてみたいと思う。
 「任那」は朝鮮半島のどこにあったのだろうか。

  そのためには、『日本書紀』の中で「任那」がどのように記されている
 か、重要と思われる箇所をピックアップしてみたい。

  『日本書紀』で「任那」が初めて記されているのが、『崇神紀』である。


  1.崇神紀 六十五年秋七月、任那国が蘇那曷叱智を遣わして朝貢して
    きた。任那は筑紫を去ること二千余里。北のかた海を隔てて鶏林の
    西南にあたる。


  続いて『垂仁紀』では、


 
 2.垂仁紀 この年任那の人蘇那曷叱智が「国に帰りたい」といった。
    先皇の御代に来朝して、まだ帰らなかったのであろうか。彼を厚く
    もてなされ、赤絹百匹を持たせて任那の王に贈られた。ところが
    新羅の人が途中でこれを奪った。両国の争いはこのとき始まった。

  3.大加羅国の王の子、名は都怒我阿羅斯等、… 天皇は都怒我阿羅斯
    等に尋ねられ「自分の国に帰りたいか」といわれ「大変帰りたいで
    す」と答えた。… 「そこでお前の本国の名を改めて、御間城天皇
    の御名をとって、お前の国名にせよ」といわれた。そして赤織の絹
    を阿羅斯等に賜わり、元の国に返された。だからその国を名づけて
    みまなの国というのは、この縁によるものである。… 新羅の人が
    それを聞いて兵を起こしてやってきて、その絹を皆、奪った。これ
    から両国の争いが始まったという。


  とあり、この2.と3.とは同じエピソードに基づいている。従って、
 「蘇那曷叱智」(そなかしち)と「都怒我阿羅斯等」(つぬがあらしと)
 とは同一人物であり、「都怒我阿羅斯等」が「天日槍」(アメノヒボコ)
 の別名であることは言うまでもない。
  そして、「任那」の前身は「大加羅国」であるという。

  さて、続きからは一気に列挙してしまおう。


 
 4.応神紀 二十五年 ─百済記にによると、木満致は木羅斤資が新羅
    を討ったときに、その国の女を娶とって生んだところである。その
    父の功を以て、任那を専らにした。我が国(百済)にきて日本と往
    き来した。職制を賜わり、我が国(百済)の政をとった。権勢盛ん
    であったが、天皇はそのよからぬことを聞いて呼ばれたのである。

  5.雄略紀 七年 この年、吉備上道臣田狭 … 田狭を任じて、任那
    の国司とされた。(この後、天皇に田狭の嫁御の稚媛を召される)
 
  6.同上 任那国司田狭臣は、… (天皇にだまされ我が身に禍が及び
    そうになり)「自分は任那に留まって日本に帰らない」といった。

  7.雄略紀 八年春二月 天皇即位以来この年に至るまで、新羅国は貢
    物を奉らないことが八年に及んだ。そして帝の心を恐れて、好を高
    麗に求めていた。そのため高麗の王は精兵百人を送って新羅を守ら
    せた。(その後、高麗の守りは偽りであることを知った新羅王は)
    任那王のもとへ人を遣わし、「高麗王がわが国を攻めようとしてい
    る。 … どうか助けを日本府の将軍たちにお願いします」といっ
    た。
 
  8.雄略紀 二十一年春三月 天皇は 百済が高麗のために破れたと聞か
    れて、久麻那利(こむなり)を百済の文州王(もんすおう、この文
    は「三水」に「文」と書きます)に賜わって、その国を救い興され
    た。

  9.顕宗紀 三年春二月一日 阿閉臣事代が、命をうけ任那に使いした。

  10.顕宗紀 三年 この年、紀生磐宿禰が、任那から高麗へ行き通い、
    三韓に王たらんとして、官府を整え、自ら神聖と名乗った。任那の
    佐魯・那奇他甲背らが計を用い、百済の適莫爾解を爾林城に殺した。
    帯山城を築いて東道を守った。食糧を運ぶ港をおさえて、軍を飢え
    苦しませた。百済王は大いに怒り、古爾解・内頭莫古解らを遣わし、
    兵を率いて帯山を攻めさせた。紀生磐宿禰は軍を進め迎え討った。
    勢い盛んで向う所敵なしであった。一をもって百に当たる勢いであっ
    たが、しばらくしてその力も尽きた。失敗を覚り任那から帰った。
    これによって百済国は、佐魯・那奇他甲背ら三百余人を殺した。

  11.継体紀 三年春二月 任那の日本の村々に住む百済の人民の逃亡
    してきたもの、戸籍のなくなった者の三世四世までさかのぼって調
    べ、百済に送り返し戸籍につけた。

  12.継体紀 六年冬十二月 百済が使いを送り、調をたてまつった。
    別に上表文をたてまつって、任那国の上多利・下多利・娑陀・牟婁
    の四県を欲しいと願った。「この四県は百済に連なり、日本とは遠
    く隔たっています。 … (多利はそれぞれ「口偏に多」、「口偏
    に利」)

  13.継体紀 二十一年夏六月三日 近江の毛野臣が、兵六万を率いて
    任那に行き、新羅に破れた南加羅・喙己呑を回復し、任那に合わせ
    ようとした。

  14.継体紀二十三年春三月 百済王は下多利国守穂積押山臣に語って、
    「日本への朝貢に使者がいつも海中の岬を離れるとき。風波に苦し
    みます。 … それで加羅の国の多沙津を、どうか私の朝貢の海路
    として頂とうございます」といった。(これを百済王に賜ったが、
    加羅王からクレームがつき、結局、加羅は新羅と結んで日本に恨み
    を構えた。)

  15.継体紀 二十三年夏四月七日 任那王、己能末多干岐が来朝した。
    ─己能末多というのは、思うに阿利斯等であろう。─大友大連金村
    に、「海外の諸国に、応神天皇が宮家を置かれてから、もとの国王
    にその土地を任せ、統治させられたのは、まことに道理に合ったこ
    とです。 … 」
    この月、使いを遣わして、己能末多干岐を任那に送らせた。同時に
    任那にいる近江毛野臣に詔され、「任那王の奏上するところをよく
    問いただし、任那と新羅が互いに疑い合っているのを和解させるよ
    うに」といわれた。(この説得に失敗し、新羅の上臣は、)四つの
    村を掠め、─金官・背伐・安多・委陀の四村。ある本には多々羅・
    須那羅・和多・費智という─人々を率いて本国に帰った。ある人が
    言った。「多々羅ら四村が掠められたのは毛野臣の失敗であった」
    と。

  16.継体紀 二十四年冬十月 調吉司は任那から到着し奏上して「毛
    野臣は人となりが傲慢でねじけており、政治に習熟しておりません。
    和解することを知らずに加羅をかき乱してしまいました。 … 」
    そこで目頬子を遣わしてお召しになった。
    この年毛野臣は対馬に至り、病にあって死んだ。 … 目頬子が始
    めて任那に着いたとき、そこにいた郎党どもが歌を贈った。

     韓国如何言事目頬子来向離壱岐渡目頬子来

    韓国にどんなことを言おうとして、目頬子が来たのだろう。遠く離
    れている壱岐の海路を、わざわざ目頬子がやってきた。

  17.宣化紀 二年冬十月一日 天皇は新羅が任那に害を加えるので、
    大伴金村大連に命じて、その子磐と狭手彦を遣わして、任那を助け
    させた。

  18.継体紀 三年春二月 任那の日本の村々に住む百済の人民の逃亡
    してきたもの、戸籍のなくなった者の三世四世までさかのぼって調
    べ、百済に繰り返し戸籍につけた。

  19.継体紀 六年冬一二月 百済が使いを送り、調をたてまつった。
    別に上表文をたてまつって、任那国の上多利(多は口偏に多、利は
    口偏に利)・下多利・娑陀・牟婁の四県を欲しいと願った。 … 
    「この四県は百済に連なり、日本とは遠く隔たっています。 …。」
    … 上表文に基づく任那の四県を与えられた。

  20.継体紀 二十一年夏六月三日 近江の毛野臣が。兵六万を率いて
    任那に行き、新羅に破られた南加羅・碌己呑(碌は石偏ではなく口
    偏です)

  21.継体紀 二十三年春三月 百済王は下多利国守穂積押山臣に語っ
    て、「日本への朝貢の使者がいつも海中の岬を離れるとき、風波に
    苦しみます。 … それで加羅の国の多沙津を、 … 頂とうござ
    います。」 … 多沙津を百済王に賜った。 … このとき加羅の
    王が勅使に語って、「この津は宮家が置かれて依頼、私が朝貢のと
    きの寄港地としているところです。たやすく隣国に与えられては困
    ります。始めに与えられた境界の侵犯です。」といった。 … こ
    のため加羅は新羅と結んで、日本に恨みを構えた。
 

  22.同上 加羅王は新羅の女を娶って、子を儲けた。新羅は始め女を
    送るとき、一緒に百人のお供をつけた。 … (これに)新羅の衣
    冠を着けさせた。加羅の阿利斯等は、加羅国の制服を無視されたこ
    とに怒り、 … 新羅は面目を失った。 … ついに新羅は、刀伽・
    古跛・布那牟羅の三つの城をとり、また北の境の五つの城もとった。

  23.同上 この月に近江毛野臣を使とし、安羅に遣わされた。詔して
    新羅に勧め、南加羅・碌己呑を再建させようとした。

  24.継体紀 夏四月七日 任那王、己能末多干岐が来朝した。─己能
    末多というのは、思うに阿利斯等だろう。(新羅が度々領土を侵害
    してくるため。)

  25.継体紀 夏四月 使を遣わして、己能末多干岐を任那に送らせた。
    同時に任那にいる近江毛野臣に詔され、「任那王の奏上するところ
    をよく問いただし、任那と新羅が互いに疑い合っているのを和解さ
    せるように」といわれた。(新羅と毛野臣は不和となり、新羅の)
    上臣は四つの村を掠め─金官・背伐・安多・委陀の四村。ある本に
    は多多羅・須那羅・和多・費智という。─人々を率いて本国に帰っ
    た。ある人が言った。「多多羅ら四つの、村が掠められたのは毛野
    臣の失敗であった」と。

  26.継体紀 二十四年秋九月 任那の使が奏上して、「毛野臣は久斯
    牟羅に住居をつくり、滞留二年、政務も怠っています。日本人と任
    那人の間に生まれた子供の帰属争いについても、裁定の能力もあり
    ません。 … 阿利斯等は、毛野臣が小さくつまらないことばかり
    して、任那復興の約束を実行しないことを知り、 … 離反の気持
    ちを起こした。

  27.継体紀 二十四年冬十月 調吉士は任那から到着し奏上して「毛
    野臣は人となりが傲慢でねじけており、政治に習熟しておりません。
    和解することを知らず加羅をかき乱してしまいました。… 」
     そこで目頬子を遣わしてお召しになった。
     この年毛野臣は召されて対馬に入り、病に会って死んだ。

  28.目頬子が始めて任那に着いたとき、そこにいいた郎党どもが歌を
    贈った。

     韓国如何言事目頬子来向離壱岐渡頬子来

     韓国にどんなことを言おうとして、目頬子が来たのだろう。遠く
    離れている壱岐の海路を、わざわざ目頬子がやってきた。



  ここまでが、『宣化紀』までに記載されている「任那」関係の記録なの
 だが、少し整理をしてみたい。

  『日本書紀』に寄った記載ではあるが、これを客観的に読んでみると、
 まず興味深いことは、先にも述べたが「任那」の前身は「大加羅国」で、
 アメノヒボコの出身国であったということだ。アメノヒボコと言えば、神
 功皇后の母方の祖でもあることから、


  「日本を父とも兄ともたてて…」『欽明紀』


  という『日本書紀』の主張は、一応つじつまが合っている。

  「加羅」とは「倭国」からみた呼び方で、「新羅」からは「伽耶」と呼
 ばれていたらしいが、「ラ・マ・ヤ・ナ」とは国に対する発音であること
 から、「加羅」も「伽耶」も「カ」という国を指していたことがわかる。
  しかし、「伽耶諸国」という表現もあるように、一国を指していたわけ
 ではなく、同地域に散在する小国家群の総称であると言われている。

  ところが、「任那」=「加羅」かというと、そうではない。

  「倭王武」の上表文では、


  「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東
 太将軍倭国王」


  というように「任那・加羅」は並列で記され、明らかに別の国としてい
 る。「任那」の別称と『日本書紀』がいう「大加羅」であるが、一般的に
 「金官加羅」が滅んだ後の「伽耶諸国」の盟主であり、現在の慶尚北道高
 霊郡にあったのだが、『崇神紀』を見て欲しい。


  「任那は筑紫を去ること二千余里。北のかた海を隔てて鶏林の西南にあ
 たる。」


  「鶏林」とは「新羅」のことであるが、「任那」はその北方が海である
 というのであるから、これは「金官加羅」滅亡後の「大加羅」とは全然別
 の地域である。
  そうかと言うと、『継体紀』にあるように「百済」に賜ったという「任
 那」四県は、その場所が「百済」に接していたわけである。
  そして、「目頬子」(めずらこ)が「任那」に着いたときの歌、


  「遠く離れている壱岐の海路を、わざわざ目頬子がやってきた。」


  であるが、「壱岐」は「対馬」と「九州」に挟まれた孤島である。従っ
 て、壱岐から渡航できる地域と言えば、「対馬」か「九州」しかない。

  このように順序立てて考えていくと、一つ思い当たる文献がある。

  通称『魏志倭人伝』である。

  『魏志倭人伝』に記された『邪馬台国』までの道程の抜粋は、


  「郡より倭に至るには、…韓国を経て、…その北岸狗邪韓国に到る七千
 余里。始めて海を度る千余里、対馬国に至る。…また南一海を度る千余里、
 名づけて翰(三水に翰)海という。一大国に至る。…また海を度る一千余
 里末盧国に至る。…南、邪馬台国に至る、…」


  であるのだが、これによれば朝鮮半島南岸にあったという「狗邪韓国」
 は、「邪馬台国」連合に属しており、これを「加羅韓国」あるいは「伽耶
 韓国」の当て字だとすれば、ここは後の「任那」に含まれた可能性は高い。
 (「狗邪韓国」については、「倭」の属国として否定的な見解もあるが、
 『魏志・東夷伝・韓伝』には「韓は、帯方郡の南にあり、東西は海で限ら
 れ、南は倭と境を接する」とあり、「狗邪韓国」が「倭国」であったこと
 は、ほぼ間違いない。)

  そうすると、「任那」とは朝鮮半島の南部から海を隔て「対馬」までを
 含める地域だったことになる。

  さらに『欽明紀』を読み進めていくと、特定の一国を指して「任那」と
 呼ぶ場合と、「加羅諸国」を指して「任那」と呼ぶ場合とに遭遇する。
  例えば、「倭王武」の上表文にある「任那・加羅」は一国を指している
 し、『欽明紀』二十三年春一月の条では、


  「新羅は任那の官家を打ち滅ぼした。─ある本には、二十一年に任那は
 滅んだとある。総括して任那というが、分けると加羅国・安羅国・斯二岐
 国・多羅国・卒麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞食(三水に食)國・
 稔禮国、合わせて十国である。」


  とあり、これが「諸国」としての「任那」ということになる。

  『欽明紀』では、その大半を「任那」復興策の記事に費やしているが、
 この「任那」とは、次の「聖明王」(百済王)の言葉から、


 
 「天皇の詔勅に従って、新羅が掠めとった国、南加羅・喙己呑らを奪い
 返し、もとの任那に返し、…」

  「天皇が南加羅・喙己呑を建てよと勧められることは、近年のことだけ
 ではない。」



  「南加羅」と「喙己呑」であることは判明するものの、これら二国が、
 十国の中に含まれる二地域なのか、十国に含まれない二国なのかは、わか
 らない。

  ところが、まことに興味深いことに「南加羅」・「喙己呑」は、『神功
 紀』にその名を連ねている。次の箇所がそれなのだが。


 
 「四十九年春三月、荒田別と鹿我別を將軍とした。久底(氏の下に一)
 らと共に兵を整えて卓淳国に至り、まさに新羅を襲うとした。そのときあ
 る人がいうのに、『兵が少なくては新羅を破ることはできぬ。沙白・蓋盧
 を送って増兵を請え』と。木羅斤資・沙々奴跪に命じて、精兵を率いて沙
 白・蓋盧と一緒に遣わされた。ともに卓淳国に集まり、新羅を討ち破った。
 そして比自本(火偏に本)・南加羅・喙国・安羅・多羅・卓淳・加羅の七
 ヵ国を平定した。兵を移して西方至古奚津に至り、南蛮の耽羅を亡ぼして
 百済に与えた
。…比利、辟中、布弥支、半古が自然に降伏した。」


  この文に出てくる「木羅斤資」は、『雄略紀』の「軍君」あるいは、同
 紀に引用されている『百済新撰』の「昆支」と同一人物である。このこと
 は本編第十部に記しているが、「斤資」と「昆支」の間には、一世紀以上
 の時代差がある。

  一般に四世紀後半の「倭」の朝鮮半島侵攻は、『高句麗広開土王文』や
 『三国史記』から史実とされていながらも、神功皇后の三韓征伐(実は新
 羅征なのだが)説話は、例えば倭女王の侵攻などという記述が一切ないこ
 とから、虚偽だと言うのが通説である。

  では、この記録はでたらめなのかというと、そうとも言えないと思う。

  もちろん、これを『神功紀』で考えると、でたらめということになる。
 しかし、「斤資」=「昆支」であることを考えると、この記録は少なくと
 も『雄略紀』以降のことになるのではないか。

  『神功紀』には、「葛城襲津彦」について記されている。同紀に引用さ
 れている『百済記』には、「沙至比跪」を記すが、この者を「襲津彦」と
 同一人物と見なす説が大変有力であるし、私もそう思っていた。
  ところが、『雄略紀』以降のこととしてみると、『宣化紀』には「大伴
 金村大連」の子に「磐」と「狭手彦」が記されている。
  「沙至比跪」は「狭手彦」、と考えられないだろうか。もちろん、『日
 本書紀』以外に史料を知らず、確証は得ないのだが。
  「沙至比跪」は「新羅」を討ちに行ったが、「新羅」の美女を召し、逆
 に「加羅」を滅ぼしたというが、『日本書紀』によれば、「大伴氏」は失
 脚していったようであるので、数万の兵を率いて「高麗」を討ちにいった
 (『欽明紀』)という「沙手彦」が、「沙至比跪」同様、反旗を翻すこと
 は、充分考えられることである。

  つまり、「任那」という概念を以て「倭国」が関わった期間は、『雄略
 紀』、遠くても「倭の五王」時代を遡ることはない、と考えてている。

  事実、この『神功紀』に名を連ねた七ヶ国+四ヶ国は、「任那」とはさ
 れていない。また「卓淳国」は七ヶ国中の「卓淳」と同国と思われるが、
 この国については、『神功紀』の四十四年のこととして、次のように記し
 た箇所がある。


  「以前から東方に貴い国のあることは聞いていた。けれどもまだ交通が
 開けていないので、その道がわからない。海路は遠く波は険しい。」


  この貴い国とは「倭国」のことであり、これは「卓淳国」の王「末錦旱
 岐」(まきむかんき)の言葉であるから、「卓淳国」は「倭国のことを知
 らなかったということだ。

  その「卓淳国」は、そして「喙己呑」・「加羅」は、


  「『…しかし、任那は新羅に国境を接してますので、恐れることは卓淳
 らと同じ滅亡の運命にさらされないかということです』─らといったのは、
 喙己呑・加羅などがあるからであり、言うところの意味は、卓淳らの国の
 ごとく亡国の禍を恐れたのである。」


  とあるように、「新羅」によって滅ぼされているが、考えようによって
 は、平定(「新羅」から)した国が、再度「新羅」に帰属しただけのこと
 である。
  『日本書紀』の記述通り、この平定から帰属が4世紀後半〜6世紀前半
 のことだとしても、「卓淳国」は「任那」には含まれないだろう。
  さらに「伽耶諸国」の大国に「伴跛国」(はへのくに)があるのだが、
 この国も「任那」には含まれない。この国は領土問題にて、「倭国」と戦
 争状態になっている。結果、「倭国」から出兵した「物部連」の水軍五百
 は壊滅している。

  そうするとどうだろうか。

  かつての学校教育では、「任那」をこれらを含む「伽耶諸国」全域のよ
 うに言われてきたが、この図式は全然成り立たなくなってくる。

  「倭の五王」の一人、倭王「珍」が称した「任那」は、『魏志倭人伝』
 の「狗邪韓国」であろうと想像するが、倭王「済」の称号では、「任那加
 羅」となっている。すでに前述したことであるが、あらためてこれは


 
 1.「任那」=「任那加羅」
  2.「任那」と「加羅」


  のどちらであるのか、議論が分かれるところである。しかし、後の『南
 斉書』・『梁書』もまた、「任那・加羅」あるいは「任那・伽羅」と二国
 を併記していることから、すでに述べたように「任那」と「加羅」であろ
 う。
  また、660年成立の『翰苑』新羅の条に「任那」があり、その註に


 
 「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故
 地は新羅国都の南700〜800里の地点に並在している。」


  と記されているらしいことも付け加えたい。

  つまり、倭王「珍」の時代には、ひとつだった「任那」が、「済」の時
 代には「任那」と「加羅」になっていた、という考えであるが、『広開土
 王碑文』にはすでに、「任那」・「加羅」と併記してあることから、「伽
 耶諸国」をひとくくりにした「任那」という呼称は、あくまでも日本側の
 主張に過ぎない。しかしこの主張は『日本書紀』も、しっかり受け継いで
 おり、『日本書紀』は「任那」を、特定の地域として記している場合と、
 広義の「伽耶諸国」の意味で記している場合とがある。

  従って、「任那」とは、大和政権からみた政治上の概念であり、実際に
 「任那」と呼んでいい地域は、二・三の小国から成る領域だったのではな
 いだろうか。

  『欽明紀』には、「百済・聖明王」との「任那」復興協議に、「安羅」、
 「加羅」、「率麻」、「多羅」、「斯二岐」、「子他」の旱岐が臨んでい
 る。その後「久嗟(古嗟)」がこれに加わっているが、これらの国はすべ
 て、『欽明紀』に記されている「任那」十国に属している。
  『日本書紀』がどんな主張をしようとも、「任那復興」協議に参加して
 いる国が、「任那」であるはずがない。
  これを矛盾と考えないのであれば、少なくともこれらの国は実際の「任
 那」ではなく、政治概念上の「任那」である。

  ところで、この「加羅」は「金官加羅」ではないか、というのが一般的
 な見方のようだ。

  「金官加羅」は、「金官伽耶」や「駕洛」、あるいは「任那加羅」とも
 書かれるが、先の理由から、「金官加羅」は「加羅」であり「任那加羅」
 ではない。

  そもそも『日本書紀』における「任那」は、この十国だけではなかった
 はずだ。というのは、『継体紀』に記されている「任那」四県の割譲記事
 では、小国十国とは比較にならない土地を「百済」に与えている。
  それが、「上多利・下多利・娑陀・牟婁」であり、後には「己文・帯沙」
 を付与している。この領土は人工カバー率からすると、現在の「全羅道」
 のほぼ全域をカバーするのではないかと思われ、663年「白村江の戦い」
 で滅亡した「百済」の領土のほとんどに相当する。

  4世紀の「百済」の都は、現在のソウルの漢江南岸にあり「漢城」と呼
 ばれた。「斤肖古王」は「平壌」をも攻めたことがあるという。

  しかし、国境を接していた「高句麗」の圧力に押され、「漢城」を失い
 「熊津」に遷都した。『雄略紀』二十年(475)には、


 
 「高麗王が大軍をもって攻め、百済を滅ぼした。」


  とある。

  雄略天皇は翌二十一年、


  
「久麻那利を百済の文州王に賜わって、その国を救い興こされた。」


  としたが、この「久麻那利」(こむなり)が「熊津」である。

  『日本書紀』の主従関係は信じるに値しないので、記事を鵜呑みにはで
 きないが、このときの「百済」の領土は、「熊津」から南で、全羅道に接
 するわずかな範囲だったことになる。

  「武寧王」の「筑紫・各羅嶋」での出生も、ここに理由があると思う。
 「百済」が健在ならば、こんなことにはならなかっただろう。

  「百済」を復興させたのは、「武寧王」である。

  「武寧王」こそ、「任那」四県の割譲を「継体朝」に申し入れた、張本
 人である。『日本書紀』は「任那四県の割譲」という甘い記述がされてい
 るが、実際には、「伽耶諸国」への侵略により領土を拡大したのであり、
 それを、「伽耶諸国」の軍事支配権を中国から認められた大和政権へ、追
 認させたのであろう。
  というのは、『雄略紀』二十一年に、次のような注記があるからだ。


  「日本旧記に曰く。…久麻那利は任那国の下多呼利県の別邑である。」



  「下多呼利県」=「下多利」であろうから、このときすでに、「任那」
 四県の一部を占拠していたことになり、その「熊津」に遷都したというこ
 とになるからだ。

  「武寧王」が「任那割譲」を申し入れた時期には、「百済」による四県
 支配は終わっていたと考えて良いだろう。

  ちなみに、663年「百済」滅亡前の首都は、「熊津」からさらに南の
 「泗比(比は三水に比)」であった。

  この「任那」も概念的な「任那」であって、「倭国」固有の「任那」で
 はないだろう。この件に関しての大和政権の対応や、後々の態度を考えれ
 ば、この件が問題となったのは「大伴大連金村」の失脚のみであり、それ
 以上に問題は発展していないからである。

  しかしこの割譲には、当事国である「多利国」の国守、「穂積連押山」
 が一枚加わっていることから、「百済」の侵略は黙認されたのではないだ
 ろうか。「百済」が滅亡すれば、驚異は直接「倭国」へ降りかかることに
 なるからである。
 
  この後、「倭国」は「伽耶諸国」への、求心力を一気に失っていく。軍
 事支配者でありながら、「百済」の「伽耶」進出を防がなかったわけであ
 るから、当然と言えば当然である。

  ここから『欽明紀』を見ていくが、ページが多くなるので、「任那」に
 関して重要と思われる記述を抜粋してみた。


  
1.元年八月 高麗・百済・新羅・任那が使いを遣わして、貢物をたて
    まつった。

  2.二年夏四月 安羅の次旱岐夷呑奚・大不孫・久取柔利、加羅の上首
    位古殿奚、率麻の旱岐、散半奚の旱岐の子、多羅の下旱岐夷他、斯
    二岐の旱岐の子、子他の旱岐らと任那の日本府の吉備臣とが百済に
    行って、共に詔書をうけたまわった。

  3.二年秋七月 百済は安羅の日本府と新羅が通じ合っていることを聞
    いて…

  4.同上 聖明王はまた任那の日本府に語り、「…天皇が南加羅・喙己
    呑を建てよと勧められることは、近年のことだけではない。…」

  5.四年冬十一月八日 津守連を遣わして百済に詔し、「任那の下韓に
    ある百済の群令・城主は引き上げて日本府に帰属させる」といわれ、
    併せて詔書を持たせて、「王はしばしば書をたてまつって、今にも
    任那を建てるように言い、十余年になる。申すことはこのようなが
    ら、いまだに出来ない。任那は爾の国の柱である。柱が折れてはだ
    れが家を建てられようか。これが心配だ。早く任那を復興させよ。
    もし早く復興したら、河内直らが引上げることはいうまでもない」
    と。

  6.同十二月 「…任那を建てよとの詔には早速従うこととし、任那の
    執事・国々の旱岐らを呼んで共に謀り、意見を述べましょう。また
    河内直・移那斯・麻都らがいつまでも安羅にいるならば、任那再建
    は難しいでしょう。…」

  7.五年春一月 百済は使いを遣わして任那の執事と日本府の執事を呼
    んだ。すると共に答えて「神祀りの時なので、終ったら参りましょ
    う」といった。
     この月、百済は再び使いを遣わして任那の執事と日本府の執事を
    呼んだ。日本府・任那共に執事を送らず、身分の低い者を送った。
    このため百済は共に任那復興をはかることが出来なかった。

  8.同二月 ことに河内直に対して「以前から今に至るまで、ただ汝の
    悪いことばかり聞く。…汝らは任那にやってきて、常に良くないこ
    とをする。任那が日々損なわれたのは汝のせいだ。…汝の悪行によっ
    て任那は潰されるだろう。

  9.同三月 任那は安羅を兄としています。安羅の人は日本を父と仰ぎ
    ただその意に従うのです。いま、的臣・吉備臣・河内直らは皆、移
    那斯・麻都の指揮に従って居るのみです。移那斯・麻都は身分の低
    卑しい出身の者ですが、日本府の政務を欲しいままにしています。

  10.九年夏四月三日 捕虜が語って、『安羅国と日本府が、高句麗に
    百済侵攻を勧めたのである』といいました。状況から見れば、あり
    そうなことにも思われます。

  12.十二年春三月 この年聖明王は、自ら自国と新羅・任那二国の兵
    を率いて、高麗を討ち、漢城を回復した。また軍を進めて平壌を討っ
    た。すべて六郡の地が回復された。

  13.十三年夏五月八日 百済・加羅・安羅は…奏上し、「高麗と新羅
    と連合して、臣の国と任那を滅ぼそうと謀っています。救援軍を受
    けて不意をつきたいと思います。軍兵の多少についてはお任せしま
    す」といった。詔して、「今、百済の王・安羅の王・加羅の王・日
    本府の臣らと共に使いを遣わして、申してきたことは聞き入れた。
    また任那と共に心を合せ、力を専らにせよ。そうすればきっと上天
    の擁護の福を蒙り、天皇の霊威にあずかれるであろう」といわれた。

  14.同年 百済は漢城と平壌を捨てた。新羅がこれにより漢城に入っ
    た。

  15.十四年八月七日 新羅と高句麗が通謀し、『百済と任那はしきり
    に日本に赴いている。思うにこれは軍兵を請うて、我が国を討とう
    としているのだろう。もし事実なら、国が滅ぼされることは遠から
    ぬことである。まず日本の軍兵の来ないうちに、安羅を討ち取って
    日本の路を絶とう』といっています。

  16.十五年冬十二月 百済は、下部杆率文斯干奴を遣わして上表し、
    「百済王の臣明(聖明王)と安羅に在る倭の諸臣達、任那の国の旱
    岐らが申し上げます。思いみれば新羅は無道で、天皇を恐れず、高
    句麗と心を合せて、海北の宮家を損い滅ぼそうと思っています。臣
    等は共に譲って、内臣らを遣わし、新羅を討つための軍を乞いまし
    たところ天皇の遣わされた内臣は、軍を率いて六月に来り、臣らは
    深く喜びました。十二月九日に、新羅攻撃を開始しました。臣はま
    ず東方軍の指揮官、物部莫奇武連を遣わし、その方の兵士を率いさ
    せ、函山城を攻めさせました。内臣がつれてきた日本兵、筑紫物部
    莫奇委沙奇は、火箭を射るのがうまくて、天皇の威霊を蒙り、九日
    の夕に城を焼いて落としました。それゆえ単使馳船を遣わして奏上
    します」といった。なお別に、「ただ新羅のみならば、内臣が率い
    てきた兵だけで足りるでしょうが、今、高麗・新羅の合同軍です。
    成功が難しいので、伏して願わくば、筑紫の島の辺りの諸軍士をも
    遣わして、臣の国を助けて下さい。また任那を助ければ事は成功し
    ます」と。また奏して、「自分は軍士一万人を遣わして任那を助け
    ます。併せて申します。今、事はまさに急です。単船をもって申し
    遣わします。良い錦二匹・毛氈一領・斧三百口・捕虜の男二女五を
    たてまつります。少ないもので恐縮でございます」といった。

  17.十六年春二月 百済王子余昌は、弟の恵を遣わして奏上し、「聖
    明王は賊のために殺されました」と報じた。

  18.二十三年春一月、新羅は任那の宮家を討ち滅ぼした。

  19.同年秋七月一日、新羅は使いを遣わして調をたてまつった。その
    使いは新羅が任那を滅ぼしたと知っていたので、帝の思いに背いた
    ことを恥じ、あえて帰国を望まず、ついに宿まって本土に帰らなかっ
    た。

  20.三十二年夏四月十五日、天皇は病に臥せられた。皇太子は他に赴
    いて不在であったので、駅馬を走らせて呼び寄せた。大殿に引き入
    れて、その手をとり詔して、「自分は重病である。後のことをお前
    にゆだねる。お前は新羅を討って、任那を封じ建てよ。またかつて
    のごとく両者相和する仲となるならば、死んでも思い残すことはな
    い」といわれた。



  おおよそこんなところであろうか。

  最後の項である「任那復興」なる遺言は、敏達天皇に受け継がれたのだ
 が、叶わなかったようである。

  ところが驚くことに、「任那」は『孝徳紀』にも登場する。
    

 
 「大化二年九月、小徳高向博士黒麻呂を新羅に遣わして、人質を差し出
 させるとともに、新羅から任那の調をたてまつらせることを取りやめさせ
 た。──黒麻呂の別名玄理。」


  上記がそれである。

  大化二年(646)これ以降、「任那」は『日本書紀』に記載されてい
 ない。

  しかし、この記録には大いに疑問が残る。というのは、前年の記録に、


 
 「大化元年七月十日、高麗・百済・新羅が使いを遣わして調を奉った。
 百済の調の使いが、任那の使いを兼ねて、任那の調も奉った。」


  とあり、このときは「百済」が「任那」の調を奉っている。これは少々
 おかしいのではないか。さらに遡れば、「任那」の記録は『推古紀』にた
 どり着く。それは推古三十一年の次の記録である。


 
 「この年、新羅が任那を討った。任那は新羅に帰属した。」


  これ以外にも『推古紀』には、度々「任那」の記事が登場するが、興味
 深いのが、八年春二月の条である。


   「八年春二月、新羅と任那が戦った。天皇は任那を助けようと思われ
  た。この年、境部臣に大将軍を命ぜられ、穂積臣を副将軍とされた。一
  万あまりの兵を率いて、任那のために新羅を討つことになった。新羅を
  目指して船出した。新羅に着いて五つの城を攻略した。新羅王は白旗を
  あげて、将軍の印の旗の下に来り、多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南
  加羅・阿羅羅の六つの城を割譲して、降伏を願い出た。」


  これ以降、「任那」が「新羅」に帰属するまで、両国は一緒に訪朝した
 という。
  このような背景をから考えてみても、「百済」が「任那」の代理をする
 ことは、かなりの確率をもって怪しいと言えるのではないか。とはいうも
 のの、この記事は簡単に納得するわけにはいかない。。

  実は、『推古記』にある任那の新羅帰属の記事は、『日本書紀』以外に
 みられないものであり、『三国史記』における「伽耶」の記録は、「真興
 王」二十三年(562)九月のこととして、次の記事が最後である。


  「加耶が反乱を起こした。王は異斯夫に命じてこれを討伐させ、斯多含
 を副将とした。…(加耶軍は)一度にすべて降伏してきた。」


  この記事は、『欽明紀』二十三年春一月の


 
 「新羅は任那の宮家を討ち滅ぼした。」


  に相当するものと思われる。ちなみに欽明二十三年も562年であるの
 で、一月・九月の違いは、異なる史料による同一の記録からである、と考
 えるべきでなのであろう。

  それにしても、562年に「新羅」が滅亡させた「任那」を、その後、
 再び「新羅」自ら攻め落としたという異常な記述には、まったく驚かされ
 る。

  推古天皇の御代といえば、


  「豊御食炊屋姫天皇」
  「厩戸豊聡耳皇子」
  「蘇我馬子大臣」


  の三人による政治体制であり、女帝の時代であったというが、女帝には
 違いないが、それは「豊御食炊屋姫」のことではなかった。

  詳しくは本編をご覧になって頂きたいが、「豊御食炊屋姫皇女」は、幼
 名を「額田部姫皇女」という。この皇女は「糠手姫皇女」と同一人物であ
 ると思われる。
  ところが「糠手姫」は舒明天皇の母であり、敏達天皇の子であるので、
 敏達の皇后である「豊御食炊姫皇女」とは別人となる。

  推古天皇の御代は、女帝であったことは事実だったと思われるが、それ
 は「豊御食炊姫皇女」ではなかった。
  
  それは、『元興寺縁起帳』にある「大々王」であり、『先代旧事本紀』
 にある「物部鎌姫大刀自連公」であり、『日本書紀』にある「物部守屋の
 妹」であるのだ。
  その「物部守屋の妹」は「宗我嶋大臣」の妻となっているが、この「宗
 我嶋大臣」は「蘇我馬子」のことである。

  『推古紀』にみられる政治体制は、「蘇我馬子」夫妻に「豊聡耳皇子」
 を加えた三人よるものであった。もちろん彼ら三人は天皇家のルーツでは
 ない。この時は二朝並立時代であったにもかかわらず、「倭国」の盟主で
 あった蘇我王家が君臨した史実を抹殺して、天皇家のものにすり替えたの
 である。

  『推古紀』は大別すると、次のように章で区切ることが出来る。


  1章.豊御食炊姫皇女の即位
  2章.厩戸豊聡耳皇子の摂政
  3章.新羅・任那の戦争
  4章.官位一二階と一七条の憲法の制定
  5章.遣隋使と裴世清
  6章.新羅・任那戦争再び
  7章.厩戸豊聡耳皇子の死
  8章.蘇我馬子の死
  9章.天皇崩御



  ところが、私見と今日の言われている諸説とを合わせて考えると、この
 中で史実らしい章は、『遣隋使と裴世清』に限られてくる。
  しかし、『隋書倭国伝』が伝える「裴世清」(『隋書』では「裴清」)
 は、「倭国」の男王に面会しているのであって、決して女帝ではない。
  そうするとどうであろうか、唯一傍証がある「裴世清」の「倭国」訪問
 であるが、肝心なことは不透明なのである。

  このように、改竄が明らかである『推古紀』の他の章が、史実であると
 考えることができるであろうか。「新羅」・「任那」関係の記事は、ねつ
 造であったと考えることのほうが自然であろう。
  おそらくそれは、『神功紀』と同様、『雄略紀』を前後とする原史料の
 切り貼りであろう。

  さて、ここまで随分回り道をしたが、まず「任那」の名称問題より先に
 日本(ヤマト朝廷としてではなく、漠然と考える日本)が朝鮮半島に進出
 していた実態があったのか、についてであるが、今日までに全羅道に十数
 基確認されている前方後円墳や、「新羅」・「百済」の旧領にて多数出土
 しているヒスイの勾玉が、糸魚川周辺の材質と一致していることから、否
 定しがたい事実であると言える。(國學院大學21世紀COEプログラム
 『神道と日本文化の国学的研究発信の拠点形成』韓国全羅道地方の前方後
 円墳調査


  特に、ヒスイの原産地は朝鮮半島にはなく、これをくつがえす傍証は、
 今後もみられないだろう。

  しかし、日本からの勢力が朝鮮半島に進出していた事実があっても、そ
 れが日本国有地であったと考えるには、まだ早計という声もあるだろう。
  近年、韓国資本による対馬進出が問題視されているが、当時の現状は、
 この事態によく似ていたのではないだろうか。現代では、韓国資本による
 合法的な支配がされたとしても、それはあくまでも民間でのことであり、
 対馬が日本の主権下であることにはかわりがないが、少なくとも「任那」
 が文献で確認できる4〜6世紀中には、合法・非合法という概念はないの
 で、実行支配者はそのまま主権者である

  ただ、倭国の主権者ら(天皇家だけではなく、倭国を分領する豪族らも
 含まれる)が、朝鮮半島出身者であったか、日本列島出身者であったかに
 よって、考えかたも変わってくる。前者であればそれは故郷であり、後者
 であれば植民地ということだ。
  実際には、その両者ともに存在していたのだろう。

  『日本書紀』は「伽耶諸国」の総称として「任那」(広義の任那)と呼
 ぶ場合と、「伽耶諸国」を代表するような盟主国を「任那」(狭義の任那)
 と呼ぶ場合があるが、広義の「任那」が「伽耶諸国」と重なることはあっ
 ても、必ずしも一致しないのであり、これが『日本書紀』独特の考え方で
 ある政治概念的な「任那」であることは、述べたとおりである。
  そして、狭義の「任那」が「金官加羅国」であったことも前述している
 が、532年、「新羅」の侵略により「金官加羅国」は滅亡し「金官郡」
 となっている。

  この「金官加羅国」が「任那」であったという根拠は、『真鏡大師宝月
 凌空塔碑文』にある


 
 「大師諱審希、俗姓新金氏、其先任那王族草抜聖枝、…」
  (大師は諱を審希といい、俗姓は新金氏であり、その先は任那の王族に
 して草抜聖枝である…)


  からである。  

  「金官加羅国」は532年に「新羅」に降伏しているが、その時のこと
 を『新羅本記』は、次のように記している。


 
 「十九年、金官国王の金仇亥が、王妃および三王子──長男を奴宗とい
 い、次男を武徳といい、末子を武力といった──とともに国の財宝や宝物
 をもって来降した。王は彼らを礼式に従った待遇をし、上等の位を授け、
 本国をその食邑として与えた。末子の武力は(新羅王朝)に仕えて、角干
 まで累進した。」



  統一「新羅」を為しえた英雄に、大将軍「金庚信」(きんゆしん「庚」
 は本来の文字ではありません)の名をみることができるが、彼は「武力」
 の孫であり、「金庚信」の妹は「武烈王」(金春秋)に嫁ぎ、文明王后と
 なり、「金庚信」自身も「武烈王」の三女を娶るほど、「新羅」王家とは、
 密接な関係になっている。その「金庚信」が「新羅」王家からもらった姓
 が「新金氏」である。

  すなわち、「任那王族」=「金官国王族」であり、「任那」とは「金官
 加羅国」のことにほかならない、ということになるのだ。

  ちなみに朝鮮の史料で「任那」の表記が登場するのは、『真鏡大師宝月
 凌空塔碑文』を含め三例だけである。他の二つは『広開土王碑文』と『三
 国史記・列伝・強首伝』の中の一カ所、「任那加良」である。

  「任那」が「金官加羅」のことを指すのであったならば、何の問題もな
 いし、実際、朝鮮側史料に基づく「任那」とは「金官加羅」以外にない。
  従って、「任那」はあったのかと問われれば、間違いなくあった、との
 答えが正解であるのだが、それは『日本書紀』の「任那」ではないところ
 が、まだ問題なのである。
  仮に拡大解釈して、「金官加羅」を盟主国とした政治的領域を「任那」
 と呼ぶにしても、それはあくまでも朝鮮史料の話であって、『日本書紀』
 のそれではない。例えば『欽明紀』にみられる「総括して任那」というよ
 うな場合でも、「金官加羅」盟主のようには読めず、ましてや一国を指し
 て呼んでいるわけではない。

  よく言われている説には、「任那」には「金官加羅国」を盟主とした前
 期伽耶連盟と、「金官加羅国」滅亡後の「安羅」を主体とした後期伽耶連 
 盟とがあった、というものがあるが、これなどは、『日本書紀』の「任那
 日本府」と言う表記が、突然「安羅日本府」になったことから、推理した
 ものであろうと思われるが、「日本府」抜きに考えた場合、この説は成り
 立たなくなってしまう。

  また後述するが、「金官加羅国」と『日本書紀』表現の「任那」を結び
 つける積極的な証拠は、今日までに何一つない。

  「任那」はあったに違いないが、朝鮮史のいう「任那」と『日本書紀』
 のいう「任那」は違う、と言わざるを得ない。

  「任那」とは、朝鮮半島南部における「倭国」の政治的支配領域であっ
 たのか、これも違っている。

  「任那」復興は『推古紀』に至るまで(これはねつ造だと思われるが)
 悲願として記されているが、『欽明紀』では具体的に国名をあげて復興を
 切望している。それが「南加羅」(あるひしのから)と「喙己呑」(とく
 ことん)である。

  「任那」と「任那日本府」は、同列に考えられているが、これは個々考
 え同列に置くべきではないと思っている。

  南朝鮮の「百済」にも「新羅」にも属さない小国群を、漠然と「任那」
 と呼んだというのなら賛成であるし、実際にそういう使い方もあったと思
 う。国境が曖昧であった当時であるから、朝鮮史と日本史間でその地域に
 少なからず差異があっても、これはやむを得ないことだ。
  実際に土地に接している朝鮮からみれば、それは「金官加羅国」を盟主
 とした「伽耶諸国」と、より具体的な地域であったし、日本からみれば、
 政治的意図のあるなしに関わらず、南朝鮮はすべて「任那」くらいの考え
 であったのだろう。

  「任那」、「任那」と叫んでいても、「倭国」政府自体は、「伽耶」諸
 国に色気を示してはいるものの、任那四県の割譲(事実は「百済」による
 「伽耶」侵攻の追認であろうと思われるが)を許し、「伽耶」各国が「百
 済」・「新羅」両国に併合されていくことですら、遠望していた。
  そんな中で、「南加羅」と「喙己呑」に関してだけは、「毛野臣」らが
 六万兵を率いて渡航するなど、具体的に行動を起こしている。

  つまり、この両国は「任那」中の「任那」であり、『日本書紀』でいう
 ところの「任那」そのものといえよう。
  同時に「百済・聖明王」は、


 
 「新羅が掠めとった国、南加羅・喙己呑らを奪いかえし、もとの任那に
 返し、…」



  と述べているが、「南加羅」・「喙己呑」と「もとの任那」の三国が、
 「任那」本体であったといえる。

  先に申し述べておくが、「もとの任那」とはもちろん、「金官加羅」の
 ことである。

  少し話が戻るが、「前期伽耶連盟」とは「金官加羅」を盟主にした「伽
 耶諸国」の連合体であったという説があった。
  この「金官加羅」が、朝鮮史からみた「任那」であったことから、「任
 那日本府」は「金官加羅国」にあり、このときが「前期伽耶連盟」にあた
 り、「金官加羅」が「新羅」の併合された後は、「日本府」は「安羅」に
 移り、「安羅」による「後期伽耶連盟」が成った。
  『欽明紀』には、「任那日本府」と「安羅日本府」が記されている。

  「任那日本府」があったとされる現在の「金海市」は、1990年7月
 同市の大成洞古墳群を発掘中、王墓と思われる遺跡が発見された。
  この出土品には、当時の「倭国」と「金官加羅国」との交流を、うかが
 わせるのに十分な文物が発見されたが、それよりも高度な文明を感じさせ
 る独自の政治集団の存在を示していた。つまり強大な力を持つ王の存在が
 明るみに出たのである。これにより「倭国」による「金官加羅」支配は、
 否定された。

  話はこれだけではない。実は1910年すでに、「任那日本府」は否定
 されていた。朝鮮総督府を設立後、日本は「金海市」を中心に旧伽耶地方
 の発掘を次々と行ったが、「任那日本府」を裏付ける証拠は一切出てこな
 かったのである。もちろん表向きは「任那日本府」の調査ではなかったが、
 それは明らかであった。

  そもそも「任那日本府」は、帝国主義日本の東アジア進出を目的とした
 朝鮮半島支配を、考古学的に実証することによって正当化するものとして
 利用された。
  しかし「金官加羅国」に「任那日本府」がなかったとなると、『日本書
 紀』の証言に根拠はなかったことになる。

  本当にそうだろうか。

  『日本書紀』に「任那日本府」は記してあっても、それが「金官加羅国」
 にあったとは、どこを見ても記されていない。「金官加羅」=「任那日本
 府」説は、「金官加羅」が「任那」であったから、「任那日本府」は「金
 官加羅国」にあったということによった説であり、考古学的に実証できな
 かったならば、それまでである。もっとも、文献史を実証づけるというこ
 とは、そういうことなのであるが。

  『欽明紀』二年四月では「任那日本府」、二年七月には「安羅日本府」
 と記されているが、何の先入観なしに読めば、「任那日本府」=「安羅日
 本府」であることは疑いないことだ。しかし、「金官加羅国」=「任那」
 に惑わされてしまって、素直に読めなくなってしまっているだけなのでは
 ないだろうか。

  「安羅」は、『日本書紀』のいう「任那」には含まれないと思う。

  そう考えてはじめて


  「任那は安羅を兄としています。」

  「河内直・移那斯・麻都らがいつまでも安羅にいるならば、任那再建は
 難しいでしょう。」

  「麻都らは新羅に心を通わせ、その国の服さえ着て、朝夕行き通い、ひ
 そかによこしまな心を抱いています。これによって任那が永久に亡びるこ
 とです。」



  などの『欽明紀』の記述に整合性が出てくると思う。

  従って「南加羅」・「喙己呑」が「任那」であったとしたい。

  朝鮮史のいう「任那」と『日本書紀』のいう「任那」とは、似て非なる
 ものなのである。立場が変われば、記述も変わってくるだろう。「金官加
 羅」が「任那」であったことは、朝鮮史からみた史実である。
  「倭王武」の上表文にある「任那加羅」の「任那」は「金官加羅」だっ
 たに違いない。「金官加羅」の「新羅」併合によって、「任那」は歴史か
 ら姿を消したのだが、「倭国」側の「任那」は、朝鮮諸国とは違っていた。

  「任那」とは、朝鮮語で“ニムナ”と発音し、それは「主国」と同じで
 あり、その意味は“君主の故地”である。「金官加羅国」は「金官国王族」
 の故地であることは言うまでもないが、天皇家の故地もまた「任那」と称
 していたとすれば、それを必死に守ろうとしていた理由がわかるというも
 のだ。

  『記紀』は「任那」を、皇祖・アマテラスの故地とは記してない。しか
 し、天孫・ニニギの父、アメノオシホミミは、アマテラスとスサノオの子
 であり、スサノオは「新羅」の「曽尸茂梨」(ソシモリ)に降臨した後、
 「出雲」に着いたのだという(『日本書紀』一書第四)。
  ソシモリには諸説あるが、その一つに「伽耶山」であるという説がある。
 あるいは“ソウル”であるとか、江原道春川にある、元「新羅」の「牛頭
 山」であるという。いずれにしても朝鮮半島に由来する名称であることに
 は違いない。
  ここでは問題にしないが、スサノオは歴とした皇祖であるのだが、アマ
 テラスだけが皇祖であるされるのは、どういうわけであろう。むしろ父方
 であるスサノオのほうが、皇祖としてふさわしいだろう。そこには政治的
 圧力が働いているのだろうが、『記紀』にどのような記述がされようとも、
 当の天皇家にとって、南朝鮮は「任那」だったということか。

  「伽耶」は鉄の産地であった。

  「伽耶」諸国と「倭国」は、豪族レベルでの交流が盛んであった。

  もちろん「倭国」の盟主としての畿内王権は、「任那」と中心的で重要
 な関係にあったことは間違いないが、「任那」在住の「倭国」豪族等が、
 畿内王権の命令下にないことは、


 
 「的臣らが新羅に行ったことは、自分の命じたことではない。」


  という欽明天皇(かどうかは、わからない。『欽明紀』を読んでみても
 欽明天皇の姿が見えてこないからだが)の詔でよくわかる。
  『日本書紀』の記載ですら、このようなのであるから、畿内王権と豪族
 間の関係は、さらに希薄だったことであろう。

  「任那」に関しては、おおよそこのように考えているが、実は、さらに
 二つの疑問点がある。これは後回しにして、「日本府」について、話を進
 めたいと思う。

  『欽明紀』二年四月では「任那日本府」、二年七月では「安羅日本府」
 と記されているがこれはともに同じであり、「日本府」は「安羅」にあっ
 たとすることは、前述済みである。

  まず「日本府」の表記であるが、これは『日本書紀』だから「日本府」
 なのだろうか、と問われるところであろう。つまり「倭府」とされていた
 ものを、『日本書紀』に従って「日本府」と書き改めたのではないかとい
 うことだ。

  『日本書紀』における「日本府」は、一部の研究者が提唱するような、
 「倭国」の出先機関などとは到底思えない記述になっている。

  それらを箇条書きにすると、


 
 1.日本府は、新羅と通じ合っている。
  2.日本府の執事を呼んでも、偽って身分の低い者しか送ってこない。
  3.日本府の政務は移那斯・麻都が指揮を取り、ほしいままにしている。
  4.安羅国と日本府が高句麗に百済進攻を勧めた。
  5.日本府と安羅は隣の災難を救わなかった。


  などであるが、これらからは畿内ヤマト王権と「日本府」とは関係ない
 どころか、敵対関係であると言ってもいいくらいの内容が読み取れる。

  「日本府」が「倭国」の出先機関、つまり「倭府」が正式名称だったと
 いうのなら、こんなことはあり得る話ではない。
  すなわち「日本府」は始めから「日本府」なのであって、『日本書紀』
 編纂者が新国号と表記が一緒であることをいいことに、そのまま転載した
 ものと思われる。

  「日本府」と「倭」諸国の王族とは、頻繁に交流がありながら、それは
 ヤマト王権の命令の及ばないものであったのだから、欽明朝の朝鮮外交は、
 在地豪族頼みの、脆弱なものだったと言えるのではないだろうか。

  戦前の帝国主義日本が、「任那日本府」の固有名詞を以て、東アジア侵
 攻を正当化したというのなら、『日本書紀』の内容は一切意に介さなかっ
 たという傍若無人ぶりであり、それは歴史認識以前の問題である。

  『欽明紀』十五年十二月の条に、


  「百済王の臣明と安羅に在る倭の諸臣達、任那の国の旱岐らが申し上げ
 ます。」



  と上表する件がある。この


  
「安羅に在る倭の諸臣達」


  にあたる部分『日本書紀』実文では、


  「在安羅諸倭臣」



  と表記されている。これが「日本府」の臣の意味であることは、容易に
 推測できるが、ここに在るとされた「倭」の臣達は、


  
「吉備臣」
  「河内直」
  「的臣」



  と、身分の卑しいものとされる


  「阿賢移那斯」
  「佐魯麻都」



  であるが、『欽明紀』の文脈から「日本府」の代表は「吉備臣」であろ
 うと推察できる。

  「吉備臣」と朝鮮の関係は、直近では『雄略紀』の「吉備上道臣田狭」
 (きびのかみつみちのおみたさ)が「任那」の国司に任命されたことから
 である。このとき、雄略天皇は「田狭」の留守中をいいことに、「稚媛」
 (田狭の妻)を召し取った。「田狭」は「新羅」に援助を求めたが、雄略
 は「新羅」討伐の担い手として、「田狭」の子「弟君」と、「吉備海部赤
 尾」を使わしたが、「田狭」は「任那」へ、「弟君」は「百済」に留まり
 雄略に反旗をひるがえした。
  残念ながら「弟君」は、妻の手にかかり殺されてしまうが、雄略八年、
 任那王は「吉備臣小梨」らを、「新羅」の援軍要請に応じ送っている。

  このとき、「小梨」らは「日本府」の将軍として記されているし、雄略
 の死後『清寧紀』にある『星川皇子の叛』では、軍船四十艘を率いて朝廷
 に対しているところから、「吉備」と「畿内」は、時に友好国であったか
 もしれないが、決して畿内王権の支配の及ぶところではなかった。
  
  そこで、「日本府」とは何だったのだろうか、ということである。

  まず第一に、「日本府」があったのかという問いであるが、これは、呼
 称はあったが機関ではなかったと答えたい。

  『日本書紀』の編纂者は、戦前の帝国主義日本の侵略目的に「日本府」
 が利用されるとは、思ってもみなかっただろう。編纂者は『日本書紀』自
 身に、すでに「日本府」の意味を明確に記している。


 
 「在安羅諸倭臣」


  先にも示した上記がそれである。

  「安羅」にあった「吉備臣」を始めとする、「倭国」の将軍らが占拠す
 る地域・領域のことを、朝鮮半島諸国からみた俗称であった、と結論づけ
 るものである。そこに総督府のような機関があったわけではなく、邑のよ
 うな意味合いだったと思われる。

  次に、誰が設置したのか。

  これは「日本」という呼称から考えれば納得できよう。

  我が国号の「日本」は、日本列島に住む者では想像し得ない名称である
 と思う。
  「日本」とは「日の昇る国」であるのだから、畿内から見れば、それは
 東海地方以東のことになるか太平洋になる。
  「日本府」が朝鮮半島南端にあったとすれば、ますます日本人の考えで
 はない。朝鮮半島は我が国から見た場合、「日の沈む国」である。

  『隋書倭国伝』にある


 
 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云云」


  は、あまりにも有名であるが、“日没する処”とは、「日本」からみた
 「隋」のことであることからも、おわかりいただけると思うし、“日出ず
 る処”は、帰化人・渡来人の知恵である。

  また「府」とは、行政名としての意味以外に


  
「役人が事務を執る所。近衛府・大宰府など。役所。」


  の意味もあるが、


  
「物事の集まり行われる所。」


  の意味もある。

  すなわち「日本府」とは、ヤマト政権が設置した機関でもなければ、役
 所でもない。それは単に、倭の将軍らの居住地域、つまり東海から来たの
 奴らの占拠地を、在地の人々が呼んだ名称だったということだ。
  もちろん、それなりの砦・城はあっただろうから、それを指して「府」
 と呼んだのかもしれないが。

  現国号である「日本」とは、「白村江の戦い」に敗れ、帰る国を失った
 「百済」民族が、海を隔てた辺境の亡命地を「日の昇る国」だからと、自
 ら納得させた呼称なのである。
  彼ら(百済民族)は、もはや「日本」で生きていくしかなかったのだか
 ら。

  さて、先に述べた二つの疑問点であるが、一つは「狗邪韓国」の問題で
 ある。

  現代の研究では、「狗邪韓国」は後の「金官加羅国」であるとされてい
 る点である。

  「狗邪韓国」は「倭国」に属すのか、との疑問もあるが、『魏志倭人伝』
 (『東夷伝倭人の条』)に記されているのだから、当然「倭国」である。
 決して『韓伝』(『三韓の条』)ではないことは重要である。

  つまり「狗邪韓国」は、後の「任那」であるということだ。歴史認識と
 しては、無理なく繋がっていると思うのだが、「金官加羅」の王墓遺跡か
 らは、「倭」に繋がる出土はあっても、その規模から「倭国」の直接支配
 は否定されているから、「狗邪韓国」と「金官加羅」との間には、支配者
 の交代があった、と考えるべきなのだろうか。

  さらに、「新羅」に併合された「南加羅」は、「金官加羅」の別名であ
 るということだ。

  これは、


  「新羅が掠めとった国、南加羅・喙己呑らを奪いかえし、もとの任那に
 返し、…」


  と重なってくる。「南加羅・喙己呑」は「もとの任那」であった「金官
 加羅国」に属していた、つまり「金官加羅国」だったことになり、これに
 よって国土比は、


 
 金官加羅>南加羅・喙己呑≒狗邪韓国


  であったことがわかる。

  『敏達紀』の四年六月に、


  「新羅が使いを遣わし調をたてまつった。恒例よりも多かった。」



  と記されているが、これに続いて、


  
「同時に多多羅・須奈羅・和陀・発鬼の四ヵ村(もと任那であった)の
 調をたてまつった。」


  とあるが、このように「新羅」が併合した「任那」の調を、代理するこ
 とがあったとすれば、総合的に考えてみて、「倭国」は「任那」を実行支
 配していたのではなく、「任那」に対して権利行使をしていたのだと思わ
 れる。

  「伽耶」は、天皇家の故地だったかもしれないが、それ以上に鉄が出た。
 「伽耶」諸国が、大国として統一せず小国のままであったのは、「伽耶」
 各国が鉄を商売にしていて、王個人が莫大な財力を築いていたからだろう。

  『後漢書東夷伝』は、「伽耶」について次のように記している。


  
「国は鉄を出す。穢、倭、馬韓、並び従て之を市す。凡そ諸貿易、皆鉄
 を以て貨と為す。(「穢」は三水)



  どういうことかというと、ヤマト王権は「狗邪韓国」を既成事実として、
 「南加羅・喙己呑」の鉄の採掘権を持っていたか、軍事力の提供を代価と
 して買っていたのではないか、ということである。

  「金官加羅」が「新羅」領土になり、「任那」復興が叶わないとわかっ
 たとき、「倭国」側は「新羅」に権利要求したのではないか。
  敵国であるはずの「新羅」が、なぜか義理堅くこれに応えたことになる
 が、全面戦争になって、「百済」が漁夫の利を得ることを避けたのかもし
 れない。

  第二の疑問点は、


 
 「遠く離れている壱岐の海路を、わざわざ目頬子がやってきた。」


  の記述である。

  先にも述べたが、「壱岐」の海路の向こうは「対馬」でしかない。しか
 し、そこは「任那」であったという。

  それでは、「対馬」は「任那」であったのか、という疑問である。

  『桓檀古記・高句麗国本紀』には、興味深い記述がされている。


  
「任那はもと対馬島の西北界にあり、北は海であり阻まれている。…
 後に対馬二島は任那の制するところとなり、これより任那は対馬の全称
 となった。」



  『桓檀古記』は20世紀になってから書かれたものであり、偽書とされ
 ているものだが、「任那」が「対馬」にあったと記すことは、まことに興
 味深いし、そうではなかったか、と考えたくなる伝承もなくはない。

  しかし、これはもはや『捨て去り難い説』の範疇であるし、そちらでい
 ずれ述べる機会もあろう。

  「日本府」に関してはここを終章にするが、残念なのは、朝鮮の『日本
 書紀』研究家から、「任那日本府」は「倭国」の行政機関ではなく、「百
 済」の行政機関等の声が聞こえて来ないことである。
  『日本書紀』を素直に読めば、「任那日本府」と「倭国」が無関係どこ
 ろか、友好的でないことは一目瞭然である。そこで、もう一歩踏み込んで
 考えれば、「日本」の名称が「倭国」のものではないことは、おのずと判
 明する。
  日・朝、両国の史家は「日本」という文字にとらわれすぎて、真実から
 自ら遠ざかっているように思う。それは朝鮮の史家に、より顕著に現れて
 いる。ナショナリズムという言葉に換えて。

                          2010年1月 了