真説日本古代史 エピソードの三


   
持統天皇




   
1.菟野讃良皇女


  持統天皇、『日本書紀』最終巻の天皇である。

  これまで、説話を通じて歴史上の人物と接してきたつもりなので、表題
 を特定の人物にすることなく執筆してきた。
  たとえば、『大化の改新』からみた「中大兄皇子」や「蘇我入鹿」。あ
 るいは、『壬申の乱』からみた「大海人皇子」というようにである。
  従って、ある事件があって、その事件にいたるプロセスの中での人物説
 話を展開してきたのだが、持統にいたっては、彼女そのものが事件である
 ような気がしてならない。つまり、持統が天皇であったこと自体、事件で
 あったのではないかということだ。

  表題は、そんな理由からである。

  まずは、簡単にプロフィールをご紹介しておこう。


  
第四十一代 持統天皇

  幼名・別称:菟野讃良皇女(うののさららのひめみこ)
  高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)
  大倭根子天之広野日女(やまとねこあまのひろのひめ)

  生没年:645〜703.12.22

  672 壬申の乱
  686〜称制
  690 即位
      庚寅戸籍作成
  694 藤原京遷都
  697 太上天皇

  在位期間:690.1.1〜697.8.1

  父:中大兄皇子(天智天皇)
  母:嬪:蘇我遠智娘(蘇我倉山田石川麻呂の女)
  夫:大海人皇子(天武天皇)
  子:草壁皇子

  皇居:飛鳥浄御原宮・藤原宮
  陵墓:檜隈大内陵(奈良県高市郡)


  さて、持統の父は天智天皇であるから、血筋から言っても皇后であるこ
 とは問題がないのだが、母である「越智娘」(おちのいらつめ)は、「蘇
 我石川倉山田麻呂」の娘であるというから、これには驚きを隠せずにはい
 られない。
  「倉山田麻呂」と言えば、「中大兄」に謀反の罪を着せられて自殺にお
 いこまれている。しかも彼の首は亡骸から切り離され、なおも太刀で刺さ
 れたというではないか。
  『日本書紀』は冤罪であった、と証言しているにもかかわらず、この憎
 しみに充ち満ちた行為は、大いなる疑問ではあるが、父の宿敵を夫に持っ
 た「越智娘」の心境も、私の理解を超えている。

  『日本書紀』をみていると、こういった事例に何度か出くわすので、時
 代が違えば現代流と勝手が違うのだろうと、深追いはしてないが、追求す
 れば何か発見があるのかもしれない。

  「菟野」自身は、自らを天智の娘と位置づけていたのだろうか。それと
 も天武の后としての立場を、重んじたのであろうか。

  『壬申の乱』は「大海人」に追従した「菟野」からみれば、異母とはい
 え、姉「菟野」と弟「大友」とで争ったとも言えなくはない。そう考えれ
 ば、後者と言えるのかもしれない。

  「菟野」には同母姉の「太田皇女」(おおたのひめみこ)がいたのだが、
 彼女もまた「大海人」に嫁いでいる。否、嫁がされていると言ったほうが
 正解だろう。
  「太田」は「菟野」の姉であったのだが、天武の皇后ではなかった。序
 列で言えば、皇后になってしかるべきなのであろうが、残念ながら、彼女
 は天智七年に他界している。
  あまり触れられることはないが、天智の娘で天武に嫁いでいる者は、実
 は彼女たち二人だけではなかった。「大江皇女」もその一人であり、「長
 皇子」(ながのみこ)・「弓削皇子」(ゆげのみこ)を生んでいる。

  しかし、通称、吉野の誓い(天武は、菟野と高市・大津・草壁・忍壁・
 川島・芝基の六皇子と吉野行宮に出かけ、二心のないことを天地の神々に
 誓い合った)で知られる会盟の時には、「長」と「弓削」の名がみられな
 いことから、遅くに嫁いだのだろう。

  そして「太田」の子が「大津皇子」であり、「菟野」の子が「草壁皇子」
 (くさかべのみこ)である。 



   
2.大津皇子


  『壬申の乱』の当時、「大津」十歳、「草壁」十一歳であった。

  その後「大津」は謀反の罪で殺され、「草壁」は皇太子にと、明暗を分
 けた二人であったが、この両皇子は、『壬申の乱』への関わりかたからし
 て、大きく異なっていた。
  「大海人」が「吉野」を立ったとき、「大津」は「近江朝」に残ってお
 り、「草壁」は母「菟野」とともに、「大海人」に伴って出発している。

  「大津」の母「大田」は、天智七年に亡くなっているので、「大津」が
 「近江朝」に残っていたこともうなずけるが、『持統紀』にある


  「皇子大津は天武天皇の第三子で、威儀備わり、言語明朗で天智天皇に
 愛されていた。成長されるに及び有能で才学に富み、特に文章を愛された。
 この頃の誌賦の興隆は、皇子大津に始まったといえる。」


  という一文が、「大津」が並々ならぬ人物であったことを偲ばせる。

  しかし、本論からは少し離れてしまうが、「大津」が天武ではなく、天
 智に愛されていたという意味を考えてみたい。
  もちろん、天武が父であるからには、天武も「大津」を愛していたこと
 であろうが、『日本書紀』にこうして残っている以上、「大津」に対する
 天智の思いは、ひとかたならぬものであった言わざるを得ない。
  それは、「大津」の母「大田」を、天智の母・斉明天皇と妹の孝徳皇后
 の合葬陵の前に葬ったことからも、想像できることだ。

  ところで、そもそも「大津」の名前の由来は、どこにあるのだろうか。
 一般的には、出生地であった「那の大津」(博多湾)に由来すると言われ
 ている。しかし、兄である「草壁」もまた「那の大津」で生まれているら
 しい。
  するとどうだろうか。先に生まれた兄「草壁」こそ、「大津」と名づけ
 られるべきだったのではないか。
  従ってこの所伝を信じるものとすれば、兄「大津」、弟「草壁」であっ
 たほうが、むしろすっきりするように思える。

  また別の視点から推察すると、天智の都「近江大津宮」に由来するとも
 考えられる。

  そう考えた場合、天智が甥「大津」を溺愛していたとすれば、自らの宮
 の名称を名乗らせていても不思議ではないが、「大津」が幼名当時のまま
 で改名していないとすれば、はじめから次男に「大津」の名を与えるつも
 りだったことになり、これはいくらなんでもおかしいのではないか。
  長男を溺愛したというならともかく、「大津」という名を用意してまで
 も可愛くて仕方がない、しかし未だ見たことのない次男の誕生を待った、
 という恐ろしい矛盾にぶち当たってしまう。

  さて少し整理して考えてみよう。

  「大津」の名の由来が、「那の大津」であれ、「近江大津宮」であれ、
 皇子「大津」は長男でなければ、つじつまが合わないだろう。
  そしてその名の由来は、「那の大津」である。また近江「大津宮」も、
 「那の大津」に由来するものと考える。事実、『持統紀』では、『天智紀』
 の「長津宮」を「大津宮」と表記している。

  地名としての「大津」の名の初見は、


 
 「大津の名が日本歴史の表舞台に登場するのは、天智天皇の大津京遷都
 (667年)。大津京は壬申の乱を経てわずか5年で滅びましたが、8世
 紀末に都が京都に移ると、大津は都の玄関口として重要な位置を占めるよ
 うになりました。」(『大津市役所のホームページ』より)


  であるというが、、実は、『持統紀』のそれを除いて、『日本書紀』に
 「大津宮」という名称は出てこない。

  「大津京」・「大津宮」・「近江京」・「近江宮」と、私自身も、統一
 して使っていないが、『日本書紀』は「近江」云々で一貫している。

  ではその当時、「大津宮」とは呼ばれていなかったのだろうか、と問わ
 れれば、決してそんなことはないはずだ。
  なぜなら同時代の『万葉集』は、天智のことを「近江大津宮御宇天皇」
 と表現しているからである。

  しかし、元来「近江」にあった地名ではなく、遷都と同じくして名づけ
 られたのだと思う。天智にとっての「大津」とは、「那の大津」、すなわ
 ち「長津宮」(『持統紀』では「大津宮」)のあった「博多の大津」であ
 り、「筑紫」と言われたそこは、かつての「百済」(多武峯の百済)の領
 有地だった。と言うよりも、「百済」そのものであった
  白村江の敗戦の後、「筑紫」は「唐」の敷いた占領政府「筑紫都督府」
 の管理下に置かれ、「中大兄」らは「近江」に新天地を求めるが、そこに
 「大津」の名称を用いたのは、故郷を偲んでのことだったに違いない。

  天智にとって「大津」とは、他に代え難い名称だったのだろう。

  にもかかわらず、『日本書紀』に近江「大津宮」がでてこないのはどう
 いうわけだろうか。
  『日本書紀』で「大津」の名称が用いられているのは、『持統紀』にお
 ける「大津宮」と「大津皇子」だけでしかない。しかも『天智紀』では一
 切触れられていない。

  これらが偶然でないとすれば、理由は二つ考えられる。

  そのうちのまず一つめは、


  「那の大津宮」と「近江大津宮」との紛らわしさを防ぐため。


  である。

  「博多」でも「近江」でも「大津宮」は「大津宮」であろうから、その
 まま表記すれば確かに紛らわしいのだが、「博多」の「大津宮」は『持統
 紀』にあるだけで、『天智紀』では同じ宮を「長津宮」と称している。
  従ってすでに区別されており、この理由は当てはまらないことになる。

  残りのもう一つはと言うと、


  「大津宮」と「大津皇子」の関係を隠すため。


  である。

  もちろんこれは、「大津皇子」の名の由来が、「大津宮」にあることが
 前提であり、ここでいう「大津宮」は「博多」の「那の大津宮」のことで
 ある。「近江大津宮」とも考えられなくもないが、先にも述べたことから
 も、「那の大津宮」が適当だろう。

  こう考えてみると、『持統紀』にある「大津宮」は、うっかり本当のこ
 とを書いてしまったのではないか、と疑いたくなってくる。

  このことは結構周到に用意されていたようで、『斉明紀』には、「長津
 宮」の由来をこう載せている。


 
 「三月二十五日、船は本来の航路に戻って、娜大津についた。磐瀬行宮
 におはいりになった。天皇は名を改めてここを長津とされた。」


  しかしながら、「長津」と改めたと力説するわりには、その由来らしき
 ものが何もない。

  一般的に「長津」は、福岡県の「那珂津」のことと考えられているが、
 平成16年の市町村合併で誕生した、愛媛県四国中央市に村山神社(土居
 町)がある。
  神社伝承によれば、ここが通称「長津宮」であるというのだ。

  ここは天照大神を正殿に祀り、「長津宮」の名に相応しく、天智と斉明
 天皇をそれぞれ配祀しているが、斉明一行は道後温泉(熟田津の石湯行宮)
 を経由して、「長津宮」に入っており、村山神社を「長津宮」とすると、
 位置的におかしいことになる。
  地図を開けていただければ一目瞭然だが、道後温泉のほうが、はるかに
 西に位置しており、一行は村山神社を通り過ぎて、道後温泉に向かい、そ
 こから引き返したことになる。

  村山神社の伝承によれば、

      ・・・・          ・・・・    
  「御船を還えして娜の大津磐瀬の行宮に還行され…」


  ということだから、わざわざ大回りをしたということになるのだろうか。

  『日本書紀』でも、


  「御船還りて梛大津に至る」(全現代語訳では「船は本来の航路に戻っ
 て、梛大津についた」となっている)


  となっており、松本清張氏は斉明が前線基地である「壱岐」・「対馬」
 を視察し、その際「唐」の水軍に狙撃されて負傷し、急きょ「娜大津」に
 還ったと解しているくらいだから、行き過ぎて戻ったとしても、解釈上は
 可能なのだろう。

  いずれにしても、こういった伝承からも、本来「大津宮」と「長津宮」
 は別の地であったにもかかわらず、「大津」の名称を隠さなければならな
 い理由から、「長津宮」としたり、『天智紀』で「大津宮」・「大津京」
 をそれぞれ、「近江宮」・「近江京」と言い換えたりしたことは、考えら
 れないことではないと思う。

  しかしながら問題は、隠さなければならない理由にある。

  多くの場合、隠そうとすればするほど、誰の目にもわかってしまうもの
 であるが、今回も例外ではないだろう。

  この滑稽なほど大げさな「大津」隠しの事実に、気づいてしまったこと
 によって


  「言語明朗で天智天皇に愛されておられた。」


  の一文が、俄然旭光を浴びてくる。
              ・・
  これは『持統紀』におけるある一文である。この部分を含む全文を紹介
 すると、次のようになる。


  「冬十月二日、皇子大津の謀叛が発覚して、皇子を逮捕し、合わせて皇
 子大津に欺かれた直広肆八口朝臣音橿・小山下壱伎連博徳と、大舎人中臣
 朝臣臣麻呂・巨瀬朝臣多益須・新羅の沙門行心と帳内礪杵道作ら三十余人
 を捕らえた。
  三日、皇子大津に訳語田の舎で死を賜わった。時に年二十四。妃の山辺
 皇女は髪を乱し、はだしで走り出て殉死した。見る者は皆すすり泣いた。
 皇子大津は天武天皇の第三子で、威儀備わり、言語明朗で天智天皇に愛さ
 れておられた。成長されるにおよび有能で才学に富み、とくに文筆を愛さ
 れた。この頃の詩賦の興隆は、皇子大津に始まったといえる。」

      ・・
  私はこのある一文に、著しい違和感を覚えてしまう。

  「大津」の謀反の記事の中にあるからだけではない。これが『持統紀』
 に記されているからである。
  謀叛という犯罪者に対する讃辞もさることながら、天武と天智の仲を考
 えた場合、天武の子を天智が愛したという記録が、にわかには信じられな
 いのである。

  そしてなぜ『持統紀』なのだろうか。

  仮に『天智紀』に「大津」のことが一言でも記載されていれば、これほ
 どの違和感は感じなかっただろうと思う。
  このように『天智紀』において、隠しに隠し続けてきたという事実と、
 『持統紀』で感じる得るこの違和感は、この記録が、まさに真実の暴露で
 あることを、物語っているのではないだろうか。
              ・・・・
  その真実とは、「大津」は天智の子であった、ということだ。

  こう考えることで、「大津」のことを隠さなければならなかったことと、
 天智が「大津」を愛していたことが、何の矛盾もなく繋がってくる。

  そして、『壬申紀』における

 
             ・・・・・・
  「『山部王・石川王らが、服属するためにやって参りましたので、関に
 とどめてあります』といってきた。天皇は路直益人を遣わして呼ばれた。」

  「このとき益人が到着して奏上し、『関においでになったのは、山部王、
 石川王ではなく、大津皇子でありました』といった。やがて益人の後から
 大津皇子が参られた。」


  という勘違いも、「大津」が近江方に属していたからこそ成り立つので
 あり、「大津」が「大海人」を追って来たのならば、

  
 ・・・・・・・
  「服属するために」


  というくだりは絶対に必要としない。さらにそこには、やってくるはず
 のない「大津」がやってきた、という驚きさえも表現されているように思
 える。
  「高市」が合流したときには、何の感情も記していないにもかかわらず、
 「大津」の場合は、


  
「天皇は大いに喜ばれた。」


  とある。これがまさにそれである。

  ただし、問題は残る。

  「大津」が天智の子であったとしたら、その母は誰であったかだ。まさ
 か自分の娘が妃だった、というわけにはいくまい。

  ところで、このとき「大津」に帯同してきた者達は、


  「大分君恵尺」(おおいたのきみえさか)
  「難波吉士三綱」(なにわのきしみつな)
  「駒田勝忍人」(こまたのすぐりおしひと)
  「山辺君安麻呂」(やまべのきみやすまろ)
  「小墾田猪手」(おはりだのいて)
  「泥部氏枳」(はずかしべのしき)
  「大分君稚臣」(おおいたのきみわかみ)
  「根連金身」(ねのむらじかねみ)
  「漆部友背」(ぬりべのともせ)


  ら、であるという。

  彼らの出身は不明であるが、「大海人」脱出の情報により、近江朝では
 大騒ぎであったという。この様子を『日本書紀』は、


  「群臣はことごとく恐れをなし、京の内は騒がしかった。ある者は逃げ
 て東国に入ろうとしたり、ある者は山に隠れようとした。」


  と記している。

  彼らこそ、このある者に相当するのだろうと思う。



   
3.草壁皇子


  前項でも述べたが、「高市」や「大津」と違って「草壁」は、「吉野」
 脱出の時点から、「大海人」と行動を共にしている。
  これを逆手にとれば、「草壁」は「近江朝」にポジションはなく、考え
 られ、天武の時代になってから、それなりのポジションを与えられたのだ
 と考えられる。

  「草壁」と「大津」は、比較されることがよくあるが、大変優れた人物
 であったと評価される「大津」に比べ、「草壁」は病弱で情けないイメー
 ジがついて回っているようである。
  これに関しては、何ら根拠があるわけではないが、持統の政治手腕と対
 で語られることが多く、持統あっての「草壁」のように思われてしまうの
 だろう。
  実際のところ、そんなことはなく、「柿本人麻呂」は悲しみにあふれた
 「草壁」への挽歌を詠んでいる。

  さて、『万葉集』は「草壁」の歌を一首掲げている。


 
 「日並皇子尊、石川郎女に贈り賜ふ御歌一首 女郎、字を大名兒といふ
 大名児を彼方野辺に刈る草の束の間もわれ忘れめや」
 (巻2−110)


  上記がそれである。「大名兒」(おほなこ)とは「石川郎女」のことで
 あるが、貴女をつかの間も忘れることはない、というよく言えば素朴な恋
 心を歌った歌なのだが、何の手練れもない歌でしかない。

  「石川郎女」への歌は、「大津」もまた歌っている。そして「石川郎女」
 はこれに歌を返している。


  「大津皇子、石川郎女に贈る御歌一首 
 あしひきの山のしづくに妹いも待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに」
 (巻2−107)

  「石川郎女、和へ奉まつる歌一首
 吾を待つと君が濡れけむあしひきの山のしずくに成らましものを」
 (巻2−108)


  これらがそうであるのだが、貴女を待っているうちに山の雫で濡れてし
 まった、と歌う「大津」に、「石川郎女」は、私を待って貴方が濡れたと
 いう山の雫になれたらよかった、と応じている。愛し合う男女の姿が見て
 取れる。残念ながら「草壁」の思いは、「石川郎女」には届かなかった。
  また『万葉集』はこの次段にも、「大津」の歌を掲げている。


  「大津皇子、竊に石川郎女に婚ふ時、津守連通とほるその事を占へて露
 はすに、皇子の作りましし御歌一首 未だ詳らかならず
 大船の津守の占に告らむとはまさしに知りてわが二人宿し」
 (巻2−109)


  これなどは、「津守」の占いに知られていることだろうが私は「石川郎
 女」と寝たのだ、という何とも大胆な歌である。

  お気づきになられただろうが、これらの歌は連番になっており、否が応
 でも「草壁」と「大津」を比較してしまう。「草壁」が情けない男に感じ
 られるのは、このせいもあるのだろう。私情をはさめば、純朴な「草壁」
 のほうが好感が持てるのだが、艶っぽい歌をやりとりする「大津」に人気
 が集まるのは、当然なのかも知れない。

  話がそれてしまったが、『日本書紀』による「草壁」の死は、持統三年
 (689)の四月十三日のことであるという。天武の崩御が686年であ
 るのだから、「草壁」は皇太子のまま、即位せずに3年間を過ごしたこと
 になる。

  天皇崩御数年を経過後、皇太子が即位した例は、例えば、天智がそうで
 あるように、前例がないわけではない。
  しかし天智は、「白村江の戦い」を目前にしていた、という前提があっ
 た。

  「草壁」の場合はどうであろうか。

  『日本書紀』に目を通してみても、天武崩御から「草壁」がこの世を去
 るまでの3年間に、特に変事らしいものは起こっていない。
  あえて言うならば、「大津」の謀叛があげられるのだろうが、これにし
 たところで、天武崩御翌月のことであるから、3年という経過期間は大し
 て変わらない。

  この件に付随して、気になることがある。

  『日本書紀』は、天武崩御後の次期天皇を、始めから「菟野」に決まっ
 ていたかの様に記していることだ。
  歴史書自体、事実の跡追いであることから、どのようにでも記すことが
 できるのだが、皇后が次期天皇に決まっていれば、立太子の意味がない。
  それは、『持統紀』の次の箇所である。


 
 「朱鳥元年九月九日、天武天皇が崩御され、皇后は即位の式もあげられ
 ぬまま、政務を執られた。」


  少なくとも、この時点では、皇太子「草壁」がいるのだから、皇后が即
 位の式をあげられるわけがなく、「草壁」が若く(と言っても25歳)執
 政が困難であったにしても、このことと皇后即位とは別問題である。

  にもかかわらず、皇后即位が当然の様に記されていることは、「草壁」
 が即位することは念頭に置いてなかった、ということである。

  そもそも皇太子とは、皇位継承の第一順位にある皇子なのだから、継承
 権を自ら放棄するか剥奪でもされない限り、即位しない、させないという
 ことはあり得ないはずである。

  「草壁」の立太子は、『天武紀』十年二月二十五日の条にみられ、


  「草壁皇子を立てて皇太子とし、一切の政務に預からせた。」


  と記されている。これが事実とすれば、天武崩御後、「菟野」が即位し
 ないまま執政したことは嘘になる。「草壁」執政ならば、天武の崩御に関
 係なく、「草壁」執政のままであろうからだ。
  その後、新体制となり、「菟野」執政となったというならば話は別だが、
 それにしたところで、「菟野」に皇位継承権が発生するわけではない。

  逆に「菟野」執政が事実とすれば、「草壁」執政はなかったことになり、
 そればかりか、「草壁」立太子さえ疑わしくなろうというものだ。

  そろそろカードが出そろってきたようである。

  「大津」亡き後の皇位継承資格者の第一候補は、「菟野」の策謀の有無
 にかかわらず、「草壁」以外いなかったはずである。
  それは「大津」と「草壁」が、天武と天智の血を引いているというから
 だけではない。この条件に合う皇子ならば、「長皇子」、「弓削皇子」が
 いる。彼らの母は、天智の娘「大江皇女」(おおえのひめみこ)であり、
 まさに、天武と天智の血を引いている。

  しかし、彼らが「大津」・「草壁」と決定的に異なることは、「蘇我氏」
 の血縁でないことだ。
  「蘇我氏」が権力の中枢に登場して以来、それが「藤原氏」に移るまで
 は、天皇に即位できた者は、「蘇我氏」出身の皇后を持つか、「蘇我氏」
 出身でなければならなかった。女帝で言えば、推古・持統・元明・元正が
 「蘇我」系であり、敏達から天武まで、舒明を除き「蘇我」系の皇后であ
 る。(多武峰百済朝並立時代の、舒明・皇極は敵対勢力であった、と考え
 ているので、これを除く)

  このことは『日本書紀』が、「蘇我入鹿」に代表される「蘇我氏」を、
 どんなに悪者にしたてようとしても、その裏で当の『日本書紀』自体が、
 認めざるを得ない、歴史的事実なのである。

  このような位置にいた「草壁」であったから、立太子などなくても、即
 位できたはずであり、それをとがめる条件はなかったはずなのだ。

  にもかかわらず、即位しなかった、できなかったのには、もちろん理由
 があるはずである。
  それは「菟野」自ら即位するためなどという、いわゆる「菟野」の意志
 の問題ではない。
  私の考えるところによると、それは物理的な意味で不可能であった。

  『懐風藻』の次の記述が大変興味深い。


 
 「皇子は、浄御原帝の長子なり。状貌魁梧、器宇峻遠。幼年にして学を
 好み、博覧にして能く文を屬る。壮に及びて武を好み、多力にして能く剣
 を撃つ。性頗る放蕩にして、法度に拘れず、節を降して士を礼びたまふ。
 是れに由りて人多く附託す。時に新羅僧行心といふもの有り。天文卜筮を
 解る。皇子に詔げて曰はく、『太子の骨法、是れ人臣の相にあらず、此れ
 を以ちて久しく下位に在らば、恐るらくは身を全くせざらむ』といふ。よ
 りて逆謀を進む。此の言圭誤に迷い、遂に不軌を図らす。嗚呼惜しき哉。
 その良才を蘊みて、忠孝を以ちて身を保たず、此の奸豎に近づきて、卒に
 戮辱を以ちて自らを終ふ。古人の交遊を慎みし意、よりて以みれば深き哉。
 時に年二十四。」


  皇子とは「大津」のことであり、浄御原帝とは天武のことである。

  重要なことは、「大津」は天武の長男であり、『日本書紀』が全然触れ
 ていない謀叛の理由に言及し、その中で「新羅」僧の行心が、太子と呼び
 かけていることである。

  太子とは皇太子のことに他ならない。謀叛を企てた「大津」がこのとき
 皇太子であったとすれば、「草壁」が立太子していたはずがない。

  つまり、「草壁」は皇太子ではなかったことになる。

  しかし先にも述べたように、この場合、立太子していないことが、即位
 の妨げにはならない。
  ちなみに、天平宝字二年(758)、「草壁」は「岡宮御守天皇」名を
 送られている。もちろん即位してたわけではない。



   
4.長屋親王


  1986年9月、奈良市二条大路南の、奈良そごうデパートの建設予定
 地の調査が、奈良国立文化財研究所により始まった。ここは平城宮東南角
 に隣接する一等地であった。
  翌1987年、井戸跡から木簡が発見され、赤外線カメラによる調査の
 結果、なんと「長屋皇宮」の文字が浮かび上がった。

  さらにその翌年1988年8月、土砂の中から大量の木簡が発掘され、
 その数は3万5千点(削屑含む)にも及んだ。
  その後、発掘された木簡調査で、この地が長屋王邸跡だと判明したので
 ある。

  中でも注目されたのが、


  
「長屋親王宮鮑大贄十編」
   (奈良文化財研究所 木簡データベース『長屋親王』)


  と墨書きされた荷札木簡である。

  「長屋王」は「高市」の長子であり、天武の孫である。「親王」とは天
 皇の子または兄弟のことを指すため、孫である「長屋王」は該当しないは
 ずである。
  しかし、それは編纂された文献史料の中の話であって、出土文字資料の
 木簡が第一次史料であるとすれば、文献史料は第二次史料でしかない。

  「長屋王」が「親王」と称された理由を、「吉備内親王」と結婚してい
 ることから「親王」扱いされた、とする説もあるが、「長屋王の変」の原
 因ともなった、藤原夫人「宮子」(聖武天皇の母)の称号問題で、「長屋
 王」自身が、


  
「律令の規定では天皇の母は皇太夫人となるべき」


  と意見しているくらいだから、自ら律令の例外となる「親王」を称する
 はずがないし、通称であっても納得しないだろう。このとき聖武天皇は、
 「宮子」に大夫人と称するとの勅を布告したのであった。

  ちなみに長屋王の変とは、729年2月長屋王謀反の密告があり、それ
 をうけて「藤原宇合」(ふじわらのうまかい)らの率いる六衛府の軍勢が、
 「長屋王」邸宅を包囲し、「長屋王」・「吉備内親王」と四人の息子達を
 死に追いやった事件である。

  「長屋王」の罪状は、


  
「長屋王が左道を学び、国家を傾けようとした」


  であったというが、「藤原氏」の陰謀という説が濃い。

  「長屋王」が「親王」であったという事実は、歴史が覆ってしまうほど
 衝撃的である。
  なぜならば、「長屋親王」であれば、その父「高市」が天皇だったこと
 を、証言しているからである。

  しかし『日本書紀』によれば、「高市」が活躍した時代の天皇は、持統
 天皇である。持統は「草壁」の死の翌年、持統四年(690)に即位し、
 同年七月、「高市」は太政大臣になっている。

  持統の次代の天皇は文武天皇である。『続日本紀』によれば、


  
「持統天皇の十一年に皇太子にお立ちになった。」


  と立太子の記録を載せるが、『日本書紀』の持統十一年に、「軽皇子」
 立太子の記録はない。立太子というとりわけ重要な件について、記載漏れ
 があったというのも解せない話なので、立太子のいきさつが掲載に相応し
 くないというのが、本音であろうか。

  ところが『日本書紀』が隠そうとしたいきさつも、『懐風藻』には次の
 ように記されている。


  
「高市皇子薨じて後、皇太后、王公卿士を禁中に引きて、日嗣を立てん
 ことを謀る。時に群臣おのおの私好を狭んで衆議粉紜たり。王子進奏して
 曰く、「わが国家の法たるや、神代よりこの典を以て仰いで天心を論ず。
 誰かよく敢へて測らん。しかも人事を以てこれを推さば、従来子孫相承し
 て以て天位を襲ぐ。もし兄弟相及ぼさば、すなわち乱れん。聖嗣自然に定
 まれり。この外たれか敢へて間然せんや」と。


  これはどういうことかというと、高市皇子薨去後の持統十一年、皇太子
 を決める話し合いが宮中でもたれた。論議が紛糾した時、「葛野王」(十
 市皇女と大友の子)は、


  「わが国では子孫が相続して皇位を継ぐことになっている。兄弟が相続
 すればそこから争乱が起こるだろう。天子の世継ぎは決まっており、よけ
 いな事を言うべきではない」。


  として、「軽皇子」を推したのである。この後、「弓削皇子」は、意見
 しようとしたものの、葛野王に叱止されたと続けている。

  この言葉が、天智・天武を指していることは容易に想像がつくし、過去
 には宣化・欽明の例もある。

  この「葛野王」は天智の孫に当たり、「壬申の乱」がなければ、皇位に
 着いていた可能性もあるから、この言葉の意味は慎重に考えなければなら
 ない。

  また、この内容だとすると、『日本書紀』があえて隠そうとする必然性
 は、見られないのではないか。
  「葛野王」の言っていることは、至極もっともであるし、皇位継承が、
 このようなマニュアルに基づいていれば、誰からも文句が出ない、納得す
 る皇位継承が行われているはずなのである。

  さらに、この会議が「高市」の没後であったことに注目したい。

  なぜ「高市」没後に、急きょ皇太子を決めることになったのか。素直に
 考えれば、「高市」が太政大臣任期中、さらには、「草壁皇子」の喪が明
 けた後、皇太子の決定がされたほうが、よほど自然であるし、普通はそう
 なのではないだろうか。

  実際には皇太子の決定が、何らかの理由によりできていなかった、とい
 うこともあり得よう。
  しかし、皇太子の問題を棚上げしたとしても、この会議の席上での「葛
 野王」の発言が、クローズアップされたということは、少なくとも直前の
 皇位継承は、そのように行われていなかったという、証拠以外の何もので
 もない。

  「高市」没後の緊急会議。これを考えると、「高市」が皇太子であった
 か、政治改革により新たに皇太子の選出が必要になったか、のどちらかで
 あると思う。

  が、「高市」皇太子説の可能性は薄い。「長屋王邸出土木簡」の発見に
 より、「高市」が天皇であったことが判明してしまったからである。

  つまり「高市」の死とは、すなわち高市天皇の崩御にほかならない。

  『日本書紀』は、「高市」を天皇とは称していない。

  しかし出土文字史料である木簡は、同時代性である点において、『日本
 書紀』等の二次的な編纂史料よりも、圧倒的に優先されるべき第一次的史
 料であり、当時のままの真の歴史がそこに息づいている。これらをもって
 歴史はたえず見直されているはずなのだが。
  同時代に書かれ使われていた木簡の発見は、編纂史料だけに頼った歴史
 を訂正してくれるのだろうか。

  高市天皇を証明する史料は、なにも木簡だけではない。

  編纂史料である『懐風藻』にも間接的ながら、証拠を残している。

  先述した「葛野王」の発言の部分を、読み返していただきたい。

  どこか奇異な感じを抱かれないだろうか。

  それは冒頭の次の部分である。


  「高市皇子薨じて後、皇太后、王公卿士を禁中に引きて、」


  おわかりになっただろうか。皇太后である。皇太后とは、私が知りうる
 限りでは、天皇の母か、先の天皇の皇后のことであり、決して女帝を指す
 名詞ではない。
  「大辞林」(三省堂)では、


  「先代の天皇のきさき。天皇の母で、皇后であった人。皇太后宮。おお
 きさき。」


  であり、大きな違いはない。この皇太后とは、「菟野」のこととして記
 されており、ずばり持統のことである。
  『日本書紀』によれば、持統が皇太后であった次期は、天武没後から、
 自ら即位するまでの、約二年間のはずである。ところが、「高市」没した
 この時期でさえ皇太后であるとは、いかなることだったのだろうか。

  これは、「菟野」が天皇ではなかったことを意味していると思う。

  換言すれば、このときの天皇が「高市」であった、ということになる。

  ただし、ことはそう単純ではない。結論づける前に、立ちはだかる問題
 がひとつある。

  それは、天皇という尊称についてである。



   
5.天皇と大王 


  平成10年3月3日の『朝日新聞』朝刊には、次の様な記事が掲載され
 ている。


  「奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から、七世紀後半の天武朝のものとみら
 れる『天皇』と書かれた最古の木簡をはじめ七世紀後半から八世紀初めに
 かけての木簡5000点以上が出土したと2日、奈良国立文化財研究所が
 発表した。これまで『天皇』と書かれた木簡は奈良市の平城宮跡から出土
 した八世紀中ごろのものが最古とされてきた。今回、現在の岐阜県から宮
 中の新嘗祭(にいなめさい)に使う米をおさめたという内容が読み取れる
 木簡も発見されており、同研究所は『七世紀後半には、天皇の呼称がすで
 に使われ、律令制度が地方まで整備されていたことが確認できる』として
 いる。木簡は、土坑(ごみ捨て穴)や幅6メ−トル余りの溝など4カ所か
 ら出土した。公表された木簡はいずれも長さ12−15センチ、幅2−4
 センチで、
 @『天皇聚□弘・・・』
 A『丁丑年十二月三野国刀支評次米・ 恵奈五十戸造阿利麻・・・』
 B『観勒・・・』などの五つ。
 @の『天皇・・』の木簡には、年月の記述はなかったものの、天武朝(6
 72−688年)の時期である『丁丑年(677年)』と書かれた木簡が
 同時に出土していることから同研究所は天皇と書かれた最古の木簡と判断
 した。『大王』の呼称が『天皇』に変わった時期について、七世紀初めの
 推古朝という説や、天武朝とそれに続く持統朝で確立し、689年の飛鳥
 浄御原令(あすかきよみがはらりょう)で規定されたという説などかある。
 今回の発見で、天武朝時代には、すでに天皇の呼称が使われていた可能性
 が高まった。また、Aの木簡は、677年12月に美濃国(三野国)土岐
 郡(刀支評)恵那の五十戸造(さとのみやつこ)が、天皇の新嘗祭の神事
 で使う主基米(次米=すきのこめ)を収めるとした荷札らしい。
 Bの『観勒(かんろく)』は百済の僧の名で、602年に来日し、聖徳太
 子の仏法の師だったといい、来日当時、飛鳥寺に居住していたといわれる
 伝来を裏付けているものという」


  この論文を執筆中の現在までに、この記事より新しい出土情報は聞こえ
 てこない。
  天皇という尊称は、記事にあるように「推古朝」からとも、「天武朝」
 からとも言われているが、例えば、「推古朝」からであると推理したとし
 よう。しかし、それを証明できるだけの出土文字史料がない。典籍などの
 編纂史料には、あの有名な


  
「日を出ずる処の天子…」


  など類推できそうな単語も見受けられるが、木簡に比べれば二次的な史
 料でしかないことは、先に述べた理由からである。
  今後、新たなる史料が発見された場合は別にして、天皇の初見は「天武
 朝」であったと考えている。

  ではそれ以前までは、どういう呼ばれかたをしていたのかというと、そ
 れは大王である。
  『日本書紀』では、神武から一貫して天皇の尊称を付与しているが、こ
 れが実際には大王であったことは、周知の事実であろう。
  本論においてこれまでは、大王と天皇を区別することなく、それらを天
 皇で統一してきた。これは『日本書紀』の手法に乗っ取ったものであり、
 混乱を避けるためであったが、ここからは明確に区別しなければならない
 だろう。

  というのは、天武とそれ以前の大王とは、同じようではあるのだけれど
 も、そもそも別の性格だったと考えられるからである。例えて言うなら、
 大統領と総理大臣のようなものだ。


  
「大君は神にしませば」


  で始まる天皇讃歌は『万葉集』に6首あるが、そのすべては、天武、持
 統及びその皇子たちを読む詩につく修飾である。
  中でも有名な詩は、「柿本人麻呂」の詠んだ


  
「皇(おおきみ)は 神にしませば 天雲の 雷の上に、廬りせるかも」
                           巻三・235


  であろうか。意は、


  「天皇は神だから,天空の雷の上に行宮を造られた」


  となるのだが、天空の雷の上とは、奈良県高市郡明日香村にある、うっ
 かりすると見逃してしまうような小さな、雷丘(いかづちのおか)のこと
 であるらしい。
  これを、天雲の雷の上と表現しているのだから、たいそう大げさなこと
 である。受け取りようによっては皮肉とも取れよう。

  この天皇とは、持統であるという意見が多いが、


  
「大君は神にします」


  という表現は、


  
「壬申の年の乱、平定らぎし以後の歌二首」

  「皇(おほきみ)は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ」
                    大伴御行 巻十九・4260
  「大王は神にしませば水鳥の多集く水沼を都と成しつ 」
                    作者未詳 巻一九・4261


  というように、いずれも「壬申の乱」の決着後に詠まれたものであり、
 天武を神とあがめ賛美したものである。

  ところで、『万葉集』の読み下し文で、すべて「大君」に統一されてい
 る、この「おおきみ」という読みは、原文では「皇」であったり「大王」
 であったりしている。逆に言えば、神大王が天皇であり、人間大王は、単
 に大王として両者を区別していた次期があった、とも考えられる。
  それが、やがて混同され、区別がなくなったのではないだろうか。つま
 り、ある時期あった天皇と大王のポジションが、天皇に一本化されたと、
 思うのである。
  これが、先に挙げた大統領と総理大臣の例えの答えである。大統領二人
 は並び立たないが、大統領と総理大臣なら並立可能であるのだ。

  こうも遠回りして注釈をつけた理由とは、このとき両雄が並び立ってい
 たと考えられるからである。

  このときとは、「壬申の乱」以後であり、神大王、すなわち天皇とはも
 ちろん天武のことである。それでは、人間大王とは。それこそ「高市」で
 はなかったかと思われる。

  一般に「大友」と「大海人」の戦いで捉えられている、「壬申の乱」で
 あるが、東国への亡命をも考えていた「大海人」を引き留めたのは、「高
 市」であった。「大海人」は全権を「高市」に委譲し、自らは「不破」か
 らは一歩も外に出ていない。
  『日本書紀』をみる限りでは、戦いは「高市」を中心に展開されており、
 「大海人」が指示を出している様子は、微塵もないのである。

  「大海人」を賛辞して当然の『日本書紀』自体がこうなのであるから、
 実際の「大海人」は、このときすでにリタイアしていたと考えられる。

  大将が大本営(この場合は不破の行宮か)に居るのは当然のことであり、
 「大海人」が動かないことは、それこそ当然のことと、思われるかも知れ
 ない。
  しかし、「奈良山」の戦いで近江軍に敗れた、「大伴吹負」の講じた奇
 計は、


  「俺は偽って高市皇子と名乗り…」

  「高市皇子が不破から来られたぞ。軍勢がいっぱいだ。」


  というように、不利な戦況で出た名は、「大海人」ではなく「高市」で
 あったことに注目したい。
  すなわち、大本営で戦況を見据えていたのは「高市」であって、「大海
 人」は、そこにただ居ただけの、さながら客人同様だったのである。
  「高市」は、「柿本人麻呂」の歌からもわかるように、最前線で我武者
 羅な戦いを繰り広げている。しかしそれは、戦況が「近江」方有利に傾い
 ていき、大将自らの出陣がなければ、敗北が濃厚だったからだと思う。

  「高市」の出陣は、伝えられる戦況に対して下した、ぎりぎりの選択で
 あったと思われる。
  「吹負」が騙った「高市」の名こそ、「高市」が戦場で戦う将軍の一人
 ではなかったことの証明にもなろう。「高市」の名を騙り、全軍の指揮を
 高めようとしたわけだ。

  最前線にて自ら刀を取って、命からがら勝利した「高市」は、戦勝国の
 総大将だ。「大海人」がリタイヤしている以上、もうその上に立つものは
 いない。「高市」が王位を継承して、新たな政権を打ち立てることもでき
 よう。中国の王権交代劇では、よくあることである。


 
 「八月二十五日、高市皇子に命じて、近江方の群臣の罪状と処分を発表
 された。」


  命じて、とあるが、処分を下したのは「高市」である。このときの最高
 権力者は、「高市」であったことは疑いない。

  しかし、即位した者は天武であった。

  「高市」は動かなかったのだろうか。否、そうではないだろう。時の最
 高権力者が「高市」であれば、天武の即位は「高市」の案であったことに
 なる。
  それでは、「高市」は何をどう選択したのだろうか。

  そもそも、「壬申の乱」の大義名分は何だったのかを、思い出してほし
 い。

  「大友」と「大海人」の皇位継承争い、天智天皇の日継をめぐる権力闘
 争であった。

  しかし、「大海人」自身は臣下たちの思惑からははずれ、東国へ逃れる
 ことを選んだため、皇位継承争いとしての性格は失せ、「吉野」方として
 結集した勢力による単なるクーデターとなってしまった。
  そうでなくとも、「大海人」の朝廷に対する謀反なのであるが、「大海
 人」が首謀者ならば、兄弟相承の原理を盾にすることができる。それ以外
 は、「高市」と言えども、道理に反した謀叛人でしかない。

  「高市」は、「近江」方、「吉野」方を通じて、人望が厚かったと思わ
 れる。
  というのも、「近江」方の将、「穂積臣百足」(ほづみのおおみももた
 り)は、「高市」の命令と偽られ、「小墾田」の武器庫から呼び出されて
 いることから推測できるのだが、どんなに人望が厚く優れた皇子でも、原
 則論の前では皇子にすぎず、大王位に就くことはできないのである。

  「壬申の乱」直前と言えば、「大海人」提唱による「倭姫」大王、「大
 友」摂政であったはずだ。この状態から「高市」が大王になれるチャンス
 は、後に「倭姫」が譲位(または崩御)し、「大海人」、「大津」、「大
 友」の順に皇位を辞退するか、すでに亡くなっているかの後なら、考える
 こともできる。あるいは、この次は「葛野王」かも知れない。
  従って「高市」の皇位継承順位は、よくて5〜6番目ということになろ
 うか。母の素性から飛ばされる可能性もかなり高いのである。

  「高市」が大王になりたかったどうかは不明であるが、少なくとも「大
 友」の下に位置することを、望みはしなかっただろう。
  しかし、「大海人」が「近江」を去った以上、「大友」の下位になるこ
 とは必至である。それどころかポジションさえないかも知れない。
  「高市」にとって、「大海人」の「吉野」脱出は、千載一遇の大チャン
 スだった。そして、自ら謀叛人とならないためには、勝利して「大海人」
 を大王位に就けなければならなかった。
  
  「大海人」にとってみても悪い話ではなかった。むしろ歓迎すべき話で
 あっただろうが、問題がないわけではなかった。「大海人」に対する世間
 の批判と・旧「近江」勢からの報復である。批判は不満をあおり、いずれ
 新たな謀叛を招くだろう。それに旧「近江」勢が加わったとすれば、王権
 転覆しかねない事態となりうる。

  そこで考えられた方法論とは、旧「近江」勢を押さえるため、


  「政治の要は軍事である」


  というように軍事力の強化に努める一方、皇子「大津」を皇太子とし、
 さらに、「近江」方重臣の罪は、重罪八名を除いて問われていないことか
 ら、旧「近江朝」の官僚をそのまま新王朝でも登用したはずである。おそ
 らく「大津」は、「大友」政権下でも皇太子であったと思われる。『天武
 紀』に立太子した記録がどこにもないまま、「懐風藻」で太子と称されて
 いるところから、遡って皇太子であったと推察する。

  要は、頭だけすげ替えた格好である。

  このことにより、「近江朝」を警戒していた「唐」に対しても面目を保
 つことができたのである。

  そして、新王朝内外の批判をかわすために、前例のないウルトラCが採
 られた。それが、高市大王・天武天皇体制であった。

  「高市」は戦勝国の総大将として、従来の大王(これまでの天皇)、つ
 まり政治・軍事の最高責任者に納まり、「大海人」は天皇と称し、神とし
 て祭り立てられたのである。

  このときから天皇制が発足した。

  なぜ、天皇と称したのか。それは、『史記』に記されている、天地が初
 めてできた頃現れた三人の君主、それを三皇というのだそうだが、そのう
 ちの最初の君主が天皇であったとか(他の二人はそれぞれ、地皇・泰皇と
 いう)、この頃伝わってきた道教思想の北極星を神格化した「天皇大帝」
 になぞらえたとか、言われているが、いずれにしても、最初で不動の神格
 という点では、「大海人」に相応しい称号であった。
  なぜなら、天皇制は大義名分を必要とした「高市」王権だけの、天武一
 代に限った政策だったからである。つまり天皇は天武にだけ与えられた称
 号であり、継承されることはないはずであった。


  
「大君は神にしませば」


  天皇は神であられるので…の理由はここにあるのである。

  参考までに、「唐」の皇帝「高宗」が天皇を名乗ったのは、674年の
 ことであるらしい。「大海人」の即位が673年であるので、天皇は天武
 のほうが早い。「高宗」の后は「則天武后」である。天皇号は、彼女から
 「高宗」に送られたという。そして、「高宗」の死後、神として崇め祭り、
 実権を握った「則天武后」は、中国史上唯一女帝となった。

  「高宗」は「則天武后」の尻に敷かれていた、名ばかりの皇帝であった。

  「則天武后」は、日本の天皇制の意味を知っていて、夫を皮肉ったので
 はないか、と勘ぐりたくなってしまう。



   
5.持統天皇


  天武が天皇であったことは、動かしがたい史実である。

  しかし、『長屋王邸木簡』の出土から、「高市」もまた天皇級の地位で
 あったことが判明した以上(むしろこちらが主流)、歴史から抹殺された
 「高市」大王の存在もまた、認めなければならないと思う。

  そして天武の称した天皇は絶対的な王位ではなく、天武のためだけの称
 号であり、いわば象徴的な地位であった。そういう意味では、現代の天皇
 制と似ているかもしれない。従って『日本書紀』が主張する、万世一系の
 天皇家に名を連ねるのは、そんな象徴天皇の天武ではなく、古代より面々
 と続く、歴史ある大王を名乗った「高市」であったはずである。

  ところが、この天皇という称号をまんまと利用し、大王位にすり替えて
 即位してしまったのが「菟野讃良」、持統なのである。

  「菟野」は父を天智、母を「蘇我石川倉山田麻呂」の娘「遠智娘」(お
 ちのいらつめ)としているから、血統的には申し分ないのだが、『日本書
 紀』の通り即位したとなると、その可能性はきわめて低いと言わざるを得
 ない。
  天武の喪が明けた後、「草壁」が即位したほうがずっと理にかなってい
 る。
  通説では幼い「軽皇子」(「草壁」の子、即位して文武天皇)に代わり、
 成長を待つまで中継ぎとして即位したのだと言われている。『日本書紀』
 の記載通りだとすると、「菟野」の即位は690年、このとき「草壁」が
 生きていたとすれば29歳、天武の崩御が686年なので、「菟野」即位
 まで四年間の空白がある。この間に、「草壁」が即位することに、何の不
 都合はないはずである。
  実際には「草壁」は28歳で亡くなっているが、それにしたところで、
 即位できなかったとするには到底無理があろう。

  「草壁」亡き後にしたところで、「軽」の成長を待つまでもまく、天武
 の第一子「高市」がいるではないか。母方の血統を問われるかも知れない
 が、この時点での天武の皇子は、「高市」を除いたとしても、まだ三名も
 いるのである。母は「蘇我系」ではないにしても、中継ぎだと考えれば、
 皇太子を定めておいて、この名の誰かが即位することのほうが、皇太后即
 位よりも自然であろう。しかる後「蘇我系」の皇女を后にすればよい。も
 しくは「菟野」称制でも良いではないか。
  「菟野」が即位した理由を探すとすれば、天武の后だったから、という
 以外に見つからない。

  『日本書紀』には持統以外に、皇后で即位した女帝が二人いる。推古天
 皇(私見による大大王こと「物部鎌姫力自連公」)と皇極天皇(重祚して
 斉明)である。
  共に中継ぎの女帝であって、そういう意味では持統と似ているが、大き
 く異なるのは、推古は「蘇我氏」の絶頂期であり、皇極には「百済」宗国
 (私見によるものである)が、あったというように、後ろ盾となる豪族や
 組織が盤石であったということだ。

  「菟野」は「蘇我系」の后であるが、「菟野」を即位させるだけの政治
 力は、「蘇我氏」にはすでになかった。
  「菟野」を取り巻く状況が、このような有様では、『日本書紀』のいう
 即位、つまり政治権を有する大王としての天皇に、即位したなどというこ
 とは、冗談以外にあり得ない。


  
「高市皇子薨じて後、皇太后、王公卿士を禁中に引きて、」


  これは先に紹介した、問題の『懐風藻』の一文である。結局「菟野」は
 大王ではなく、単に亡き天皇の后であったにすぎなかったのである。

  ところが、驚いたことに『扶桑略記』は、


  「第四年に至りて即位し、大和国高市郡明日香、浄御原宮の藤原宅に都
 す」


  と記している。

  第四年とは持統称制四年のことなのであろうが、持統は宮中ではなく藤
 原邸で即位したという、この『扶桑略記』の記述は異常である。

  だいたいあまたいる皇子達を差し置いて、「菟野」の称制自体、おかし
 な話であるのだが、それにもまして、藤原氏の私邸での即位とは、それを
 正式な即位と考えること自体、無理がある。
  しかし、あえて記す必要のない「藤原宅」を、批判を承知で記している
 この一文には、信憑性の高さを感じてならない。
  少なくとも、「菟野」と「藤原氏」は、急激に接近したことは、疑いな
 いだろう。このときの「藤原氏」とは、言わずと知れた「藤原不比等」で
 ある。
  「菟野」が「不比等」に接近したのか、「不比等」が「菟野」に接近し
 たのかはわからないが、両者は、あくまでも私的な即位の儀式を行ったの
 ではないだろうか。もちろん即位ごっこなどではなく、明確な意図を持っ
 て、公式な即位式に準ずる形式で行われたはずである。

  「菟野」と「不比等」はいつ知りあったのであろうか。

  以前、本編にも記載したことがあるが、「黒作懸佩刀」(くろづくりか
 けはきのかたな)という、「草壁」が常に身につけていた佩刀がある。

  『東大寺献物帳』にある記載には、黒作懸佩刀一口、として、


  「右、日並皇子常に佩持するところ、太政大臣に賜う。大行天皇即位の
 時、便に大行天皇に献ず。崩ずる時、また大臣に賜う。大臣薨ずる日、更
 に後太上天皇に献ず。」


  とある。

  つまり、「草壁」がこれを「不比等」に与え、文武即位のときにこれを
 天皇に献上し、また天皇崩御のときには、再び「不比等」に与え、「不比
 等」が亡くなるとき、これを聖武天皇に献上したというのである。

  「菟野」と「不比等」は、「不比等」の後妻、「県犬養橘宿禰三千代」
 (あがたのいぬかいのたちばなのすくねみちよ)が取り持った関係とも考
 えられるが(橘三千代は当時持統の側近であったらしい)、これは時間的
 に遅いだろう。
  それよりも、死の間際に自らの佩刀を不比等に贈ったという、「草壁」
 と「不比等」の仲の良さはどうだろうか。

  「不比等」は父「鎌足」の死後、「近江朝」から離れ、奈良県高市郡明
 日香村小原の「藤原邸」(大原神社大神宮か?)に戻っていたのだろう。
  「草壁」が「吉野」に身を寄せているうちに、年が近いこともあって急
 速に親しくなっていったのだろう。「大海人」・天智の双方が「鎌足」に
 は立場を越えて(私見での「鎌足」は、倭・近江連邦の皇帝である)、全
 面の心服を寄せていたことも起因しているだろう。
  「草壁」は、「不比等」との関係に、天智と「鎌足」の姿をダブらせて
 見たのではないだろうか。もちろん「近江朝」でも、知らぬ中ではなかっ
 たはずである。
  ちなみに、「大海人」と「定恵」が知り合ったのも、この「藤原邸」の
 時と考えている。

  「草壁」が「吉野」脱出の際には、当然誘ったものと思われるが、そこ
 は天性の勘の良さ、知恵と知識だけを提供し(と思う)、自らは乱の外に
 いることで、地位にも名誉にも与れないものの、まったくの無傷でいられ
 た。

  「不比等」自身が、「壬申の乱」に何ら功績が無いにもかかわらず、持
 統三年に「藤原朝臣史」判事職として、名を連ねていることは、「草壁」
 との関係、それも佩刀の一件によるものが大きいだろう。
  この約一ヶ月後、「草壁」は亡くなり、翌年「菟野」が即位している。

  「不比等」を出世へと導いた「黒作懸佩刀」であったが、「草壁」以前
 のルーツは不明である。元来「草壁」のために鋳造されたというのなら、
 それでいいのだが、そうだとすれば『東大寺献物帳』に、そう記載があっ
 てもよさそうなものだ。
  しかし、それがないから重箱の隅を突くような考えを巡らしてしまう。

  この佩刀は、誰かから贈られた物なのではないだろうか。

  「黒作懸佩刀」。

  この佩刀を贈った人物の見当をつけるとしたら、それは天武か持統にな
 るのであろう。
  しかし、持統であれば、母・持統から贈られたと記すことに、何ら問題
 はない。ならば天武か。結論から言えばそう考えている。しかし、これに
 したところで、さしたる問題はないはずだ。
  この佩刀が、この後、聖武天皇に至るまで、男王の象徴として引き継が
 れていったのだとしたら、そのルーツもまた男王から始まったものだと思
 われる。しかし、それは記されていない。

  これを記すことができなかったと考えれば、元来この佩刀は、「大海人」
 から「高市」の手に渡り、その後、「草壁」に引き継がれた物であったか
 らだと思う。

  「高市」と「草壁」とは、思った以上に関係が深い。と言うのは、「高
 市」の正妃は、「草壁」の正妃の姉、すなわち元明天皇の姉「御名部皇女」
 であるからだ。

  甚だ自分勝手な推理(大部分がそうなのだが)をさせて頂ければ、「黒
 作懸佩刀」とは、「大海人」が「壬申の乱」に先だって、「高市」に全権
 を委譲した、その印の刀だったのではないか。
  『日本書紀』には、その時、乗馬を賜ったとあるが、同時に刀の授与が
 なかったとは思えない。むしろあったと考えるほうが自然だろう。

  そしてその刀は、その後「草壁」に委ねられたのだと思う。

  天武九年二月二十五日の条に、


  「この日、草壁皇子を立てて皇太子とし、一切の政務に預からせた。」


  とあるが、この時こそ、「草壁」の手に「黒作懸佩刀」が渡った瞬間で
 あると思われる。ただし「草壁」の立太子は造作であろう。皇太子は「大
 津」であったからだ。
  政務委任の理由は、『日本書紀』にあるように、


  「自分は今ここに律令を定め、法式を改めたいと思う。それ故皆この事
 に取りかかるように。しかし急にこれのみ仕事とすれば、公事を欠くこと
 があろうから、分担して行うようにせよ。」


  であろう。この直後、「草壁」立太子の記事に続いている。

  「高市」は、天智の皇子「大津」よりも、弟「草壁」を選んだことにな
 る。

  「草壁」の死後、政務は再び「高市」が司るようになるのだが、「黒作
 懸佩刀」は「不比等」の手に渡って行った。
  そしてこのことが、希代の天才政治家「不比等」に、政権乗っ取り計画
 のシナリオを、描かせる原因となったのである。いわゆる、その気にさせ
 てしまったということだ。

  乗っ取りとは聞こえが悪かろうが、旧「百済」王族の血を受け継ぐ「不
 比等」は、純粋に「倭国」王にはなれない。かつて「鎌足」が、「倭」と
 「近江」に跨る連邦の皇帝的立場であっても、大王ではなかった。どちら
 が格上かは別にしての話だが。
  「不比等」が政権を握るには、政変でも起こして新たな王国を建てるか、
 傀儡王国の執政になるしか方法はない。そこで乗っ取りとなってくる。

  「不比等」の野望を実現するためには、何よりもまず、政治に介入し発
 言権を得なければならない。ところが大王「高市」は、自ら太政大臣を兼
 務して、外部から人材を求めることはなかった。つまり「高市」政権下で
 は、どんな功績をあげたとしても、恩賞どまりであったことだろう。
  それに、「高市」が大王である以上、「黒作懸佩刀」は「草壁」の遺品
 である以外に、何の意味も持たない。

  このように正攻法でいけば、名をとどろかすこともなかっただろうが、
 諸豪族の上に立とうとするならば、それ以上の権力を利用するのが近道で
 ある。
  そう考えればやはり「高市」なのだろうが、「壬申の乱」に参戦すらし
 ていない「不比等」には術なしであった。そこで「不比等」が選択した人
 物こそ、「菟野」であった。
  天武崩御後の「高市」政権下では、「菟野」の政治的立場は皆無であっ
 たことだろう。しかしそこは、腐っても天武の元皇后、現皇太后である。
 その待遇は「高市」の兄弟皇子達と、同列とはいかないまでも、最高級レ
 ベルの待遇であったと思われる。

  「不比等」が「菟野」に対し、どのように切り出したのかは、ご想像に
 委ねるが、男女間のほうが、話がよどみなく進んでいくというものだ。ま
 してや初対面ではなく、亡き「草壁」の相談相手であったとくれば、話が
 確信に及んでいくことに、さしたる時間はかからなかったであろう。もっ
 とも知恵者であらずとも、「菟野」を選んだことであろうと想像する。

  「草壁」を亡くしてからの「菟野」は、自らの血統を絶やさぬ術を模索
 していた。そんな最中、「不比等」が訪ねてきたものと思われる。もちろ
 ん、普段は接見などかなわぬことであったと思われるが、「不比等」の手
 中には、「黒作懸佩刀」があった。「菟野」は面談に応じた。

  その結果「菟野」は、血の存亡を「不比等」の野望に懸けたのである。

  「不比等」のシナリオはこうである。


 
 1.「菟野」による天皇称号の継承。
  2.「軽皇子」の立太子と大王への即位。
  3.「軽」(文武天皇)へ天皇号の譲与と「菟野」の上皇就位。
  4.文武へ「宮子」(「不比等」の娘)の輿入れ。
  5.文武・「宮子」間の皇子(聖武天皇)の即位。


  「不比等」にとってみれば、聖武天皇が実現することによって、完璧な
 「不比等」時代になるわけである。そのためには、まず「菟野」が天上人
 であることが、絶対の条件であった。しかし現実には、「菟野」は天武の
 后であったにすぎず、それ以上のことはなにもなかった。
  そこで「不比等」は、文武に天皇号を名乗らせることによって、遡って
 「菟野」の地位を確立したのである。

  この壮大な計画に沿って、まず第一に行われたことは、「菟野」の天皇
 への即位だった。
  本来、天皇は天武だけの称号であったのであり、名誉職とも言える一代
 限りのものであった。「菟野」は天武の后であったことを理由に、天皇号
 を継承した。
  ただし、いくら天皇に政治的権力が伴わないにせよ、即位の儀が公式に
 できるはずがない。そこで藤原邸でのこととなった。要は、既成事実さえ
 あればよかったのである。

  しかし、「軽皇子」の立太子は、私事というわけにはいかない。

  高市大王在位中は、「高市」の兄弟皇子など、皇太子候補があまたいた
 にもかかわらず、任命がなかった。これは、「菟野」を通じた「不比等」
 の、無用な争いをさけるため、などという根回しの結果だろう。

  吉野の会盟のことはよく知られていることである。「草壁皇子」が代表
 になり、次のように誓っている。


 
 「天地の神々および天皇よ、はっきりとお聞き下さい。われら兄弟長幼
 併せて十余人は、それぞれ母を異にしておりますが、同母であろうとなか
 ろうと、天皇のお言葉に従って、助け合って争いはしますまい。もし今後
 この近いに背いたならば、命は亡び子孫も絶えるでしょう。これを忘れず
 あやまちを犯しますまい。」


  「黒作懸佩刀」を以てしてのこの言葉は、大きく影響し大いに利用され
 たことだろう。

  なぜならその「黒作懸佩刀」は、「壬申の乱」を勝ち抜いた王者の剣と
 して、また「大海人」・「高市」と渡った王権の証の剣として、語られる
 ように仕向けられていたからである。これが第二の計画の実行であった。
  こういった周到な用意は、すべて「高市」の死後の、新体制実現に向け
 られたことであった。

  「高市」の死は、持統十年(696)七月十日(『日本書紀』)である
 らしい。『扶桑略記』によれば、このとき四十三歳。


  「十日、高市皇子尊が薨去された。」


  『日本書紀』は、わずか一行、このように記しているだけである。

  この若くしての突然死は、「壬申の乱」で受けた傷病や後遺症があった
 のかも知れない。
  また、前年末に「藤原宮」への遷宮というタイミングの良さは、暗殺の
 可能性も考えられる、というものだ。

  まあ、それは問題にしないでおくとして、大王「高市」の死は、待ちか
 ねたように後継者問題と発展していった。

  決定づけたのは「葛野王」であった。先にもご紹介している『懐風藻』
 であるが、その部分を現代訳にすると、


 
 「高市皇子が薨去された後、皇太后は皇族諸王百官のものを宮中に召さ
 れ、次の皇太子のことについて相談された。その時群臣たちはそれぞれ私
 情をもたれ、議論は紛糾した。王子は進み出て申し上げた。『わが国の決
 まりでは神代より今日まで、子孫が相続して皇位をつぐことになっていま
 す。もし兄弟の順を追って相続されるなら擾乱はここから起こるでしょう。
 仰ぎ見ましても天の心を論じ、誰が測ることができましょうか。ですから
 人間社会の秩序を考えますと、天皇の後嗣は自然定まっております。この
 方以外に後継になる方はなく、それに対して誰がとやかく申せましょう。』
 その時、弓削皇子は座におられ、一言申したいようであった。すると王子
 が叱りつけ、抑えてしまった。皇太后はその一言で皇嗣が定まったことを
 おほめになり、特別に抜擢されて式部省の長官に任じられたのである。そ
 の時三十七歳であった。」


  と、こうなる。

  王子とは「葛野王」のことである。「弓削皇子」が苦言を申し出るのは
 当然のことである。これが採用されれば、「高市」の弟である「弓削」は、
 王位のチャンスがなくなるからである(それだけとは言い難いのだが)。
  この際、後嗣が子孫でなければならないことは、このさい仕方がないと
 しよう。
  しかし、この「菟野」の喜び方はどうであろうか。これは「高市」の後
 継者を決める相談である。間違っても「菟野」の後継者ではない。なぜな
 ら、「菟野」は皇太后であると、ちゃんと書いてある。
  百歩譲って天武の後継者であるとしよう。ならば、「高市」の兄弟が後
 継者候補となる。生きていれば「草壁」ももちろん後継者なのだが。
  つまり、「菟野」の喜ぶ理由が見つからないことになる。

  「葛野王」のいう「この方」とは、いったい誰であろうか。具体的に、
 実名を挙げていないこともおかしな話である。
  しかし、この結果「軽皇子」が皇太子に任じられたとすると、「この方」
 とは「軽」だったことになるのだが。

  「葛野王」は「大友」の子である。おそらく「高市」への恨みも手伝っ
 て、天武系の皇子には賛同できなかったのだと思う。とはいうものの「壬
 申の乱」がなければ、自分が大王であった可能性もあり、具体的な人物名
 を差し控えたくなる気持ちもわからないでもない。事前に「菟野」から相
 談を受けていたことだろう。
  それでも、「葛野王」の論理に従えば、「高市」の子孫は「長屋王」で
 はないのか。

  とすると、ここにも書かれていない秘密があったに違いない。

  推測するに、この宮廷とは、「菟野」が即位の式をあげた「藤原邸」で
 あり、「不比等」もまた、同席していたのではないだろうか。
  そして「不比等」の膝元には、あの「黒作懸佩刀」が、恭しく置かれて
 いたのだ、と思われる。

  この時にもなると、剣は「壬申の乱」を勝ち抜いた王権の証として、立
 派に通用するものになっていた。それを最後に身につけていた者は、「草
 壁」であった。

  この「黒作懸佩刀」に用意された説話は、来る日もまた来る日も、手を
 変え品を変え広められたいった。そしてついには剣威もさることながら、
 「草壁」をも王たる資格者だった者に変えてしまった。
  現王権が「壬申の乱」をベースにしている以上、「黒作懸佩刀」は絶対
 なシンボルになってしまっていたのである。

  そしてその剣は「不比等」の元にある。決して、諸侯が「不比等」の下
 位になるわけではないのだが、目の前に剣がある、その結果として「不比
 等」・「菟野」に、意見ができなくなってしまっていた。

  この不穏な空気が、皆を一様に錯覚させた。

  それは、大王「高市」の後継者選びであったにもかかわらず、いつしか
 「黒作懸佩刀」の相続者選びへと、すり替わっていたことである。
  いづれにしても、「黒作懸佩刀」の相続者が、次期大王であるとすれば、
 大王の後継者選びも佩刀の相続者選びも、一見似た内容であるようだが、
 前者は「高市」の後裔に限られるが、後者は「草壁」の後裔でも権利があ
 ることになり、その実、大きく異なってくる。

  「不比等」の狙いはまさに、ここであった。

  「黒作懸佩刀」が、王権の印であるという風潮が、大きければ大きいほ
 ど、「草壁」がクローズアップされ、さらにそれを委ねられた「不比等」
 自身は、自然に次期大王選びのキーマンになってくるのである。

  「高市」は、どんなつもりで「草壁」に「黒作懸佩刀」を引き継がせた
 のだろうか。それは、将来「不比等」思惑が発生するしないにかかわらず、
 「草壁」に非公式にながら、次期王権を託してのことだった思う。
  しかし「草壁」の置かれた立場を考えた場合、「高市」が「草壁」を選
 んだことは、むしろ「高市」の政治手腕が、大変優秀だったということに
 なる。「草壁」は天武と天智の血を嗣ぐ皇子であったからだ。

  「壬申の乱」の後、造反の可能性のある旧「近江朝」の重臣らを抑える
 ために、天智の子「大津」を太子に据えたに違いないが、その実、「草壁」
 を立てることで、将来の予測される争いの芽を、事前に摘んでおいたので
 ある。

  蛇足ながら、「大津」の謀反は「菟野」の謀略説が根強いが、太子であ
 る「大津」が次期王位候補者ではないと知ったら、謀反を計画しても何ら
 不思議ではない。「懐風藻」は「大津」の謀反を記載している。謀反の心
 はあったのだと思う。
  そしてそれが、「菟野」に知られることになったのであり、そうであれ
 ば、処分を下したのは「高市」でなければならない。

  この考えが正しいとすれば、「大津」はだまし討ちにあったようなもの
 だが、これでは「大津」に対する「高市」の行動は、「高市」とは思えぬ
 ほど配慮がない。
  思うに「大津」には、政権担当以外のポストを用意していたのではない
 だろうか。ずばり天皇である。
  「草壁」には大王位を、「大津」には天皇号を譲るつもりであったと思
 う。
  残念ながら「大津」は、その真意がつかめず、「新羅」の僧「行心」に
 惑わされ、謀反の心を抱いてしまった、というところであろうか。

  話がそれてしまったが、結局「葛野王」は、次期大王は、「高市」の兄
 弟からではなく、「黒作懸佩刀」の皇族中最終所有者であった、「草壁」
 の子孫から選ぶことで押し切ったのである。
  もっとも「草壁」とて、「高市」の兄弟であるのだから、「高市」の子
 孫からではなく、「草壁」の子孫に限ってと言うべきだろう。
  論点のすり替わった論議に、クレームをつけようとした「弓削」であっ
 たが、「葛野王」に勢い負けしてしまった。それだけではなく、「藤原邸」
 に居たほとんどが、「葛野王」に賛成だったということだろう。
  身の危険を感じた「弓削」は、引き下がらずを得なかった、わけである。

  「不比等」・「菟野」の思惑通り、後継者問題は「軽皇子」に落着した
 が、「不比等」の野望はまだ、序幕にすぎなかった。

  最終的には、権力構造の中枢に巣くことであった「不比等」は、パート
 ナーの「菟野」に、何としても最高位についてもらわなければならなかっ
 たのだ。
  しかし、現実的には到底不可能な話である。しかも、「軽」が後継者と
 決まった以上、何もかも手遅れであった。だが、そんな物理的な事柄は、
 どうでもよかった。結果的に「菟野」が大王にならなくても、史実として
 追認されれば、それで良かったのである。

  持統天皇の十一年、『続日本紀』は「軽」の立太子のことを記している。
 同年八月一日、「高市」(『日本書紀』には「後皇子尊」とある)の薨去
 から約一年、「軽」は皇位についた。

  この約一年は、「高市」の喪の明けるのを待って、と考えられる。

  通常、天皇(大王)崩御後の喪は一年で、即位も一年の間を置くもので
 あるので、高市大王であったことの傍証になろう。

  さて、『日本書紀』も最後の一行になった。


  「八月一日、天皇は宮中での策を決定されて、皇太子に天皇の位をお譲
 りになった。」

  この一文と、次の『続日本紀』の一文とを比較してほしい。


  「八月一日、持統天皇から位を譲りうけて、皇位につかれた。」


  譲位した、と言っているわけだが、天皇と記しているのは、『日本書紀』
 だけである。これが原文だと、さらにわかりやすい。

 
         ・・      ・・
  「八月 乙丑朔 天皇定策禁中 禪天皇位於皇太子」『持統紀』

  「八月甲子朔 受禪即位」『文武紀』


  よく似た事例は、『皇極紀』にもみられる。皇極は「軽皇子」(孝徳)
 に譲位しているのだが、それは次のように記されている。


  「庚戊 讓位於輕皇子 立中大兄為皇太子」『孝徳紀』


  譲位された二人の「軽皇子」という偶然も、突き詰めていけば、何か出
 てくるのかも知れないが、ここでは、あくまでも偶然ということで進ませ
 ていただくが、天皇の二文字にこだわった『持統紀』は、何か不自然であ
 る。というのも、『日本書紀』全体では、単に即位・譲位としていている
 にすぎないからだ。
  つまり、記さなくても良いはずなのである。しかしながら、ここであえ
 て天皇と記したのは、「菟野」が天皇であったことを、ことさら強調して
 印象付けようとしたからであり、結局、天皇の地位自体が希薄なものだっ
 た、と考えられる。

  いずれにせよ、「葛野王」の進言により、「軽」は即位し大王を継承す
 ることとなった。
  そして祖母である「菟野」からは、「藤原邸」での即位で得た自称、天
 皇を贈られた。この瞬間から大王=天皇となり、天皇は大王格まで引き上
 げられたのである。

  さらに「菟野」は、「軽」の後見人として太上天皇を名乗ったのだが、
 これだけでは、「菟野」が大王としての天皇であったことにはならない。
  「不比等」は、歴史書として書き残すことで、持統天皇を後世に伝え、
 天皇、天武はまさに神であると記すことで、間接的に持統を讃えたのであ
 る。
  天皇という名詞の歴史は、「壬申の乱」から始まっている。天武の事績
 が、もともと十巻本として存在していた『壬申紀』(もちろん手が加えら
 れている)に加え、『天武紀下巻』という二巻構成になっているのは、天
 武を持ち上げれば持ち上げるほど、持統もまた偉大になっていくからであ
 る。

  そして、「菟野」の地位の向上は、そのまま「不比等」の地位の向上で
 もあったのだ。

  この後、「藤原氏」は「藤原京」の成立と同じくして、最高潮に達して
 いった。「藤原京」は、まさに「不比等」の都であったと思う。

  「不比等」はそもそも「史」であったという。

  『記紀』は「不比等」の編修だと言う説が根強くあるが、その名から推
 察するに、歴史には相当通じていたのだろう。
  「梅原猛氏」は、著書『神々の流竄』の中で、『古事記』の『序文』に
 登場する、『旧辞』を誦んだ「稗田阿禮」(ひえだのあれ)を、「不比等」
 その人であると結論づけている。
  
  「不比等」は『大宝律令』を編纂して律令制度を確立し、ついには娘の
 「宮子」を文武の後宮に入れる。「首皇子」が生まれると、続けざまに、
 娘「光明子」(後の光明皇后)を後宮に入れた。皇族以外では史上初の皇
 后となるなど、「不比等」の野望は、次々と実現していった。
  しかし、『養老律令』の編纂に着手するものの、完成を見ず、養老四年
 (720)八月三日、62歳で薨じた。

  かわって「不比等」の四人の男子(藤原四兄弟)が南・北・式・京の四
 家に分かれ繁栄していき、それぞれ藤原四家の祖となった。京家は振るわ
 なかったものの、他の三家は栄えた。
  ある意味、成り上がりの一族であったため、その権力を裏付けるだけの
 歴史が伴わなかったのだろう。政争や一族の反乱で、ある時期衰退したこ
 ともあり、平安中期以降、北家のみが繁栄していった。

  「藤原氏」の政治手法は、皇室と姻戚関係を結ぶことにより他氏を排斥
 し、権力を増強していくものであり、ここから藤原北家の系統は、明治の
 声を聞くまで栄えていたのである。

  しかし、「麻呂」(京家)・「房前」(北家)・「宇合」(式家)・
 「武智麻呂」(南家)の四兄弟は、次々と謎の死を遂げていく。これは、
 737年に大流行した天然痘であったと言う説が有力だが、その当時の元
 正太上天皇、宮子皇太后など、この突然死には大変なショックを、受けた
 と思う。
  遡れば720年、「不比等」が亡くなり、翌年元明が亡くなっている。

  人は、訪れる死を防ぐことはできない。いつかは死ぬもののであるが、
 残された「藤原氏」にゆかりの深い者達にとって、これら権力者の死は
 呪い・祟り、すなわち怨霊によるものと映ったに違いない。

  「藤原氏」を襲った怨霊とは、「蘇我一門」の亡霊である。

  持統以前の、天皇家の外戚と言えば、それは「蘇我氏」が占めていた。
 欽明天皇の時代から面目と続いていた婚姻関係であったのだが、それが持
 統を最後に絶えてしまった。その原因は、これまで述べたとおりである。
  「不比等」の策謀とはいえ、政治に失脚はつきものである。「蘇我氏」
 の政治手腕が足りなかったためであり、これで恨まれては、逆恨みという
 ものだが、これは、単なる悔恨の念である。
  問題は、修史事業上で悪玉にされていった、「馬子」・「入鹿」といっ
 た「蘇我本宗家」の亡霊にあった。

  どのような理由にせよ、結果的には「蘇我氏」の後釜に座ったわけであ
 る。「不比等」は、自身の立場を正当化するために、「蘇我氏」を悪玉に
 する必要があった。政治的には理解できることであるとはいえ、世紀の悪
 玉にされた「蘇我氏」は、時代が変わろうとも、常に汚名を着せられたま
 まなのである。

  現代においても、悪の「蘇我氏」、善の「藤原氏」という教育がされて
 いる。立場を追われた恨みも手伝って、これでは祟られても仕方がないだ
 ろう。
  と言っても、実際に祟ったわけではない。「蘇我氏」に対する後ろめた
 さが生み出した幻想にすぎないのだが、大悪人に仕立てられた「入鹿」を、
 その裏で大聖者・聖徳太子と描く手法など、「不比等」に取り憑いた、と
 思わせた怨霊の呪念たるや、凄まじいものだったであろう。

  政争や謀略、民衆は、そんな政治手法に嫌気がさしていたのだと思う。
 「藤原氏」は総じて、民衆に人気がない。

  そんな例の一つに『竹取物語』がある。

  『竹取物語』は、平安朝前期の作品であろうと言われており、作品の中
 で、『持統紀』に名を記された、五人の官僚を登場させている。それも、
 かぐや姫にしつこく求婚を迫る人物としてだ。
  そのうちの「車持皇子」(くるまもちのみこ)とは、実名こそはばかっ
 ているが「不比等」のことである。

  作品は、皇子に対して


  「車持皇子は心たばかりある人にて、…」


  と容赦ない。

  持統以下、女帝の時代は約80年間続いた。女帝は中継ぎの天皇である
 とよく言われるが、その中継ぎの存在こそ、政治の安定に一役買っていた
 とも言えよう。彼女たちがいなければ、さらなる政争が勃発していたこと
 であろう。
  しかし、その中継ぎを利用して、「藤原氏」が繁栄していったことも、
 また事実であるのではないか。

  「藤原」とは苗字や家名ではなく姓(かばね)であるという。正式には
 「藤原朝臣」である。つまり、現代で使われるような「藤原云々」(云々
 は名前)といったものとは、大いに異なっていて、宿禰・臣・連といった
 ような、階級や地位を表しているということになる。「藤原」という一つ
 の階級だったわけだ。

  文武天皇は698年、八月十九日に、


  「藤原朝臣に賜った姓は、その子の不比等に継承させる。」


  と詔されている。これにより、「藤原」は「不比等」一人の階級になっ
 た。おそらくこの詔は、「不比等」が出させたものであろう。「藤原」は
 「百済倭国」であるから、実質上の皇帝であり、もはや、やりたい放題で
 ある。
  しかし「藤原氏」は、名を捨てて実を取るがごとく、決して頂点に登り
 詰めるようなことはしなかった。それが千年もの長きにわたり繁栄の道を
 築きことのできた要因であったと思う。常に天皇家の陰となり、天皇家と
 共に歩んできたのである。天皇家の歴史はまた、「藤原氏」の歴史でもあ
 ろう。
  しかし、その裏でなりふり構わぬ手段を用い、ライバル達を抹殺し、歴
 史を構築していったことも、見逃すことができない真実なのである。


                        2005年12月 了