ドイツ天文学史の旅日記
Die Reise von Astronomiegeschichte durch Deutschland
そうだ、ドイツ行こう/ゲッティンゲン/テュービンゲン/ヴァイル/ウルム

そうだ、ドイツ行こう。

 98年3月13日。まだ肌寒い成田空港。僕はフランクフルト行きのジャンボジェットに単身乗り込んだ。
 成田を離陸した飛行機は、新潟市の直上を通過して日本海へ出、シベリア方面に進路をとる。直行便で約10時間半、高度を下げる機窓からドイツの大地が見え始める。赤い屋根の家々。アウトバーン。そして森。ロマンと古城の国ドイツはまた、ケプラー、アインシュタインなど天文学史上の偉人たちの故郷でもある。天文学史にゆかりある魅力的な小都市を選んで、そうした天才たちの足跡を、気ままに訪ね歩いてみることにした。

ゲッティンゲン Goettingen

 日本からの飛行機が発着するフランクフルト空港の地下駅(Frankfurt Flughafen)からフランクフルト中央駅(Frankfurt (M) Hbf.)まではSバーン(近郊電車)で15分ほど。ジャーマンレイルパスを持っていればIC(イーツェー:インターツィティ)などの特急にも乗れる。これなら途中駅には停車しないし、車内も快適なのでおすすめ(本数は少ないが)。

 フランクフルトからベルリン方面行きのICEに乗り込み、ゲッティンゲンへと向かおう。窓の外は寒々しい曇り空。ドイツの春はもう少し先のようだ。約1時間半の乗車でゲッティンゲン(Gottingen)着。宿でフロントのおばさんに「シングル空きありますか?」と聞くと「ごめんね、一杯なの」との返事。がーん。しかし「ちょっと待って、他に電話して聞いてあげましょうか」と、別のホテルを紹介してくれ、空きの確認までしてくれた。「これ、電話代です」とコインを渡すと、「いえいえ、そんなのいらないわよ」。その上「日本から来たの?」と日本語の地図もくれた。旅先で触れるこんな小さな心遣いが、何よりも心に残るものである。

ブンゼン通りとと天文台 さて、駅からは旧城壁沿いに大通りが延びているが、ここを10分ほど歩くとゲッティンゲン大学の数学・物理学校舎のあるブンゼン通りにつく。人影もまばらな細い通りだが、白い建物が両脇に連なる。ここは現代物理学ゆかりの地。物理学者ハイゼンベルクとボーアが出会ったのがここであった。彼らはやがて人類の世界観・宇宙観を変えることになった量子力学の体系を成立させることになる。ディラックやオッペンハイマーも一時期ここで学んだという。もちろん数学の分野でも、ガウス、リーマン、時代を下ってヒルベルト、クライン、デデキントらそうそうたる面々がこの地で現代数学の基礎を打ち立てたのであった。人類の新たな世界観がこの地で誕生したと言ったら言葉がすぎるであろうか。

 大通りをさらに歩き、近代的な新市庁舎の脇を通り過ぎるとゲッティンゲン大学天文台である。ガウスはここの初代台長であった。建物の向かって左側の壁にはガウスとヴェーバー、右側にはやはり台長であったシュバルツシルトのプレートがはめ込まれている。天文台から歩いて5分くらいのところにガウスの眠る墓も見つけた。小雨の降る林の中、しっとりとした風情でたたずむガウスの墓に参る。

 帰りは遊歩道になっている城壁の上を歩こう。途中にはガウスとヴェーバーの銅像も建っている。しばらく歩いて城壁を右側へ降り、市街へ向かってみよう。レストラン、酒場、書店などが軒を連ねる旧市庁舎周辺は、歩行者天国でいつも賑わっている。たまごっちも売っているがブームはすでに下火のようだ。最近は「プリクラ」が流行の兆しだそうで、そのうちあの機械がゲッティンゲンの街角にも置かれることになろう。広場にある有名な「がちょう姫の像」は若者たちの格好のミーティングポイント。博士号をとった学生はこの像にキスを捧げることになっているという。(16-19.3.1998)

このページのトップに戻る

テュービンゲン Tuebingen

 ICE「ハンナ・アーレント」号に乗ってハイデルベルクからシュトゥットガルト、そこから2階建ての近郊電車に乗り換えてテュービンゲン(Tubingen)と、ネッカー川を遡る形でたどる。人口8万6千、このテュービンゲンも古い大学町である。哲学者ヘーゲル、シェリング、またヘルダーリンらが学んだテュービンゲン大学では、のちに「熱力学第一法則」と呼ばれることになる原理を提唱したマイアー、そしてさらに時代を遡って16世紀には若きケプラーが学んだのであった。駅を降り、地下道をくぐって市街方面へ歩くと、すぐにネッカーにかかるエーベルハルト橋に行き着く。ここから、中州の遊歩道「プラターネンアレー」へ降りられるようになっている。遊歩道からはまだ川幅せまいネッカーの水面(みなも)越しにヘルダーリンの塔や教会堂を仰ぎ見ることができる。

アレーからアルテアウラを望む 河岸の小高い丘に位置する市街地は、道がせまい上に街のつくりが3次元的で非常に分かりづらい。響いてきた鐘の音だけを頼りに、路地へ迷い込むようにして、教会堂の隣にある大学旧校舎「アルテ・アウラ」にたどり着く。4世紀前に青年ケプラーが思索に耽りながら歩いたであろう界隈である。ケプラーは学生時代にニコラウス・クサヌスの「知ある無知」を読んでいたという。ネオプラトニズム的なこの著作が彼のインスピレーションに影響を与えたであろうことは想像に難くないところである。

 アルテ・アウラから川に向かって右へと路地をのぼってゆくと、道は分かれ、さらに細くなる。注意深く「Bergsteige」の標識を探し、ホーエンテュービンゲン城へ。この坂を上りきったところ、城門の前にケプラーの師・メストリンが住んでいた家が残っており、今は一階がアイリッシュパブになっている。当時一階は印刷屋で、ケプラーの処女作『宇宙史的神秘』がここで印刷されたそうである。家の正面には「Hier wohnte Prof. Michael Maestorin aus Goppingen, der Lehrer des Astronomer Johhannes Kepler(ここに、天文学者ケプラーの師、ゲッピンゲン出身のミヒャエル・メストリンが住んでいた)」と記された小さなプレートが掲げてあった。もっとも観光ガイドなどにはこれに関する記述は全くなく、観光客たちはただひたすら城を目指してこの家の前を通り過ぎてゆく。(地図にも書かれていないので1時間近く探し歩いてしまった。)

 城からの眺めは美しい。旧市街をウインドーショッピングしながら、駅へ戻ることにしよう。(22.3.1998)

このページのトップに戻る

ヴァイル・デア・シュタット Weil der Stadt

ヴァイルの城壁とケプラー像 シュトゥットガルト中央駅の地下ホームから、30分毎発車のSバーン6号線に乗って34分。電車はヴァイル・デア・シュタットという小さな終着駅に着く。ちょうど下校時間帯で、子どもたちの歓声につつまれながら駅をでる。駅前通りもなくベッドタウンといった風情であるが、実はここもかつてはれっきとした中世の自由都市。そしてここが、ヨハネス・ケプラーの生誕地なのである。しばらく歩くと古い城壁が見えてくる。その小さな門をくぐってゆこう。子どもたちもいつしか去って、静かな、うららかな昼下がりである。小さな店が並ぶ石畳の坂道を歩き、坂を上るとマルクト広場。ここにケプラーの立派な銅像が建っている。泰然と腰を下ろし、天を見つめる荘重なケプラーの姿である。台座のレリーフでケプラーが携える書物には「ASTRONOMIA NOVA(新天文学)」の文字も見える。

 昼下がりの広場はひっそり閑としている。日だまりで遊ぶ鳥の姿を、広場に面した小さな店のショーウインドーが映す。そのガラスの向こうには、間近に迫ったイースター用のカラフルな卵がちょこんと飾られていた。(24.3.1998)

このページのトップに戻る

ウルム Ulm

ルドルフ表記念プレート ウルムといえば世界一の高さを誇る161.6mの大聖堂が有名であるが、ここは何を隠そうかのアインシュタイン生誕(1879年)の地なのだ。もっともアインシュタイン一家はまもなくミュンヘンへ移ってしまっており、彼の生家跡は今では駅前の銀行になっていて、往時をしのばせるようなものは残っていなかった。さて、駅から大聖堂へ向かって歩き、大聖堂を左に回り込んだところにある路地・ラーベンガッセに折れてみる。するとある小さな店の軒下にプレートがはめ込まれていて、そこには「1627年、この家でヨハネス・ケプラーの「ルドルフ表」が印刷された」と刻まれている。ティコ・ブラーエの観測データと、新理論であるケプラーの3法則を利用してケプラーが完成させた天体表「ルドルフ表」は、それまでの天体表とは比較にならないほど正確なものであり、これが天文学の近代化に及ぼした実際的影響は極めて大きかった。当時の多くの天文学者たちは、正確無比とも言えるこのルドルフ表を見て近代天文学の夜明けを悟ったに違いない。

漁師の一角から大聖堂を望む だいぶ日も傾いてきた。大聖堂から南に歩き、天文時計のあるきらびやかな市庁舎の脇を通って、暮れなずむドナウ川の河畔を散策しよう。このあたりは「漁師の一角」と呼ばれ、非常に美しいたたずまいを見せるところである。もちろんここからでも大聖堂の尖塔はよく見える。ふと振り返ると、高く低く、夕方の鐘の音が響いてきた。(24.3.1998)

このページのトップに戻る

ICE: Inter City Expressに乗る!

 ドイツの誇る超特急ICE(イーツェーエー:インターツィティエキスプレス)はとにかく快適、速い、車掌さんに美人のお姉さんが多い、と3拍子そろったブンダーバー!(ワンダフル!)な列車である。ジャーマンレイルパス所持者は追加料金なしで利用可なので乗りまくろう。(ただ券種により2等のみの利用の場合があるので要注意。1、2等の別は車両に大きく書いてあるので一目瞭然。もっとも2等席だろうと新幹線グリーン車並みの快適さである)ちなみに私もこの快適さにすっかり惚れ込んでしまい、今回半月間の滞在中11回乗った。真っ白な車体に赤いラインが美しいスマートな車両にはコンパートメント車とオープンシート車があり、好きな方に乗ればよい。ただし指定座席でないことを確認すること。座席の「Reservation」表示のところに予約の入った区間の書かれた紙が入っているのですぐ分かる。日本ではなじみのないシステムなのでこの確認をつい忘れてしまいがちなのだ。もっとも指定区間外ならば座ってよいし、指定区間であってもお客さんが乗ってこないケースも多い。なお車内には食堂車、車内販売、カード専用電話のサービスがある。テレカは乗務員から買える(と車内放送で言っていた気がする)。定時運行の確度は比較的良好だが、乗車5回に1回位の割合で20分ほどの遅れ、という感じかも。日本の新幹線のようにICE専用の新線というものは通常なく、特に線路状態の悪い旧東ドイツ地域ではしばしばスピードが落ちる。このあたりは世界最高水準の路線設備を誇る日本の新幹線には遠く及ばないところ。しかし逆にいえばドイツ国内の「在来線」全体にICE網が張り巡らされているということでもある。実際ほとんど全ての幹線に列車の設定があり、その意味では非常に使い勝手がよいということになるだろう。

 さて、発車後車掌さんが「・・・からご乗車のお客様はいますか?(Von ・・・ Zugesteigen?:フォン ・・・ ツーゲシュタイゲン?)」と言って車内を検札にまわってくるので乗車券を見せよう(もちろん始発駅から乗る場合は「グーテンターク!」と全乗客を検札する)。駅に改札口のないドイツでは、検札はとても頻繁。不正乗車と見なされた場合には重いペナルティーが科されるので、チケットの使用規則を確認しておくべし。座席は大きく、深くリクライニングする。窮屈な簡易リクライニングの日本の新幹線とは大違いである。フットレストもあるが、不要の場合は一旦上に持ち上げるようにするとロックが外れて前席の下に収納される。大きなテーブルもあって使い勝手がよい(車両の形式によっては前席の背もたれに収納されるタイプでなく、自席肘掛けの下に格納されているタイプもあります)。また座席には「Ihr Fahrplan」という到着時刻・乗換案内のしおりが用意されている。これは記念に持ち帰ってもよい。

 到着時刻近くになったらデッキへ移動。デッキには情報ディスプレイがあり、停車駅情報や、出口が左/右(links/rechts)どちら側かという情報などが表示されるので見てみよう。

おまけ情報

せっかくドイツを旅するなら旅のドイツ語をきっちり学びたい・・・という方には1997年度4-9月分NHKラジオドイツ語講座(応用編)教材がおすすめ(一部品切れ)。「北ドイツ列車の旅」というタイトルで、日本人の女の子しおり(なんと我がホームタウン・長岡市出身という設定!)がICEに乗って旅をしてゆきます。特にすでにドイツ語の基礎を学んだ方にぴったりです。

このページのトップに戻る


戻る

Fotografieren: Kota AOYAMA
参考文献:高野義郎「ヨーロッパ科学史の旅」NHKブックス、「科学史技術史事典」弘文堂