真説日本古代史 エピソードの一


   
草薙剣盗難事件




   
草薙剣盗難事件


  年間一千万人近くの人々が参拝に訪れる、熱田神宮。古くから「お宮さ
 ん」・「熱田さん」と呼ばれ親しまれてきた。

  名古屋城と肩を並べて、間違いなく名古屋のシンボルである。

  私は現在名古屋に住んでいて、しかも熱田区にしばらく居り、それも熱
 田神宮に極めて近いところだったので、熱田神宮には初詣の他にも、たび
 たび参拝(と言っていいかどうか)に出かけていた。もちろん今でもそう
 だ。

  いつ行っても、それ相応の賑わいであるのだが、本殿に興味のない私は、
 本殿を左手に垣間見ながら神楽殿の右脇を抜け、復元された土用殿(草薙
 剣はここに奉安されていたという)の横につづく細い小道を、さらに奥へ
 と進んでいく。

  行き着く場所は、末社「清水社」である。

  ここは、俗に「お清水様」と呼ばれており、熱田神宮に属しながら、独
 自の信仰を持っている。
  ここの湧き水で目を洗えば目が良くなり、肌を洗えば肌が綺麗になると
 言う。平家の落ち武者伝説に由来があるのだが、ここを訪れる人々は、あ
 まり知られていないせいか多くないようである。

  参道から少しそれると境内、摂・末社が多くあり、こちらの方が興味深
 かったりするのだが、これらの地は熱田神宮に言及した際、詳しく述べる
 機会もあろう。

  さて、『日本書紀』は天智天皇七年(668)のこととして、次のよう
 に非常にショッキングな記事を掲載している。


 
 「この年、沙門道行(どうきょう)が、草薙剣を盗んで、新羅に逃げた。
 しかし途中風雨にあって、道に迷いまた戻った。」


  手元には、熱田神宮のガイドブックがあるのだが、それによると「道行」
 とは「新羅」の僧侶であるらしい。

  俗に不開門(あかずのもん)と言われる「清雪門」が、末社・楠御前社
 (くすのみまえしゃ)の北東にあるのだが、この門を通って「草薙剣」が
 盗み出されたという伝説があり、以来閉ざされたままである。

  ところで「草薙剣」とは、どのような意味を持つ「剣」なのであろう。
 それには、この剣の由来を知ることが一番のようである。

  『日本書紀』神代の一書(第二)によれば、


  
「(スサノオがヤマトノオロチの)尾を斬るときに剣の刃が少し欠けた。
 割いてごらんになると、剣が尾の中にあった。これを草薙剣と名づけた。
 これは今、尾張国の吾湯市村(あゆちむら)にある。すなわち熱田の祝部
 がお祀りしている神がこれである。」


  とある。

  また別の一書(第三)にも、同様の記述が見られる。

  『日本書紀』本文と一書(第四)によれば、「草薙剣」はスサノオから
 天つ神(アマテラスのことか?)に献上されている。

  次に「草薙剣」が登場するのは、『景行紀』におけるヤマトタケルの物
 語の中である。
  「草薙剣」は、伊勢神宮に居た「倭姫」からヤマトタケルに手渡されて
 いるので、いつの間にか天つ神のもとを離れ、伊勢神宮にて保管されてい
 たらしい。

  「草薙剣」を手にしたヤマトタケルは、一路「駿河」に向かった。東国
 征夷のためである。

  ここでヤマトタケルは、賊が放った野火の難に遭うのだが、火打ち石を
 取り出し迎え火をつくりこれを逃れることができた。『日本書紀』は一説
 には、と前置きしたうえで次ぎのようにつづけている。


  
「皇子の差しておられる天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が、自ら
 抜け出して皇子の傍らの草をなぎ払い、これによって難を逃れられた。そ
 れでその剣を名づけて草薙というと ──。」


  「草薙剣」の名の由来がここで判明するのだが、もともとは「天叢雲剣」
 と呼ばれていたことになる。
  もちろんこれにも説明があって、『日本書紀』は、


  
「もとの名は天の叢雲剣。大蛇がいるうえに常に雲があったので、かく
 名づけたが、日本武尊に至って、名を草薙剣と改めたという。」


  としている。

  東国遠征を終え、「尾張国」に立ち寄ったヤマトタケルは、尾張のミヤ
 スヒメと夫婦となった後、「草薙剣」をミヤスヒメのもとにおいたまま、
 伊吹山の荒ぶる神のあることを聞いて、徒歩で出かけていった。

  しかしヤマトタケルは返り討ちに遭い、その後「能褒野」で命運が尽き
 てしまう。
  
  結局これ以降、「草薙剣」は「尾張国」におかれたままになり、『日本
 書紀』も


 
 「初め日本武尊がさしておられた草薙剣は、いま尾張国年魚市郡の熱田
 神宮にある。」


  と結んでいる。

  「草薙剣」の由来は以上のようであり、現代では「三種の神器」の一つ
 として有名であり、万世一系の天皇の歴史においても、「三種の神器」無
 くして皇位継承は認められないほど、重要なアイテムの一つなのであるが、
 この由来は「草薙剣」を天皇家に帰属させるための、造作であるとしか考
 えられない。

  そもそも「草薙剣」とは「天叢雲剣」と称されていた。このうちアメノ
 ムラクモとは、「尾張氏」の租であるホアカリの孫であり、ホアカリの子
 アメノカグヤマの子である「天村雲」のことに違いない。

  そうであるのなら、「天叢雲剣」とはアメノムラクモが所有していた剣
 であったから、そう名づけられたと考えたほうがスムースではないか。

  従ってスサノオがオロチ退治の結果手に入れた剣は、アマテラスに渡さ
 れたのではなくて、「尾張氏」に伝えられたと考えている。このことは、
 本文中で既に記述済みであるので、そちらを参考にして頂きたい。

  私はこのオロチ退治説話は、史実の投影であると考えている。

  これも詳しくは本文中で記述しているので重複を避けるが、それでも簡
 単に言うと、「出雲」地方の人々は、毎年「越」に居た高句麗族(賊?)
 により、稲田の収穫を横取りされていた。それを「伽耶」から来たスサノ
 オ率いる部族が制圧した。

  「天叢雲剣」はそのときの戦利品であり、相手方の王権を象徴する剣で
 あったのだろう。
 
  そして「尾張氏」に伝承された以上、「草薙剣」と伊勢神宮の繋がりは
 後世に付加された説話であると考えられ、ヤマトタケルが「倭姫」から、
 「草薙剣」を手渡されたという説話も、造作であると断言していい。

  「草薙剣」を奉祀する熱田神宮(その当時は熱田社)は、大同年間(8
 06〜809)に到るまで祈年・月次・新嘗等の奉幣はなかった。
  つまり、国の加護が全然無かったことになり、言うなれば国から無視さ
 れていたわけである。
  
  このことは、『古語拾遺』に詳しく記されている。


  
「況むや復、草薙の神剣、尤に是天璽なり。日本武尊ト旋りたまひし年
 に、留りて尾張の熱田社に在す。外賊偸みて逃げしかども、境を出づるこ
 と能はず。神物の霊験、此を以て観るべし。然れば、幣を奉る日に、同じ
 く敬を致しまつるべし。而るに、久代闕如して、其の祀を修めず。遺りた
 る一なり。」


  「草薙剣」が「神器」であるならば、これはおかしなことと言わざるを
 得ない。

  結局、時の大和朝廷にとって、「草薙剣」が「三種の神器」の一つであ
 るという、認識がなかったことになる。つまり、それほど縁もゆかりもな
 い、朝廷や天皇家とは関わりのない剣であったと思われる。
  またこのことから、当時『日本書紀』は読まれていなかったのではない
 か、あるいは重要視されていなかったのではないか、とも推測できてしま
 う。

  『日本書紀』については、『続日本紀』に記された『日本紀』と違うの
 かどうか、別に機会を持って論じようと思うが、『古語拾遺』の記述を正
 しいとすれば、『日本書紀』には比較的新しいと思われる記述も存在して
 いる。それが後世に追記されたものであるとすれば、その時期は、私見に
 よる『古事記』(平安時代説)と同じ頃のものとなろう。
  そこにはまず『日本紀』があって、それを編集し直したか大幅に追記し
 てできた『日本書紀』という図式である、と考えているとだけ言っておき
 たい。

  熱田神宮について言えば、『延喜式神名帳』には名神大社とあり、弘仁
 十三年(822)に従四位下、康保三年(966)に正一位と授けられて
 いる。
  『古語拾遺』の指摘が、多分に影響したことは疑いのないことである。

  それは「尾張氏」代々の守り剣であり、尾張王権の印であった「天叢雲
 剣」を、天皇家ゆかりの「草薙剣」へと格上げさせたわけである。

  「新羅」の僧「道行」は、なぜ「草薙剣」を欲したのだろうか。

  「道行」はこの事件の後、愛知県知多市八幡平井に「法海寺」を建立し
 ている。

  『尾張名所図絵』には


 
 「天智天皇が病気のとき、新羅の僧道行に勅して祈檮させられた。天皇
 の病気は急速に平癒に向かったので天智天皇七年に当寺を草創し、勅使を
 下して山号、寺号を賜った。これより天武・持統の両帝をはじめ、その後
 の十三代の帝王まで、国家鎮護の勅願所となった。当寺には古鉦がり、唐
 物で、はなはだ珍しいものである。」


  とある。この場所は熱田神宮とはさほど遠くない場所である。

  「新羅」僧がなぜこんなところにと、首をかしげたくなってしまうが、
 整合的に考えれば、そのからくりが見えてくるではないか。

  「道行」は「新羅」出身の僧であったかもしれないが、渡来後は長くこ
 の地に居住していたのであろう。もともと知多を本拠地にしていたからこ
 そ、知多に寺を建立したのであって、見ず知らずの土地に建立したとは、
 考えにくい。それが熱田にほど近いとくれば、なおさらである。

  また常識的に考えても、「道行」にとって「草薙剣」など、何の意味も
 持たないはずであろう。嵐に遭い命の危険を冒してまで、「新羅」に持ち
 帰ろうとした理由とは、いったい何だったのだろう。

  そして「法海寺」が事実、勅使を下して山号、寺号を賜ったのであるな
 らば、それに相応する金銭の授受が行われているはずである。よほどの実
 力者(例えば「蘇我馬子」などの)でない限り、個人のみの力では寺を建
 立することなど、不可能であったに違いない。

  結局「草薙剣」は「新羅」に行くことなく、以後宮中にて保管・管理さ
 れることになる。
  『日本書紀』には、宮中のことなど記載されていないが、朱鳥元年(天
 武十五年)六月十日に、


  
「天皇の病を占うと、草薙剣の祟りがあると出た。即日、尾張国熱田社
 に送って安置させた。」


  とあり、それまでは宮中にあったことがうかがい知れる。

  「草薙剣」の盗難が天智七年であり、「法海寺」の建立が同く天智七年
 である。その張本人がともに「道行」であることから、「法海寺」は「草
 薙剣」強奪成功の報賞だったのではないだろうか。
                         ・・・
  私は「道行」のことを朝廷から依頼を受けた、現地スパイであったと考
 えている。

  『尾張名所図絵』には、西春日井郡清洲町にある「剣留山東勝寺」とい
 う寺を


  
「むかし新羅国の妖僧道行熱田神宮にしのび入り、草薙剣を盗み去り、
 この所まで来りしに、当時の本尊薬師如来、是を留め給いしにより、神剣
 は事故なく御環座なりければ、山号もかく名づけしとぞ」


  『尾張国熱田太神宮縁起』は、さらに詳しく


  「道行は社殿に潜入して剣をとり、袈裟につつんで伊勢の国へ逃げた。
 ところが一夜のうちに、神剣は袈裟からぬけて、本社に帰ってきた。ふた
 たび盗むとこんどは摂津の国へ逃げ、難波の津からともづなをといて新羅
 の国へ帰ろうとする。海中、嵐のために方向を失い、また難波の津に着く。
 そのときに神託があった。
  われはこれ熱田の神剣である。しかし妖僧にあざむかれて新羅に着こう
 とした。はじめは七条の袈裟につつまれていたが、ぬけ出て社へ帰った。
 のちに九条の袈裟につつまれたので、とうとうぬけ出ることができなかっ
 た。
  と。それを聞いた人々はおどろいて東西にさがしもとめた。道行は剣を
 捨てたら捕らえられないだろうと考えて、捨てようとしたが、剣はいっこ
 うに身をはなれない。ついに術がつきて自首して出てきたという。」


  と記している。

  これらの記録によれば、「草薙剣」は熱田神宮に還ったことになってい
 る。

  もちろん伝説自体、特に『熱田太神宮縁起』は、「草薙剣」の霊験を強
 調する内容以外なにものでもない。
  またこの伝承によると、一度は熱田社に還ってきた「草薙剣」も、その
 後没収されてしまったことになるのだが、後述するがこれについては造作
 であろう。

  そうすると「道行」の仕業をきっかけにして、「草薙剣」は宮中管理に
 移されたことになるので、「道行」に報賞を与えた宮中に居る者こそ、真
 犯人であることになる。
  宮中に居る者とは、すなわち天皇なのだが、具体的な犯人探しは先送り
 にさせて頂いて、なぜこの時期に「草薙剣」が必要になったのかを、深く
 掘り下げて考えてみたい。

  それはもちろん、「草薙剣」が大変重要な剣であることに気がついたか
 らなのだが、犯人側は、それが「尾張国」固有の伝承剣であることは、当
 然知っていたものと思われる。

  知っていたからこそ、天武天皇の病気の原因が「草薙剣」の祟りである
 と、関連して考えることができるのであり、だいたい祟られること自体、
 元来天皇家の神宝ではないと証言しているようなものだ。
  まあしかし、祟られていると感じたならば、罪の意識は少なからずあっ
 たということだろう。

  スサノオに縁のある剣名には、


  『日本書紀』

  「十握剣」(とつかのつるぎ)本文
  「蛇之麁正」(おろちのあらまさ)一書第二
  「韓鋤之剣」(からさびのつるぎ)一書第三
  「天蠅斫之剣」(あまのははきりのつるぎ)一書第四
  「天叢雲剣」本文他
  「草薙剣」本文他


  『古事記』

  「十拳剱」(とつかのつるぎ)
  「都牟刈太刀」(つむはのたち)
  「草那藝太刀」


  であるが、『日本書紀』の「十握剣」・「蛇之麁正」・「韓鋤之剣」・
 「天蠅斫之剣」、『古事記』の「十拳剱」は、ヤマタノオロチを斬った剣
 である。もちろん剣は一つしかでしかあり得ないので、これだけの異伝が
 あったということである。
  これに対し、尾から出た剣は、『日本書紀』の「天叢雲剣」、『古事記』
 の「都牟刈太刀」であるが、


  
「これがいわゆる草薙剣である。」(書記本文)


  というように異伝がない。

  これはどういうことかというと、異伝のない「草薙剣」伝承のほうが、
 他の伝承に比べてより新しいということである。
  伝説・伝承は時間の経過と、その伝わる過程で、内容が変化していくこ
 とは否めない。それが古くなればなるほど、異伝が多くなっていくものと
 思われる。
  従って、「草薙剣」も他の異伝と同時代の伝承であるならば、異伝の数
 と同じくらいの名称があってもおかしくはない。少なくとも、『記紀』の
 間で「草薙剣」と呼ばれる前の名称は異なっているのだから、発音に若干
 の違いがあってもいいようなものだが、「草那藝」(記)=「草薙」(紀)
 のように同音である。

  ましてや、その名の由来となった「野火の難」伝承地でさえ、静岡県清
 水市草薙と静岡県焼津市の二つの候補地があるくらいなのである。
  特に『古事記』の場合、おおむね表音仮名で記載されているにもかかわ
 らず、「草」が訓表記であることは、『序』に、


  
「時によりましては、まとまった一事を語る上でも訓だけによって記載
 することにしました。」


  とあることから、「草那藝劔」には、初めから草を薙ぎ倒す意が込めら
 れていたことは間違いない。

  ヤマトタケルの東征伝承の形成には、「尾張氏」が相当以上に加担した
 であろうことは一目瞭然である。また、伝承の中核は五世紀の倭王「武」、
 すなわち雄略天皇の事績から、造作されたであろうこともすでに述べたと
 おりである。(特別編『日本武尊の真実』

  倭王「武」の東征の際に、「草薙剣」が持ち出されたかどうかは断言で
 きないが、「尾張氏」の協力があったものとすれば(協力なくして東国遠
 征は不可能であろうが)、持ち出されたであろう。
  『記紀』のいう「草薙」の呼称の由来を、造作と考えるか史実と考える
 かは、各人の自由な意見に委ねるところであるが、「草薙」という地名や
 神社伝承にそれが見られることもあり、『日本書紀』の編纂とは全然関係
 のないところで、「草薙」と呼ばれる剣が尾張国熱田社にはあったのであ
 る。

  そしてそれは、「尾張国」だけの民族伝承であるため、異伝など生まれ
 るはずがなく、まして本来ローカルな剣なだけに、盗難事件後にその名が
 知れることとなったのだとしたら、異伝の生まれる余地はさらに少なくな
 る。

  さて、『消された覇王』の小椋一葉氏は、『伝承が語るヤマトタケル』
 (中日出版社)のなかで、草薙剣盗難事件にふれ、これを天智天皇の画策
 ではないか、と説いている。


  
「大化改新後、次々と治政の刷新を計られた天智天皇は、皇位継承の神
 器に『鏡』と並んでもう一種『剣』を加えようと考えられた。(『勾玉』
 が加わるのは持統天皇より後のことである)ところがそれは尾張氏のもと
 に奉斎されている。昔のことで仕方がなかったとはいえ、そんなに不用意
 に日本武尊に持たせ、彼が尾張においてきたハプニングが、ここにきて後
 悔の種になってきた。といって、いまさら尾張氏に正面切って返却してく
 れとは言えない。これまで何の保護も与えずに任せ切りにしておいて、今
 になって返してくれというのは勝手が良すぎる。状況がこのようであれば、
 そこは権謀術数にたけた天智天皇のことだ。一手を打って、尾張氏から取
 り戻す口実を作ろうとされたことは大いに考えられる。そこで立案された
 のがこの一件だったというわけである。」


  小椋氏は『記紀』のヤマトタケル伝説を、生々しい神社伝承と照らし合
 わせた上、それを史実と捉え、自説を展開されておらるが、天皇家にその
 所有権があるのなら、その正当性を説いて強制的にでも、返還に応じさせ
 ればいいのである。常識的に考えて、天皇家の方が当然格が上なのだから、
 事は簡単なように思える。
  確かに小椋氏が言うように、任せきりにしておいたのから勝手が良すぎ
 る、と言えるかも知れないが、それよりも、どんな理由をつけたにせよ、
 その理由に正当性がないからこそ、泥棒しなければならなかったのであり、
 その関係は強制執行に踏み切れるだけの、格の違いもなかったと考えられ
 る。

  中央集権国家体制の不完全なこの時代、歴史教科書的な常識は、非常識
 でしかありえない。

  東国は友好関係であったかも知れないが、まだまだ外国なのである。

  さて盗難事件の真犯人であるが、事件の起こりが天智七年であることか
 ら天智天皇か、剣の霊に祟られたという天武天皇のどちらかであろう。

  これは小椋氏の説通り、天智天皇の画策だったと思われる。

  この天智天皇とは、「葛城皇子」である。

  従って天智七年と言えば、天智称政七年のことであるが、「葛城皇子」
 はこの年に即位しており、実質的な天智元年である。(但し『日本書紀』
 の記す天智元年(661)には、私見によれば別の天智が即位していると
 考えている。)

  盗難事件は即位後のことと思われるが、天智は「草薙剣」のどんな秘密
 に気がついたのだろうか。
  「小椋氏」の言うように、不用意にヤマトタケルに持たせたことが、後
 悔の種になってきたというような趣旨ではなかろう。
  『記紀』ではヤマトヒメが「伊勢神宮」で渡したことになっており、ど
 うもこの理由に該当しそうにない。

  私は常々、スサノオがヤマタノオロチの尾から得た剣が、三種の神器の
 一つであることに納得がいかなかった。もちろん今でも納得していないの
 であるが、現在では三種の神器=皇位継承の印である。その儀に使われる
 のはレプリカなのだが、「八咫鏡」はアマテラスの依り代として語られて
 はいるものの、その由来は『記紀』を読んでもはっきりしない。逆にはっ
 きりしないから、そこに神秘的なものを感じるのであり、なるほど皇祖は
 神である。

  ところが「草薙剣」は由来がはっきりしており、怪物の尾から出現した
 という件はおとぎ話に違いないが、神器というにはあまりにも具体的で、
 人間くさい物語のように思えてならない。


  『尾張国風土記』逸文に、次の記述がある。


  
「尾張國號
  風土記に云わく、日本武尊、東夷を征ちて當國に還り到り、帯ばせる剱
 を以て熱田の宮に蔵めたまひき。其の剱は、原、八岐の巨蛇の尾より出で
 たり。仍りて尾張の國と號く。」


  これによると、ヤマタノオロチの尾を割って出た剣だから、「尾張」と
 名づけたというのであるが、これは逆じゃないかと思われる。
  つまり、「尾張」にあった剣だったから、語呂合わせから尾を割ったと
 いうこの説話ができあがっていったのだと思う。

  話が若干横道にそれてしまったが、このように一見するとスサノオが偶
 然手に入れた剣が、いくら見事なものであっても、それを神器と言うこと
 には首をかしげてしまうが、それでもなお神器と言うからには、表面化さ
 れることのない秘密があったと考えないわけにはいかない。

  その後の「草薙剣」の行方と言えば、天武天皇六年、「石上神宮」に摂
 社「出雲健雄神社」を建てて奉斎されている。
  祭神は「出雲健雄神」であるが、これは「草薙剣」(またの名を天叢雲
 剣)の御霊威のことであるという。

  さらに神社の由緒には、


  
「出雲健雄神は草薙剣の御霊に坐し、今を去ること千三百年前天武天皇
 朱鳥元年、一振の剣が布留川上日谷に地に天降り、布留川を流れて布に留
 まった。(依りてこの地を布留という)この剣を草薙剣の荒魂と仰ぎ奉斎
 したのが摂社出雲健雄神である。」


  とあり、神社伝承学をご存じの読者の方には、「出雲健雄」がスサノオ
 の別名であることくらい、すぐにおわかり頂けることと思う。

  今を去ること千三百年前とは、現代から見てのことであるが、固有名詞
 は別にしても、この神社の由緒が朱鳥元年当初からのものだとしたら、大
 変重要なことを証言していることになる。

  まず第一に、「草薙剣」に宿る御霊は「出雲健雄神」、すなわちスサノ
 オのことであること。
  次に、「布留」という地名は、「草薙剣」の荒魂に由来していることで
 ある。
  神社や神道に詳しい方ならご存じだと思うが、荒魂とは、人間に対して
 その意志を顕わにする「顕れ魂」(あれみたま)であり、決して荒々しい
 神のことではない。
  この対義語として和魂(にぎみたま)があるが、これは柔和の徳をそな
 えた神霊、神霊の静的・穏和な側面であり、正殿に祀られる神である。

  神が人間に対して託宣を与えるときには、往々にして荒々しくなるよう
 である。なぜなら神が現象化するときには、決まって警告や戒告など人間
 の過ちを正そうとしたりする場合である。
  ふだんは静かな神が、ひとたび発動した場合、荒々しい魂という印象が
 強くなり、正殿とは別に荒魂のみを祀り、これを鎮め奉ったのである。

  例えば現代の伊勢内宮と荒祭宮、外宮と多賀宮の関係が、まさにこれで
 あり、正殿の和魂も別宮の荒魂もその性格上、同一神を分けて祀っただけ
 過ぎないのである。

  さて、「草薙剣」の秘密にたどり着くには、もう少し回り道が必要であ
 る。

  その「出雲健雄神社」がある「石上神宮」の祭神は、


  「布都御魂大神」(ふつのみたま、以下、フツ)
  「布都斯御魂大神」(ふつしみたま、以下、フツシ)
  「布留御魂大神」(ふるのみたま、以下、フル)
  「五十瓊入彦命」(いにしきいりひこ)
  「宇摩志麻治命」(うましまち)
  「白河天皇」
  「市川臣命」


  の七神である。

  このうち「五十瓊入彦命」は、垂仁天皇の皇子で『垂仁紀』に、石上神
 宮の神宝を掌らせられたことが見える。
  「宇摩志麻治命」は、今さら言うこともないだろうし、白河天皇は、


  「平安末期永保元年(1081)白河天皇は鎮魂祭のために、宮中の神
 嘉殿を拝殿として寄進し、寛治六年(一〇九二)には上皇とともに参詣し
 た。」


  とあり、お祭りに尽力されたのだろう。「市川臣命」は初代石上神宮宮
 司である。
  これら四神と石上神宮との関係は理解できようが、残された三神はいっ
 たい誰であろうか。

  石上神宮の解説では、主祭神はフツであり、


  「布都御魂大神」=神武天皇東征の砌、難を救った国平けの神剣の御魂。
  「布留御魂大神」=天璽十種の御霊威。いわゆる十種の神宝。
  「布都斯御魂大神」=スサノオがヤマタノオロチを斬った剣の霊威。


  としているが、これに対して神社伝承学の「原田常治氏」は、次のよう
 に修正している。


  「布都御魂大神」=スサノオの父。スサノオがオロチを斬った剣の霊威。
  「布留御魂大神」=ニギハヤヒ。
  「布都斯御魂大神」=スサノオ。


  フツがスサノオの父であることはよいとしても、それがオロチを斬った
 剣であるとは合点がいかない。しかし、「小椋一葉氏」はこれを、スサノ
 オがオロチを切った剣が父の剣であったため、父の魂がこもるという意味
 であると説いている。

  「神一行氏」も、これには疑問を感じたらしく、また石上神宮が、別名
 「布留の社」と呼ばれていることから、


  
「布都御魂大神」=ニギハヤヒ。オロチを斬った霊剣(を所有する人。)
  「布留御魂大神」=始祖。
  「布都斯御魂大神」=スサノオ。


  としている。

  このように見解は三者三様なのだが、フツシがどうやらスサノオである
 ことだけは、共通しているようである。

  しかしながら、如何せんフツの説明が苦しいことは、どなたもおわかり
 になられることであろう。

  フツが、ヤマタノオロチを斬った剣であることは、岡山県赤磐郡吉井町
 にある「石上布都御魂神社」の由緒に


  「布都魂とは、素戔嗚尊が八俣大蛇を退治し給うた鹿正の霊剣である」


  と記されていることからも推定できるが、古来、剣は持ち主の文身とさ
 れている。すると、ヤマタノオロチを斬った剣の所有者は、スサノオでな
 ければならないことになり、主祭神がフツであるとすれば、フツを聞いた
 ことも見たこともない(見たことがないのは当然なのだが)スサノオの父
 に当てるよりも、ずばりスサノオとしたほうがすっきりする。

  そして、三者の見解が一致しているフツシは、当然スサノオであるに違
 いない。

  ではフルとは何か。それは「出雲健雄神社」が既に解答を出してくれて
 いる。
  フルとは、呼称の由来となった「草薙剣」そのものである。「草薙剣」
 から導き出される人物とは、やはり、スサノオなのである。

  結局「石上神宮」のフツ・フル・フツシは、すべてスサノオのことであ
 り、スサノオの御魂を三種の神宝という依り代に分けて、祀っていたこと
 になるのではないか。

  おいおい、と仰られる方も多いことであろう。

  しかし、第一部でも述べているが、アマテラスとスサノオとの誓約にて
 できた、通称、宗像三女神(タグリヒメ・タギツヒメ・イチキシマヒメ)
 は、六国史の一つである『日本三大実録』が、この三姉妹が異名同体であ
 ることを暴露している。本来一神であったのを三神に分けて祀ったという
 のである。

  石神神宮についても、かつて同じことがあった、と考えられなくはない
 のではないか。 

  神社伝承学においては、何もかもを人名にこじつけて考えがちであるが、
 神の依り代としての神宝を祀ることが、なかったとは言えないと思う。

  「石上神宮」の創建は、崇神天皇のときまで宮中に奉斎され、天皇と御
 座を同じくされていた天剣を、「物部伊香雄命」に銘じて、「十種神宝」
 と共に石上邑に奉祀されたことが始まりであるというが、おそらくこれは、
 『日本書紀』に云う、


  
「・<前略>・・そこで物部連の先祖の伊香色雄を、神班物者(神に捧
 げるものを分つ人)としようと占うと吉と出で、また他神を祭ろうと占う
 と吉からずと出た。
  十一月十三日、伊香色雄に命じて、沢山の平瓮を祭神の供物とさせた。」


  と同じであろう。これは崇神天皇七年である。

  そして、それ以前の崇神六年、


  
「これより先、天照大神・倭大国魂の二神を、天皇の御殿の内にお祀り
 した。ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで
 天照大神を豊鍬入姫命に託し、大和の笠縫邑に祀った。・・<中略>・・
 また日本大国魂は、淳名城入姫命に預けて祀られた。」


  とある。

  本来、宮中ではスサノオの御魂の依り代である、「十握剣」・「天叢雲
 剣」・「十種神宝」が一体となって祀られていたのだろうと思う。

  そしてこれら三種の神宝は、天照大神・倭大国魂と同時期に、いったん
 宮中を出て「石上神宮」に祀られていた。ところが、「物部氏」・「尾張
 氏」との間で分裂があり、「草薙剣」とアマテラス(八咫鏡か?)は、大
 和を離れてしまった。その後、濃尾平野にたどり着いた「尾張族」は「尾
 張氏」に、伊勢に着いた「尾張族」は「度会氏」となって、その地の盟主
 になっていったのであろう。

  「石上神宮」には「神の御座」と呼ばれる禁足地があって、古来から二
 つの神宝が埋葬されているとの伝説があった。明治七年、この地が発掘さ
 れ伝説通り「十握剣」(布都御魂)と「十種神宝」(布都斯御魂か?)が
 出土している。
  現在は、国宝として神庫に納められているが、三祭神に対して二つの神
 宝では、到底合点がいくものではない。

  それもそのはずで、「布留御魂」こと「草薙剣」は、「尾張氏」によっ
 て「尾張国」に持ち出されてたからである。

  共にスサノオに関係する「物部氏」と「尾張氏」が、同族関係になった
 とき、お互いの神宝を一対のものとして祀っていたにすぎず、関係が解消
 すれば神宝も別々になるのは、当然のことなのであろう。
  ちなみに「物部氏」のニギハヤヒと、「尾張氏」のホアカリが同化して
 できた神こそ、


  
「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日尊」


  という長い神名の持ち主である。

  「石上神宮」の由緒や神社伝承から導き出した三祭神については、なん
 とも苦しい説明を展開しているが、神宝の一つである「草薙剣」が無いに
 もかかわらず、三神を祀っているのだから、そこはどうしてもつじつま合
 わせが必要だったに違いない。
  説明がちぐはぐなのは、そのためなのだろう。

  さて、「草薙剣盗難事件」を画策したのは、天智天皇だった。

  天智天皇にとって、「草薙剣」は盗んででも手に入れたい神宝だったと
 いうことだが、その理由とは何だったのだろうか。

  それは、この剣がスサノオに大いに縁のある神剣だったからだ、と思う。
 
  『記紀』においては、皇祖で最高神は言わずと知れたアマテラスである。

  しかし、それは持統天皇を初めとする、女帝支配を絶対化するための造
 られた歴史観であると思う。

  神祖であり皇祖はスサノオのことに他ならない。

  「津島神社」には弘仁元年正月のこととして、


  
「素尊(すさのおのみこと)は皇国の本主なり、故に日本の総社と祟め
 給いしなり」


  と称され、「日本の総社」の称号を送っている。

  さらに一条天皇は正暦年中(990〜994)、「天王社」の号を送っ
 ているではないか。

  つまり『記紀』が何と言おうと、スサノオこそ日本開国の租であると、
 天皇自ら認めていたのである。逆にこんな証言があるからこそ、平安時代
 の当初、『記紀』は読まれていなかったのだと思うのだが。

  天智天皇は、「天命開別天皇」という名乗りから推察したとき、あるい
 は、「近江京」という過去に例のない宮地への遷都など、自らを新たな皇
 統の初代と位置づけようとしたのだと思う。

  しかし、天智の前途は多難であった。

  『日本書紀』天智六年の条によれば、


  
「三月十九日、都を近江に遷した。このとき天下の人民は遷都を喜ばず、
 諷諌するものが多かった。童謡も多く、夜・昼となく出火するところが多
 かった。」


  とあり、民衆の心が離れていたのである。ちなみに、私はこれを遷都と
 は考えていない。
  天智が、「倭京」とは違う都を築いたものと考えている。

  「近江京」へは「白村江の戦い」に破れ、倭地に亡命してきた「百済」
 の将軍達や民間人、さらに「都の鼠」(倭京から来た豪族か?)が次々と
 訪れ、人口密度は異常に高かったのではないだろうか。

  はたして個人の裁量で、これをさばき切れたかどうか考えものである。

  ここからは、勝手な憶測でしかないのだが、そのような状況の中、天智
 が必要としたものは、王権誇示のためのはっきりとしたシンボルだったの
 ではないだろうか。

  初代近江王朝の大王としては、建国の祖スサノオにあやかり、民衆を静
 めようとした(かどうかわからないが、そう考えたい。また三種の神器や
 皇位継承の印としてではない)。
  それには、ヤマタノオロチを斬ったという「十握剣」が最善であったよ
 うに思う。覇王スサノオの手により、当代随一であったろうオロチ族討ち、
 その後「統一奴国」建国のきっかけとなった「布都御魂神剣」である。
 
  民衆から、神聖なる神剣として崇拝されている、まさにうってつけのシ
 ンボルではないか。

  しかしそれは、侵すべからざる「石上神宮」の神の御蔵に埋葬されてい
 るという。

  それを手中にすることは、かなりやっかいであるとともに、入手方法が
 知れたときのことを考えると、二の足を踏んでしまう。なにせ正攻法での
 入手は不可能だからである。
  そうすると国内(畿内)からは、調達できないことになる。

  そこで周辺諸国に目を向けてみると、なんと「尾張国」にスサノオ縁の
 神剣が奉斎されているという。
  しかも、ヤマトタケルの神剣であるかも知れないというではないか。

  ヤマトタケルとはワカタケル王、すなわち雄略天皇のことであり、この
 こともまた重要なファクターになった。

  直木孝次郎氏は、自身の著書の中で岸俊男氏の意見として、次のように
 まとめられている。


  
「そういうことから大和政権の確立期について考えてみると、雄略朝を
 重視すべきだという意見を、最近なくなられた岸俊男氏が数年前からとく
 に主張しておられた。
  岸氏がその意見をまとめられたのは、一つは稲荷山鉄剣銘に触発されて
 からだが、この鉄剣銘の解読によって雄略朝には東は武蔵、西は肥後にま
 で及ぶ範囲に大和政権が及んでいたことが明らかになった。それは四七八
 年の倭王武の上表文のなかに『三川を跋歩して、東は毛人を征すること五
 十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡って海北を平らぐること九十
 五国を支配した』といっているのに照応し、上表文には誇張があるにせよ
 雄略朝が日本国家の発展の一つの画期であることを思わせる。
  それから『万葉集』の冒頭、巻第一の第一番の歌が、雄略天皇の歌で始
 まっている、『霊異記』の上巻第一話も雄略天皇が御諸山の蛇=神をとり
 にやらせるという話から始まっている、そのほか多くの物語が雄略に結び
 つけられて『日本書紀』に出てくるのは、雄略を日本歴史の一つの始まり
 の時期と見ていたからではないのか──。どういう話かというと、瑞江浦
 嶋子の話、あるいは田辺史伯孫が馬をとり替えられる話、これらはどの天
 皇のところへもっておっても別に不思議はないのに、とくに雄略にもって
 いっている。それから伊勢の外宮が雄略天皇のときに始まるという伝承も
 ある。

 
 さらにもう一つ岸氏が重視しているのは『書記』の暦が雄略で変わって
 いる、『書記』の編成では、雄略の前の安康から変わっているのであるが、
 それは雄略に関係した話で、雄略から変わったと考えていい、雄略以後持
 統までが古い暦で編纂されていて、安康以前(はっきりしているのは安康
 のもう一つ前あたりからだが)が新しい暦で編纂されているという問題で
 ある。
  これはずっと前に亡くなった暦学の小川清彦氏の研究を再評価されて、
 つまり聖徳太子のときか天武天皇のときか、どちらかはっきりしないけれ
 ども、そのころに編纂された歴史は雄略以降の部分であって、その後新し
 い暦でそれ以前の部分が編集された──。もっとも、前から伝えられてい
 たものがあり、それを再編集したということであろうが、雄略から書きお
 こされた史書があるということは、雄略朝が、日本国家史の大きな画期で
 あったことを認めるべきであるという意見である。近年の有力な一つの考
 えである。畿内政権の歴史は何も雄略に始まるわけではなく、その以前の
 少なくとも応神・仁徳あたりから始まることは認めるべきと思うが、古代
 統一国家の形成ということを考えると、やはり雄略朝あたりが問題になる
 と思うわけである。」


  とまあ、こんな具合なのだが、古代の史家にとって雄略は国家史の幕開
 け的存在であったと言えたのかも知れない。

  天智にしてみてもスサノオに雄略とくれば、これ以上のシンボルはこの
 世に存在し得ない、と考えただろう。 
  まして、それが畿内ではなく「尾張」という外国にあったのだから、こ
 の点でも好都合だったと思う。

  被害者となった「尾張氏」にしてみてたら、誰が盗んだのかなどとわか
 るはずもなく、ただ盗まれたというニュースだけで大騒ぎになっていたに
 違いない。

  先の『尾張国熱田太神宮縁起』では、盗まれた神剣は「熱田社」に戻さ
 れた後、宮廷に召還されたことになっているが、盗まなければならなかっ
 たという朝廷と「尾張」との関係を考えると、召還命令を出せる間柄では
 なかったことになり、盗まれた神剣は「尾張」に帰還することなく、宮廷
 に持ち込まれたものと考えられる。

  傍証となるかどうかはわからないが、名古屋市南区鳥栖にある「鳥栖八
 剣社古墳」には、次のような社伝がある。


  「熱田神宮の神剣が盗まれたとき、都の帝に知れることを恐れて、神剣
 を新しく造るように鍛冶屋に命じたので、この地で37日間の修祓の上制
 作して、神宮に奉納した。」


  このことが、「草薙剣盗難事件」のことなのか、天保十年(1839)
 正月十九日の、別宮・「八剣宮」の神体盗難未遂事件のことなのか、どち
 らとも言い切れないが、「熱田の神剣」と言えば「草薙剣」のことであろ
 うから、天智七年の盗難のことだと思う。
  盗難が未遂に終わって、とりあえずでも「草薙剣」が帰還したならば、
 模造品を造る必要はないだろう。
  都の帝に知れることを恐れて云々は造作であろうが、真犯人がその天皇
 本人であるのだから皮肉なものである。

  現代の皇室では、三種の神器のうち「八坂瓊曲玉」を除き、レプリカを
 使用している。(ちなみに三種の神器というが、上代にはそういう概念は
 なく、『記紀』等古典をみても神器という言い方は見られず、単に神宝で
 あることを注意したい。)

  盗難後の「草薙剣」は、天武六年に「石上神宮」の摂社「出雲健雄神社」
 に祀られるまで、宮廷に留め置かれたようであるが、崇神期にアマテラス
 を宮廷から笠縫邑に出して以来、宮廷にはレプリカが保管されていたもの
 と推測する。レプリカと言っても霊力は分霊するので、本物と霊験に遜色
 ないということのようだ。
  事実、本家から分霊された地方の神社が、多数存在しているのは分霊に
 よるものである。
  
  従って、天智天皇にとって「草薙剣」は盗んでまで欲した神宝であった
 のだから、立派な威容を誇る社を建設して神宝を奉斎し、宮廷にはレプリ
 カを置いたほうが、神宝の霊験を広くアピールできるのではないか。

  それをしなかったのは、できなかったからだと思う。

  もちろん初めはそのつもりだったのだろうが、異国での盗難騒ぎが倭京
 や近江京にまで、聞こえてきたのだと思う。
  そうでなければ、天武が近江朝転覆後に「出雲健雄神社」を建て、見た
 こともない「草薙剣」を祀った理由がわからない。「草薙剣」と知ってい
 たからこそ祀ったのである。

  天智にしてみれば、犯人が自分であるとわかってしまうような、手段が
 とれるはずがなく、せっかく手にしたものの、宮廷に忍ばせておかなけれ
 ばならなかったのだろう。

  天武はレプリカを造らせた上で、「草薙剣」をスサノオの神宝の一つと
 して、神宝の武器庫でもある「石上神宮」に摂社をつくり奉斎したのだろ
 う。

  『天武紀』三年の条に


  「秋八月三日、忍壁皇子を石上神宮に遣わして、膏油で神宝の武器を磨
 かせた。その日勅して『神府に納められている以前からの諸家の宝物は、
 今、その子孫に返せ』と仰せられた。」


  とあるが、にもかかわらず「草薙剣」を後に奉斎したことは、皇室の神
 宝に相応しい神剣と判断されたからだと思う。

  ところで三種の神器を以て皇位継承の印とする考え方は、『日本書紀』
 以降であると考えている。

  『持統紀』四年春一月一日の即位儀礼においてさえ、


  「神璽の剣・鏡を皇后にたてまつり、皇后は皇位に即かれた。」


  と二種類である。しかも「八咫鏡」・「草薙剣」をさしてない。

  『日本書紀』の天孫降臨の条、第一の一書では、


  「八坂瓊曲玉及八咫鏡草薙剣三種宝物」


  『古事記』では、


  
「八尺勾玉鏡及草那藝劔」


  であり、『持統紀』が二種の神宝であったことを考えると、実は天孫降
 臨神話と即位儀礼の神宝は、本来全然関係のなかったことが、いつしか関
 連づけて説明されるようになったのではないか。

  「八咫鏡」と「草薙剣」が『記紀』において、アマテラスから皇孫ニニ
 ギに授けられたという、重要な説話として取り上げられるに至り、即位儀
 礼の神宝がそれであるというように、同一視されていったのだと思う。

  それらに勾玉が加わったのは、持統を初めとする女帝の時代だろう。

  はなはだ大胆な考えなのであるが、勾玉に女性のアクセサリーを感じて
 しまうからである。

  そう考えたとき、『古語拾遺』の「遺りたる一なり」という指摘こそ、
 三種の神器成立のきっかけとなったように思えてならない。

  「草薙剣」は、「尾張国」に返還されたとき、単に「尾張」の守り刀と
 してだけでなく、皇室の神宝という称号とともに返還されてきたのだろう。
  『熱田宮略記』によれば、天武天皇の勅命により奉仕者である「尾張氏」
 に社守七員をおいて、そのうち一名を長官とし、他の六名は別と定められ
 た。つまり、祭祀に専念させられたのである。

  そしてこのとき改めて、大宮や別宮諸神社を造営したらしい。

  「草薙剣盗難事件」は当時の「尾張国」にとってみれば、まことに不幸
 な事件であったと言わざるを得ないが、もし事件もなく今日に到っていた
 ら、かつては式内社で官幣大社であった「熱田社」も、今や本殿だけを残
 す地方神社になっていたのかも知れない。
  ましてや「神宮」と呼ばれることはなかっただろう。


                         2002年8月 了
                         2009年3月 改訂

  2009年3月12日 『産経関西』より

  国宝拝殿に放火 天理・石上神宮摂社 7カ所燃える

  12日午前4時半ごろ、奈良県天理市布留町の石上(いそのかみ)神宮で、
 国宝「摂社出雲建雄(せっしゃいずもたけお)神社拝殿」の格子戸などが燃
 えている のを社務所で当直していた権禰宜(ごんねぎ)の道上昌幸さん(32)
 が発見、119番した。火は道上さんが消火器で消し止めたが、建物前部の
 木製の格子戸や後部の土壁など7カ所、延べ約1平方メートルが焦げた。
  けが人はなかった。

  天理署や天理消防署によると、同拝殿から約20メートル離れた建物付近
 に、油類の入ったビンとライターが落ちており、道上さんは「油のにおいが
 した」と話しているという。

  現場付近にふだんは火の気がないことから、天理署などは放火の可能性が
 高いとみて調べる。

  同署によると、同神宮に門扉などはなく、夜間でも自由に出入りできると
 いう。同拝殿前には高さ約50センチの柵があるが、同署などは、何者かが
 乗り越えて火をつけた可能性もあるとみている。

  同拝殿は幅約12メートル、奥行き約2・7メートル、高さ約4メートル
 の切り妻造り、檜皮(ひわだ)ぶきの木造。石上神宮の本殿や拝殿の南側に
 位置し、鎌倉時代の建築とされる。もともとは明治時代の廃仏棄釈で廃寺と
 なった近くの内山永久寺の鎮守・住吉神社の拝殿で、大正時代に移築された。
 格子戸をたて、軒先は唐破風。昭和29年に国宝に指定された。木造の建物
 が中央通路をはさんで屋根続きで左右に分かれる「割拝殿形式」が特徴で、
 左右両方の棟の格子戸などが燃えた。

  石上神宮はJR天理駅の東約2キロで、市街地東部の山麓(さんろく)に
 鎮座し、古代の幹線道「山辺の道」に面している。布都御魂剣(ふつのみた
 まのつるぎ)を祭る古社で、武器にまつわる伝承が多い。

  同神宮の権禰宜、湊久昌さん(41)は「日ごろから消防訓練をしていて、
 すぐ消し止められて被害が広がらずにすんでよかったが、放火だとすれば残
 念。今後は防犯カメラの設置も検討したい」と話していた。