新・ICT時代のキーワードたち
ICTとは、情報コミュニケーション技術のこと。今ほどコミュニケーションが重視され、かつ忘れられている時代はないといわれます。ネットワーク社会の中で、人と人とのつながりを考えさせる、それでいて一般のメディアではあまり取り上げられないトピックスを集め、その意味を探ってみましょう。

Wordsモバイル放送Taipei Walkerテライユキ未来日記つながり感通信嵩高紙

高紙[かさだかし]

わざと紙質を厚くした新製法による紙。『ノルウェイの森』(村上春樹著)を超える空前のヒットを記録したベストセラー『世界の中心で、愛をさけぶ』(片山恭一著)などもこの紙を用いて製本されている。ページ数に比して本が厚く、存在感のあるものに仕上がるのが特徴だ。 実は『世界の中心で…』の読者の多くが、「初めて厚い本を読み終えた」という読了感に満足した、という感想をもっており、これが人気の一因となっているという分析もあるそうだ。メールやウェブといった物理的媒体を持たない文字情報があふれる現代において、このようにメディアの物理的存在感、言いかえれば「情報の身体性」が支持を獲得しているという現実には、実は深い意味があるように思われる。

かつて、筆者もドイツのマインツにある資料館で、グーテンベルクの活版印刷による聖書を目にしたことがある。複製と伝達をその特質とする情報メディアの祖とも言えるこの書物を見て感じたのは、−非常に手の込んだその装飾ともあいまって−まずその物理的な存在感であった。ふと、電子メディアはこの物理性、すなわち「身体性」から本当に自由になれるのだろうかと思ったものだ。紙に書きつけられることもないとりとめのないメールをやり取りする我々も、小型軽量化する端末に不釣合いなほど大仰なケータイストラップをくくりつけようとしたではないか。おそらくはやはり、メディアの本質はいわば「手触り」であり、「メディアはマッサージ」(M.マクルーハン)なのだ。情報の、その「身体性」への呪縛(?)は、どうやら思った以上にしぶとい(??)もののようだ。


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ながり感通信 [つながりかんつうしん]

NTTが富山県の山村を中心に2001年夏から実験を開始する、新しい通信形態。「つながり感」というのは「(明示的にではなく)何となく相手の雰囲気や状態、感情などが伝わっていると感じること」(NTT)なのだそうだ。

といっても特に目新しい技術が使用されるわけではない。人間の存在や動きを感知するセンサーをもつ観葉植物ポットのような端末を、離れて暮らす家族などの双方に置いて、一方の端末に装備された人の動きを感知するセンサーの反応などに応じて他方の端末が回転したり、光ったりするというだけ。つまり、互いに電話などでことさら会話などをしなくても、「ああ、今家に帰ってきたんだな」という感じで、意識の片隅で存在を認識しあう、といった非常に緩やかなコミュニケーション形態のことなのである。そうしたあいまいな「手がかり情報」によって「つながり」を感じあうことで、例えば積極的な(つまり、電話など普通の)コミュニケーションを触発したり、独居老人の孤独感を軽減したりといった効果が期待されている。

ただ−個人的な感想になるが−人間がテレコミュニケーションに要求する「つながり感」は、それほど象徴的でも、またそれほど感性的でもないような気がする。果たして、つながり感というものはメディアで「伝える」ことができるのだろうか?伝えられるもの、というのは常に内容であるはずだ。つまり、いかに非明示的な手段を用いても、つながり感、というあいまいな感覚をメディアでもって「伝えよう」とした瞬間、それはいわばコンテンツという明示性に収束してしまうのではないだろうか。

おそらく、われわれが求めているつながり感というのは、「その気になればいつでもコミュニケーションがとれる」という一種の環境が実現している状態そのものであって、決してコンテンツではないのだ。乱暴に言い換えるならば「つながっていること」だけを伝えるメディアというのはありえないのだ。

従ってこう言うことも可能かもしれない。さして中身のないように思える短いケータイメールを日に何件もやりとりする若者たちは、通信メディアに対して「つながり感」を求める上手な方法をすでに体得しているのだ、と。

ともあれ、実験の結果がどのようなものになるか非常に興味深いところだ。

NTTニュースリリースはこちら。

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来日記 [みらいにっき]

TBSテレビ番組「ウンナンのホントコ」の中で放映され、人気を博している企画。後楽園ゆうえんちなどでは「未来日記」をテーマにしたアトラクションも登場、映画にもなるという。番組で選ばれた面識のない一般の男の子と女の子が、番組(の出演タレントなど)が用意した「未来日記」というシナリオに沿って恋物語を演じてゆく。シナリオという「つくりもの」と本当の恋愛感情がないまぜになった不思議な恋物語。シナリオは無情にも二人に遠距離で離ればなれになることを強いるなど、葛藤をつのらせる...。

いうまでもなく、この「恋物語」の特徴は、まずストーリーありき、ということだ。あくまでも「セッティング」されている、という点だ。この番組がイマドキの男の子たちにも女の子たちにも熱狂的に支持されたのはおそらく、彼ら(筆者自身を含めて、かもしれないが)の求めるピュアな恋愛のかたちがそこにあったからなのだと思われる。そう、みんなテレビカメラの前で展開するような恋物語を演じたいのだ。否、−ここがポイントなのだが−そのような恋物語だけが、真の恋愛なのである。精神科医の大平健氏はこのあたりの事情について、精神病理学的な知見を踏まえて次のように的確に指摘している。

ドラマに準(なぞら)えて言えば、今日の恋愛≠ニいうのは、主人公と監督がともに「自分」の自作自演なのだが、普通の恋愛がとかくその二人の「自分」の妥協によってすっきりしない仕上がりになるのに対して、純愛では、主演の俳優女優の都合に合わせて監督が譲歩するどころか、役者はあくまで監督の理想、つまり「純愛」の物語通りに演じさせられる。それが「純愛」を純粋なものにするのだが、徹底的に純粋さが求められれば求められるほど、主演者、すなわち現実に生活しているほうの〔自分〕には無理が重なるのである。
(中略)
ともあれ、じっさいに「純愛」に向かうか否かに関係なく、現代の恋愛では、純愛に憧れる<自分>は、真実の愛を諦めたまま毎日の現実に埋没している〔自分〕にいつも不満をもっている。
「私、自分が嫌いなんです」
そんな風に言う若者の何と多いことだろう。しかし、そう言う現実の〔自分〕だって、身の回りの現実の方が普段とはうって変わって、例えば外国人と恋に落ちたり、インターネットや別の「人生モード」のなかで特別な相手に出会ったり、という具合になれば、話はまるで違ってくる。<自分>や〔自分〕が何もしなくても、何かの拍子に劇的なことが起きてくれないかなあ、とぼんやり考えている若者もまた、多いのである。(「純愛時代」岩波新書)

いみじくも「お仕事モード」「合コンモード」のような単語を駆使してさまざまに自己を重層化させてゆく術を身につけてしまった若者たちにとっては、「恋愛モード」環境にセッティングされていない状況で「自分なりの」恋愛を編む、という行為が極めて難しくなってしまっているのかもしれない。だがもちろん、テレビカメラの被写体になれるような恋愛のシチュエーションなど、そうあるものではない。だからいきおい「ピュアな恋愛=純愛」の対義語は「不純な恋愛」でなく、どこにでもあるような「チープな恋愛」ということになってしまうのである。彼ら(筆者自身を含めて、かもしれないが)にとっては、「なにげない恋」という言葉はもはや形容矛盾でしかなくなってしまっているのではないか、という気すらしてしまうのだ。

とまれ、こうした若者の心理をほとんどグロテスクな形で番組化した制作スタッフや出演タレントが慧眼だったことだけは、どうやら間違いないようである。

未来日記ホームページはこちら(TBS)


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ライユキ  [てらいゆき]

クリエーター・くつぎけんいち氏の手になる、CGによるバーチャル・アイドルと呼ばれるキャラクターで、2000年9月からオンエアされているライオンのCMにも出演中。99年刊行された「写真集」は1カ月で15000部を完売、現在発売中のCDも好調な売れ行きという。1983年9月9日千葉県出身、趣味はインターネットとツーリング、好きな食べ物はフルーツだとか。

数年前の映画「バットマン」で、CGによって作成されたバットマンが歩くシーンが「人間的な動作をCGにやらせてしまうのは問題」としてカットになったという話があったが、ある意味でそうした価値観など超越したバーチャルな人格がここ日本で半ばあたりまえのように生み出され、人気を獲得しているという現象は、考えてみれば非常に興味深い。

この世に存在しない「人間」がファンを獲得するという現象に「不自然だ」という違和感を覚える人も少なくないかも知れない。かく言う筆者もその一人であるが、もともとアイドルとはidol、すなわち偶像という意味である。従ってバーチャルアイドルという単語は、ほとんどトートロジカルに当たり前のことであって、むしろ「自然」な存在であるとすら言いうるかも知れないのだ。

ただ、われわれはときには例えば人気アイドルのゴシップを知りたがったりする。その心理には、メディア資本の商品たるアイドルという観念的な顔が「人間くささ」という生活性(あるいは「生身性」とでもいうべきか)に回収されてしまう間隙を見出すことへの一種の安心感(そして、あの人もやっぱり、といった一種の親近感)があるのかもしれない。ところが当然のことながら、バーチャルアイドルにはその間隙が存在しない。我々がメディアを通して知りうる彼女の「素顔」もまた、まさにアイドル=偶像としての純粋な商品性そのものでしかないのだ。しかもこの商品性は、生活性という対立項自体を消失させることによって、あたかも模様の地と図が片方だけでは認識できないように、われわれにそれと意識させないまま肥大化してゆく可能性を得てしまうことになる。

街を歩く何の変哲もない女の子をTVカメラの前に立たせ、その生活性を引きずらせたままアイドルに仕立て上げるという流れも、アプローチこそ(生活性の商品化という)逆方向からではあるものの、商品性を純化し最大限肥大化させ、それによってかえって商品性を潜伏させる、という戦略においては、バーチャルアイドルと軌を一にしていると言えるかもしれない。かくして、メディアの向こうには「純粋な」商品たちだけが並ぶ、という構図が出来あがる。しかもわれわれ大衆に対してはその商品性を巧みに無感覚化させつつ、である。

このような「意識されないまま蠢く商品性」とでも言うべきものが、今後の、特にエンタテイメント系メディアの、まさに「伏線」となるような気がしてならないのだが、いかがであろうか。


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Taipei Walker [たいぺいうぉーかー]

角川書店系のタウン誌「Tokyo Walker」「Yokohama Walker」などは地元の便利な情報源として人気がある。東京や横浜だけでなく大阪(関西)や福岡(九州)など、今や全国の主要都市で発行されている「ウォーカー」誌であるが、実は台湾の首都・台北市にも「台北ウォーカー」があるというのだ。もちろん海賊版ではなく、日本と同様角川書店の現地関連法人が発行するれっきとした姉妹誌で、1999年秋の創刊以来売れ行きも好調という。これは日本文化の「侵略」なのだろうか、それとも?

Taipei Walkerの内容を見てみると、「超速配!夏の100%享受!密熟度直線上升!初夏約會必勝路線決定版」とか「清涼美味・夏日冰品95種」といったタイトルが見える。内容も完全に国内版と同様の感覚で、非常に面白い。もちろん東京の情報も非常に細かく掲載されていて、まるで台北と東京がヤング・カルチャーという橋で自在に往来できるような、不思議な思いにとらわれる。
アジアの各都市でもたとえば厚底サンダルが大流行し、誰もがキムタク( (Kimura Takuya;木村拓哉)やモーニング娘。(Morning Musume;早安少女組)を知っている、という時代である。東京の若者がニューヨークの情報を求めるように、(日本以外の)アジアの若者たちは日本の情報を求める。ただ日本の地域情報誌がそのスタイルを(ほぼ完全に)維持したまま、かの地の「地元情報」を提供する、という感覚には、かつての日本の若者たちがたとえばアメリカに対して抱いた憧憬とは少し違うものがあるのかもしれない。結論めいたことを言うならば、2000年の日本の若者が持つ視点や世界観を、アジアの若者たちもまた共有しようとしている−否、すでに共有している−ように思われるのだ。アジアの都市は、日本、具体的には東京という記号を緩やかな重心として−アジアの現今の経済成長状況や高度情報社会という時代的背景とシンクロしつつ−、一つの「街」になろうとしている、そんな方向性が垣間見られる。

とはいえ、おそらく大切なのは、そうした新しい視点共有の感覚は、やはり「双方向的」でなければならない、ということだ。つまり、日本の女の子や男の子たちも、まずは(こういう言い方が適切かどうかわからないが)「アジアのほかの子たちから見られる自分の姿」をもっと「意識」してもいいのではないか、ということである。そして、それは一つの可能性でありこそすれ、決して悪いことではないはずである。

Taipei Walkerのホームページ:http://www.walkersnet.com.tw/(中国語フォント(繁体字)表示ツール(IE専用)をダウンロードしたい方はこちら。)


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バイル放送 [もばいるほうそう]

インターネット通信技術と、NTTドコモなどが認可を申請した次世代通信技術・W-CDMAなどのIMT-2000を利用し、携帯電話のディスプレイで見ることができるようになるとされる映像番組配信のこと。通信衛星や世界中に設置したキャッシュサーバー(提供情報を一時的に記録するコンピュータ)の活用により、インターネットの弱点であった通信速度の遅さを克服する。

モバイル「放送」とはいえあくまでもネットワークを利用した通信という扱いになるため、放送免許も不要。次世代放送といえばBSデジタル放送開始で注目されているHDTVが有名だが、アメリカなどではすでに失敗ずみ。いま一部から、こちらのモバイル放送の方が魅力的なメディアなのではないか、という声が上がっているのだ。実は日本の空はもう電波でいっぱいで、次世代の通信技術に割り当てる周波数がほとんど残っていないのである。万一日本でもHDTVが失敗するとなれば、そのテレビ放送に使われていた周波数に次世代通信技術が群がるという展開が予想される。ひょっとすると数年後には、家庭のテレビはケーブルで、電波放送は携帯電話の画面で、というスタイルが普通になるかもしれない。もちろん、日本のテレビ業界関係者達は「日本を世界初のデジタルTV放送成功国にする」といきまいているのだが・・・。今後に注目したい。


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