メディアとコミュニケーションのページ この「メディアとコミュニケーションのページ」では、情報科学と現代社会の問題を中心に、ざっくばらんに書き散らかしたものをまとめてゆきます。
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#3「電脳空間」のコスモロジー :インターネット「空間」の相対性理論?

#2「メッセージ」復権論  :わかりあいたい。ひとつになりたい。でも。

#1「ホームページ」という日本語 :Home, sweet ホームページ


#3「電脳空間」のコスモロジー

ある日、友人がいつものようにパソコンにむかって何やら熱心に作業をしている。私はそのモニタをのぞきこんで、
「や、新しいソフトじゃない。どこで手に入れたの?」
「インターネット上にころがってたんだよ」
「へえ、僕もDL(ダウンロード)してみよう」
どこででも聞かれるような会話だが、もちろん実際に「インターネット」の「上」にそのソフトが「ころがっている」はずはない。インターネットに接続されているどこかのコンピュータにそのソフトが収録されていて、そのコンピュータにアクセスすることによってそのソフトのコピーを提供してもらうことができる、という意味だ。

しかし、「電脳空間」「インターネット空間」などとよく言われるように、われわれはインターネットのようなネットワークをしばしば「空間」としてとらえる。実際はそんな空間などどこにもありはしないことを承知しているにもかかわらずである。(いうまでもないが、この時に使う「空間」ということばは、コンピュータの高度な画像処理技術などを使って実現されるいわゆる「仮想現実空間」の空間とは全く異なるものであることに注意されたい。仮想現実空間はもっぱらわれわれの感覚器官を巧妙に「だます」ことによって、われわれが生活しているのと同様な三次元の空間にいるようかのように感覚させる具体的な技術をさす)

そもそも、われわれにとって空間とは何なのだろうか。

空間とは何か?と問われたら、あなたはどうこたえるだろうか。物理的な空間(つまり、日常的に使う意味での「空間」)に話を限ってみても、実はこの問いに答えることはなかなか難しい。

考えられるこたえのひとつは、「モノが存在したり、移動したりできる広がり」というものだ。この考え方は現代物理学よりむしろ19世紀頃までの古典物理学(ニュートン力学)的な見かたに近い。モノがどのような状態にあろうと、それに影響されないいわば「舞台」のようなものとして空間をとらえる考え方は、現代物理学においては捨て去られてしまった。20世紀以降の物理学においては空間は、そうしたモノそれ自身のあり方と切り離すことの出来ない、ある緊張状態のような形で記述される。物質と空間は緊密に絡まりあっているのである。したがって大質量の物質の傍らで空間がゆがんだりということも生じうるのだ。そしてインターネットのような電脳空間もまた、このような現代物理学的な空間に近いといえるのかもしれない。というのも、インターネット空間もそこに存在する要素によってゆがむといえるからである。たとえば情報の伝達速度という観点からインターネット空間を見てみると、それは通信回線やサーバーや端末の処理能力と、情報トラフィックの混雑度などによって、ある点とある点の「距離」が(その点自体は移動していないにも関わらず)時々刻々変化するような世界であろう。

「空間」のイメージとしてもうひとつ思い浮かぶのは、「何々はどこそこにある」というように、ある要素があり、その要素に対応する場所の名前を指し示すことができる状態が実現されていること、というものである。このことは、実質的な「広がり」のようなものが存在しなくとも、個々の要素にそれぞれの場所を表示する「ラベル」が貼られていればそうした状態を空間とみなしうる可能性をしめしている。ラベルの内容(場所)は何でも構わない。たとえばAという要素に3というラベルを与え、この「3」というのがAの場所なのだと決めてやればよいわけである。大切なのは3という場所がどこなのかということではなく、Aという要素と3というラベルが対応しているということである。こうした空間では「移動」は、要素に貼られたラベルを書き換えるということによって実現される。そして実はこのような空間観念こそ、インターネットのようなネットワークの究極的な姿を考える上で極めて重要なものになってくるのではないだろうか。たとえば私がある人にメールを送信する。究極的なネットワーク環境下では実際にその人にメールそのものが届く必要はない。ただそのメールに貼りつけられている(送り主である)私のアドレスのかわりに貼りつけられるべき相手のアドレスと、そのはりかえ方を示す簡単な手順表だけでよいはずである。なぜならこのようなネットワーク空間では、場所のラベルを貼りかえること自体が「移動」に他ならないからだ。メールが実際に置かれている場所はどこでも構わない。自分のコンピュータでも相手のコンピュータでもなく、ネットワークに接続されているどこかのコンピュータの適当な領域でよいことになるだろう。ネットワーク空間の「場所」とはそういうものなのではないだろうか。ネットワーク空間とは、「場所は決まっているのに、位置の決まっていない空間」なのである。

もちろん、現在のインターネットはこのようなネットワークとしてはあまりにも未成熟だし、通信設備やコンピュータのハード、インターフェースもこのような究極的ネットワークを実現するには程遠い。ただ、今日のインターネットの世界はそうした究極的ネットワークをサーバーやアップロード・ダウンロードの概念によって仮想的に志向していると考えることもできるのではないだろうか。

電脳空間はまだまだ物理的空間の性質を引きずっており、電脳空間の「場所」は物理空間の「位置」から自由になってはいない。しかし場所が位置から完全に離陸した時、電脳空間はわれわれの前にその真の姿をあらわすことになるだろう。それは福音だろうか。それとも・・・。

メールソフトの「送信済みのメールはディスクから削除する」などという日常的感覚から見れば矛盾した設定項目にチェックをつけるたび、そんな思いに駆られてしまうのである。

参考文献:斎藤了文「空間」(「新・哲学講義5 コスモロジーの闘争」岩波書店 所収)
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#2「メッセージ」復権論

高速化・緊密化の果てに

今日の高度情報化社会は、「マルチメディア社会」ともいわれるように、メディア=情報伝達媒体の多様化・高速化にその特徴を持っている。情報の送り手と受け手の懸隔はますます縮小し、緊密なコミュニケーションが成立する契機はほぼ整ったようにも思われるし、事実このような観点から、希薄化しつつある人間的関係の復興の希望をみてとる議論も少なくはない。しかし、メディアとはあくまでも「媒体」である。媒体である以上、その媒体に乗せられるべき実質的な「メッセージ」が必要であることはいうまでもない。 ところが最近、コミュニケーションのイメージについて、メディアの緊密化とともにそうした「メッセージ」を軽視する兆候が現れていることを指摘しないわけにゆかない。その兆候は、「メディアによる懸隔がゼロになったとき、メッセージは必要なくなる」という発想であると言い換えることもできよう。つまり、人間と人間の交流をとりもつメディアがますます緊密化して行く地平の果てに、メッセージの必要ない状態を見ようとする態度のことである。

メディアとしての身体

人間がまずメディアとして、つまりコミュニケーションの媒体として有しているのは自己の身体に他ならない。この意味では、あらゆるマルチメディアは人間の器官の拡張だと見ることもできる。ただここでいう器官とは、あくまでもメディア的人間のいわば「誇張された」身体器官であり、マルチメディア機器はそうしたディフォルメ式身体が具象したものである。ともあれ、身体器官は代表的な例として言語というかたちでメッセージを発し、また受ける。

ここでひとつの可能性が、マルチメディアの緊密化という視角から照射されてくる。すなわち、「お互いの完全な理解 = メディアたる身体の距離がゼロになる(理想状態としては「融合する」)こと」という図式である。そしてこのとき重要なのは、「メディア(身体)の距離がゼロになったとき、もうメッセージなど必要ない」という考えが生まれてくる点である。この点は、特に現代の若者の間でごく自然に受け入れられている態度のように思われる。いささか唐突ながら、若い世代から絶大な支持を受けているアーティストたちの歌詞を引用してみたい。

からだが溶け合って ひとつの生き物になれたらいいのに
たましいも溶け合って 尾を引いて
からだを脱ぎ捨てて ひとつになりたい
たましいは溶け合って ひとつの生き物になりたい

DREAMS COME TRUE「キレイキレイ」(詞・吉田美和)

この歌詞には、「真にわかりあう」という理想状態が「からだが溶け合ってひとつ」になるという概念でそのままおきかえられている端的な例を見ることができる。ここで注意したいのは、この融合が決して象徴的な意味でなく、あくまでも具体的な事態として想定されていることである。このように、身体の融合をメッセージ(たとえば言語)の必要のない「わかりあい」にそのままシフトするという感覚は、我々の間に広く浸透してきているのである。

体の奥がつながってる 心の奥の乾きと 夢中だった日々
白く縁どった寒い冬の日は
あなたがいたから 想い出になれた


SPEED「季節がいく時」(詞・伊秩弘将)

もはや心はコミュニケーションにおいて副次的な意味しか持たない。大切なのは体のつながりであり、それが相互理解の必要十分条件なのだ。なぜなら体のつながりは感覚によって「確認可能」だからである。心は見えない。さわれない。感覚不可能なものより感覚可能なものを信じる、それはある意味で当然のことなのかもしれない。

けれどもここで主張しておかねばならないのは、このように身体の融合を(たとえそれが究極的には不可能であることをどこかで納得したうえであれ)想定しても、そうした状態において「メッセージ」が不要になることはありえないという点である。さらに重要なのは、コミュニケーションにおいて、メディアの「融点」をその彼岸に措定すること自体が基本的な誤謬であるということである。

しかしそれはなぜ誤謬なのだろうか。

「メッセージ」実体化の悲劇

メディアの懸隔がゼロになる(すなわち、融合する)ということは、見方を変えれば、メディアそれ自体がメッセージ化するという状態が実現されることでもある。先にも述べたように、メディアは何らかの実体でなければならない。必然的に、この状態はメッセージが実体化している状況であるということができよう。「ひとつになる=わかりあえる」という図式は、メッセージを実体としてとらえる、あるいはとらえうる状況を前提とする。

しかし実はこのような「メッセージを実体的にとらえること」こそ、じつは極めて危険なことなのではないだろうか。そもそもメッセージ(それは場合によりことば・情報などと言い換えてもよいであろう)は実体を離れてこそ成立しうるものなのである。メッセージは実体から遊離した自由度を持っているからこそメッセージたりうるのである。しかし我々は、すでにメッセージが実体化してゆく悲劇を目の当たりにしつつある。たとえば、精神世界や人間の理解を超えた存在を措定し、そうしたものに語りかけ、信仰するという行為がある。これもひとつのメッセージの発信であり、対話であるとも言えるだろう。しかし、こうしたメッセージを実体化させようとするどうなるであろうか。たとえば信仰という非実体的な精神の営みを物理作用としての超能力や薬物に置き換え、触知可能にするという道がとられる。しかし実体化した信仰が信仰でなくなり、暴力とさえ化してしまうのはオウム事件を思い起こすまでもないことである。またたとえば、他者の存在について実体をもってせねば納得することができなくなり、他者の実体つまり肉体を自分の肉体で把握しなければ(他者は把握されるまで他者ではありえないので、必然的にこの把握行為は暴力的な性格を帯びることになる)真のコミュニケーションがとれなくなってしまう。実はこれらの悲劇は、実体化しえないものを実体として「触る」ことができなければ信じられない、という現代人がひそかに持つ傾向を暗示しているのではないだろうか。「ひとつになればわかりあえる」という漠然とした希望には、実はこのような、実体化不可能なものを実体化することに伴う暴力的な悲劇の文脈が隠されていることを、我々は見ぬかなければならない。(ちなみに、先にあげたドリカムのアルバムタイトルは「the Monster」であった。融合の暴力性(あるいは融合した実体はすでに畸形(monster)に他ならないこと)を暗示していて興味深い。)

想像力の必要性

それでもなお、メッセージの実体化というのは広い意味で避けられない現実であるように思われる。それはたとえば「バーチャルリアリティー」の陰に、あるいは「心の教育」と名のついた、あたかも「こころ」を実体として育てることができるかのようなもの言いの教育制度の中に潜み、我々の間に音もなく浸透してきている。そのようななかで一体我々が今必要とすべきものは何なのであろうか。答えは明白である。それは「想像力」である。

現代社会を生きる中で、実体のないものについて思いをめぐらすことを、我々は避けるようになってきた。しかしそれがたとえば「いのち」といったような、非実体的なものを把握することを困難にしてしまった。生物の体をいくら切り刻んでみたところで、いのちは出てこない。しかしそれは確かに存在しているのである。

メッセージが実体でないからこそ重要だ、という要因もそこにある。人間が人間的であるために、メッセージ(言語)の想像的(創造的)な自由度は極めて大きな役割を果たしているからである。

参考文献:山内志朗「天使の言語」(「新・哲学講義1 ロゴスその死と再生」岩波書店 所収)、村上陽一郎「近代科学を超えて」講談社学術文庫
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#1「ホームページ」という日本語

近頃は猫も杓子もインターネット。企業の中にはインターネットでなければ採用案内を行わない、などというひどいところもあるそうで、相当の過熱ぶりである。

このインターネット、そもそもは1969年、アポロが月へ到達したまさにその年に米国防総省が開設した「ARPAnet」にルーツを持つといわれる。つまり、元来は冷戦の最中、アメリカのあの強固な産・学・軍共同体の土壌に生まれたコンピュータネットワークであったのだ。

しかし今日、インターネットは大きく様変わりした。ネット上にはおびただしい数のホームページがあふれている。最近特に目を見張るのは個人が開設するホームページの爆発的な、まさに爆発的な増加である。自分の飼い猫の写真や、「どこどこへ行った。楽しかった」といった、文字通りの「個人情報」ををテーマにしたホームページを作る人々が大勢いるのだ。それもそのはずで、今日ホームページ作成には専門的な知識はほとんど必要とされない。パソコン経験がゼロで、「でもホームページ作りたいからパソコン買ったのお」なんていう女の子までいる。で、そういう人たちの作ったホームページを見てみると、なかなかどうしてよくできている。特に日本人は元来こうした箱庭的な空間をアレンジするセンスには優れたものを持っているのだから当然かもしれない。

さて、今まで何気なく使ってきた「ホームページ」という単語だが、これはれっきとしたインターネット英語であり、和製英語ではない。ちゃんと通じる。しかし、英語のhomepageと日本語のホームページには、実はちょっとした意味のズレがある。

我々が通常使う意味でのホームページというのは、英語ではwebsite(ウェブサイト)と呼ばれる。webとは蜘蛛の巣の意、つまりネット(の機能)のことであり、siteは「敷地」「用地」といった意味を持つ。我々が普段「ホームページ」と呼んでいるものは、通常いくつかのページ(画面)が集まって構成されている(たとえば「自己紹介のページ」とか「私の撮った写真のページ」とか)。このページ一つ一つをwebpageという。要するに、 websiteとはwebpageの集合体のことであり、homepageというのは、このwebsiteにアクセスしたとき最初に表示されるwebpageのことをいうのだ。大体homepageというのは単数形だから、一般に複数のページによる集合体という形式をとる「ホームページ」全体を指す語としては適切とはいえまい。日本でも、ちょっとこだわる人たちはホームページといわずにウェブサイトと言ったりする。homepageには普通、そのサイトのインデックスや一般的な紹介などが掲載されており、そのサイトへやってくる人はここをいわば「本拠」にしてサイト内のいろいろなページをのぞくわけだ。またあるいは、ブラウザを起動したときに最初に表示されるwebpageをhomepageということもある。感覚としてはどちらも、「起点ページ」といった意味あいである。

筆者が小学生の頃、近所の児童館で初めてパソコンを習ったとき、キーボードの「HOME」キー(押すとカーソルが画面の左上端に移動する)について、「カーソルの基本の位置は画面の左上なんです。だからHOMEキーを押すとカーソルが家へ戻るわけです。」と説明されたことがあった。キーボードを打つときの手の基本位置を「ホームポジション」というが、その意味に近い。homepageのhomeもむしろこの意味が大きいのではないだろうか。

この、元来はある程度限定された意味を持っていたhomepageという語は、日本でインターネットが爆発的に普及するにつれて、サイト全体を示す語として広く浸透するようになった。「ホーム」「ページ」という、我々日本人にとって非常になじみ深い単語の組み合わせであるという点がもっとも大きな要因だろう。

しかし、ここで我々はホーム、というこの言葉に、それまでのインターネット英語としてのhome にはなかった新しい意味を付加したのだと言ってもよいだろう。本来の語homepageのhomeとは、誰の家(ホーム)なのか。これまで述べたことから思うに、答えはおそらく、そのwebsiteの、あるいはそのsiteへやってきた人のためのhomeということになる。しかし、日本語のホームページという言葉においてはそうでないことは明白である。むしろそのwebsiteを作った(あるいは持っている)人のホーム、という意味を深く持っていると思うのだが、どうであろうか。

元々インターネットという体系そのものが、すべてのコンピュータをいわば同レベルで繋ぐという、よりどころのない漠然とした形式をとるネットワークシステムなのであった。つまり、インターネットには「よりどころ」がない。一歩踏み出せば、世界から押し寄せる情報がまさに怒濤のように渦巻いている世界である。しかしそれではいかにも不安だ。そうした嵐の中で、自分を守ってくれる暖かい家。日本語で言うホームページの「ホーム」には、そんな感覚が垣間見られる。単語としてのなじみの差こそあれ、我々がsite「領域」でなくhome「家」という語を採用した意識には、非常に興味深いものがあるように思われるのである。

とするならば、日本人は「website」を「ホームページ」と呼ぶことによって、自分たちの文化によりフィットする形での、インターネットという巨大なネットワークに対する独自の態度を見出した、と言うことができるかもしれない。

 (1997、「人間学資料室学生のページ」掲載)

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