真説日本古代史 エピソードの二 壬申の乱 1.吉野脱出 「この月、朴井連雄君は天皇に奏上して、『私が私用で一人美濃に行き ました。時に近江朝では、美濃・尾張両国の国司に仰せ言をして、『天智 天皇の山稜を造るために、あらかじめ人夫を指定しておけ』と命じており ました。ところがそれぞれに武器をもたせてあります。私の思いますのに、 山稜を造るのではありますまい。これは必ず変事があるでしょう。もし速 やかに避けられないと、きっと危ないことがあるでしょう』といった。ま た、『近江京より大和京に至るあちらこちらに監視人を置いてある。また 宇治の橋守に命じて、皇大弟の宮の舎人が、自分達の食糧を運ぶことさえ 禁じている』という人もあった。天皇が問いしらべさせたところ、事が本 当であることを知られた。そこで詔して、『私が皇位を辞退して、身を引 いたのは、ひとりで療養につとめ、天命を全うしようと思ったからである。 それなのにいま避けられない禍を受けようとしている。どうしてこのまま だまっておられようか』といわれた。」 この月とは、天武元年(672)五月のことであり、ここでいう天皇と は、即位前の「大海人皇子」のことである。 即位前であるのに天皇とは、些かけしからん感もないではないが、まあ 問題にはしないでおこう。 このことをきっかけに、「大海人」は「近江朝」と対決するために、挙 兵を決意し、吉野をあとにした。 ここに、古代史上最大のお家騒動、『壬申の乱』の幕が切って落とされ たのである。 『日本書紀』によれば、具体的な「大海人」からの指示は、次の通りで あった。 「聞くところによると、近江朝の廷臣らは私をなきものにしようと謀っ ている。お前たち三人(村国連男依・和珥部臣君手・身気君広)は、速や かに美濃国に行き、安八磨郡の湯沐令の多臣品治に機密をうちあけ、まず その地の兵を集めよ。なお国司らに触れて軍勢を発し、速やかに不破道を ふさげ。自分もすぐに出発する」 これが六月二十二日のことである。 『壬申の乱』は、「大海人」にとってこの戦争が、正当防衛だったとい う主張の上に記されていると考えられるので、このとき初めて兵を集めさ せたという「大海人」の指示を、鵜呑みにすることはできない。 当然、吉野に逃れたとき、否、もっと以前「大友皇子」摂政体制になっ たときから、準備を始めていたと考えたほうがいいと思う。 六月二十四日、「大海人」一行は、東国に向かって出発した。 駅鈴を求めたが得られず、やむを得ず徒歩で出発したという。いろいろ 疑問点はあるが、まずは、その足どりを追ってみたいと思う。 『日本書紀』から読み取ることのできる地名は、おおよそ 「津振川」(奈良県吉野郡吉野町大字津風呂) 「菟田の安騎」(奈良県宇陀郡大宇陀町迫間) 「甘羅村」(奈良県宇陀郡大宇陀町大字春日) 「菟田郡の屯倉」(奈良県菟田郡榛原町) 「大野」(奈良県菟田郡室生村大野) 「隠郡」(三重県名張市) 「横川」(名張川?) 「伊賀郡」(三重県阿山郡大山田村) 「た萩野」(三重県上野市荒木) 「積殖の山口」(三重県阿山郡伊賀町柘植) 「大山」(鈴鹿山脈) 「鹿深」(滋賀県甲賀郡) 「伊勢の鈴鹿」(三重県鈴鹿市古厩) 「鈴鹿郡」(同上) 「川曲の坂下」(三重県鈴鹿市木田町) 「三重郡」(三重県四日市市東坂部町) 「朝明郡の迹太川」(三重県三重郡朝日町縄生) 「桑名の郡家」(三重県桑名市蛎塚新田) である。( )内は比定されている現在の地名であるが、これによれば、 「吉野」を出発した一行は、「鈴鹿」まではだいたい現在の国道25号線 に沿って、それ以降「桑名」までは国道一号線に沿って進行していったと 推定される。 二十四日に出発した後、「桑名」到着が二十六日であるから、この間の 距離と、少なかったとはいえ従っていた者達三十名を考慮に入れると、二 日間というのは、信じられないほどわずかな日数であるといえよう。 しかも出発当時は、徒歩であったというのである。 全く道に迷うことなく進行できたとしても、ぎりぎりの数字であると思 う。 ということは、そこに案内人の存在があったことを、当然考えるべきで ある。 2.郡家と屯倉 ところが、不眠不休で駆け抜けたにもかかわらず、「桑名郡家」に至っ て、ここで宿営し、これ以上動くことはなかったという。 郡家到着の間際には、先に使いにやった「村国連男依」から、 「美濃の軍勢三千人を集め、不破の道をふさぐことができました」 という報告がもたらされ、「大海人」自身、即座に「不破」を目指すべ きではなかったのか。「桑名」で泊まったことが、結果的に勝運を左右す ることになったかもしれないではないか。 一説には、同行した「菟野皇女」の体調を崩していたから、とも言われ ている。しかし、「桑名」まで大急ぎでやって来ながら、ここで落ち着い てしまっては、せっかくの時間的ゲインも、無駄になってしまうのであろ う。 『日本書紀』によれば、途中で合流した「高市皇子」を総大将として、 「不破」に向かわせているので、あながち無策からの停滞とは言えないだ ろうが、それにしたところで、次の一文から考えられる答えは、おのずか ら判明してくる。 「十七日、高市皇子は使いを桑名の郡家に遣わして、『おいでになる所 と距たっていると、軍事を行うのにははなはだ不便です。どうか近い所へ おいで頂きたい』といわれた。その日天皇は皇后を残して、不破に入られ た。」 一言で言えば、「大海人」は不破に行くつもりはなかった、ということ である。 「大海人」が宿営したという「郡家」とは、「大化の改新」によって布 かれた「国・郡・里」制のうちの、「郡」の役所であるらしい。もともと 「郡」は「評」と書いたが、「大宝律令」以降「郡」と改められた。読み はともに「こおり」である。 「郡家」は「ぐうけ」と発音されるが、『日本書紀』では「こおりのみ やけ」あるいは、たんに「みやけ」と読む。 「みやけ」と言えば、当然「屯倉」が想像されるが、これは大和王権の 大王家の直営農地とされている。 そしてその「屯倉」の管理は、国司が担当していたという。 同じであるにもかかわらず、あえて区別して表記しているからには、明 確な違いがあるわけである。 屯倉=倉 家=基地 これでいいと思う。「大海人」一行が目指した先が穀倉では話にならな い。それが軍事拠点・基地であるからこそ、そこを目指したのである。 ただし、郡家を「ミヤケ」と読ませることによって、そこが朝廷に管理 されている施設であると、我々に錯覚させてしまう。 おそらく、意図的にそう読ませているのだろうが、「改心の詔」で「郡・ 里」の制が公布せられていたとしても、『壬申紀』にみられる郡家が、官 舎であるとは限らない。むしろ、そうではないだろう。 「改心の詔」で定められた国司・郡司とは、畿内のそれである。 詔によれば、畿内とは次のような定めがある。 「およそ畿内とは、東は名墾の横川よりこちら、南は紀伊の背山よりこ ちら、西は明石の櫛淵よりこちら、北は近江の楽波の逢坂山よりこちらを 指す。」 「三重」・「桑名」は横川よりも東である。「庚午年籍」が発令された とはいえ、朝廷の影響力の及ばない畿外地域に、官舎はどうだろうか。 たとえば、それが朝廷の管理施設だったとしよう。そうであるのなら、 「大海人」は、目前の敵である朝廷の施設に、わざわざ身を寄せるために、 「吉野」を脱出したことになる。 「二十四日、東国に向かおうとしたとき、一人の臣が、『近江方の群臣 は元から策謀の心があります。ですからきっと国中に妨害をめぐらし、道 路は通りにくいでしょう。どうして無勢でいくさの備えもなく東国に行く ことができましょうか』といった。天皇はその言葉の従って、男依らを召 し返そうと思われた。」 脱出ルート確保には、周到に準備された裏工作が施されていたはずであ る。朝廷に知られることになったら、すべてが破断になる。 上記一文に よれば、失敗をおそれて「男依」らを呼び返そうとするくらいの用心深さ なのである。このことから推察してみても、その脱出ルートのポイントを 官舎に当てたなど、到底考えられるものではない。 確かに、郡は朝廷の定めた行政単位であろうが、ここでいう郡家とは、 朝廷により郡と名づけられた、地方の豪族の軍事拠点か、住居であること に間違いない。 ・・・ そして「菟田郡のミヤケ」は横川より西、畿内であるから屯倉なのであ ろう。 3.大海人皇子の迷い 「吉野」から「桑名」まで、わずか二日の息を抜く暇もない旅だったの だろう。 挙兵を決意して発ったというよりも、むしろ逃げるような速さである。 「事は急であったので乗物もなく、徒歩でおいでになった。思いかけず 県犬養連大伴の乗馬に出会い、それにお乗りになった。皇后は輿に乗って 従われた。」 とあるものの、少なからず文飾であろう。実際には、緻密な準備が進め られてきたことは想像に難くない。 しかし出発するに際して、「大海人」は不可解な迷いを見せている。 先に紹介した内容と重複するが、 「二十四日、東国に向かおうとしたとき、一人の臣が、『近江方の群臣 は元から策謀の心があります。ですからきっと国中に妨害をめぐらし、道 路は通りにくいでしょう。どうして無勢でいくさの備えもなく東国に行く ことができましょうか』といった。天皇はその言葉に従って、男依を召し 返そうと思われた。大分君恵尺・黄書造大伴・逢臣志摩らを、飛鳥守衛の 高坂王のもとに遣わして、駅鈴を求めさせた。」 これはいったいどういうことだろうか。 駅鈴とは、駅馬使用のための公用の鈴のことであるが、この期に及んで どうして駅鈴なのか。もちろん、駅鈴の使用は許可されなかった。 確かに乗馬もない状態であったのかもしれないが、これから朝廷に戦争 を挑む決意の者が、官馬使用の許可を求めるとは、不可解極まりない。馬 が必要なら、馬舎を襲って奪えばいいではないか。 一説では、駅鈴を手に入れるというのは口実であり、飛鳥守衛の高坂王 に、駅鈴の許可申請をすることで、「吉野」脱出の意思を告げ、彼の出方 を見定めようとした、という見解もあるが、このことにより、「近江」方 に秘密が露見することのほうが、よほど不利益であろう。 しかも、この程度のことで作戦が失敗するようでは、挙兵しても勝利は なかっただろう。 そして当の「男依」はというと、駅馬に乗って「美濃」から戻り、「桑 名」の郡家手前で、「大海人」一行と落ち合っているではないか。 駅馬は、三十里(約16キロメートル)ごとに駅家(うまや)をおいて、 そこに常備されていた馬であったが、許可されなかった駅鈴はどうしたの だろうか。 いずれにしても、駅鈴を求めさせたのは、「男依」が「美濃」へ発って からのことである。つまり、「男依」は駅鈴なしに駅馬を使用したことに なり、奪ってしまったことは明白である。 そうすると、「大海人」の駅鈴を求めさせるという行為は、ますます不 可解になってくる。いや奇怪な行動といってもいいだろう。 これ合理的に解釈しようとすれば、理由は次のひとつしかないように思 える。 「大海人」に、戦争の意思はなかった。「近江」方との間で事を起こし たくなかった。 ということだ。 であれば、逃げるような速さで「吉野」を後にしたのはなぜだろうか。 これは、まさに逃げるためであろう。争いを避け、逃げるということに 尽きれば、駅鈴を求めさせたとしても合点がいく。 だいいち、確固たる戦う意志があれば、真っすぐ軍勢を用意させた「美 濃」へ向かうはずである。ところが、不眠不休で向かった先は「桑名」で あり、しかもそこで停泊している。ということは、目的地は「桑名」だっ たのではないだろうか。 以前に「大海人」は猜疑心が強く、臆病者であったと推測した。である からこそ、即位後は左右大臣を廃して皇親政治を行ったのである。(理由 はこれだけに限らないが)一部の身内以外は信頼できなかったのだろう。 そんな「大海人」であるから、身の周りの誰にも、心のうちを話してい なかったと思われる。周りの者からすれば、それは逃げたのではなく、挙 兵と映ったとしても無理はない。 「男依」らを「美濃」に派遣し、兵を集め不破の道を塞ぐように命じた ことも、その一因を担った。しかし、これは自身の安全確保のためであっ た。 「桑名」までのルートは、かねてからの「大伴氏」による周到な根回し があってこそ、確保できたものである。「大伴氏」は「倭京」豪族として の威信回復を狙い、「大海人」に期待を寄せていたのである。案内役は、 「大伴氏」の一派であると考えられる。 ただ問題がなかったわけではない。 最大の問題は、「伊賀」超えであった。「伊賀」は「大友皇子」の母の 里であった。「名張」以東この地方だけは、夜間に乗じて駆け抜けるしか なかったのかもしれない。「名張」・「伊賀」の駅家を躊躇なく焼き捨て ているのも、追っ手を断つ意味であったと思われる。 なお、「名張」において、 「村の中に呼びかけて、『天皇が東国においでになる。それゆえ人夫と して従う者はみんな集まれ』といった。しかし、誰一人出てこなかった。」 とあるが、敵国を前にして事実とは考えにくい。内容から見ても文飾で あるか、パフォーマンスである。 5.尾張宿禰大隈 「壬申の乱」で「大海人」を勝利に導いたその際たるものは、何と言っ ても、「尾張」の兵2万兵が帰属したことであろう。 『日本書紀』には次のように記されている。 「不破の郡家に至る頃に、尾張国司小子部連鋤鉤が、二万の兵を率いて 帰属した。」 『壬申紀』に記録されている兵士の数は、順を追って、 「草壁皇子・忍壁皇子他二十人あまり」 「女孺十人あまり」 「猟師二十人あまり」 「鈴鹿で五百の軍勢」 「美濃の軍勢三千人」 「馬来田の同族数十人」 であるから、最後についた「尾張」の二万人が、いかに多勢であるかお わかりだろう。 「壬申の乱」は一般に、地方豪族が「大海人」に味方した、という図式 で語られることが多いようである。 しかし、『日本書紀』をみる限りでは、その全部と言っていいくらい、 「美濃・尾張」の兵だけで占められているので、「大海人」軍の構成は、 まさに「美濃・尾張」の軍勢といっても過言ではないだろう。 おそらくこの軍勢は、もともとは「近江朝」の命令により、天智天皇の 山稜を造成するために駆り出された人夫であったと思われる。 「美濃国」の国司は誰だかわからない。しかし、「甘羅村」を過ぎたあ たりで遭った「美濃王」が、そうであったのかもしれない。 「美濃王」は大宰師・「栗隈王」の子、「美努王」(三野王・弥努王と も書く)と同一視されているが、『壬申紀』にあえて「美濃」の名を当て て登場する以上、別人であり、文字通り「美濃国の王」であろう。 では、その「美濃王」は、遠く離れたこの地で何をしていたのだろうか。 「大海人」一行は、 「湯沐の米を運ぶ伊勢国の駄馬五十匹と、菟田郡の屯倉あたりで、遭っ た。」 これは単なる偶然ではないだろう。 おそらく「美濃王」は、兵糧米を運んでいる最中であったと思われる。 湯沐の米とは、「大海人」の湯沐「安八磨郡」の米のことと思われ、「近 江朝」に「宇治橋」を閉鎖され、京からの物資が「吉野」に届かなくなっ てからは、「安八磨郡」より供給していたものと思われる。 通説でも、この駄馬が運んでいた米は、「美濃」の「安八磨郡」にあっ た「大海人」の湯沐邑で徴収されたもので、「美濃」から「伊勢」を中継 して「大和」の「吉野宮」に向かう途中であったといわれている。 「大海人」は、このことを知っていて、馬を確保したのだと思う。 しかしこの駄馬は「伊勢国」の駄馬であったというではないか。それで は、わざわざ「伊勢」から馬を出し、「美濃」で米を荷積みした後、再び 引き返して「吉野」に向かったということなのだろうか。 確かに、朝廷の目を欺くには良い方法なのかもしれないが、危機に直面 しているとすれば、「美濃」から「美濃」の馬による運搬こそ最善であろ う。 そこを「伊勢」から出されているということは、わざわざ「美濃」馬を 「伊勢」馬とするはずもないので、実際そうだったのだろうし、逆にそう しなければならなかった理由が、少なからずあったということになる。 ただ、そうすると「美濃」・「伊勢」間の交通手段はどうしたというの だろうか。 このことだけではなく、「美濃」・「伊勢」間の交通手段に関しては、 一言も触れられていない。 「大海人」が「桑名」に着いた翌日の二十七日、「高市皇子」の勧めに より、「不破」に向かうが、そのことを『壬申紀』では次のように記して いる。 「その日天皇は皇后を残して、不破に入られた。」 「吉野」から「桑名」までは、その足取りを克明に記しているのにもか かわらず、「桑名」からは、わずかにこの一文を記しているにすぎない。 これはいったいどうしたことか。 ヒントがないわけではない。 この後に続く一文が、 「不破の郡家に至る頃に、尾張国司小子部連鋤鉤が、二万の兵を率いて 帰属した。」 となるのだが、考えてみれば、総勢二万もの兵が一度に移動してきたと なると、恐ろしく統率がとれていたことになる。 まさか、隊列を組んで徒歩でやってきたわけではあるまい。 実は『日本書紀』では、『壬申の乱』にて最重要な役割を担った、ある 人物を一切無視している。 このことは、『続日本紀』において明らかになっている。 天平宝字元年(757)十二月九日の条に次のようにみえる。 「従五位上尾張宿禰大隅が壬申の年の功田卅町、淡海朝廷の諒陰の際、 義をもちて興し蹕を驚せしめ、潜に関東に出たまふ。時に大隅参り迎へて 導き奉り、私の第を掃ひ清めて、遂に行宮と作し、軍資を供へ助けき。そ の功実に重し。大に准ふれば及ばず、中に比ぶれば余り有り。令に依るに 上功なり。三世に伝ふべし。」 三世に伝ふべし”とは、霊亀二年(716)四月、『壬申の乱』の功臣 の子息ら十人に田を賜ったことを指しているのだが、この十人の中の一人 に、「尾張宿禰大隅」(おわりのすくねおおすみ)の子「稲置」(いなき) の名がみられる。ちなみにこの中には、「男依」の子「志我麻呂」(しが まろ)の名もあげられている。 問題は、その理由として、「大隅」の功績を具体的に述べていることだ。 「大海人」が東国へ逃れたとき、「大隅」は私邸を行宮として差し出し、 さらに軍資までも提供するという、惜しみない多大な援助をしたという。 これはことさら重要なことだ。 二万兵といい軍資といい、『壬申の乱』の勝利は「尾張」の勢力で成し 得たものと言っても、言い過ぎではないのではないだろうか。 ところが、『日本書紀』はこの事実に関して、完全に沈黙しているばか りでなく、「大隅」の名前すら記していない。 それを次の正史が暴露してしまっているのだから、『日本書紀』の編纂 体質は全く持って始末が悪い。しかも、その部分が真の歴史を知る上で、 最重要項目であるとくれば、なおさらのことだ。 蛇足ながら、文武天皇大宝二年(702)九月十九日の条に、 「使いを伊勢・伊賀・美濃・尾張・三河の五国に遣わして行宮を造営さ せた。」 とあり、続く十月十日、 「太上天皇が参河国に行幸された。」 さらに 「十一月十三日、行幸は尾張国に到着し…」 「十一月十七日、行幸は美濃国に到着…」 「十一月二十二日、行幸は伊勢国に到着し…」 「十一月二十四日、伊賀国に到着、行幸の途中に通過した尾張・美濃・ 伊勢・伊賀の国の郡司と人民に、位階や禄を身分に応じて賜った。」 「十一月二十五日、天皇は参河国から帰還された。」 とある。 太上天皇とは、文武天皇のときの持統太上天皇のことであるが、この行 幸先は、『壬申の乱』の功績のための慰問と考えられ、「尾張」の兵力、 二万兵のうちには、「三河」勢も相当数含まれていたものと思われる。 さて、「大隅」沈黙の理由は、追って考えてみたいが、「尾張」の関与 を無視しているところから、記述されておらず不明な事柄は、「尾張氏」 の関わりがあったと考えられる。 諸説はあるが依然として不明である、「大海人」の「桑名」から「安八 磨郡」との道筋にも、「尾張氏」の関与を疑うべきであろうし、事実そう であったと思われる。 「尾張氏」といえば、「海人族」の雄である。「桑名」からの交通手段 は海上交通によるものではなかっただろうか。 と聞かれても、首をかしげた方も多かろう。 「桑名」から「安八磨郡」に向かうには、揖斐川を船で北上すれば、案 外簡単かもしれない。ただ、現代の「桑名」は東海道、国道一号線上に位 置しているものの、「桑名郡家」跡と推定されている「県神社」(祭神、 菟野讃良皇女)は、海岸線からは約10Kmとずっと内陸である。揖斐川 までも数キロある。 そこへ「尾張」から、具体的に言えば、「尾張氏」の本拠地である「熱 田」から船を出したわけであるから、現代の日本地図上で考えると、人力 しかなかった当時では、恐ろしい労力である。 ところが、時代は下るが、慶長六年(1601)正月、「江戸」と「京 都」を結ぶ東海道が制定され、「桑名宿」と「宮宿」(現名古屋市熱田区) の間は、海路七里の渡船と定められた事実がある。ちなみに「熱田」から は「宮の渡し」、「桑名」を「七里の渡し」と呼んだ。 海上21Kmを、約4時間かけての船旅だったという。 産業革命以前の中世の産業・文明は、平安時代以降であれば、どの時代 も大差ないと考えている。江戸のこの時代でさえ海上交通ならば、『壬申 紀』当時も同様であったろう。 さらには、愛知県豊田市にある三河国三の宮、猿投神社に、「尾張古圖」 なるものが所蔵されている。 この図は天保元年(1830)、千年前の古図として世に現れたが、海 だったという各所に遺跡が知られていて、偽作とも言われている。 しかし、現在の名古屋市港区は、その全部と言っていいほどを、干拓に よって造成されていることや、木曽三川に囲まれた、県南部の「輪中」と 呼ばれる地域は、雨が降れば海になってしまうような、海とも陸とも言え ぬような場所だった。 これを古伊勢湾と呼ぶことにする。 実際の地形は、この図ほど大胆ではなかったと思われるが、記載されて いる地名からみても、あながちでたらめとは言い切れないと思う。 この「尾張古圖」からみれば、「尾張氏」の本拠地である「熱田」から 「桑名」までは、船で航行することに何ら問題がなく、日常的に行き来が あったと、考えることに無理はない。 「大隅」が行宮として提供した私邸とは、一般的に不破の行宮と考えら れているようであるが、これは「桑名郡家」のことか、「桑名」に「大隅」 の別邸があり、そこのことだったのではないだろうか。 「大海人」が「吉野」を発った後の行く先が、「桑名郡家」だったこと。 「桑名郡家」で泊まり進もうとしなかったこと。当初「不破」に向かうつ もりはなかったことなど、総合的に考えてみると、「大隅」は「大海人」 を、「不破」で出迎えたとするよりも、「桑名」で出迎えたと考えること のほうが自然であると思われる。 あるいは、「不破」にも「大隅」の別邸があり、それをも行宮として提 供したのかもしれない。 「不破」の行宮は「野上」の行宮と呼ばれ、現在の岐阜県不破郡関ヶ原 町野上にあったと言われている。 例えば『壬申の乱』当時、「熱田」から「野上」まで、海上を移動した としても、「桑名」付近を経由し、養老山脈沿いに北上しなければならな かっただろう。 濃尾平野は古木曽川が運ぶ土砂のたい積で形成されたが、それ自体は、 50万年も昔の地殻変動による大陥没により西南に大きく傾斜しており、 養老山脈沿いの西南濃地方の海底が最も深かった。 古伊勢湾の中ほどは、古木曽川の七流とも八流とも言われる流れの集合 が、低いところを自由自在に流れ、毎日陸地の姿を変えるような、陸とも 海とも言えぬ場所であったため、確実に航行できる海路は、「長島」南方 の海洋と、養老山脈沿いに限られていたはずである。 このような海路が日常的に利用されていたとすれば、「大隅」の別邸は、 「桑名」・「野上」の両方にあった可能性は高い。 「桑名」で「大海人」を迎えた「大隅」には、「吉野」方との事前打ち合 わせが、当然あったものと思われる。 それを『日本書紀』の中で探すとすれば、次にあげる二カ所が考えられ る。 一つは「朴井連雄君」が「美濃」に 赴いたときであろうか。 「雄君」は「吉野」へ「近江朝」の動き(「美濃」・「尾張」の兵士を 徴兵するという)を報告するかたわら、「尾張」へ出兵を止めるような働 きかけをしたのではないか。 「朴井連」(えいのむらじ)とは「物部朴井」とも言い、「物部氏」の 一族である。「尾張氏」と「物部氏」の関係は、もともとは別氏族であっ たが、「邪馬台国」連合を経て、原大和朝廷の祭政を担っていた大王家の 外戚であって、「天照国照彦天火明尊」・「櫛甕玉饒速日尊」を合祀し、 一本神としていた。 その後両者は袂を分かち、関係は希薄になっていったのだが、「蘇我氏」 に政権が移った頃からの「物部氏」は、尾張地方への定住が多くみられた。 そもそも湯沐邑のある「安八磨郡」(現在の「安八郡」と「大垣市」の 大部分)に隣接して「本巣郡穂積町」があり、これが「物部氏」と同族の 「穂積氏」の所領であったと考えられ、「美濃」と「物部氏」との関係は 深かったのである。 もう一つは、兵を集めさせるために「男依」ら三人を「美濃国」へ遣わ したときであろう。 ただし、この二回の遣いが単発で行われたとは考えにくい。 「雄君」は私用で「美濃」に行ったというが、「美濃」出身とは思えな い「雄君」が、わざわざ出向くと言うことは、「物部」の眷属を訪ねての ことだったであろうし、それが単なる親善旅行であったとは誰も思わない だろう。 また「美濃」はともかく、「尾張」のことまで情報を知り得たと言うこ とは、「美濃」・「尾張」は内応していたことになるし、「雄君」はそう いった機密事項を「吉野」に伝える役目であった、と考えるほうが自然で はないだろうか。 そうであれば、「吉野」・「美濃」間は常時往来があったと考えるべき であるが、「美濃」が「大海人」の湯沐邑であることから、むしろ当然の ことである。 ただし、「大隅」を動かしたのは、「男依」らを始めとする、「村国氏」 の力であると思われる。 「村国氏」と「尾張氏」の結びつきは、歴史の表面にこそ現れないが、 相当に深い関係がある。 「村国連男依」を祭神とする神社は、「男依」の地元、岐阜県各務原市 に次の二座(「男依」墳墓の地を含めると三座)ある。 各務原市鵜沼山崎町1丁目108「村国真墨田神社」 「天之火明命 村国連男依命ほか」 各務原市各務おがせ町3丁目4 「村国神社」 「村国連男依命・天火明命ほか」 「村国」の名が付く神社であるので、『壬申の乱』で功績を挙げた「村 国連男依」が祭神であるのは当然なのだが、そのどちらもに、「尾張氏」 の祖神「ホアカリ」を合祀していることだ。 「村国氏」は木曽川をはさんで、「尾張」地方にも勢力を広げていた。 古代「尾張国葉栗郡」には「葉栗郷」・「河沼郷」・「葉栗郷」・「村 国郷」・「大毛郷」の五群がみられる。「村国郷」は、愛知県江南市村久 野であり、村久野は村国の転訛とされている。 「男依」は「美濃」で軍勢を集めると同時に、「尾張」国へも働きかけ たのだと思う。もちろんこのときが初めてだったわけでなく、「大海人」 が「吉野」へ発った頃を前後して、密かに情報が流されていたに違いない。 それは直接戦争に関わっていく情報などではなく、 「村国のところが、大和のことで問題に直面しているらしい。」 などという噂にすぎなかったのだろうが、その噂も数が増えるにつれ、 より確からしい情報へとなっていったことであろう。 「尾張氏」から「村国氏」に対しては、 「御前のところで困ったことがあったら、うちとしても一つ協力しよう ではないか。 というような、本気とも冗談ともつかぬような交流がされていたことは、 想像ができる範囲である。 実は、これら畿内に関する情報は、他にも関与する人物がおり、「村国 氏」からよりも以前に「大隅」に届けられていたのだと思う。 天武天皇の殯があった朱鳥元年(686)九月二十七日、第一番に天武 の壬生のことを誅したてまつった人物がいる。壬生とは、天皇を育てた幼 児の頃のことであるのだが、その人物は「大海宿禰蒭蒲」(おおあましの すくねあらかま)である。 「大海氏」(「凡海」とも書く)が、幼少の面倒をみたから「大海人皇 子」と呼ばれたという説が一般的だが、この説には賛同しない。 天武の幼少が「大海」ではなく、「大海人」であったことにこだわるか らである。 しかし、「蒭浦」が「大海人」扶養したことは史実であろうから、時代 を考慮すれば 肉親同様の関係であったと言えるかもしれない。 「凡海氏」はホアカリを祖とし、「尾張氏」とは血縁的に非常に近い関 係、言うなれば同族である。 「大海人」は「凡海氏」に、誰にも話せぬような胸の内さえ、吐露する ことも少なからずあったのではなかろうか。その一つに、「尾張」の協力 を仰ぐことがあっても不思議ではない。 そんな折り、「男依」から密使が「大隅」のもとへ馳せ参じてきた。 それは、戦いへの協力要請や、「近江」への協力の中止依頼というよう な直接的な内容だったのではなく、「吉野」とともにすることになった、 という報告にすぎなかったと推察する。 これについては、確固たる理由があるのではないが、「村国」と「尾張」 の関係から考えると、伺うという表現がよりしっくりいくような気がする。 「男依」側とすれば、「大隅」の協力が得られれば、大成果であるのだ が、悪くとも「近江」への協力だけは取りやめてもらいたい、そんな気持 ちではなかったか。 両者の関係から思うに、他国の争いごとのために、堂々と依頼はできな いだろうから、慎重に言葉を選んだ末の報告であったと、勝手な想像をし ている。しかし、謙虚な態度は人の感動を誘うものだ。 「大隅」は「鋤鉤」が人夫を集めていたことを、知らぬはずがない。 結果的に「大隅」は、それを黙認したことになるのだが、所領の管理は、 「鋤鉤」が任されていたのであろう。「近江朝」が「鋤鉤」を国司に選任 した理由は、まさにそこにあると思われ、「大隅」と「鋤鉤」との関係は、 ちょうど球団のオーナーと監督のようであったと考えている。 報告を受けた「大隅」は「蒭浦」のこともあって、何らかの形で「男依」 に応えてやろうとしたに違いないが、すでに「蒭浦」から受けている内容 とは、少し異なっていたのではないだろうか。 これは、「大隈」が私邸を行宮とした場所、つまり「大海人」をどこで 迎えたかによって、大きく変わってくるのだが、通説どおり、「野上」で あったとしたら、「大海人」は大いなる意思を持って、「近江」方との決 戦に臨んだことになろう。 しかし、それが「桑名」であったならば、話は全然違ってくる。 「桑名」の先には、伊勢湾を挟んだ「尾張」がうかがえる。 事態は急を要するにもかかわらず、「大海人」は「桑名」で一泊し、直 ちに「不破」を目指していない。 ということは、亡命も視野に入れていたということである。 「大海人」は、人一倍猜疑心と警戒心が強く、臆病な人物であったと考 えている。おそらく「大海人」は、「吉野」脱出から「桑名」間での間に、 敵味方を分別し、事がうまく運んでいけば決戦に、そうでなければ亡命と いう選択肢に沿って、行動していたのかもしれない。それが「男依」の軍 事行動、「大隈」の出迎えという二つの形になって現れたのだとしたら、 考えすぎであろうか。 6.高市皇子 六月二十四日、「大海人」が「吉野」を発つ寸前のことであった。「大 海人」はある命令を「恵尺」(えしゃく)に告げた。 「恵尺は馬を馳せて近江に行き、高市皇子・大津皇子をよび出し、伊勢 で落ち合えるようにせよ」 この命令は、当日のうちに「高市」のもとに、伝えられたはずである。 そして、 「明方にたらのにつき、しばらく休憩して食事をした。積殖の山口に至 り、高市皇子が鹿深を超えて合流した。」 これが、「高市皇子」が「大海人」一行に合流した瞬間である。このと きが、二十六日の早朝であるというのだから、「高市」は二十五日未明に 「近江」を発ったのだろう。 しかし、「大友」のもとへも、「大海人」が「吉野」を発った報告は、 伝わっていたはずであるから、その状況下で「高市」が「大津宮」を後に するのは、命を捨てる覚悟同様であったとも考えられる。 とも”というのは、「大友」にどのような報告がなされたかによるから なのだが。 この報告により「大友」のとった態度は、次のようであった。 「大友皇子は群臣に語って、『どのようにすべきか』といわれた。一人 の臣が進み出て、『早く対処しないと手遅れになります。速やかに騎馬隊 を集めて、急追すべきでしょう』といった。皇子はそれに従わなかった。」 ・・・・・・ 結果的に見て、ある一人の臣の進言は正しかったことになるのだが、従 わなかったという「大友」は、 「大皇弟が東国に赴かれたことを聞いて」 恐れをなした群臣や、騒然とした京とは異なり、別の見方をしていたこ とになる。 おそらく「大海人」が駅鈴を求めたことや、とる物もとらずに徒歩で出 発した報告を聞いて、逃亡であると読んだのだろう。 また、事前に「蒭浦」から「尾張」への亡命の兆しがみられることも、 報告されていたのだろうと思う。 「蒭浦」は、「大海人」の幼少係であったというが、このような地位は 少なくとも、皇極天皇の頃からと考えられるので、「近江朝」においても 忠臣であったはずであり、「朝廷」へ何らかの報告がなされた、と考えて いいだろう。 またそういった忠臣でなければ、壬生の職には就けなかったはずである。 ただし「大友」にとってみれば、「大海人」の行動が決起であったにし ても、「美濃」・「尾張」に対しては、すでに手は打ってあり、「大海人」 が召集できるであろう兵力など、恐れるに足りない、大した勢力にならな いとにらんでいたはずであった。 さて、逃亡と読んだ「大友」とは異なり、「高市」はその他多数の群臣 と同じように、決起と読んだのである。報告を受けた翌日には、「伊勢」 に赴いている迅速さや、幾人かの将軍を従えていたことが、それを物語っ ている。 手勢を引き連れての「大津宮」脱出は、先にも記したように、死をも覚 悟してのことだったであろうが、「大友」に進言した、ある一人の臣こそ 「高市」だったというのは、『壬申の乱』(中央公論社刊)の著者、遠山 美都男氏である。 遠山氏によれば、 「高市皇子はなぜ、騎兵をもって大海人を追撃せよといったかといえば、 おそらく、彼自身が大海人追撃の大任をうけ、それを口実に巧妙に大津を 脱出するためであったと思われる。大友皇子はそれがほかならぬ大海人の 長子、高市の進言であっただけにそこに疑心を差し挟み、その提案をいと も簡単に却下してしまったのではないだろうか。大友はすでにこの段階で 必勝の自信があったのだと先に述べたが、それに加え、高市の提案であっ たからこそ大海人追撃策を採用しなかったのだと思われる。 すでに述べたように、この群臣会議が開催されたのは六月二十四日の夜 のことであったと思われるが、群臣会議が終わってから、高市は従者たち を武装させ、大海人を追撃すると称し、やすやすと大津宮を出奔すること に成功したのではないだろうか。もちろん、それは「大友」の命令無視で あったが、高市の提案に賛同する多くの豪族たちの声がその背景にあった と思われるのである。」 と述べておらえる。 賛同する豪族が「高市」の行動を許したというより、そもそも「近江朝」 の成立からして、それを継ぐ「大友」摂政政治をこころよく思わなかった 豪族が、少なからずいたということだろう。 つまり「高市」のとるであろう行動は、誰もが推測し得ることであった と思われる。 さらに言えば、この時点ですでに「大友」の策は成功することはなかっ たのである。 「高市」一行が「伊勢」で合流したとき、「吉野」方の総勢は、『日本 書紀』の記述からすると、まだ六百名に達していない。 二十六日、「男依」が「美濃」の軍勢三千人を徴集し、「不破」の道を ふさいだ。 「大海人」は、周りの思惑に関係なく、いまだ決戦か亡命かの決心がつ いていなかった。 しかし、「大隈」の行宮に迎えられた時点では、決戦の選択を残しなが らも、亡命に傾いていたはずであるし、そうだからこそ、「桑名」まで来 たのである。 ところが「大海人」には考える時間ができた。 というのも、「鈴鹿」・「不破」の両関を押さえることができたことに より、「近江」の追撃を受けたにしても、直ちに突破されることはないか らである。 この時間も、「大海人」に決戦の決意を芽生えさせた要因の一つだ、と 考えている。加えて「尾張」の参戦があったことは言うまでもない。 しかしまだこの時には、戦意にはやる臣らをよそに、「大海人」の気持 ちは決戦に傾いていなかった。ただ、寄せられる情報は確実に戦闘を意識 させていったに違いない。 そして決定的に「大海人」を決戦へと導いたのは、合流した「高市」が 放った一言であったと思う。 「大海人」は「高市」に次のように告げた。 「近江の朝廷には左右の大臣や智略にすぐれた群臣がいて、共に議るこ とができるが、自分には事を議る人物がいない。ただ年若い子供があるだ けである。どうしたらよいであろう。」 年若い子供とは、「高市」のことであろう。「大海人」の言葉は、まさ に戦意のなさを表現している。 死力を尽くしてここまでやってきた「高市」に対して、我が子とはいえ、 あまりに馬鹿にした台詞のように思えるが、「大海人」は「高市」に、自 分の気持ちを代弁させるつもりだったのだろうか、「高市」の返答は、ま さに「大海人」の期待通りのものだった。 「近江に群臣あろうとも、どうしてわが天皇の霊威に逆らうことができ ようか。天皇は一人でいらっしゃっても、私高市が神々の霊に頼り、勅命 を受けて諸将を率いて戦えば、敵は防ぐことができぬでしょう。」 「大海人」はこれに痛く感激し、「高市」の手をとって褒めちぎった。 この直後から、「高市」は全軍の指揮権を委譲され、総大将に任命され た。「大海人」は自らの乗馬を賜った。つまり、鞍馬を授けられた「高市」 は、「大海人」と同等の権限を有することになったのである。 しかしこれをただ喜んでいてはいけない。 「大海人」の言葉を鵜呑みにすれば、「吉野」から率いてきた諸将を、 まったく信用していなかったことになるし、何よりも、自ら率先して決戦 に臨む気持ちなど、微塵もなかったということだ。 このように考えると、回りの者たちが、「吉野」を発った「大海人」の 行動を、勝手に決起と勘違いして、事を進めてしまった結果、「大海人」 を追い詰めてしまった、ということになりはしないだろうか。 @「吉野」を発ったこと A駅鈴を求めたこと B「美濃」を挙兵の拠点にしたこと C「不破」の関を塞いだこと D「桑名」を目指したこと E「大隅」の援護 これらの事柄を、すべて「近江」決戦の準備であったと考えることは、 結果からみれば、もちろん当然なことなのだが、その一方で「大和」を捨 て、「美濃」を新天地として目指した、とも考えられるのである。そのた めには、東国「尾張」の協力を得ることは必要不可欠であった。 そんなところへ、決戦を信じて疑わない「高市」が、やってきたのであ る。 自らのポジションを捨てて駆けつけた「高市」には、帰る場所がなかっ た。「大友」政権下では「高市」の用途はないだろう。「近江」を後にし たことで、決戦の道しか残されていなかった「高市」には、煮え切らない 「大海人」の首を、どうしても縦に振らせなければならなかった。 『壬申の乱』は「大海人」と「大友」の皇位継承件をめぐる争いであっ た、と言われている。 ところが、もう一度よく考えてほしい。「大海人」が「高市」に全権を 委譲したということは、「大海人」は一線から退いてしまったことを、意 味するのである。 すなわち、この戦争は皇位争いそっちのけの、「高市」が自らの生き様 を懸けて、「近江」方に仕掛けた戦争だったのである。 「高市」の戦いぶりは、『万葉集』の次の歌がよく表現している。 この歌は、「高市」と「柿本人麻呂」の(秘められた?)深い結びつき を暗示しているさえ言われているが、「人麻呂」の最高傑作と世に知られ ている、「高市皇子の殯宮での挽歌」である。 高市皇子の尊の、城上の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首 <119> かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に 久かたの 天つ御門を 畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし 我が王の きこしめす 背面の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮に 天降り座して 天の下 治めたまひ 食す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の 御軍士を 召したまひて 千磐破る 人を和せと 奉ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任きたまへば 大御身に 大刀取り帯ばし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ 整ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き響せる 小角の音も 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに 差上げたる 幡の靡きは 冬こもり 春さり来れば 野ごとに つきてある火の 風の共 靡くがごとく 取り持たる 弓弭の騒き み雪降る 冬の林に 旋風かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの恐く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱りて来れ 奉はず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく 去く鳥の 争ふはしに 度會の 斎ひの宮ゆ 神風に 息吹惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷き座す やすみしし 我が大王の 天の下 奏したまへば 万代に 然しもあらむと 木綿花の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を 神宮に 装ひ奉りて 遣はしし 御門の人も 白布の 麻衣着て 埴安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 獣じもの い匍ひ伏しつつ ぬば玉の 夕へになれば 大殿を 振り放け見つつ 鶉なす い匍ひ廻り 侍へど 侍ひかねて 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬り行して あさもよし 城上の宮を 常宮と 定め奉りて 神ながら 鎮まり座しぬ しかれども 我が大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれども 「現代語訳」 心にかけて思うのも おそれおおい 言葉にだすのは さらにおそれおおいことながら 天武天皇は 飛鳥の まがみ(真神)の原に 天上の 御殿を お定めになり 今は 神となって 岩戸に お隠れになっている 天武天皇は 壬申の乱の時 お治めになっている 北の国 美濃の 青き樹々の 繁る 不破山を越えて 関ヶ原の わざみ(和射見)の野上に かりみや(行宮)を 造らせたまい 行幸をなさって 天下を お鎮めなさろうと 東国の軍勢を 召し集められた 荒々しい 近江朝の軍勢を鎮め 従わぬ 国を平らげよと 皇子である 高市皇子尊(たけちのみこのみこと)に お任せになった 高市皇子尊は 太刀を佩き弓を取り持って 軍勢をひきいて いくさをなされた その軍勢を 鼓舞する 鼓の音は 雷の声かと聞きまがうばかりに 吹き鳴らす 角笛(つのぶえ)の音も 敵を見たる 虎が吼えるのかと 人々が怯えるばかりに 兵士が ささげ持つ旗の靡くありさまは 冬が去って春になると 野という野に 一斉に野火が立って 風に煽られて靡くように 手に取り持つ 弓のはず(弭)のどよめきは 冬の林に 雪が旋風となって巻き渡るかと 思えるまでに 恐ろしく 軍勢が引き放つ 矢の夥しさは 大雪の吹雪となって 飛んでくるので 近江朝の 軍勢は必死に 立ち向ったが わたらひ(渡会)に いつ(斎)き奉る 伊勢の宮の 伊勢の宮から 吹いてくる神風の あまぐも(天雲)に 敵は日の目も見えずなり とこやみ(常闇)に 閉ざされた こうして 平定なさった みづほ(瑞穂)の国を 天武天皇は 神として統治なされた 我らが 高市皇子尊(たけちのみこのみこと)が 天下の統治のことを 奏上なさったので 天武天皇は いついつまでも 高市皇子尊の奏上どおりになさった まさにそのように ゆふ(木綿)の花が咲くように 栄えている時に 我らが 高市皇子尊の御殿を かくのごと みたまや(御霊殿)として お飾り申し お仕えしていた 宮人は しろたへ(白栲)の喪服を着て はにやす(埴安)にある 高市皇子尊の御殿の広場に 昼はひがな しし(鹿)のように匍ひ伏して 日が暮れて 夕べになれば 大殿を 振りさけ見つつ ウズラのように はい回って侍り 春鳥が むせび鳴くように 嘆いているが その吐息も まだ消えやらぬに その悲しみも まだ果てやらぬに 百済の原を 野辺送り 神として 葬り参らせて きのへ(城上)の宮を 永遠の御殿として 高々と お奉り申しあげ 高市皇子尊は 神として お鎮まりになってしまわれた しかしながら 高市皇子尊が 永遠にと 思ほし召して 造られた 香具山の宮は いつまでも荒れることはないだろう 大空を仰ぎ見るように 振りさけ見つつ 神聖な玉だすきを 懸けて 偲びてゆこう おそれおおいことながら <http://www.kcc.zaq.ne.jp/dfaks108/index.htm> 『万葉集・現代詩訳』湊 徹彦 著より この「人麻呂」の描写が、あまりにも具体的なので、「人麻呂」はこの 戦場にいたのではないか、という説すらあるくらいであるし、実際には、 この描写以上であることは間違いない。 戦術も戦略もない、ただ眼前の敵をがむしゃらにたたき切るだけという、 引くことのできない意地とプライドが、見て取れるようである。 怒涛や雷鳴のごとくの騒音・喚声の中では、自らの声さえかき消されて しまったであろう。恐怖に目を血走らせ、敵味方の区別なくただ刀を振り 回す。そんな戦いではなかっただろうか。 隊伍が乱れ、敵味方が入り混じった接近戦で、「吉野」方の赤い旗印は、 功を奏したのだろうか。 『壬申の乱』は「大海人」と「大友」の戦いではなく、「高市」と「大 友」との二世対決となった。 何度も言うが、「大海人」は「高市」に全権を委譲した。一線から退い てしまった「大海人」には、指揮権は存在しない。従って、この戦争での 「吉野」方の最高権力者は、「高市」であることになる。同時に戦争責任 も、「高市」が背負い込んでしまったことになる。 結果的に「高市」は勝利しているが、仮に敗戦だった場合、「大友」に かかってくる運命は、そのまま「高市」の運命であろう。そして「吉野」 方の諸将は、賊軍の将として処分されるのであろう。 しかし、「東国」へ逃れた「大海人」には、追及の手が伸びることがあ るだろうか。 『壬申の乱』の興味深いことのひとつに、戦勝国の総大将「高市」が、 大王に即位しなかったことが挙げられる。 「大海人」は事実上、退いてしまっているのだから、大王の血筋である 「高市」が即位することに、異を唱えることができる者はいないだろうし、 『日本書紀』でさえ、 「高市皇子に命じて、近江方の群臣の罪状と処分を発表された。」 と、「高市」を中心にしたまとまりを示唆しているように思える。 それでも、その地位に着かなかったのは、「高市」の人柄によるものな のか、「十市皇女」との恋愛秘話で語られるような、心の優しさからだっ たのだろうか。 『壬申の乱』は、「大友」から「十市」を引き離すために起こした戦争 であった、というような大胆な説もあるが、あえて理由を探すとすれば、 後継者問題という大儀の下でなければ、テロにも等しい単なる反乱軍に、 成り下がってしまうからであろう。 この戦争は「大海人」にせよ「高市」せよ、後継者問題から起こった正 当防衛の原則がなければ、正義と悪が入れ替わってしまうのである。 ただし私的には「高市」大王説に賛成である。 「長屋王邸宅」跡で「高市」の長子・「長屋王」を「長屋親王」と書か れていた木簡が見つかったことは、動かしようがない「高市」大王の証拠 である。 「親王」・「内親王」は、天皇の兄弟姉妹に限って許される尊称である。 「長屋王」は特例として「親王」が許されていたとする説があるが、そ れが事実とすれば、正史あるいはそれに順ずる史書のどこかに、その理由 とともに「長屋親王」と記されているはずである。 残念ながら、「長屋親王」以外で同様に称せられた例は、現代に至るま で一切見られないのである。 しかしその一方で、天武が天皇であったことも否定はできない。 大王=天皇なので、同時に二人の天皇が存在したことになるが、二朝状 態ならともかく、一つの王朝で天皇が二人とは考えにくい。 しかし、天皇と太上天皇、あるいは天皇と上皇であったならば、二人の 天皇も考えられるのである。 太上天皇の初代は、言わずと知れた持統天皇である。持統は天武の次代 であったことからすると、天武がそうであったから、持統もそれにならい、 さらに地位を発展させたのではないだろうか。 つまりこういうことである。 天皇が「天武」から尊称であるとすれば、大王=天皇であったのではな く、本来天皇の尊称は、別の理由から生まれてきたのではないかというこ とだ。 「天智」以前でも、紛らわしいので天皇と統一してきたが、厳密に言え ば大王のことである。 繰り返し言うが、「大海人」から全権を委譲されたのであるから、「高 市」はこの時点で「吉野」方の頂上人であり、「近江朝」を滅亡させ、新 王朝樹立後の権力構造頂点に立った人物は、当然「高市」であったに違い ない。 すなわち「大王」の地位に就いたわけである。が、『壬申の乱』を正当 化するには、「大海人」という大義名分が必要だった。 「大海人」不在では、この戦争を正当化できないのである。 そこで、「大海人」は新たなポジションに就いた。これこそ北極星を神 格化した「天皇大帝(てんこうたいてい)」の二文字を取った天皇という ポジションであったのである。 これは、「高市」がそうしたのか、天武が自ら選んだのかはわからない が、一言で言えば、社長と名誉会長、つまり権力構造の最上に位置しなが ら、実権は伴わない名誉大王、天皇はまさに神だったわけである。 従って、「高市」は持統朝になって、太政大臣に就任したということで はない。天武朝・持統朝を通じて、常に政治の中心に位置し続けた「高市」 大王だったのである。 こんなことであったから天皇のポジションは、天武一代のものであった はずなのだが、持統は天武の死後、配偶者だったことをいいことに、天皇 の地位を引き継いでしまった。もっともこれは、「藤原」氏の私邸で密か に行われたらしい。 さらに「高市」亡き後、後継者不在から大王位は空位に。緊急避難的に 天皇持統は政権をも掌握してしまう。これによって、天皇位は名も実も最 上位になったのである。 そのうえで、「軽皇子」に譲位、自らは太上天皇に就いた。 「持統」とはうまく言ったもので、文字通り、統合し保持したのである。 詳しくは、別章で改めて述べるが、この策謀は持統の立場を利用して、 政界に打って出ようとした、「藤原」氏の画策であろうし、持統は持統で 天武が(新たなポジションとしての)天皇であったことを大いに利用した ことになろう。 『日本書紀』は真新しい天皇の尊称を、神代にまで遡らせるためにも、 必要な国家事業だったのである。 7.倭姫王 最終的に勝利した「吉野」方であったが、『日本書紀』をみても、戦況 が常に有利だったわけではない。 それどころか、むしろ押されぎみの場面が多いように思う。 例えば、「大伴連吹負」は「奈良山」での戦いで、「大野君果安」(お おののきみはたやす)に敗れ、兵卒はみな遁走、自らはかろうじて逃れる ことができたとあるし、「田中臣足麻呂」(たなかのおみたりまろ)の陣 営は夜襲を受け、「足麻呂」一人で逃げている。 大友軍最大の勝機は、「蘇我果安」率いる大友軍の本営が、琵琶湖の東 岸を北上し、大海軍「不破」の本営の寸前にまで、迫っていたときである。 この部隊は、「蘇我果安」・「巨勢臣人」・「山部王」・「羽田公矢国」 (はたのきみやくに)とその子「大人」(うし)からなる、大友軍の精鋭 中の精鋭部隊であった。 「不破」の本陣が奇襲されれば、歴史は大逆転していたであろう。 ところが「果安」と「人」は、「山部王」を殺し、「果安」は「大津」 に帰りその場で自決、「人」は行方不明、「矢国」・「大人」親子は「吉 野」方に寝返ってしまったのである。 これによって、「近江」方の命運は尽きてしまった。もはや、「大津京」 陥落は時間の問題であった。 「果安」は元来「大海人」寄りであったと思われるが、この一斉離反は 何が原因だったのだろうか。 その理由は、『日本書紀』をみたところで、語っているわけではないが、 そのヒントを、「人麻呂」の「高市皇子の殯宮での挽歌」の中に見いだす ことができる。 それが次の一説である。 「度會の 斎ひの宮ゆ 神風に 息吹惑し」 つまり、伊勢神宮から吹いた神風により、大友軍は平定されたというこ とだ。 「伊勢」の枕詞である「神風」の由来は、案外この歌にあるのではない かと勘ぐっているのだが、いかがであろうか。 神風と言えば、蒙古来襲で知られている「文永」・「弘安」の、二度に 渡る役を思い浮かべる方も多いことと思われる。 しかし、ここで言う「伊勢の神風」とは、単なる自然現象ではなかった と考えている。 私見ながら、このときの「近江朝」のトップは、女帝「倭姫王」であっ たはずである。「大友」が五重臣との誓盟が遂行されていれば、のことな のだが。 しかし、「果安」の裏切りは、事実上のトップは「大友」であったこと を物語っているように思う。というのは、誓盟の内容が果たされていれば、 この参戦は「倭姫王」の意志であったことになり、「大友」の首級では、 終戦には至らない。「倭姫王」の戦争責任が追求されなければならないの だが、そうはなっていない。 そもそも、女帝「倭姫王」の即位があったならば、「近江」方から仕掛 けたのでなければ、『壬申の乱』は起こりえないだろう。「倭姫王」の即 位は「大海人」の意志であったからである。 「大友」の最後は、「物部連麻呂」(もののべのむらじまろ)と、一、 二の舎人が従っていただけにすぎなかった、と『日本書紀』は記している。 このことは、『懐風藻』にて 「風骨、世間の人に似ず。実にこの国の分に非ず」 と記された「大友」であるにもかかわらず、重臣らは心離れしていたこ とを意味していると思う。 天智の死後、「近江朝」で何が起こったかは想像するしかないが、亡命 してきた旧「百済」勢が勝り、強力に「大友」政権を樹立させたのかもし れない。 仮にそうであったならば、結果から見て『壬申の乱』が起こらずとも、 「近江朝」は崩壊する運命だったに違いない。 さて、その問題の「倭姫王」なのであるが、この名からしても固有名詞 とは思えない。 「倭姫」から想像される者と言えば、『垂仁紀』・『景行紀』に記され ている「倭姫命」(やまとひめのみこと、『景行紀』では「倭媛命」)が あげられる。 彼女は垂仁天皇の娘で、アマテラスを祭るために地方を歩き回り、やっ とのことで「伊勢」にたどり着き、祭り鎮めたとされる人物である。 従って初代の斎王である。 またヤマトタケルに「草薙剣」を手渡した人物でもある。 歴史的に見て斎王制度の確実な時代と言えば、天武の皇女である「大来 皇女」(おおくのひめみこ)からであろう。それ以前にも、初代を「倭姫 命」とすれば八名の斎王(「倭姫命」以前には「豊鋤入姫命」(とよすき いりひめのみこと)の存在があげられるが、彼女は「笠縫邑」でアマテラ スを祀っていたため、あえて斎王には含めないものとする)の名を連ねて るが、『扶桑略紀』が、 「伊勢神宮ニ献ル斎宮ノ始ト為ス」 と記している「大来皇女」こそ、歴史上初の斎王と言えるのだろう。 天武二年四月十四日の条では、 「大来皇女を伊勢神宮の斎王にされるために、まず泊瀬の斎宮にお住ま わせになった。ここはまず身を潔めて、次第に神に近づくためのところで ある。」 と具体的に記している。 さらに『日本書紀』は、 「古人大兄皇子」=「大海人皇子」 というからくりを隠していた。 すなわち、「倭姫王」は「古人」の娘でもあるので、「大海人」の娘で ある「大来皇女」と同一人物であっても何ら不思議ではない。 結論を言えば、「倭姫」とは斎王の呼称であり、「大来皇女」は垂仁の 娘「倭姫」と同じように、斎王「倭姫」だったと考えられる。 逆に言えば、事実上の初代「倭姫」が「大来皇女」であったのであり、 彼女をモデルにして、架空の初代「倭姫」(垂仁の娘)が創造されたのだ ろう。もちろん、女性神・アマテラスを祀る「伊勢神宮」の歴史を、より 古くさかのぼらせるためである。 そして、「大海人」が「古人」という別の人格を持たされたと同時に、 「大海人」娘である「大来皇女」呼称、「倭姫」は普通名詞から「倭姫王」 という固有名詞を持つ別人格を与えられたのだと考えている。 「倭姫王」が「伊勢神宮」の斎王であったならば、「伊勢の神風」とは、 「倭姫王」の所領「伊勢」の兵力だったと考えられる。 それは単に兵力にとどまらず、「倭姫王」という誓盟によって定められ た最高権力者が自らの意志により、「吉野」方に加勢したということであ り、これにより五重臣は分裂、戦況を有利に進めていた「近江」方も、こ れ以降敗走に敗走を重ね、ついには「大津京」は陥落、『日本書紀』によ れば、逃げる「大友」は「山前」に身を隠し、自ら首をくくって自害した ことになっている。 この地は明らかになっていない。 「大友」の首は「男依」らによって、「大海人」のもとへ運ばれ首実検 された。その後に、ある三本杉の下に埋められた。不破郡関ヶ原町にある 藤古川を渡り、西に下った左手の丘にその場所がある。 ここには現在「自害峰」の立て札が立てられており、複数ある「大友」 の御陵候補地の一つである。通称「自害峰の三本杉」と呼ばれている。 しかし、首が埋められた場所をその理由から、「自害峰」と呼ぶことは はなはだ奇妙である。 自害した場所だから「自害峰」と呼ばれるようになった、と考えること のほうがどれだけ自然だろうか。 また大友皇子は自害しておらず、首実検された者も身代わりで、「赤兄」 らと共に千葉県まで逃げ延びたという説もある。 これを裏づけるかのように、千葉県君津市には大友皇子伝説がある。 君津市俵田に白山神社があるが、ここは落ち延びた先で築いた宮(「小 川宮」)跡であり、その跡に田原神社が建立され、現在は白山神社となっ ている。 このことは「大海人」にも知られるところとなったらしく、軍勢を送る こととなる。兵の手薄な「大友」は、ついに最後を決意して自害した、と いうものである。 ちなみに「大友」は火葬され白山神社の裏山に埋葬された。ここに円墳 があるが、明治三十一年、発掘調査が行われた。 出土品は「太刀」・「鏡」・「勾玉」などで、鏡は「海獣葡萄鏡」であ り、これは奈良・平安時代の唐鏡である。 8.尾張宿禰大隈2 最後に『日本書紀』が「大隅」について、一切語っていない理由を考え てみたい。 とは言うものの、一切というのは少しばかり正しくない。 実は、『持統紀』十年五月八日のこととして、次のように記されている。 「直広肆の位を、尾張宿禰大隅に授けられ、合わせて水田四十町を賜っ た。」 この一行が唐突に、しかも何の脈絡もなく記されている。これだけでは、 水田四十町の理由がわからないが、すでに述べてあるとおり、『続日本紀』 にはその理由が記されていた。 「大海人」が東国に逃れたとき、「大隅」は私邸を行宮として「大海人」 を出迎え、さらに軍資までも提供したということである。 従って、水田四十町が『壬申の乱』の功績に対する恩賞であることは、 誰の目にも明らかであろう。 四十町と言っても、ピンとこないかもしれないが、ひとつの目安として 一反(10e )で400s〜600sの玄米が収穫できるという。 600sはかなりの良田であろうから、一反400sとすれば、一町で 4000s。四十町にもなれば、なんと160000sとなる。 年間成人一人が接種する米の量は、約64sだというから、実に二千五 百人の兵力が養えることになる。 こんな計算は無意味だが、個人の土地所有を認めない律令制度下では、 おおよそ考えられない恩賞であり、「大隅」は特別待遇を許されるほどの 功績があったわけだ。 持統は文武天皇に譲位後、自らは太上天皇に就いたが、『続日本紀』大 宝二年(702)十月十日の 「太上天皇が参河国に行幸された。」 から始まり、約一月半かけて「尾張」・「美濃」・「伊勢」・「伊賀」・ 「参河」を行幸している。 その後の十二月二十二日亡くなっているが、この行幸が原因となって病 気になり亡くなった、と考えられるが、死期を悟って行幸にうってでたと も、考えられる。このとき五十八歳であった。 年齢から考えても、かなり無茶な行幸であったと思われる。 天皇・太上天皇時代を通じて、一度も行われていない「参河」行幸を決 行した理由は、普通に考えては見えてこない。 しかし単なる旅行であったはずがなく、命の尽きるのを一月後に控えた、 まさに命を懸けた行幸であったとすれば、そこは理由を考えなければなら ない。 第一に、訪問先はすべて『壬申の乱』の戦勝国であったということであ る。「参河」は『壬申紀』に記されていないが、「尾張」の勢力が「参河」 をも、含んでいたと考えることに無理はない。 そうするとこの行幸は、『壬申の乱』の功績を讃えるためであったこと になろうか。一説には、『壬申の乱』の「大海人」に加勢した地方を訪ね、 天皇の権威を示すためだ、との見解があるが、同じような持統六年の「伊 勢」行幸は、中納言直大貮「三輪朝臣高市麻呂」(みわあそんたけちまろ) の再三の 「農繁の時の行幸は、なさる物ではなりませぬ。」 という諫めにも従わずに強行されたものであり、権威を示すのだとした ら、このなりふり構わない決行には、天皇としての威風堂々とした態度は、 微塵も感じられなではないか。 たとえば、中国の皇帝が上古の日本を訪問したことがあっただろうか。 日本は常に遣使する立場であった。それは中国の方が格上だったからであ る。 このときの「参河」行幸は太上天皇自ら、おみやげを持参してのことで ある。湯治のためでもなく、薬の調達だったわけでもない。これでは、ど ちらが格上なのかわからない。通説で言われている東国との関係は、大和 朝廷に対して東国は属国である。 しかしこれでは、朝廷が頭を下げて訪問したことになり、実際の関係は、 対等かそれ以下であったことになる。 そう考えないと、「参河」行幸の真の理由は見えてこない。 『続日本紀』の大宝二年十二月十三日に 「持統太上天皇の病が重くなられたので、平癒を祈願して全国に大赦を した。」 とあるが、この一文から推察すると、持統は「参河」行幸の以前より、 病気だったに違いない。 おそらくこの行幸は、自ら命がそう長くないことを、予知していたので はないだろうか。 死期が近ずく持統にとって、最も気掛かりだったことは、文武天皇の将 来であったことであろう。 持統以降、称徳天皇(孝謙天皇が重祚)までの血筋は、天武系だと言わ れているが、これは父系の血筋であって、母系から見れば淳仁天皇を除き 天智系である。(淳仁は光明皇太后(称徳の母)と「恵美押勝」(藤原仲 麻呂)執政時代の傀儡天皇であり、しかも光明皇太后は皇族外の立后とい う、血筋とは無関係の政治色が前面に出た時代であったため、あえて例外 としたい。) しかし、これは天智系と言うよりも、むしろ持統系と呼んだほうが相応 しいのではないか。 天武には「草壁」・「大津」の他に、九人の皇子があり、皇位継承問題 を複雑にしていた。皇太子候補最右翼は「大津」であった。その「大津」 は、天武の死後一月もたたないうちに、死刑になっている。「大津」の謀 反が発覚したとの理由であった。 状況から考えると、あり得ない話ではないが、同時にとらえられた三十 余人の共謀者への処罰はあまりにも軽く、「大津」は翌日死刑であった。 このことから謀反話自体、持統の陰謀であると考えられる。 残念ながら、持統元年に立太子した「草壁」は二年後には亡くなるが、 持統十一年、「草壁」の子、「軽」(文武)を立太子させ、同時に譲位す るという離れ業をやっている。 こうまでして守り抜いた皇統である。否、こうまでしなければ守り抜け なかった皇統であったのだ。文武の即位はわずか十五歳である。 謀略・陰謀で勝ち得た皇統であった。今日では、持統の即位さえ疑問視 する説もあるくらいなのだから、当時の政情は相当に不安定であったと思 われる。 『壬申の乱』からは三十年経過しているものの、このような政情の中で は、反対勢力の動向が当然考えられなければならない。 持統が元気なうちは、「藤原氏」との連携で乗り切ってきた政局であっ たが、持統亡き後はどうなってしまうのか。 持統の懸念はまさにここにあり、第二の天武の出現が大いに憂いになっ ていたことであろう。 持統が自らの死を目前にして行った「参河行幸」とは、未だ見えざる第 二の天武を出さないための布石であり、根回しだったのである。 その目的は、まさに持統皇統の死守だったと言えるのだが、換言すれば、 東国の力を借りれば、朝廷の転覆も可能だったと言うことだ。 そして度重なる『壬申の乱』の功績者に対する恩賞でさえ、同様の意味 を持つと考えらる。 「大隅」に寄与された「水田四十町」は、その中でも「尾張」の勢力が 特出していたということであろう。 ずいぶん前置きが長くなってしまったが、『壬申の乱』決戦前夜、天武 が目の当たりにした「尾張」とは、いったいどういうものだったのか。 「大皇弟が東国に赴かれたことを聞いて、群臣はことごとく恐れをなし、 京の内は騒がしかった。ある者は逃げて東国に入ろうとしたり、ある者は 山に隠れようとした。」 『日本書紀』がこのように記す東国であり、一度に二万兵を用意できる 「尾張」の勢力であった。「吉野」の群臣がその力に頼ったことは、勝利 の法則から言えば当然である。しかし同時にそれは、天智朝に与していな いということであり、天智朝下で起こったことは、天武朝下でも起こり得 るのである。 「吉野」方への参戦人数の多さを、単に喜んでいるだけの臣等とは違い、 「大海人」本人は、参戦人数が多ければ多いほど、頼もしさと同じだけの 空恐ろしさを感じていったことであろう。 「尾張」の兵二万は、その人数の多さから、船での移動であったと推測 する。伊勢湾に面した「尾張」の主要交通手段は、航行であった。 余談だが、名古屋市緑区鳴海町にある「成海神社」には、ヤマトタケル が東征の際、ここから出航したという故事がある。もちろん「尾張氏」の 協力があってのことだ。 さて、「尾張」の二万兵を率いて参戦した「鋤鉤」であったが、その参 戦のタイミングの良さから、おそらく「大隅」に帯同してきたともの考え られる。 命からがら「桑名」に駆け込んできた「大海人」の見たものは、一面海 を覆い尽くす大船団であり、それを支配する「大隅」の姿だったと思われ る。 亡命を視野に入れていた「大海人」は、「尾張王」として迎えられるも のと、勝手に思いこんでいたのではないか。 しかし、眼前に広がる光景は、そんな考えの入り込む余地が微塵もない ほど、圧倒的な軍事力・勢力の差があった。 しかも、丸二日間不眠不休の逃走のために、疲れ切って薄汚れた身なり をしている「大海人」達と違い、尾張大王「大隅」は、図々しいほど堂々 と雄大に振る舞っていて、身なりもきらびやかだったと考えられる。 もちろん「大隅」のそれは、「大和」の皇子を迎えるに当たって、多分 なパフォーマンスであったことだろう。このときとばかり、自らの力をよ り強大に誇示するのは当然の心理である。 二万兵を「大海人」に寝返らせたのは、「大隅」の一言によるものだと 想像する。国司「鋤鉤」の率いた二万兵は、天智朝の命令により集められ た人夫であった。しかしその二万兵を、いとも簡単に「大海人」に帰属さ せる「大隅」に、「大海人」は驚愕し、ここは外国であることを思い知ら されたことであろう。 そしてこの「尾張」の兵力が、「吉野」方の大部分を占めることになっ たてのだと思う。 これら一連のできごとが、「大海人」に与えた心理は、屈辱的とも言え る敗北感と嫉妬心であった。 心理的に追いつめられた「大海人」は、ある手段に出た。 ・・ 無視である。 ・・ 無視とは嫌悪感や過剰な意識からなるマイナスの感情である。 ・・ 「大海人」は、「大隅」を無視しなければ、『壬申の乱』の勝利を、自 らの手中にできなかったのである、と推理する。簡単に言えば、勝って痛 烈な敗北感を味わったということだ。 『日本書紀』が「大隅」を一切語らないのは、ここに起因するものと思 われる。 仮に、天武が存命中に持統と同じ境遇になったとしても、「参河行幸」 は絶対しなかったであろう。 女性である持統は、自ら軍事力を持たない。そのため「尾張」の軍事力 を頼もしく思えたことであろう。しかし男性である天武は、敵視(よく言 えばライバル視)してしまったからである。 『壬申紀』巻末近くに、 「これより先、尾張国司少子部連鋤鉤は、山に隠れて自殺した。」 とある。これより先とは、いつのことだかわからないが、彼こそ天智が めざした新体制と、豪族支配の旧体制の狭間の犠牲者である。 「尾張」という外国にいながら朝廷に雇われた「鋤鉤」は、その命によ り徴兵したが、大王「大隅」には逆らえなかった。それは朝廷への裏切り 行為であった。裏切っても「大海人」に付いたのだから、と思われるだろ うが、トップが変わっても大和朝廷は大和朝廷のままであるから、役人も 役人のままである。 いずれ、臆病な天武から猜疑の目が向けられることであろう。 律儀な「鋤鉤」は、そうなる前に名誉ある死を選んだのだろう。 「大隅」が「大海人」に兵二万を帰属させたのは、それこそ「大海人」 に対して、大見栄を張ったのだと思う。まあ、良い格好をしたわけだ。 「大隅」とて「鋤鉤」が徴兵していたことを知らぬはずがない。それど ころか、「大隅」の許可なく勝手に行動できるはずがないので、「大隅」 はこれを許していたと思われる。それを土壇場で覆されたのだから、「鋤 鉤」の立場がなくなってしまったのだ。しかし「大隅」にとってみれば、 兵を近江朝に貸そうが「大海人」に貸そうが、同じことに過ぎなかった。 律令制度が発足して、中央集権国家が確立されたように思えるが、本当 の意味の中央集権国家は、明治維新を待たなければならない。それ以前と 言えば、江戸時代の末期と言えども、藩主の命令に背けば、死罪もやむな しであっただろう。 最後になるが、「大海人」は「鋤鉤」の死を知るに、 「『鋤鉤』は功のある者であったが、罪なくして死ぬこともないので、 何か隠した謀があったのだろうか」 と言ったというが、この言葉が本心から出たものとは思えない。 「大海人」は「鋤鉤」が自殺した理由に、勘づかないはずがない。近江 朝と「尾張」という、二人の大王に忠義を尽くした結果が、死であったか らである。 もちろんこの言葉通り「鋤鉤」に罪はない。この言葉のこの部分のみが 真実であり、謀があったのだろうか、と自問する「大海人」の態度は、こ の時点ですでに、「尾張」無視を決め込もうとする意志が、ありありと感 じられる。 「大海人」からしてみれば、他国の忠臣の死など、取るに足らないこと に違いない。しかし東国の武士達のほとんどは、「鋤鉤」のような忠臣に 招集され、真の理由も明かされないまま、「吉野」方の傘下に入り、戦い 死んでいったのであると思う。 そして「尾張」だけでなく、「伊勢」には「伊勢」なりの、「美濃」に は「美濃」なりの「鋤鉤」がいて、人知れず自殺していったのではないか と想像する。 近江朝の忠臣「蘇我果安」もその一人になるだろう。 そして、天武二年二月二十七日(673)、「大海人」は「飛鳥浄御原 宮」で即位する。 ・・ それは、「倭」・「日本」史上を通して前例のない天皇という位であっ た。 2005年4月 了 |